大沢久美子撮影 ふうたろうさん、醜態を同級生の早苗さんに見られて、心を入れ替えられて良かったですね。内田川は思い出深い情けの川ですね。自転車もふうたろうさんも大事に至らなかったのですからね。それにしても、ふうたろうさんにもかなわないものがあったなんて、信じられませんよ。 桜も散ったころ、威の叔父さんの「ナバ木作り」の手伝いにいった。手伝いが終わり、ボクは焼酎を湯呑2杯飲んで、叔父さんの家を出た。威からボクの家までは、1里半の山道下り坂。蛇淵に差し掛かったころ、酔いが回り、ゆるやかなカーブを曲がり切れず、内田川に「ドボン」・・・夕涼みしていた矢谷の人に自転車とボクは道路まで引き上げてもらった。 毎年、元日の朝は、家族そろって食卓を囲んだ。父の音頭で新年の挨拶を交わした。『肥後の赤酒』で、猪口(ちょこ)一杯の乾杯をした。アルコールにはまったく縁のない父は、甘酒で舌を濡らした。それでも父は、すぐさま酒焼けの赤ら顔になり、大酒飲みの風体を見せて、「酔っぱらったぞ、酔っぱらったぞ!」と言って、道化者を演じておどけた。母は釜屋へ戻り、大鍋を抱えて雑煮を運んで来た。父はまた、はしゃいだ。「雑煮ができたぞ。さあ、食うぞおう!」。「父ちゃん、今年はいくつ食うの?」と、訊いた。「さあ、どうかね。もう、年を取ったからね。そんなには食えんよ」。父は母の配膳を待った。70歳に近い父は、丸餅を7個食べ、中学生の私は、6個止まりだった。桜の花の時期になると父と私は、夜桜見物へ出かけた。行き先は決まって、内田川の澱みに名がついた「蛇淵(じゃぶち)」沿いの道路だった。ここは、近場の桜見物の名所を成していた。夜桜見物と言っても甘党の父は「花より団子」を好み、父の目当ては桜木の途切れる所にある一軒の団子屋だった。団子屋には顔見知りの高齢のおばさんがいた。村人はアズキまぶしの串団子を「あずまだご」と、呼んだ。ここでもまた二人は、数を競って食べた。二人の腹は「ふくらかしまんじゅう」のように膨れて、文字どおり団子腹になった。「もういいか」「もういいよ」。食べ終えると二人は、串を並べた。父が9本、私は7本だった。父は私を凌ぐ甘党だった。父には飲料のアルコール類とタバコは、生涯まったく用無しだった。これらに変わるのは、御飯・麺類なら、なんでもござれの大食漢だった。アルコール類が飲めないのに父には、宴会は必要悪だったのか、それとも人が寄り集まるのを好んでいたのか、わが家でよく開かれた。父は、村中ではいろんな世話役をやっていた。なかでも、父が山の世話人をしていたときには、わが家でたびたび寄り合いがもたれた。会合が済むと、決まって宴会が開かれた。この日の母は、まるで宿命のごとくに朝早くから宴会準備におおわらわだった。宴会の料理はほぼ決まっていて、わが家の鶏(ニワトリ)をさばいての「鶏めしと肉汁」だった。この日のために縁の下で飼われていた鶏は、自給自足の最善の生贄(いけにえ)となった。母は宴会準備に気忙(きぜわ)しく、鶏は宴会の気配に怯えて、共にびくびくしながら朝から動き回った。宴会は母と鶏の犠牲のうえで盛り上がり、三々五々散会した。「残り物には福がある」。私は、残り物の「鶏めしと肉汁」を鱈腹食べる幸福にありついたのである。しかし、同席で父と食べ競争ができなかったことは、今なお心残りとなっている。 ボクは100メートルと200メートルに出た。200メートルは予選落ち、100メートルは、出遅れた!・・・と思った。そして、他のヤツにかなわず、尻から2番目の7番でボクの陸上競技への参加は終わった。 父は高血圧症状や心臓病がもとで生じる息遣いの苦しさを「息がばかう」と表現し、たびたび口にした。高校生になって町中へ通うようになった私に父は、「薬屋で『救心』を買ってきてくれんや」と、頼んだ。「救心を服むと、息が楽になり、とてもええがね…」。この言葉がうれしくて私は、たったの一度さえ忘れずに買って帰った。確かに、救心を服んでしばらくすると、父の赤ら顔はいつもの穏やかな顔になり、ばかっていた息は軽くなった。この頃はまだ兆しだった父の心臓病は、しだいに業病になり、やがては息を止めたのである。『救心』には後日談を添えなければならない。わが勤務するエーザイに、『救心製薬』の社長の子ども言われた男性が大学を卒えて、短い期間限定の「見習い修業社員」として入社した。私には後輩だがいずれは、救心製薬の社長ないし重役として崇めなければならない。こんなことはどうでもいい。私は初対面の彼に真っ先に向かい、心を込めて『救心』に授かった父の命の御礼を述べたのである。私は中学生のとき、鹿本郡の中体連(全国共通の中学生陸上競技大会)において、3競技種目に出場した。一つは砲丸投げで2位になり、一つは走り高跳びで4位になった。400メートルリレーには、ふうちゃん、健次郎君、信吉君と出た。2位までは熊本県大会へ出場できた。私は砲丸投げで県大会への出場を決めた。県大会はかねて憧れの「熊本市水前寺陸上競技場」で行われた。私は内田中学校からただひとり出場した。父は、私の出場を大層喜んだ。そして、大会前の十日間、毎日馬肉を買って来た。馬肉は熊本名物とはいえとても高価だった。父は「食え、食え、いっぱい食え!」と言って、みずから馬肉の塊を箸先で摘まみ上げ、私の小皿に移した。私の利き腕・右腕には、日に日に馬力がついた。私は頼もしげに力こぶを作っては、瘤を撫でた。あるとき、わが家に出入りの博労(ばくろう)が、良馬という触れ込みで、「北海道産の馬」を連れて来た。父は多額の金をはたいて、その馬を買った。たぶん、北海道産という言葉に釣られ、馬に惹かれたのだろう。確かに、北海道産の馬は、父と家族の期待の馬だった。ところがその馬は、飛んだ暴れ馬で農耕には向かなかった。これに懲りて父は、それ以降は馬から牛に変えた。家族はこのことで、父を責めることはなかった。父もまた、すぐに「のんきな父さん」に戻った。父はよく行きつけの魚屋から、無塩(生魚)の藁苞(わらづと)をぶらぶら提げて帰って来た。多くは安手のイワシ、サバ、タチウオだった。ときには金を張り込んで、「うばぎゃ」(アサリ? それとも名を知らぬ小貝の刺身)、または赤身鯨(クジラの刺身)を買って来た。不断の父には、子煩悩躍如するところがあった。顔馴染みの魚屋はそれを見透かして、常套句で父を釣った。「あたげにゃ、子どもが多いけれど、みんな良い子ばかりですな。どのぐらい計りましょうか?」まんまと釣られて父は、「四百匁ほど計ってくれんかいた」と、言っては買うようになった。子煩悩に釣られ、絆(ほだ)されて上得意へ祭り上げられたのである。母は父が遣ることにはまったく無抵抗で、笑顔で藁苞を受け取ると、夕御飯には煮魚を食卓へ乗せた。家族も賞味にあずかれるので、不平を言う者はいなかった。父は無邪気な好々爺だった。 父に初期の高血圧症状があらわれたのは、近くのクヌギ山の間伐に出かけていた日のことだった。不断の父は、すぐに高鼾(たかいびき)が出るほどに寝入りが早かった。働き尽くめできた者特有に父も昼寝が大好きで、「10分ほど寝るからね」と言っては、寝場所を選ばず手枕で、ひょいと寝転んだ。確かに、10分ほどが過ぎるとひとりでに起きて、「よう寝たばい。ぐっすり寝たばいね」と言っては、晴ればれとした気分で呵々大笑した。骨柄太く図体の大きい父の寝姿は、父が慕う源義経を守る『武蔵坊弁慶』のようでもあり、家族には頼もしく思えた。そんな父だから木漏れ日の中で、疲れ癒しに横臥していたに違いない。クヌギ山から帰って来た父は、「山ん中にごろ寝していたら、気分が悪くなったんで、帰って来たたいね」と、言った。いつもの父は、気分良く目覚める。だから、家族は心配した。父に高血圧症状が出はじめると、父と私の間には何事にも連携し合う、仲間意識のような感情が芽生えた。晩年の父には高血圧が誘引する心臓病に併せて、脳軟化症状が顕れた。挙句、これが誘引する、いくらかの痴ほう症状も出はじめていた。これらは、晩年の父にとりつく病症状だった。そして、家族を悩ました。家具の町で名を馳せる福岡県大川市(筑後)に嫁いでいた異母長姉スイコの義父の法事に、父が出かけることになった。旧国鉄バスと鹿児島本線に乗り継いで往来する旅は、父にとっても家族にとっても不安だらけだった。それまでの父は、「のんきな父さん」だった。しかし、病がちになった父の表情には不安が見えはじめた。「しずよし、一緒に行ってくれんや。おまえが、一緒に行ってくれれば、ありがたいんだがね。おれも、このところ筑後へは行ってないし、スイコの手前もあるから、行かにゃんもんね。筑後へ行くのも、もう最後になるだろうから行きたいし、どうや、一緒に行ってくれるか?…」。父は、すまなそうに私に言った。「おれが、行くの? 筑後へは行ったことがないけんで、行こごたるばってん、でも自信がないなあ…」と、私は言葉を返した。しかし、普段見ない父の不安そうな表情を見ると私は、父のお守り役を決意した。私にとっても、未知のところへの長旅である。私は、汽車に乗るのも初めてだった。切符の買い方さえわからない「ひよっこのお守り役」、すなわち病がちの父にたいし、私は「にわか付添人」なった。途中の父をおもんぱかって私は、くたくたになってはるかに遠い筑後に着いた。玄関先で出迎えたスイコ姉は、「しずよしが連れて来てくれたんか。ありがとう。よう、来たばいね」と、言った。母ほどに年の離れた姉は、込み上げるものがあったのか、目頭を押さえながら私に声をかけて、長旅をねぎらってくれた。私には、無事に役目を終えた喜びがあふれた。「しずよしが、ついて来てくれたから、また来れたつよ。スイコに会えて、とてもうれしかばい」と、父は追い打ちの言葉を言った。姉に伝える父の言葉は、うれしさで涙声になっていた。私にも、生涯の思い出を成す旅だった。私は、「瀬高」とか、「船小屋」とか、「羽犬塚(はいんづか)」とか、の駅名を知った。特に、羽犬塚駅前の一膳飯屋で、父と一緒に食べた「サバの味噌煮」の美味しさは、今なおありありとよみがえる。まだ小学生だった私は、病が取りつきはじめていた父を無事に送り迎えできた。確かに、父の旅仕舞いであった。一方、私には長旅そして汽車初体験であった。危なっかしい「父子道中(おやこどうちゅう)」だったが、そのぶん、生涯消えることのないピカピカの宝物となっている。 いつも、母屋の戸口元に吊るされている、色褪せて使い古しの野良着は、父の働き盛りの晴れ着である。野良着は紺無地の狩衣風の「半切り」である。手許の電子辞書を開いて確かめた。「甚兵衛羽織」(じんべえはおり)と言うのかな。ところどころは擦り切れて、紺無地は白茶けている。母も、父の本当の働き盛りは知らないと言う。それでも母は、常に私にこう言った。「父さんは米俵を積んだ馬を引いて、県境の山越ではるかに遠い津江(大分県日田市中津江村)辺りまで行きよんなはったつよ。とても、働きもんだったつよ」。「父さんはたばこの一本も、酒の一杯も飲みならん人でね。一銭の賭けごともされんし、人は「なんのかんの」言ったばってん、自分はとても幸せだったもんね」。父の話をする母は、普段の控えめな母に似ず、誇らしげだった。「なんのかんの」という言葉は、母の結婚が後入りのうえに、年齢差もあったことで、村人から受けた風評をさしていたようだ。将棋のほかの父の楽しみは、母を連れ立っての年に一度の「杖立温泉」(熊本県阿蘇郡小国町)への長湯治だった。父は普段から「杖立、杖立」とよく言っていた。だから、杖立温泉はごく近いところと思っていた。ところが杖立温泉は、大分県と熊本県の境にあり、山越えのケモノ道を歩いて、果てし無く遠いところにあった。私は後年のふるさと帰行のおりに、長兄が運転する軽トラの横に乗り、父と母が歩いた行程をドライブした。このドライブは、私の長兄へのたっての願いで実現したものである。私は父と母が歩いた道を車とはいえ、全道を確かめてみたかったのである。するとそのときの私は、道の険しさと距離の長さに度肝を抜かれた。もちろん、父と母が歩いた頃の道は、舗装などまったくない昼なお暗い山中道、いや多くはケモノ道である。私には当時の父と母の姿が切なく甦る。父は「甚兵衛羽織」に替えて、母は「モンペ」に替えて、二人はどんな一張羅(いっちょうら)を身にまとい、手を取り合って仲睦まじく往来したのであろう。こちらはうれしく偲ばれる。 (私の心中の父は、死人ではない)。様々な思い出が、「生きた姿」でよみがえり増幅する。挙句、わが自分史は、父の思い出で紙幅が埋め尽くされる。それはまた、箆棒な幸運である。私は、自分自身の「墓地」は買っていない。「前田家累代之墓」はふるさとにある。ハードの墓はなくとも、ソフトの墓は残された者の心中にある。ハードの墓は、永代供養のお金や、墓掃除などで面倒くさい。また、ふるさとの墓は遠くて、墓参りはご無沙汰続きである。いや、もう行けない。心中の墓は都合がいい。私はお墓参りに替えて、常に父の姿を浮かべている。父の年齢は60代後半であったろう。父は、米俵(60キロ)を地面からひょいと持ち上げて肩に担いだ。あるときの父は、近所の青年・慶ちゃんから相撲の挑戦を受けた。慶ちゃんは腕白坊主が青年の衣を着始めた二十歳の頃で、体中に若い力が漲り弾んでいた。「小父さんは、相撲はもう弱くなったでしょうな…」「なんば言うか。まだ、洟垂れには負けんぞ。相撲、取ってみるか…」。父は、挑んだ慶ちゃんを畳の上でぶん投げた。「小父さんは、いつまでも強いな…」と言って、慶ちゃんは再挑戦を諦めた。この頃の父は、額から頭の天辺までまん丸に禿げていた。私が学校へ行くと、「ゴットン吾市の禿げ頭」と言って、からかう友達(渕上喜久雄君)がいた。水車の「ゴットン、ゴットン」という音に、禿げ頭の父の名前を付けて、からかったあだ名である。しかし、父好きの私にはまったく苛めの効果なく、びくともしなかった。私の学校行事にあっての父は、友達の家族のだれよりも早く現れた。秋の運動会では、運動場にまだ生徒たちの姿ばかりが目立つ中にあって父は、早くから大柄な体と禿げ頭を太陽光線に晒して立っていた。私が照れ隠しに父の前を猛スピードで駆けると、父は「そうだ。その調子だ。速いぞ、速いぞ!」と言って、大きな声で叫んだ。授業参観の日には、先生がまだこの日の心構えなどを話している最中に父は、後方の入り口から入ってきた。ひとり、後壁に掲示の図画や習字を見ていた。友達は、キョロキョロと後ろを見た。(あの人は、だれのおじいさんだろう?)と、思ったはずだ。父は飛びぬけて家族思いが強かった。私にかぎらず、子どもたち(きょうだい)みんなが慕い、自慢の父親だった。私の場合、父との生活、すなわち直接父の愛情に触れて生活したのは、高校までの18年間だった。ところがこの期間は、すでに父の晩年だった。父と母が結婚した年齢は、父40歳、母21歳である。そして、私が誕生したときの父と母の年齢は、56歳と37歳である。だから、私は若い頃の父はまったく知らない。まして、父の働き盛りの働きぶりなど、露ほども知る由ない。私が知る父の姿は、すでに家督万端を長兄に譲り、隠居然として余生を送っていた。そのため父は終日(ひねもす)、近所近辺の将棋仲間を呼んでは、陽だまりの縁側で唯一の趣味の将棋を指していた。ある日の回覧板の囲み記事の中に、村内の将棋名人のことが載っていた。私はその中に父の名を見つけて、「父ちゃんが村の名人で、いちばん強いと書いてあるよ」と、言った。父は「おれより強いのは、まだいっぱいいるんだけどな…」と言って、相好を崩しうれしそうだった。私もうれしかった。 年の瀬、昭和35年12月30日、私は八百弘商店の店先で、顔馴染みの郵便配達員から一通の電報を受け取った。兄たちは車で配達に出かけるが、免許を持たない私だけはいつも、店頭で接客に明け暮れていた。だから、郵便物など外部からの届け物はほぼ、私が受け取っていた。大学は冬休み中だった。手にした電報は一目でわかる「弔電」父の訃報だった。3人が配達から帰り4人が揃うと、鳩首を交えて店先に佇んだ。いくらか予期していたとはいえ4人は、沈痛な面持ちで相談を始めた。4人の相談事は、決まって店先でする習わしだった。咄嗟の相談事は、父の葬儀への参列の仕方だった。八百弘商店には、得意先が定着し始めていた。歳末の三が日には毎年、正月用の食品を求めて多くのご贔屓客がきてくれた。それらの多くの人は、兄弟の仲の良さに好感を持って、好意的に八百弘商店をあてにしてくれていた。今でもはっきりと名前とお顔が浮かぶ、馴染みの心優しい人たちである。4人はうれしい悲鳴で大わらわだった。歳末商戦特有に、予約伝票の多さは4人を喜ばせた。「店は閉めて、4人とも帰るか」「お得意様第一だ。店は閉められないだろう」「おとっつあんは、店を閉めるのは望まないはずだよ」「誰かが代表でひとり、帰るしかないだろう」。相談事の決着は、4人のうち、葬儀参列者が1人、店番が3人と決まった。次には、だれが行くのかを決めた。結果、この時点でもっとも長くふるさとから遠ざかっていた四兄が、命の絶えた父のもとへ旅立った。私に不満はなかった。いや、父の死に顔を見ないで済んだことは、はしたなくものちのち幸運だった。なぜなら、私の心中にはずっと、合格の知らせを持って帰った、あのときのワンシーン(一コマの情景)が浮かんだままに、「父は生きている」。このことは、世間体はどうあれ、偽りのない箆棒な幸運である。父は私の大学合格を知り、そして2年生のおりに永別した。(店が大事だ。だれも来なくていいよ。きょうだい仲良く、東京で頑張れ!)。父はたぶんそう言って、先妻そして後添(のちぞえ)へと繋いでもうけた、めでたい子沢山の人生を閉じたのである(享年75歳)。 和光の御自宅の畑でも豊作でなによりですね♪♪♪
今でもお酒は飲まないんですか
蛇淵は恥ずかしい思い出
それは、それでよかった・・・夕涼みしている人の中に同級生の早苗さんがいた・・・それに気づいた時、ボクは恥ずかしくて・・・時、ボク、まだ、高校2年生・・・そして、反省、以降、アルコールは飲まないことにした。連載『自分史・私』、18日目
ボクは7番だった。
連載『自分史・私』、17日目
連載『自分史・私』、16日目
連載『自分史・私』、15日目
連載『自分史・私』、14日目
連載『自分史・私』、13日目
♪大沢先生へメッセージです♪
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