ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

九州場所、大関貴景勝賜杯

 メディアの報じる配信ニュースから、意図的に新型コロナウイルスにかかわる記事を避けようと思えば、わが意に沿うものは指折るほどもない。きのう(十一月二十二日・日曜日)、大相撲九州場所は千秋楽を閉じた。異例まみれの九州場所だった。九州場所でありながら、例年の福岡開催ではなく、「両国国技館」(東京都墨田区)で行われた。観客は五〇〇〇人に制限された。これらは新型コロナウイルスがもたらした一つの異例である。言うなれば外部異例である。
 もう一つは、今場所限定の内部異例である。二人の横綱と一人の大関は初日から全休し、さらにもう一人の大関(新大関正代)は、早々に途中休場を余儀なくした。結局、五人の横綱と大関の中で、九州場所をまっとうしたのは、大関貴景勝だけにすぎなかった。ところが、幸いなるかな! 貴景勝は奮戦し、大関の面目を保って優勝した。
 前段を長々と書いたけれどわが魂胆は、貴景勝の優勝を伝える配信ニュースを引用するためのものだった。
 【貴景勝、来場所は綱取り「レベルの低い優勝も困る」】(2020年11月22日19時33分 日刊スポーツ)。「大関貴景勝(24=千賀ノ浦)が18年九州場所以来2年ぶり2度目、大関としては初めての優勝を果たした。本割一発で決めることはできなかったものの、最後は勝ち切った。伊勢ケ浜審判部長(元横綱旭富士)は来年初場所が貴景勝にとって綱とり場所になると明言した。横綱昇進には『2場所連続優勝もしくは、それに準ずる成績』という横綱審議委員会の内規がある。同審判部長は『当然、優勝となればそういう話になる』と説明。今場所は初日から白鵬、鶴竜の2横綱休場に加え、大関朝乃山、目玉だった新大関正代も途中休場した。この状況もあってか、来場所について『当然、優勝となればそういう話になる』と優勝を絶対条件にした。」
 長い夜にあっては真夜中同然(2:32)、私は夜明けまでのあり余る持ち時間を思案するところである。

強風が見舞った「落ち葉しぐれ」

 きょう(十一月二十二日・日曜日)は、明日の「勤労感謝の日」(十一月二十三日・月曜日、祝祭日)」を前にして、三連休の中日(なかび)にある。晩秋から初冬にかけての好季節にあって、行楽シーズンは大団円の賑わいを見せるはずだった。しかし、三連休前には新型コロナウイルスの感染を恐れて、「我慢の三連休」という、行楽を控える警告(警鐘)が飛び交った。
 ところが、きのうのメディアのテレビニュースには、我慢をしきれない行楽客の人出の様子が、あちこちの観光地から伝えられていた。それほどに人は、政府肝入りの施策である「GO TO トラベル(旅行)」や「GO TO イート(飲食)」キャンぺーンを当てにした、物見遊山を決め込んでいたのである。もちろん、新型コロナウイルス禍にあっても、それにありつく人たちを非難すべきことではない。おのずから、日本経済浮揚のためという、大義名分も成り立つところがある。
 しかし一方、施策を敢行した政府は、人出の多さに得たりやおうとほくそ笑むどころか、大慌ての状態を強いられている。専門家や分科会のメンバーからは、新型コロナウイルスの感染者数のぶり返しは、明らかにそれらのキャンペーンのせいだ! と、あからさまにお咎(とが)めをこうむるありさまである。
 そのため、政府はにわかにそれらのキャンぺーンの中止や、見直しをくわだてざるを得ない状態にある。肝いりのキャンペーンはにわかに袋小路入りに状態にある。もちろん、キャンペーンにありつけないわが面白(おもしろ)がりばかりではなく、ちょっぴり政府に同情するところはある。
 さて、きのうの鎌倉地方は、ほぼ一日じゅう強風に吹き晒された。私は朝の道路の掃除を昼間へ後回した。山の枯葉は、夜明けからやたらと道路に舞い落ちていた。私はこの光景に業(ごう)を煮やし、昼前への後回しを決め込んだのである。天高い日本晴れの下、落ち葉しぐれは胸の透く眺めでもあった。桜の頃の桜しぐれと異なるのは、壁に吹き寄せられた落ち葉の重なりだった。一方ではこれには、強風の吹き晒しの恩恵があった。おかげと言うにはいくらか語弊があるけれど、しかし確かな恩恵であった。自然界の自浄作業のごとくに道路の落ち葉は、わが箒を這わせることもなく、吹き清められたのである。私は内心で(よしよし、シメシメ)と呟いて、壁に吹き寄せられていた落ち葉を何度も、70ℓ入りの半透明袋に塵取りから詰め込んだ。何度かは両手で、白菜を大樽に漬け込むかのように、力いっぱい押さえ込んだ。それでも袋は、はち切れんばかりに膨らんだ。しかし、やはり強風のおかげで、あっけないほどの短い時間で、掃除は済んだ。
 私は頭上の山の木々の梢(こずえ)を見上げた。だいぶ空いていたけれど、強風に踏ん張りまだたくさんの枝葉が残っていた。私はこの先、なんどかの強風の吹き晒しを願っていた。もちろんそれは、寒風の吹き晒しではなく、暖かい陽射しをともなう強風の吹き晒しという、独りよがりの身勝手な願いである。このところは鎌倉地方のみならず日本列島全体に、季節狂いの暖かい日が続いている。そのため、寒気を極端に嫌う私は、うれしい悲鳴にありついている。
 夜明け前にあってきょうもまた、まったく寒さを感じない。天恵、素直にありがたいことであり、文字どおり感謝感激である。夜明けには風が止んでいる。私は文章を閉じて、生前の起き立ての父の水田の見回りを真似て、道路の汚れぐあいの見回りに急ぐこととなる。区画の壁際の落ち葉の袋入れで、済めば万々歳である。

「灯台下暗し」

 だれが悪いわけでもない。だから、だれかを責めるわけにもいかない。新型コロナウイルスへの対応は、だれもがもっぱら防御に努めるしか便法はない。こんななかにあってだれもが共通に実感できることは、新型コロナウイルスのこのところの新たな増勢ぶりである。いよいよ専門家や分科会(メンバー)も浮足立って、さまざまに強い警告を発し始めている。素人の私にすれば、遅すぎた「さもありなん!」である。
 先日私は、一文においてこんな表題を付した。それは、『映像「玉虫色の会談」』である。メディアが伝えていた会談の当事者は、これらの人たちである。すなわち、国際オリンピック委員会(IOC)・バッハ会長、応じた日本社会の主なる関係者には、菅総理、小池東京都知事、森東京五輪・パラリンピック組織委員会会長、と記されていた。会談内容は新型コロナウイルスのせいで余儀なく、来年へ延期されている「東京オリンピックおよびパラリンピック」の実現に向けての強い決意である。ところがこれにたいし私は、かなりの皮肉を込めて、「玉虫色の会談」と名付けたのである。名付けの理由は、危機感のさっぱり見えない、はたまたまったく伝わらない、手褒めの会談に思えたからである。それからいくらか日が経ち、すでに過去の感慨にすぎないけれど、きょう(十一月二十一日・土曜日)の私は、再びこのときの感慨を蒸し返したくなっている。そのためあえて、二番煎じの文章を書いている。ほとほと、書くにはつらい文章である。(なんだかなあー……)、あの会談を境にして、感染者の激増に拍車がかかった感じである。もちろん、わが下種の勘繰りである。現在、政府や自治体は、気の緩みの引き締めに大わらわである。いやいや、気の緩みは、会談当事者の「灯台下暗し」である。

好都合の夜にあって、文章が書けない

 十一月二十日(金曜日)、長い夜。現在、パソコン上のデジタル時刻は、3:26と刻まれている。文章を書く気になれば時間は、まだたっぷりと残っている。ところが、書く気になれない。書けばおのずから、新型コロナウイルスの感染者数の数値になりそうである。いつまで続くかわからないことを日々書き続ければ、うんざり気分である。そのため現在の私は、意識してこのことを書くのは避けたいと思っている。すると一方で、そのとばっちりにあって書くネタがない。
 このところ私は、昼夜を通して冬防寒重装備の着衣を脱ぎ捨てている。なんで連日、春先や初夏みたいな暖かい日が続くだろう。気象庁は異常気象と言い、科学者は地球温暖化傾向と言うのであろうか。暖かい夜にあっては、おのずから文章を書くには好都合である。しかし、書けない。このところの私は、昼間にあっては茶の間の窓ガラスを通して、わが家周辺の秋模様を愉しんで眺めている。実際には野山の黄葉や紅葉と、さらには微風(そよかぜ)にさえ逆らえず、散り急ぐ落ち葉しぐれの光景である。半面、そのしっぺ返しをこうむっている。
 きのうの道路の掃除にあっては、45ℓ入りの半透明の袋が落ち葉を入れて、はち切れるほどに膨らんだ。もちろんこの時期にあっては、想定済みの落ち葉の量の多さである。わが物置には、100円ショップで買い求めた45ℓと70ℓ入りの半透明袋が積まれている。落ち葉の増え方を見越しての事前準備である。自然界の目の保養にすがり、一方では落ち葉の量におののく、この時期のわが日暮らしである。
 新型コロナウイルスへの感染者の苦難をおもんぱかれば、落ち葉の量を嘆くのは、罰当たりになりそうである。やはり、新型コロナウイルスのことをちょっぴり書く羽目になった。それを避ければ、この先、もう書けない。

新型コロナウイルス、感染者数二千人超

 十一月十九日(木曜日)、現在のデジタル時刻は4:37である。目覚めて起き出して来たのは、二時半近くである。この間、大沢さまから送られてきた原稿の校正作業を試みた。校正作業とは文字どおり、わがミスの訂正作業である。おのずから、気分の滅入る作業である。明らかに、現在のわが気分は沈んでいる。そのため、文章を書く気分が殺がれている。このため、日本社会を襲っているトピックス(この場合は悪夢)の記事の引用に留めるものである。感染者数の数値は、週の前半(水曜日まで)より、週の後半(土曜日まで)に、多く伝えられる傾向にある。すると、この数値は、きょうにも更新されそうである。鬱陶しい気分いや増し、つのるところである。
 【全国のコロナ新規感染、初の2千人超え 1都4県も最多】 (2020年11月19日、0時時06分 朝日新聞デジタル)。国内の新型コロナウイルスの感染者は、18日(水曜日)午後9時半時点で、過去最多となる2202人が新たに確認された。1日あたりの感染者数が2千人を超えるのは初めて。東京のほか、神奈川、埼玉、長野、静岡の計1都4県で最多を更新した。大阪や北海道でも、過去最多に迫る200人超の感染が明らかになり、感染の拡大が続いている。死者は北海道などで計14人確認された。これまでの国内の最多感染者数は今月14日の1735人(修正値)だった。東京都ではこの日、493人の感染が確認された。年代別にみると、65歳以上の高齢者は77人と5月1日の69人を上回り、過去最多だった。高齢者への感染拡大の背景には、家庭内感染の増加がある。18日までの1週間では感染経路別のうち、家庭内が最多の4割を占め、都の担当者は「子どもから感染する高齢者が多い」と指摘する。大阪府でも1日あたりの感染者数としては今月14日の285人に次いで、2番目に多い273人だった。札幌市で不要不急の外出自粛要請が出されている北海道では、233人の感染が確認された。このうち札幌市は136人だった。道内では20日連続でクラスター(感染者集団)が発生し、この日も札幌市内のグループホームなどで起きたという。神奈川県ではこれまで最多だった今月12、14日の147人を大きく上回る226人の感染が確認された。県内の入院患者は17日時点で410人で、県などは受け入れ可能な病床の確保を急いでいる。埼玉県も126人が確認され、最多を更新。県の担当者は「目立ったクラスターがない中で、感染者数が増えている」と話した。静岡県では今月14日の36人が最多だったが、18日は87人の感染が判明し、わずか4日で倍以上に増えた。長野県は30人だった。

夜長、つれづれの迷い文

 これまで、身近なところで眺めてきたものの一つには、道路工事は始まったらなかなか終わらない。ようやく終わったなと思えば、こんどはガス管工事が始まり、これもようやく終わったなと思えば、こんどは水道管工事が始まる。挙句、同じ個所が施工業者を替えて、なんども掘り返される。そのたびに私は、(なんだかなー……)と、唖然とするほかない。
 私は根っからのへそ曲がりである。歯医者の治療台に寝そべるたびに、もちろん声なき声で私は、歯医者通いを道路工事にたとえている。明確に違うところは、道路の掘削工事みたいに、施工業者が入れ替わらないところである。確かに、痛むところがモグラ叩きさながらに、次々に替わるのであろう。それでもへそ曲がりの私は、歯医者の治療を心中では、道路の掘削工事みたいなものだなと、思っている。こんな馬鹿げた思いで、治療台に寝そべっていては、いずれ大きな罰が当たりそうである。なぜなら先生は、わが歯の痛みを抑えることに、優しくかつ真剣必死である。
 きょう(十一月十八日・水曜日)は、週一にめぐってくる歯医者への通院日である。予約日はほぼ水曜日に固定さている。予約時間は、先週に続いて午前九時半である。予約とは確かな約束である。そのため、これに背いたら人間の屑の範疇になる。こんな思いをたずさえて私は、かなりの余裕時間をもって待合室に入る。もちろん歯医者にとどまらず、病医院通いにおけるわが不文律のみずからへの決めごとである。
 幸いなるかな! 現在は、歯の痛みは感じない。自覚するところは、胃腑の不快感である。しかし、きょうはこの手当の通院はしない。ちょっぴり、(なんだかなあー……)と、腑に落ちない思いがしないでもない。この場合、適当ではないけれど、ふと自家撞着(じかどうちゃく)という言葉が浮かんだ。語彙(言葉と文字)の復習のために私は、すぐさま電子辞書を開いた。〈自家撞着〉:同じ人の言行が前と後とくいちがって、つじつまの合わないこと。
 わが掲げる語彙の生涯学習は現場主義である。ところがその主を成すのは、新たな語彙の習得というより多くは、忘れかけている語彙の復習にすぎない。加齢とともにおのずから、電子辞書を開く頻度は増すばかりである。
 私の就寝時の枕元には、常にわが三種の神器と思えるものを置いている。それらは、懐中電灯、携帯電話(ガラケー)、そして電子辞書である。それぞれには私から、役割が課されている。懐中電灯の場合は、地震、停電、さらには身体に痛みを覚えたおりに、ムカデ探しに用いるためである。もちろん、頭上の蛍光灯から垂れる紐も引く。携帯電話は、わが最も恐れている凶器である。受信音が鳴らなければと、願うところである。なぜなら枕元の携帯電話は、今や訃報を伝える役割に成り下がっている。唯一の取り柄は、目覚めて(今、何時かなあー)と、手にするだけの時計代わりである。前向きに、いや多くは後ろ向きに手にするのは電子辞書である。きわめて容易な日常語であっても、忘れかけている語彙は復習を兼ねて、すぐに電子辞書を開いている。このことでは、就寝から目覚めて手にするものの筆頭は、電子辞書である。
 かつては買い物用のリュックの中に、電子辞書を忍ばせていた。それは、往復のバスの中で紐解くためだった。しかし現在は、涙をのんでこんな馬鹿げたことはやめて、あやふやに浮かんだ語彙を心中で、牛の二度噛みみたいに反芻(はんすう)しているにすぎない。ガラケーからスマホへ変えれば、重たい電子辞書の携帯は免れそうな、誘惑にかられるときもある。しかし、生来のわが優柔不断の性癖が、いまなおその決断を拒んでいる。
 長い夜にあってきょうもまた、ネタ無しの迷い文である。歯医者通いの準備をするにはまだ早すぎる、いまだ真夜中のたたずまいである(三時過ぎ)。

映像「玉虫色の会談」

 自然界は野山に秋色(しゅうしょく)を深めて、一日だけの小春日和でなくこのところは連日、初冬とは思えない暖かい陽射しをそそいでいる。人間界は新型コロナウイルス禍の恐怖の最中にあって、何ものにも勝る自然界の粋な計らいである。寒がり屋の私にはこれだけで十分の恩恵だけれど、図々しくもなお欲張って、この先の暖かい陽射しを願っている。しかしながら、自然界の法則によってそれは叶えられず、もちろん空望(からのぞ)みとなる。それだけに余計、私にはこのところのポカポカ陽気を寝溜めのごとく、わが身体に溜め込んで置きたい思いがある。ところがこれまた、「言うは易し行うは難(かた)し」の空望みである。
 さて、きのう(十一月十六日・月曜日)における、日本社会にまつわる出来事の一つを顧みる。それは新型コロナウイルスのせいで、来年(令和三年・二〇二〇年)へ延期されている、「東京オリンピックおよびパラリンピック」にかかわる関係者の動向である。事の始めは、国際オリンピック委員会(IOC)・バッハ会長の来日である。バッハ会長に応じる日本社会の主なる関係者は、菅総理、小池東京都知事、森東京五輪・パラリンピック組織委員会会長と伝えられた。相次ぐ会談は、来年のオリンピックとパラリンピックの実現に向けて、強い決意のともなう「玉虫色の会談」で彩られたようである。もちろん、中止宣言を聞くより、歓迎すべき会談であった。
 ところが、相次ぐ会談で一件落着とはまだ言えないところがある。わが下種(げす)の勘繰りではそれには、このところ第三波とも言われている新型コロナウイルスの増勢ぶりがある。もちろんそれは、日本の国だけにとどまらず世界中の傾向でもある。すると案外、世界中の世論が開催反対の声を上げかねないところがある。それらの声を跳ねのけての開催は、おのずから危ぶまれるところもある。わが老婆心をちょっぴり添えれば、関係者の保身まみれの開催宣言にならないことをひそかに願うところである。私は根っからのへそ曲がりである。いやいや、あまりにもニコニコ笑顔の「玉虫色の会談」の様子のテレビ映像に、わが眉を顰(ひそ)めたからである。

能無しの私が浸る幸福(感)

 私にはだれかれではなく、出会えた人のすべてに、恩に着るところがある。もちろん、声なき人たちのご厚情をも、まるで対面の出会いのごとく身に染みて、ありがたく感じている。双方を丸めてひと言で言えば、「ひぐらしの記」がもたらしている御縁である。
 私は自分自身の能力をはるかに超えて、長いあいだたくたくさんの文章を書いてきた。そのためこの頃は、明らかに精神疲労を自覚している。わが能力を超えた頑張りすぎの付けが、堰が切れたごとくにどっと回ってきているようである。だからと言って私には、この付けに悔いごとを挟む余地はまったくない。なぜならこの頑張りには、さまざまにかつ無限大と言っていいほどの幸福(感)がもたらされている。幸福(感)の筆頭は、今さら言わずもがなのことだけどそれは、人様との出会いと、それから賜るこれまた無限大のご厚情と支えである。
 わが年齢は八十歳を超えている。おのずから人様との出会いも、人様の息づかいも遠のいて、わが日常生活は疎外感まみれになるところである。ところが私は、「ひぐらしの記」を通しての人様との出会いのおかげで、疎外感をまったく免れている。その証しにこの頃の私は、頓(とみ)に人様との出会いがもたらす幸福(感)に浸りきっている。確かに、この幸福(感)が無ければ、生来「三日坊主」の私が、こんなにも長く書き続けてこられたわけはない。まさしく、今は亡き母が垂れ続けていた二つの教訓、すなわち「するが辛抱」そして「苦は楽の種、楽は苦の種」の結実である。
 しかしながらこの果報は、もちろん自力本願ではなく、人様すがりの他力本願がもたらしたものである。精神疲労は私にとりつく無能力の付けであり、それを超えて余りある幸福(感)は、人様からもたらされている便益である。夜長にあってあらためて、人様との出会いがもたらしている幸福(感)の吐露と披露である。文尾ながら人様にたいして、感謝感激この上はない。

「七五三」日和にあって、様変わる風景

 この季節、わが家周辺には黄葉が目立ち、中にはカエデの紅葉がひと際、わが目を愉しませてくれている。台風さえこなければ土砂崩れの恐れは遠のいて、季節感満喫である。道路の掃除にあっては日を替えて、夥(おびただ)しい数の落ち葉が一面に敷きしめられている。私は、ときにはその光景に音を上げるけれど、これも期間限定と高をくぐり、いやむしろ季節の恵みと達観しているところもある。天変地異の鳴動さえなければ、晩秋から初冬にかけてのこの季節にあっては、自然界の恵みにおんぶにだっこの日常生活の楽しさを味わっている。ひと言で言えばこの季節のわが日常は、自然界のおりなす中にある。ところがこれは、文章に彩りを添えるフィクションのところがある。実際のところこの恵みをまたたくまに打ち消すのは、この季節に重なる寒気団の到来である。
 きょう(十一月十五日・日曜日)、現在のわが身には、まったく寒気を感じない。そのため、こんな呑気なことを書いておれるのであろう。寒気にブルブル震えていれば、もちろんこんな自然界賛歌など書けず、ただただ自然界の仕業が恨めしいかぎりである。現在の暖かさから推し測ればおそらく、きょう一日じゅう、なかんずく昼間は季節狂いのポカポカ陽気に恵まれそうである。そうなれば飛びっきりの「七五三」日和に恵まれることとなる。あたかもきょうは、家族総出の叶う日曜日でもある。ただ惜しむらくは、新型コロナウイルスの感染蔓延の最中にあっては、マスクの着用、三密の避け、大声や会話をひかえた祝膳風景など、様変わりを強いられることである。
 かつての私は、七五三の日にあっては一つの恒例行動を成していた。それは、鎌倉市街に位置する「鶴岡八幡宮」へ出向いて、和やかな「七五三」風景を愉しむことだった。ところがここ二、三年は、これまた加齢のせいで、沙汰止みになっている。もちろんきょうもまた、こんなもの好きの勝手な行動は完封である。新型コロナウイルス禍にあっては、日本社会の要請に従って、できるだけ外出行動を控えなければならない。もちろん、きょうの七五三参り自体、いつもとは異なり「自粛、自粛」の掛け声の下、粛々と行われるであろう。
 鶴岡八幡宮の大イチョウの樹は、台風で倒されて見る影もないけれど、ほかのイチョウの樹々の彩りは、満開の美的風景をきわめている。しかし、それを眺める人出は、新型コロナウイルスのせいで、例年に比べて少ないであろう。「ああー、もったいない、もったいない」。新型コロナウイルスは、ほとほと悪の根源である。

無題

 十一月十四日(土曜日)、長い夜はいっこうに更けない。いまだに真夜中の佇まいにある(3:04)。新型コロナウイルスのことしか、書くことがない。いや、それしか書けない。もちろん、眠気まなこを見開いて、いたずら書きさえする気力もない。いつもの習性で、ほぼいつもの時間に目覚めたから仕方なく、パソコンを起ち上げたにすぎない。どうしたことか、胃腑の不快感に見舞われている。こんなことを書いては私自身、愉快なはずはない。もちろん、掲示板上の投稿ボタンを押すにも、気が咎めている。「休みます」と書いて休むのか、それとも無断欠席を続けるのかと、どっちつかずに陥り現在のわが気分は、とことん揉めている。しかし、いちいち「休みます」と書けば鬱陶しく、私自身はこの先は、仕方なく無断欠席を余儀なくしそうである。
 胃カメラ検査の予約済は、来年の三月十九日である。新型コロナウイルスにおけるPCR検査は、今のところ予定はない。胃腑不快感は、新型コロナウイルスとは無縁のはずである。インフルエンザの予防注射は、すでに済ましている。きょう、病医院へ行くつもりはない。自己診断では原因不明である。強いて言えば医者の言葉を真似て、「加齢のせいですね」で、一件落着である。結局、長い夜をどう過ごそうかと、気分の滅入りに見舞われている。この先、無断欠席ならぬ無断休筆は免れず、おのずから「ひぐらしの記」の終筆の引き金になりそうである。やはり、「休みます」と、書けばよかったのかもしれない。文章の体を成さなくては題の付けようはなく、焼けのやんぱち「無題」とするほかない。ひと言添えれば、ほとほとなさけない。