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私の庭

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 ただ今、夜の八時五十三分。月下美人は開花を始めている。
たまらなく眠いのだけれど、ゆっくりと開花を始めた月下美人
に私は付き合っている。このところの熱帯夜はいくらか影を潜め
外は生ぬるい夜気がたちこめている。風もいくらか吹いており、
良い香りとは思えない微かな香りが漂っている。
 上の方に咲いている花は、開くのが遅く、私の眠気は多分開花
まで待ってはいられないだろう。下の方の花は三分ほど開いている。

私の庭

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 今夜です。弾む心を写真に撮りました。今回の月下美人の開花は
見られないと思っていたのですが、つぼみが膨らんでいて、多分
今夜には開花が見られそうです。毎年この日を迎えると胸がわくわく
します。たった一夜の夢物語ですが、何度迎えても心が浮き立ちます。

夏が好き

 今朝の前田さんの投稿を読んで、大いに共感し、ふと思い出したことがある。
私は一月生まれの山陰地方育ちで、寒さには強いはずだけれど、昔から冷え性で、
冬に豆炭のアンカで何度も火傷をした経験の持ち主である。子供の頃にはしもや
けに悩まされて、一緒に暮らしていた祖母にしもやけの特効薬だと言われ、夏の
暑い日に焼けた庭石に手をくっつけて、その効き目を願ったものだった。そのし
もやけはいつの間に悩まされなくなったけれど、冷え性で寒さ嫌いは年々耐えが
たくなってきた。
 けれど、今年の猛暑続きのせいで、「熱中症の恐怖」に悩まされると、単に
「夏が好き」などと呑気なことを言っておれなくなった。我が身の水分不足を
心配するあまり、テーブルの上に五百ミリリットルのペットボトルを二本用意し
ておいて、一日のノルマを果たさねばと神経をとがらせている。寝ていても水不
足が気になって枕元に置いている水を飲むのを義務づけている。
 「夏が好き」などと断言していた私に対する自然界からの忠告なのかしらと恨
めしくもなっている。
 人間も自然と共に生きているのだから、「暑さ寒さも彼岸まで」となすがまま
に四季を暮らしていくしかないのかも知れない。

へそまがりのわが「夏、雑感」

心に響きのいい郊外ではなく、都会の僻地しか買えなかった貧乏人の、かなりの負け惜しみだとは、とうに自認している。たぶん、山際の立地(宅地)のせいであろう。わが家は、冬は極度に寒く、そのぶん夏はとても涼しい。どちらがいいかと、天秤にはかけたくない。なぜなら、わが抗(あらが)えない気象がもたらす、どちらも天恵である。冬も暖かい日ばかりでは異常気象と言われて、人間は戸惑うばかりである。まして現代の人の世は、地球温暖化現象に絶えず怯えて、びくびくしているところである。天邪鬼(あまのじゃく)のわが結論を急げば、地震さえなければ人間界にたいする自然界のもたらす天恵は、果てなく限りがない。連日「暑い、暑い!」と言って、メディアの街頭インタービューに答えている人が多いけれど、彼らは旱魃の恐ろしさを知らないのかと、勘繰りたくなる。私が街頭で聞かれば、「夏ですから、暑いのはあたりまえですね」と、答えるであろう。もちろん、こんな答えは
真っ先に映像から消される羽目となる。なぜなら、インタービュアーの意図は、「暑い、暑い!」、できれば「これまで初めて、こらえきれないほど暑いです!」と言って、欲しいのである。だから私は、こんな街頭インタービュー光景は、メディアの手前みその夏の風物詩として、共感することなく眺めている。自然界のことは、人間があれこれと詮索(せんさく)するまでもなく、時の流れに身をまかすことこそ便法である。どんなに暑い夏でも時が過ぎれば、「もう、夏が終わるのか! いやだな…」と、思うほどに早く秋風が吹いてくる。すると人間は、「ゆく夏を惜しむ…」という、これまた身勝手な詩的感情を露わにする。このところ道路を掃いていると、あちこちに楕円形の青い実が転がっている。たちまち、それらを指先で拾い上げる。落ち葉と一緒にそれらを金属の塵取りに、情なく掃き入れるには忍び難いからである。秋になればこの実は、木通(アケビ)、それとも郁子(ムベ、ウベ)のどちらに、姿を変えるであろうか? と、思いを浮かべる。私はひととき郷愁に浸り、やがては秋の山の楽しみの一つとなる。いまだ夏の入り口にあって秋へ先駆けるのは、確かに気が早いところではある。秋は自然薯や山栗、山柿が生り、そして里には、総じて実りの秋と果物の秋が訪れる。夏がどんなに暑くても、日本列島には四季の恵みがある。だから、いっときの暑さなど、嘆くまい。七月三日(日曜日)、久しぶりに二度寝にありつけて気分が良いせいか、暑い夏礼賛はもとより、気が早く秋の季節へ思いを馳せている。へそ曲がりのわが、消夏のしかたの一つかもしれない。一瞬忘れかけていたけれど秋は、地震の頻発に加えて、台風シーズンたけなわである。だからと言って私は、もとより自然界の営みに恨みつらみはない。いや実際にはそれも、地震さえなければという、限定付きではある。朝日の輝きのない夜明けにあって、私は早やちょっぴり秋の気配を感じている。案外、「短い夏を惜しむ」ようになるかもしれない。そうだと困るなあー、私は夏好きである。もちろん、冬に比べてのことだけれど…、それでもやはり短い夏は、真っ平御免被りたいものである。人間には総じて、空威張(からいば)りや負け惜しみはつきものである。とりわけ私は、その性癖一入(ひとしお)なのであろう。挙句、この文章は、へそまがりのわが「夏、雑感」である。

私の庭続き

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 ただ今午前十一時五十六分、窓の外を見ると、パッションフルーツの花が
咲いていた。慌てて、綿棒を取り出して受粉した。これで三輪目だけれど、
一輪目は、やっと実が大きくなりはじめたら、カメムシにやられて、傷だら
けになった。とても写真に撮ってお見せできる物ではない。二輪目は、受粉
失敗で結実しなかった。本日の三度目の受粉は、なんとか無事に成功して欲
しい。

私の庭

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 今年の月下美人は寒さと猛暑で傷だらけの葉っぱになりながらめげずに四つの蕾がついた。
よく頑張ったねとほめてやった。後は例年通りの純白の開花を待っているだけだけれど、私は月曜日から古河の実家に行く予定をしており、開花は見られないかもしれない。けれど、今年も花の時期を迎えることができて感激している。

実のない文章で、早起きの暇はつぶれている

まだ眠いのに二度寝にありつけないことは、お釈迦様が説く四苦八苦に次ぐ、人間の苦しみなのかもしれない。こんなことを胸中に浮かべて、きょう(七月二日・土曜日)もまた、仕方なく起き出してきた。とことん、バカな私である。起き出せばこれまた仕方なく、パソコンを起ち上げている。とことん、バカの上塗りである。バカの証しに、実のない文章を書き始めている。壁時計の針は、いまだ夜間と言える四時前あたりをめぐっている。「夏至」(六月二十一日)が過ぎたばかりなのに、それでも体感的には夜明けを遅く、夕暮れを早く感じ始めている。外働きの職業や、わずかの家内仕事さえいっさい持たない私は、いまだ夜間とも言えるこんな時間に起き出すのは、早すぎて損々である。精神異常をきたしているのか? と、自問するところである。もちろん、自答はノーである。しかし、尋常でないことは、承知せざるを得ない。「春眠暁を覚えず」。春とは言わず夏の夜明けにあっても、この成句に浴することに、こしたことはない。ところが今や、この心地良い成句は、私から遠ざかり死語になりかけている。仕方ない早起きだけれど、そうであればわが子どもの頃のように「早起き鳥」の声を耳にして、起き出したいものである。実際には、懐かしさつのる夢まぼろしである。起き立ての私は、開くまでもないと思いながら、電子辞書を開いた。そして、二つの言葉を見出し語にした。一つは、四字熟語の自業自得である。「自業自得:仏教で、自分が犯した悪事や失敗によって、自分の身にその報いを受けること」。一つは、泡沫である。「泡沫:①あわ、あぶく、うたかた、みなわ。②はかないもののたとえ。泡沫候補」。幼稚園児はともかく、小学生なら入学したての一年生でさえ知りすぎている簡易な言葉である。それなのにあえて開いたのは、こんな気持ちが心中に渦巻いていたせいである。すなわち前者は、このところのカウント数値の減り傾向が、わが長い駄文のせいかなと、思っていたゆえである。後者は、参議院議員選挙における、テレビ演説を耳にして、泡沫候補の心境をおもんぱかっていたからである。結局は起き立の暇つぶしにすぎない。確かに、私自身には精神異常の自覚症状はない。だけど、はた目にはどうかな? と、思うはざるを得ない、似非(えせ)「早起き鳥」の嘆きである。ほとほと、実のない文章である。涼やかに明けた夏の夜明けが、わが気分を癒し、とめどなく慰めている。

七月初日

悪夢は、どうやら悪鬼のしわざらしい。ところが悪鬼は、いくら追っ払っても日を替えて、よりもよってわが就寝中に現れる。これでは、安眠をむさぼれるはずはない。いやそのしわざは、安眠をさまたげるだけにとどまらず、一度目覚めると尾を引いて、二度寝にありつけないという、悪だくみを引っ提げている。鬼は実際にはこの世にいなくて、得体のしれない想像上の化け物(怪物)だと言う。だから人間は、鬼を懲らしめようがない。それゆえ、人間ができるあからさまな鬼退治は、節分の日の「鬼は外、福は内」の掛け声とともに、鬼仮面へ豆礫(まめつぶて)をぶっつける豆まきくらいである。昔話に語られる桃太郎は、鬼ヶ島の鬼退治で名を馳せた勇者である。現代の世では桃太郎のような正義感強い勇者はだれもいなく、悪鬼の為すがままである。とりわけ私は、悪夢をしでかす悪鬼に襲われると為すべなく、ほうほうのていで寝床から逃げ出してくるか能はない。月が替わってきょうは七月一日(金曜日)、ところが月替われど悪夢は遠のかず、私はいつものようにきょうもまた逃げて、寝床から起き出してきた。挙句、夜中、三時過ぎの起き出しである。これによる唯一の幸福は、夏の夜明け模様にたっぷりと浸れることである。だからちょっぴり、「牛にひかれて善光寺参り」の心境にはある。そして、鬼のしわざについて、ふと浮かんだ言葉をわが掲げる生涯学習における現場主義にしたがって、電子辞書を開いた。「鬼の霍乱(かくらん):いつもは極めて壮健な人が病気になることのたとえ」。想像上とはいえ鬼が心中に現れなければ、わが身体は病知らず、精神は安寧をむさぼることができるはずだ。少なくとも、悪夢に妨げられず、安眠をむさぼることができるはずだ。つくづく、残念無念である。わが誕生月、七月の書初めがこんな実のない文章ではなさけない。梅雨が明けるやいなや連日、猛暑が続いている。そのせいか、掲示板に訪れる人の数値(カウント数)は減る傾向にある。この先、七月と八月の二か月にわたり、いっそう暑い日が続くこととなる。そうであれば私は、一重(ひとえ)にいや三重八重(みえやえ)にご常連様のご健勝を願うのみである。きょうはこのことを切に願って、書き止めである。白々と夜が明けたが、壁時計の針はいまだ四時半過ぎである。私は涼しいうちに、庭中の草取りに精出すというより、朝御飯までの暇つぶしをするつもりである。きわめてかたじけなく思う。七月初日、いつもながらの起き立ての殴り書きの文章である。

支離滅裂

六月三十日(木曜日)、就寝中の私は、夢の中に生きていた。それも、ほとんど悪夢の中に生きていた。私は無名人。だから苦心惨憺しながら書いても、読んでくださる人たちは、手足の指の数をわずかに超えるくらいである。それゆえにこれらの人たちは、私にとっては恩人を超えて神様と崇めてもいい人たちである。ところが、ほとんどそれらの人たちの名さえ知らない。もとより、感謝の思いを伝える手立てはない。だからなお、対面で感謝を伝えたい思い山々である。翻って世の中の有名人は、みずからは一字さえ書くことなく、ゴーストライターに書いてもらい、星の数ほどの読者にありつける。もちろん、僻んでいるわけではない。起き立てに、ちょっぴり書いてみたくなっただけである。言うなれば、悪夢払いの便法である。まだ時間は早いのに、夏の夜明けはすでに朝日がキラキラと光っている。何たるさわやかな夏の朝、いや夏の夜明けだ。実際にはこの気分が、悪夢をすっかり払ってくれている。このところの私は、梅雨が明けるやいなや、夏風または夏の朝風の快さなどを立て続けに書いた。そしてきのうは、これらの打ち止めいや総括みたいに、「わが、夏礼賛」という文章を書いた。しかし、これで打ち止めとするのはもったいなく、まだ書きとどめて置きたいものある。無論、付け足しとは言えず、わが体感に違いを変えて、夏の朝風にも匹敵するものである。だから順位をつけずに、夏にかぎりわが好む風を掲げてみる。それらは、朝風、昼風、夕風、そして夜風である。もちろんこれらは、言葉どおりだとかなりの違和感がある。しかしながらどれもが、心地良さを恵んでくれることにはかわりない。昼風の場合は、ズバリ木陰にたたずんでいるおりに吹いてくる涼風、夕風は夕涼みどきに吹いてくれる心地よい風、夜風はこれまたずばり、網戸から忍び込むひやりとする風である。風と並んで雨もまた、夏の雨は好し! と、書きたいところはある。ところがこちらは、日照り雨と夕立くらいである。このところの私は、書き殴り特有に長い文を書いている。だからきょうは、意図してこれで書き止めである。こんな味気ない文章を読んでくださる人たちは、私にとってはやはり、いつわりのなく現(あらひと)の神様である。悪夢には、魘(うな)されるとう常套語(じょうとうご)がつきまとう。漢字の成り立ちからすれば、確かに「鬼」の仕業であろう。だとしたら、追っ払ってもつきまとう、飛びっきりの悪鬼(あくおに)なのだろう。ならば、さわやかな夏の夜明けで鬼退治である。現在のわが気分は、鬼を懲らしめてさわやかである。ただし、あまりにも支離滅裂で、この文章には表題をつけようがない。仕方ない、ずばり支離滅裂としよう。表題はどうあれ、鬼退治を果たし、悪夢を遠のけて、わが気分は爽快である。

わが、夏礼賛

六月二十九日(水曜日)、二度寝にありつけないため、仕方なく起き出している。ところが、これには予期しないオマケがある。いくらか長くは夏の朝、短くはその夜明けが楽しめることである。窓ガラスを網戸にきり替えると、「あなたをうずうずして待っていました!」とばかりに、夏風いや夏の朝風がわが身に吹いてくれる。私は、この瞬間が好きである。これを超える無償の風の恵みは、炎天下にあって木陰にたたずむおりに、わが身にさらっと当たる涼風(すずかぜ)である。共に、有償のビールなどで喉や身を潤すまでもない、無償でありつける心地良さである。風のありがたさをしみじみと感じるのは、こんなおりに吹く風、すなわち夏風である。決め手のここで、転換ミスで「夏風邪」と誤れば、わが「夏風」礼賛は台無しである。心地良い夏風と比肩してもう一つ、わが夏好きを成しているのは、着衣の軽装である。いやこちらは、心地良い夏風を凌いで、飛びっきりの夏礼賛を成している。半ズボン、猿股パンツ、ふぁふぁのステテコ、薄地の半袖でシャツの恩恵など、これらこそわが夏礼賛の筆頭に位置している。長く文章を書き続けていると、はからずも四季折々に同じようは文章を書いている。もちろん、反省しきりである。しかし一方、それは仕方のないことだと、自己弁護する気持ちも旺盛である。なぜなら、もとより私は、創作文は書けない。だから、『ひぐらしの記』に甘んじて、文字どおり書き殴りで日記風に書いている。すると、わが脳髄の乏しさに加えて、毎年、四季折々に書くネタはほぼ同様となる。私には、それらのネタを焼いたり煮たりする能力はない。挙句、二番、三番煎じどころかいやいや、自分自身が飽きて呆れかえるほどに、繰り返し書き続けているにすぎない。確かに、このところの私は、駄文を字数多く書き続けている。もちろんこれには、仕方がないという自己慰安は捨てて、反省しきりである。だからきょうは、尻切れトンボを自覚してまでも、これで書き止めである。いや、少しだけ自己弁護をすれば、きのう纏めた草取り袋、そして庭木の切り枝の束をごみ置き場へ持ち込むためである。これらの持ち込みは、週一・水曜日に限られている。とっくに、夜明けの朝日は輝いている。朝御飯の支度までには、まだかなりの時を残している。もちろん、朝飯前の一仕事とも言えない。ただ、無性(むしょう)に夏の夜明けの心地良さを実感できるひとときである。