大沢久美子撮影 少年にとって運動会は、走ったり、遊戯をしたりすることより、昼の弁当の時間が楽しみだった。家族そろって弁当を開くところは、二か所が設けられた。一つは、広い運動場のセパレートコース周り(コース外)の適当なところだった。一つは、教室の使用が許された。多くの家族は煌めく青空の下、適当なところを探しては、剥き出しの土の上に持ち込みの茣蓙を広げた。木陰の下を選ぶ家族もいた。一方、陽射しを避けて、教室内で食べる家族もいた。もちろん、年によって選び方はまちまちであり、必ずしもどちらかに決めているわけではなかった。この日の少年の家族は教室を使用した。机や椅子は隅に高く積み上げられていて、教室の広い板張りが敷物要らずのテーブル代わりになった。家族はここでご馳走を囲んで車座になった。たちまち、家族団欒の悦びが湧いた。母は、背負ってきただだっぴろい風呂敷に包んだ大きな箱を床に置いた。箱の中は、薬篭みたいに何段かに仕切られている。そこには普段、母が「わりご」と呼んでいる木造りの正方形の小箱が入っていた。これこそ、母からひとりに一個手渡される「わりご弁当」である。「わりご」自体は、枠は黒塗りで中裏は黒ないし朱塗りである。少年は「わりご」が大好きで、これを見ているだけでもなんだか殿様気分になる。実際には「わりご」は、重箱仕様の小型の弁当箱である。なぜなら重箱もまた、枠は黒か朱で中裏は黒ないし朱塗りである。「わりご弁当」には行儀よく、銀シャリの塩むすびが三つ入り、脇には煮物のおかずが綺麗に詰められていた。わりごの中のおかずには、茹で卵の輪切りが仰向けに玉座を占めていた。少年は、塩むすびは手づかみで頬張り、おかずはまるで鶏が餌をつっつくごとくに、箸で矢継ぎ早に取り間断なく口に入れた。こうすることで少年の心身には、フワフワと幸福感が纏わりついた。母が手提げてきた重箱の食材には肉類はなく、母が作る野菜畑の野菜を多くにして、いくつかの出来合いの物(購入物)が用いられていた。あえて記すとそれらは、ゴボウ、コンニャク、干しシイタケ、茹でタケノコ、ニンジン、サトイモ、昆布、ちくわ、かまぼこなどだった。これらの食材を用いて母は、釜屋で夜遅くまで煮物の煮炊きに汗を流していた。母が手提げできたものではもう一つ、袋物ものがあった。袋の中には、茹で栗と栗団子、さらには皮を剥かないままの柿や梨が入っていた。飲み物はビールなどのアルコール類は一切なく、もっぱら内田川の生水を水筒に入れただけのものだった。家族そろってこんなご馳走三昧に出合えるのは、年に一度の運動会の日に限られていた。だから少年は、運動会が大好きだった。周囲に目を遣ると家族ごとに、思い思いの持ち込みの食べ物を愉しんでいた。教室の中は「平和のすし詰め」のような賑やかさになっていた。廊下を走り回る子どもがいれば、泣きべそをかいている子どももいた。運動会は小学校だけの恒例行事とは言えず、村あげてそして村人総出の内田村における最大の年中行事をなしていた。その証拠には内田小学校と内田中学校共用の校庭(運動場)には、村中の小学生、中学生、男女の青年団員、その家族、そしてこれらに関係のない人たちまでが運動場と観覧席に集まった。まさしく、内田村あげての大運動会だったのである。そのためか、運動会の開催は一定日になっていて、秋の十月十日(のちの体育の日)だった。敗戦後間もない運動会だったせいか、さらには村人の気分直しをも兼ねていたのか、運動会は一日じゅう大盛況を極めた。競技種目は三者合同の運動会にちなんで、それ相応に様々なものが組まれた。最後の小学生、中学生、青年団入り交じる「部落対抗リレー」には、どよめきの声が沸き立ち、観覧席は熱狂の坩堝と化した。入場門は、村人が花飾りの杉門を作った。ゴールラインを走り抜ければ旗を持った係が、三等までの順位の子を追っかけて、一等賞、二等賞、三等賞の旗の下に並べた。少年は六人横並びの徒競走では、足の速い文昭君がいたため、二等賞の旗の下に並んだ。ブルマを穿いていた宏子さんは、ニコニコしながら一等賞の旗のところに並んでいた。少年にはモンペかズボンかわからないものを穿いた渕上先生は、いつものニコニコ顔で子どもたちを見守りながら、いろんな世話係で一日じゅう運動場を駆けずり回られていた。子どもたちの一等賞、二等賞、三等賞の賞品には等級に応じて、帳面、鉛筆、消しゴムが渡された。少年には鉛筆だけが溜まったが、それでもうれしくて、解散になると急ぎ足で家路に就いた。 大沢さん、高橋さん花のご感想有難うございます。 今朝は古閑さんちの庭に癒やされています。どうしたら庭にこんなに沢山の花々で飾ることができるのでしようか。やはり手入れですね。奥様は花が大好きなんですね。花々に囲まれて暮らす幸福感を誰よりも実感しておられるのでしょうね。とても真似はできませんが、ご主人様がせっせと掲示板に投稿して下さるお陰で、その幸せ感に私も浸れるのですね。感謝しています。有り難うございます。 望月窯への来訪、良い時期でよかったですね♪♪ 薔薇の花、美しく素晴らしいです♪♪♪♪♪♪ 昭和二十二年の春先から初夏にかけては、少年の入学式、始業式、授業参観、家庭訪問などがあって、少年の家は学校とのかかわりが多くなっていた。家庭訪問の日がきた。少年の担任は、うら若く美しい渕上孝代先生である。母は顔見知りとはいえ、やはり緊張している。恥ずかしがり屋の少年の緊張は、言わずもがなである。渕上先生は下の方から、真新しい自転車に乗ってやって来る。やって来られる道で一番見易いところは「仏ン坂」である。少年は縁先に立って、(渕上先生、来ているかな?)と、何度か様子見を繰り返した。これは、釜屋(土間の台所)で支度をしている母の指図だった。様子見のたびに少年は、「渕上先生は、まだ来よんならんよ」と、釜屋の母に知らせた。渕上先生は自転車で、仏ン坂を下って来られるはずだったのである。母はおもてなしの支度に大わらわで、釜屋の中を往来していた。家庭訪問は、親と子の落ち着きのない一日だった。やがて先生は、どこからかひょっこり来られた。先生は用意していた表座敷に上がられて、母と向き合って少年の学校の様子を話されていた。ときおりは母、「そうでしょうか……」と言って、ぎこちないよそ行き言葉で相槌を打っていた。少年は先生に挨拶もせずに、近くの襖の陰に隠れて、聞き耳を立てていた。しかし、二人の話の内容は聞き取れなかった。突然、母が、「しずよし、隠れていないで出てきて、先生に挨拶すればええたいね」と、言った。母に不意におびき出されて決まりが悪かったけれど、少年はおずおずと出て行った。渕上先生は「しずよし君、いたばいね」と言って、笑われた。先生が母に、おいとまの言葉をかけて立ち上がられると、母は用意していたおもたせを先生に渡した。先生は自転車に乗って、次の友達のだれかの家へ行かれた。少年は母に、「渕上先生は、なんて言うてた」と、矢継ぎ早に聞いた。「渕上先生は『しずよし君は、とてもいい子です。心配することは何もありません』と、言われたよ」と、母は言った。少年はうれしくなり、はにかんだ。母と少年が気懸りだった家庭訪問は、何事もなく済んだ。当時の内田村には保育園や幼稚園はなかった。だから少年は、小学校へ入学してはじめて、村中の同級生に出会い、学校という集団生活が始まった。それゆえ、少年にとっての学校生活は、毎日が新鮮で楽しいことばかりだった。学校へ行きたくないと思う日は、一度もなかった。少年は水道の蛇口のある水飲み場もおぼえたし、足の洗い場おぼえた。運動場や砂場にも慣れた。みんなでガヤガヤ言ってする、教室や廊下の掃除も苦にならず、楽しかった。学校にあるいろんな施設もだんだんとわかった。友達とは、みんな仲良しになった。少年は、渕上先生をますます好きになった。少年は日に日に学校に慣れて馴染んだ。小学校入学したての頃は、教科書を開くことも少なく、渕上先生を先導役に友達との輪を広げて、集団生活に慣れて行った。学校行事の一つには運動会があった。少年は運動会では天真爛漫に、とことん楽しんだ。もう一つには遠足があった。春と秋、二度の遠足の行き先はほぼ決まっていて、少年の家からははるかに遠い鷹取山だった。鷹取山は山というより小高い丘で、村中の桜の名所をなしていた。鷹取山の遠足には少年は、リュックに握り飯を三つ詰めて、ほかにはゆで卵や駄菓子、果物があればそれも持って行った。重たくても、水筒の持参は欠かせなかった。行きは弁当を食べる楽しみがあって気分が弾んだ。しかし、帰りはすっかり草臥れはてて、重い足を引きずった。そのうえ少年は、のんびりと道草を食べながら帰ったため、帰る時間が長く余計疲れが増幅した。原集落を過ぎて、近くの内野集落あたりになると、いっとき道端に座り込んで、元気の良い友達を見送った。途中の原集落には、クラス仲間で仲の良い富田文明君の家があり、内野集落にはこれまた仲の良い宏子さんの家があった。少年の家から鷹取山は遠く、このあたりから帰り道は、まだ半道強を残していた。鷹取山への遠足は、こんなことでつらい思い出である。これに比べて運動会は、楽しいだけの思い出である。 昭和二十二年三月には、教育基本法が制定され同時に学校教育法によって、六、三、三、四の新学制が発足し、六、三制の義務教育が導入された。いよいよ日本の国は、戦勝国の占領体制の下、あらゆる面で敗戦後の復興政策がスタートした。おりしも少年はこの年の、桜の花がいまだいくらか残る四月初旬にあって、内田村立内田小学校に新一年生として入学した。少年は母の手に引かれて、運動会の入場門のように花で飾り立てたられた内田小学校の正門を嬉々としてくぐった。少年の家には久しぶりに明るい話題が訪れた。不幸続きで重苦しかった少年の家は、少年が小学校一年生になったことでいくらか華やいだ。少年は一年一組にクラス分けされた。気に懸けていた担任は、美しい渕上孝代先生だった。幼い心が高ぶった。少年は教室に入ると立ったままに、窓ガラスを通して運動場を兼ねる校庭を見た。校庭の広さに驚いた。少年は緊張をほぐすため深呼吸をした。おそるおそる座った椅子はひんやりとした。すぐに、木椅子の肌触りがズボンを通して尻に馴染んだ。しかし、体の大きい少年には二人掛けの机は窮屈で、身を縮めて両膝を直角より内側に曲げた。教壇にはニコニコしながら渕上先生が立たれている。名簿を広げて、名前を読むためである。渕上先生は、「名前はあいうえお順に読みます」と、言われた。少年は頭の中で、自分の順番をめぐらした。少年は生まれつきの小心で、恥ずかしがり屋である。精神状態はもう、オドオドドキドキしている。「ま行」はうしろのほうで、順番の早い友達は「はい」と言って、すでに返事を済ましていた。そのためか教室は、だんだん騒がしくなっている。しかし、順番の遅い少年の緊張は解けない。少年の名が読まれた。少年は「はい」と、言った。順番を長く気に揉んでいたせいか、「はい」の声のタイミングが少しずれた。少年に恥ずかしさが襲った。しかし渕上先生はニコニコ顔で、次の順番の松本宏子さんの名前を読まれた。宏子さんはハキハキと明るい声で、「はい」、と言った。先生のニコニコ顔はさらに微笑ましくなった。少年は宏子さんが羨ましくなった。同時に、恥ずかしさがいやまして、綿飴のように一気に膨らんだ。恥ずかしさは先生のニコニコ顔に救われて、しだいに萎んだ。少年は渕上先生が好きになった。学校が終わると少年は、渕上先生のことを母に話したくて、ときには走り出しながら家に帰った。学校で感じた恥ずかしさは消えて、普段の少年になっていた。少年は大きな声で、「ただいま」と言って戸口元を入り、土間の三和土(たたき)を急ぎ足で駆けて、釜屋(土間の台所)へ行った。母は、「もう帰ったつや、早かったばいね」と、言った。「きょうは、教室で名前を読まれただけじゃもん。担任は、渕上先生になったよ」「そうか。そりゃ、よかったね。渕上先生は、よか先生じゃもんね」「うん。とても、よか先生じゃった」「渕上先生の家は、矢谷の尾上にあるよ」「うん、知っている」「渕上先生のお母さんは、自分と同級生で仲良しじゃったけん。あそこの人はみんな頭が良くて、女の人たちはとても綺麗な人ばかりたいね」「渕上先生も、美しかったよ」。少年は上がり框(かまち)に片膝をついて、座敷の埃を片手で払い、ランドセルを置いた。座敷脇の板張りにも白く埃が見えた。家の中のどこかしこが埃まみれになるのは、母屋の中に機械類が据えられて、糠や粉が舞うせいだった。少年の家は、作業場付きの住まいだったのである。家事に一息ついたのであろうか。釜屋にいた母が、垂らした前掛けに残りの雛あられを包みながら、少年の所へやって来た。母もまた座敷の埃を手で払い、板作りの上がり框をそばにあった濡れ雑巾で拭いた。雛あられは新聞紙を広げて転がされた。少年と母は、雛あられを挟んで上がり框に座った。少年は腹が減っていた。雛あられを指先で一度にいっぱい抓まんで、矢継ぎ早に口に入れた。空腹はかなり満たされた。母はまた、「きょうは、どうだったや?」と、少年に聞いた。少年はさっきのこととは別に、渕上先生のことをたくさん話した。「はい」のタイミングがズレて、恥ずかしくなったことも話した。宏子さんのことも、ちょっとだけ話した。母は「そんなこつ、気にせんちゃ、ええたいね。宏子さんは、内野の松本先生の娘さんじゃろ? 松本先生も、よう知っとるたいね。よか人じゃもんね」と、言った。少年は、校庭の広さのことも話した。母はニコニコしながら、少年の話に聞き耳を立てて、うれしそうだった。また母は、「渕上先生は、よか先生じゃけん、よかったばいね!」と、言った。少年は母ちゃんが何度も、「渕上先生は、よか先生じゃけん」と、言ってくれたことがとてもうれしかった。
連載『少年』、十三日目
有難うございます。
お二人とも花がお好きで良かったです。なんて素晴らしいんでしょう
☆大沢先生へ『望月窯だより』の感想です☆の感想です☆
☆ベツレヘムの星☆綺麗です☆☆♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪
そのほかの花々もボリューム感があり、まったくもって素晴らしいです♪♪♪連載『少年』、十二日目
連載『少年』、十一日目
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