坂本弘司撮影 蜜柑は、残しておいて”大正解”ですね♪♪ 前投稿が冒頭で切れてしまいましたので、再投稿します。 前田さん、イブの日は、奥様とすき家で『牛すき焼き鍋』をお召し上がりになられて、なによりですね(^^)(^^) 前田さん、御返事の御投稿どうもありがとうございます*(^o^)/* 今年一年、萎えた心に常に身に余るエールを賜り、御礼と感謝を申し上げます。つつがなく年の瀬を過ごし、新年をお迎えください。 前田さん、イブの日は、奥様とすき家で「牛すき焼き クリスマス(12月25日・水曜日)。世の中の人たちの多くは、きのうのイブ(前夜または前日)と共に、祝福あるいは「食欲旺盛」気分に浮かれて、楽しくこの日を迎えているようである。実際にはきのうの昼間、「ケンターキー・フライド・チキン」の店舗を前にして、まるで長蛇のごとくくねくねと曲がる列を目にして、わが夫婦はしばしこんな思いに浸っていた。わが夫婦はこの列には加わることなく、この店から数メートル離れた、「牛丼」を看板メニューとする「すき家」へ入った。いつもは値段の安いことにことよせて、そのうえさらに最も安価な「ミニ牛丼」メニューを選んで、勝手知った注文ボタンを押す習わしにある。二人してキョロキョロと、壁に貼られていたまるで世界地図みたいにだだっ広く、数えきれなくあるメニュー一覧表(絵柄)を眺めながら、最上位に位置する最も高価なメニューを長く見詰めていた。実際のところは止せばいいのに、注文メニューに思案投げ首状態にあったのである。挙句、この日にかぎり阿吽(あうん)の呼吸は、こう言い放った。「パパ。『すき焼き鍋』を食べてみましょうか?…」「そうだね。食べてみよう!」こののちは、一人で忙しく動き回る係の見目麗しい若いパート女性を手招いて、妻はあれこれとメニューの詮索をした。私は支払者特有に心中で、(美味しさはともかく、費用対効果)を浮かべていた。二人して、「すき焼き鍋」に決めた。けれど、注文ボタン押し方が分からず、係の女性に押してしもらう始末だった。次々に入ってくる客は、注文ボタンの操作に手慣れて、だれもがスムースに注文にありついていた。私は手間暇をかけたことで、丁寧な言葉で係の女性に詫び、同時に注文動作を依頼した。注文が済むと安堵して、店内模様や客の姿を眺めていた。時を置かず湯気が立ちのぼる二つの「すき焼き鍋」が運ばれてきた。相対で見る双方の皺だらけの顔に、艶々の笑顔が溢れた。食べ終わると二人は、美味しさに満足した。実際のところ私は、病身の妻が満足さえすれば美味しさはどうでもよかった。けれど、費用対効果は、効果のほうが勝り、十分に元が取れたのである。私は妻より先に立って、千円札二枚を自動の支払い機に入れて、1750円を支払った。釣りの250円は、コロコロと硬貨入れに落ちた。実際にはここでも、係の女性の手を煩わしたのである。やおら病身を擡(もた)げる妻の手を取り、二人とも満腹の面持ちで外に出た。寒風が吹き晒す「ケンタッキー・フライド・チキン」の前には、いっそう長く人が並んでいた。きのうのわが行動は、妻の引率行動だった。先ずは当住宅地内最寄りのS医院への通院、次には「パパ。わたし、大船で買い物したいのがあるのよ…」と言う妻に逆らえず、二人は最寄りの「北鎌倉バス停」から、巡ってきた「大船行きバス」へ乗り込んだのである。寝起きの私は、こんなことを書くつもりは毛頭なく、久しぶりにネタを従えていた。ところが、書き出すとこんな文章になり、慌てふためいてここで結ぶものである。のどかに、日本晴れの夜明けが訪れている。雪の降る「ホワイト・クリスマス」など望んでいないからこれでいい。フライドの七面鳥は食べなかったけれど、美味しい「牛すき焼き鍋」にありついて、まずまずのクリスマスを迎えている。 12月24日(火曜日)。強い寒気が起き立てのわが身に沁みている。私は寒気に音を上げそうである。バカなことを言っちゃいけないよ。このところのテレビニュースは、日本海側の降雪量の多さや雪の嵩(かさ)の高さを報じている。きのうのニュースには、屋根の上の雪下ろしで、亡くなられた人のことがあった。きわめてつらいニュースだった。それでも人は生まれた所に住み、職業や仕事の都合で離れても、だれにもそこは愛(いと)しい生誕地であり、ふるさとである。だから、他人行儀に今はやりの移住の進めや、見せかけの同情は禁物である。これに加えて私は、こんなことを浮かべて起き出している。遠いわが子どもの頃、すなわち児童(小学生)や生徒(中学生)時代の教育現場にあっては、盛んに情操教育という言葉が囃し立てられていた。しかしながら私は、その真意を知らないままに、とうとう人生は終末にある。情操教育を見出し語にして、電子辞書を開いた。【情操教育】:「創造的・批判的な心情、積極的・自主的な態度、豊な感受性と自己表現の能力を育てることを目的とする教育。知性・道徳性・美的感覚・共感性などの調和的な発展を狙いとする」。書くだけで骨が折れて、説明文もまた珍紛漢紛(ちんぷんかんぷん)であり、もとよりわが身には無縁である。現下の学校教育の目標(スローガン)は知る由(よし)ないけれど、老若男女(ろうらくなんにょ)並べて、デジタル社会だということは知ることができる。きのうの私は、いつもの大船(鎌倉市)の街へ、買い物に出かけた。わが買い物は往復共に、20分ほどバスへの乗車が強いられる。私は、二人座席の空いている奥の所に腰を下ろしていた。そして、スマホを片手にして、この日書いた「ひぐらしの記」を読んでいた。文章の校閲を主眼とする、半ば楽しいひとときである。途中から親子連れが乗り込んで来られて、娘はわが隣に座り、両親は娘を囲むようにして立たれた。両親は立ったまますぐに、それぞれがスマホを手にされて、何かを見始められた。座席の多くの人たちもスマホを見ている。立っている人たちもチラホラ、スマホ見ている。もはや、異常な光景ではなく、普段、目にする日常光景である。ところが、わが隣の席にあっては異変を目にした。まだ、三、四歳の頃と思える娘もまたすぐに、自分のスマホを片手に動画を見始めたのである。私は驚いて盗み見をした。動画の映像は、人形仕立ての動物の絵柄のようだった。娘の年齢に見合った、とても楽しそうな絵柄の動画である。私は微笑ましく、チラチラと見入った。娘のスマホさばきは、私よりはるかに上手だった。私は、「上手だね」と言って、褒めてやりたかった。しかし、盗み見を両親に咎(とが)められるような気がして、それは止めた。バスが終点の大船へ近づくと娘は、ぴたりと動画を止めて、降りる支度をした。娘の乗車から下車までの一部始終のしぐさは、まさしく「お利口さん」と言えるものだった。同時に私は、わが世(世代)が消えるのを感知し、娘に続いて席を立った。私は世の中の様変わりを感じ、デジタル社会と情操教育の繋がりを浮かべていた。わが柄でもないことを書いて、年の瀬・冬空の夜が明けている。 起き出して来て、年の瀬・12月23日(月曜日)の夜明け前にある(4:35)。視界や身体には感じないけれど、自然界と人間界の定説にしたがえば「冬至」(おととい)過ぎて、夜明けは早くなり始めている。冬至にちなんで再び、いま浮かべている言葉がある。それは、大沢さまと妹さんとの短い会話の一端である。一端ゆえに、妹さんのお話のところだけを記すとこうである。「これから本格的な冬が来るのよ。冬に至るって書くんだからね」。不断の私は、大沢さまのマルチタレント(多才能)ぶりに、「心酔と憧れ」のダブルの思いを抱いている。ところが、私は妹さんの機知(力)の豊かさにもまた驚異をおぼえたのである。「冬至」そしてそれに対応する「夏至」は、共に「冬に至る」あるいは「夏に至る」と読み替えれば、確かにそれだけで季節感の充満や躍動にありつけるところがある。長く文章を書いてきたのに私は、このことに気づかず、妹さんの言葉に魅せられたのである。まぎれもなく冬至は、「冬に至る」である。なぜなら、起き立ての私は、冬至過ぎて本格的な冬入りと、それにともなう寒気の強まりに、太身をブルブルと震わせている。夜明け前、夜明け、そして朝はなんで、来るのだろう?…。これらのたびに私は目覚め、起き出してこなければならない。起き出せばパソコンを起ち上げて、なけなしの脳髄に鞭打ち、文章を書かなければならない。もとより凡庸の私には、病巣に太い注射針を刺す痛みがある。確かに、地球のめぐりには昼間も夜間もある。現在の私には職業や定期の用事など一切なく、年じゅうひもすがら暇を貪っている。だったら、寝起きに書く苦しみなど捨て去り、昼間に書けばいいと思うところはある。そして何度か、昼間書きを試みたけれど、元の木阿弥を繰り返して定着せず、今なお起き立てに甘んじている。寝起きに書く文章はネタの用意なく、かつまた執筆時間にせっつかれて、おのずから書き殴りの憂き目をこうむっている。挙句、自分自身、文章書きの妙味も損なわれがちにある。この反動で、昼間書きへの願望は常に募るばかりである。しかしながらこれまで、その願望は果たせないままである。翻って寝起き書きの利点を鑑みれば、これ一点のみである。すなわちそれは、寝起きに書くからこそ文章の継続が果たせていることである。昼間書きの弱点は、文章の体裁は確かにととのっても、半面継続は危ぶまれるところがある。その理由には、こんなところである。昼間にあっては定期の仕事は無くても、生きるための雑多な用件は多々ある。それらの中で主なところは、街中・大船(鎌倉市)へ買い出しと、様々に病医院を変えての通院である。加えて、書く時間の多さにはそのぶん気の緩みに見舞われ、時の縛りが外れて、挙句、継続が断たれる羽目になる。寝起き特有の書き殴りにあって、きょうもまた文章は、エンドレスになりかけている。ゆえに、ここで意識して断つものである。確かに、寝起きの文章は継続だけには有利である。しかし、文章の体(てい)を為さないのは、わが泣きどころである。手のろゆえに、冬空の夜が明けを訪れている。寒気が強いせいか、青深い日本晴れである。きょうのわが予定には、当住宅地の中の最寄りのS医院への通院がある。 12月22日(日曜日)。きのうの「冬至」明けの初日にある。パソコン上のデジタル時刻は、4:50と刻まれている。最長の夜を挟んで、ほとんど寝つけないままに目覚め起き出している。そのせいか、(堪えきれないよ。だから、雑多な思いはもう止してくれ…)。心が音を上げているような好悪、様々なことが浮かんでいる。バカなことの一つはこれである。わが身体はまだ夜明けの早さは感じず、机上のカレンダーだけが日を替えている。一方、心の和むものでは、大沢さまのきのうのご投稿文にある、お二人様の「冬至」にまつわる会話である。不意を突かれた思いで、私はドキッとした。すぐさまそれを撥ね退けて、こんどは会話の妙に微笑ましさをおぼえていた。なぜならきのうの私は、冬至という言葉だけで、淡々と文章を綴っていたからである。そのため私は、妹さんと大沢さまの会話に度肝を抜かれていたのである。「これから本格的な冬が来るのよ。冬に至るって書くんだからね」「昼の長さがだんだん長くなり、春が近くなるのよ」。冬至にかかわらず季節のめぐりにあっては、私もまたこんな粋な心情を絡めたいものである。三っ目には、終末人生の悪あがきみたいなことを浮かべていた。それは、お釈迦様との問答である。お釈迦様は「この世(現世)は穢土(えど)であり、あの世は浄土(いや極楽浄土)と、説かれ続けている。もちろん私は、この説法は眉唾(まゆつば)ものの嘘っぱちであり、それを信じるバカではない。だけど私には、お釈迦様の嘘を見極めたい思いはある。いや、ネタのない文章のゆえである。電子辞書を開いた。【極楽】:「阿弥陀仏の居所である浄土。西方十万億土を経た所にあり、まったく苦患(くげん)のない安楽な世界で、阿弥陀仏が常に説法している。念仏行者は死後ここに生まれるという。極楽浄土、安養浄土、西方浄土、安楽世界・浄土など、多くの異称がある」。生きて、苦しんでいるけれど、まだこの世のほうがはるかに増しである。どんなに極楽浄土と説かれても、私はあの世で急ぐつもりはない。あの世で、再び生まれたい願望など、さらさらない。なぜならこの世には、現実の楽しみが溢れている。きょうの私には、「男女、全国高校駅伝」のテレビ観戦の予定がある。冬至を境に確かに寒い冬に向かうけれど、その先には暖かい春が訪れる。妹さんと大沢さまの会話にパチパチと両手を叩き、私は欲深く冬の寒さをしのいで、暖かい春の訪れを待っている。きのうの「ユズ風呂」にあっては、ほのかな香りを堪能した。ちょっぴりの現実のわが極楽浄土であった。きょうの昼間あたりから、日長の兆しが見えるであろうか。夜明けの空は、本格的な冬空へ向かう、胸の透く日本晴れである。
♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪
彩が本当に素晴しいです◯◯
それから赤系&ピンク系の花々とホワイト系の花々は、㊗︎新年の訪れ㊗︎を予感するものとなり、鮮やかでこちらも素晴しいです◎◎☆前田さん、メリークリスマス☆
ぼくも、すき家の『牛すき焼き鍋』は、大好きで、夕食ではなく、夜食でけっこう食べています!!
うどんが入っていますが、コシが強く美味で、肉よりも先に食べてますよー♪
ケンタッキーは、家の近くにありませんので、クリスマスシーズンの様子は見た事がありませんが、長蛇の列には、ケンタのチキンの美味さから考えますと、納得ですo(^-^)o
昨日は夜勤で(きょうもです・笑)、出勤したら店の女のコが「クリスマスらしいコトした?」と訊いてきました。
「ぜんぜんやってない!!」と答えましたが、女のコもやっていないような事を言っていました。
お客さんからは、「休日ではないので、クリスマスの実感が湧かない!!」との声もありました。
やはりクリスマスは、夜遅くまで勤務する人や夜勤の人は、やらないのではないかと思います。
実は、ぼくたち仲間は毎年、☆早めクリスマス会☆を開催していて、リアルタイムではやっていません。
クリスマスも多様化しているのかもしれませんね。☆前田さんへメッセージです☆
しかし、本文が冒頭で切れてしまいましたので、再投稿します。
出勤前なので、出勤途中で投稿しようと思っていますので、時間がかかるかもしれませんm(_ _)m高橋弘樹様へ、感謝!
☆前田さん、メリークリスマス☆
クリスマスと「すき焼き鍋」
垣間見た「お利口さん」の光景
寝起きの文章は様にならず、書くだけ
死んでも、あの世へは行かないよ
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