掲示板

大沢久美子撮影

もう、送稿テストではないけれど…

六月二十日(月曜日)、「夏至」を明日にひかえた、雨のない夜明けが訪れている。窓ガラスを通して見えるアジサイは、彩り七変化(しちへんげ)に見頃を誇っている。現下、日本列島の梅雨の季節にあってこれまでのところ雨は、大過なく梅雨明けへ向かっている。このまま、すんなりと梅雨明けを願うところである。しかしながらそれは、私の欲張りである。なぜなら、実際には梅雨の雨は、日本列島のどこかしこに大きな災害をもたらしたのち、ようやく梅雨明けとなる。だから、どこかが見舞われる雨による災害は、私には日本列島の梅雨明けゴング(合図)と、思えるところがある。もちろん、いまだ梅雨明けまでの中途にあっては、ゆめゆめ気を許すところはまったくない。幸いにも梅雨にあって、雨による災害を免れても日本列島は、天災多い災害列島に変わりはない。この証しでもあるかのように日本列島のどこかには、日を替えて地震が起きている。総じて言えば、頻発である。地震の恐怖が去らないかぎり日本列島は、災害列島の汚名を帯びたままである。このことではもとより、わが終の棲家を構える日本列島には安住は望むべくもない。無論、住み良いと言うのはお預けである。地震さえなければ、大威張りで誇れるのに至極、残念無念である。おとといときのうの二日にわたり、私は大沢さまのご教授を得て、送稿テストを試みた。結果はいずれも成功であり、そのためきょうは、三度目の送稿テストを免れている。送稿テストにあっては、失敗によるくたびれもうけを恐れて、いくらかいい加減に書いた。このことからすればきょうあたりからは、本格始動でいいはずである。もちろん、そのつもりで書いている。確かに、心構えだけはこのところの二日とは違って、明らかに前向きに変わっている。ところが、文章の出来は変わりようなく、あらためてわが能力の限界を知らされている。おのずから、この先を書く気力は乏しく、尻切れトンボに書き止めである。こんな文章、恥をさらしてまで、書かなきゃ良かったのかもしれない。なんだか、くたびれだけをもうけたような気がしている。わが気に反し、雨のない夜明けは、すこぶるのどかである。

再びの送稿テスト

六月十九日(日曜日)、きょうもまた私は、再びの送稿テストを試みている。そのため、くたびれもうけを避けるため、おのずから長い文章は、自制を決め込んでいる。ただし、夢遊病者の如くにヨレヨレの書き殴りのため、この決意の決着は私自身、まったく不明である。もとより、不特定多数の読者が存在するブログにあって、文章を書くのは、ほとほと困難事である。それでも幸いなるかな! 読者は、わが味方と思える人たちに限られている。それに素人ゆえと甘えて、多大の情けを賜り、私は書き続けてきた。確かに、独り善がりの身勝手である。しかしながら身勝手に、そうでも思わないと、文章は書けない。世の中には二つの事柄を並べて、相乗効果という言葉が存在する。ところが私の場合は、脳髄の凡愚と手先不器用を並べると、ずばり相乗減殺(そうじょうげんさい)である。電子辞書を開いても、こんな言葉は存在しない。自分自身だけに通用する、咄嗟のわが造語である。さて、きのうのわが送稿テストの文章にあっては思い及ばず、大沢さまから感涙したたるご丁寧なコメントを戴いた。丁寧には丁寧なお返しこそ、人間たる証しである。私は心して読んだ。ご投稿文の中で大沢さまは、このたびの現代文藝社のホームページのリニューアルにたいしは、ご自身の楽しみのためと、縷々(るる)書かれていた。ところが私は、この表現には真っ向からあらがった。なぜなら私は、読者のためと掲示板の存在意義の継続にたいする、大沢さまの苦悩ぶりをみたからである。私の場合は『ひぐらしの記』を掲示板上で、無料掲載にあずかっている。だから余計、これまた身勝手に私は、大沢さまの苦悩ぶりをありがたく、そして崇めずにはおれなかったのである。それゆえに私は、大沢さまの志にたいし、ありきたりだけれどこの上ない感謝と感激をおぼえていた。再びの心許ない送稿テストゆえに、ここで書き止めにしたいところではある。しかし、起き立てのわが心中に浮かんでいたことを付け足したい気もある。すなわちそれは、「人間、いやおまえは、食べるために生きるのか!」。それとも「生きるために、食べるのか!」と、自問を試みる。生涯にわたり、結論にはありつけない、どっちつかずの永遠のテーマである。ところが私にかぎり答えはかなり後者、「生きるために食べるのだ!」に傾いている。いや命あるもののすべてが、生きるために食べていると言えそうである。「食べるために生きるのか」。そんな、遠回しの一見、きれいごとと思える表現はやめにしたいところである。つまり、庭先にばら撒く白米をせっせと拾い続けて、食べ急ぐコジュケイから学んでいる教訓である。命あるもの、一概には食糧、あるいは食料、身近なことでは食べ物に執着するのは、文字どおり食べることこそ命の糧(かて)になるからであろう。付け足し文にしては、漫(そぞ)ろ長くなってしまった。書き殴りの弊(へい)、とことんかたじけないところである。確かに、再びの送稿テストに躓(つまず)けば、恥はかかずに済む。「雉も鳴かずば撃たれまい」。だからと言って無論、願ったり叶ったりではなく、私は再びの送稿テストの成功を祈っている。実のない書き殴りとはいえくたくたの、くたびれもうけだけでは嫌になるからである。梅雨の合間とは言えない、夜明けの朝日が輝いている。

前田さん、感謝申し上げます

 昨日は私の未熟なワープロの伝達にお付き合いいただきありがとうございます。
teacapから既存の掲示板が終了するという通知をもらったときは、正直言って
悩みました。何の心配も無く利用し続けていたので、終了するなど思いもしませ
んでした。現代文藝社の出版を続けて行くにはやはり読者との交流は欠かせません。
それで当社のコンピューターの管理を依頼している方に相談して、現在のような
新しい掲示板が出来上がりました。今まで投稿いただいたり、訪れたりしてくださ
っている方々には、ご面倒をおかけしますが、今後ともこれまで同様によろしく
お願いします。

送稿テスト

命の終焉近くになってまで、わが身を思い、悩み患うのは、愚の骨頂とは知りすぎている。六月十八日(土曜日)、浅い夜明けの起き立ちにあって私は、わが生涯におけるいろいろ、さまざまな悔いごとを浮かべている。それらの中には生来ゆえに、悔やんでもどうにもならないものが限りなく含まれている。それらを列挙する暇(いとま)はないけれど、いま浮かんでいるものでは脳髄の凡愚、小器、小心、醜面、近眼をはじめとする目の病などがある。確かに、先天的・生まれつきのことで悔い悩むのは、馬鹿げている。これらに比べて後天的なものでは、意志薄弱、優柔不断、とりわけ怠惰精神、ずばり三日坊主(怠け者)である。先天的そして後天的の中間に位置するのは、これまたずばり手先不器用である。なかんずく、数々の文明の利器の利用や使用には手古摺るばかりである。だったら、生きていてもしようがないかと言えば、いやいやまだまだ、生きたい欲望はある。きのうの私は、現代文藝社のホームページのリニューアルにともなう、掲示板投稿のやりかたについて、大沢さまよりきわめて長い時間、電話でご教授を賜った。この間の私は、指先は手古摺り、精神状態はしどろもどろだった。ご面倒をおかけした大沢さまにたいしては、平に詫びて、感謝するところしきりである。それゆえ、とりあえずこの文章は、送稿テストのつもりである。それに失敗すればくたびれもうけだけで馬鹿らしく、だからこの先を書く気にはなれない。わが生涯、わが人生における悔いごとは、あまた山ほどもある。案外、それは生きている証しなのかもしれない。しかし、生きたい欲望とは裏腹に、悔いごと逃れにもう見切りをつけたい思いもある。うっすらと夜が明けても、梅雨空には朝日の光はない。

高橋弘樹様へ、感謝!

いつもながらのエールを賜り、お礼を申し上げます。実社会を高橋様のご投稿文で学んでいます。感謝にたえません。

♪前田さんへ『小さな幸福』の感想です!!

ぼくは普段は、さいたま市の隣の志木市にある美容室まで行って、パ〜マやカットをしてもらいますが、時間がない時は、家の近くにある安価なカット専門の美容室へも行きます。
技術も確かで、15分位で終了しますので、忙しい時は本当に助かります♪♪

「海鮮食堂」のランチ限定!!「刺身定食」をぜひぜひ食べてみたくなりました◎◎

今回は、前田さんと奥様の幸福感がたくさん漂う『ひぐらしの記』でした♪♪

♪大沢先生へメッセージです2!!

大沢先生、昨日の複写作業、本当にお疲れさまでございました。
新掲示板へもどんどん投稿させていただきます♪♪

パッションフルーツと月下美人の益々の生長を願っております♪♪

私の庭2

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パッションフルーツもいまだ蔓の伸びに勢いがありませんが、
続けて蕾が出てきました。これから暑くなってき元気が元気が
出ると思います。

私の庭1

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今年の天候不順で月下美人は痛々しい姿になってしまいました。
でも、彼女はめげませんでした。なんと、蕾があちこちに出始め
ました。まだまだ続いている天候不順で開花までこぎ着けるかど
うか、見守っていきたいです。

小さな幸福

六月十七日(金曜日)、梅雨時、すっかりとは明けきれない夜明けが訪れている。おとといの夜、二度寝にありつけず起き出して書いた短い文章は、わが心象に飛んでもない僥倖をもたらした。きょうもまた、二度寝にありつけず、起き出して来たまま書いている。しかし、再び柳の下にドジョウはいなくて、ただただ苦しんでいる。いまさら言わずもがなのことだけれど、自分自身が年をとって、それに輪をかけてつらいのは、妻をはじめ周囲の人たちがみな、老いの姿を見せていることである。自分自身は鏡や写真を避ければ、面貌の老いは見ないで済むことがある。精神状態はもちろん青春ではないけれど、そんなに老いを感じない。だから私は、意識して鏡や写真を見ることは避けている。馬鹿げて幼稚な、わが老いの身癒しの便法である。鬱陶しいマスク姿にも唯一、ご利益にありつけるのは、いっときの老い面隠しである。最も身近なところでは妻も、すっかり面貌を変えてしまった。ところが私は、それを見ることを避けることはできない。一方、妻もまた、わが老いた面貌を見ずに済むことはできない。挙句、共に見苦しく、息苦しい日々に見舞われている。鏡や写真は見なくとも、こんな精神状態こそまさしく、老いの証しである。無理して起き立の文章を大慌てで書かなければ、こんななさけない文章は書かずに済んだ。きのうは、妻の髪カットの引率同行で、妻が普段行きつけのカット店へ出向いた。美容院とは書けない、場末の安価を売り物にする出店(でみせ)みたいなところである。ところが妻は、指名料金を払ってまで担当者を選んで、この店に馴染んでお気に入りである。お店は路線バスに乗って、私が買い物へ行く大船(鎌倉市)の街にある。妻は久しぶりに髪カットを果たし、そのうえ仕上がりの良さに十分満足した。互いのマスク外しの面貌はほころび、いつになく会話が弾んだ。その証しには初入りの「海鮮食堂」(二階)に入り、カウンターで適当な間隔をとり、昼限定の「刺身定食」(一人前1000円)を摂った。ありきたりの定食とは思えない豪勢な見栄えと、堪能できる美味だった。普段、レジ係との会話が好きな私は、初入りかつ初見にもかかわらず臆せず、マスク越しに言葉をかけた。「下の看板にいつわりなく、いやそれ以上に豪勢でした。二人とも、大満足でした。また来ますね。ありがとうございました」。中年の女性レジ係は、思いがけない様子を露わにされて、丁寧に謝意の言葉を返された。店を出ると妻はヨロヨロ、私はノロノロ、と街中のお店回りを果たし、帰りのバスに乗り家路についた。二人の背中を、雨模様の梅雨空が追っかけてきた。互いの気持ちは急いだ。けれど、足は願うようには急いでくれない。しかし、共に無事でわが家へたどり着いた。「パパ。きょうはありがとう」「髪、綺麗に仕上がっているよ」。小さな幸福とは、これで良し、いやこれくらいで十分! 殴り書きはいつもと変わらなかったけれど、きょうは短からず、長からずの文章の閉めることとなる。小さな幸福は、案外、小さな僥倖をもたらしている。老いの身、欲張ってはいけない。