掲示板

坂本弘司撮影

♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪

古閑さん、♪ポッキー&プリッツの日♪の御投稿どうもありがとうございました*(^o^)/*
寒くなってきても、♪ポッキー&プリッツ♪が種類豊富なように、☆古閑さん庭園☆も多種類で、たいへん嬉しく思っています♪♪♪♪

書き表せない苦悩

文章を書いていて頭に浮かんでいる思いを書き綴る表現が浮かんでこないことが度々ある。この思いを表現するための語彙がどうしても浮かんでこないもどかしさは、年々増している。私は本を読むことをあまりしてこなかった。その報いなのであろう。表現不足、語彙不足、これは物書きにとって致命的である。井上ひさし氏の言葉「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」を私は座右の銘にしている。けれどこれを実行することは至難の業なのである。

わが認知症の罹患は、妻や人様が知ること

十一月十一日(月曜日)。部屋の中では、頭上から二輪の蛍光灯が明かりを灯し、窓外はいまだ真っ暗闇であり、夜明けはるかに遠い、起き出しを食らっている。八十四歳、私の睡眠時間はいつも極度に短い。睡眠中に悪夢に魘されると目覚めて、そののちは悶々として二度寝を拒まれる。運良く寝つければこんどは、身体現象ゆえに避けられない、頻尿による起き出しをこうむっている。しかし、私には気になる病なく、年並みに健康体である。妻・八十一歳、病がち、老夫婦の日暮らしにあっては共に、健康体は望めない。夫婦生活は、自分だけが健康体であるだけでは成り立たない。共に健康体であってこそ、夫婦の日常生活は、ようやく心地良く営まれる。つらいところである。相対する妻の衰えぶりを見るのは、堪えて忍びない。ところが一方、「パパは認知症よ!」と言う、妻の言葉が増えている。私自身にはその自覚はなく、「俺は認知症じゃないよ」と、そのつど反撃の言葉を返している。ところが内心では、認知症かな? と、不安をおぼえるときがある。さしずめきのうは文章を書きながら一瞬、この不安が顕在したのである。このときは懐中電灯という言葉が脳髄に現れず、まさしく苦慮、かなりの時間それを思い出すのに苦労したのである。長年書き続けてきた「ひぐらしの記」は、もはや限界を超えておのずから、途絶の憂き目を見るところにある。イの一番、その確かな証しは、文章を書くには必然を為す、語彙の忘却がる。私は語彙の忘却防止と新たな習得を願って、生涯学習に掲げてきた。ところが、生涯学習はすでに頓挫しており、新たな語彙の習得など夢まぼろしとなり、それよりなにより蓄えていた語彙の忘却に晒されている。自業自得とはいえ、わが身につらい仕打ちである。文章を書き続けるには、豊富な語彙に加えて、常に精神(心象)状態の安寧が必須である。ところが現在の私は、どちらにも翳(かげ)りが増す、人生の終末にある。そして、この先はいっそう加速度をつけて、どちらも萎(な)えるばかりである。ゆえにこのところの私は、焦燥感に駆られてまるで、最後の悪あがきでもしているかのように、書き殴りの長文を書いている。確かに、そうである。あれれまたもや、文章は乱れ長くなりそうである。ゆえに、意識してここで書き止めである。わが認知症罹患の有無は、自分自身ではわからない。妻は不断のわが行動や行為を見て、掲示板を覗く人様はわが文章を読んで、知ることである。だけど、こんな文章を書くようでは、私自身「知らぬが仏」では済まされない。曇天の夜明けが訪れている。きょうの日本社会にあっては、衆議院の総選挙を終えて、第二百十五特別国会が開かれて、第百三代めの首相が誕生するという。精神の乱れの無い、正常な首相指名を願うところである。

人間、命の長らえは一大事業

十一月十日(日曜日)。目覚めは早かったけれど、長い時間寝床に寝そべり、起き出しはほぼ定時である(5:34)。起き出しにあっては、二つのことを心中に浮かべていた。一つは、「生老病死(しょうろうびょうし)」である。あえて、書き記すこともない簡易な四字熟語だけれど、机上に置く電子辞書を開いた。「生老病死:仏教でいう、人間の免れ得ない四つの苦しみ。『生』は、生まれること。『老』は、年を取ること。『病』は、病気にかかること。『死』は、死ぬこと」。そして一つは、「衣食住」であった。こちらは電子辞書にすがるまでもなく、日常生活(暮らし向き)の基礎を為すものである。さて、長く寝そべっていたことの訳を記すとこうである。スマホを手にすると真っ先に、このニュースに出遭ったからである。【四国の大規模停電、原因は「周波数低下リレー」 何らかの原因で「本州向きの電気の流れが急増し、四国内が電力供給不足」に 最大36万5300戸が一斉停電…最大で香川6万戸、愛媛11万戸、徳島11万戸、高知8万戸(11月9日、8:44、高知テレビ配信】。こののちは寝そべりながら、詳細記事やこれにかかわる多くのコメントを読み漁っていた。それほどに私は、この記事に度肝を抜かれて、そして突然の停電にかかわる、コメント者の体験上の教えを学んでいたのである。教えは、人それぞれにかぎりなくあった。それらにあっては、用意周到な備えに莫大なお金を要した人、あるいは当座の光を求めていろんなものを備え置いた人など、まさしく人それぞれだった。貧乏の私は後者の備えに意を固めて、すぐに懐中電灯を部屋のあちこちに置くことを決めた。同時に、予備の備えとしてたくさんの乾電池を買い置くことを決めたのである。だから、この先の買い物にあっては飲食物に加えて、懐中電灯と乾電池が増えそうである。人間だれしも命を長らえるためには、衣食住足りて、さらには金銭の蓄えがあり、自然災害(天変地異の鳴動による)および人為の災難(事故、事件)からの逃れ(防災)ことこそ、最も肝要である。しかしながらこれらは、「言うは易く行うは難し」である。然(さ)もありなん、現下の日本社会にあっては、そんな大それたことではなく、日常茶飯事に詐欺、強盗、人殺し事件の多発にある。生老病死はもとより、人間社会は「備えあれば患(うれ)いなし」とはいかない宿命にある。四国地方の大きな停電は私に、生きることの困難さを教えてくれたのである。まさしく自然災害および人為のもたらさす災難は忘れた頃に、いや突然襲ってくる。夜明けの空は、のどかな初冬の日本晴れである。大空に向かって、叶わぬ神頼みに祈るしかない、儚(はかな)い人間の命の長らえである。

憧憬(あこがれ)

十一月九日(土曜日)。ほぼ、通常(定時)の起き出しにある(5:23)。日長の頃にあっては大慌てでかつネタなく、行き当たりバッタリに指先の空打ちを交えて、走り書きと殴り書きのコラボ(ダブルの作業)に狂奔していた。しかし、現下の夜長の季節にあっては、こんな心境は免れて、不断にも増してのんびりと、キーボードを叩き始めている。もちろん、執筆時間に余裕があるためである。すると、いつもの寝起きの定例文章など撥ね退けて、私は突拍子なことを書きたくなっている。毎年、年の瀬が近くなると、通例のことしの「流行語大賞候補」がほぼ出そろい、人々は関心を持ってその決定を待っているところである。今やこれは、日本社会におけることしの終わりかけを感ずる、文字どおりの年末の風物詩ともなっている。これにちなんでわが選ぶとすれば、候補に有る無しは知らないけれどこの言葉である。それは国内外の野球界において、希代の名選手・大谷翔平選手(現在、アメリカ・ドジャーズ球団所属)が言ったこの名言である。「憧れるのをやめましょう」。このあとは曖昧なわが記憶を恐れ、そしてそれを正すために、スマホに記述の文章をそのまま下記するものである。著作権にふれるかどうかなど、わが知ったこっちゃない、引用である。大谷選手は、エンゼルスのマイク・トラウトやドジャースのムーキー・ベッツら名選手の名前を挙げ、「憧れてしまっては超えられないんで。僕ら、今日、超えるために、やっぱトップになるために来たんで、きょう一日だけは彼らへのあこがれは捨てて、勝つことだけを考えていきましょう」と発言しました。この言葉は、試合に勝つためには憧れる人を超えなければならないという大谷選手の考えを示したもので、言葉通り日本は3-2で逆転勝ちしました。また大谷選手は母校である花巻東高校の恩師である佐々木洋監督の言葉、先入観は可能を不可能にする」を座右の銘にしています(中日スポーツ)。わが追記。再記すれば、「憧れるのをやめましょう」。この言葉は、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で、日本代表チーム「侍ジャパン」の一人として、大谷選手が参加したおりの発言である。このときの大谷選手は、いまだドジャース球団への移籍前であり、NPB(日本プロ野球機構)から離れてアメリカへ渡り、最初の球団「エンゼルス」に所属していた。私は高橋弘樹様の豊富な能力、物事への執拗は探求心、お仕事柄による様々な文明の利器の使いこなし、そして文章(力)の冴えには常に、憧れを抱いている。大谷選手の言葉を借りれば、まさしく「憧れてしまっては超えられないんで」である。私は、高橋様の万能ぶりに憧れている。憧れは憧れ、憧れて損することは何もない。本当のところはこのことを書きたくて、大谷選手の名言を引用したのである。世の中にあって、大谷選手に憧れない人はいないはずである。なぜなら、「憧れを損だ」と、感ずる人はいないはずである。立冬の季節へ入り、確かに肌身に沁みて寒気は増している。つれて夜明けの日本晴れは、いっそう青く澄み渡っている。

☆前田静良氏☆世の中の多様性に御対応☆本日の『ひぐらしの記』☆

本日の☆『ひぐらしの記』☆は、世の中の多様性に御対応された『3つの話題』の内容で展開されて、盛りだくさんが大好きなぼくにとっては、”読み応え有り”の嬉しい☆『ひぐらしの記』☆となりました!!!
第1は、”立冬=木枯らし一号”の図式で、冬の訪れとともにの北寄りの風で、ぼくもビックリ!! しました。
第2は、アメリカ大統領選挙の結果です。
ぼくも前田さんと同じく民主党のハリス副大統領を応援していたのですが、ナント!! ナント!! 共和党のトランプ前大統領が当選となり愕然としてしまいました!!
トランプ氏は、報道されている通り、「アメリカ第1主義、同盟国軽視」の政策の方ですから、「ウクライナの事を支援しない、NATO(=北大西洋条約機構)なんかどうでもよい」なんてことになりますと、ウクライナがロシアに敗北する可能性もありますし、ロシアのプーチン大統領と裏の世界では仲が良い、との事情もありますので、これからの4年間は日本を含めた世界は、とんでもない事になるのではないか!! と”大懸念”しております!!
第3は、♪ふるさと産新米♪についてですが、前田さんの御嬢様にも届くように手配されて、♪前田さんの心優しさ♪が読者にも届く内容となりました。
以上の点から、☆読者が大喜びする盛りだくさんの☆『ひぐらしの記』☆となっておりますので、これからも堂々とお書きになっていただきたい、と思っております。
本日も前田さんへ☆大大大エール☆を贈ります☆(^O^)/☆(^O^)/☆(^O^)/☆(^O^)/☆(^O^)/☆(^O^)/☆(^O^)/

「立冬」に浮かんだ、ごちゃまぜの三つのネタ

語呂のいい「晩秋」という言葉には、それだけで詩情があって、わが好む言葉の範疇にある。しかし、きのうの「立冬」(十一月七日・木曜日)を境にして季節が変わり、おのずからこの言葉も遠のいた。このことでは、いくらか残念無念である。いや、言葉だけではなく立冬を境に、本格的な寒気の訪れが肌身に沁みて無念である。季節に追めぐりにたいして一々、無念などとほざくのは私に詩心がせいであろう。こちらこそ、確かな残念無念である。きょう(十一月八日・金曜日)の夜明けの天気模様は、まだ知ることはできない(5:32)。ところが、寒気が肌身に沁みて、いよいよ寒気の訪れの自覚は十分にある。寝起きにあっては、いつものようにネタ探しをめぐらしていた。すると、これまたいつものように、まったく浮かばない。それでも私には、書かなければならない寝起きの日課がある。だから、パソコンを起ち上げるとしばし、心中でネタ探しを試みていた。すると、ごちゃまぜに、三つも浮かんだのである。ごちゃまぜだが、我楽多(がらくた)とは言えない。きょうは一つでいいから、もったいなくて、あしたとあさってへ、とって置きたい心境にある。だけどやはり、ごちゃまぜの良さもあり、箇条書きのごとくに、三つを書き連ねるものである。それらは、きのう(立冬)めぐり合わせたそれぞれの事情(事柄)である。先ずはこれこそ、立冬に合わせたかのごとく伝えられた国内(季節)事情である。きのうの気象予報士は、こう伝えたのである。「東京ではきょう、木枯らし一号が吹きました。去年より六日(気象庁は一週間と伝えている)ほど早いです」。これを聞いて私は、何たる季節の妙、さらには机上カレンダー(先人の知恵)の正確さだと、唖然としたのである。次には、長く世界の人々の関心事だった世界事情の結末である。すなわちそれは、きのう伝えられてきたアメリカ合衆国における大統領選挙の結果である。それによると共和党・トランプ候補が、民主党・ハリス候補に勝利し、返り咲きで二度目の大統領に決まったことである。こちらはそっけなく、結果だけを記しておけばこと足りる。さて最後、三つめはわが家にかかわる事情である。もとよりこちらは、そっけなく済むものではなく、あまた書き添えたくなるうれしい事情である。きのうの夕方にあって、ふるさとから今年度産新米の第一便が宅配されて来たのである。三十キロ入りの馴染みのコメ袋を肩に担いだ配達人は、重たくて息を弾ませながらも笑顔を湛えて、上がり框(かまち)に降ろされた。私たちは夫婦こぞって、お礼の言葉を述べた。荷送り人へのお礼の言葉は、私が先にスマホにしがみついて電話をかけた。耳にする声の受話器を持つのは、亡き長姉の長男(甥っ子)である。私から代わった妻もまた、お礼の言葉と互いの近況交歓に長々と話し続けていた。わが家の米は甥っ子の手を煩わして、ふるさと産米の購入にすがっている。これには数々の理由があるけど、すべてはわが一方的理由である。すなわち、ふるさと産米の美味しさ、さらには配達料を含めて、価格の安さはなどには頓着せず、もっぱら郷愁やふるさと慕情の薄らぎや決別を恐れてのことである。これにはこんなわが思いも絡んでいる。それは、わがふるさとに馴染みのないひとりっ子(わが娘)が、わがふるさとを偲んでくれるのを願って、娘宅へも無償の同時配達である。おやおや、三つのことをごちゃまぜに書いてしまい、またまた長い文章になっている。だから、尻切れトンボを恥じず、ここで書き止めである。ネタ無し、ネタ有り、共に文章は、私には手に負えない。立冬、確かな寒気の入り日である。なぜなら、きのうの夜明けの頃は、寒さは感じなかったけれど、昼過ぎから一気に冷え込んだのである。そのあおりを食って現在の私は、寒さでブルブル震えている。前面の窓ガラスを通して眺めている大空は、晩秋の日本晴れに変わり、日本晴れだが鉛色を帯びて、確かな冬空である。

蘇る父の言葉

 今朝の「ひぐらしの記」に「あんぽんたん」という言葉が出て来て、ふと、父のことが偲ばれました。父がこの言葉を使うときに口元に浮かべていた「からかい」に似た笑みを思い出したのでした。父はこの言葉に「底抜け」を付け足し、「おまえは、あんぽんたん底抜けだな」と言いました。その言葉よりもきつい言葉に「だらすけ」がありました。こちらは本当に「馬鹿だな」と呆れ顔で言われ、「あんぽんたん」よりも傷つきました。
 今となってはもう聞けない言葉ですが、限りなく父が恋しくなりました。