ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
無駄の効用
春の季節は足早にめぐりながら、三月を過去ページへと移して、月を替えて四月一日(木曜日)の夜明けが訪れている。日本社会の習わしで表現すれば、春三月・別れの儀式多い月から、春四月・出会いの儀式の多い月へのバトンタッチとなる。並(な)べて三月と四月は、人それぞれの人生行路において悲喜交々に、巣立ちや門出の季節にある。閑話休題。現在の私は、何かを書かないと、もう書けなくなる気分に晒されている。偽らざる、現在のわが心境である。
きのうは、ズル休みに甘んじた。わが薄弱な心は、ズル休みを決め込むと安きに陥り、そのままずるずるべったりとなり、再び抜け出せない。しがない、わが性癖(悪癖)である。それを恐れて私は、空っぽの脳髄に鞭打って、ささやかに指先を動かしている。本当のところはいたずら書きだが、実際にはいたずら書きとも言えない、単なる無駄書きである。それでも、ちょっぴり自己判定を下せば、自己評価は「無駄の効用」とぐらいには、言えそうである。なぜなら、こんな文章の不出来を恐れて、二日続けてのズル休みに逃げ込んでは、そのままキーを遠のけてしまいそうになる。
もとより、わが生来の性癖は、意志薄弱と三日坊主の塊(かたまり)である。この性癖(悪癖)に耐えてこれまで、ヨロヨロと文章が続いてきたのは、怠け心に宿るすなわち惰性(だせい)の恩恵にすぎない。そのため、惰性の恩恵さえみずからの怠け心で止めたら、もはやわが文章はにっちもさっちもいかない。
新型コロナウイルスは、第四波へ向かってぶり返している。人間界に悪さするウイルスに肖(あやか)っては、こっぴどく罰当たりをこうむるであろう。それでもわがひ弱な精神は、怠け心を克服しぶり返してほしいと、望むところ旺盛である。ところが実際には、日々安きところへ、深々と沈みがちになっている。どうにも様にならない、月替わりを迎えている。表題には、なさけなくも「無駄の効用」が浮かんでいる。
暇つぶしとも言えない「切ない懺悔(ざんげ)」
定年退職後におけるあり余る自由時間の暇つぶしのための、余儀ない六十(歳)の手習いだったから、仕方ないところとは、常々承知していた。そのうえ、生来のわが凡愚が重なり、さまざまに難行苦行を強いられてきた。それでも私は、定年退職を間近にひかえて以来これまで、二十年余も文章を書き続けてきた。文章と書いたけれど、文章と言えるかどうかに自分自身、常に忸怩(じくじ)たる思いつのるものがある。だから、文章と言えるかどうかは、人様の評価に委(ゆだ)ねるところである。このところの文章は、文章とは言えそうにない。実際にも私は、私日記風に、短い文章を書いている。もちろん、語彙(言葉と文字)をだらだらと長く、かつ書き殴りで綴るだけでは文章に値しない。もとより、私日記、俳句、短歌、詩、などのすべては、文章に値するものである。
「寸鉄人を刺す」、あるいは「寸鉄人を殺す」という、成句が存在する。あえて、電子辞書を開くこともない日常語だけれど、開けばこう説明されている。「ごく短い言葉で、人の急所を突くたとえ。寸鉄とは小さな刃物(身に寸鉄も帯びない)。ここでは鋭い警句」。
わが文章にあってこの警句は、無い物ねだりの物欲しさの証しになりかわっている。こんなどうでもいいことを長々と書いたのは、ひとえにこのことが起因している。
現在、日本国民の関心事のひとつには、新型コロナウイルスの第四波へのぶり返しがある。この場合は、はたして関心事という言葉は適当なのか? すなわちもっと直截的(ちょくせつてき)にふさわしい言葉に置き換えるべきではないかという、疑念である。そして、一つだけかえる言葉として浮かんだのは、それは「懸念(けねん)」である。
桜の季節にあって、のどかな朝ぼらけが訪れている。惜しむらくはわが心中には、新型コロナウイルス第四波への懸念がある。関心事と言うには、やはりいくらかの語弊がある。文章における語彙の用い方は、難しいところだらけである。確かに、このところの文章は、定年退職を間近にひかえて、にわかに思い立った「ツケ払い」のまみれにある。
三月三十日(火曜日)、わが能力の限界に嘆息しながら、人様にかたじけない思い、つくづくつのるところである。
春の一日
三月二十九日(月曜日)、あえて書くまでもない、わがきょうの行動予定を記している。きょうは「大船中央病院」(鎌倉市)の消化器内科における通院日である。ほぼ半年前にされている予約時間は、午前九時である。ところが、主治医の診察前に採血など、データにかかわる検査は、この時間より先に済ましておくようにと、言われている。おそらく、検査データを診断のひとつにされるのであろう。こんなことで私は、やむなく朝駆けの通院を強いられている。もちろん、朝食抜きの通院となる。
私は起き出すやいなや、通院への着衣をととのえた。そして現在、予期していなかったキーを叩き始めている。通院準備と出かける前の慌ただしさをかんがみて私は、早々と休筆を決め込んでいた。ところが、通院の準備を終えたことから、焦燥する心に余裕が生まれた。そのため、この文章を書き始めている。いや、文章とは言えず、出かけるまでの隙間の時間を埋めるだけの、時間つぶしにすぎない。パソコン上のデジタル時刻は、5:26と刻まれている。
先ほど階段を下りて、郵便受けから取り出した朝刊は、雨除けのラップに包まれていた。ラップは濡れていた。あいにく、雨の通院となりそうである。雨をついての通院にあって、どんな診断が下されるであろうかと、恐々するところがある。きょうは、心もとない「春の一日」になりそうである。嗚呼、桜、哀しや! 私、悲しや! である。
「ふるさと便」バトンリレー
三月二十八日(日曜日)、寂寥感つのる日々が、早回しで流れている。なんだかなあ……私には日数の短い二月より、三月のほうが早い日めくりに感じられている。ところがこの先は月・日を替えて、なおいっそうそう感じることとなろう。無事安寧の生存を強請(ねだ)って、バタバタする日に見舞われること請け合いである。
緊急事態宣言の解除をあざ笑うかのように新型コロナウイルスは、日本列島くまなく勢いをぶり返している。桜の季節にあっても日本社会と国民は、憂鬱感まみれのさ中にある。輪をかけて、わが憂鬱感はいや増すばかりである。わが心境には、桜見物の感興など湧きようがない。「捨てる神あれば拾う神あり」。
こんなおり遺志を継いで、二様の「ふるさと便」が届いた。どちらも、わが好物を知り過ぎてのバトンリレーの好意である。姪っ子(故フクミ義姉の次女)から送られてきた段ボール箱は、思わず「こんなに……」、と呟いたほどの大掛かりのものだった。箱の中には、濃緑みずみずしい高菜漬けがぎゅうぎゅう詰めにされていた。ところが、高菜漬けのほかにも自家製の味噌や、自作のサツマイモ、そして里芋が押し込められていた。確かに、これらを梱包するためには、大ぶりの段ボール箱が入り用になったのであろう。無重力といえ箱の中には、次女夫婦の善意が隙間なく詰め込まれていた。
一方、甥っ子(故長姉の長男)から届いた段ボール箱には、自山(じやま)で掘り立てのタケノコがぎっしり詰まっていた。抱えた段ボール箱は、ヨロヨロするほどの重さだった。高菜漬けはすでに食卓に上り、そのたびに私は、フクミ姉さんの面影を偲んでいる。タケノコ便は、きのうの夜に届いたばかりである。このためきょうの私には、タケノコの皮むきが予定されている。子どもの頃から、勝手知っている皮むきである。ところが、妻が腰を傷めているため、茹でるのは初体験である。しかしながら、躊躇(ためら)うことはまったくない。生前のセツコ姉の姿が彷彿とよみがえり、わが心の和むひとときとなりそうである。
わが憂鬱気分を晴らすもので、「ふるさと便」に及ぶものはない。実際のところは、遺志を継ぐ姪っ子や甥っ子たちの善意である。「ふるさと便」が届けば、私には桜見物などはまったくの用無しである。
私は「生きる屍(しかばね)」
世の中の人たちはみな、生き続けることに苦しんでいる。病魔が身体にとりついている人たちはたくさんいる。人災、すなわち突然の事故や事件に遭遇し、たちまち日常生活に難行苦行を強いられる人たちも数多である。これらに加えて、天災すなわち地震はもとより避けるすべない様々な災難が暇(いとま)なく襲ってくる。現下の日本社会、いや世界中の国々は、新型コロナウイルスのもたらす感染者数と、それによる死亡者数の数値に日々晒されている。まさしく人間は、みずからでは抗しきれないさまざまな禍(わざわい)の渦(うず)の中にある。
こんな中にあって健康体の私が、わが日常を嘆いているのは、はなはだしい弱虫と自覚するところである。その証しのひとつをこうむり、このところの私は、幼稚な文章さえ書けない。どうにか書けば、マイナス思考と愚痴こぼしまみれになる。おのずから文章は、人様の気分壊しとなる。だから、書いてはいけない。いや、実際のところは、私自身「百八煩悩(ひゃくはちぼんのう)」にとりつかれて、まったく書けない。このところのわが精神状態と日常である。
わが周辺の桜は、現在満開である。自力叶わず、桜頼りのわが気分癒しである。ほとほと、なさけない。やはり、文章と言えるものは、書けない。桜日和ののどかな朝ぼらけが訪れている。三月二十七日(土曜日)、文章とは言えない恥晒しの「綴り方(作文)」を書いてしまった。
「花より団子」
頃はよし、桜の花の満開の時季にある。しかし、私に花見や宴(うたげ)の気分は出なく、恨めしく時が流れていく。人生の終盤において、文字どおり人生の悲哀が訪れている。それに打ち勝つ気力を失して、きのうの私は、またもやずる休みに甘んじた。昼間にあっては、腰を傷めている妻の髪カットの介添え役を務めた。背中を海老型に折り、わが身にもたれかかる妻の姿を見つめていると、まなうらに涙がいっぱい溜まりかけていた。
さて、目覚めると、きょうもまた休みたい気分が充満した。その気分を阻むためには、バカなことでもいいから書かなければならない。私は薄弱な心を咎(とが)めて、ちょっぴり気分を揮わした。すると、時節柄なのであろうか、幼稚園児であっても一度教えれば誰にでも分かる、たやすい成句が浮かんだ。浮かんだ成句は、「花より団子」である。もとより凡愚の私とて、幼いときから知り過ぎている日常語である。しかしながら休み癖を恐れて、枕元の電子辞書を開いた。
【花より団子】:花見に行っても、桜より茶店の団子を喜ぶことからいう。「酒なくて何が己(おのれ)の桜かな」、無粋(ぶすい)と罵(ののし)られようとも、花見の興(きょう)は桜の花を愛(め)でる風雅よりも花に下で開く宴にあるのであろう。使い方:風流より実利、外観より実質を重んじるたとえ。「講演を聞きに行くより、うまいものでも食べたほうがいい。花より団子だよ」。「表彰状より金一封のほうがありがたい。花より団子というじゃないか」。誤用;「花見より団子は誤り。出典:江戸版「いろはがるた」の一つ。類表現:「花の下より鼻の下(風流よりは口に糊(のり)する毎日の生活のほうが大切であること)。「一中節より鰹節」。「詩を作るより田を作れ」。
見出し語を替えて、【口に糊す】のおさらいを試みた。「糊口(ここう)を凌(しの)ぐ」の使い方を参照。
【糊口を凌ぐ】:糊口は口に糊す(粥をすする)の意で、どうにか暮らしを立てていくことをいう。誤用;飢えを凌ぐ意で使うのは誤り。
飛んだ無粋なことを書いては、継続の足しにしてしまった。自虐と自責の念に駆られている。桜の季節にあって、花への感興はもとより、団子にさえ嗜好が遠のいている。
わが財布の役割
三月二十三日(火曜日)、寒気のぶり返しに遭って、身を窄(すぼ)めている。いや、実際には太身(ふとみ)は一ミリも窄んでなく、気分だけが萎(な)えている。
体重コントロールは、わが長年の願望である。これまで、体重減らしのための努力は、何度も意を固めて繰り返してきた。生来、私には意志薄弱の性癖(悪癖)がある。そのせいで、そのたびに願望は果たせないままに、とうとう余生短いところまで来てしまっている。かえすがえす、悔い残るわが意志の弱さである。
もちろん、寒気のせいではない。私は起き立てにあって、こんな馬鹿げた思いをめぐらしている。切ない、自問自答である。「日に日に中身が減り続けるものはなあーに? 逆に増え続けるものはなあーに?……」。わがことで言えば、それは財布である。わが財布の中には、札と診察券(カード)が鬩(せめ)ぎ合って同居している。これらに商魂の証しと、それに釣られた多くのポイントカードが折り重なっている。こちらは、意図した双方の根性の浅ましさの証しである。
通院のたびに重なるカード類から、私は該当する診察券(カード)を選び出すことになる。ところが、このときは戸惑うことばかりである。あるとき、戸惑う証拠としてこんなこともあった。私は受付係りの女性にたいし、診察券(カード)のつもりで、ポイントカードを差し出したことがあった。にこやかな顔で間違いを指摘されて、慌てふためいた。ようやく選び出して、「すみません。これですね」と、言わずもがなのことを言って、当該医院のカードを手渡した。恥ずかしさで赤面の至りはつのる、わが失態の一コマである。
いずれ、キャッシュレスの世の中になり、財布自体が用無しになるかもしれない。押印が不要となり、ハンコ屋が音を上げた。このことに照らすとそうなれば、こんどは財布づくりの生業(職人)が音を上げるであろう。そうなってわが古びた財布の中に、診察券(カード)とポイントカードだけが重なり合うようにでもなれば、私は寂しい心地になるだろう。現在のところわが財布は、わが生きる砦(とりで)である。実際にも私は、財布にわが命を託している。
きょうは、半年ごとに予約を繰り返す「大船田園眼科医院」(鎌倉市)への通院日である。予約時間はなんと、午前八時である。通院目的は、緑内障治療における経過観察である。こののちには「大船中央病院」における、これまたほぼ半年ごとにめぐりくる通院(三月二十九日)が予約されている。こちらへの通院は、胃と腸における内視鏡観察の要否診断のためである。
頃は、財布の役割がずっしりと重たい桜の季節である。いや、私の場合は、桜見物などにはまったく用無しの財布のお出ましである。ほとほと、切ない。通院準備のため、この先は書き止めである。
きょう現在、生きてます
二月十九日(金曜日)、遅く目覚めて、そのぶん遅れて起き出して来た。そのため気が焦り、文章を書く気分はまったく殺がれている。こんなときは、あえて恥を晒すより休むにかぎる。これまで知り過ぎている、わが確かな経験則である。それでも、焦燥感に慄きながらキーを叩き始めている。それは、現在生きている証しのためである。
八十歳を過ぎれば、時々刻々とめぐる時に合わせて、生きている証しを披露しなければならない。これすなわち、老後を生きる者の務めである。きょうは、一つだけ書き記して置きたいものがある。いや、腑に落ちないものがある。
東京五輪・パラリンピック大会の組織委員会の新たな委員長には、きのう(二月十八日・木曜日)、橋本聖子前五輪大臣が決定した。前任の森会長が辞任(二月十二日)されて以来、一週間近くに及ぶ迷走ののちの決定である。この間の決定過程には、まるで蛆(うじ)が湧いたかのように、にわかにさまざまな世論が湧き出していた。浮かんだ四字熟語を浮かべれば、良かれ悪かれ「議論百出」のさ迷いぶりであった。
過去の決め方からすれば、私にはまさしく青天の霹靂とも思えるものがあった。結果、世論を恐れて、それに阿(おもね)る決め方で、繕(つくろ)ったにすぎないように思えるところがある。確かに、もとより国民に見えるかたちで、議論を尽くし決まることが望ましいのではあろう。だとしたら、このたびの決め方は、良き前例となるのか、いやいや悪しき前例となるのであろうか。はなはだ疑問を残す決め方である。
もちろん私は、橋本新会長にたいして、寸分の異存はない。なぜなら私は、当初から五輪相すなわち橋本大臣にすんなりとすればいいと、思っていたからである。挙句、単なる体裁づくりのごちゃごちゃの決め方になった。一方、後任の五輪相には、見えるかたちの議論などまったくなく、あっさりと丸川議員は指名された。元よりこちらは、国民には一分間さえも見えるかたちの決め方ではなかった。だからと言って不満かと言えば、不満を挟む余地さえまったくない。結局、このたびの橋本新会長の決め方には、メディアに煽られ続けた世論への阿りだけが見え見えのものとなっただけである。
なんだか、すっきりしないところはある。ただ、うんざり感をともなう気分が救われるのは、普段のテレビ映像や記者会見などで垣間見る、橋本新会長のお人柄の良さである。もとより私は、橋本新会長には重責を頑張ってほしいと、万雷のエールを送るところである。一方、棚ぼたの丸川五輪相のニコニコ顔には、エールを送るつもりはない
。生きている証しは、常になんだか切ない。書き殴りだから、無駄に長い文章になってしまった。ほとほと、詫びたい気分である。
ワクチン様様、人間界賛歌
二月十八日(木曜日)、パソコン上のデジタル時刻は現在、2:43と刻まれている。今のところは、窓の外に望まない雪景色を見ずに済んでいる。しかしながら部屋の中は冷え冷えとして、わが現在の体感温度は、とうに過ぎた「大寒」(一月二十日)の頃を凌ぐ低さである。そのためわが心情は、走り書きを加速させて、階下の暖房装置のある茶の間へ逃げ込みたい思い満杯である。熾烈な寒さの証しには、わが身体はブルブルと震えている。
極度に寒気をおぼえていることには、わが失態も加わっている。すなわち、このところの私は、すでに冬防寒重装備を外していた。きょうの予報をかんがみれば、とんだしくじりである。予報によればきょうは、日本列島はあまねく降雪予報にある。日本列島の南の地方わがふるさと県・熊本県でさえ、予報によれば積雪の高さは半端ない。いまだに二月半ば過ぎの降雪予報だから、予報がピタリと当たったとしても、名残雪とは言えそうにない。強いて言えば、冬の出口から春へ向かう季節にあって、人々に春が持て囃されていることにたいする、冬のやっかみであろう。自然界の季節替わりにあって、人間界は飛んだとばっちりをこうむっている。このためきょうは、自然界賛歌はお蔵入りである。
逆にきょうの私は、普段は滅多にお目にかかれない、人間界賛歌の一つを誇らしげに記して置きたい思いに駆られている。もちろん、他力本願すなわち人類のなかで、飛びっきりの知恵者のおかげでる。きのう(二月十七日・水曜日)から日本の国にあっては、先行接種という掛け声の下、新型コロナウイルスに抗するワクチン接種が開始された。接種の様子を見るかぎり、きわめて順調な船出である。それらの一つは、注射針の痛みもそうなく、さらにはおおむね懸念されていた副反応もないようである。まさしく、この先へ期待あふれる、「めでたし、めでたし」の船出である。これにちなむ人間界賛歌は、ずばり人間の知恵と知能の素晴らしさである。
実際のところは一年にも満たないスピードで人類は、新型コロナウイルス向けのワクチンを研究開発し、大量の工場生産を叶えて、世界の国々および人々への接種へ漕ぎつけたのである。まさしく、「無から有」を成し遂げた人類の快挙である。これに応えて私は、接種の順番がくればさまざまな懸念を払拭(ふっしょく)し恐れず、右肩脱いで注射針を差し込んでもらうつもりでいる。自然界は間髪を容(い)れずに、恐ろしさ(脅威)を見舞ってくる。ところが、このたびの人間界の快挙は、同音異義の驚異である。
三十分強の走り書きで茶の間へ逃げ込むのは、自然界の悪戯(いたずら)のせいである。私は茶の間でしばし、人間界のほどこしの温もりに浸りたい。嗚呼、心地良い人間界賛歌である。
どうでもいいこと、書いた
わが購読紙・朝日新聞は、記事の誤りの訂正にあっては虫眼鏡を片手にして探しても、気づかないほどに紙面の片隅にごく小さく記している。普段の強い筆法からすれば、きわめてお座なりの訂正の仕方である。へそ曲りの私は、謝罪の意思を感ずることはできない。テレビニュースなどにおける誤りの場合は、アナウンサーやキャスターが番組に最後になって、瞬間的にちょこっと訂正して、すぐさま番組自体がほかに変わる。これまた、謝りの意思などまったく感じられない、身勝手きわまりない訂正の仕方である。総じてメディアは、自分には甘く他者に厳しい、悪代官の見本さながらである。その一方では企業などが不祥事を起こした場合、重役連が横並びになり、深々と頭を垂れる光景を長々と映し出す。こんな映像は、視聴者にとってはなんらの価値もない。
さて、きのうの私はあとで気づいて、文章の中に誤りを書いていた。具体的には、新型コロナウイルのワクチン接種開始を週末あたりからと書いた。ところがこれはわが誤りであり、実際には週半ばのきょう(二月十七日・水曜日)からの開始という。もちろんわが文章自体は、あらためて謝るほどの影響はまったくない。しかし、誤りを頬かむりもできない。これまた、書き手としての身勝手な一行である。すなわち、恥じて、詫びるところである。
ネタ不足のため、どうでもいいことを書いて、文章を閉じるものである。これではいくらかあっけない。そのため、以下は身勝手な付則である。すなわち、謝りの仕方によってはかえって不評を買うと思える、心すべき四字熟語を電子辞書にすがり復習を試みる。
[慇懃無礼(いんぎんぶれい)]:言葉や態度が丁寧すぎて、かえって嫌味で不快感を与え、相手にたいして失礼なこと。また、表面上は礼儀正しく丁寧ではあるが、実は相手を見下していること。構成:「慇懃」は非常に丁寧なこと。「慇」「懃」ともに丁寧、ねんごろ。「無礼」は、礼儀知らず。失礼。
誤りの仕方にあっては、わが不徳、心すべき「四字熟語」である。私は常々、この四字熟語を肝に銘じている。曜日)の夜明け前にある。もちろん、地震の恐怖も真っ平御免である。