坂本弘司撮影 「光陰矢の如し」。新年になり早や、1月の最終日(31日・金曜日)の夜明け前にある。体内気温は低く、心身は寒気にブルブル震えている。だから、長居は無用である。きょうは「三寒四温」という季節用語を用いれば、さしずめ「寒」に当たるのであろう。正月三が日を含む特異の月にあって私は、この文章を書き終えれば出来はさておいて、完走すなわち書き続けたことになる。このことではちょっぴり、自惚れていいのかもしれない。さて、元大関・豊昇龍(立浪部屋、モンゴル出身)は、横綱審議会において満場一致で、新横綱への推挙を得た。横綱推挙への伝達式において豊昇龍は、「気魄一閃、精進します」と、口上を述べた。力士はほぼだれしも、アナウンサーの闘う気持ちの問いに答えては、「一日一番」という。暗に、(あすはない敢闘精神で取っている)という、気持ちの表れであろう。確かに、大相撲は格闘技の範疇に入る。ゆえに、「気魄一閃」あるいは「一日一番」という、気力の充実をたずさえた敢闘精神が無ければ、「木偶坊」(でくのぼう)へ成り下がり負けが込む。長い人生行路とて、「一日一番」の積み重ねである。だから私は、日々この言葉を噛みしめて生きている。人生の終盤にあっては、狂おしいほどの切ない決意である。しかしながらもはやわが命は、確かな一寸先は闇の中にある。このことを鑑みれば、決して大袈裟な決意や表現でもない。たったひと月の完走にすぎないけれど、確かに自分自身は、喜び一入(ひとしお)のところがある。実際のところは、文章を書き終えればホッと安堵する。それほどに私は日々、こんな取るに足らない文章にさえにも辛苦を極めている。私の場合、敢闘精神の欠落は、モチベーション(意識、意欲)の低下として表れてくる。きょうはモチベーションの低下に見舞われて、さらには寒気を言い訳にして長居は無用である。だから、尻切れとんぼを恥じず、ここで結文とするものである。おのずから、安堵の気分はお預けである。いまだ夜明け前にあっては、朝日に重たいこころ解(ほぐ)しをすがることはできない。かすかに朝日の見えない夜明けが訪れている。老いの身にあっては、歳月の流れの速さは哀れである。 『古閑さん庭園』は、すでに春到来ですねーー!! 上掲の写真が(春の色)に替わりました。重たい心が和んでいます。 きのう(1月29日・水曜日)に起きた、埼玉県八潮市における道路の陥没事故は、惨(むご)たらしくてテレビ映像を観るに堪えない。もちろん、日頃わが願う格好のネタではないので、このことのこの先は書かない。私にかぎらず人間であれば、だれしものことであろう。ただ一途に願うのは、落とされている人様の命と、救出作業に励む人たちの善意が共に、助かり報われることである。今、脳裏に浮かぶのは、子どもの頃の落とし穴、戦場の落とし罠、そして今回の陥没事故などを浮かべて、悪戯(いたずら)、犯罪、そして事故のもたらす災難の惨さである。それなのに会期中の国会にあっては、相も変わらず党利党略かつ自己保身、喧伝まがいの質問と答弁が繰り返されている。現在、世事にあって国民の関心事の一つには、フジテレビにまつわる出来事の帰趨がある。私も野次馬になりいっときだけ、当該のフジテレビが報じる記者会見の様子に見入った。ところが、質問に立つ記者の面々の品位の無さに呆れてしまい、胸苦しさをおぼえて早々にチャンネルを変えた。記者とは社会の木鐸(ぼくたく)ではなく、独善で目立ちがりやの人物にすぎないと、あらためて認識するありさまだった。こちらには虫唾(むしず)が走り、この先を書くつもりはまったくない。しかしながらやはり私は、陥没事故の痛ましさには一言を加えたくなっている。すなわちそれは、寒空の下、人様の善意が実り、報われることを切に願っている。夜がけ明けて、幸いにも八潮市あたりも晴れが予想される。なぜなら、鎌倉地方の夜明けは晴れており、たぶん関東地方のどこかしこも、のどかに晴れた夜明けの訪れであろう。「のどかに」を用いたのは、わがお里の知れるところで、不用意で不謹慎な言葉だったかもしれない。ゆえに私は、はるかに遠い埼玉県(八潮市)の空に向かって、平に詫びている。きょうの私には終日、彼方の空模様が気に懸かりそうである。 「前田さんは、飽き飽きしていないのか?」と、問われれば飽き飽きしている。確かに、毎回同じような書き出しで飽いている。しかしながら、それを恥晒しと思えば書けず、もとより文章の継続はあり得ない。だから、懲りずに書いているだけである。1月29日(水曜日)、現在のデジタル時刻は5:05であり、わが起き出し時刻の定時(5時)、ほぼ近くにある。このところは寒気が緩んで、嘆き節の一つは免れている。だけど、嘆き節はまるで雨後の筍(たけのこ)のごとくに、ひっきりなしに現れてくる。きのうは「ダジャレ文」と表題を付けて、実際のところは嘆き節の真実を書いた。きょうも、またあすも、その延長線上の文章を書きそうである。なぜなら、これを留めたらたちまち、文章は沙汰止みとなる。確かに、文章を書かなければ、マイナス思考や恥を曝け出すことは免れる。ゆえに寝起きの私は、常に心中で(書こうか書くまいか)と、自己葛藤の渦の中にある。こんな心境で綴る文章に、希求する明るさなどあるはずもない。だったらやはり、(もう、書かない!)と、決め込んだほうがよさそうである。ところが私は、その決断にさえもさ迷っている。ゆえにこのところは、ひしひしとわが脳力(能力)の限界に脅かされている。具体的には長年の書き疲れと、ネタの書き尽くしのダブルの穴に陥っている。私はネタ不足を補う、得意の分野を持たない。だから、これまでの私は、ネタ不足に見舞われると、郷愁や母恋慕情を募らせてどうにか文章を繋いできた。しかしながらこれらも、すでに書き尽くしている。挙句、現在の私は、にっちもさっちもいかない状態にある。まことにつらい、楽屋話である。あれれ! きょうはこんなことを書いて、文章を閉じる羽目となる。年が変わり、幸いなるかな! わが一つの日課が消えている。それは道路上に落ち葉が無くなり、日課としていた道路の掃除を免れていることである。私にすれば大きな負担軽減である。ところが好事魔多し、日課ではないけれど、半年間の町内会の班長(24世帯)の役が回ってきている。老齢(84歳)のわが身には、大きな心理上の負担を成している。壁時計の針は5時半あたりを回っている。実の無い文章は、ここで書き止めである。ガラス窓の外は、いまだ真っ暗闇である。しかし、きょうの鎌倉地方の天気は晴れの予報である。鬱な心の癒しになりそうである。 小松菜は葉物ですが、水栽培できるのですねーー!! 初めて知りました。 1月28日(火曜日)。ほぼ一晩じゅう悪夢に魘され、妨害されて睡眠自体ままならず、仕方なく起き出している(5:28)。私は人生の終盤を生きることに苦しんでいる。それゆえにわが書く「ひぐらしの記」は、日々おのずから明るさからかけ離れている。こんなことでは寝起きにあって、呻吟してまで書く価値はまったくない。だから、(もうやめます)と白旗を掲げる、あるいはギブアップ宣言をすべき「時」は、もうとっくに過ぎている。それなのに生来、優柔不断の性癖(悪癖)にある私は、決断を先延ばしに続けてきた。挙句にはこんな、様にならない文章を書く羽目に陥っている。(まだ生きたい!)と欲ボケすることなく、急いで人間(命)を閉じるべきなのかもしれない。気狂いの自覚はなく、あえて「寝起きのダジャレ文」としよう。しかし、ダジャレ文とは言い切れず、確かな本音(真実)でもある。命の鼓動があるかぎりわが心中は、時の刻みに合わせて様々に揺れ動いている。できれば、明るい気分に揺れてほしいものである。きょうはこんなことを書いて結び、再び寝床へ戻り安寧な眠りを望んでみよう。幸いなるかな! 夜明けの光はまだ遠い先に控えている。
起き立てのいたずら書き
♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪
シクラメンも綺麗ですが、パンジーでしょうか? ビオラでしょうか? も綺麗です♪♪春の色
終日、気に懸かる空模様
嘆き節
♪大沢先生へメッセージです♪
花柄のお皿での栽培が華麗です。
プランター栽培もよろしいですね♪♪
ペットボトルでの水栽培は、楽しそうですねーー(^^)「寝起きのダジャレ文」
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