大沢久美子撮影 望月窯ではキャベツ等新鮮な野菜が採れて良かったですね。そして梅ジャムまで。さぞかし美味いことだろうと思います。我が家でも妻が梅を買ってきて昨日梅酒を作りました。私は、・・・・恥ずかしながら作れません。 今年の『望月窯畑』の収穫は、”大大大大豊作”でなによりです♪♪♪♪ 古河の実家の畑の続きです。今年は紅梅の梅の実が沢山なった。何時の年だったかその年も実が沢山なったので収穫を楽しみにしていたら、いつの間にか消えて無くなっていた。今年はそれに懲りて、少し早かったけれど青梅を収穫した。そして、梅ジャムを作った。苦みがあったので妹のスマホで調べてあく抜きが足りないことが判明した。そこで丁寧に辛抱強くあく抜きをしたらまだ少し苦みは残っていたが、甘酸っぱい爽やかな味になった。大成功である。 父・前田吾市は、明治18年2月10日、熊本県鹿本郡内田村に生まれた。父は、父親・彦三郎と母親・ミエの三番目の子どもであり、姉二人の次に一人息子(長男)として生まれている。父が生まれたところは、村内では小伏野集落と言った。しかしそこから移り、人生の大半を過ごしたところは田中井手集落だった。父は内田川をあてにして水車を回し、精米業を営むために、ここへ移り住んだのである。だけど、「前田家累代之墓」は、今なお誕生地・小伏野集落の小高い丘の中にある。当時の田中井手集落には、わが家、隣家、向かえの家の、三軒があったにすぎない。わが家と隣家の間には水車を回し、双方に動力を伝えて、共に農家を兼ねた精米業で暮らしを立てていた。僅かに三軒にすぎなかったけれど、三軒とも大家族をなしていた。ちなみに隣家には11人、向かえの家は8人家族である。父は明治41年7月、村内にある辻集落の鶴井トジュ様と結婚した。新郎23歳、新婦20歳の若いカップルだった。二人は、長男護、長姉スイコ、二男利行、二女キヨコ、三男利清を誕生させた。戸籍簿上ではもうひとり、ハルミの名がある。ところが、何らかの事故で幼命を断っている。父にとっては先妻、私にとっては異母となるトジュ様は、享年35歳で他界している。その後の父は、大正14年7月、私の母となる早田トマルと二度目の結婚をした。母の里・井尻集落は、父が住む田中井手集落からは内田川や田んぼを挟んで、見えるところにある。再び花婿となった父の年齢は40歳、初々しい新婦は21歳だった。母は5人の子どもたちを連れた父の男ぶりに惚れたのか。それとも、父のもとへ嫁がなければならないのっぴきならない事情があったのか。私は前者であって欲しいと願った。ところが後者、実際には母の「父助け」があったようである。私は昭和15年7月15日、父の13番目、母の7番目の子どもとして生まれた。あえてきょうだいの名を記すとこうである。長姉セツコ、長兄一良、二姉テルコ、二兄次弘、三兄豊、四兄良弘、私、弟敏弘である。私が生まれて成長し始めると父は、拙い節回しで『丸まる坊主の禿げ頭……』とか、『箱根八里は馬でも越すが……』などと歌って、私をはやし、父ははしゃいだ。ときには父は、「どれどれ、また大きくなったかな。おお、大きくなっているぞ、天まで昇れ……」と言っては抱いて、高々と持ち上げた。父は背が高く骨太隆々で、まるで仁王のようであった。「気は優しくて力持ち」。物心がつき始めた私が見る、父にたいする第一印象であった。 大沢先生、望月窯での農作業のお仕事、たいへんお疲れさまでございました。 ふうたろうさんの故郷思う気持ちに胸が締め付けられます。時の流れとともに変化していく世の中はとどめようがありませんが、土足で踏みにじられてしまうような故郷の変わりようには、腹立たしささえ感じます。区画整理の名のもとに、破壊されていく故郷は、人々の心まで破壊されていくようで恐ろしい気持ちになります。 うれしくて、わが生涯において決して消えない記憶がある。多くのきょうだいたちは、わが風貌や日常の動作にたいし、まるで示し合わせでもしたかのように、「しずよしが、いちばんおとっつあんに似ているよ」と、言っていた。ところが、身内にかぎらず隣近所の人たちまでもが、「しいちゃんがいちばん、お父さんに似ているね」と、よく言っていた。確かに自分自身、私が幼い頃に見ていた父の風貌や動作をそっくり映し、真似てでもいるように思えていた。私は父が大好きだったから、これらの言葉は誉め言葉として生涯、心中に確りと畳み込んでいる。父は『兄の頼朝に虐められた弟の義経』が大好きで、高じて、弱い者に味方する判官贔屓の精神を持っていた。わが命名「静良」の由来を、父の言葉で教えた。父は悪びれることなくいや誇らしく、義経の愛妾『静御前』(白拍子)から、「静」の一字とったと言う。「良」は、長兄一良、四兄良弘にちなむ、きょうだいの証しを示す符号にすぎない。父は、静御前を白拍子(遊女)と知っていたのか、それとも知らずだったのか? 後年の私は一時期、「静」すなわち、「女のきゃくされ(腐った)のような名前」が嫌いだった。高校時代の英語担当の平野先生(あだ名:スッポン)は、「半ば嘲(あざけ)るように、『しずら』、あるいは『せいりょう』」と、名簿を読んだ。まかり間違えば、小学校一年生から、苛めを招く名前であった。しかしながらのちには思い直して、もちろん誇りにはしていないけれど、現在は気に懸けるところはない。なぜなら、父の思い入れの強い命名だったからである。私はまったく偶然に、「義経と静御前」ゆかりの鎌倉に住んでいる。父の恩愛に報いる、箆棒(べらぼう)な亡き父への恩返しである。「鎌倉・鶴岡八幡宮」の賽銭箱の前に佇むと、そのたびにうれしそうな父の面影がよみがえる。 昭和22年、内田小学校に入学し、昭和31年、内田中学校を卒業した我々には・・♪永久に動かぬ相良山、水の瀬清き内田川・・と、唄われた・・「相良山と内田川」・・は、心の源風景である。しかし、今の市誌には、相良山のことも、内田川のことも、書いてない。 鹿本郡内田村、六郷村、そして菊池郡城北村、すなわち三村合併にちなんで、公募から生まれた新しい村の名は「菊鹿村」と決まった。「菊鹿村」それは、菊池郡と鹿本郡から頭文字一字を抱き合わせたにすぎないものだった。だから、私の気分的には拍子抜けを被り、名前的にはまったく洒落っ気なく新鮮味もない、まさしく平凡かつおざなり感横溢するものだった。それゆえに、がっかりした。「なあーんだ、これくらいなら、考えずに、俺も応募できたのに…」と、地団太を踏んだ。後の祭りである。決まれば仕方がない。私は「内田村」から「菊鹿村」への呼称に、だんだんと馴染んだ。もちろん行政名の変更にすぎず、呼称が変わっただけで、内田村への愛惜が消えるものではなかった。このときから10年を経て昭和40年、町制施行により菊鹿村は、新たに「菊鹿町」になった。すなわち、鹿本郡内田村、次には菊鹿村、そして菊鹿町へと順次、行政名を変えてきたのである。そして現在は(のちの追認事項・平成の大合併)、平成17年1月における1市(山鹿市)4町(菊鹿町、鹿本町、鹿北町、鹿央町)の合併により、鹿本郡を離れて山鹿市の傘下に入り、熊本県山鹿市菊鹿町として存在する。菊鹿町には四か所に温泉が湧き出ており、それぞれに大小の温泉旅館が営まれている。それぞれは、村人や近郊近在の日帰りや泊り客で賑わいを見せている。大きいところでは、街中の私設のヘルスセンターみたいに客同士打ち解けて、寝そべったりして疲れを癒す大広間の娯楽場もある。ときにはそこに、ドサ周りの大衆演劇がやって来る。将棋盤はどこでも用意されている。将棋好きの父が存命であれば、足繁く通い詰めたであろう。生前の父は母を連れて、わが家から歩いて山並を越えて、年に一度「杖立温泉」(熊本県小国町)への、十日ほどの泊りがけの湯治を習わしにしていたのである。
新鮮な野菜
♪大沢先生へ本日の『望月窯だより』の感想です!!!!
大沢先生の日々のお手入れの賜物ですね!!!!
先日、店で仕事をしていたら、お客さんから「青梅ありますか?」と聞かれました。
棚にはありませんでしたので、「入荷していないので、ありません。申し訳ございません」と答えました。
たぶん、梅酒用の青梅かと思いましたが、大沢先生のように『梅ジャム』も聞いただけでも爽やか感があり、イイなぁーーと思いました(^^)望月窯だより
キャベツは冬を越して葉ばかりがどんどんおおきくなっていったが巻かないので諦め気分でそのままにしていたら、やっと巻き始めて、今回の収穫となった。大根も手頃な大きさになって収穫できた。少しずつではあるが、農作業のこつのようなものがわかってきた。
夏野菜に棒を立てたり、藁を敷いたりと手入れは色々あるが、収穫を楽しみにせっせと野良仕事をして、後ろ髪引かれる思いで帰路についた。連載『自分史・私』、5日目
♪”望月窯=現代文藝社古河支社”♪
広大な望月窯での野菜の収穫量の多さは、ぜんぜん違いますねーーー!!!
“大沢先生御宅=現代文藝社和光本社”ですから、”望月窯=現代文藝社古河支社”のように感じています♪♪切ない望郷
連載『自分史・私』、4日目
俺も、内田村に生まれ育った。
矢谷邑、相良邑、上内田邑、山内邑から―内田村に・・内田村から―菊鹿村に・・菊鹿村から―山鹿市に・・田村は変わっていった。
そして、そこに暮らした里人たちは、山や川はもちろんのこと、道端の石ころや、崖上の古木にさえも、深い想いを刻み込んでいった。
内田村から菊鹿村に変わった時・・♪「永久に動かぬ相良山、水の瀬清き内田川」の・・「相良山と内田川」・・・は、何の感情も抱かない、よそ者たちの手によって、――内田川は・・上内田川と、名を変えられ―相良山は・・村のシンボルから、外されてしまった。
菊鹿町から、山鹿市に変わってからは・・内田川沿いを喘ぎ喘ぎ上って行った路線バスを廃止し・・祖先から伝えられてきた祭事を、彼方の町の祭りでしかなかった灯籠踊り一色の旧市一極の市政を取り、里村を過疎化させるとともに、山川草木を愛しむ里人の心を顧みようとしなくなった。
時代の流は誰にも止めることはできない。だからと言って―ツンバリ棒をした木造校舎から、聴こえてきた足踏みオルガンの音―ゴロゴロ岩を飛び越えて、ゲギューや、シィツキを釣った小川―まだ、見ぬ未来を空想しながら、仰いだ山々を想う、我々の心まで打ち砕いてしまうことはあるまい。連載『自分史・私』、3日目
掲示板
