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坂本弘司撮影

連載『少年』十八日目

少年にとって夏の内田川は、レジャーランドとなった。日課の『夏休みの友』やほかの宿題を終えると少年は、午後には内田川の中にいた。少年は猿股パンツ一つで裸になり、夏休み中内田川で遊んだ。このため少年の体は、まるで黒棒菓子みたいになり、裸の体は黒光りした。黒光りの少年の体が水に飛び込むと、白く水しぶきが上がった。少年の家は内田川の川岸に建っていた。母は少年の家の裏道を通り川辺に立ち、川中の少年に大声で叫んだ。「しずよし。茶あがり(三時のおやつの時間)だよ、水から上がって、帰って来んかあ…」。少年にとっては母が呼びに来るまでが、午後の遊びの第一ラウンドだった。母に呼び戻されて家に帰ると、茶あがりの用意ができており、テーブルの周りには父が座っていた。茶あがりのメニュー(献立)は、ほぼ夏の間じゅうは明けても暮れても飽きずに、ソーメンばかりだった。父がソーメンを大好きだったためであろう。ところが少年はソーメンを食い厭きて、そののちトラウマ(精神的外傷)になり、今なお嫌いな食べ物の一つになっている。夏の間、テーブルは釜屋(土間の台所)に置かれていた。少年は裸の体を河童のように水浸しにしたままに、テーブルを前にして椅子に座った。少年は濡れた体のまま、半ば義務のようにソーメンを一気に啜った。ソーメンの良いところは、嫌いでもスムースに喉をスルスル通ることである。少年にとっては、ほぼ毎日訪れる茶上がりどきのおざなりのソーメンの食べ方である。ところが、少年が好きな食べ物もあった。それはソーメンの後にテーブルに乗る西瓜だった。少年は茶上りが済むと、再び内田川へ走り込んで、西瓜で膨れた体を水中に沈めた。このときが、午後の遊びの第二ラウンドの始まりである。少年は、内田川とその水にたっぷりと戯れた。こののち、第二ラウンド終了の合図の鐘の代わりをしたのは、西の空へ沈む茜色の夕陽だった。夏休みが終わると、二学期が始まった。少年は遊びすぎた疲れがとれないままに、物憂げに登校した。少年は夏休みの友やほかの宿題も完結に終えて、二学期の始業式を迎えた。始業式の後まもなく、夏休み前に伝えられていた「校内黒肌大会」が行われた。黒光りする少年の体は、白みの友達の体を圧倒して、「一等賞」に選ばれた。担任の渕上先生はいつもの優しいニコニコ顔で、「元気に、たくさん水浴びしたね」と言って、少年を褒められた。少年はそのことを母に伝えたくて、飛ぶようにして家に帰った。精米仕事中の母は、いつものように戸口元で少年を迎えた。少年は母に向かい跳びはねて、「かあちゃん、一等賞、とったよ。渕上先生から、褒められたよ。」と、言った。母は笑って少年の毬栗頭を撫でながら、すかさずこう言った。「そうや、一等賞だったや、あんたには裏ん川があって、よかったばいね。一等賞になれば、なんでもええたいね。よう、がんばったね」。少年は、渕上先生と母に褒められて、うれしかった。一気に、夏の遊びの疲れは消えた。少年が三年生になると担任は、渕上先生から男性の徳丸普可喜先生に替わった。少年はすぐに、徳丸先生も好きになった。徳丸先生は、少年の三年生次と四年生次の二年間の担任だった。そして、五年生次と六年生次の担任は、男性の家入喜人先生だった。少年は家入先生にもすぐに慣れて、好きになった。少年の小学校六年間の担任の先生は二年刻みで、最初は渕上先生、次は徳丸先生、最後は家入先生だった。少年はどの先生も好きになった。そのためか少年は、内田小学校の六年間を無欠席(皆勤賞)で終えたのである。学年が上がるにつれて少年の関心事は、だんだんと教室外へも向いた。これを手助けしてくれたのは、新聞とラジオそして雑誌だった。父や兄たちは、購読紙・西日本新聞を貪(むさぼ)り読んでいた。これに感化されたのか、少年も負けずに読んだ。特に、好きなスポーツ欄は記事を漁り、あとまで記憶に残るように丁寧に読んだ。中でも好きな野球の記事は、プロ野球、都市対抗野球、高校野球、大学野球、など様々に、どれもこれも一様に貪り読んだ。プロ野球では阪神タイガースが好きな球団になった。タイガースは、巨人(読売ジャイアンツ)と競ってはいたけれど、勝者にはなれなかった。なぜならタイガースは試合と人気においていやすべてに、ジャイアンツには敵(かな)わなかった。ジャイアンツの人気選手は、背番号16番の川上哲治一塁手だった。川上選手は少年のふるさと県・熊本の人吉市出身で、旧制熊本工業中学を経てジャイアンツに入団し、一世を風靡するほどの球界一の大打者そして、人気ナンバーワンの誇り高き名選手である。それゆえ友達のみんなは川上選手が大好きで、自然とジャイアンツファンばかりだった。もちろん少年もまた、熊本出身ゆえに川上選手の大ファンだった。ところが、球団となると別だった。タイガースには個人人気の面では川上選手に対抗する、背番号10番の藤村富美男三塁手がいた。藤村選手は、少年には縁もゆかりもない広島県の旧制呉港中学の出身である。それでも少年は、なぜか? 藤村選手が好きになり、そのままタイガースファンになったのである。少年がこんな突拍子もないことでタイガースファンになったのは、たぶん少年自身が父のいきかたに一脈相通じていたのかもしれない。少年はいまさらながらにそう思う。父は極端な判官贔屓(源義経ファン)だった。判官贔屓とは、強い者より弱い者に味方する心根である。確かにタイガースは、何かにつけてジャイアンツには勝てない球団だった。好きな藤村選手も、川上選手にはすべて敵わない。だから少年は父に似て、判官贔屓という理由だけで、タイガースファンになったかのように思う。挙句、少年は、未踏はるかに遠い大阪府と兵庫県(神戸)を本拠地(ホームグラウンド)とする、阪神タイガースのファンになってしまっていたのである。判官贔屓には悔いはなく、今なお高じたままに頂点を極めて、「トラキチ」に変じている。雑誌はたぶん、友達の中でも少年だけが親に買ってもらっていたと思う。雑誌名は『少年倶楽部(クラブ)』である。少年が月一回の発行を待って貪り読んだのは、人気抜群の連載漫画『のらくろ』だった。

♪大沢先生へメッセージです♪

大沢先生、クチナシの御投稿、どうもありがとうございます*(^o^)/*
幼年期の祖父母宅のクチナシは、大沢先生御宅や望月窯と同じく庭植えでしたので(常緑低木ということですが、常緑高木になっていました!!)、同様に大きな青虫(オオスカシバという蛾の幼虫のようですね)の被害に遭っていました!!
そうですね!! 無事です!!
昨年の薔薇のハダニの被害で、とんでもなく疲れてしまいましたので、クチナシの鉢植えは、外に出さないつもりです。

香りが私の部屋にも届いてきそうです

 私の庭や古河の実家の庭にもクチナシの木があります。クチナシの葉は今の時期に緑の葉が茂るのですが、毎年虫に食われて丸坊主にされてしまいます。大きな青虫がいつの間にか出現して、探してもなかなか見つからないのに葉は食べられてしまいます。そんな受難を乗り越えて、花が咲きます。
 高橋さんの鉢植えは、すでに花が咲いており、無事ですね。

♪古閑さんへメッセージです♪

古閑さん、感想の御投稿、どうもありがとうございます*(^o^)/*
クチナシは、沈丁花より香りが強いように思います♪
古閑さんも前田さんと同じく内田村御出身なのですか??

連載『少年』、十七日目

少年はまた、内田川のことを書いている。少年の独り善がりの文章など、だれも読まないから気楽に何度も書けるのだ。少年の家は、川の上流から中流にかけて位置している。裏戸を開けると下手の方では、太陽の照り返しが白く水面を舐めて、竹山の隙間の向こうには、青い水が輝いている。どちらかと言えば裏の川は、まだ上流である。向こう岸と少年の家の間を流れる早瀬の音、浅瀬のせせらぎ、溜まりにたゆとう水は、あいなして四季折々に周囲の風景と調和する。内田川はそのたびに、少年の心を和ませた。少年はしばし深呼吸を繰り返し、川風を咽頭へ呼び込み、いっぱい吸った。新鮮な空気がはらわたに落ちると、少年の心身は一層和んだ。少年の家は、内田川の河川敷際に建っていた。当時、少年の家には、水道や自前の井戸はなかった。内田川の水が当然のように少年の家に、生業の水車用の水と生活用水を恵んでいたからである。裏戸を開ければ内田川が流れている。内田川に堰を作り、水車用に自前の水路が設けられていた。分水は水路を通り、庭先はもちろんのこと、母屋の台所の中にまで引き込まれて流れていた。少年の家の内外には日常的に、内田川の水がたっぷりとあった。だからたぶん、当時の父と母は、そんな施設は用無しと決め込んでいたのかもしれない。それほどに少年の家は、内田川とそれが恵む水に密着し、大家族の命を育み、暮らしの生計を立てていたのである。換言すれば、少年の家の生活の中に、内田川が流れていた。そのぶん、少年の家の上方の家で赤痢や疫痢の発生が伝わると、少年の家はみな恐々としなければならなかった。内田川は川中に点在する大きな岩や小石にあたり逆巻いたり、水しぶきを高く上げながら流れている。それでも、それを凌げば緩やかな流れになる。これは、雨のない日の内田川の流れの情景である。しかしながら内田村にあっても、少年、家人、村人に優しいばかりの山河はあり得ない。なぜなら自然界は、四季折々に人間に目を剥く恐ろしさをたずさえている。山紫水明に恵まれた内田村にあっても自然界は、ひとたび変調をきたすと防ぎようのない狂態を露わにした。内田川は台風のたびに暴れ川となり、少年の家に恐怖と被害をもたらした。村中のあちこちでは土砂崩れが起きて、荒れた山肌を剥き出しにした。あるときは山津波が発生し立木を倒し、崩落した土砂に立木と岩石が混じって流れて来て、近くの民家を襲って家人の死亡事故を招いた。少年の家もそうだが、内田川にすがり川辺で水車を営む家は、川が増水するたびに恐怖に見舞われる。すると、地区の消防団の防災監視下に入った。少年は止みそうもなく土砂降りを続ける雨と、時々刻々に増水を極める内田川を、茶の間の窓ガラスに額をつけて立ったまま、じっと眺めていた。すると少年は、内田川の水嵩が増すたびに、怖くて泣きべそをかいた。降りしきる雨はいつになったら小降りになり、いつ止むのか。濁流の水嵩は、流石と流木のからむ轟音をともない、寸時に水勢をいや増して行く。農作業用の二階建ての「しのば」(仕事場)は、河川敷の端に礎石を置いていた。母屋とて礎石と内田川との間は、河川敷を挟んで20メートルほどの近距離である。水嵩が増すたびに内田川は、河川敷を狭めては川幅を広げて、濁流が礎石へ迫ってくる。少年は恐怖に慄き、体の震えが止まらない。「生きた心地がしない」という表現は、このときこそ「ぴったしカンカン」である。少年は豪雨と強風のなか、家人を探した。しかし家人は、しのばと母屋の点検防備に走り回っている。少年の泣きべそは、あふれる涙に変わった。土砂降りが細くなりかけ、空がうっすらとしはじめて、家族そろって「ああ、無事だった」と、嘆息を吐けるのだった。確かに、内田川にかぎらず内田村の山河自然は、少年の家の家族や村人に大きな恐怖を与えた。一方、内田川と内田村の山河自然は、恐怖をはねのけて村人の命を育んでくれた。だから、少年が感謝することこのほかにはない。この御恩返しに少年は、何度もひたすら内田川はもとより、内田村の山河自然を愛(め)で書いている。もちろん恥じたり、書き厭きることはない。ただひとつ少年にとって残念なことは、内田川は少年の唯一の弟・敏弘の命を助けずに、こともあろうに内田川の分水(水路)へ流してしまったことである。

きれいに咲いていますね

 くちなしの花、きれいに咲いていますね。部屋には良い香りが漂っていることと思います。子供のころ故郷の内田川沿いによく咲いて良い香りを漂わせていました。

♪HIROKIのタレント日記!!

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《クチナシ〜最後の1鉢購入〜》
白色沈丁花は、開花期間が短かったのと、花粉症の鼻づまりの症状で、香りがあまり楽しめなかったので、「次はクチナシの鉢植えないかなーー?? 」と思っていたところ、本日、花屋さんに”最後の1鉢”がありましたので、ソッコー購入しました!
幼年期は、春の沈丁花•初夏のクチナシ•秋のキンモクセイの『三大香木』を楽しんでいました♪♪♪
画像は、札を付けたままにしていますが(笑)、白色沈丁花に続き、このままトイレへ設置しました♪
日に当てる時は、鉢を移動させます。
クチナシの香りとともに、幼年期そのものと祖母が甦ってくるような気持ちになりました♪♪

連載『少年』、十六日目

内田村は熊本県の北部地域にあって、いくつかの村道と数多の私道を脇に従えて、熊本県から大分県方面へ向かう一本の県道が走り、ときには並走し一筋の内田川が源流と上流をなして、途中出遭う支流を抱き込みながら流れている。北へ向かう県道の先は山中の細道となり、県境の峠へ到達する。内田村は遠峯の連山と里山に囲まれた盆地を成して、中には農山村特有の段々畑と狭い田畑が点在する。村人の農作業の手助けには、最初は馬にのちには牛に頼っていた。村人の多くは農山林に合間の仕事を見つけ、中心には米や麦づくりを置いて、主に自給自足で暮らし向きを立てていた。山が恵む収入源には、炭焼き、シイタケ栽培、タケノコの掘り出し、杉山や竹山の切り出しなどにほぼ限られていた。口内炎に悩む少年の母は、それに効くという蜂蜜をつくる家を近くに知っていて、そこから買っていた。村中には一軒の製材所があった。大きな動力を要するものでは、ほかに一か所村有の水力発電所があった。小さな動力のものでは少年の家のように、内田川の恵みにすがってあちこちに水車が回っていた。村中の学校は内田村立内田小学校と内田中学校が校区、すなわち校地や運動場を共用し、村の中央地区にあたる堀川集落に本校を構えていた。本校とは別に東方の番所集落と西方の山内集落には、小学校一年生および二年生の登下校の足をおもんぱかり、それぞれに小さな平屋の分教場が設けられていた。小学校三年生になると、そこで学んでいた同学年生は本校に合流した。村中には何人かの馬車引きさんがいた。馬車は「ゴロゴロ、ゴロゴロ」と音を立て、馬はときには「ヒヒン、ヒヒン」と嘶(いなな)いて、馬車引きさんに手綱を取られて、重たい馬車(荷台)を引いていた。馬車が通ると、車輪の音、蹄の音、崩れる石がらの音などが合奏し、一層高く音を周囲に響かせた。ただ、これらの音は村人には馴染んでいて、内田村ののどかな情景の一つでもあった。ときたま、定期路線の「産交バス」がエンジン音を吹かして近づくと、馬車引きさんは早くから馬車を道の傍らに寄せた。そして、手綱を確り引いてバスを見送った。バスの音に慣れていた馬は、音にいきりたつこともなく、首筋を伸ばし静かに立っていた。馬車引きさんはバスが通り過ぎると、腰に垂らしていた手拭いを取り、顔から首筋にかけて汗を拭き、煙草を一本くゆらした。僅かだがこのひとときは、馬車引きさんと馬にとっては、疲れた体を休める「オアシス」みたいなものだったのかもしれない。馬は再び鞭打たれて馬力を高めることで、飼い葉を与えてくれる馬車引きさんに報いるしかなかった。しかしそれは、馬車引きさんの生業に報いる馬の悲しい宿命でもあった。馬と馬車は、馬車引きさんの手さばきに操られて、内田村と近隣の村を往来した。胸突き八丁で吐息し、涎を垂らして、頭、顔、首を上下させて馬車を引く馬に、少年はしょっちゅう出合った。学校帰りに後方から空の馬車を見遣った少年は、馬車を一目散に追っかけた。そしてまだ遠くから、顔見知りの馬車引きさんにたいして、「馬車に、乗せてくだはーり」と、大きな声で叫んだ。馬車に追いつくと馬車引きさんはたいがい、「いいよ。乗ってもいいよ。だけんど、落ちないようにしろよな!」と、言って馬車に乗せてくれた。少年はランドセルを背中から下ろし馬車に置いて、乗るタイミングを見計らって、揺れ動いて進む馬車にひょいと飛び乗って座った。あたりまえだが積み荷を仕事とする馬車の荷台の板は、武骨で硬くできている。少年は尻と板を馴染ませるために、尻を板に「ゴニャゴニャ」させた。馬車は少年の所作にはお構いなく、石がら道の凹凸に応じて揺れ動いた。そのたびに少年の尻はあちこちにいざった。少年は馬車から落ちないように全神経を尖らせて、馬車の揺れ具合に集中した。少年はダルマのように丸くなり、落ちないようにさらに体を固めた。それでも馬車の揺れは、「ゴトゴト、ドンドン」と、少年の尻を揺り動かした。しばし少年の体は、風に揺らぐ葦のように頼りなく揺れた。ようやく少年の尻が板に馴染んだところで、馬車は少年の家の近くまで来ていた。こんどは下りることに、全神経を尖らした。無事に下りると少年は、前方の馬車引きさんへ向かって、「ありがとうございました。また乗せてくださあーい」と、さっきよりさらに大声で叫んだ。馬車引きさんと馬は振り向かず、馬車は「ゴロゴロ、ゴロゴロ」と音を立てて進んで行った。少年は生まれながらにして、村人の情けと内田村の山河自然を愉しんだ。この頃の少年の一日は登校すること、そして下校すれば山や川で遊ぶことで過ぎた。戦時下のおりの少年は、兄たちに連れられて里山に入り松根油を採り、銃後の守りを固めた。ところが少年の場合、それには悲壮感などなく、楽しい山遊びの一つだった。少年は野原に萌えるスカンポやギシギシなどを手あたりしだいに採り、歯でむしり「ガリガリ」嚙んだ。ときには川辺へ行き、カワヤナギの幹をこじ開けて、蠢く白いヤナギ虫を取り出した。少年は家へ持ち帰ると、母にフライパンで炒ってもらって食べた。これだけは、食べるには勇気のいる怪しい珍味だった。