大沢久美子撮影 大沢先生、クチナシの御投稿、どうもありがとうございます*(^o^)/* 私の庭や古河の実家の庭にもクチナシの木があります。クチナシの葉は今の時期に緑の葉が茂るのですが、毎年虫に食われて丸坊主にされてしまいます。大きな青虫がいつの間にか出現して、探してもなかなか見つからないのに葉は食べられてしまいます。そんな受難を乗り越えて、花が咲きます。 古閑さん、感想の御投稿、どうもありがとうございます*(^o^)/* 少年はまた、内田川のことを書いている。少年の独り善がりの文章など、だれも読まないから気楽に何度も書けるのだ。少年の家は、川の上流から中流にかけて位置している。裏戸を開けると下手の方では、太陽の照り返しが白く水面を舐めて、竹山の隙間の向こうには、青い水が輝いている。どちらかと言えば裏の川は、まだ上流である。向こう岸と少年の家の間を流れる早瀬の音、浅瀬のせせらぎ、溜まりにたゆとう水は、あいなして四季折々に周囲の風景と調和する。内田川はそのたびに、少年の心を和ませた。少年はしばし深呼吸を繰り返し、川風を咽頭へ呼び込み、いっぱい吸った。新鮮な空気がはらわたに落ちると、少年の心身は一層和んだ。少年の家は、内田川の河川敷際に建っていた。当時、少年の家には、水道や自前の井戸はなかった。内田川の水が当然のように少年の家に、生業の水車用の水と生活用水を恵んでいたからである。裏戸を開ければ内田川が流れている。内田川に堰を作り、水車用に自前の水路が設けられていた。分水は水路を通り、庭先はもちろんのこと、母屋の台所の中にまで引き込まれて流れていた。少年の家の内外には日常的に、内田川の水がたっぷりとあった。だからたぶん、当時の父と母は、そんな施設は用無しと決め込んでいたのかもしれない。それほどに少年の家は、内田川とそれが恵む水に密着し、大家族の命を育み、暮らしの生計を立てていたのである。換言すれば、少年の家の生活の中に、内田川が流れていた。そのぶん、少年の家の上方の家で赤痢や疫痢の発生が伝わると、少年の家はみな恐々としなければならなかった。内田川は川中に点在する大きな岩や小石にあたり逆巻いたり、水しぶきを高く上げながら流れている。それでも、それを凌げば緩やかな流れになる。これは、雨のない日の内田川の流れの情景である。しかしながら内田村にあっても、少年、家人、村人に優しいばかりの山河はあり得ない。なぜなら自然界は、四季折々に人間に目を剥く恐ろしさをたずさえている。山紫水明に恵まれた内田村にあっても自然界は、ひとたび変調をきたすと防ぎようのない狂態を露わにした。内田川は台風のたびに暴れ川となり、少年の家に恐怖と被害をもたらした。村中のあちこちでは土砂崩れが起きて、荒れた山肌を剥き出しにした。あるときは山津波が発生し立木を倒し、崩落した土砂に立木と岩石が混じって流れて来て、近くの民家を襲って家人の死亡事故を招いた。少年の家もそうだが、内田川にすがり川辺で水車を営む家は、川が増水するたびに恐怖に見舞われる。すると、地区の消防団の防災監視下に入った。少年は止みそうもなく土砂降りを続ける雨と、時々刻々に増水を極める内田川を、茶の間の窓ガラスに額をつけて立ったまま、じっと眺めていた。すると少年は、内田川の水嵩が増すたびに、怖くて泣きべそをかいた。降りしきる雨はいつになったら小降りになり、いつ止むのか。濁流の水嵩は、流石と流木のからむ轟音をともない、寸時に水勢をいや増して行く。農作業用の二階建ての「しのば」(仕事場)は、河川敷の端に礎石を置いていた。母屋とて礎石と内田川との間は、河川敷を挟んで20メートルほどの近距離である。水嵩が増すたびに内田川は、河川敷を狭めては川幅を広げて、濁流が礎石へ迫ってくる。少年は恐怖に慄き、体の震えが止まらない。「生きた心地がしない」という表現は、このときこそ「ぴったしカンカン」である。少年は豪雨と強風のなか、家人を探した。しかし家人は、しのばと母屋の点検防備に走り回っている。少年の泣きべそは、あふれる涙に変わった。土砂降りが細くなりかけ、空がうっすらとしはじめて、家族そろって「ああ、無事だった」と、嘆息を吐けるのだった。確かに、内田川にかぎらず内田村の山河自然は、少年の家の家族や村人に大きな恐怖を与えた。一方、内田川と内田村の山河自然は、恐怖をはねのけて村人の命を育んでくれた。だから、少年が感謝することこのほかにはない。この御恩返しに少年は、何度もひたすら内田川はもとより、内田村の山河自然を愛(め)で書いている。もちろん恥じたり、書き厭きることはない。ただひとつ少年にとって残念なことは、内田川は少年の唯一の弟・敏弘の命を助けずに、こともあろうに内田川の分水(水路)へ流してしまったことである。 くちなしの花、きれいに咲いていますね。部屋には良い香りが漂っていることと思います。子供のころ故郷の内田川沿いによく咲いて良い香りを漂わせていました。 内田村は熊本県の北部地域にあって、いくつかの村道と数多の私道を脇に従えて、熊本県から大分県方面へ向かう一本の県道が走り、ときには並走し一筋の内田川が源流と上流をなして、途中出遭う支流を抱き込みながら流れている。北へ向かう県道の先は山中の細道となり、県境の峠へ到達する。内田村は遠峯の連山と里山に囲まれた盆地を成して、中には農山村特有の段々畑と狭い田畑が点在する。村人の農作業の手助けには、最初は馬にのちには牛に頼っていた。村人の多くは農山林に合間の仕事を見つけ、中心には米や麦づくりを置いて、主に自給自足で暮らし向きを立てていた。山が恵む収入源には、炭焼き、シイタケ栽培、タケノコの掘り出し、杉山や竹山の切り出しなどにほぼ限られていた。口内炎に悩む少年の母は、それに効くという蜂蜜をつくる家を近くに知っていて、そこから買っていた。村中には一軒の製材所があった。大きな動力を要するものでは、ほかに一か所村有の水力発電所があった。小さな動力のものでは少年の家のように、内田川の恵みにすがってあちこちに水車が回っていた。村中の学校は内田村立内田小学校と内田中学校が校区、すなわち校地や運動場を共用し、村の中央地区にあたる堀川集落に本校を構えていた。本校とは別に東方の番所集落と西方の山内集落には、小学校一年生および二年生の登下校の足をおもんぱかり、それぞれに小さな平屋の分教場が設けられていた。小学校三年生になると、そこで学んでいた同学年生は本校に合流した。村中には何人かの馬車引きさんがいた。馬車は「ゴロゴロ、ゴロゴロ」と音を立て、馬はときには「ヒヒン、ヒヒン」と嘶(いなな)いて、馬車引きさんに手綱を取られて、重たい馬車(荷台)を引いていた。馬車が通ると、車輪の音、蹄の音、崩れる石がらの音などが合奏し、一層高く音を周囲に響かせた。ただ、これらの音は村人には馴染んでいて、内田村ののどかな情景の一つでもあった。ときたま、定期路線の「産交バス」がエンジン音を吹かして近づくと、馬車引きさんは早くから馬車を道の傍らに寄せた。そして、手綱を確り引いてバスを見送った。バスの音に慣れていた馬は、音にいきりたつこともなく、首筋を伸ばし静かに立っていた。馬車引きさんはバスが通り過ぎると、腰に垂らしていた手拭いを取り、顔から首筋にかけて汗を拭き、煙草を一本くゆらした。僅かだがこのひとときは、馬車引きさんと馬にとっては、疲れた体を休める「オアシス」みたいなものだったのかもしれない。馬は再び鞭打たれて馬力を高めることで、飼い葉を与えてくれる馬車引きさんに報いるしかなかった。しかしそれは、馬車引きさんの生業に報いる馬の悲しい宿命でもあった。馬と馬車は、馬車引きさんの手さばきに操られて、内田村と近隣の村を往来した。胸突き八丁で吐息し、涎を垂らして、頭、顔、首を上下させて馬車を引く馬に、少年はしょっちゅう出合った。学校帰りに後方から空の馬車を見遣った少年は、馬車を一目散に追っかけた。そしてまだ遠くから、顔見知りの馬車引きさんにたいして、「馬車に、乗せてくだはーり」と、大きな声で叫んだ。馬車に追いつくと馬車引きさんはたいがい、「いいよ。乗ってもいいよ。だけんど、落ちないようにしろよな!」と、言って馬車に乗せてくれた。少年はランドセルを背中から下ろし馬車に置いて、乗るタイミングを見計らって、揺れ動いて進む馬車にひょいと飛び乗って座った。あたりまえだが積み荷を仕事とする馬車の荷台の板は、武骨で硬くできている。少年は尻と板を馴染ませるために、尻を板に「ゴニャゴニャ」させた。馬車は少年の所作にはお構いなく、石がら道の凹凸に応じて揺れ動いた。そのたびに少年の尻はあちこちにいざった。少年は馬車から落ちないように全神経を尖らせて、馬車の揺れ具合に集中した。少年はダルマのように丸くなり、落ちないようにさらに体を固めた。それでも馬車の揺れは、「ゴトゴト、ドンドン」と、少年の尻を揺り動かした。しばし少年の体は、風に揺らぐ葦のように頼りなく揺れた。ようやく少年の尻が板に馴染んだところで、馬車は少年の家の近くまで来ていた。こんどは下りることに、全神経を尖らした。無事に下りると少年は、前方の馬車引きさんへ向かって、「ありがとうございました。また乗せてくださあーい」と、さっきよりさらに大声で叫んだ。馬車引きさんと馬は振り向かず、馬車は「ゴロゴロ、ゴロゴロ」と音を立てて進んで行った。少年は生まれながらにして、村人の情けと内田村の山河自然を愉しんだ。この頃の少年の一日は登校すること、そして下校すれば山や川で遊ぶことで過ぎた。戦時下のおりの少年は、兄たちに連れられて里山に入り松根油を採り、銃後の守りを固めた。ところが少年の場合、それには悲壮感などなく、楽しい山遊びの一つだった。少年は野原に萌えるスカンポやギシギシなどを手あたりしだいに採り、歯でむしり「ガリガリ」嚙んだ。ときには川辺へ行き、カワヤナギの幹をこじ開けて、蠢く白いヤナギ虫を取り出した。少年は家へ持ち帰ると、母にフライパンで炒ってもらって食べた。これだけは、食べるには勇気のいる怪しい珍味だった。 GHQ占領下の日本の国の舵取りは、良いにつけ悪いにつけ個性派首相と言われた吉田茂が握ることとなった。吉田首相は、ときには傲慢とも思えるワンマンぶりみせて顰蹙を買った。一方では、育ちの良い憎めない愛敬を持ち合わせていた。吉田首相は、硬軟併せ持っていたと言っていいだろう。特に外交においては硬、すなわち豪胆ぶりを発揮した。その証しに吉田首相は、GHQの占領下にもかかわらず、GHQにおもねるだけの政治姿勢はとらなかった。吉田首相は、負けた国のリーダーにありがちな卑屈さなど微塵もみせずに、真っ向GHQと対峙した。内田小学校二年生になった少年は、父がラジオや新聞を通して政治や社会問題などに強く関心を持っていたことからその影響を受けて、少しずつ社会の動向に関心を寄せていた。吉田内閣は、七年間の長期政権をまっとうした。昭和二十三年一月、少年の家には一つの婚儀があった。母一女のセツコ姉は、当時はまだ近隣の村・六郷村の島田集落の義兄に嫁いだ。少年にははじめて体験したきょうだいの結婚式だった。戦地に赴いていた男性軍が復員、すなわちわが家へ帰り始めて、女性軍はそれを待って内田村には結婚式が増えていた。結婚適齢期だった姉もまた、この範疇の一人だったのであろう。戦地帰りの男性軍との出会いは、銃後の守りに明け暮れていた女性軍にとっては、まさしく「敗戦後のあけぼの」とも言える果報だったのである。なぜなら戦争は、適齢期の男女の交際や結婚にまで、奇妙な現象をもたらしていた。将来の約束をして、帰らぬ人それを待つ人。出征前にあわただしく形だけの結婚式を挙げて新妻となり、帰らぬ夫を耐えて待つだけの人もいた。戦争は人々の心と生活に重石を乗せていたのである。この文章はすでに世を去ったきょうだいへの少年の鎮魂の役割と、きょうだい愛を繋ぐ役割でもある。だから、少年の知らない異母きょうだい(兄と姉)の結婚模様を記すのは、あながち蛇足とは言えない。しかし、読む人はいないであろう。それでも一向にかまわない。なぜなら、多くのきょうだいの中で、一人残された少年の役割だからである。異母一男護兄はイツエ義姉と昭和七年十月、異母一女スイコ姉は栄次義兄と昭和八年六月、異母二女キヨコ姉は秀雄義兄と昭和十七年三月、そして異母二兄利行兄はチズエ義姉と昭和十八年三月。異母三男利清兄は結婚の夢叶わず、異国の島で名誉の死という飾りを付されて戦死した。異母の兄姉たちが青年淑女の頃の新郎新婦ぶりは、どういう情景をみせていたであろうか。ただ、時代は華やかには味方せず、日本の国は満州事変を発端にして、戦時下と戦時色を深めていた中だった。それでもやはり、新婚気分は「いいもの」であったはずだと、少年は思いたい。その点、母一女セツコ姉の結婚式は、少年が生まれている戦後のことでもあり、そのうえ少年に物心ついた小学校二年生のときでもある。だからわずかでも、少年の記憶の中にある。一つは祝儀を前にして、姉の様子は弾んでいた。一つは、義兄は中国大陸の戦地から帰り、姉を見初めたのである。異母一男護兄と義姉の出会いには、恥を晒しても書いておかねばならないことがある。それは珍妙と言うより、確かな実話だからである。まずは護兄に嫁いだイツエ義姉は、母の一男四女のきょうだいの中で、二女母の実の妹(四女)であった。すなわち父は、姉の母と、そして長男護は、母の妹と結婚している。二つ目の実話はまだ続く。姉(母)と妹(義姉イツエ)の子どもたちのうちの三人は、誕生年を同じくする同級生でもある。あえて書こう。母三男豊と義姉一女京子ちゃん、母四男良弘と義姉二女静代ちゃん、そして、母五男少年(静良)と義姉一男彰ちゃんである。少年と彰ちゃんは同級生でありながら、叔父と甥、なおいとこ同士の関係でもある。戦争資材さながらに、「産めや増やせの時代」とはいえやはり、少年の家の子どもたちは、異母から母に継いで、表彰状に値するほどに多すぎた。しかし少年は、恥で顔を赤らめることはない。なぜなら、むかえの田中さんには六人、隣の古家さんにも九人の子どもたちがいた。少年が臆面もなくこんな文章を書けるのは、父と異母そして母、その子どもたち(きょうだい)の繋がりに、一切の諍いもなく全天候型に仲がよかったおかげである。大勢の子どもたちは勝ち戦であれば日本の国を救う玉財になり得ても、負けてしまえば糊口を凌ぐにはやはり大家族でありすぎた。水車を回し農業を兼ねて、自給自足に頼る少年の家にも、生きるための厳しい生活が待ち受けていたのである。朝鮮半島からは異母一男護兄(長男)の家族が引き上げて来て、上海からは気象庁の職員(独身)として出向いていた母一男一良兄(長男)が帰って来た。一良兄とフクミ義姉の結婚式は昭和二十六年、少年が小学校五年生のときだった。だれにとっても華燭の典は、文字どおり人生の華である。きょうだいの中でそれを叶えられなかったのは、異母三男利清兄(戦死二十三歳)、母二女テルコ(病没十八歳)、母六男少年の唯一の弟敏弘(事故死生後十一か月)である。今、少年目からは涙がポタポタと落ちて、三人の面影が蘇っている。 内田小学校一年生になった少年には、「夏休み」のある夏が四季のなかでは、一番好きな季節になった。少年は母に、「『夏休みの友』は、暑くならない午前中にやるからね」と、約束した。夏休みにはこのほかにも漢字の書き取りや、日記ないし自由課題の生活文などがあった。ほかにも、宿題があったと思うが思い出せない。母と約束した午前中の勉強が済めば、夏休みの午後のすべては、少年の遊び時間となった。少年は畳敷きの表座敷ではなく、冷やっこい板張りの座敷に足を投げ出して、背丈の低い横長の文机(置き机)に向かった。ページをめくる感触、鉛筆の音、ときおり柱時計が「ボーン、ボーン、ボーン……」とけだるく鳴って、まだ静かな夏の朝の雰囲気を醸した。夏休みにあっては、精米機械の音なども普段とは違って聞こえて、やかましいとは思わなかった。少年は母と、午前中に勉強を終えれば、午後は川遊びに行っていいという、約束もしていた。少年は家の裏を流れる川へ、または「田中井手橋」の堰の下へ、水浴びに出かけた。「内田川」は橋の下をくぐり、少年の家の裏へ流れて来る。夏の内田川に真っ黒い体の少年が飛び込むと、辺り一面に白い水しぶきが舞った。夏の内田川は、水の瀬清く緩やかに流れている。ウナギ、ナマズ、ドンカチ、シーツキ、ゴーリキ、カマヅカ、ハエ、なども泳いでいる。夏の内田川は、少年たちを夕陽が西の空へ落ちるまで、存分に遊ばせてくれた。少年に負けまいと競って水に飛び込むのは、声を掛け合って出かけた隣近所の子どもたちで、洋ちゃん、賢ちゃん、新ちゃん、だった。少年は内田川のほとりに生まれたことがうれしくて、内田川は少年の自慢の川となった。子どもたちは夏休みが終わるまで、内田川で無邪気・天真爛漫に遊びほうけた。少年にとって、戦時下、終戦(敗戦)、そして敗戦後の記憶は、ごちゃまぜである。だからこの文章は、ときにはちぐはぐというか、頼りない記憶のままに書いている。なかでも時のずれは、ご容赦願うところである。忌まわしい昭和二十年もラジオから『リンゴの歌』が流れて、日本国民は少しずつ敗戦の憂さを晴らし始めた。この歌は、戦争で憔悴しきっていた国民の心を捉えた。『リンゴの歌』は軽いリズムで、弾むようなメロデーだった。曲の明るさは、きょうやあしたをどう生きようかと、思い悩む国民への格好の応援歌となった。明るく流れる『リンゴの歌』を聞いて国民には生気が戻り始めて、敗戦国日本には復興の明かりがともろうとしていた。戦地で生き延びた人たちは祖国日本へ、疎開先からはわが家へ帰って来る人が増えた。敗戦後の混迷や混乱は収まりかけて、日本国民ははっきりと前を向いた。しかしそれはまた、新たな敗戦後処理の序奏と幕開けでもあった。占領下の日本の政治に、GHQ(連合国総司令部)の縛りが加わったのである。間接とはいえ有無を言わさず、GHQの意向が日本を支配した。占領軍はほとんどアメリカ軍で固められて、占領政策はアメリカ主導で行われた。GHQは占領国日本にたいし、数々の指令を発した。GHQは日本社会の改革に向けて、様々な処方箋を企図し要請した。それらの根幹は、日本の古い政治体制や社会慣習に「民主主義」を基に変化を求めるものだった。実際にもそれを基に、いろんな面に改革の賦活剤が処方された。ところがこれらの処方箋は、衰弱しきっていた日本の国にはきわめて苦い薬だった。しかしながらのちに顧みれば、「良薬は口に苦し」の成句があるように、日本の国にとっては必ずしもすべてが苦いものばかりではなかったであろう。民主主義の国アメリカの占領政策は、喧嘩に勝ったガキ大将のように、負けた者へのわがままのし放題とは、だいぶ違っていた。なぜなら、GHQの占領政策は、日本の国や国民にたいし、かなりの温情や配慮がされていたのである。もしかりに日本が戦争に勝って、占領政策を執る立場ともなれば、それこそ日本軍はただ威張り散らし、我がままのし放題ではないだろうかと、少年は思った。日本の国の政治は、敗戦後の初めての総選挙を通して社会党内閣が誕生し、片山哲が首相になり、片山内閣を組閣した。しかし片山内閣は、社会党、民主党、国民協同党の三党連立のせいで政治基盤が弱く、片山内閣は一年足らず終焉した。そして、昭和二十三年二月、こんどは民主党の芦田均が首相になり、片山内閣に代わり芦田内閣を組閣した。芦田内閣は中道政治を進めた。ところが、疑獄事件で足元を掬われて、芦田内閣もまた、片山内閣同様に短命に終わった。これより先、昭和二十一年に誕生した第一次吉田茂内閣は、途中を中道政治に譲ったものの昭和二十三年に第二次吉田内閣として復活した。少年は内田小学校の二年生に進級し、担任は持ち上がりでそのまま、渕上孝代先生が教壇に立ってくださった。そのため、少年の小学校二年次の学校生活は楽しく続いた。 古閑さん、御返事の御投稿どうもありがとうございます*(^o^)/*
♪大沢先生へメッセージです♪
幼年期の祖父母宅のクチナシは、大沢先生御宅や望月窯と同じく庭植えでしたので(常緑低木ということですが、常緑高木になっていました!!)、同様に大きな青虫(オオスカシバという蛾の幼虫のようですね)の被害に遭っていました!!
そうですね!! 無事です!!
昨年の薔薇のハダニの被害で、とんでもなく疲れてしまいましたので、クチナシの鉢植えは、外に出さないつもりです。香りが私の部屋にも届いてきそうです
高橋さんの鉢植えは、すでに花が咲いており、無事ですね。♪古閑さんへメッセージです♪
クチナシは、沈丁花より香りが強いように思います♪
古閑さんも前田さんと同じく内田村御出身なのですか??連載『少年』、十七日目
きれいに咲いていますね
♪HIROKIのタレント日記!!
連載『少年』、十六日目
連載『少年』、十五日目
連載『少年』、十四日目
♪古閑さんへメッセージです♪
大沢先生のおっしゃる通り、古閑さん御宅の庭の花々の真似はとてもできませんが、今後も古閑さんと奥様による綺麗で素晴らしい幸福感にぼくたちを導いていただければ、と思います。
どうぞよろしくお願い申し上げます♪♪
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