ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
暗雲
もちろん、戦雲下とはまったく比べようはない。しかし、現下の日本社会に垂れ込む暗雲は、少しはそれに似ていて、日本国民の気分は晴れず塞ぐばかりである。いや、気分だけでなく命にかかわる災難をもたらしている元凶は、日本社会における新型コロナウイルスの蔓延である。対策分科会の尾身茂会長はきのう(四月十四日・水曜日)の衆議院厚生労働委員会で、「第四波に入っているのは間違いない」と、言われたという。専門家トップがひと言で伝えられた、新型コロナウイルスの現在の状況である。自粛疲れあるいは自粛慣れと言われるなかにあって、新型コロナウイルスの勢いのぶり返しは、専門家集団さえいくらか出し抜かれたことのようだった。
ない物ねだりのごとくに、もう打ち止めになるだろうと、ひそかに願っていた国民の終息への期待は、四波と言われてまたもや粉々に打ち砕かれている。だからと言って、新型コロナウイルスへの対応にたいし、政府や自治体へ非難を浴びせることは慎まなければならない。なぜなら、日本社会は新型コロナウイルスのもたらす、加害者無き共通の被害者である。しかしながら大あわてぶりがメディアから、感染者数や死亡者数などの数値をともなって、今なお日々伝えられてくる。そのため国民は、いまだにまったく勢いが止まらない数値を、いやおうなく見ることとなる。おのずから他人事(ひとごと)には思えず、先ずは気分の憂鬱(感)を招き、具体的には政府や自治体の呼びかけに呼応し、自粛生活を余儀なくする。今のところは仕方なくそれに耐えているけれど、この先いつまで続くのかと、国民にはやるせない気分横溢(おういつ)である。
確かに、他人事ではなく自分自身、憂鬱気分横溢と感染不安におののくところである。まさしく、日本列島くまなく垂れ込める、国民の気分を塞ぐ暗雲である。現下の日本列島にあっては、国民が生き続けることの困難さが日々、数値をともなって示されている。このことでは戦時下において、大本営から時々刻々に伝えられる戦況に恐々と怯(おび)える国民の心理状態に、ちょっぴり似ていると言えそうである。もちろん、銃後の守りなどと区別されるものではなく国民こぞって、行動や行為を制する文字どおり、自粛や自制するだけの武器無き戦いである。
挙句、新型コロナウイルスの感染(力)を封じ込めるために国民が唯一すがるのは、それに抗するワクチン接種である。いよいよ日本列島にあって、優先順位をつけてワクチン(接種)のお出ましである。ワクチンと自粛行動との二人三脚で、悪の根源を叩きのめしたいところである。まさしく、日本国民・老若男女こぞっての暗雲一掃の戦いである。
老身に鞭打って私自身、本土決戦の心意気や心構えを持たねばならないであろう。しかし、余生短いさ中にあっては、長期戦になることだけは真っ平御免である。いや、新型コロナウイルスの退治が叶って私は、おだやかですこやかな日暮らしを願っている。なぜなら、決して欲張りとは言えないほどに、私には「あと(残りの日数)」がない。
晩節における楽しみ
四月十二日(月曜日)。春なのに、一度目覚めると、悶々として、再び眠れない。私は、晩節のつらさ、むなしさに、身を置いている。寝床の中で私は、堂々めぐりのさ迷いに、とりつかれていた。とりとめなく浮かび、めぐる思いの多くは、箸にも棒にもかからない、雑念ばかりであった。それらのなかで一つだけ、ピカリと光るものがあった。それは、新型コロナウイルスに抗するワクチンの開発スピードの速さにおける称賛と驚異だった。実際のところは、人間の頭脳と技術への称賛と驚異だった。
すでに書いたことの二番煎じとなるけれど、それはこのことである。すなわち、薬効を生み出し治験を繰り返し、容器をそろえて大量生産を成し遂げ、ワクチンという薬液を人体へ入れ込む速さに、私はあらためて人間の素晴らしさに驚嘆せざるにはおれないのである。このことだけでも人間が、万物の霊長と崇(あが)められる、実証と言えそうである。
一方、浮かんだ雑多な思いは数々である。それらのなかから一つだけ記すと、まさしくわが下種の思いである。今さらながらに、人生の楽しみは何であろうか? と、自問を試みた。すると、真っ先に浮かんだのは、餓鬼の思いである。ずばりそれは、嗜好する好物の飲食にありつけることであろう。なかんずく、気の合う仲間たちとの会食ともなれば、それには飲食の楽しみに加えて、出会いの楽しみが重なっている。すなわち、人と出会い、そのうえ朗らかに語り合えば、これまた人間の大きな楽しみの一つである。新型コロナウイルス禍にあっても、会食がのさばり続けるのは案外、人間にまつわる楽しみを奪われることにたいする、素直な抵抗の証しなのかもしれない。
私の場合はとうに会食の楽しみを失くし、今やもっぱら妻とふたりしての三度の食事だけが楽しみである。私との食事を妻が楽しんでいるかどうかは知るよしないけれど、いずれはどちらも個食(孤食)となる。このことをかんがみれば現在の三度の食事は、好物の大盤振る舞いでもいいはずである。ところが、実際のところはふたりして、春・山菜に舌鼓を打つだけである。いや、これで十分である。
ネタなく、きょうは休むべきだった。このところは、のどかな朝ぼらけが続いている。これまた、わが生存を後押している。
「いかが、お暮らしですか?」
四月十一日(日曜日)、のどかな朝ぼらけが訪れている。ところがこの頃は、昼間はともかく、朝夕は遅れてきた花冷えに見舞われている。そのため、わが気分は委縮している。
新型コロナウイルスは、四度目の勢いを増しつつある。収束の目途、いまだ立たずである。おのずからわが気分は、輪をかけて打ちのめされている。もちろん、世の中の空気、人様の暮らしぶりなど、おおむね翳(かげ)ったままである。すると、自分のことは棚に上げて柄に無く、人様の日常を気遣い、「いかが、お暮らしですか?」と、問いたい気分である。
新型コロナウイルスに見舞われて以来、すっかり世の中の空気が変わり、人様の日常や暮らしぶり変わった。ひと言で表現すれば、日々恐々とするありさまである。新型コロナウイルスの抑え込みには、専門家集団の助言をよりどころにして、政府および自治体こぞっていろんな手を尽くしてきた。しかしながらいまだに、レスリングルールを借りればフォール勝ち(抑え込み)とはならず、贔屓目(ひいきめ)に見ても、反則勝ち程度にすぎない。この間の関係者の涙ぐましい努力をかんがみれば、もちろんこんな表現は慎むべきとは心している。それでも、あえて用いたくなる成句は、「イタチごっこ」である。
このやりとりに止めを刺すのはやはり、人間の知恵が生んだワクチンと、その早期の接種であろう。メディアから伝えられるところによればワクチンの効果は、懸念されていた副作用は微々たるものにすぎず、その効果甚大という。人類の知恵にさずかり人民は、うれしい悲鳴にありついている。新型コロナウイルス禍にあって、人類共通の朗報である。半面、世界中の人々にワクチン接種が完結しなければ、人類は新型コロナウイルスとの闘いには勝てないという、確かな証しと言えるのかもしれない。気が抜けるほどに遠望する闘いだけれど、私は他力本願に、人類の勝利を信ずるところである。
野山賛歌
四月十日(土曜日)、きのうに続いて寝坊助の起き出しをこうむり、心が焦っている。加えてきょうは、好物・春山菜の食べ過ぎによる、胃部不快感に見舞われている。好物を寵愛(ちょうあい)ならぬ溺愛(できあい)したための自業自得の春の祟(たた)りと言えそうである。いや、実際のところは幸運だから、春の祟りとか、しっぺ返しとか、言ってはいけない。なぜならそう言えば、好物たちから大目玉をこうむりそうである。
焦燥感と憂鬱感を起き立てにあって、真っ先に癒し慰めてくれるのは、ウグイスの朝鳴き声である。加えて、窓ガラスを覆うカーテンを開けば、目に染みて心に沁みる山の緑である。野山の景色は、まさしく新緑真っ盛りである。芽吹きの頃の萌黄色から今や浅黄色になり、こののちは濃緑を帯びて、向かって深緑へと変ってゆく。これらの様子を手間暇やお金をかけずに眺めていると、日夜、山崩れや土砂崩れに慄いている私にとっては、山からさずかる望外の恩恵である。
山の法面と一体をなす周回道路の側壁の上には、わが手植えの花大根(諸葛菜)が帯び長く、紫色の花を咲き誇っている。花の切れ目には野生のノブキがわが物顔に、押し合いへし合いしながら緑の葉を広げている。窓ガラスを通してこれらにかかわる人様の動きには、嬉しいことと悲しいことが入り混じる。嬉しいことは立ち止まり、カメラを向けてくださる人の姿である。一方、悲しいことは、根こそぎ捕って遠ざかる花泥棒の姿である。確かに、わが手植えの花大根は、今や路傍の花へと成り替わっている。それでも、この様子を眺めるわが夫婦は、腹立たしさと共に、虚しさに見舞われている。
新型コロナウイルス禍の感染恐怖下にあってか、周回道路をめぐる見知らぬ人の数はやたら増えている。自然生えとも思える路傍の花大根が、気分直しや手慰みの一助となっているとなれば、知らんぷりをすべき行為なのかもしれない。ところが、わが夫婦はそんな悠長や寛容な気分になれない。不徳のわが夫婦である。
今朝もまた心焦って、この先が書けなく、ズル休みの体(てい)である。夜明けの空はきのうの朝のカンカン照りとは異なり、どんよりとした花曇りである。周辺の桜の花は散り急ぎ、今や葉桜に変わり始めている。それでも、これまた好しで、この先わが気分を癒してくれであろう。惜しむらくは付近に川はなく、山河賛歌とは言えない。それでも、一方だけで十分の野山賛歌である。
「春眠暁を覚えず」
四月九日(金曜日)、「春眠暁(あかつき)を覚えず」、寝坊してしまった。起き出して、焦燥感まみれになっている。こんな心理状態では、この先の文章は書けない。なんだかんだと理由をつけて、このところの私は、ズル休みに逃げ込んでいる。ウグイスの朝鳴き声は、すでに佳境を呈し、わが気分を癒している。ウグイスに「恩に着る」日が続いている。
普段の買い物にあっては好物のノブキが加わり、私は次々に出番を迎える旬(しゅん)の山菜の美味しさに舌鼓を打っている。ところが、肝心かなめの桜の季節は、見物および団子の宴(うたげ)共に、自粛を強いられて遠のけられた。桜は余儀なく歓心を殺がれているうちに、花落ちて葉桜の季節へ向かいつつある。自然界の恵む春の彩りに癒しを求めるわが心情には、切々たるものがある。それでも私は、それらの恩恵にすがらなければならない。自力本願叶わず、自然界の恵みにすがるわが日暮らしである。
焦る心に勝てずこの先は、常態化しつつあるズル休みの実践である。朝日はカンカン照りである。
無償のタクシー券につのる思い
新型コロナウイルスの問題は、まさしく魔界のもたらす出来事であり、加害者無き被害者現象の様相を呈しています。それゆえに人々は感染恐怖に慄(おのの)き、防御対策に梃子摺(てこず)っています。もちろん、日本政府や各地方自治体および医療関係者の対策に対し、手ぬるいなどと非難を浴びせることはできません。新型コロナウイルスへの対応は、日本国民はもとより人民共通の難題です。これへの唯一の対策の光明は、確かに人間の知恵が生み出したワクチン接種に限られると、言えそうです。
ところが現在、好事魔多し、新型コロナウイルスにおける変異株が日替わりめし屋のごとくに次々に現出しており、そしてこれらに対するワクチン効果に疑念が生じはじめています。それでも人民は、藁をも掴む気持ちに変わりありません。おのずから現在、日本政府と各自治体、加えて医療機関は、三位一体(さんみいったい)となって接種作業の段取りに大わらです。しかしながら接種の実態は、私には漠然としたままで、臨場感が薄れていました。
こんなおり高橋弘樹様は、さいたま市にお住いのお母様の接種日程を明確に記して、実際の接種の様子を詳細にご投稿くださいました。まさしく、機を得たご投稿にさずかり、感謝の念を添えて御礼申し上げます。これにちなんで、わが現住する鎌倉市の施策の様子を書き添えます。
それは、こういうことです。すなわち、鎌倉市は何か所かに予定している接種会場へのアクセス不便を考慮して、高齢者に限り往復のタクシー券を提供するというものです。先日、これに関する案内が届きました。もちろん私の場合は、もとより無償提供のタクシー券に甘えるつもりはありませんでした。一方、腰を傷めている妻の場合は、接種行動に躊躇(ためら)いをおぼえていました。ところが妻は、この案内により出かけざるを得ないと、躊躇う気持ちにふんぎりをつけたようです。もとより妻の場合も、私は自弁のタクシーでそろって、出かける心づもりをしていました。
こんなおり届いたタクシー券提供の案内には、背に腹は代えられない鎌倉市のやる気を感じました。もちろん各自治体共に、できれば100%接種(完結)への工夫を編み出し、現在は接種の段取り作業の大わらわの真っただ中にある。どちらかと言えばどうでもいい選挙の投票箇所への行動とはまったく異なり、直接的にわが身体を助ける接種であり、現在の私は真摯(しんし)かつ厳(おごそ)かな気持ちで、具体的な接種日取りの案内を待っているところです。
日本国民はもとより日本国籍なくも日本に住む人々、すなわちすべての人民こぞって、ワクチンの効果疑念などそっちのけで、接種にあずかりたいところです。なぜなら、ワクチンに頼るしか、魔界の悪魔退治は出来そうにないと、思うからです。確かに、高橋様のご指摘にように、(なんだかなあ……?)と思うところは多々あります。しかしながら、関係者の段取り作業の多忙をかんがみて、生来へそ曲がりの私も現在は、素直な気持ちをたずさえて接種日取りとタクシー券の到着を待っています。無償のタクシー券の到着を待つのは、素直と言えるかどうか、ちょっぴり疑わしいところです。
この先、書けない
四月六日(火曜日)、寒のぶり返しに遭って気分が萎えている。人間は苦しむために生まれている。現在のわが心境である。
このところの私は、ウグイスの鳴き声と、庭中に飛来するコジュケイへの米粒のばらまきに癒されている。人の出会いの季節は、桜散る季節である。この先、書けない。雨上がりの道路の掃除へ向かう。ささやかな気分直しの試みである。直るわけはない。
タケノコ、礼賛
予期しない悪夢による不快感には、腹立たしさがつのるばかりである。一方、私自身がしでかす不快感には、腹立たしさはお蔵入りである。それでも、浮かぶ四字熟語を用いれば、わがしでかす不快感は、自業自得(じごうじとく)とは言えそうである。
学童のだれもが知り過ぎている日常語だけれど、私は目覚まし代わりに電子辞書を開いた。【自業自得】「仏教で、自分が犯した悪事や失敗によって、自分の身にその報いを受けること。構成:自業は自分のなした悪事。自得は、自分自身に受けること」。
このところの私は、タケノコの食べ過ぎによる胃部不快感に見舞われている。まさしく、みずからの行為で、その報いを受けるという、語彙・自業自得の現場主義の学習である。いまさら、こんな学習はするまでもない。なぜなら、この世でタケノコに出遭って以来、私はタケノコを食べ続ければ、胃部不快感を招くことなど、知りすぎてきた。ふと浮んだ成句を用いれば、「猫かわいがり」に陥り、案外タケノコからしっぺ返しをこうむっているのかもしれない。これは物事のすべてに当てはまる、好きなものからこうむるしっぺ返しの報いである。もし仮にそうだとしても私には、タケノコを恨む気持ちはさらさらない。それほどにタケノコは、子どもの頃からこんにちにいたるまで、わが好物いや愛玩食材の筆頭に位置してきた。
食材だからレシピしだいで、さまざまな食べ物の具(ぐ)になりかわる。もちろんタケノコは、主役にはなれない。しかしタケノコは、このところのわが家の三度の御飯における名脇役(バイプレーヤー)である。単なる醤油味の煮つけ、味噌和え(よみがえる母のことばでは「味噌よごし」)、木の芽御飯の具など、まったく飾りけのない「素」の美味である。
タケノコふるさと便の第一便を食べ終えるにあたって私は、追加で第二便を甥っ子に依頼した。すると第二便は、きょうあたりにふるさと離れると言う。だから、胃部不快感はいまだに折り返し点にすぎないけれど、半面うれしい悲鳴が重なることとなる。しかし、胃部不快感をかんがみて私は、食べ過ぎには自動制御装置、すなわち制動(ブレーキ)をかける意を固めている。なぜなら、「贔屓(ひいき)の引き倒し」にでもなれば、タケノコには罪作りとなり、もちろん甥っ子の優しさにも背くこととなる。
好物を食べるには、舵取りすなわち塩梅(あんばい)や兼ね合いが難しいところである。結局、自動装置に頼ることなく、自己の制御装置を働かせる、心構えこそ必定(ひつじょう)である。現在の私は胃部不快感をおぼえて、確かにその決意を固めている。しかしながらこの決意には、第二便が宅配されれば雲散霧消、もとより元の木阿弥になりそうな懸念がある。
学童の頃にあって、母がこしらえる弁当の御数にあってのわが好物は、タケノコの煮物、椎茸の煮物、こんにゃくの煮物などが甲乙つけがたく、三位一体(さんみいったい)をなしていた。いずれも、単なる醤油味の煮物にすぎない。それでも、これらの入る弁当持参のときには、食欲と同時に勉強への意欲がかきたてられていた。これらにノブキの煮物が加わると、まさに好物三昧、鬼に金棒の弁当の御数のお出ましだった。胃部不快感など承知の助でやけ食いに嵌まるのは、それだけタケノコが好きという証しであろう。幸か不幸か私は未体験だが、見境ない恋愛ごっこもまた、いずれは共に不快感を招く恐れがあるようである。
タケノコの食べ過ぎによる胃部不快感は、腹八分どまりでは抑えきれない、わが意志薄弱の証しと言えそうである。悪夢による不快感には、文章を書く気にはなれなかった。ところが、タケノコの食べ過ぎによる不快感には、曲がりなりにも文章が書けた。共に見舞われる不快感ではあっても、大きく異なるところである。
悪夢
スヤスヤと眠れれば人間は、それだけでじゅうぶん幸福である。ところが私の場合、安眠に恵まれることなど滅多にない。それゆえに安眠にありついたときには、冒頭の感慨がメラメラと湧いてくる。
このところの私は、就寝中にあって悪夢に魘されている。挙句、疲れ切って起き出している。そして、まったく労働の無い就寝中にあって、重労働後の疲れをはるかに超える疲労感に苛(さいな)まれている。まさしく、悪夢の祟(たた)りである。悪夢はまさしく空夢(からゆめ)、あらん限りの虚構を作り出し、就寝中のわが心身を虐(いじ)め尽くしてくる。
誕生から八十歳を超えるこんにちまで、私には人様から虐められた記憶はまったくない。このことではみずから、稀に見る幸運児と自認するところである。もちろん、虐めた記憶もない。しかしながらこのことは、完全無欠とは言い切れない。なぜなら人様の記憶の中に、私に虐められたと思う人が存在するかもしれない。もとより人間は、人様の思いを知ることはできない。
学童の頃の私は、友達のひとりからしょっちゅう、「ゴットン、ごいちの禿げ頭」と、呼びかけられていた。こう呼ばれていた理由は、こうである。わが家の生業(なりわい)は、水車を回して精米業を営んでいた。さらに、父の名前は吾市(ごいち)であり、五十六歳時に私をもうけた父の頭は、小学生時分にはすでにツンツルテンに禿げていた。わが家から近いところのひとりの友達は、水車の音と父の禿げ頭を知り過ぎていたのであろう。そのため、おとなの見よう見まねで子どもなりに、みずからを編み出したことばなのである。
今様では揶揄(からか)いことば変じて、まさしく確かな虐めことばと言えそうである。しかしながら受けていた私は、まったく動じなかった。それゆえ私は、このことばを当時はもとより今なお、虐めとしてまったく勘定していない。動じなかった理由はただひとつ、私が父を好きでたまらなかったからである。
こんな私が、人生終盤にあってなかんずく、就寝中の悪夢に魘され、心身が疲れ切るほどに脅かされるのは、何たるつらい業(ごう)であろうか。悪夢さえなければ、「ひぐらしの記」のズル休みや頓挫は、かなり少なくなること請け合いである。きのうのズル休みも悪夢のせいであり、きょう四月四日(日曜日)の実の無い文章もまた、悪夢のせいである。悪夢は、やっかみ半分にだれがこしらえるのであろうか。人間になりきれない、空想上の鬼の仕業なのか。「鬼に金棒」、いやいや、鬼に金棒を持たせるのは真っ平御免である。
【魘される】「恐ろしい夢などを見て思わず苦しそうな声を立てる。悪夢に魘される」。
【魘】「部首:鬼部、総画数24画。おそわれる。うなされる。おそろしい夢を見て、眠りながらおびえうめく。悪夢」。
つらい、現場主義の生涯学習である。ただでは起きないというほどの、価値ある学習ではない。こんな学習は、もちろんただ(無料)でいい。
自己慰安
太公望(釣師)は、水中や海中に釣り糸(多くは天蚕糸・テグス)を垂らして、水面や海面に浮く「浮き」を凝視し、引くあるいは当たりという、手ごたえを一心不乱に待っている。まさしく、青天白日の心境である。もちろん、文章を書くわが心境は、太公望とはまったく比べようがない。ちょっとだけ似ているかな? と、思うことで一つだけ浮ぶのは、文章を書くにあたって私は、心中に文意に適(かな)う語彙(ごい)をめぐらしている。ところが、実際のところはまったく異なる心境である。なぜなら、わが心境は一心不乱にはなりえず、常にアタフタ、ドタバタ、ジタバタまみれにある。
文章を書くことで最も恐れて、それゆえ心すべきことの筆頭は、文意の乱れである。文意が乱れてはもはや、文章にはなり得ず、乱脈きわまりない単なる語彙並べにすぎない。その列なりは、もちろん将棋倒しのような見栄えなど、まったくない。
次に心すべきことは、文中における誤字や脱字である。これらが文中に目立つようでは、これまた文章とは言えない。私はこれらのことに常に怯(おび)えて、文章を書いている。しかしながら、これらの恐怖から免れることは、毛頭(もうとう)できない。そのため私は、なさけなくも心中に逃げ口上を用意している。それは、「六十(歳)の手習いだからしかたがない」という、自己慰安である。
電子辞書に「自己慰安」という見出しはなく、言うなればやむにやまれぬわが造語である。自己慰安とは、みずからにたいする甘えの表現である。すなわち、私は自己慰安をたずさえて、ようよう文章を書いているにすぎない。だから、青天白日とは程遠い心境である。
【青天白日(せいてんはくじつ)】「①よく晴れた日和②心中包みかくすことのまったくないこと③無罪であることを明らかにすること。意味:真っ青な空に明るく輝く太陽。心が純潔で後ろ暗いところのないたとえ。構成:青天は青空。白日は、明るく輝く太陽。」
きょう(四月二日・金曜日)の文章は、自己慰安と無い物ねだりの文章である。ほとほと、はしたなく、忸怩(じくじ)たる思いつのるところである。