ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
「生きとし生きるもの」の天敵
人間はもとより、生きとし生けるものにとって、いのちを長らえることは、まさしく寸刻も気を緩められないサバイバル(生き残り)の闘いである。このたびは地震だけれどほかの天災や、さまざまな災害に見舞われるたびに私は、こんな思いにとりつかれている。たまたま今回は新型コロナウイルスだけれど人のいのちは、常にさまざまなウイルスに脅(おびや)かされて、挙句には突然の病、あるいは死をこうむっている。これらの災難にもとより身体を蝕(むしば)む病、さらには避けて通れない事故や事件などの人災を加えれば、人のいのちはこれらの間隙を縫って、どう生き続ければいいのか。ただただ唖然とするばかりである。
翻(ひるがえ)って、人間以外の生きものの生き難(にく)さを慮(おもんぱ)れば、最大の難敵(外敵)に位置するのは、日夜捕獲の鍛錬を積んだ人間がいる。人間は農業、漁業、猟師、ほかにもさまざまに生き物を懲らしめる生業を立てて、みずからのいのちを生き長らえている。わが子どもの頃に農業を営んでいたわが家は、田んぼや畑に効きめの強い薬剤をまき散らす(散布)ことは、金のかかる大仕事だった。早苗の頃にあって私たち学童には、蛾虫を捕えて小瓶に入れて、登校時に「何匹」と、報告する宿題が課せられていた。私は登校前の朝まだき苗床に分け入り、数えて蛾虫を小瓶に入れていた。村人の納屋には、常に殺虫剤が買い置きされていた。もちろん、害虫退治のためである。
現在、わが家の庭中の椿の木には花の蜜を吸いに、タイワンリスやヒヨドリ、はたまたシジュウガラとメジロそしてコジュケイがやってくる。後者は「おいでおいで」の歓迎気分だけれど、タイワンリスとヒヨドリには、生け捕りの罠(わな)をかけたいところである。
子どもの頃、確かにヒヨドリにあっては、山中に手作りの罠をかけて生け捕り、揚揚(ようよう)気分で持ち帰り、羽を毟(むし)り焼いて食べていた。わが家近くには、おとなの「鉄砲撃ち」の名人がいた。村道でその人に出会うと怖くて、わが身は縮んだ。隣の小父さんは、内田川に広い網を投げ込む「網打ち」を日々の趣味にされていた。私を含む隣近所の子どもたちは、内田川の魚取が最大かつ最高の楽しみだった。
魚、鳥、益虫および害虫、単なる虫けら、そして野生動物、すなわち挙(こぞ)って人間以外の生きものにとっては、人間ほど直接的にみずからいのちを死に至らしめる外敵はいないはずである。ところが、人間以外の動物にかぎらず植物もまた、日々人間に脅かされている。「生け花講習会」などでは、人間の手が持つハサミで、競い合ってニコニコ顔で仕上がり具合を愛(め)でながら、その過程にあってはだれもが思う存分ズタズタ切りの無慈悲さである。村中には育ち盛りの枝葉を、容赦なく切り落すことを業とされる、樵(木こり)の人もいた。みずからのいのちを生き長らえるためには、人間の浅ましさは底無しである。みずからが生き長らえるためだから、綺麗ごとは言いたくないけれど、たまには懺悔(ざんげ)をしてもいいと思えるほどの罪作りである。
そうは言ってもやはり、私の枕元にはムカデ殺しの強力殺虫剤は欠かせない。結局、人間以外の生きとし生けるものにとっては、人間こそ天変地異の恐ろしさを凌ぐ、最大の外敵であろう。ちょっぴり、済まないと思うだけで、人のいのちは、ほかのいのちを蝕んで、生き長らえなければならない。人間は天敵に襲われ、みずからも天敵になる。いのちに共存はなく、殺し合いである。
再び「震度六強」の地震、宮城県、福島県
春はあけぼの……。そしてきょうは、チョコレートに愛や恋心を託す「バレンタインデー」(二月十四日・日曜日)。多くは片思いや義理チョコの切ない告白である。
こんな軽薄のことは書いておれない。なぜなら、わがお里の知れるところである。パソコンを起ち上げると、地震にまつわるメディアの配信ニュース項目が羅列していた。私はこんな大それたニュースを知らないままに、いつもになく春の眠りに落ちていたのである。
地球に地震が起きなければ、人類はどんなに安寧できるであろうか。虚しく、残念無念である。
『「ゴー」地鳴りのような音、柱がミシミシ……車で逃げた女性「10年前のように津波来るかも」(2/14・日曜日、2:47配信 讀賣新聞オンンライン)』。「東北を激しい揺れが襲った――。13日深夜、福島県沖を震源とする地震が発生し、宮城県と福島県で震度6強を観測。家々で悲鳴が上がり、棚などから物が落ちて散乱した。2011年3月の東日本大震災からまもなく10年となる街は、再び恐怖に包まれた。」
あたふたと階下へおりて、テレビの前に陣取るため、この先は御免蒙ることとしたい。妻は寝ずにテレビの地震報道に怯えて、釘付けになっているであろう。そしてひと声、「パパ、知らなかったの? 馬鹿よ!」と、言うだろう。確かに、私は大馬鹿である。春先の眠りは深い。
人生行路、試練
二月十三日(土曜日)、過ぎ行く二月のほぼ半ばにある。この二月は、大学をはじめとしてさまざまなレベルの入試と、それに関わる合否の知らせのシーズン真っただ中にある。まさしく、人生行路の始発や門出として、若人が体験する厳しい試練である。確かに、当時を顧みてもこの上ない、厳しい試練どきだった。もちろん、だれもが合格にありつけることはできない。しかし、だれしも悔いを残さない奮闘を望むところである。そうは言っても、必ず悔いが残ることは体験上知り過ぎている。
翻って現在の私は、人生の終着へ向かって試練のときにある。これまた、私にかぎらずだれしもが、避け通れない人生行路の終盤における試練である。強いて言えば質はまったく異なるけれど、厳しいことでは共に大差ない。もちろん、人生終盤の試練にあっては吉報は望めず、おおむね訪れるのは厳しい凶報(訃報)になりがちである。
冬から春への出口の胸弾むどきにあって、こんなことしか浮かばないのか! と、寝起きの私はみずからを責めている。確かに、冬は春への出口のさ中にある。昨夜の就寝時の私は、冬布団の内に重ねている毛布を跳ねのけた。毛布は、もはや用無しである。春はどこからくるのやら?……、わが身体が感じている、確かな春の訪れの証しである。欲張って、天変地異無き春の訪れを願うところである。自然界に比べて人間界は、常にバタバタしているけれど、天変地異の怖さに比べれば些細な変動である。
世評に耐えきれず辞任を決められた森会長には、いくらか同情するところもある。結局、人生行路における試練は年齢や時を択(えら)ばず、いつなんどきだれしもにも訪れる哀歌である。すると、このつらさを慰め、和らげてくれるのは、自然界の恵みであろう。この季節その先駆けは、わが周りでは梅の花の綻びと、シジュウガラやメジロの巡回飛翔がある。さらには、これらに寒椿が大団円の彩りを添えている。若人の試練どきにあってはときあたかも、つらい人心を潤す、早春の自然界の恵み横溢する、ありがたいところにある。遠吠えの老婆心をたずさえて、健闘を望むところである。名残雪だけは、真っ平御免である。
悦楽の「晩御飯」
きのうの「結婚記念日」(二月十一日・木曜日)にあっては、早春の暖かい陽射しが地上に注いでいた。最寄りの「半増坊下バス停」へ巡りくるバスを待って、わが夫婦はしばらく佇んでいた。腰を傷めている妻は、痛さを堪えていたのであろうか、始終下向き加減にしていた。もちろん、二人は顔面マスク姿である。そこには、長いベンチが据えられている。「私は座れば……」と言って、ベンチの板を手持ちのテイッシュで拭いた。しかし、妻はすぐには応えず躊躇していた。たぶん、立ち上がりの難渋を気に懸けていたのであろう。
私は道路を挟んだ家の植栽の梅の木を眺めた。そこには、一本の梅の木が紅い蕾をほころばせていた。見た目、蕾が陽ざしに照らされて、わが胸の透くのどかで、美しい光景だった。私はいっとき、早春の陽射しに堪能していた。
バスが巡ってきた。私は妻をわが前に誘い、ステップに押し上げるように手を添えた。ステップに上げると、倒れかからないよう妻の背中に手を添えた。私は妻の背後から抱えるように手を回し、「二人分です」と言って、コインの投入口に「二百円」を落とした。私は両耳に集音機を嵌めていた。「コトン」と、音がした。妻と私の定期券を運転士に翳(かざ)した。運転士は、愛想よく肯(うなず)いてくれた。それで十分。「お大事に……」という言葉までをねだるのは、客の驕(おご)りであり欲張りだ。
不要不急の外出行動の自粛の時節柄、車内は空いていた。降り口に一番近いところの二人席に並んで、私たちは腰を下ろした。妻の髪カットの予約時間は、午前十時四十五分と言う。バスが順調に運行したとしても、ぎりぎりになりそうである。私たちはそれぞれに半年間で五千円の定期券を購入している。それを乗車のおりに掲げれば、ワンコイン(百円)の投入で済む規定がある。
バスの終点、大船の街に着いて降りた。妻は腰を屈めて必死に速足を運んだ。
「間に合うかしら?」
「間に合うよ。急ぐな! 転げるよ」
妻の速足になさけなさと、同情が走る。
目当ての店が入るビルの前に辿り着いた。髪カットの店は、狭い階段を上って二階にある。
「終わったら、携帯に電話して……」
「するわ」
私は妻が階段を上がりきるのを見届けて、わが買い物行動を開始した。
わが単独の目当ての買い物店は、ドラッグストア「ダイコク」であった。この日のこの店におけるわが買い物用件は、便秘薬に加えて駄菓子だった。駄菓子にカリントと揚げ煎餅を買った。それぞれの駄菓子は、陽光ふりそそぐ店先に特売されていて、「ひとり二つまで」と、表示されていた。私はその表示に従い、つごう四つの袋を所定の籠に入れた。ソウシャルデイスタンスでレジ前に並んでいると、わが携帯電話に振動がした。手にした。
「パパ、終わったわ」
「そうか。すぐに行くから、横浜銀行の前に居て……」
レジを済まして出口を出たところで、なんと妻がウロウロしていた。
「西友ストィア、行く? 西友ストアは用無しだろう?……、鈴木水産だけで済むんじゃないの?……」
「西友ストアも行ってみましょうよ」
「そうか、いいよ」
「建国記念日」に加えて好天気とあって、街中には多くの人出が繰り出していた。もはや、二度目の緊急事態宣言は、色褪せ気味である。
西友ストアでは、普段の総菜を買い入れた。しかし、この日のお目当ては、鈴木水産である。結婚記念日のこの日にかぎり私たちは、ある誓いを果たそうと、いきり立っていた。それは、それぞれに大好物の魚介類を買う約束だった。妻の場合は、本マグロの切り身である。一方私は、天然タイの切身である。
妻のヨロヨロ足を急かすかのように、鈴木水産へ急いだ。込み合う、鈴木水産の店内に入った。妻は並んでいる本マグロの切身から、最高値の値札の物を手にして、「パパ、これ買ってもいい……」と、打診した。私は、「買えば」、と応じた。
妻は、手早く所定の籠に入れた。私は何と、鯨肉の赤身を手に取り、しばし思案した。「刺身用」と赤字、太く書かれていた。子どもの頃に食べつけていた、赤身鯨への懐かしい思いがめぐった。それには、父と母の面影が加わった。私はこれに決めて、所定の籠に入れた。こののち、タイの切身には見向きもしなかった。二人の共用としてはほかに、茹でイカ、茹でタコを籠に入れた。
まるで猿真似、晩御飯はいっときのセレブ生活みたいだった。もはや結婚記念日は、限りあるところまでのカウントダウンのさ中にある。このことでは、この先何度とは訪れない、悦楽の晩御飯だったのである。
きょうの文章は、殴り書き、走り書きの典型的な見本である。詫びて謝るしかない。
結婚記念日
令和三年(二〇二一年)二月十一日(木曜日)、日本の国は「建国記念日」(休祭日)である。例年であれば祝典や、今なお設定の意義に反対を唱える人たちの集会の模様が伝えられてくるところである。ところが今年は、それらの模様はメディアや国全体から鳴りを潜めている。それは下種の勘繰りをするまでもなく、人の集まりを自粛や自制をせざるを得ない、新型コロナウイルス感染防止対策のゆえであろう。
新型コロナウイルスに関して言えば、このところは確かに東京都をはじめとして、全国的にも感染者数は漸減傾向にある。しかしながら一方、にわかに各都道府県にわたり、初めとは異なる変異株が広がり始めている。このことでは日本国民は、「泣き面に蜂」とも言える新たな脅威に晒されている。このためきょうは、日本の国にあっては祝典どころか、個人レベルの外出行動、はたまた仲間を誘い合っての会食さえ自粛せざるを得ない異常事態にある。
さて、わが夫婦にとってきょうは、「結婚記念日」である。今やはるかに遠い華燭の典は、昭和四十三年(一九六八年)二月二十一日。神前式場は、当時の「私学会館」(現在アルカディア市ヶ谷、東京都千代田区九段北)である。新郎二十七歳、新婦二十四歳。文字どおりの「華の宴(うたげ)」であった。金婚式はとうに過ぎて、今さら何度目の記念日と数えることもない。ただただ、たがいに当時は「若かったなあー」、と思うだけである。
きょうのわが役割は、妻の予約「髪カット」への出向きにたいする、介添え役同行である。夫婦の証しと言えば、これほどぴったしカンカンの証しはない。お決まりの居酒屋「きじま」(鎌倉市大船)の祝膳は、妻の腰の損傷のため、ヨタヨタヨロヨロと素通りとなろう。このところの私は、妻の歯医者通いの同行も繰り返している。しかし、「あすはわが身」と思い気を張って、同行役に勤しんでいる。
相思相愛の「成(な)れの果て」は、だれにも訪れるさだめである。嘆くことはない、近所近辺で夫婦生活を営む人は、もはや稀である。幸運きわまりない結婚記念日である。
○現代文藝社の掲示板より
おめでとうございます! 投稿者:ふうたろう 投稿日:2021年 2月11日(木)08時05分55秒
そうか? あの水車小屋の息子が、内田村を出て、東京に行ったのは、遂、この間のような気がしていたが! そうか? もう、あれから、60年も経ち、金婚式も過ぎて、益々、深みを増す夫婦になっていたのだな! 居酒屋「きじま」なんか気にする事なく、「髪カット」にも、歯医者通いにも、同行しよう。これが、年輪を重ねた夫婦のあるべき姿なのだ。
わが家の日暮らし
二月十日(水曜日)、きのうに続いて春が足踏みする、体感温度の低い夜明け前に身を置いている。しかし、寒いからと言って、もはや寒中の嘆きはない。案外、人間心理をおもんぱかっての、春の好意の悪ふざけなのかもしれない。なぜなら、本格的な春への足音は、途切れずドンドンといや増している。人間がこのところの暖かさに慣れて、あまりにものほほんとしているから、ちょっとばかり脅かしてみたくなったのであろうか。
確かに人間には、すぐに気を緩めて安きに身を置きたがる習性がある。その戒めとして人間は、あっぱれ! 古来、至当の成句(言葉)を生み出している。それらには、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とか、またはずばり「治に居て乱を忘れず」などの、警(いまし)めの言葉が浮んでくる。これらのほかにも、その他多しである。
これらの警句を当てはめれば日本国民は確かに、ここ数日の感染者数の漸減傾向に気を良くして、新型コロナウイルスにたいし、警戒気分を緩め始めている。しかし、人それぞれに人生行路は、「一寸先は闇の中」であることを忘れてはならない。老婆心というより、直接的にわが身の肝(きも)に常に銘じている人生訓である。
きのう(二月九日・火曜日)の私は、週一回訪れる妻の歯医者通いに、介添え役として同行した。これまでの通院は、妻の総入れ歯に向かっての土台作りにすぎなかった。具体的には残り歯を抜いたり、そののちの処置が行われていた。建築にたとえれば、役立たずの古い建物を壊しての地ならし作業にすぎない。ところが、これだけに六回ほど(一か月余)がかかったことになる。次回には、初めて二週間後の予約日が決められた。いよいよ、待ち遠しかった治療や修復処置が始まるのであろうか。
ところがこれには、適当な間隔が必要のようであり、そのためわが夫婦には、いまだに通院打ち止めの見通しが立たずじまいである。結局、現在の私たちは、歯医者通い特有の「長期通院パターン」に嵌まっている。ただ歯医者通いの良いところは、渋々でも通院を繰り返していればいずれは必ず、歯痛を免れるという、保証にありついていることである。
妻の歯医者通いどきには、二人しての買い物が兼ねられている。それは歯医者が大船(鎌倉市)の街にあり、同時にそこはわが家の普段の買い物の街だからである。この街の行き来には、定期路線「江ノ電バス」(本社、隣市・藤沢市)に、二十分ほど乗車することとなる。そのため、妻の歯医者通いの日の二人しての買い物は、まさしく「序(つい)で」である。
このところのわが単独の買い物メモの定番の一つには、「ポンカン」(郷土熊本産)がある。これに加えてきのうの私は、久しぶりに蒸かし立てホヤホヤの赤飯を買った。妻は、大ぶりのイチゴのワンパックを所定の籠に入れた。これらは、それぞれのイの一番の好物である。このところのわが家は、めでたい気分を遠ぞけられている。そのため、それぞれが好物の食べ物に託し、いっときの気分直しを願った証しと、言えそうである。好物の効き目か、どうかはわからないけれど、互いの顔には笑みがこぼれていた。好物の効き目であれば、もちろんこれで十分である。いやいや、かけたお金からすれば、棚ぼたのご褒美だった。
夜明けて日が昇れば、寒気を遠のけて早春の暖かい陽射しがそそぐであろう。季節はすでに、春爛漫である。しかし、浮かれてはいけない。なぜなら、コロナの足音、今だに消えずにある。
やむなく「無題」
目覚めて起き出して来て、すぐに文章を書くことには、わが能力はまったく足りない。そのため、一日の始動にあっては、日々嘆くばかりである。人の能力格差、すなわちわが能力の乏しさは、おのずから生涯にわたりつきまくっている。だからと言って、今さら嘆いても埒は明かない。なぜなら、わが能力不足は生来の「身から出た錆」である。もちろん買い求めても、一〇〇円ショップに並ぶ、ペーパーやさまざまな「錆落とし」が利くはずもない。
二月九日(火曜日)、目覚めると私は、一つの成句を浮かべていた。復習するまでもなく、知り過ぎている成句であった。それでも私は、いつもの習慣に背かず、枕元に置く電子辞書に手を伸ばした。「三つ子の魂百まで」。あえて記すと、説明書きはこうである。「幼いときに形成された性格は、老年期になっても変わらないということ」。
目覚めにあってなぜ? こんな成句が浮かんだことかは、もちろんわからないし、なんらの価値もない。限り知る成句(言葉)の中から、ふと浮んだだけのことであり、強いて意味づけすれば眠気覚まし程度の役割にすぎない。しかしながら、この成句には損得掛け値なしに、「そうだ、そうだ!」と、納得せざるを得ないところがある。
私にかぎらず人の性格は、先天的(生来)に根づくものであり、後天的には修正や矯正あるいは補足など利かないところがある。確かに成句は、古来紡がれてきた人間の生き様にまつわるさまざまな証しである。人生の終焉間際にあって、こんな成句が浮かぶようでは、「なんだかなあー……」と、思うところである。
きょうの文章はこの先が書けず、これでおしまい。わが性格は生来、いい加減、ズボラ、なのであろうか。八十歳、直しようはない。表題の付けようはなく、やむなく「無題」である。春は足踏みして、寒気がぶり返している。
手つかずの良さ
これまで、私は常夏(とこなつ)と言われる「ハワイ」へ行ったことはない。この先、行かずにわが人生は閉じることとなる。冬の寒さを嫌って夏好きの私には、一度くらいは行ってみたいと、ずっと憧れて夢見てきたハワイである。実際にも私は、常々どんなにか素敵なところであろうかと、夢を膨らまし続けてきた。ところが、猫も杓子も隣家へ出かけるほどに容易なグローバル時代にあっても、私は出かけずじまいである。このことだけでもなんと、体たらくなわが人生であろうかと、歯ぎしりするなさけなさである。
こんな思いが高じているせいなのか? 私は、こんな馬鹿げた思いにとりつかれている。それは人工的あるいは人為的に、季節の冷凍保存が利けばいいなあ……、という思いである。寒い冬にあっては夏に解凍し、ときには冬景色を見たいと思えば、冬に解凍できればいい。もちろん時々の好みに応じて、春にも秋にも解凍できればいい。ところがこの時季にあっては、この思いはバッサリと断ち切られている。なぜなら今の私は、春夏秋冬すなわち、この時季の冬から春への季節替わりの心地良さに酔いしれているからである。やはり人生は、安楽ばかりでは味気ない。苦難に耐えてこそ、晴れて悦びに浸れるところがある。
かつての映画の題名を捩(もじ)れば、『喜びも悲しみも幾年月』(松竹映画、灯台守物語)が思い出されてくる。つまるところ季節には、人工や人為を仕掛ける必要はなく、文字どおり自然体であってほしいと、願うものがある。この頃は科学の進歩という美名の下、先陣を競い合う国、そしてその成功に快哉(かいさい)を叫ぶ人たちが相まじり、宇宙空間のみならず果てしない宇宙全体が脅かされている傾向にある。宇宙くらいは手をつけずに、そっとしてほしい。だから私には、まったく腑に落ちないところがある。
なぜなら、地球上から日に日に、ロマンが消えつつあるからである。見上げる空や星座には、スペースシャトルや飛行士、まして国のメンツや経済力など無縁であってほしいと、願うところである。下種の勘繰りをめぐらせれば現代の世は、地球上から「手つかず」の良さが失われて、本末転倒の時代になりかけているように思えるところがある。
こんな思いをたずさえることは、日常茶飯事にも多々ある。最も卑近なところでは、私は普段の買い物のおりに、こんな思いをたずさえている。今や、野菜や果物にあっては、「春、夏、秋、冬」という、季節替わりの「旬(しゅん)」を放逐し、年から年じゅう売り場に出ずっぱりである。確かに便利になったとはいえ、そのぶん子どもの頃に感じていたワクワク感は、一切感じられない。この頃では山菜、はたまた食べ物となる野草さえも、本来の旬を失くして栽培物になりかけている。それらを目にするたびに私から、郷愁がどんどん色褪せていくのである。ちょっとくらい不便であっても私には、やはり季節替わりに応じた野菜と果物の旬にありつきたい思いいっぱいである。食べ物にあって「旬」とは、初々しく心地良い言葉である。春野菜到来の時期にあって、せっかくの季節感が味わえないのは、きわめて大きな人類の損失である。
こんな文章でお茶を濁すようでは、いまだに再始動にはありつけず、試運転はおっかなびっくりである。季節感ときめく、「旬」がほしいこの頃の私である。春野菜! なんと心地良い言葉であろうか。二月八日(月曜日)の夜明け前、わが冬ごもりの気分はポンポンと弾んでいる。人間の知恵、すべてが良しとは言えない。
父、母、慕情
茶の間のソファで暖かい陽射しを背に受けて、「日向ぼっこ」に明け暮れていると、生前の父と母の面影が眼前にありありとよみがえる。このことでは私にとって早春のこの時期は、なにものにもかえがたい「至福の時」である。
過ぎた「節分」(二日)そして「立春」(三日)を境にして、私は早春の陽射しの暖かさに浸り続けている。もちろん、春の訪れは昼間の陽射しの暖かさだけではなく、私に昼夜共に心地良さを恵んでいる。二月七日(土曜日)の夜明け前、わが身体にはまったく寒気が遠のいている。なんという季節めぐりの恩恵であろうか。寒気に極端に弱い私には、まさに「春、様様」である。
わが子ども頃のわが家の生業(なりわい)は、水車を回して精米業を立てていた。同時に、農家として父や母そして長兄夫婦は、三段百姓に勤(いそ)しんでいた。水車と農家、どちらが主従とも言えず、相成して大家族の一家を支えていた。こんな記憶と思い出を残して私は、高校を卒業すると生地を離れて、東京へ飛び立った。それは、昭和三十四年(一九五九年)三月、若き十八歳のおりである。ところが、のちに顧みればこのときこそ、今では呼び名を替えた故郷(ふるさと)からのれっきとしたわが巣立ちの月であった。その前月の二月に私は、大学受験のため上京した。受験に向かう門出にあっては、父は掛かりつけの村医者・内田潔医師の診断で危篤状態と告げられて、病床に横たわっていた。私は、上京と受験を躊躇した。父の病床を囲む長姉と長兄そしてその連れ合いたちは、「行けばええたい、早よ行かんと遅れるぞ!」と、急かした。母は、もどかしそうに無言を装っていた。私は、「父ちゃん、行ってくるけんで、頑張っていて!」とも告げられず、病床を何度も振り返りながら、方々に精米機械の据わる土間を急ぎ足で抜けて、門口を出た。あふれ出る涙は、詰襟の学生服の袖と、拳(こぶし)で拭いた。私は父の五十六歳時に誕生であり、そのためこのときの父は、すでに老身の上に心臓の病を重ねていた。幸いにも私は、合格の吉報をたずさえて一度、わが家に帰った。このときの父は、子どもたちが金を出し合って買い求めた、フワフワのマットレスの上に半身を起こしていた。そして、玄関口から走りで来る私に目を留めると、やつれた姿で手を叩いて迎えてくれた。「しずよし、がんばったね!」の声出しは叶わず、涙目の無言の両手叩きだった。
そののちの父は、長患いの末に、わが大学二年生の暮れ(昭和三十九年十二月三十日)に、「チチシヌ」の電報が届いた。このときの私は、東京で三人協同で八百屋を営む次兄、三兄、四兄たちに交じり、歳末商戦の手伝いの真っただ中にいた。父の葬儀にはしばらくふるさと帰りから遠ざかっていた四兄がひとり、代表して向かった。このため、わが脳裏に残る父のこの世における最後の姿は、棺の中ではなくマットレス上のいまだ生身の優しいひとコマである。このことでは当時の悔しさを跳ねのけて、今では勿怪(もっけ)の幸いに浸っている。
私には目覚めると、常に枕元に置く電子辞書へ手を伸ばす習性がある。そして、知りすぎている言葉、あるいはうろ覚えの言葉の復習に余念がない。今朝の目覚めには、精米業と農家の生業ゆえに、すでに知りすぎている言葉を見出し語にして、電子辞書を開いた。米(稲)には、二大別の品種がある。一つは「粳米(うるちごめ)」、一つは「糯米(もちごめ)である。
「粳米・粳」:炊いたとき、糯米のような粘りけをもたない、普通の米。うるごめ。うるしね。うるちまい。
「糯米・糯」:糯稲からとれる米で、粘りけが強く餅や赤飯とするもの。もちよね。
こんな知りすぎている言葉をあえて紐解いたのは、この季節すなわち早春にあって、父と母へ強くつのる慕情のせいである。この時期の母は、草団子やヨモギ団子、さらには雛祭りを控えて色鮮やかな雛あられや菱形餅づくりに精を出していた。言うなれば母はせっせと作る人、一方の父はせっせとそれらを頬張る人だった。
「仲のよいことは美しきことかな」(武者小路実篤)。確かに、見た目美しい光景だった。先妻を病没した父は、四十歳で年の差十九で二十一歳の後継の妻(わが母)を迎えていたのである。殴り書き、走り書きするには、なんだか惜しくて、咄嗟の切ない題材だった。またのついでに……、いや、私には自分史を書くつもりはない。なぜなら、書く価値なく、ただぼうとして生き長らえてきただけだからである。
寒気の無い春はいいなあ……、ほのぼのと春霞の夜明けが訪れている。
目覚めは、「しどろもどろ」
ばかじゃなかろか! 目覚めると私は、思いつくままに「人の歩き方」(擬態語)の数々を浮かべていた。最初に浮かんだのは、人生行路における文字どおり歩き始めとも言える、赤ちゃんのヨタヨタ歩きである。次に浮かんだのは、その終焉間際に訪れるヨロヨロないしヨタヨタ歩きである。この間には私を含めて人さまざまに、いろんな歩き方が強いられる。本当のところは、幼年、少年、青年、壮年、そして高年(高齢)などと、時代を分けた歩き方を浮かべたくなっていた。
人の歩き方には、時と場合、はたまた用事や用件の有る無しによっても、歩き方の違いがある。しかしながら私は、こんな区別などできずに、思いつくままに浮かべていた。もちろん、人それぞれに歩き方を問うたら、まとめてどれだけあるのか? 測り知れない。
さて、わが凡庸な脳髄に浮かんできた歩き方は、ランダムにざっとこんなところである。それらは、先の三つに加えてこれらである。ドタドタ、ドカドカ、スタスタ、ウロウロ、スゴスゴ、ソロソロ、テクテク、トコトコ、トボトボ、ノソノソ、パタパタ、フラフラ、ユラユラ、ブラブラ、ペタペタ、ドシドシ、ソロリソロリ、などである。これらに日本語の表現を浮かべれば、速足、駆け足、急ぎ足、鈍足(のろあし)、さらには抜き足、差し足、忍び足、などとかぎりなくある。だからこれらにあっては、わが脳髄の限界がさらけ出されてくる。
この頃の私は茶の間のソファに背もたれて、窓ガラスを通して周回道路をめぐる老若男女の歩き方を眺めている日が多くなっている。それは余儀ない妻の世話や、春が来た証しでもある。おのずから、携帯電話の示す一日の歩数が、二〇〇歩前後の日もざらにある。
きのう(二月五日・金曜日)の私は、黒砂糖まぶしのカリントを間断なく口へ運びながら、茶の間の窓からひねもす(終日)人様の歩き方を眺めていた。言うなれば春の暖かい陽射しを浴びて、のんびりと「日向ぼっこ」に興じていたのである。それは、わが子どもの頃に垣間見ていた、隣の小母さんの真似事でもあった。
子どもの頃の私は、隣の庭へ出かけて、近所の遊び仲間たちと、よく独楽(こま)やカッパ(メンコ)を打っていた。そのとき眺めていた小母さんの姿は、原風景のままに今なお脳裏から離れない。たぶん、私は見た目ののどかな風景に憧れていたのであろう。実際のところの小母さんは、痛々しいリュウマチを患っていた。そのせいで私は、小母さんの歩き方を見ることはなかった。小母さんはいつも、「しいちゃん、遊びに来たばいね!」と言って、座敷や板張りの上を「いざり」(膝行、躄)足で、ニコニコ顔で近寄られていた。優しい小母さんは、ほどなく亡くなられた。今なお絶えることのない、優しい小母さんの面影である。
確かに、歩き方は人生行路の写し絵である。わが足は日を追って、ヨタヨタ、ヨロヨロになりかけている。やがては時々立ち止まったり、杖にもたれることとなる。ドスン(擬声語)と音を立てて、路面に這いつくばらなければ御の字である。文章はいまだ再始動にありつけず、これまたヨロヨロ、ヨタヨタである。