ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

再度のエンストを恐れて……

 再始動を果たしているという自信はない。それに向かっての、助走とも言い切れない。強いて言えば、おっかなびっくり感をいだいての試運転である。試運転にはエンストがつきものである。こんな不安な心持をたずさえて、私は頓挫明けの四日目の文章を叩き始めている。寒気からかなりの暖かさへの季節替わりにあっても、豹変という言葉は不適当であることを知った。一方、豹変に変わる言葉は、いまだに思いつかないままである。悲しいかか! わが浅学菲才の脳髄のゆえである。
 節分そして立春と続いてきょう(二月四日・木曜日)は、文字どおり春の出で立ち初日にある。カレンダーと季節めぐりは、確かに人間とは異なり嘘を吐かない。かぎりなく寒気を知り尽くしているわが体感さえ、まったく寒気を感じていない。なんたる! 季節の恵みであろうか。この恵みに誘われなければ私は、寝床から起き出すことはできなかった。身体が寒気を嫌う上に、気分が萎えているせいである。すると、どうにか起き出して来て、五月雨式にキーを叩き始めているのは、寒気が緩んでいるおかげである。さらには、いたずら書きを始めているのは、気分をまったく殺ぎたくないためである。言うなれば文章の体を為さない、まったくの自己都合にすぎない。
 過ぎた一月は文章を書く気分を失くして、わが本来の怠け者に終始した。しかしながらこの間にあっても、原点返りの一縷の努力は試みていた。実際のところは細々だけれど、気力の喪失を防ぐためのおさらいを試みていた。具体的には電子辞書に加えて、久々に紙の国語辞典をひもといていた。さらには衰え続ける脳髄を刺激するために、あえて「難読漢字辞典」(三省堂編修所)を手にしていた。もちろんこれは、わが掲げている「語彙の生涯学習」の途絶を恐れていたからである。
 パソコン上では、「一日一膳」のごとくに、一日数語の英単語の復習を試みている。こんな子供騙しみたいな学習で、わが凡庸の脳髄が賦活するわけではない。手元に玩具がないための「玩具代わり」にすぎない。しかしながらこれらには、いくらかの効用があった。なぜなら、ズタズタにやる気が殺がれるのを防いでくれたのである。これらの行為さえも退けていたら、もはや私は生きる屍(しかばね)同然である。
 きょうは恥をあからさまにしてまでも、こんないたずら書きを留めた。それは、再度のエンストを免れたい思い一入(ひとしお)のためである。約十分間、文章とも言えない駄文を叩いて、心底より詫びるところである。心中はいまだに冬の寒気で真っ盛りである。しかし、身体には暖かい春が来ている。季節は節分そして立春が過ぎて、現在は春お出ましの自然賛歌の夜明け前にある。ただ惜しむらくは、同時に人間賛歌が歌えないことである。

令和三年「立春」

 令和三年「立春」(二月三日・水曜日)。現在のパソコン上のデジタル時刻は、0:45である。パソコンを起ち上げる前には、すでに一日の始動の行為である洗面などは済ましている。だから、起き出して来たのは、日を替えたもっと早い時間である。ところが、二度寝にとんぼ返りをする必要はない。いつもであれば就寝と寝起きの間には、余儀なく頻繁にトイレへ起き出さす習性にある。実際にはつごう五時間ほどの就寝時間にあって、多いときには五度ほどもある。もちろんこんなことでは、熟睡を貪ることなど夢のまた夢である。おのずから自分自身にたいして、とことん腹の立つ就寝作業である。
 ところが、今にかぎれば違った。なぜなら、四時間余の就寝時間にあっても途中、一度さえの目覚めなく、すんなりと目覚めたのである。そのため眠気が一掃されて、目覚めの今の気分は爽快である。私は腕を伸ばして、枕元の携帯電話を手にした。履歴に不在表示がある。不安に駆られて、開いた。幸いにも、孫のあおばからの不在電話の履歴である。わが携帯電話は、電車やバスに乗るとき以外は、マナーモードは用無しである。今では恐ろしい電話へと変じている「ふるさと電話」が、いつなんどき鳴り響くからわからないからである。今や普段のわが携帯電話は、切ない役割を担っている。
 そう言えば私は、夕食の後にあおばへ電話を入れていたのである。そのときの用件は、「節分だから、みんなで豆まきしたの?」という、問いだった。あいにく、録音済みの無機質の女性の声が流れるだけで、肝心のあおばの声は聴かずじまいだった。するとこんどは、あおばがわが声を聴けずだったのである。わが携帯電話の受信や通話の音量は、わが難聴の両耳に備えて、最大音量に設置済みである。そのため、健康な人に聞こえる音は、まるで火事などの異変を伝えるときの半鐘の「早鐘」みたいに、けたたましい音を発することとなる。それを恐れて私は、電車やバスの車中にかぎり、マナーモードの恩恵にすがっている。こんなにも大音であっても私は、あおばからの受信音を聞き逃していたのである。
 このところの私は、確かに心身共に疲労困憊に陥っている。特にきのうは、朝から晩まで疲れと眠気に襲われていた。きのうの私には、配偶者としての一つの役割があった。それは、腰を傷めている妻の歯医者通いの引率(介助)行動である。この行為は、妻が腰を傷める前からのわが役割になっていた。腰を傷める前は、単なる好意の同行で済んでいた。私は、従来の歯医者から新たな歯医者へ替えた。良い歯医者へ出会えたことで、妻にも鞍替えを要請した。そのこともあって私は、妻の初診以来、最初の道案内を兼ねてその後も進んで同行を買って出ている。決まって週一回の外来で、きのうは早や六度目の妻の通院日だったのである。妻はこの先をかんがみれば、完治までにはいまだに折り返し点ぐらいと、言われている。私の場合は、六度目あたりでゴールテープを切っている。ほとほとこの先、妻との同行介助が思いやられるところである。
 私は目覚めて携帯電話の次に、常に枕元に置く電子辞書を手にした。そして、知りすぎている言葉を見出し語にして開いた。
 「豹変」。[易経(革卦)](豹の毛が抜け変わって、その斑紋が鮮やかになることから)君子が過ちを改めると面目を一新すること。また、自分の言動を明らかに一変させること。今は、悪い方へ変わるのをいうことが多い。成句:君子は豹変す。
 きのうの「節分」(二月二日・火曜日)の天気は、一日にして様変わりのポカポカ陽気に恵まれた。節分を境にして、自然界がもたらしたどんでん返しの恩恵だったのである。案の定、だからと言って様変わりにたいし、「豹変」を用いるのは不適当だったのである。このことだけでの「豹変」のおさらいであった。
 次には、「副益」と「副次効果」を見出し語に置いた。ところがどちらも、電子辞書の見出し語にはなかった。「なぜだろう?……」。なぜなら私は、明らかに疲労困憊の副益や副次効果を得て、まったく久しぶりに「熟睡」を貪ることが出来たのである。論より証拠、熟睡に恵まれなければ、こんな戯(たわ)けた文章にありつくことはできなかった。明らかに私は、疲労困憊がもたらした「副益」にありついている。
 いまだに、真夜中の3:01である。なのに、ちっとも眠くない。夜明けまでのこの先、あり余る時間が思いやられるところである。しかし、電子辞書とパソコンがわが暇をつぶしてくれそうである。副益の熟睡に恵まれて、悶々とする二度寝、三度寝を強いる必要はない。そのうえ、まったく寒気を感じない「立春」は、確かな春の訪れである。

令和三年「節分」

 寝ていても汗をかき、たまらず起き出して来ても、汗があふれている。現在の私はいまだ寒中にあって、異様に暖かい夜のたたずまいの中に身を置いている(2:32)。だからと言って私は、暖かさを素直に喜んではいない。いやむしろ、大きな不安をおぼえて、冷や汗まみれになっている。それにはとうにこの世にいない、義母のこの言葉がよみがえっているせいである。それは、「関東大震災(大正十二年・一九二三年、九月一日)が起こる前は、異様に暖かかったのよ」、という言葉である。忌まわしい出来事の再来は、御免こうむりたいものである。いや、この暖かさは、飛んでもない自然界の恩寵(おんちょう)なのであろうか。確かに、季節は嘘を吐かない証しではある。
 きょうは、令和三年(二〇二一年)の「節分」(二月二日・火曜日)である。ところが、毎年一定日(二月三日)としてカレンダー上に記されてきた日とは異なり、今年にかぎり一日早く記されている。この理由を知らなければ、面食らうところである。すると、きのう(令和三年・二〇二一年二月一日)付け朝日新聞朝刊、コラム『天声人語』の中で、こう記されていた。「今年の節分はおなじみの三日ではなく、あす二日。一年が三六五日ぴったりではなく六時間ほど長いため、立春の前日である節分もずれる年がある。前回、二日になったのは明治三十年。実に一二四年ぶりのことだ」。
 新型コロナウイルスの感染者数は、きのうあたりからいくらか減少傾向になりつつある。しかし、まだまだオチオチできない。異変なき節分を望むところである。きのうに続いて、ヨロヨロと書いた。もちろん、再始動の文章とはなり得ず、あすの「立春」(二月三日)へ繋がる保証はない。春の訪れのせいならいいけれど、いや、こころもとない駄文を恥じて、汗が噴き出している。妻には、買い置きの「福豆」を私にぶつける気力はない。例年のように逃げ惑うことができないことには、つらくて悲しい思いが満杯である。幸運を願掛けても、ちっとも当てにならない恵方巻は、むなしくおあずけである。

私は弱虫

 能力無く惰性にすがり、いたずらに書き続けてきた。すると、ちょっと躓(つまず)くとたちまち頓挫した。一月は棒に振った。そのため、意識して月替わりを待っていた。二月一日(月曜日)、現在のデジタル時刻は、夜中の1:57と刻んでいる。梅の花が綻(ほころ)ぶ、早春の到来である。確かに、きのうに比べて寒気は、体感的に緩(ゆる)んでいる。寒気に極端に弱い私には、この上ない自然界からのうれしいプレゼントである。過ぎた「大寒」(一月二十日)あたりを寒気の底に、季節は確かな足取りで春へ向かっている。あすは例年にない早い「節分」(二月二日)である。もちろん明ければ、「立春」(二月三日)である。三寒四温は、春へ向かう季節の足取りである。
 この文章に、いまだ再始動を託すことはできない。しかし、わが息災の証しとして、怖々(こわごわ)と書いている。実のところは、掲示板へ訪れてくださる各位様から賜っている心配や好意にたいして、梨の礫(つぶて)では居たたまれなくなっているからである。妻が突然、腰の傷みに襲われて、わが家そしてわが日常生活は、様変わりをこうむっている。その対応における明け暮れは、いまだに緒に就いているばかりである。みずからの健康だけで、人生行路は「楽ちん」とは言えない。夫婦そろって、「偕老同穴」(かいろうどうけつ)を叶えてこそ、「楽ちん」である。異変に挫(くじ)けている私は、虫けらにも及ばない弱虫である。

抗(あらが)えようない難局(戦い)

 新型コロナウイルスとの戦いは、真犯人と言える加害者がいなくて、みな一様に被害者である。だからこの戦いは、困難を極めている。感染しないようにみずからに打ち克つしか、この戦いの勝利はない。言わば、世界中のだれしもが直面している個人戦と言えそうである。
 一月九日(土曜日)、三連休初日にあって寒いなあー(4:09)。日本国内にあっては、新型コロナウイルスへの感染恐怖のみならず、多雪地方の雪の降りよう、かつ積もりようが、限りなく気に懸かる。

戦う意志を固めている

 人間の知恵、意志、そして連帯(力)が試される時がきた。戦争とは違って仲間と殺し合う必要はなく、このことではまったく後ろめたさはない。武器なく知恵で、人間こぞってウイルスを防ぐ戦いである。もちろん、老若男女のすべてが人間の誇りを保つ戦いである。だから、勝たねばならない。一都三県は、きょう(一月八日・金曜日)から来月(二月)七日までの一か月間、再度の「緊急事態宣言」期間に突入である。

『七草』

 日々、自粛と怯えまみれの世の中になりました。「七草」(一月七日・木曜日)、3:00です。

人みな、人生苦

 年変われど、虫けら、鳥、魚、あまねくその他の生きもの同様に、習性にしたがってほぼ同じ時間帯に目覚めて起き出しています(3:06)。このところ寒い日、冷える夜が続いています。ほとほとつらく、バカげた習性です。おのずから、行動的には自粛、巣ごもり、蟄居、精神的には気鬱症状の日常生活をこうむっています。言うなれば心身ともに、開放感の無い抑制生活に甘んじています。書くまでもないことを書いたのは、手持ち無沙汰の時間をちょっとだけでも埋めるためです。もちろん、気狂いはしていません。人生苦に、脅かされているにすぎません。われのみならず、人の世はみな、人生苦まみれです。新年に相応しくない文章を書き初めにして、詫びる気持ちいっぱいです。

「箱根駅伝」

 三が日にあってきょう二日は往路、そしてあす三日は復路、「箱根駅伝」のテレビ観戦日です。号砲、待ち遠しくて眠れません。ステイホームにあって、巣ごもりの愉しみです。

新年、元旦

 令和三年(2021年)が明けました。ただ、個人生活、社会生活、共に厳しい一年が予測されています。