坂本弘司撮影 3月28日(火曜日)。寝床から起き出し、パソコンを前にして、こんなことを浮かべている。生前の母は「三日坊主」と知りすぎて、私に対ししょっちゅう「するが辛抱、三日、三月(みつき)、三年」という、人生訓を垂れていた。すなわち母は、人生行路において辛抱することの大切さを私に諭し続けた。しかしながら私は、母の教訓に背いて、何事にも三日坊主を続けていた。今や遅し、母に謝りたい気分横溢である。一方では「ひぐらしの記」の継続に対して、草葉の陰から禿げ頭を撫でなでしてもらい、「しずよし、頑張ってるね、あっぱれだ!」と、叫んでもらいたい思いがある。母の喜んでいる姿が、沸々と心中に浮かんでいる。確かに、何事においても辛抱・我慢することは、目的を果たすためにはきわめて大切である。だからと言って辛抱することで、必ずしも目的が達せられることはない。それゆえに辛抱や我慢は、文字どおり常に辛さ、切なさ、悲しさをたずさえている。しかしながら、辛抱あってこそ目的が叶うこともまた、すべての物事の真(まこと)である。辛抱を継続に置き換えれば、こんな成句が浮かんでくる。すなわち、わが掲げる生涯学習の現場主義のおさらいである。「石の上にも三年」、「雨だれ石を穿(うが)つ」、そしてズバリ「継続は力なり」である。もちろん、類似の言葉や成句は、このほかにもたくさんある。ところが、わが貧弱な脳みそは、それらを浮かべてくれない。なぜここまで、煮ても焼いても、食えないような、突拍子なことを書いたのかと、自問を試みる。すると、自答はこうである。すなわちそれは、三年という、期間に依拠している。あんなに面倒くさがっていたマスクの着用は、「こののちの着脱は、自己判断でいいですよ!」と、言われた。長く待ち望んでいた、日本政府肝いりの御触れである。ところが私は、嬉々として「はい、そうですか」という気分にはならず、外し渋っている。ほぼ三年間の辛抱・我慢のマスクの着用は、もちろん新型コロナウイルス感染防止のためである。このことでわが身をかんがみれば、感染を免れて目的を果たしている。しかし実際のところは、三年間の慣れにすぎないものである。私は辛抱というより、三年いや、「日・月・年」の重み確(しか)と感じている三年は良くも悪くも、人間事情を変える。文意、あやふやな文章を書いてしまった。きょうの夜明けの空は、またもや確かな「雨・風・嵐」である。桜の花は、大泣きである。私は、べそをかいている。 寝起きて、慌てて書く文章は、もう限界です。鎌倉の空は、きようもまた、大嵐です。見上げる山桜は、大揺れに揺れています。 3月27日(月曜日)。自然界にあって、頃は桜の花の季節である。咲けば散る。いや、散らされる。桜の花にたいしまるで感情があるごとく、いじわる根性を丸出しにしているのは「雨・風・嵐」である。このところの桜の花にたいする雨・風・嵐の妬みと悪態ぶりには、見て反吐(へど)が出るほどである。おのずから私は、雨・風・嵐にたいする恨みつらみが絶えない。確かに、人間は感情の動物である。その証しに人間は、生まれて死ぬまで、ほとばし出る好悪(こうお)の感情に絡みつかれている。「生と死」は尊厳をともなって、「出会いと別れ」の両極にある。人間の感情にあって、命の生誕にはおおむね喜悦が付き添い、一方命の終焉には必ず悲嘆が付き纏う。命の終焉にあっては、大往生という言葉がある。ところが私には、この言葉は切なさと悲しさを隠す、まやかしに思えている。3月はきょうを含めて、残り五日の最終週を迎えている。3月は、多くの別れ(儀式)を織りなす月である。小・中・高・大の学び舎は、ほぼ卒業式を終えている。この頃では、卒園式も営まれる。実業界すなわち社会人にあっても、3月には多くの別れ(儀式)がある。それらは余儀ない定年をはじめとする退職、人事異動や職場替えなどに見られるもの、ほかにも様々な別れがある。別れには事の大小にかかわらず、去る人そして見送る人のそれぞれに、悲喜交々の感涙が溢れ出る。いや、別れには、ほぼ切なさと悲しさだけが付き纏う。けれどそのぶん、感情の動物(人間)に最も似合いの美的情景を映し出す。切なさと悲しさを和らげてくれるのは、新たな出会いである。出会いには楽しみが付き纏う。これまた、美的情景である。出会い(儀式)の多くは、月を替えて4月に訪れる。3月と4月は、おおむね別れと出会いの月である。もはや社会人崩れの私の場合は、人様の別れと出会いの情景を垣間見て、涙するばかりである。垣間見る情景の多くは、昔からこんにちにいたるまで、駅のプラットホームである。感情の動物、やはり私は、人間に生まれて幸福だったのであろう。別れと出会いに付き纏う人間の感情は、確かに悲喜交々である。しかしながらこの感情あってこそ、艱難辛苦の人生行路は、美しく彩られもする。幸いなるかな! 夜明けの空の色は、このところ雨模様を断って、ちょっとだけ明るんでいる。しかしなお、「雨・風・嵐」怪しい雨空である。 望月窯には、神棚神式がピッタリ合いますね。 先週の二十日から二泊三日で古河の実家を訪れた。この週はお彼岸だったので、十八日にお墓のお掃除をしてお花を供えお参りをした。翌十九日にはお寺に卒塔婆を頂きに行き、お墓に供えた。実家の先祖代々のお参りは、神道では春のみたままつりの案内が来るので、毎回御神前として送金をしている。 3月26日(日曜日)。窓の外は真っ暗闇にあって、夜明け模様は描写できない(4:46)。窓ガラスに掛かる二重のカーテンを開くことなく、私はパソコンを前にして椅子に座っている。起き立ての洗面にあっては歯を磨き、固定剤をたっぷりまぶして入れ歯を入れた。パソコン画面と目元の間は、30センチ程度である。そのため、メガネは掛けなくても構わない。だから、ときには外し、現在はかけている。難聴用の集音機は外して寝るままに、文章を書くには不要のため嵌めていない。キーボードの音は、響きではなく指先で感じている。音を感ずるのは、猛烈な雨・風・嵐、そして揺れをともなう地震のときである。しかし、それらの音はない。頭上の二輪の蛍光灯の明かりは、音なく光っている。ゆえに現在の私は、内外の音なし状態の中にある。大空は、地上に雨を降らしているであろうか。それさえわからないままに私は、五月雨式(さみだれしき)にキーを叩いている。夜明けの空の天気模様が、気に懸かるところである。桜の花と雨・風・嵐は、自然界においては仲間や同僚同然である。それなのに雨・風・嵐は、なぜこうも! 桜の花を妬み、悪態をつくのであろうかと、思う。ようやく開いた桜の花は、このところの雨・風・嵐のせいで、一遍に地上に振り落とされ、濡れてちりぢりになった花びらは見るも哀れである。私は桜の花にたいする雨・風・嵐の仕打ちの酷さに遭遇している。普段の私は、天変地異には怯えているものの自然界崇拝著しいところがある。だけど、桜の花に対する雨・風・嵐の妬みと仕打ちに遭遇すると、まるで人間界の悪徳を見ているようである。夜明けて大空は、またもや大雨を降らしている。柄になく、桜の花の哀しさを愛しむ、夜明けである。 古閑さん、御返事の御投稿どうもありがとうございます*(^o^)/*\(^o^)/ 大沢さん、高橋さん投稿有難うございます。昨日昼間はアーマンディの香りが庭に漂っていましたが夕方から雨、今日も朝から一日中雨で香りはありませんが夕方縁側の雨戸を閉めるまでは散ることもなく綺麗に咲いていました。 アーマンディの苗木、残念でしたね。 昨年、大騒ぎをして買い求めたアーマンディの苗木は、お恥ずかしいのですがその後二本とも枯れてしまいました。花の香りを楽しみにしていたのですが、あまり成長をしないままに少しずつ葉が落ちてしまいました。
三年は、人間事情を変える
もう、限界です
別れと出会い
♪大沢先生へ『望月窯だより』の感想です♪
望月窯の春、さらにさらに楽しみです♪♪望月窯だより
何時も実家を訪れるとまず、神棚にお参りをする。棚には父母や弟、先祖の霊璽(仏式の位牌にあたるもの)が祀られている。父母、弟の小さな写真が飾ってある。
畑に春蒔きの野菜の種(葉大根、レタス、ニンジンなど)を蒔いた。ニンニク、玉ねぎ、いちご、小松菜など順調に育っていた。水仙が花盛りで、ボケの真っ赤な花が見頃だった。源平桃、李の花も咲き始めていた。
母が亡くなって八年になるが、私の夫が母にプレゼントしたカタクリの花が二輪咲き終わっていた。だいぶ前に一株だったものが二株に増えたが、花は今年が初めてだった。
望月窯もやっと春が訪れて、これからまた草取りに追われる季節がやってきた。雨・風・嵐の仕打ち、桜の花に対するわが情け
♪古閑さんへメッセージです♪
アーマンディ、そうだったのですね!!
各画像の花の名前を教えてくださり、ありがとうございました♪♪♪有難うございます。
アーマンディはもう10年以上前から庭に咲いていたのですが一昨年までは「きれいで香りが良いな」程度で関心はあまりなかったのですが、昨年大沢さん、高橋さんの「良い花だ」と投稿をいただき急に関心がでました。ただ昨年までは花全体にボリュ―ムがあったのですが今年が一番花全体のボリュームが小さかったような気がします。私が、関心を持ちあまりにもアーマンディを見ていたので花が萎縮してしまったのでしょうか。
大沢さん一寸残念だったですね。
高橋さん、ノースポールとパンジー、2枚目はネモフィラです。♪大沢先生へメッセージです♪
また購入する機会がありましたら、ぜひ御投稿していただきたい、と思っております♪♪お恥ずかしい
古閑さんちのアーマンディは今年も元気に花盛りですね。香りは届きませんが、花の姿は素敵です。目を楽しませていただきました。私の頭の中には、思い描いたアーマンディの花が咲き誇っています。
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