坂本弘司撮影 前田さん御出版の☆『ひぐらしの記第88集』☆の武田英子氏の表紙画は、京都 八坂通りで、五重塔は法観寺の八坂の塔だったのですね!! 前田静良著 ひぐらしの記第八十八集のカバー、表紙、扉画は武田英子氏作です。 「秋分の日」(9月23日・土曜日)が去ってこの先は、「冬至」(12月22日)へ向かって、日に日に夜長を深めてゆく。もちろん寒気もまた、日ごとに強まりゆくこととなる。つれてわが日暮らしは、おのずからこれらに備える、臨戦態勢を強いられてくる。長い夜にあっては心理的に、寂寥感が弥増すこととなる。もとより秋の季節には、寂しさつのるところがある。ところが、長い夜にあっては、この寂しさが上増してくる。端的に言えば、物想う季節の深まりである。これに耐えるには、私は強靭な精神力を持たねばならない。秋分の日が去って現在、わが確かな心境である。「春夏秋冬」、季節は時々刻々とめぐる。もとよりそれには、抗(あらが)っても、叶わぬ抵抗である。そうであれば私は、日々「是れ、好日」を願うところである。深まりゆく秋には物思いと併せて、「読書の秋」という好機がある。ところが私の場合は、子どもの頃から灯火親しむ読書の習慣がない。今となっては、「後悔、先に立たず」である。確かに長い夜は、「ひぐらしの記」の執筆には有利である。しかしながら半面、ネタがなければ悶々とする長い夜となる。現在の私は、早やてまわしにこのことを恐れて怯えている。生来、私はつくづく損な性分である。「生と死」、もとより人間は、自分の意思で生まれ、自分の意思で死ぬ、ことはできない。言うなれば人生とは、ケ・セラ・セラである。だからこの先の長い夜には、できるだけこんな心境をたずさえて、臨みたいものである。秋分の日が去って、私は長い夜の過ごし方に、一考をめぐらしている。9月24日(日曜日)、夜明けてきのうの雨模様は止んで、のどかに中秋の朝日が昇り始めている。「中秋の名月」(9月29日)が近づいている。 前田さん、御返事の御投稿どうもありがとうございます*(^o^)/*\(^o^)/ 私の怠惰で久しぶりです。エールを賜り、夏風邪が治り、元気になりました。御礼申し上げます。 前田さん☆『ひぐらしの記第88集』の御出版おめでとうございます。 前田さんの季節にちなんだ『ひぐらしの記』は、読み応えアリ!! ですので、☆第100集☆の御出版に向けて、さらなる御活躍にエールを贈ります☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆×10 新刊の発行 秋彼岸の中日「秋分の日」(9月23日・土曜日)、デジタル時刻は、5:14。とっくに夜明けていいはずなのに、未だに夜の佇まいである。夜明けが遅いのは、夜明けても朝日が雲隠れしているせいであろうか。実際にはいくらかまだ昼間の方が長いらしいけれど、彼岸の中日は、昼間と夜間の長さが同じと言われている。そして、この日を過ぎれば「冬至」(12月22日)へ向かって、しだいに夜間が長くなってくる。秋彼岸の中日・秋分の日に対応するのは、春彼岸の中日「春分の日」である。また、冬至に対応するのは「夏至」である。バカじゃなかろか私は、カレンダー上のわかりきったことを書いている。それでも、書きたくなる確かな季節の屈折点である。人間の日常生活は、「春夏秋冬」という季節のめぐりに一日さえ逸脱することなくめぐり、営まれている。そのため、明らかな季節の屈折点は、普段の生活に埋没させ、素通りできるものではない。言うなれば季節の屈折点は、人間の日常生活にメリハリをつけ、心模様の変化をもたらすのである。秋分の日であればこの先の夜長の先駆けであり、同時に人間に冬支度の心構えをもたらしてくる。寒気を極端に嫌うわが心身にすれば秋分の日は、早やてまわしに寒気に慄く入り口となる。しかしながら秋分の日前後は、一年の中で最も肌身に優しい好季節の真っただ中と言えそうである。秋分の日に比べて春分の日は、必ずしもそうとはならず、体験上よく、寒の戻りや小嵐に見舞われるところがある。春分の日に比べると秋分の日の気象の悪態は、悪天候の中でも小雨程度である。さて、きょうの秋分の日の夜明け模様はどうか? いくらか夜が明けてきた(5:32)。夜来の雨なく、今も雨は降っていないけれど、やがて雨が降りそうな曇天である。しかしながら、寝起きの心地良さは満点である。週末の土曜日に祝日が重なり、振替休日を一日損したと嘆く必要もないわが身は、心地良い秋分の日である。しかし、明日からの寒気の始まりには要注意である。一方、夜長の訪れには、気にすることはない。 9月22日(金曜日)。秋彼岸という好季節にあって、遅れてきた夏風邪をこじらせ、気分憂鬱の日が続いている。ほぼ毎年陥るとんだ失態である。自業自得、この上はない。加齢による身体の衰えは、まさしく「弱り目に祟り目」である。子どもの頃のカルタ遊びの読み札の一つを、こんなところで用いるのは、実践体験とはいえなさけない。知りすぎている「夏の寝冷え」現象に、大のおとなが毎年陥るようでは、はなはだバカ丸出しである。ファンとするタイガースが優勝し、いろんな冠の秋の訪れにあって、冒頭にこんな文章を書くようでは、確かにバカの上塗りであり、これまたとことんなさけない。今朝の自然界は、小雨模様の夜明けである。せっかくの好季節にあって自然界は、人間界に対しちょっぴりいたずらしている。しかしながら小雨模様は、自然界の草根木皮には潤いをもたらしている。窓ガラスを開けて見た、山の木々および木の葉、さらには空き家の空き地に残されている植栽の緑には、艶々と露がしたたり、生気がよみがえっている。そうであれば人間界は、秋晴れの朝日が昇るまで、いっときの我慢をし、同情心を持たなければならない。なぜなら、せっかくの好季節の秋は、人間界および自然界こぞって、共利共存でめぐりたいものである。憂鬱気分の文章はここで結んで、身勝手にも継続文の足しにするつもりである。頃は好し、明日は秋彼岸の中日、「秋分の日」(9月23日・土曜日」である。 きのう(9月20日・水曜日)は妻の骨折入院以来、長く休んでいた卓球クラブの練習に出向いた。出かけるときの私は、まるで浦島太郎みたいな気分だった。しかしながら、すぐに馴染んで気分は解れた。茶の間に居座って、妻とだけ向き合っているより、気分直しになることを実感した。このことでは半面、妻に対し、すまない心地になっていた。だから今度は、妻の場合卓球はできなくても仲間との語らいに、妻を引率同行しようと思った。もちろんこれは、私同様に妻の気分直しのためである。妻に対する、配偶者の無償の情けでもある。やはり人間は、他人様との出会いや会話の渦に巻き込まれてこそ、エネルギーが満ちて、気分は和んでくる。久しぶりのわが実体験による、尊い実感であった。妻もまた、卓球が好きである。しかし現在の妻は、卓球クラブはもとより外出行動がままならず、茶の間暮らしに明け暮れている。幸いにも妻は、茶の間でテレビ視聴が大好きである。ところが、これには会話がともなわない。会話がなければ、適当な言葉探しや、脳髄の緊張感ある働きは必要ない。これらのことから人間にとって緊張感は、生きるための必要悪だと、あらためて実感するところがある。すなわち人間は、のほほんと暮らせば、のほほんと老いるばかりである。その証しに通い詰めの常連の仲間たちはみな、明るく溌溂と生きていた。とりわけ女性連の元気良さは、男性連をはるかに凌いで、際立っていた。男性に比べて女性の平均寿命の長さを、如実に感じた一日だった。秋には、何かにつけて冠がつく。わがことで先陣を切ったのは、先日の「食欲の秋」だった。するときのうは、小さな「スポーツの秋」と、言えそうである。この先、いろんな冠の秋に出合えそうである。しかし、わが身には「芸術の秋」は無縁である。
♪大沢先生へメッセージです♪
教えてくださり、どうもありがとうございました。現代文藝社編集室だより
風景は、京都 八坂通り 五重塔は法観寺の八坂の塔。「秋分の日」が去って、想う
☆前田さんへメッセージです☆
夏風邪が治ってなによりですねーー\(^o^)/\(^o^)/
これからの『ひぐらしの記』も楽しみにしています(o^^o)高橋弘樹様へ、感謝!
☆祝!! ☆前田静良氏☆『ひぐらしの記第88集』御出版!!☆
心よりお祝い申し上げます。
今回も表紙画は武田英子氏で、素晴らしいのですが、京都でしょうか? 奈良でしょうか?現代文藝社編集室だより
ひぐらしの記 第八十八集 前田静良著
秋分の日
バカ丸出し文
切ない「卓球クラブ」
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