茶の間のソワァにもたれて、窓ガラス越しに、日本晴れの空を眺めている。今朝の文章は鼻炎症状のせいで気分すぐれず、書かずじまいだった。ところが、久しぶりに訪れた胸のすく秋空を眺めていると、こんな文章でも、書かずにはおれなかった。もちろん、文章とは言えず、表題の付けはようなく、無題でいいだろう。いや、秋空の恩恵と付けよう。 十月十九日(水曜日)、きのうの「へま」を引きずり、気分の重たい夜明け前にある。きのうのへまとは、長々と書いた文章が消えて、なぜか前日の文章にきのう書いた文章の見出し語だけを乗っかけて、投稿ボタンを押していたのである。へまの経緯は、今なお分からずじまいである。いよいよ私には、認知症の兆しが表れているのかもしれない。うっかりミスとは言えず、病の兆しであれば一時のへまと言って、安穏としてはおれないつらい事件だった。これに重ねて怯えていることでは、きのうは水道水の出しっぱなしがあった。ゆえにきのうは、わが神経を危ぶむ一日だったのである。きのう書いて消えていた文章の表題には、「風前の灯をフーフー、吹いている」と、付けていた。それは「ひぐらしの記」を書く気力が萎えて、今にも消えそうは風前の灯を消すまいと、竹筒の火起こしをフーフー吹いている風景になぞらえたものだったのである。しかし、こんな無意識の「へま」をやるようでは、いよいよ「ひぐらしの記」は蔵入れ(終結)の決断の時にある。きょうはみずからに謹慎を課して、書くつもりなく起き出してきた。ところが、こんないたずら書きをしてしまった。きのうに続いて「詫びる」ところである。 「風前の灯」をフーフー、吹いている。これは、きょう10月18日に書いたものの見出し語です。ところが全文、きのうの文章の重なりで、きょう書いた見出し語にそうものは、消えている。苦労して書いたのに、私は投稿ミスをしでかしています。お詫びします。 十月十七日(月曜日)、早い起き出しで、未だ夜明け前の四時過ぎである。それゆえに、執筆時間はたっぷりとある。しかしながら、書きたいネタもない。それよりなにより書く気分は、いまだに失せたままである。確かに、きのうもそうだった。だから、ずる休みへ逃げ込んだ。きょうも、きのうの二の舞を恐れていた。ところがそれを恐れて、どうにかパソコンを起ち上げた。しかしながら気分は、きのうの二の舞同然にある。きのうの昼間は、秋天高い胸の透く秋空に恵まれた。長くぐずついていた天気のせいで、いつまでも乾ききれないでいた道路がようやく乾いた。天気の晴れは、気分の晴れを招くおおもとである。得たりやおうとばかりに昼間、私は絶えていた道路の掃除を勇んで敢行した。確かに、わが気分は和んでいた。てっきりその証しは、掃除の丁寧さに現れた。すなわち、きのうの私は、持病の腰痛さえ厭わずかがめて、道路や側溝の小草のすべてを根こそぎにした。おおかた乾いていたとはいえ、それでも目の粗い舗面には、小嵐くらいでは剥ぎきれない落ち葉がこびりついていた。これらもまた私は、腰をかがめて指先でことごとく剥いだ。抜き取った草や、剝ぎ取った落ち葉のすべてを舗面に散らかすと、仕上げは箒で丁寧に掃いた。さらに最後には塵取りで掬い、物置から持ち出しの透明袋に入れた。風なく、日照りあり、私は汗だくだくになっていた。それにもかかわらず、気分はいたって爽快になった。好天気はようやく、待ちに待っていた晩秋の胸の透く気分を恵んでいた。舗面のいたるところには季節を表す、どんぐりが転げていた。ただ惜しむらくは、いつもの早朝とは異なり昼間の掃除ゆえに、だれひとりご常連のお顔見知りの人に出遭うことはなかった。自然界の恵みの中にあってもなお、私にはお顔見知りの人たちとかわす笑顔や会釈があってこそ、わが気分の良さは増幅することをはっきりと知らされたのである。確かに、早朝であってもわが加齢のせいで、お顔見知りの人たちとの出遭いは減る傾向にある。至極、残念無念である。ゆえに早朝であってもこのところの道路の掃除には、わが命の限界を知らされるところがある。一方、秋深まるこの季節、いのち尽きた落ち葉もまた、日ごとに増えている。相身互い身、秋はやけに「命」浮き立つ季節である。やっとこさずる休みは免れたけれど、気分はいまだにすぐれないままである。夜明けてみれば小雨模様である。窓ガラスを開けて眺めた舗面は、わずかに濡れている。それでも早朝散歩のご常連の人たちは、速足でめぐるであろう。私にはきょうの早朝の掃除は無用である。ご常連でお顔見知りの人の幾人かが、落ち葉の少ない舗面を眺めて、わが無事いや生存を知っていただければと、思うところである。 十月十七日(月曜日)、早い起き出しで、未だ夜明け前の四時過ぎである。それゆえに、執筆時間はたっぷりとある。しかしながら、書きたいネタもない。それよりなにより書く気分は、いまだに失せたままである。確かに、きのうもそうだった。だから、ずる休みへ逃げ込んだ。きょうも、きのうの二の舞を恐れていた。ところがそれを恐れて、どうにかパソコンを起ち上げた。しかしながら気分は、きのうの二の舞同然にある。きのうの昼間は、秋天高い胸の透く秋空に恵まれた。長くぐずついていた天気のせいで、いつまでも乾ききれないでいた道路がようやく乾いた。天気の晴れは、気分の晴れを招くおおもとである。得たりやおうとばかりに昼間、私は絶えていた道路の掃除を勇んで敢行した。確かに、わが気分は和んでいた。てっきりその証しは、掃除の丁寧さに現れた。すなわち、きのうの私は、持病の腰痛さえ厭わずかがめて、道路や側溝の小草のすべてを根こそぎにした。おおかた乾いていたとはいえ、それでも目の粗い舗面には、小嵐くらいでは剥ぎきれない落ち葉がこびりついていた。これらもまた私は、腰をかがめて指先でことごとく剥いだ。抜き取った草や、剝ぎ取った落ち葉のすべてを舗面に散らかすと、仕上げは箒で丁寧に掃いた。さらに最後には塵取りで掬い、物置から持ち出しの透明袋に入れた。風なく、日照りあり、私は汗だくだくになっていた。それにもかかわらず、気分はいたって爽快になった。好天気はようやく、待ちに待っていた晩秋の胸の透く気分を恵んでいた。舗面のいたるところには季節を表す、どんぐりが転げていた。ただ惜しむらくは、いつもの早朝とは異なり昼間の掃除ゆえに、だれひとりご常連のお顔見知りの人に出遭うことはなかった。自然界の恵みの中にあってもなお、私にはお顔見知りの人たちとかわす笑顔や会釈があってこそ、わが気分の良さは増幅することをはっきりと知らされたのである。確かに、早朝であってもわが加齢のせいで、お顔見知りの人たちとの出遭いは減る傾向にある。至極、残念無念である。ゆえに早朝であってもこのところの道路の掃除には、わが命の限界を知らされるところがある。一方、秋深まるこの季節、いのち尽きた落ち葉もまた、日ごとに増えている。相身互い身、秋はやけに「命」浮き立つ季節である。やっとこさずる休みは免れたけれど、気分はいまだにすぐれないままである。夜明けてみれば小雨模様である。窓ガラスを開けて眺めた舗面は、わずかに濡れている。それでも早朝散歩のご常連の人たちは、速足でめぐるであろう。私にはきょうの早朝の掃除は無用である。ご常連でお顔見知りの人の幾人かが、落ち葉の少ない舗面を眺めて、わが無事いや生存を知っていただければと、思うところである。小雨の夜明け、きょうの昼間の秋天は、望めそうにない。 十月十五日(土曜日)、今にも雨が降りそうな小嵐の夜明けにある。すっかり私日記風に文章を書いていると、このところは明けてくる日も、悪天候ばかりと思うところがある。この表現は必ずしも当たっていない。なぜなら思うというより、実際にもそうだからである。頃は中秋を過ぎて、すでに晩秋へ深入りしている。それなのに大袈裟な表現に切り替えれば、私には初秋からこれまで好季節・秋の天候に恵まれた実感がない。さらにくどく言葉を重ねればこの秋、私は秋天高い胸の透く天候の恩恵を感じていない。異常気象と天候不順は、同義語なのであろうか。いずれにしても、大損気分横溢である。そぼ降る雨の中、きのう私は、長く途絶えていた「今泉さわやかセンター」(鎌倉市)へ出向いた。ここには、妻と共に所属する卓球クラブがある。しかしながら、妻の転倒事故(騒ぎ)以来、突然介助役が降ってきて私は、自分だけでも卓球クラブへの足が遠のいている。ここには卓球クラブ同様に、カラオケ同好会のクラブもある。音痴の私には用無しのクラブだけれど、歌好きの妻は嬉々として所属している。ところが、転倒事故以来おのずから妻の足は、途絶えたままである。カラオケクラブには、優しい高齢の男女の仲間がいる。きのうはその仲間のおひとり、近くの男性から妻へ誘いの電話があった。マイカーでの迎え送りつきだという。これにはこんな事情もあった。それは妻がこれまで長い間、買って持ち込んだCDが不要となり、持ち帰って欲しいという用件であった。そうであれば迷惑をかけるから、行かざるを得ない。持ち帰りに妻ひとりではさらに迷惑をかけると思い介助役の私は、いつものように引率同行した。きのうは、雨のせいか十人足らずの高齢仲間が来ていた。妻は久しぶりにマイクを握り、持ち歌・愛唱歌(懐メロ)の何曲かを歌って、心を躍らせていた。舞台は畳敷きの大広間である。介助役の私は、高齢仲間の歌謡ショーをだれかれになくお愛想の手を叩き、三時間半ほど見入っていた。妻の気分は高揚し和やか、わが、妻孝行の一日だった。読んでくださる人にとっては、まったく味気ない文章である。「ひぐらしの記」は、すっかり私日記へ成り下がり、大恥晒しさえ厭(いと)わなくなってしまい、ほとほとなさけない。雨降りは免れそうだけれど、いまだ朝日は雲隠れのままである。 十月十四日(金曜日)、夜明けは小雨まじりの小嵐。自然界は好季節をそっちのけにして、悪天候が続いている。わが身体および精神は共に不良が続いて、文章を書く気分が殺がれている。無理して書くネタもない。恥を晒して書くこともない。休みます。わが子どもの頃のおんぼろバスにたとえれば、突然のエンストではなく、手回しでエンジンをふかしても、再起動にありつけそうにない。ほとほと、困ったものである。 十月八日に冬の野菜の種を蒔いた。私の家の近くには野菜の種を売っている店がなく、去年、家から徒歩で二十分あまりの百円ショップで売っていることをつきとめた。ところがそのときはすでに冬野菜の時期は過ぎていて、今年の春を待ってようやく買うことができた。 十月十三日(木曜日)、いまだ暗闇の夜明け前にある。パソコンを起ち上げたけれど、気分が乗らず長く机上に頬杖をついている。気分喪失の原因は体調不良に加えて、パソコン操作の未熟さが起因している。世の中はパソコンにかぎらず、すべてに日進月歩、デジタル社会を強めるばかりである。それゆえにこれらに不得手の私の場合は、日常生活が鬱陶しさまみれにある。一方、あらゆるデジタル機器を駆使できる人には、確かにきわめて便利かつ有効な社会であろう。だから、無能の私からしたらそれらは、どんなに崇めても崇めきれない、羨望著しい人たちである。私にとってデジタル社会は、恨めしさつのるばかりである。もちろんそれは、私だけのデジタル事情である。日常生活にあってもう一つ鬱陶しさおぼえているものには、ポイント(固定客引き込みのオマケ)社会がある。これまた、無能ゆえのわが固有事情の鬱陶しさである。テレビ通販の誇大広告も耳障り激しく、鬱陶しいかぎりである。結局、無能の私にとって文明の利器社会は、きわめて生きにくい社会である。しかしながら、わが固有事情であるゆえに、これらに泣き言は言っても、もとより逆らうことはできない。なぜなら、確かにデジタル社会は、総じて便利な世の中を生み出し、この先へ向かっていっそう加速度を強めて、進化するばかりである。挙句、これに取り残されているわが身の無能を嘆くより仕方ない。再び書けばデジタル社会は、私にかぎればきわめて生きにくい世の中である。ネタのないパソコン生活は苦痛である。頬杖をついているうちに、薄っすらと夜が明けてきた。風雨まじりの夜明けである。 わたしの作品を思い出して下さり有り難うございます。読んでくださる方がいるのも嬉しいのですが、心に思いとどめてくださるのはなおさら喜びです。作品を生み出すのは大変です。明けても暮れてもそのことばかりが気にかかり、重苦しい日常になってしまいます。そんなに苦しいのであれば、止めれば良いのにとどこからかささやきが聞こえてきます。それでもその声に引きずられてしまったら、私の日常は味気ないものになってしまいます。秋空の恩恵
「へま」は、認知症の兆しか?
お詫び
「風前の灯」をフーフー、吹いている
ひとときの秋天
妻孝行
故障
私の畑
今回も時期を外れないように気をつけていて買うことができた。春菊、小松菜、サニーレタス、葉大根、小カブ、二十日プランター用のプランター用の有機土をネットで購入したら、西洋赤大根の種が五粒サービスされていた。三日で芽が出るとあったので蒔いたら確かに出た。
根がついてる小ネギを購入して、葉の部分を使用した後、いつも根の部分はプランターの土に植えておく。時間はかかるが、やがて葉が出て摘み取って食べている。
だいぶ前に葉がついたパイナップルを購入した。葉があまり立派だったので果実の部分は食べて、葉は鉢植えにして置いた。根付いたようで青々と元気だ。実が成るとは思えないけれど。なんとなく期待してしまう。
この秋も私の畑は全て芽が出て収穫が楽しみだ。嗚呼、嘆息
前田さんへ謝意