十月二十七日(木曜日)、すっかり明けきった夜明けは、満天かぎりなく胸の透く晩秋の青空にある。このところの文章の冒頭は、夜明け模様の定型文へ成り下がっている。もちろん、こんなことではまずいと思うけれど、パソコンを起ち上げてまず見るのは、前面の開けっ広げの雨戸越しに、窓ガラスを通して見る夜明け模様だから仕方ない。そして、空模様しだいでわが気分は、すぐさま良し悪しになる。すると、きょうの寝起きの気分は、空模様に助けられて晴れ状態にある。これは、自然界から無償で賜る恵みである。ところが、欲深いわが精神は、それだけでは足りず、人様から賜るエールにもすがっている。きのうは高橋様からエールに加えて、いつまでも治りきらない鼻炎症状にたいする、貴重なアドバイスをいただいた。ありがたいことにこれまた、ありがたさきわまりない無償の恩恵だった。このことにより、鼻炎症状をともなって萎えていたわがひ弱い精神は、賦活した。このとき私は、自然界の恵みを凌いで、人様から賜るエールの有難味と大きさをあらためて知らされた。感謝の気持ちはお伝えしたけれど、再び御礼を重ねるところである。年老いて私は、日々生きることの困難さに打ちのめされている。具体的には、生きるための気分あるいは気力が萎えゆくばかりである。それに抗(あらが)う賦活剤には、まずは起き立ての空模様の良さにすがるところがある。ところが、これを凌ぐものはやはり、人様から授かるエール(応援歌)である。「人は、誉めて育てよう」という、万民が認める教育観がある。すると、私にはエールを身勝手に誉め言葉と曲解し、これで萎靡(いび)きわまるわが精神の賦活剤にあずかろうという、さもしい魂胆がある。そして確かに、エールを賜ると、わが萎えていた精神は賦活する。なんて虫の良い、わが欲深い精神であろうか。いつもの言葉に換言すれば、わが小器とお里の知れるところである。ちょっとばかり時が過ぎて、朝日はいっそう青く輝いている。つれてわが気分は、明るさを増している。それでも、人様から授かるエール(激励の言葉、しかし私は、身勝手に誉め言葉と曲解している)にはかなわない。きのうの場合は、いくらかぶっきらぼうに言えば、「高橋様に、恩に着る」ところ莫大である。もちろん、浅ましくこの先もおねだりしているのではなく、この文章を書かずにはおれなかったのである。 最近、いろいろと慌ただしくて、掲示板投稿ができていませんでした。 こんにちは。お久しぶりです。お元気のご様子で安堵いたしました。いつもながらの大、大、大エールに加えて、親切かつ貴重なアドバイスを賜り、二重のお礼を申し上げます。いつも、ありがとうございます。 前田さんの『ひぐらしの記』は、前田さんの私的なこと、をお書きになってこそ☆前田さんの個性輝く(溢れる)文章☆になっていると思います。 それから、前田さんの鼻炎症状ですが、内科の処方薬で効果ナシでしたら、耳鼻咽喉科へ通院して、薬を処方していただいた方がよろしいかと思います。 きょうも前田さんへ大大大エールとともに大大大エネルギー&大大大パワーを贈ります(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/ 十月二十六日(水曜日)、夜明け前の五時過ぎにパソコンを叩き始めている。しかし、眠気眼で朦朧頭である。最低、一週間ほどはと願っていた安眠は、中ほどで虚しく途切れた。二度寝にありつけないままに寝返りを繰り返し、挙句、悶々気分に脅かされて、仕方なく起き出している。最も気分が休まるはずの睡眠がこうも体(てい)たらくでは、もはや気分が休まるところはない。何かの罰当たりを被(こうむ)っているのであろうかと、自問を試みる。しかし、その根拠や自覚はない。生きて、安眠を得られないようでは、その解決策は永眠しかない。だからと言ってすぐには、永眠願望はないけれど、ちょっぴり憧れるところはある。こんな棒にも箸にもかからない私的なことを書き続けているせいであろう。「ひぐらしの記」は、読む人離れのドツボに入りつつある。自業自得のなれの果て、確かな証しである。こんなことではなさけないと、世の中のこと浮かべれば、行きつくところは、目下の新型コロナウイルス状況である。コロナへの感染状況は漸減傾向を深めていたけれど、メデイアの報道によればこれに歯止めがかかり、また増勢傾向を強めはじけていると言う。そうだとすれば私は、コロナには罹らずとも、マスクを着けて永眠する羽目になりそうである。これまでも何度か書いたけれど、私の場合、マスク着けの日常生活はまったく楽しくなく、もう懲り懲りなのである。それは人様と比べて、余計神経を使う生活を強いられているからである。実際には、難聴対応の集音機、近眼正しの眼鏡、さらにはコロナ感染防止のマスクの紐などが、両耳にかかっているからである。これらにより私は、鬱陶しさ、煩わしさ、神経の尖り、すなわち三竦みの状態に悩まされている。大袈裟でもなくこの状態は、結構面倒である。きょうもまた、こんな書くまでもない私的なことを書いてしまった。確かに、「ひぐらしの記」は、尻すぼりに留まらず、必然的に潮時にある。夜明けの空は、大海原の日本晴れ。私は両目を見開いて、眠気眼(ねむけまなこ)を癒している。 なかなか、好天気は続かない。雨模様である。一方、鼻炎症状は打ち止めなく、続いている。鼻水たらたらである。歯がゆい。 十月二十五日(火曜日)、きのうの文章でできれば、一週間程度は続いてほしいと願った起き立て時は、四日目へと続いて夜明け前のほぼ同時間帯にある。しかしながらわが精神状態はきのうとはまったく異なり、鼻水たらたらの不快・鬱状態にある。一時、治ったと嘯(うそぶ)いた鼻炎症状はぶり返し、かつ根づいて持病になりかけている。ただ、持病というほどの持ち時間(余生)はない。みずからへの戒(いまし)め、単なる鼻炎症状と言って侮(あなど)るなかれ! 気鬱のつらさは軽病とは言えない。わが枕元には医師の処方箋による風邪薬、加えて四ブランドの市販の鼻炎薬が散らばっている。ところが、どれもこれもにも未だ著効にありつけず、ゴキブリ同然の散らばりかたである。案外、内臓器官のあちこちに、副作用だけはもたらしているのかもしれない。恨みつらみたらたらの、天邪鬼あまのじゃく)の下種(げす)の勘繰りである。手元に置くテイッシュ箱代わりの丸々のトイレットペーパーは、みるみるうちに細身になるばかりである。さて、わが清掃区域にあってこの頃は、道路のあちこちにドングリが転げている。御池がわりに、側溝にもたくさん嵌(はま)っている。転げているドングリを目にして童心がよみがえり、私は果て無い郷愁に馳せている。それはこの季節にあって、子どもの頃の里山の中での、まん丸・真っ黒の椎の実拾いの思い出である。もちろん、拾うばかりの遊戯ではなく、心躍り勇んで持ち帰ると、待ち構えていた母がすばやく、フライパンでゴロゴロと炒(い)った。なんと旨いことだろう!。椎の実の旨さは、言い伝えではわからない。「百聞は一見に如かず」。いや、椎の実の旨さだけは、「百聞は体験に如かず」である。きょうはこんなくだらないことを書いて、この先の文章は打ち切りである。今なお、治りきらない鼻炎症状のせいである。パソコンを閉じれば、鼻かみ作業に大わらわとなる。この先、一週間程度で終わりそうにない。もちろん、こちらの長引きは願っていない。薄っすらと夜が明けた。朝日の見えない、曇り空である。 十月二十四日(月曜日)、このところの三日、未だ夜明け前にあって、ほぼ同時刻に起き出している。二度寝にも恵まれている。できれば三日程度で終わらず、欲張りはしないけど、一週間くらい続くことを願っている。もちろん、定着は最大願望である。人間の欲望にはキリがなく、望んでも果たされることはない。それゆえさしあたり、一週間程度の継続を願うところである。三日目の言葉「未明」を添えて、きょうの天気は知るよしない。文章を書き終えて、爽快感に浸ることはめったにない。それは、常に文章の出来不出来に悩まされているからである。それでも、書き終えると、安堵感だけは味わえる。それはずばり、きょうも続いたという、安堵感である。表現を替えればそれは、「継続」のもたらす安堵感である。私は身の程知らずの欲張りではないけれど、それでも常に文章の出来を願って書いている。しかしそれは、いつも叶わずじまいである。確かに、文章を書かなければ、生き恥を晒すことは免れる。ところが一方、私は「語彙」の生涯学習を掲げている。語彙は、文章の道具である。だから、文章という実践をすることなく、語彙を心中におぼえるだけではつまらない。それゆえ私は、文章においては六十(歳)の手習いを発意した。そんなおり、「ひぐらしの記」という命題で、大沢さまから語彙の実践(文章)の場を授かったのである。こののちの私は、大沢さまのご好意には背くまいという、一念をいだいてひたすら書き続けてきた。繰り返すと私は、継続だけが大沢さまへのお礼返しと心に決めて、書き続けてきたのである。同時に、「ひぐらしの記」は、私にとって、願ったり、叶ったりの語彙実践の場となったのである。おのずから私は、もっとましなもの書きたいという強い願望、いや、かすかな欲望をいだいていた。しかしながらそれはかなわず、どうにかとぎれとぎれの「継続」で、いくらかの恩返しにありついている。もちろん継続には、限られたご常連の人たちのご好意と支えもまた、大沢さまのご好意に上乗りしている。起き立にあってきょうの私は、これらのことを書かずにおれなかったのである。結局、「ひぐらしの記」は、わが人生行路において、人様から授かっているわが身に余る、「べらぼうな果報」である。文章は能力を超えた「上出来」など欲張らず、しがない脳髄相応の「継続」でいいのかもしれない。夜明けの空は、彩雲をいだいてのどかである。 十月二十三日(日曜日)、きのうの起き立の表現を繰り返すと、未だ夜明け前にある。熟語を用いれば「未明」と、書いた。それゆえにきょうの天気模様は、夜明けてから知ることとなる。きょう一日の天気は、まだわからない。けれど、季節は暑くもなく寒くもなく一年じゅうで、最も心地良い晩秋の候である。確かに季節の恩恵は、わが肌身をすこぶる心地良く潤している。晩秋という言葉のひびきも良く、まさしく好季節の真っただ中にある。ところがどっこい、きのうのわが夫婦は、連れ立って住宅地内にただ一つある、S開業医院へ出かけた。普段の妻との外出行動におけるわが役割は、覚束ない歩行の妻にたいする引率・介添え同行である。ところがきのうの場合は互い身、外来患者であった。二人して、診察室に入った。先に、妻が診察を受けた。私は側近の丸椅子に座り、妻の診察の様子を眺め、主治医の診立ての一部始終に聞き耳を立てた。両耳には集音機を嵌めて、なおかつ最大音量にして、先生の言葉を聞き入った。診断や診察のやり取りは、主にもらっている薬効の確認程度だった。最後には、インフルエンザ予防の注射が上腕に打たれた。妻に代わり、私は馴染みの先生と向き合った。中年の男性医師は物腰が和らかく、いつも丁寧で優しい診察をしてくださる。後世でなく、生まれつきの高人格なのであろう。それゆえご多分に漏れず、当医院の患者の多くは高齢者である。まさしく、高齢患者にはうってつけの先生である。その確かな証しは切れ目のない、待合室の外来患者数に表れている。わが夫婦にかぎらず高齢の患者には、とてもありがたい先生である。ありがたさの一つは、ぶっきらぼうの診察ではなく、笑顔と優しい言葉(会話)の多さである。高齢患者にはこれらの応対こそ、効果覿面の薬効がわりを成している。私の主訴は、長く治りきらない風邪症状だった。きのうの文章にあって鼻炎症状は、ようやく全快と書いた。ところが本音は、いくらか嘘っぱちだった。ほかには、自覚する皮膚の痒みと便秘症状を訴えた。血圧は測定の前に、「血圧は正常です」、と言ってしまった。それゆえ、先生の測定は免れた。けれど、言わずもがなの言葉だったゆえに、わが愚かぶりを恥じた。たぶん、先生も気分を悪くされたはずである。しかし、そのそぶりはなかった。信頼するに足る優しい先生である。診察の最後には妻同様に、インフルエンザ予防の注射を上腕に打っていただいた。わが夫婦の診察を終えて、夫婦異口同音にお礼の言葉を添えて、診察室を後にした。こののちは、夫婦それぞれの処方箋をたずさえて、最寄りの行きつけの調剤薬局へ出向いた。予期どおりそれぞれ、たくさんの薬をもらって外へ出た。秋天高く、のどかに晩秋の陽ざしがそそいでいた。わが肩に連れ添う妻にたいし、「こんなに多く薬をもらうようじゃ、もう死んだほうがましだね!」と言った。妻は逆らわず、「そうね!」と言った。なんのために、ヨロヨロ足で、医院へ行ったのだろうか?…。朝日輝く、夜明けが訪れている。 十月二十二日(土曜日)、未だ夜明け前にある。熟語を用いれば、ズバリ「未明」である。寝床に寝そべっていたおりのわが心中は、こんな思いに脅かされていた。それはこうである。つくづく私は、現代社会に適応できないたわけもの(落伍者)である。この思いの発露は、これまでも何度か吐露し、また書いてもきたデジタル社会への不適応、すなわち置いてきぼりである。実際のところは、デジタル社会の便利さへの乗り遅れである。挙句、私は日々鬱陶気分に陥り、落伍者感情がつのるばかりである。このところのテレビニュースでは、紙の健康保険証をデジタルに切り替えるというものがあった。どうなることやらと、あわてふためくばかりである。便利は不便利と裏腹である。その証しはこれまで、何度となく体験し、舐め尽くしてきた。私はそのたびに戸惑い、みずからの無能をさらけ出し、落伍者感情に陥ってきた。現代社会にあっては、「不便のもたらす心の通い合い」は、加速度に価値無しになるばかりである。さて、常にわが文章は愚痴こぼしまみれである。もとより、わが小器とお里の知れるところである。晩秋にあってこのところの二、三日は、ずいぶん後れてきた秋空を取り戻している。それでも、遅すぎた! と、恨みつらみはつのるところがある。挙句、ようやく私は、冠の秋の一つへ漕ぎつけた。それは果物の秋である。実際のところは果物の秋の先駆けで、それを包含する実りの秋を体験していた。それは二度にわたり姪っ子から送られてきた、「柿、ふるさと便」であった。ところが、それは涎を流してすでに食べ尽くし、おととい、きのうと連日、店頭の柿を買い込んできた。この秋の蜜柑は、すでに二度買っている。おととい一度目だった栗は、味を占めこれまたきのう二度目を買ってきた。これらに重ねて、いよいよ実りの秋の真打を成す、ふるさと産「新米、ふるさと便」が甥っ子から送られて来た。わが家は新米にかぎらず米は、甥っ子に面倒掛けてふるさと産を購入している。それにはこんな理由がある。どうせ市販の米を買わずにおれないなら、甥っ子に面倒をかけても、ふるさと産を購入したいという、わが浅ましい魂胆である。理由を付け足せば、食べなれた美味しさに加えて、ふるさと心を失くしたくないという、わが思いからである。甥っ子とて、すでに老身をたずさえている。そのため、打ち止めがちらついている。しかしながら実りの秋にあって、旺盛なふるさと慕情を断つには、かなりの勇気と決断がいる。そのうえに、堪えきれない哀しさが付き纏うところがある。夜明けてみれば、あれあれ! 、どんよりとした曇り空である。秋空もいまだに本調子ではなさそうである。天候の回復に後れを取っていたわが鼻炎症状は、真打の「新米、ふるさと便」の到着で気分を良くし、やっとこさ全快に漕ぎつけている。天候のように逆戻りの恐れは多分にあるものの、わが身を省みず、いっとき自然界のだらしなさ(不甲斐さ)を詰りたい思いである。だけど、「図に乗ってはいけないよ!」と、みずからを戒めている。書き殴りの文章は際限なく続くゆえに、ここで意図し打ち止めである。欲深いわが精神
♪前田さん、御返事の御投稿どうもありがとうございます!!
これに伴ない、前田さんへの大大大エールもお久しぶりとなってしまった次第ですm(_ _)mm(_ _)m
前田さんが☆パワーアップ☆していただければ、こんなに嬉しいことはありませんので、これからも前田さんを大大大応援して行きますからねーーー☆☆☆高橋弘樹様へ、感謝!
♪前田さんへ、こんな私的なこと、お書きになってよかったです!!
前田さんは、お気づきになっていらっしゃいませんが、『前田さんの私的なこと=前田さんの個性』となっております!!
世の中のことは、多くの方がお書きになったり、投稿したり、コメントしたりしています。
しかし、『前田さんの私的なこと』は、前田さん御自身でしか書くことはできません!!
そこに『ひぐらしの記』の価値があり、前田さんの個性が発揮される絶好の機会だと思います!!
こんな棒にも箸にもかからない私的なこと、とおっしゃらずに☆前田さんの私的なこと=前田さんの個性☆を大切に、これからも『ひぐらしの記』をお書きになっていただきたいと思います。こんな私的なこと、書かなきゃよかった
せてない、蛇足
気鬱治しは、椎の実で!
べらぼうな果報
晩秋の一日
実りの秋、真打「新米、ふるさと便」