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坂本弘司撮影

前田さんへ「広島、原爆の日」の感想です

前田さん、昨日は御返事の御投稿、どうもありがとうございました。

ぼくも前田さんと同じく、悲惨な状況は、そののちの学びで知りました。
当時の新聞の画像を見てみますと、原子爆弾ではなく、「新型爆弾」と記載された見出しがありました。
それから、旧アメリカ軍は、原爆投下前に原爆に似た形の爆弾(原爆よりはるかに威力の弱い爆弾だったようです)を投下して、原爆製造のための実験をしていたようですね。

「広島、原爆の日」

令和4年(2022年)8月6日(土曜日)。77年前のこの日、この時間、(昭和20年(1945年)8月6日、午前8時15分、広島市において、原爆が投下された。風化してはならず、忘れてはいけない、悲しい記憶である。この時の私は、生誕地・熊本県の片田舎において、5歳と1っか月だった。それゆえに私は、原爆投下の悲惨な状況は、まったく知るよしない。だから、悲惨な状況はそののちの学びで知るだけである。きょうは、いつもの文章は休みを決め込んでいる。しかし、表題を記して、学んだ記憶を新たにしている。これくらいは、生きている者の哀しい務めだからである。

高橋弘樹様へ、感謝!

早速の「大、大、大、エール」を賜り、御礼申し上げます。
雷に肝を潰しました。
停電になれば、パソコントラブルに見舞われてお手上げです。
停電は逃れました。ほんとに、よかったです。

わが身に漂う閉塞感

八月五日(金曜日)。いまだ真っ暗い夜明け前、二度寝にありつけず起き出してきて、書くまでもないことを書き出している。わが文章は、「書いて、読んで」、気分の滅入るものばかりである。書けば、わが現在の生き様を映して、おのずからなさけない文章になる。だとしたら、書かないほうがベターである。もとより、私自身が知りすぎていることではある。だから心中では、(もう、書かない。これで、おしまい!)と、呪文(じゅもん)を唱えている。「雉(きじ」も鳴かずば撃たれまい」。こんな成句を浮かべている。すなわち書かなければ、人様にたいし恥をかくことも、私自身の煩悩(ぼんのう)をさらけ出すこともない。私とて、楽しく愉快な文章に飢えている。ところが、実際には真逆(まぎゃく)な文章を書いている。もとより、わが小器とお里の知れるところである。この誘因を成すのは何だろうか? と、あえて心中の答案用紙に解答のない自問を試みている。すると、即そして総じて浮かぶのは、わが人生の終末期に漂う閉塞感である。こうなるとすべてが始末に悪く、もはや展望への望みはない。閉塞感は、現下の社会事情と目下の個人事情からもたらされてくる。言うなればわが周囲事情のすべてであり、もちろん個人事情さえ自力ではとうてい解決の糸口さえありえない。社会事情だけに言及すれば、主たる閉塞感の誘因はこれらである。ひとつは、新型コロナウイルスの終息に目途が立たないことである。そしてひとつは、世界の国々が常にハラハラ状態にあることである。さらにひとつは、デジタル社会に身を置くことである。これらは、私自身ではまったく手に負えない難題である。閉塞感つのる個人事情の多くは、私自身のみならず身内・縁者の加齢からもたらせている。これまた、私自身ではにっちもさっちもいかない難題である。結局私は、まったく抗(あらが)えないことにじたばたして、残り短い命をみずから縮めている。自虐精神は、わが「身から出た錆」とはいえ、まったくなさけない。私はこんな馬鹿げたことを十五年ものの長い間、書いている。だから、とうに書き納めどきにきていると自覚し、そして飽き飽きしながら書いている。だから自分自身、楽しく愉快な文章にはありつけない。まして人様の場合は、況(いわん)や! である。「身も蓋もない」、もっぱら空き時間潰しの文章を書いてしまった。だから、現在の心中の呪文は、(くわばら、くわばら!)である。今にも雨が降りそうな夜明けである。心中の雨は、土砂降りである。いたずら書きのごとく長々と書いて、様々な恥と煩悩をさらしてしまった。悔いても、「後の祭り」である。

♪前田さん、良かったですね!!

こちらは、雷雨にもなりませんでしたが、鎌倉は、雷雨が去って、停電にもならず、良かったですねーー♪♪♪♪♪♪♪
さわやかな気分の前田さんへさらなる大大大エネルギー&パワーを贈ります(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/

うれしいです

雷は停電を見舞わず、空の涯に消えました。穏やかな夏の朝に戻りました。雨も去って、夕立の後のようなさわやかな気分です。

雷雨

八月四日(木曜日)、雷雨、雷鳴、雷轟、稲光の夜。停電をを恐れて、パソコンの電源を落としています。それゆえ、スマホでは指先不自由のために休みます。

屍(しかばね)の戯言(ざれごと)

ブログの文章は炎上やバッシングを避けるため、ネタに自己制限をかけてきました。それゆえ、毎日似たよう文章の繰り返しとなり、自分自身、飽き飽き気分で書いてきました。おのずから、義理や好意で読んでくださっていた人たちは、しだいに遠のいてゆきました。いくら謝っても謝りきれない、私自身がしでかした悔恨です。こんななかにあって、今なお読み続けてくださる人たちがいます。これらの人たちには逆に、いくら謝意をいだいても、いだきききれるものではない、わが身に余る果報です。突如、こんなことを書いているのは、「ひぐらしの記」の終焉の灯火(ともしび)が、明滅しているせいかもしれません。「ひぐらしの記」の執筆を含めて人生行路は、気の持ちようすなわちモチベーション(心意気)の高低に影響を受けます。私の場合、モチベーションが高いときには、生きる喜びにあふれています。ところが逆に、モチベーションが低いときには、たちまち「生きる屍(しかばね)」状態へと沈んでいます。言うなれば人生行路は、モチベーションを基準にして、二者択一すなわちどっちかへ転ぶ状態になりがちです。こんな遠回しの表現は止めて、現在のわがモチベーションは低く、ずばり生きる屍状態です。瞬時のエンストであれば、再駆動にありつけます。ところが、装置全体が壊れていたら再駆動は望めず、ここで万事休すです。「ひぐらしの記」を書く装置とは、心模様すなわちモチベーションとして現れる精神状態です。モチベーションの有無や高低を測る、たとえば体温計のような測定器はありません。もちろん、解熱剤のような薬剤もなく、それだけモチベーションの低下は、始末に負えないほどの難物です。これにたいする処方箋は、まわりまわってみずから精神力にすがる、克己心や自己発奮あるいは鼓舞などしかありません。「言うは易く行うは難し」。現在の私は、モチベーションの低下に見舞われています。夏の暑さのせいではなく、生来のひ弱な精神力のせいです。単なるエンストなのか、それとも装置全体(精神)の壊れのせいなのか。ハード(身体)は、年齢(八十二歳)並みを超えて、正常に動いています。ところがソフト(精神)は、年齢並みから外れて老い耄(ぼ)れ、いや病に罹っているのかもしれません。幸いなるかな! 自己診断では、病はまったく認知していません。しかし、人様診断ではどうかな? と、思っています。この文章に似た文章は、近いところで書きました。だから、二番煎じの文章です。こんなことではゆくゆくは? いやたちまち、読者ゼロ人が懸念されます。すでに精神が病に罹っているような、冴えない文章を書きました。薬剤要らずの効果覿面の処方箋は、心地良い夏の朝にすがっています。

子どもの頃の夏の思い出

八月二日(火曜日)、日中は猛烈に暑く、朝夕は涼しい、本格的な夏の訪れにある。起き出してきて、涼しい夜明けに身を置いている。そして、童心に返り、「子どもの頃の夏の思い出」をランダムに浮かべている。総じて、楽しい思い出を育んだのは「夏休み」だった。午前中は『夏休みの友』と、漢字の書き取りなどの宿題をした。宿題を終えると、わが家の裏を流れている「内田川」へ、猿股パンツを穿いていや多くはムチンで、跳んで行った。内田川にまつわる思い出は尽きない。水浴び、魚突き、箱メガネ、大きな岩に腹ばいになっての甲羅干し。ひりひり焼けると、すばやく水中に飛び込んだ。水浴びが長くなると、ブルブルグル震えて、唇は紫色になった。いたたまれず、岩を抱いて甲羅干しをした。こんなことを繰り返して、内田川と郷愁の双璧を成す「相良山」に太陽が沈む頃まで、私はほぼ毎日、川遊びに耽っていた。ゴロゴロさん(雷)が鳴り、入道雲がムクムクと沸いて、夕立が来そうになると怖くなり、わが家へトンボ帰った。母が「茶上がり(三時のおやつ)だよ!」と言って呼びに来ると、一時中断してわが家へ帰り、毎度毎度、ソーメンと西瓜を食べた。西瓜腹になると、再び内田川へ走った。さてそれらのほか、思い出のランダムの羅列はこれらである。まずは、アイスキャンデー売りとそれを追っかける、「待って、くださあーい…」の掛け声である。手には汗ばんだ一個の銭が握りしめられていた。蚊帳釣り、線香花火、蝉取り(多くはアブラゼミ)、しょんべんをひっかけられて、取り逃がすこともあった。ときには里山へ入り、ハサンムシ(クワガタ)を捕った。わざとハサミに指先を入れると、痛くて血が滲み出た。西瓜を食べるときには、丸出しのお腹に涎れと汁がコラボを演じて、ポタポタと垂れた。ソーメンの汁は、明けても暮れても生醤油の中に砂糖が入っていた。私は食べ飽きた。ところが父はソーメンが大好きで、馬がバケツ一杯を啜るように、スルスルと何杯も食べていた。私は食べ飽きたせいで、好きになれなかった。このことは現在まで尾を引き、麺類はこの世になくても構わない。上半身裸暮らしが多くて、浴衣の思いではない。夏祭りのときの思い出は、ラムネ、ニッキ水、かき氷、綿菓子である。父は短い昼寝を常習にしていたけれど、私は昼寝なく内田川で遊んでいた。生誕地・熊本(当時、鹿本郡内田村)は、炎天すなわち暑すぎる夏だった。わが家の涼(りょう)の取り入れは、内田川の川風と商店名の入ったウチワ(団扇)だけだった。それでも不満なく、弱音を吐いた記憶はなく、今朝は楽しい思い出ばかりが噴出している。わが人生出だしの頃の、尽きない思い出である。そしてそれらは、わが夏好きの根幹をなしている。惜しむらくは内田川が遠のいて、思い出は少しずつ色褪(あ)せて、つれてわが人生には「後がない!」。しかしながらありがたいことには、薬剤に頼らくとも「子どもの頃の夏の思い出」は、わが生存を長引かせている。ひんやりとする夏の夜明けは常に心地良い。とりわけ今朝は、思い出がよみがえり、輪をかけて心地良く、わが気分はすこぶるつきに良好である。夏の暑さ凌ぎには、「子どもの頃の夏の思い出」こそは、飛びっきりの無償の良薬と言えそうである。

八月一日

八月一日(月曜日)。過ぎた七月は、気張って書いた。嗚呼、眠れない。仕方なく、起き出してきた。心身に、焼きが回っている。生きる、エネルギーが尽きている。八月は夏休みというより、九月になっても始業式(再始動)のない長期休暇になりそうだ。きょう、今現在は生きている。「一日生存」、このところのわが努力目標になっている。私は、嘘のつけない正直者である。