ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
途中経過の悲しみ
これまでの私は、意識して新型コロナウイルスにかかわることは、できるだけ書くまいと、肝に銘じてきた。なぜなら、このことにかかわることを書き連ねれば、気分の晴れることはない。
人類社会は、今なお収束の見えない新型コロナウイルスとの戦いのさ中にある。止まない物事には、途中経過という過程がある。そしてそれは、節目ふしめに伝えられてくる。以下に引用する記事は、新型コロナウイルスにかかわる日本国内事情における、いまだ途中経過と言えるものである。はなはだ、残念無念である。引用記事は、全体からの一部抜粋である。
【国内のコロナ死者1万人超 増加ペース加速、昨年12月以降が8割】(4/26・月曜日、21:21配信 毎日新聞)。「新型コロナウイルスによる国内の死者は26日、毎日新聞の集計で1万24人となり、累計1万人を超えた。前日から35人増えた。死者の増加ペースは加速する傾向にあり、感染『第3波』が深刻化した昨年12月以降の死者が約8割を占めている。一方で重症者は898人に上り、1カ月でほぼ3倍に。重症化しやすいとされる変異株がさらに死者を増加させる恐れもあり、予断を許さない。国内では、2020年2月13日に神奈川県の80代女性が亡くなり、初の死者となった。5カ月後の7月20日に1000人に達し、さらに4カ月後の11月22日に2000人を突破した。その後は増加ペースに拍車がかかる。『第3波』に入り、3000人に達したのは1カ月後の12月22日。1カ月後の今年1月23日に5000人、2月15日には7000人に達した。国内で初めて死者が確認されてから1年足らずで5000人に達し、そこから3カ月で死者は倍増した格好だ」。
わが日暮らしに暗雲をもたらしていることゆえに虚しくも、気に留めて引用せざるを得ない。これには、いまだに途中経過にすぎないという、悲しさつきまとっている。そしてこれには、自然界の恵む長閑(のどか)な朝ぼらけが悲しさを増幅させている。
延長戦続く、新型コロナウイルスとの闘い
どこまで続く、泥濘(ぬかるみ)ぞ! 人間社会の穏やかな日常が、始末に負えない新型コロナウイルスのせいで、日々砕けてゆく。東京都、京都府、大阪府、兵庫県の四自治体は、きょう(四月二十五日・日曜日)から、三回目となる「緊急事態宣言」の開始となる。期間は、来月・五月十一日(火曜日)までの十七日間という。設定理由は、第四波と言われているぶり返しに抗しきれなく、短期間で勢いを止めるためだという。
この間における日本社会にあっては、大型連休がある。そのため政府や自治体には、この連休期間に便乗して、人の移動を抑え込みたい意図がある。なぜなら、大型連休にあって無策を決め込めば、人の物見遊山にともなう、新型コロナウイルスのさらなるまき散らしが懸念されるためである。
確かに、新型コロナウイルスの蔓延を抑え込むには、国民は行動の自粛を強いられても、我慢するより仕方ないところがある。しかし、年に一度の大型連休を楽しみにしている人たちにすれば、我慢しきれない思いがあろう。このことでは不意打ちを食らった、我慢くらべをこうむることとなる。
わが現住する神奈川県は、今回はこの宣言から外れている。しかしながら、我慢比べを強いられることでは、もちろんこれらの自治体と同類項にある。ときあたかも自然界は、一年じゅうで最も好季節を恵んでいる。もとよりそれを当てにして日本社会は、官民こぞって大型連休を仕組んでいる。ところが新型コロナウイルスは、まるで日本社会のこの期間の営みや享楽を妬(ねた)むかのように、さらなる感染力を日本列島に蔓延(はびこ)らせている。
さて、わが身体におけるワクチンの接種予約開始は、五月十日からと鎌倉市の公報で告げられている。同時に、二度にわたる接種会場間の往復の用立てとして、無料のタクシー券(四枚)が送られてきている。関係者の多忙と苦悩をおもんぱかれば、私は生来のへそ曲がりを矯(た)めて、素直に応じるつもりでいる。だから、なんとしてもそれまでは行動の自粛、いや蟄居生活(ちっきょせいかつ)に甘んじも感染を免れて、晴れてワクチン注射針を右肩に、ブスッと刺す心構えを固めている。
今朝もまた、すでに朝日が煌々とふりそそいでいる。わが自然賛歌は尽きない。もちろん、新型コロナウイルスは自然界の範疇(はんちゅう)には入らず、人間社会を無法に懲らしめる異界の魔物、なかんずくとびっきりの悪魔である。そうであれば人間の知恵で、新型ウイルスに負けてはならない。私もその決意を固めている。しかし、負けそうである。
夜明けは、いつもの好天気
四月二十四日(土曜日)、今朝もまた遅い起き出しである。いつもであれば文尾に書いている朝日の模様を、きょうは冒頭に書いてみる。似たり寄ったりの文章に、姑息な手段で変化をもたらすためである。
夜明けの空は、すでに朝日に明るく染まり、大気と地上は透明感のあるのどかな風景を醸している。開けっぴろげの前面の窓ガラスを通して見える、晩春いや初夏間近の清々しい朝の一コマである。いつもこんなことばかりを書いては、もちろん埒が明かない。それでも一つだけ言えることは、このところの夜明けが胸の透く証しにはなる。現在の私には、これを凌ぐおもてなしはない。
これまたいつもの常套句を用いれば、自然賛歌は尽きない。こんなにも長く、穏やかな朝日が続くことは滅多にない。まさしく、人間界が新型コロナウイルスに滅多打ちにあっていることおもんぱかっての、自然界の飛びっきりの癒しのおもてなしと、言えそうである。かつての「ありがたや節」を借りれば、「ああ、ありがたや、ありがたや!」と、口ずさみたくなる。
確かに、起き出しは遅くなったけれど、目覚めは早かった。そして、寝起きまでは文字どおり寝床に寝そべり、電子辞書を枕元の友にしていた。寝起きの気分は悪くない。しかし、そのため身体は疲れ切っている。ところが、いつもとはちがって自業自得の疲れとは言えない。なぜなら、わが承知の助の疲れだからである。
こんな身も蓋もないことを書いてトンずらしたら、わが身はなさけない。それを承知で私は、結び文と決めた。ほとほと、かたじけない。「男子、厨房に入るべからず」の成句は、現代社会には通用しない。台所に向かうのは、わがささやかな朝の営みである。
「生きるために食べている」
四月二十三日(金曜日)、こんな書き出しはどうでもいいことだけれど、今朝の私は「おさんどん」を先に済まして、階段を上がってきた。このことではこのところ続いていた寝坊助による心の焦りはなく、ゆったりとした気分には、ほんのりと余裕さえ感じている。
階段を一歩一歩のんびりと踏みながら私は、大それたことと、とるに足らないこと、すなわち二つのことを心中にめぐらしていた。前者は、世界社会に悲壮きわまりない難事をもたらしている新型コロナウイルスは、この先、いつ打ち止めとなるであろうかと、いうことである。一方後者は、現在のわが日暮らしから生じている、長年のわが考察における小さな結論である。
人間は「生きるために食べるのか」、それとも真逆に「食べるために生きるのか」。これは卑近なところで、これまで永遠に軍配を下ろしようのないわがケチな考察の一つと、言えるものだった。ところが、「案ずるより産むがやすし」の成句に準じて、私はあっさりと軍配を下したのである。結局、人間いや私は、「生きるために食べている」と、判定を下したのである。この判定の依拠するところはずばり、わが「おさんどん」である。すなわち、怠けてこの行為が沙汰止みになれば、妻共々にわが家の日暮らしは途切れて、その挙句私たちは、この先を生き続けることはできない。ちっちゃなわが体験によって私は、不意打ち的に長年のわが考察に判定を下したのである。そしてそれは、きわめて下種(げす)な結論だった。
私は、確かに「生きるために食べている」、と悟ったのである。いやいや、まだ「食べるために生きている」という、思いも引きずっている。だからやはり、今ではまだどっちつかずのわが永遠のテーマと、言えるのかもしれない。それでも結論は、いくらか「生きるために食べている」のほうへ傾いている。
寝起きの心に焦りがあろうと余裕があろうと、文章の出来は、おっつかっつである。幸いなるかな! 近くの山から、私を「馬鹿」呼ばわりするカラスの鳴き声はない。「早起き鶏(どり)」に代わって、ウグイスが朝鳴きを続けている。もちろんウグイスはカラスとはちがって、私を馬鹿呼ばわりなどせずに、わが寝起きの気分を癒してくれている。いやいや、そう思いたい!。
朝日は、今朝もまた煌々と照っている。わが自然賛歌は、尽きるところがない。私は、見得も外聞もなく餓鬼のように、ひたすら生き生き続けるために食べている。この先、生きる価値があるのかどうかは、「知らぬが仏(ほとけ)」である。それを知ったら、元も子もない。
「目覚めの、嗚呼、無情」
確かに、寝坊助が常態化している。四月二十二日(木曜日)、これまたこのところ定番化している表現である。それはこうである。すでに、朝日が煌々と輝いている。すなわち、夜明けはとうに過ぎている。今さらながらに私は、目覚めて寝床の中で、心中にこんなことをめぐらしていた。もちろん、わが体験上のすこしは当たる八卦、すこしも当たらぬ八卦のケチな考察である。目覚めて浮かんだ考察にすぎないから、もちろん優位差をつけようはない。
浮かんでめぐらしていたことは、文章を書くうえでの必須の要件(大事なこと)である。言うなれば、わが体験上の主たる三要素である。それらには、こんなことが浮かんでいた。すなわち、文章を書く意欲があること、語彙(言葉と文字)の持ち合わせがあること、常々ネタ(書く題材)があることなどである。単刀直入言えばこれらは、わが文章を書くうえでの必須の手立てである。そのため、これらに翳(かげ)りが見えれば、私の場合はおのずから文章が書けなくなる。すると、こんなことが心中に浮かんだことは、翳りが見えている証しであろう。なおかつ、それに慄(おのの)いている証しであろう。
やはり、三要素にあって、優位差(順位)をつけたい。すると、翳りの筆頭は、書く意欲の喪失である。ところがこれには、意欲を妨げるさまざまで多くの要因がある。一々、書き連ねることはできない複合の要因である。もちろん、必ずしも高年齢による書く意欲の衰えだけのせいだけではない。だからこのことは、きわめて厄介事である。
傾向的に語彙の翳りも、自覚するところはある。ネタ不足はすでに長年書き続けてきたことで、これまた自覚するところはある。しかしながら後者の二つは、大それた文章を書くわけでもないので、まだまだ凌げてどうにかなる。やはり、防ぎようのない決め手の筆頭は、日々忍び寄る書く意欲の喪失である。
きょうの文章は、なさけなくも「目覚めの、嗚呼、無情」である。ほとほと、みっともない。出遅れたことで、階段を跳ねて階下へ下りて、かつては「男子、厨房に入るべからず」の台所に立つこととなる。晩春における、寝坊助の朝の一コマである。
山は緑、ウグイス鳴く
四月二十一日(水曜日)、起きて窓ガラスを覆うカーテンを開ければ、新緑まぶしい季節にある。これにわが起き待ちのウグイスが喜んで、澄明(ちょうめい)な鳴き声を高音(たかね)で奏でてくれる。小鳥の鳴き声の表現の定番には、囀(さえず)るという、ものがある。しかしながらウグイスにかぎれば、この表現は似つかわしくない。なぜならウグイスの鳴き声は、あたり一面、いや遠方まで高らかにひびきわたる堂々たる鳴き声である。さらにはウグイスの鳴き声は、主に「ホーホケキョ」と、伝えられてきた。確かに、「ホーホケキョ」のひびきがずば抜けている。しかし、ウグイスの鳴き声は、これ一音ではない。一日じゅう、鳴き声に晒されていると、さまざまな鳴き声に遭遇する。まさしくウグイスは、さまざまに鳴き声の技術を磨いて、人心に癒しをほどこしている。もちろん、ひそかに囀るときもある。またあるときは、人間いや私にたいするエール(応援歌)さながらに、まるで進軍ラッパとも聞こえるほどに、高らかにひびいてくる。山のウグイスの鳴き声は、まさに金管楽器を嘴(くちばし)に当てたかのような、私にたいする飛びっきりの援軍である。
こんなウグイスにたいし、子どもの頃の私は、なぜか近所の遊び仲間たちと一斉に、「バカ」呼ばわりしていた。何たる、みずからの「馬鹿丸出し」であったであろうか。いまさら、悔いるところである。だから今では、忸怩(じくじ)たる思いと合わせて、その行為をつぐなう気持ちでいっぱいである。
なぜ? 当時の私たちは、ウグイスを「バカ」呼ばわりしていたのであろうか。遅まきながら自問するところである。たぶん、ウグイスの谷渡りの速さに驚いて、なかなかその姿をしっかりと目に留めることができない、腹いせのせいだったのかもしれない。「メジロ落とし」(山中に囮のメジロを入れた籠)のときも、ウグイスが間抜けて、やんもち(鳥もち)に引っかかることはなかった。すると、このことにたいする腹いせもあったであろうか。
しかしながら今では、ウグイスの知恵の強(したた)かさと、頭脳の聡明さに感謝しきりである。なぜなら現在の私は、日々ウグイスの鳴き声に憂鬱気分を癒されている。確かに、美的とは言えないけれど、あんなに細身、小ぶりのからだでウグイスは、人間界なかんずく私に、日々癒しの鳴き声をふるまっている。すなわち、山の緑は目に染みて、ウグイスの鳴き声は心に沁みて、私は寝起きに二重奏のエールを得ている。これらは、この季節にあって私がさずかる特等の心癒しの恩恵である。
幸いなるかな! 山際に住む私は、ウグイスの塒(ねぐら)と、同居するほどに近くいる。加えて、山の緑のまぶしさは、かぎりなく映(は)えてあざやかである。今朝も寝坊助をこうむり余儀なく、約二十分間の書き殴りに甘んじたけれど、まったく悔いはない。このところの二番煎じ、いや三番煎じの表現だけれど、私は懲りずに気分よく表現を繰り返している。煌煌(こうこう)と朝日が降りそそいでいる、晩春の夜明けである。
晩春の目覚め
四月二十日(火曜日)、今朝もまた寝坊助に陥り、慌てて起き出して来た。しかし、寝ぼけまなこではなく、瞼はすっきりと開いている。すでに覚悟を決めたせいなのか、文章執筆にたいする焦燥感は遠のいている。夜明けの陽射しは、昼日中とまがうほどに煌々と輝いている。山のウグイスは、朝っぱら高らかに美声を奏でている。自然界の恩恵にたっぷりと浴して、鎌倉地方はつつがなく一日の始動についている。いや、そう思うところである。
今朝の陽射しを見遣ればおそらく、日本列島くまなく同様に自然賛歌の夜明けであろう。これまた、そう思いたいところである。しかしながら、そうは問屋が卸さない。なぜなら、日本列島には新型コロナウイルスという、文字どおり魔界の魔物が再び勢いを増して、隅々に蔓延(はびこ)るさ中にある。だから正直に言えば、いつまで続くこの鬱陶しさである。
季節は晩春から初夏へとめぐっている。風薫るすなわち、薫風という季節用語が脳裏に浮かんでいる。季節に違(たが)わぬのどかな初夏の訪れを願っているけれど、実際のところ人間界は、季節の恩恵の後押しにすがり、まだまだ新型コロナウイルスとの闘いになりそうである。かえすがえす、残念無念である。
早春、初春、そして仲春を経て晩春にいたるこの春は、例年になくのどかな春日和に恵まれた。ところが人間心理は、必ずしも穏やかになれなかった。いやいや、新型コロナウイルスのせいで、日々恐々とするばかりだった。そしてこの先、なおその恐れ甚大である。そうであれば人間社会は精神一到、なおいっそう新型コロナウイルス退治の決意を固めどきである。万物の霊長と崇(あが)められる賛辞を、魔物に負けて捨て去ることはもったいない。いよいよ、人間の知恵の絞りどころである。
こんなケチな文章を走り書き、殴り書きしても、幸か不幸か気を揉むところはない。いや、間違いなく不幸である。
寝坊助は、わが宝物
四月十九日(月曜日)、今朝もまた寝坊助。このところ常態化しいて、もはや焦燥感はない。いやむしろ、余裕の起き出しである。起き出しの心に変化をもたらしているのは、二度寝ができないことで、悶々としていた頃がよみがえるからである。そのときに比べれば、どんなに気分の良い目覚めであろうか。起き出しが遅れて、文章の執筆にしわ寄せがくれば、休めばいいことだと、開き直りの心の救いがある。確かに寝坊助は、平平凡凡こそ、至上の幸いの実践とも言えるところがある。
先日の寝坊助にあたり私は、文章の執筆にたいする焦燥感を露わにして、嘆き文を書いて短く打ち止めにした。するとこれにたいしたちまち、大沢さまから「前田さん。寝坊助、また好し」という、激励文をを賜ったのである。これ以来私は、寝坊助を歓迎こそすれ、もう嘆くまいと心に決めた。「天佑神助」。捨てる神あれば拾う神あり。
今朝の起き出しは、六時二十五分頃。現在のデジタル時刻は、6:38。晩春を超えて、早や初夏を思わすさわやかな朝日が煌々と地上にふりそそいでいる。尻切れトンボなどには委細構わず私は、これで文章を結んで、階下の台所へ急ぐこととする。確かに、こんな凡事が長く続けば、案外至上の幸せと言うべきであろう。なぜなら、きわめて気分良好の朝の訪れに、私は嵌(は)まっている。
愚痴こぼし、諦念
「ひぐらしの記」において私は、常々愚痴こぼしが尽きない。わが生来の性癖につきまとう、確かな悪癖である。だから、防ぎようのない恥晒しと、自認するところである。恥晒し打ち止めの唯一の便法は、もとより文章書きの打ち止めである。ところが、これを実践すればそれはそれで、心中の空虚感にさいなまれる。結局、これまでの私は、文章書きを続けるか、それとも止めるか、この鬩(せめ)ぎ合いのなかに、薄弱な意志を置いてきた。さらには優柔不断の性癖が加わり、これまで決着をつけられずにきた。このことをかんがみればわが愚痴こぼしは、おのずから意志薄弱の祟(たた)りと、言えそうである。
今さらながらだけれど顧みれば、「ひぐらしの記」はわが生涯学習の実践の場である。そしてこれは、大沢さまのご好意により誕生したものである。このことでは、私はなんという幸運児であろうかと、常に感謝の尽きるところはない。このご好意に報いるわが恩返しは、継続と同時にできるだけ明るい文章を書くべしと、わが肝に銘じてきた。しかしながらそれは叶わず、わが文章は愚痴こぼしまみれにある。言うなればわが愚痴こぼしは、もとより「身から出た錆」であり、わが身にべったりと貼り付いて、まったく剥がしようのない柵(しがらみ)である。
わが掲げる生涯学習とは、「語彙(言葉と文字)の復習と、新たな学びである。そのため私は、初志の忘却を防ぐためにこれまで繰り返し、こんなことを書き連ねてきた。これまた愚痴こぼしと同様に、恥を晒し続けてきたことである。もちろん、自戒すべきことだとは知り過ぎている。それでもことあるたびに書かずにおれないのは、わが性癖の貧しさの証しである。
確かに、六十(歳)の手習いの文章は、わが能力をはるかに超えてきわめて重荷である。いや、語彙の生涯学習自体、絵空事(えそらごと)のごとくにとうてい叶わない願望である。もとより、新たな学習などは一切望めず、もっぱら忘却防止の願いにすぎない。確かに現在の私は、語彙の忘却傾向に晒されている。この挙句に私は、忘却に立ち向かう防戦一方を強いられている。防戦の武器は唯一、枕元に置く電子辞書である。電子辞書の携行が叶わない場合は、脳髄に語彙を浮かべての復習の試みである。これなど、忘却に立ち向かうわがささやかな抵抗である。
寝坊助を免れて早起き鳥になっても、こんな文章しか書けない。きょう(四月十八日・日曜日)もまた懲りずに、私は愚痴をこぼしている。愚痴こぼしは、今やわが確かな宿痾(しゅくあ)なのであろう。電子辞書を開いた。【宿痾】「長いあいだ治らない病気。宿病。宿疾。持病。痼疾」。
「バカは死ななきゃ治らない」という。わが愚痴こぼしは、明らかにこの成句の範疇(はんちゅう)にある。「論より証拠」、なさけない。きょうもまた、嗚呼、ああ……。
嗚呼、ああ……
書くこともない、書きたいこともない。年を取るということは、こうもつらいものかと感じている。すなわち、自分が年を取れば優しい、身内、友人、知人、すべてが年を取る。それが身に染みて、心に沁みてつらいのである。
こんな下種(げす)な文章を書いたとて、自分自身は認知症状を感じていない。しかし、傍(はた)から見ればどうであろうか。四月十七日(土曜日)、けさもまた寝坊助をこうむり大慌てである。どんよりした曇り空の夜明け訪れている。嗚呼、ああ……。