ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
雨が降りました
「8月盆」送り日(火)の(8月16日・金曜日)にある。現在のデジタル時刻は、4:15と刻まれている。接近中の台風7号のもたらす雨とはいえ、待望久しき雨の夜明け前にある。明日にでも襲う台風の脅威はさておいて、私は雨の夜を心底より歓迎している。どれほど毎日、雨を恋い焦がれていたことだろう。ところが、台風のもたらす雨になるとは、わが不断の行いが悪いせいであろうか。それでも構わないけれど、台風は事無きで過ぎ去ってほしいと願っている。
きょうの文章は、雨降りの事実を記し得たことで十分である。だからこの先は、単に記録に留め置くものである。すでに旧聞になるけれど、「パリオリンピック」における、日本すなわち日本代表選手の活躍は、各競技において目覚ましい成績を残した。オリンピック憲章の真髄は、まさにこれ「参加することに意義がある」。しかし一方、競技会特有に対抗、対外、もとより国別の対抗試合を成している。だとしたらやはり、競技会の成績を表す順位付けは、悪とは言えず必要であろう。確かに競技会において、成績に応じた順位付けがなければ技の競い合いはなく、もとより興趣、感興共に湧かず、あえて競技をしたり、それを見る価値もない。パリオリンピックにかぎらず、過去、現在、そして未来へ繋がる夏季および冬季オリンピックは、究極のアスリート(競技者)の技の競い合いと順位付けの祭典である。そして晴れの順位は、メダルを授けられて等位を表し、1位金メダル、2位銀メダル、3位銅メダルとなる。これらに次ぐ表彰には、8位までとされる「入賞」がある。以下は、今回のパリオリンピックにおける、国別メダル獲得数(10位までで省略)である。メダル獲得数においては、金、銀、銅のトータルがある。ところが、当局が公表した順位付けは、金メダルの獲得数を元にランキングされている。ゆえにこれによれば、日本は第3位にランクインしている。また、トータルでも6位に位置している。胸の透く素晴らしい成績である。
金銀銅トータル
1位アメリカ 40 44 42 126
2位中国 40 27 24 91
3位日本 20 12 13 45
4位オーストラリア 18 19 16 53
5位フランス 16 26 22 64
6位オランダ 15 7 12 34
7位イギリス 14 22 29 65
8位韓国 13 9 10 32
9位イタリア 12 13 8 33
9位ドイツ 12 13 8 33
夜明けて視界一面、どこかしこ水(雨)浸しである。私は一層多量の雨をもたらす台風7号を恐れている。
終戦記念日
「終戦記念日」(昭和20年・1945年、8月15日)。79年過ぎて、令和6年・2024年、8月15日8木曜日)の夜明けの朝を迎えている。雨なく朝日輝いて、昼間になれば戦雲消えた当時の空のごとく、真夏の炎天が訪れそうである。当時の故郷(熊本県)の空と一つだけ異なるのは、異郷(神奈川県の空に台風7号が近づいていることである。確かに、台風の猛威は激しく脅威である。しかし、自然界現象には逆らえない。確り耐えて、過ぎ去った後の「台風一過の日本晴れ(青空)」に胸をなでおろすしかしかしようがない。そして、台風のもたらした惨禍は、やがて人の手でととのえられる。ところが、戦雲消えた後とはいえそうはいかず、日本国民はこののち長く様々な戦後復興の営みを強いられた。
戦時下生まれで終戦時の私の年齢は、5歳とひと月(1940年7月15日誕生)だった。もちろん、日々警戒警報や空襲警報に怯えて、何度か防空頭巾をかぶり防空壕へ走っていた。それでも子ども心は天真爛漫に、わが家の裏戸近くを流れている「内田川」で、水浴び、水遊び、魚取りに興じていた。僅か5歳にすぎなかったとはいえ、異変すなわち戦時下の出来事や生活は、今なおありありとよみがえる。そして、長く生きてきた現在(84歳)にあっては、なんだか溜息をつくばかりである。それは幸運の溜息なのか、それとも嘆きの溜息なのか。いや、どっちつかずの溜息であろう。できれば幸運の溜息をついてこの先、片手の指の数にさえ満たないほどの年数を重ねて、めぐり来るであろう「終戦記念日」に私は、終止符(ピリオド)を打ちたいと願っている。
セミに「早く代われ」と急かされて、まだウグイスが鳴いている。
手に負えない夏
人間界は「八月盆」の最中にある(8月14日・水曜日)。「パリオリンピック」のテレビ観戦を終えて、現在のわが関心事は、「干天の慈雨」を望む日々にある。雨が降った日の記憶はすっかり忘却し、そののち雨無しの日はもう何日間続いているだろうかと、数え知ることもない。私のみならず山の木々、庭中の夏草なども含めすべて、一雨を待ち望んでいる。それでも夕立はおろか、一滴の雨さえ降らない日が続いている。そうこうしているうちに、台風7号が近づいている。わが雨願いは、飛んだとばっちりをこうむりそうである。
雨無しの日が続いているこの間、私はうんざりする高気温に晒されてきた。しかし、夏特有の気象ゆえに、日々耐えてきた。ところが、耐え忍び難い地震の恐怖もまた、今なお現在進行形にある。この夏にあっての私は、例年になく「手に負えない自然界現象」に打ちのめされている。おのずからわが心身は疲弊している。ゆえにこの夏にあっては、わが不断の自然界賛歌は傷ついて、ただ恨めしいばかりである。わが慈雨願いが台風のもたらす豪雨にすり替わるのは、巨大地震すなわち「南海トラフ」の前触れでもあるのであろうか。わが好む季節の夏は、ことしにかぎれば日々、自然界のもたらす恐怖に晒され続けている。
夜明けてきょうもまた、雨の兆しの見えない、朝日が輝いている。台風7号の上陸に怯えて、ようやく雨降りの願いが叶うことには、ほとほとなさけない。セミだけはどんな夏であっても喜んで鳴いて、短い命を台無しにすることはできない。一方、ウグイスはうんざりして、早やじまいの夏になりそうである。ただ、私はこの先、まだ耐え忍ばなければならない。
生存の証しの文章
「山の日」(8月11日・日曜日)。これにともなう「振替休日」(8月12日・月曜日)を含めて、三連休明けの(8月13日・火曜日)を迎えている。私は前月(7月30日)に文章を書いて以降、月が替わり今月(8月)になってもきのうまで、文章は休み続けていた。気づくと、きょうは「八月盆」の入り日にある。この間、夏の季節は変転し、私は浦島太郎の気分にある。
「パリオリンピック」はきのう閉幕した。この間にあって私は、深夜あるいは朝方にかけて、各種競技のテレビ観戦に興じていた。おのずから文章書きは割を食って、沙汰止みを続けていた。予期していたことであり、もとより文章の途絶えに悔いるところはない。しかしながらやはり、これまた予期していた現象に見舞われている。すなわちそれは、休み癖に取りつかれて、現在は「もう書きたくない、もう書けない」という、渦に晒されている。これこそ、わが恐れていた「惰性の頓挫」である。そのためこの文章は、再始動の火付け役をになっている。ぶすぶす燻るのか、それとも燻ることなく消えるのか。わが心象のことなのに、どうにもしがたく、顛末を恐れている。
パリオリンピックのテレビ観戦で休んでいた間、私的には気鬱に陥る出来事に見舞われた。世の中にあっては地震(主に宮崎県や神奈川県)、いや総じて「南海トラフ」騒動、加えて夏特有の高気温とそれにともなう熱中症への警告が連日、テレビ画面にテロップで流れ続けていた。そしてきのうは、台風5号の東北地方(主に岩手県)への上陸報道が入り込んで来た。台風は各地に大雨(洪水)被害をもたらしていた。歴史的惨禍では、広島原爆の日(8月6日)、長崎原爆の日(8月9日)にとなう、例年の式典がしめやかに行われていた。一方、「夏の高校野球大会」(兵庫県・阪神甲子園球場)が開幕し、連日熱戦を繰り広げている。
文章を休んでいたのは、二週間ほどにすぎないのに、私生活および世の中の動きは、変転きわまりなく、わが心象風景はやはり「今、浦島太郎」状態にある。きょうもまた夜明けは晴れで、雨の降らない日が何日も続いているだろう。興じたパリオリンピックのテレビ観戦を終えて、この先のわが心象は恐々として怯えている。いやもはや、生きていること自体、恐ろしいことばかりである。
体操男子団体戦、「体操金メダル」
7月30日(火曜日)。青く日本晴れの夏の朝が訪れている。きょうは以下のことだけを書いて、それを記録に留めて指休めを決め込んでいる。昨夜は3時過ぎまで、「パリオリンピック」の競技のテレビ観戦ののち、慌てて床に就いた。競技のテレビ観戦のメインは、体操男子団体戦だった。この試合で日本チームは、最終競技の「鉄棒」で中国を逆転し、悲願の金メダルに輝いた。金メダルは日本、銀メダルは中国だった。今の私は心地良い、寝不足に陥っている。
スポーツチャンネル、大盛況
7月29日(月曜日)。雨の無い夜明けが訪れている。ウグイスが鳴いている。今、「パリオリンピック」のフェンシング男子個人戦における、加納選手の金メダルの表彰式を見終えて、二階へ上がってきた。寝不足のため、この先の文章は書けず、沙汰止みを決め込んでいる。
きのうのテレビチャンネルには、あちこち交錯してスポーツ番組が組まれていた。浮かぶままに書けばこれらである。大相撲名古屋場所千秋楽。プロ野球、私がテレビ観戦した試合では、阪神タイガース対中日ドラゴンズ戦。高校野球の地区予選決勝戦。アメリカ大リーグにおける大谷選手の出場試合。そして、やはりメイン番組では、「パリオリンピック」における様々な競技の実況放送。
オリンピックでは主に、女子バレーボールにおける、日本対ポーランド戦を観た。だけど、ほかの競技も垣間見た。大相撲では横綱・照ノ富士が優勝した。タイガースは11回裏で、サヨナラ勝ちをした。女子バレーボールはにあっては、日本チームは敗れた。まったく観なかったのは高校野球と、大リーグの試合だった。こんなことを記して、結び文とする。またまた、階下のテレビ桟敷へ駆け込むためである。かたじけなく、心中、詫びている。
「パリ・オリンピック」における、テレビ観戦の心得
7月28日(日曜日)。きょうもまた雨なく、のどかに晴れた夜明けにある。わが夏の朝の礼賛は続いている。アスリート(競技者)とはズバリ、スポーツなどの身体運動などを通して、文字どおり技を競い合う者たちを言う。ゆえに、スポーツマン、スポーツ選手、運動選手など、呼ばれている。しかしながら私の場合、この呼び名のニュアンス(響き)は、長年鍛え上げてきた技の持ち主にたいしてだけ、崇めて言いたいところがある。
いよいよわが夫婦には、待ちに待っていた「パリ・オリンピック」のテレビ観戦が始まっている。4年ごとに行われる夏季・冬季のオリンピックは、まさしく世界中のアスリートが長年鍛え上げてきた技を競い合う(競技)、華ある世界大会(大祭典)である。だったら、テレビ観戦とはいえ、観なければ大損である。世界の国々から選ばれ晴れて、オリンピックに出てくるアスリートたちには、物心ついて以降長年、技を鍛えてきた人もいよう。あるいはオリンピックを見て、一念発起してみずからの得意技を究めて、ほぼ同意語を用いればすなわち悲願と宿願を果たして、出場が叶った人もいよう。総じてこれらの人たちにたいして、メデイアが「メダル(金銀銅)一辺倒」騒ぎに陥ることには、腹の立つところがある。しかし一方では、この騒ぎがあってこそ、オリンピック自体、盛り上がることも事実である。競技会であればやはり、金銀銅の順位づけはなくてはならないと認めて、栄冠を授けて勝利者を称えなければならないところはあろう。
きのうのわが夫婦のテレビ観戦は、ほぼ男子バレーボールの日本対ドイツ戦に終始した。試合はセットカウント2対3で、日本は惜敗した。ところが、15点マッチの第5セットも最後まで点の取り合いの末に、日本は負けたのである。しかし、この試合は予選リーグの一試合ゆえに、この先の相手(アメリカとアルゼンチン)との勝利しだいでは、息の根はまだ残されている。
ときたま、柔道、水泳、バスケット、ハンドボールなど、まさしく入り乱れてのテレビ観戦が続いた。私は日本代表選手における、メダル獲得者(勝利者)だけに拍手喝采することは慎み、さらには世界のアスリートの技を堪能したいとも思っている。しかしながらこのことは、絵に描いた餅すなわち、「言うは易く行うは難し」である。なぜなら私は、泰然自若の聖人君子ではなく、メデイアに煽られて見境なく食いつく、ダボハゼみたいなものだからである。「パリ・オリンピック」のテレビ観戦の心得は戸惑うばかりである。
通院代わりの「昼カラオケ」
7月27日(土曜日)。このところ雨の無い夏の朝が続いている。夏風邪ならぬ、夜明けの夏風は爽やかである。おかげで、気分良く起き出している。ところがネタなく、文章はようやくネタを拾って、書き殴りで様にならない。恥を晒してやっとこさ、戯れの文章を書いている。こんなことでは、継続文の足しにはなりそうにない。
きのうは何年かぶりに初見のスナックが営む「昼カラオケ」へ、妻を引率同行した。炎天下、歩いては立ち止まり、また歩いた。大船(鎌倉市)の昼中、かなり長い距離をかなりの時間をかけて、あちこち一見のスナックを探し歩いた。途中には一度、違うスナックのドアを開けるへまをしでかした。目当てにするスナックの名は、妻頼りだった。
この日の妻は、カラオケ仲間のご婦人(91歳)との出会いだった。カラオケ仲間と言っても、もう何年もご無沙汰であり、この間に互いに年齢を重ねていた(妻は、9月で81歳)。私たちは数あるスナックの中から、目当ての店を探しあぐねていた。スナックばかりが入っている一棟建てビルの中に、目当てのスナック名を探し当てたのは妻だった。
エレベーターで二階へ上がり、昼とはいえ異質の雰囲気を保つ、飲み屋(スナック)の重たいドアを押した。ドアを中から開いた店主(中年の女性経営者)と、妻が言葉を交わし、私たちを明かりの灯る、それでも暗い店内に招じ入れた。妻が出会う人は、すでに店内に居られたのである。
このスナックは、その人の馴染みであり、週に何度か通われているという。私は初対面の挨拶を交わすと、妻とご婦人が並ぶところからは離れて、独り隅の方に着座した。カウンターには二人の高齢の男性が座り、ひとりがマイク片手に歌っていた。私は無理して瓶入りのノンアルコール一本を注文した。しばらくするとそれに、手作りのお通し(摘まみ)が添えられて、運ばれてきた(帰りの支払いは1600円)。
カウンターの男性たちは、交互に切れ目なく歌われていた。しばらくするとご婦人が歌われた。年齢そっちのけに美声である。いつも私の役割は、見知らぬ人の歌お構いなしに、そして上手下手にかかわらず、「手たたき」である。二人の男性、そしてご婦人は馴染みの店らしく、自分の名入りのウイスキーボトルを前に置かれていた。
妻は『悲しい酒』など、何曲かを歌った。スナックで聞く妻の歌は、何十年ぶりかもしれない。やはり妻は、特等に歌が上手い。カウンターの男性はその都度、手を叩いて振り返り妻を見遣った。上手の合図のしるしである。
2時間ほどいたけれど、私は1曲さえ歌わず、手たたき屋に徹した。それは、歌が下手だからである。一方、妻褒めを許していただければ、これまで私が聴いた素人の歌の中では、やはり妻が一番上手いと、この日も確信したのである。
「わたしたち、5時までいるわ」
私は買い物を理由に4時頃店を出た。
妻は6時半頃にわが家へ帰って来た。開口一番私は、
「やはり、おまえは上手いなあ……」
と、言った。
妻は満面に喜びの表情を浮かべて、
「パパも上手いんだから、歌いなさいよ。歌っていた男性より、パパがはるかに上手じゃないの」
昼間の炎天の夏は、穏やかに和んで夕暮れた。
重宝している三つの人工補助器具
7月26日(金曜日)。薄っすらと夏の朝が明け始めている。開いた窓ガラスから吹き込む風は、早や秋風と言っていいくらい、冷えてさわやかである。夏の朝の快さは、自然界の恵みの上位に位置している。これに反して自然界の脅威と言えば、きのうのテレビニュースは、山形県と秋田県における、ある地域の大雨による洪水被害(災害)状況を映していた。また、テレビ画面の上部には、群馬県では雷、茨城県では竜巻、そして千葉県では、地震にかかわるテロップ流れていた。全国的には、熱中症への警戒警報報道の盛りにある。
夏至(6月21日)から一か月余りが過ぎて、見た目また体感的にも夜明けが遅く、夕暮れが早くなっている。季節はすんなりと巡っている。ままならないのは、わが生き様である。起きて、ネタ探しにあぐねて私は、こんなことを浮かべていた。そして、何でも書いていいから書いて、文章の頓挫を免れようと決意する。
現在、私は、人工の器官補助器具として、三つ(三か所)さずかっている。すなわち、目にはメガネ、歯には入れ歯、耳には補聴器である。これが一番、それが二番、あれが三番などと、優位差などつけようなく、どれもが一番である。もちろん、どれもがきわめて有効であり、これらが無くては、わが人生の愉しみは無に等しいほどに、減殺(げんさい)されるものばかりである。人間すなわち、他人様(ひとさま)の知恵にさずかり、わが人生は無類の愉しみにあずかっている。だから、ときにはこんなことを書いて、人間の知恵を崇めることは、まんざら馬鹿げたことではないであろう。
私の場合、ビールをはじめとするアルコール類は、年じゅう一切無用である。ところが先日、妻のこの言葉に応じて付け足しに、朝日の生ビール缶一本を買って来た。
「パパ。エダマメ、食べたいね。茹でた、冷凍の物、買って来てよ」
「食べたいなら、買ってくるよ」
エダマメとビールは、赤飯とごま塩みたいに、対(つい)をなす飲食物である。好物ではないとはいえビールは、流れるごとく喉を通過した。ところが、前歯の一本が欠けたままにほったらかしにしているせいで、小粒とはいえエダマメは、喉を通すのに往生したのである。すると、このとき感じたのは、入れ歯の効用だった。
いよいよきょうあたりから、「パリオリンピック」のテレビ観戦が始まる。だけど、メガネそして補聴器がなくては、ゴキブリのテレビ観戦みたいなもので、暗闇でゴソゴソするばかりである。ネタ無しの文章は自分自身面白味がなく、これでおしまいである。遅出の朝日が輝き始めている。
生きている証しの報告書
7月25日(木曜日)。のどかな夏の夜明けが訪れている。自然界が人間に対し恵む、醍醐味の一つである。夏の夕暮れもこれに加えて、醍醐味の一つである。とりわけ夕立が去った後に、しだいに夕暮れに向かうどきの外気の爽やかさはたまらない。総じて、夕暮れどきの「夕涼み」の爽やかさは、格別の夏の恵みである。しかしながら一方、昼間の夏は、真夏日、猛暑日、さらには熱中症などの言葉を添えられて、人間界に散々嫌われる。また、熱帯夜という夏特有の嫌われる言葉もある。
きのうの私は、(熱中症に罹ったかな?)と、思える身体症状に見舞われていた。それは、頭痛がともなう自己診断だった。ところがそれは、幸運にも藪医者もどきの誤診だったようである。なぜなら、起き立ての現在、身体からその症状は消えている。しかし、今なお自重するところはある。
一つは、きょうの朝の道路の掃除は控えている。一つは、文章書きも控えている。この文章は、文章から離れて「生きている証しの報告書」にすぎない。本当のところは、この文章さえも休むつもりだった。
ところが、一つの懸念が後押しをしたのである。それは、「フランス、パリオリンピック」にかかわるものだった。いよいよパリオリンピックは、明日(7月26日)からテレビ観戦が大わらとなる。競技にかかわるリアル(生)の放映は、日本の場合はおおむね夜間から朝にかけてと言う。するとおのずから時間帯は、わが二つの日課すなわち、朝の道路の掃除と文章書きと重なることとなる。掃除はテレビ観戦ののちに延ばしても、一方の文章は沙汰止みになりそうである。これを恐れてきょうは、こんな文章を書いただけである。すなわち、実のない自己都合の文章にすぎない。かたじけなく、詫びるところである。