掲示板

坂本弘司撮影

2月1日

1月から月が替わり、きょうは2月1日(水曜日)。寒気は、かなり緩んでいる。それもそのはず寒気は、「大寒」を擂り鉢の底にして、春という確かな出口へ、一足飛びに駆け上っている。気象は、出口へ向かう最後の悪あがきにある。「2/1 日中は気温上昇も夜は急降下」(1/31日、火曜日、23:20 tenki.jp)。「2月スタートは低気圧が急速に発達 北海道と東北は台風並みの暴風・高波・大雪に警戒。あす2月1日は、北海道や東北を中心に大荒れとなるでしょう。台風並みの暴風や高波、北海道では大雪にも警戒が必要です」。起き出して来て(4:49)、いつになく神妙に2月のカレンダーに見入っている。2月は1年12か月にあっては、もとより特異な月である。閏年でなければ末日は、28日である。平常月と比べて、たったの2日あるいは3日にすぎないけれど、気分的にはかなり短い月と感じて、日々焦燥感つのる月である。この短い月にあって、カレンダーには結構、気に留める歳時(記)が並んでいる。主なるそれらは、節分(3日)、立春(4日)、建国記念日(11日、祝祭日)、聖バレンタインデー(14日)、そして「天皇誕生日(23日、祝祭日)、などである。これらに私的なことを付記すれば、建国記念日は、わが夫婦の結婚記念日でもある。なぜ、長々とカレンダーの写しを記したのかと言えば、起き立てのわが心中にはこんなことが浮かんでいて、それを書いたにすぎない。すなわちそれは、冒頭の天気予報や概況、加えてカレンダーは、日常生活いや人生行路における最良の道しるべと捷径(しょうけい)を成している。このことを書いて、きょうはおしまいである。なぜならそれは、この先を書けば、せっかくの意識替えは四日目にして崩れ、いつものように愚痴をこぼしそうだからである。ほとほと、身勝手な文章である。2月になれば、夜明けが早くなる。1月と比べて2月は、バタバタする月である。

寒い朝

1月31日(火曜日)、きょうでもう、新しい年のひと月が過ぎる。命は早鐘を鳴らし、時々刻々と縮んでゆく。自分自身の命なのに、それを止めることはできない。これほどもどかしさを感ずるものが、ほかにあるのであろうか。やはり、不断「ピンピンコロリ」を口にするのは、遊び心の道化(どうけ)なのであろう。こよなく命を惜しむ、月替わりである。寒気は大団円を迎えて、ことのほか寒い朝である。なんだか、わが命の縮みに加速度をつけているようでもある。そうは言っても季節は、人間ほどには嘘を吐かない。なぜなら春は、もう目の前に来ている。木立の木々はやわらかく芽吹き始めて、庭中の雑草は日に日に萌黄色を強めている。雨戸を開けるたびに、梅の花の綻び、フキノトウの芽出しを確かめている。生きているからこそ、寒くても春待つ心は和やかである。きのうの私は、これまでとは意図して気分を変えて、わが柄になく「生存は美」と謳った。せっかくだからこの気分は明日まで、三日くらいは続けたいものである。しかしながらたぶん、その先はないであろう。なぜなら、私には生来、三日坊主という性癖(悪癖)がある。82年生きてきていまさら、この悪癖が正されることはあり得ない。それでも元の木阿弥にならないよう、気を引き締めて、悪癖打破に挑んでみたい。春になれば寒気は緩み、おのずからわが気分も解れてくる。そのため、まだ生きていた気分は横溢する。ようやく、新型コロナウイルスも収束へ向かいつつあり、五月になれば鬱陶しいマスクも外せそうである。抑制されていた様々なイベント(行事)も開放へ向かう。わが好むプロ野球は、明日から一斉に春季キャンプインである。節分(鬼は外)に備えて、先日の買い物おりには、早やてまわしに鬼退治に向けて、炒り豆を買った。春待つ心、まだ生きたいと願う心、旺盛である。寒気の大団円にあたっても、寒気に未練はない。しかし、寒気の打ち止めを願って表題は、「寒い朝」にしよう。起き立の、約20分の書き殴り、デジタル時刻は5:36、熱源の夜明けはまだ先にある。胸の鼓動と腕の脈拍は、生きている証しをしるして、コトコト、ドクドクと、脈打っている。

「生存は美」

1月30日(月曜日)、生きている。かなりの「春ボケ」なのかもしれない。愉快ではないけれどいくぶん、いつもとは異なる気分で起き出している。「生存は美」だ。とりわけ人生の晩年に在るのは、確かな「美」と言っていいのかもしれない。きのうの私は、心中でふとこんな発想の転換を試みたのである。言うなれば年寄りの冷や水、いっときのマイナス思考のやせ我慢である。人の世にあっては生きたくとも、あっけなく命を絶たれる人為の出来事や事件あるいは事故、加えて自然災害による絶命のオンパレードである。ウクライナに見る人為の大量の殺傷、抗(あらが)えないコロナ禍による絶命などを抜きにしても、人の世ではいとも簡単に命が奪われたり、断たれたりしている。それらのすべては、前途有為の惜しまれる命である。こんなことを鑑みて私は、日々愚痴をこぼしたり、泣きべそをかいて生きることは、もったいないと悟るべきと、自戒を強いたのである。もちろん、遅すぎた焼け石に水ではある。しかしそう思えば確かに、人生の晩年にいたるまで生き続けていることは、余得とは言えない正徳と言えそうである。一夜漬け、いやローソクの火が燃えつけるまでくらい束の間の発想転換かもしれない。けれど、しないよりはしたほうがましだという、試みである。発想転換のせいなのか、なんだか起き立ての気分はすっきりしている。無理強いの発想転換など誇るべくもなく、風邪が遠のいているせいであろうか。しかしながら、せっかく発想の転換を試みたのだから、この先ちっとは長持ちさせたいものである。そのためには常に、わが肝に「生存は美」と銘じ、ひたすら念じてみようとは思う。ところが、この思いをすぐに断ちそうなのは、わが生来の悪癖、すなわち三日坊主である。私はいっとき、いや夜明けまで、「生存は美」の思いにひたっていたい、いやそう願っている。確かに、生きていることは、それだけで快いものである。春ボケの自演にすぎないけれど、マイナス思考の出口にありつければ箆棒に幸いである。

「雪害」

1月29日(日曜日)、つくづくバカな私である。雪や霰(あられ)やこんこんではなく、起きて、コンコンと咳をしている。春の足音コツコツなのに、どうやら風邪をひいたようである。日本語にあってバカは、「うすのろまぬけ」ともいう。「こんなはずじゃなかった」と言って、悔しがるのは正真正銘の「間抜け」である。だれだ! それは、「私」である。パソコンを起ち上げると、いつもの習性に倣(なら)い、ヤフー画面のニュース項目をチラッと見遣った。すると、富山県を中心にして北陸地方は、大雪に見舞われているという。大雪のせいで交通渋滞をはじめ、住民の日常生活が脅かされているという。あらためて書くこともない、冬季特有の「雪害」である。日本列島の南に位置する九州のど真ん中・熊本県生まれの私は、子どもの頃からこれまで、雪の怖さを知らずに生きてきた。実際には18年間の生誕地(今やふるさと)生活にあっては、大袈裟に言えば降雪予報を寝ずに待って、予報どおりに降れば数々の雪遊びを愉しんだ。雪の怖さは当時、わが家購読の「西日本新聞」で知る、雪崩(なだれ)の怖さくらいだった。もちろん私は、今なお雪崩の体験はない。それゆえに私は、(雪害という言葉、あるかな?)という、半信半疑を浮かべて、電子辞書を開いた。すると、明確に記載されていたのである。【雪害】「豪雪・積雪・雪崩のために交通機関・農作物・構築物などが受ける被害」。冒頭で用いた「雪害」という言葉は、電子辞書を開いて確認して用いたものである。咳に加えて鼻水たらたら、鼻先ムズムズ、さらには体が冷え冷えとなり、本格的な風邪症状に見舞われている。挙句、身体のブリブルは、加速度を増している。夜明けは、まだははるかに遠い。かたじけなくも、尻切れトンボのままに文章を閉じて、自称階下の「茶の間」へ逃げ込むこととする。雪害に見舞われている人たちをおもんぱかれば、わが風邪の兆しなど嘆くには当たらない。いや、バカ丸出しの文章である。つくづく、なさけない。

♪大沢先生へメッセージです5♪

先生、ベランダの水道管の破裂!! たいへんでしたねーー。
でも、すぐ行きます水道工務店さんでなによりでした♪♪
これからの『私の畑』を楽しみにしています♪♪

♪古閑さんへメッセージです♪

古閑さん、ヒアシンスの感想の御投稿をどうもありがとうございます。
窮屈なので、よっぽど鉢を分けようかな、と思ったのですが、それによって花に影響が出ないか心配になったので、このままにしました。
ヒアシンスは、永続型球根ということですので、花が咲き終わって球根の状態が良ければ分けたい、と思っております。

☆前田静良氏『ひぐらしの記第85集』御出版☆

前田さん、『ひぐらしの記第85集』の御出版、本当におめでとうございます。
心よりお祝い申し上げます。
前回第84集からハイスピード出版だと思いますが、この調子で、☆第100集☆の御出版を目指されてください☆×100
大応援しています(^O^)/×100

現代文藝社編集室だより

 

ひぐらしの記85集の発行
無味乾燥、会話を失くしつつある人間社会
             前田静良著
A5判 204頁 上製本 2,000円
ISBN978-4-906933-95-2

 

清々しい、嘆き文

1月28日(土曜日)。待っていた春が、駆け足で近づいてきた。降雪予報で驚かされたけれど、雪降りなく過ぎた。降ったとしてもこの時期の雪は、もはや冬を閉めて、春の訪れを告げる、早鐘みたいなものである。冬はもう、後ずさりはしなく、三寒四温の季節用語をたずさえて、この先一歩一歩、確かな春へと近づいて行く。ゆえに寒気を嘆くのも、いましばらくである。生きているかぎり、日々嘆くことは、ほかに数多(あまた)ある。起き立ての私は、わが身の甲斐性無しを恥じながら、亡き親(父母)の面影を浮かべて、懐かしく偲んでいる。ひとことで言えばそれは、わが不甲斐なさを省みて、親の偉さとありがたみへの追慕である。子どもの頃の私は、熊本県北部地域の山あいの片田舎にあって、子ども心特有に天真爛漫に生きていた。もちろん、生きることの困難さなど、微塵(みじん)も感じていなかった。ところが現在の私は、一女の親になり、自分自身、日々生きることの困難さを露わにしている。親は三段百姓を兼ねて水車を回し、心許ない生業(なりわい)に明け暮れていた。ところが驚くべきことには、子沢山(14人)の親業をしっかりと為していた。私は、親が生きることに苦しんだり、嘆いたりしている様子を見たことなど、ただの一度さえなかった。本来、親とはこうあるべきはずなのに不断の私は、日々生きることに四苦八苦しながら、狼狽(うろた)えかつ嘆いている。挙句、文章を書けば愚痴こぼしばかりである。なさけなくも私は、親の遺伝子を断ち、遺徳を汚(けが)している。親と子、わが親と私自身、こうも違うのかと、やはり嘆いている。しかしながら、きょうだけは親を偲んで、清々しい嘆きである。こんな文章、投稿ボタンを押すか、押すまいかと、迷っている。わが脳髄にはバカの言葉が付く、早やてまわしの春が来ているようである。春が近づいて、寒気は緩んでいる。