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明けましておめでとうございます

坂本弘司撮影

憧憬(あこがれ)

十一月九日(土曜日)。ほぼ、通常(定時)の起き出しにある(5:23)。日長の頃にあっては大慌てでかつネタなく、行き当たりバッタリに指先の空打ちを交えて、走り書きと殴り書きのコラボ(ダブルの作業)に狂奔していた。しかし、現下の夜長の季節にあっては、こんな心境は免れて、不断にも増してのんびりと、キーボードを叩き始めている。もちろん、執筆時間に余裕があるためである。すると、いつもの寝起きの定例文章など撥ね退けて、私は突拍子なことを書きたくなっている。毎年、年の瀬が近くなると、通例のことしの「流行語大賞候補」がほぼ出そろい、人々は関心を持ってその決定を待っているところである。今やこれは、日本社会におけることしの終わりかけを感ずる、文字どおりの年末の風物詩ともなっている。これにちなんでわが選ぶとすれば、候補に有る無しは知らないけれどこの言葉である。それは国内外の野球界において、希代の名選手・大谷翔平選手(現在、アメリカ・ドジャーズ球団所属)が言ったこの名言である。「憧れるのをやめましょう」。このあとは曖昧なわが記憶を恐れ、そしてそれを正すために、スマホに記述の文章をそのまま下記するものである。著作権にふれるかどうかなど、わが知ったこっちゃない、引用である。大谷選手は、エンゼルスのマイク・トラウトやドジャースのムーキー・ベッツら名選手の名前を挙げ、「憧れてしまっては超えられないんで。僕ら、今日、超えるために、やっぱトップになるために来たんで、きょう一日だけは彼らへのあこがれは捨てて、勝つことだけを考えていきましょう」と発言しました。この言葉は、試合に勝つためには憧れる人を超えなければならないという大谷選手の考えを示したもので、言葉通り日本は3-2で逆転勝ちしました。また大谷選手は母校である花巻東高校の恩師である佐々木洋監督の言葉、先入観は可能を不可能にする」を座右の銘にしています(中日スポーツ)。わが追記。再記すれば、「憧れるのをやめましょう」。この言葉は、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で、日本代表チーム「侍ジャパン」の一人として、大谷選手が参加したおりの発言である。このときの大谷選手は、いまだドジャース球団への移籍前であり、NPB(日本プロ野球機構)から離れてアメリカへ渡り、最初の球団「エンゼルス」に所属していた。私は高橋弘樹様の豊富な能力、物事への執拗は探求心、お仕事柄による様々な文明の利器の使いこなし、そして文章(力)の冴えには常に、憧れを抱いている。大谷選手の言葉を借りれば、まさしく「憧れてしまっては超えられないんで」である。私は、高橋様の万能ぶりに憧れている。憧れは憧れ、憧れて損することは何もない。本当のところはこのことを書きたくて、大谷選手の名言を引用したのである。世の中にあって、大谷選手に憧れない人はいないはずである。なぜなら、「憧れを損だ」と、感ずる人はいないはずである。立冬の季節へ入り、確かに肌身に沁みて寒気は増している。つれて夜明けの日本晴れは、いっそう青く澄み渡っている。

☆前田静良氏☆世の中の多様性に御対応☆本日の『ひぐらしの記』☆

本日の☆『ひぐらしの記』☆は、世の中の多様性に御対応された『3つの話題』の内容で展開されて、盛りだくさんが大好きなぼくにとっては、”読み応え有り”の嬉しい☆『ひぐらしの記』☆となりました!!!
第1は、”立冬=木枯らし一号”の図式で、冬の訪れとともにの北寄りの風で、ぼくもビックリ!! しました。
第2は、アメリカ大統領選挙の結果です。
ぼくも前田さんと同じく民主党のハリス副大統領を応援していたのですが、ナント!! ナント!! 共和党のトランプ前大統領が当選となり愕然としてしまいました!!
トランプ氏は、報道されている通り、「アメリカ第1主義、同盟国軽視」の政策の方ですから、「ウクライナの事を支援しない、NATO(=北大西洋条約機構)なんかどうでもよい」なんてことになりますと、ウクライナがロシアに敗北する可能性もありますし、ロシアのプーチン大統領と裏の世界では仲が良い、との事情もありますので、これからの4年間は日本を含めた世界は、とんでもない事になるのではないか!! と”大懸念”しております!!
第3は、♪ふるさと産新米♪についてですが、前田さんの御嬢様にも届くように手配されて、♪前田さんの心優しさ♪が読者にも届く内容となりました。
以上の点から、☆読者が大喜びする盛りだくさんの☆『ひぐらしの記』☆となっておりますので、これからも堂々とお書きになっていただきたい、と思っております。
本日も前田さんへ☆大大大エール☆を贈ります☆(^O^)/☆(^O^)/☆(^O^)/☆(^O^)/☆(^O^)/☆(^O^)/☆(^O^)/

「立冬」に浮かんだ、ごちゃまぜの三つのネタ

語呂のいい「晩秋」という言葉には、それだけで詩情があって、わが好む言葉の範疇にある。しかし、きのうの「立冬」(十一月七日・木曜日)を境にして季節が変わり、おのずからこの言葉も遠のいた。このことでは、いくらか残念無念である。いや、言葉だけではなく立冬を境に、本格的な寒気の訪れが肌身に沁みて無念である。季節に追めぐりにたいして一々、無念などとほざくのは私に詩心がせいであろう。こちらこそ、確かな残念無念である。きょう(十一月八日・金曜日)の夜明けの天気模様は、まだ知ることはできない(5:32)。ところが、寒気が肌身に沁みて、いよいよ寒気の訪れの自覚は十分にある。寝起きにあっては、いつものようにネタ探しをめぐらしていた。すると、これまたいつものように、まったく浮かばない。それでも私には、書かなければならない寝起きの日課がある。だから、パソコンを起ち上げるとしばし、心中でネタ探しを試みていた。すると、ごちゃまぜに、三つも浮かんだのである。ごちゃまぜだが、我楽多(がらくた)とは言えない。きょうは一つでいいから、もったいなくて、あしたとあさってへ、とって置きたい心境にある。だけどやはり、ごちゃまぜの良さもあり、箇条書きのごとくに、三つを書き連ねるものである。それらは、きのう(立冬)めぐり合わせたそれぞれの事情(事柄)である。先ずはこれこそ、立冬に合わせたかのごとく伝えられた国内(季節)事情である。きのうの気象予報士は、こう伝えたのである。「東京ではきょう、木枯らし一号が吹きました。去年より六日(気象庁は一週間と伝えている)ほど早いです」。これを聞いて私は、何たる季節の妙、さらには机上カレンダー(先人の知恵)の正確さだと、唖然としたのである。次には、長く世界の人々の関心事だった世界事情の結末である。すなわちそれは、きのう伝えられてきたアメリカ合衆国における大統領選挙の結果である。それによると共和党・トランプ候補が、民主党・ハリス候補に勝利し、返り咲きで二度目の大統領に決まったことである。こちらはそっけなく、結果だけを記しておけばこと足りる。さて最後、三つめはわが家にかかわる事情である。もとよりこちらは、そっけなく済むものではなく、あまた書き添えたくなるうれしい事情である。きのうの夕方にあって、ふるさとから今年度産新米の第一便が宅配されて来たのである。三十キロ入りの馴染みのコメ袋を肩に担いだ配達人は、重たくて息を弾ませながらも笑顔を湛えて、上がり框(かまち)に降ろされた。私たちは夫婦こぞって、お礼の言葉を述べた。荷送り人へのお礼の言葉は、私が先にスマホにしがみついて電話をかけた。耳にする声の受話器を持つのは、亡き長姉の長男(甥っ子)である。私から代わった妻もまた、お礼の言葉と互いの近況交歓に長々と話し続けていた。わが家の米は甥っ子の手を煩わして、ふるさと産米の購入にすがっている。これには数々の理由があるけど、すべてはわが一方的理由である。すなわち、ふるさと産米の美味しさ、さらには配達料を含めて、価格の安さはなどには頓着せず、もっぱら郷愁やふるさと慕情の薄らぎや決別を恐れてのことである。これにはこんなわが思いも絡んでいる。それは、わがふるさとに馴染みのないひとりっ子(わが娘)が、わがふるさとを偲んでくれるのを願って、娘宅へも無償の同時配達である。おやおや、三つのことをごちゃまぜに書いてしまい、またまた長い文章になっている。だから、尻切れトンボを恥じず、ここで書き止めである。ネタ無し、ネタ有り、共に文章は、私には手に負えない。立冬、確かな寒気の入り日である。なぜなら、きのうの夜明けの頃は、寒さは感じなかったけれど、昼過ぎから一気に冷え込んだのである。そのあおりを食って現在の私は、寒さでブルブル震えている。前面の窓ガラスを通して眺めている大空は、晩秋の日本晴れに変わり、日本晴れだが鉛色を帯びて、確かな冬空である。

蘇る父の言葉

 今朝の「ひぐらしの記」に「あんぽんたん」という言葉が出て来て、ふと、父のことが偲ばれました。父がこの言葉を使うときに口元に浮かべていた「からかい」に似た笑みを思い出したのでした。父はこの言葉に「底抜け」を付け足し、「おまえは、あんぽんたん底抜けだな」と言いました。その言葉よりもきつい言葉に「だらすけ」がありました。こちらは本当に「馬鹿だな」と呆れ顔で言われ、「あんぽんたん」よりも傷つきました。
 今となってはもう聞けない言葉ですが、限りなく父が恋しくなりました。

机上カレンダーが恵んだ「立冬の日本晴れ」

未だ夜の静寂(しじま)にあって、目覚めとほぼ同時に起き出している。補聴器を嵌めた耳には、雨の音、風の音なく、肌身に寒さはまったくない。洗面と歯磨きを済まして、電気(電池)ひげ剃りで顔面のひげ(髭、鬚、髯)を剃り終え、パソコンを起ち上げている。ひげ剃りには片手に、手鏡を持っていた。老いさらばえて皺くちゃの顔面を見るのは辛かった。けれど、いい年をして悔やんでも、どうなることでもない。早起きは三文の徳とは言えない。山の「早起き鳥」に代わる、愚かな起き出しである。しかしながら、一文くらいの徳はある。それはたっぷりと時間があるために、キー叩きに焦ることがないことである。こんなのんびりとした心境をたずさえて私は、パソコンを起ち上げる前にはいつもよりもっと長く、机上カレンダーに眼を凝らしていた。私にとって机上カレンダーは、机上に置く電子辞書と共に、わが文章書きにおける大切な役割をになっている。なぜなら、私にとっての机上カレンダーは、単なる曜日の確認にとどまらないところがある。それはネタ探し、すなわち取材行動をしない、代わりの役割である。机上カレンダー、実際には手のひらサイズほどにすぎない。それでもそれには、椅子に座したままにネタにありつけるところがある。なぜなら、これには単に曜日の羅列だけではなく、日本社会における日日(にちにち)の「行事」(歳時)が記されている。ゆえに、じっと眺めていると、カレンダーが紡ぐ「人生物語」が髣髴(ほうふつ)するところがある。これこそ、机上カレンダーにさずかる、わがネタ探しである。さてきょうは、滅多に出合えないネタにすがることができたのである。いや、滅多にと、言うには誤りがある。なぜならきょうは、一年に一度(十二か月、紙十二枚)、記されている「立冬」(十一月七日・木曜日)である。立冬、あえて机上の電子辞書にすがることもないけれど開いた。「立冬:二十四節気の一つ。太陽の黄経225度の時。冬の始め、太陽暦の11月7日頃」。太陽の営みのことなど、安本丹(あんぽんたん)の私には、まったく珍紛漢(ちんぷんかん)だけれど、きょうにかぎればこんな恩恵に浴している。それはネタ無し補う、格好のネタにありついていることである。立冬とは、夏が過ぎてこのあと、初秋、中秋、そして晩秋へとめぐってきた秋が終わり、いよいよ冬への季節変わりを表している。寒さ嫌いの私は、立冬の文字を眺めているだけで、心象風景は寒々しくなる。いよいよ冬の季節に入り、この先のわが日暮らしは、どうなるであろうか。きょうから戦々恐々するばかりである。きのうの文章にあって私は、晩秋という語呂の良さと、実際にも気候の良い晩秋を称えて、未練がましく表題だけに「晩秋の空に映える、柿の生る風景」と記したのである。立冬を境にしてこの先のわが日暮らしは、おのずから「つらい、冬物語」になる。立冬、この先の寒さを慮(おもんぱか)れば、必ずしも格好のネタとは言えない。それでも机上カレンダーにすがり文章は絶えず、ようよう結びへたどりつくことができたのである。夜明けの空は淡い彩雲を抱いて、立冬の日本晴れである。

「晩秋の空に映える、柿の生る風景」

十一月六日(水曜日)。時刻は:5:00と刻んでいるけれど、外気はいまだ暗闇にある。寝起きにあっては久方ぶりに、両耳には補聴器を嵌めている。雨の音なく、風の音なく、そして山鳥の声もない。ただ聞こえるのは、五月雨式に響くキイー叩きの音だけである。夜長は年の瀬の「冬至」(十二月二十一日)へ向かって、正規軌道をずんずん進んでいる。きょうの私には、妻を「大船中央病院」(鎌倉市)へ、引率同行する予定がある。整形外科における予約時間は午前十時である。このこともあって、現在のわが心模様はいくらか逸(はや)っている。予約を為して定期的に訪れるこの通院は、わが家にとっては面倒であり、しかし必要悪とも言える、大切な繰り返しである。恨みつらみのごとく、妻の引率同行のことばかりを言っておれない。なぜなら、来週の十二日(火曜日)には、私自身の「大船田園眼科医院」への単独通院がある。この通院は、妻の通院よりはるかに質(たち)が悪く、わが命が果てるまでのエンドレスとなりそうである。通院理由は緑内障の経過観察であり、それにかかわる予約は、半年ごとと決められている。ところが、通院しても三分間診察にさえとどかず、二分ほどで「はい、いいでしょう」と、主治医の一方的宣言を聞くだけである。これだけでは会話にさえならず、私はいくらか腹立ちまぎれに主治医にたいし、こんな無謀な問いを投げかけた。薬剤は、一日に一度の点眼である。「先生。自覚症状はまったくありません。それなのに通院と目薬は、まだ続くのでしょうか。死ぬまで続くでしょうか。私の自己診断では、もうどちらも打ち切りでいいかなと思っています」。すると、ようやく会話が成り立ち主治医は、怒りの表情や悪びれる様子もなく、「まだ、続けましょう。命果てるまでこのままで済めば、儲けものじゃないですか」「はい。分かりました。きょうは目薬を六本、お願いします」。書き殴り特有に突然、用意しないネタを入れ込み、無駄な文章を長々と書いてしまった。いまだ途中だけれど、早やてまわしに平に詫びるところである。薄々と夜が明け始めているけれど、朝日はまだ隠れていて、空の色は鉛色である。きょうの天気予報では午前中は曇り、午後にはしだいに晴れ間が覗くという。さて、アメリカ合衆国では、長い間の「大統領にかかわる選挙戦」を終えて、日本時間のきのうの夜から開票が始まっている。共和党候補・トランプ氏と民主党候補・ハリス氏の一騎打ちは、日本の総選挙とは異なり、全世界の関心事で明け暮れてきた。選挙戦は終了間際まで両者、ほぼ五分五分と伝えられていた。こんなことでやはり、海の向こうとはいえ私も、新たな大統領の誕生には関心がある。他国の選挙ゆえに、わが意を披露することは構わないであろう。両者の政策などには関係なく、テレビ画面を通して見た目、私はハリス氏の当選を願っている。そしてそれが叶えば、アメリカ合衆国における初めての「女性大統領」と言われている。現下の世界は、ロシアとウクライナの戦争のみならず、あちこちの国々おいて戦争勃発の危機が高まっている。こんなおり、トランプ候補の仏頂面は、真っ平御免蒙りたいものである。ここまではきょうの文章の出まかせの付け足しであり、書き出す前に構えていたネタの本旨は、このことだったのである。すなわち、「晩秋の空に映える、柿の生る風景」だった。表題もあらかじめ決めていたのに、付け足し文のお邪魔虫に遮られてしまったのである。自分自身、わが頓珍漢には呆れるばかりではなく、もったいない気分横溢である。机上のカレンダーを見遣ればあすには「立冬」(十一月七日・木曜日)とある。わが好む語呂のいい「晩秋」は、中途半端にこの文章の尻のところでちょっぴりの書きおさめである。残念無念の思いつのる、晩秋の無駄な一文となってしまった。大空は予報どおりに昼過ぎから晴れるだろうか。その兆しは見えて大空は、少しずつ鉛色を蹴散らして、薄青く日本晴れになりつつある。実のない書き殴りは、草臥れ儲けさえにもならず、もう懲り懲りである。未練たららに「晩秋」、表題だけでも留め置くものである。文尾にあってはやはり、二度目の詫びを入れなければならない。いやいや、何べんも詫びを入れたい心境にある。

私からも「ご苦労様」

 前田さん、買い物から帰られた前田さんを出迎えられた奥様との会話は嬉しいです。
汗だくだくのご主人様にそっと差し出されるタオルは、心が和みます。
 私も一週間に一度ぐらいの割で、重い背中のリュックを背負っての帰宅になりますが、汗だくの我が身を案じてくれる連れ合いはおりません。それでも家の中に向かって、「ただいま」と声をかけます。ほっとする瞬間です。すると、「おかえり」と内から声が聞こえたような気がするのです。

好天気が恵んだ、わが家の好日

十一月五日(火曜日)。いまだ夜明け前にあり、夜明けの天気を知ることはできない。しかし、雨の音、風の音はない。きょうの気象予報士の予報は、雨無しの曇りである。予報が当たれば雨は免れるけれど、好天気は望めそうにない。雨よりはましだけれど、おととい、きのうと続いた好天気が途絶えることは残念無念である。だけど、自然界(気象)現象のことゆえに腹を立てることはできない。いやいや顧みて自然界(気象)は、三連休の残り二日にあっては、人間界この場合は日本社会に限定し、至上の粋な計らいをしてくれたのである。具体的にはおとといの「文化の日」(十一月三日・日曜日)、それに続くきのうの「振替休日」(十一月四日・月曜日)にあっては、日本社会にこれ以上はないほどの好天気をもたらしたのである。わが思う「文化の日」は、長年にわたり日本社会に尽くされてきた人たちを称えて、日本国民こぞって感謝と祝意を示す日であろう。さらには日本国民のだれもが日本文化を尊び、いっそうの醸成を願って、「国民休祭日」として定めているのであろう。わが当てずっぽうゆえに、文化の日の定めの本旨については、文章を書き終えたのちに、ネット記事からの学びをする心づもりにある。さて、「文化の日」にあっては功労者(式典や祝辞)を称え、かつまたこののちの日本社会における、文化の醸成を願う大切な日にあって、自然界(気象)は絶好・絶妙の秋晴れを恵んでくれたのである。文化の日に続く「振替休日」にもまた、それを超えて絶頂とも思える好天気を恵んでくれたのである。確かに、三連休の初日(十一月二日・土曜日)には、土砂降りをともなう雨嵐だった。しかしながらこの日の雨は、気象予報士が伝える予報の想定内だった。明けて自然界(気象)は、三連休の残りの二日、すなわち三日と四日にあっては、予報どおりの好天気をもたらしてくれたのである。このことでは文化の日の祝典、明けて振替休日にあっては物見遊山、共に晩秋の絶好の秋晴れに恵まれたのである。物見遊山ではその絶好の証しにも思えて、わが家近くの「天園ハイキングコース」には、私が意図して掃き清めていたわが家周りの道路を踏んで、老若男女(ろうにゃくなんにょ)多くのハイカーがコースの入口へ向かっていた。私はいつものように独り、秋晴れに誘われていつもの大船(鎌倉市)の街へ買い物に出かけた。好天気の下、すこぶる気分の好い買い物だった。買い物に繰り出していた多くの人たちもまた、好気分だったのであろうか。物価高のおりにもかかわらず、多くの品物を手あたりしだい籠に入れて、レジでは躊躇なくお金を支払っていた。現下の日本社会は総選挙を終えてまだ日が浅く、人心の乱れるところにある。しかしながら、三連休の残りの二日の好天気は、総じて日本国民の気持ちに和みを恵み、日本社会にいっときの平和をもたらしていたのである。この間は、21号台風のニュースも薄らいでいた。さらには、天変地異鳴動のニュースも免れていた。繰り返しくどくほど書いたのは、わが自然(界)賛歌の極みに遭遇し、その幸運を堪能していたからである。あれれ、夜明けは朝に向かうにつれて、大空のところどころには白雲を浮かして、日本晴れの風景を見せ始めている。欲深い私は、曇りの予報を覆し、三日続きの秋晴れを願っている。秋晴れでも、きょうには買い物の予定はない。きのう、たくさん買い込んだからである。きのうの買い物帰りにはバスを降りて、わが家へ続く道の途中にあっては、私は背中のリュックの重さと、両提げの袋が道路に這いそうなのを気遣って、何度も立ち止り、フーフーと息を吐いた。秋晴れはわが額(ひたい)から、地上に汗を垂らした。見上げる大空は、隈なく日本晴れだった。重たい足取りは弾んだ。玄関口のブザーを押すと、かなりの時間が経って、妻がにこやかにドアを開けた。「ありがとう」。私は倒れ込むようにして土間へ入った。「ご苦労さん。パパ。汗がいっぱいよ」。私は、妻から渡されたタオルで汗を拭いた。秋晴れが恵んだ、わが家の好日だった。

祟りと幸運

きのうの「文化の日」(11月3日・日曜日)を挟んで、3連休最終日の「振替休日」(11月4日・月曜日)の夜明けにある。夜明けの空はいまだ薄っすらだけど、だんだん明るみ始めている。昼間へ向かうにつれて、二日続きの好天気になりそうである。3連休にあっての空模様は、気象予報士の予報に違わず、初日(11月2日・土曜日)の雨嵐は、日を替えるとぴたり止んだ。この後には一日じゅう、予報どおりに胸の透く好天気が訪れた。きょうの予報は、二日続きの秋晴れである。夜明けの空を見るかぎり、気象予報士の予報は、三連休にわたり満点になることは確かである。突然、雨が降り出さないかぎり私は、今回の予報いや気象予報士にたいして、万雷の拍手喝采だけではすまなくて、心中で声なく(あっぱれ!)と雄叫(おたけ)している。私はほぼ定時(6時)近くに起き出している。起き立ての気分は、きのうの祟(たた)りはとれて良好である。きのうの祟りとは、深夜にあってかつまた長文を書いてしまい、それによりほぼ一日じゅう、眠気と疲れをこうむっていたことある。これすなわち、きのうの私が見舞われていた悪の報(むく)い、祟りだったのである。祟りは就寝時までこうむっていた。ところが就寝中にはその反動で幸運に恵まれたのである。普段の就寝中には頻尿で何度も起き出し、悪夢にもしょっちゅう魘(うな)され、挙句には一度目覚めると二度寝にありつけず、悶々として長く寝床に寝そべっている。ところが昨夜は、就寝中の三悪を免れたのである。ゆえに現在の私は、なんだかきのう祟りが罪滅ぼしでもしてくれたかのような、ウキウキした「たなぼた気分」にある。しかし、好事魔多し。このところの私はパソコン、実際にワード機能に戸惑い、書いては消えまた書くという、憂き目に遭遇している。挙句にはこんな短い文章にさえも四苦八苦をこうむり、時間はいたずらに過ぎてゆく。だからもう懲り懲り、尻切れトンボのままを恥じて、ここで結文とするものである。伏して、詫びるところである。幸いなるかな! 夜明けから朝、そして昼へ向かう日光は、もう全天候型に大空を日本晴れに輝かしている。しばし大空を眺めていると、祟りの気分は失せて、幸運の気分に変わりつつある。きょうの私は、不断の「自然(界)賛歌」に浸れそうである。ワード不調のせいで、いやわが無能のせいで、なさけなくも、ずいぶん苦労した文章である。