大沢久美子撮影 「ひぐらしの記」の誕生日を覚えていただいており、感謝申し上げます。加えて、大大大エールをたまわり、お礼申し上げます。 前田さん、☆『ひぐらしの記』連載16周年☆本当におめでとうございます☆ 今回の『望月窯だより』は、小説風の随想でしたので、停電時の状況が具体的に伝わってきました。 真夜中の停電騒ぎ 本当に人間らしいふうたろうさんは、子供の頃からそうだったのですね。他人の痛みや哀しみをさりげなく、そして深く理解してくださるふうたろうさんに憧れてしまいます。 大沢様へ・・・ しいちゃんへ・・・ 八十八夜、風薫る5月の空が照り輝く、最もさわやかな季節にあって、私は内田中学校の修学旅行に出かけていた。行き先は、二泊三日をかけての福岡市内周遊だった。私は洋々たる気分で帰って来た。道すがら土産物を見て喜ぶ、母の笑顔を思い浮かべていた。大きな声で、「ただいま」と言って、戸口元から土間を走り抜けて、母がいるはずの釜屋(土間の炊事場)へ走り込んだ。いるはずの母は、いなかった。この日、修学旅行から帰ってくるのは、手渡していたスケジュール表で、母は知っていた。いつもの母なら、こう言ったはずだ。「もう帰ったつや。早かったばいね。修学旅行は、面白かっただろだいね」。私はこの言葉を思い浮かべて、観光バスを降りて解散したのち、駆け足で帰って来たのである。ところが、釜屋に母の姿はなかった。走り回る足音もしなかった。私は釜屋から離れて、土間の上り口のところに立った。また、大きな声で、「母ちゃん、ただいま!」と、叫んだ。母の返りの声はなく、表座敷とは違うごんぜん(奥座敷)から、済まなさそうな表情で、フクミ義姉さんが現れた。「しいちゃん。早かったばいね。旅行、楽しかっただろだいね。おっかさんは、向かえん畑で茶摘みばしよんなったとき、崖からつっこけて、今、寝とるなるもんね」。姉さんの驚愕の言葉だった。私は上り口を越えて、ごんぜん(表座敷)へ上がった。そして、表座敷とは別の、茶の間の奥の姉さんが出てきた八畳の部屋を恐るおそる覗いた。母は、額にタオルを乗せて寝そべっていた。土産物のことや旅行気分は、いっぺんにすっとんだ。悲しかった。「無事に帰ったたいね。すまんね。崖から、つっこけたもんじゃけん…」。母は、仰向けになったままに言った。「なんで、つっこけた」「……」。会話が途切れた。父は昼寝の王様だが、母は昼寝用無しに独楽鼠のように働き尽くめだ。だから昼日中、母の寝込んだ姿を見るのは初めてだった。こともあろうにそれは、修学旅行から帰った日だった。私は手を変え品を変えて選んで買った土産物を母に手渡せず、とても悲しかった。母は日々高熱に魘(うな)され、ひっきりなしに幻覚症状が現れた。あわや! 母の命は、死線を越えそうになる。どうにか持ちこたえたのちは、病臥する長患いになった。その後も母は、高熱に魘され、幻覚症状に取りつかれて、闘病の日々は厳しさを増し続けた。不断からかかりつけの「内田医院」の下、父および家族そして近場の身内総出の看護団は、一家の家族のように連携を取り合って、母の命の見守りに奔命したのである。その中心を成した内田医院、主治医の二代目の内田青年医師の夜を日に継ぐ献身的熱意(治療)は、まさしく神がかりだった。突然降ってわいた母の闘病は、わが生涯(自分史)においては敏弘の事故に次いで、悲しい出来事に位置している。 ふうたろうさん、醜態を同級生の早苗さんに見られて、心を入れ替えられて良かったですね。内田川は思い出深い情けの川ですね。自転車もふうたろうさんも大事に至らなかったのですからね。それにしても、ふうたろうさんにもかなわないものがあったなんて、信じられませんよ。 桜も散ったころ、威の叔父さんの「ナバ木作り」の手伝いにいった。手伝いが終わり、ボクは焼酎を湯呑2杯飲んで、叔父さんの家を出た。威からボクの家までは、1里半の山道下り坂。蛇淵に差し掛かったころ、酔いが回り、ゆるやかなカーブを曲がり切れず、内田川に「ドボン」・・・夕涼みしていた矢谷の人に自転車とボクは道路まで引き上げてもらった。 毎年、元日の朝は、家族そろって食卓を囲んだ。父の音頭で新年の挨拶を交わした。『肥後の赤酒』で、猪口(ちょこ)一杯の乾杯をした。アルコールにはまったく縁のない父は、甘酒で舌を濡らした。それでも父は、すぐさま酒焼けの赤ら顔になり、大酒飲みの風体を見せて、「酔っぱらったぞ、酔っぱらったぞ!」と言って、道化者を演じておどけた。母は釜屋へ戻り、大鍋を抱えて雑煮を運んで来た。父はまた、はしゃいだ。「雑煮ができたぞ。さあ、食うぞおう!」。「父ちゃん、今年はいくつ食うの?」と、訊いた。「さあ、どうかね。もう、年を取ったからね。そんなには食えんよ」。父は母の配膳を待った。70歳に近い父は、丸餅を7個食べ、中学生の私は、6個止まりだった。桜の花の時期になると父と私は、夜桜見物へ出かけた。行き先は決まって、内田川の澱みに名がついた「蛇淵(じゃぶち)」沿いの道路だった。ここは、近場の桜見物の名所を成していた。夜桜見物と言っても甘党の父は「花より団子」を好み、父の目当ては桜木の途切れる所にある一軒の団子屋だった。団子屋には顔見知りの高齢のおばさんがいた。村人はアズキまぶしの串団子を「あずまだご」と、呼んだ。ここでもまた二人は、数を競って食べた。二人の腹は「ふくらかしまんじゅう」のように膨れて、文字どおり団子腹になった。「もういいか」「もういいよ」。食べ終えると二人は、串を並べた。父が9本、私は7本だった。父は私を凌ぐ甘党だった。父には飲料のアルコール類とタバコは、生涯まったく用無しだった。これらに変わるのは、御飯・麺類なら、なんでもござれの大食漢だった。アルコール類が飲めないのに父には、宴会は必要悪だったのか、それとも人が寄り集まるのを好んでいたのか、わが家でよく開かれた。父は、村中ではいろんな世話役をやっていた。なかでも、父が山の世話人をしていたときには、わが家でたびたび寄り合いがもたれた。会合が済むと、決まって宴会が開かれた。この日の母は、まるで宿命のごとくに朝早くから宴会準備におおわらわだった。宴会の料理はほぼ決まっていて、わが家の鶏(ニワトリ)をさばいての「鶏めしと肉汁」だった。この日のために縁の下で飼われていた鶏は、自給自足の最善の生贄(いけにえ)となった。母は宴会準備に気忙(きぜわ)しく、鶏は宴会の気配に怯えて、共にびくびくしながら朝から動き回った。宴会は母と鶏の犠牲のうえで盛り上がり、三々五々散会した。「残り物には福がある」。私は、残り物の「鶏めしと肉汁」を鱈腹食べる幸福にありついたのである。しかし、同席で父と食べ競争ができなかったことは、今なお心残りとなっている。
髙橋弘樹様へ、感謝!
☆祝!! 前田静良氏『ひぐらしの記』連載16周年!!☆
心よりお祝い申し上げます☆
同日記内連載随想『自分史・私』は、毎日、真摯な気持ちで拝見させていただいております。
今までの前田さんとこれからの前田さんへ”大大大エール”を贈ります(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/大沢先生へ『望月窯だより★真夜中の停電騒ぎ★』の感想です!!
大沢先生は、失明の疑念⇒停電と断水のたいへんな状況下を過ごされました!!
望月窯の地域は、自然が大大大豊富ですから、落雷ではなく、蛇が原因の停電もあるのですね@
復旧してなによりで、本当にお疲れさまでございました。望月窯だより
六月十二日から十四日の予定で古河の実家を訪れた。雨模様のぐずついた天気だったけれど、十三日火曜日はどうにか晴れ間が覗いたのでいつもの通り畑仕事や草取り、樹木の剪定などと忙しく立ち働いた。
真夜中の二時頃ベッドの上で眼を開けると寝室は真っ暗で何も見えない。私の脳裏に突如失明したのかと衝撃が走った。
寝室は、真夜中に目覚めたとき暗闇では危険なので、隣室へと続く廊下廊下の足元灯の明かりが届くようにとドアを開け放している。だから寝室は薄暗くなっている。
ところがこの時は眼を見開いても暗闇の中だった。視線を動かすと蛍光灯の紐の先についているグッズの光が眼に入った。
「ああ、よかった。失明したのではなかった」
私はホッとしたのもつかの間、寝室がなぜ真っ暗なのか一瞬理解できなかった。
「電気が切れたのかしら」
私の頭の中はまだ目覚めのスイッチが入っておらず鈍いままだった。
ゆっくりと起き上がって、暗闇を眺め回しながらやっと頭が回転しだした。
「えっ、停電? どうして?」
今度はなぜ停電しているのかわからない。梅雨に入って、各地で雷注意報が出ていることが頭を過ぎった。
「まさか、停電が起きるほどの雷が鳴っているのに目が覚めなかったってこと?」
そう思うと眠るというのはそこまで意識が無くなることなのかと恐ろしくなった。
とにかく起きて、部屋中の点検をしなければならない。
その前に真っ暗闇の中で懐中電灯を見つけ出さなくてはならない。傍らの妹に声をかけて停電をしていることを知らせた。妹はすぐにスマホのスイッチを入れた。どうやら電源を確保できて歩く道筋は照らされた。隣の部屋に置いてある人感センサーライトを持って階下に降りた。
ブレーカーを見たが落ちていなかった。家の外の様子を見たが、周囲は民家がないため明かりは見えない。遠くにちらほらと光が見えるが、外は雨が降った様子はなかった。
妹がスマホでしきりに停電情報を調べている。特に近くで停電している情報は無いという。
「東京電力に電話して聞くしかない」ということで、電気料金の通知書に書かれている「停電・設備に関すること」となっている電話番号に携帯から電話をかけた。
電話音声で「緊急」の番号を押すとすぐに繋がった。現在、実家の地域に停電はないという。「それじゃあ、どうしたらいいですか」と聞くと、「調査に向かいますが、立ち会ってもらえますか」と言う。「今すぐ来て頂けるのですか。もちろん立ち会います」と応えると、「一時間から一時間半ぐらいかかります。その場合、もし、お宅の方に原因があったら、一万三千円かかりますが、よろしいですか」と言われ承知した。
しばらくして私の携帯に故障・設備担当だという若い男性の声で電話がかかった。
「そちらの地域で電線が切れていてこれから修理に向かいます」
とのことだった。
私はまだパニクっていて、どれぐらいかかるのか聞くことも忘れて電話を切ってしまった。時計は二時半過ぎだった。それから待つこと一時間近く経ったが、何の音沙汰もなかった。
私は携帯に入っている先ほどの男性の番号に電話を入れた。
「今、着手したところです。もう暫く待ってください」と、忙しげに応答された。
「井戸のモーターが止まっていて、真っ暗な中で水も出ません。不安なのですが、どれぐらい待てば良いのですか」
と、思わずどうにもならない不安をぶつけてしまった。
「そうですよね、もう暫く待ってください。いま、作業しているところです」
と申し訳なさそうに、しかし、電話の応対をする暇も無いというよう様子が伝わってくる。私は電話を切ってから、自分の身勝手な態度を思い起こし恥ずかしくなった。
それから、今のソファーでうとうとしていて外の物音に気がつき、玄関を開けて出てみると、自宅の私道に入る砂利道の細い公道に作業車が止まっていて、大声を出して点検をしていた。私は近づいて行くと、「もうすぐ通電しますから、ご迷惑をおかけしています」と若い男性の方がこちらに向かって歩いてこられた。
「ここからだいぶ戻ったところで蛇が電線に絡まって感電していて、断線したのですよ。見つけるのに時間がかかりました」
と、説明を受けた。
「連絡してくれた方ですか」
と、改めて聞かれて、私は、
「慌てていたものですから、騒がせてしまってすみません」と詫びると、
「連絡いただいて助かりました。連絡が今ごろになっていたら、もっと時間がかかって大変でした」
と帽子を取って頭を下げられて、私は恐縮してしまった。
今回の真夜中の突然の停電騒ぎで私は、このところの災害のことを色々と考えさせられた。
「真夜中に、真っ暗闇の中で作業をしなければならない工事の人も大変だね」
妹もしみじみと有り難みを感じているようだった。素敵な悪ガキ
大沢さんとしちいゃんへ
ボクは、高校で謹慎処分1回を受けてます。でも、飲酒ではありません。校則違反です。アルコールは元々嫌いで、あれ以来、努力もしないで辞められました。
ボクはあの頃、反抗期に入ってました。学校に収める旅行代金を親に「くれ」と言ったところ、「何に使うんだ」と言うので、グドグド聞くな!・・という、反抗心から、「旅行に行きません!」言った。すると、先生が家まで来て・・・なて!?わけで、旅行には行きましたが、・・・連載『自分史・私』、19日目
今でもお酒は飲まないんですか
蛇淵は恥ずかしい思い出
それは、それでよかった・・・夕涼みしている人の中に同級生の早苗さんがいた・・・それに気づいた時、ボクは恥ずかしくて・・・時、ボク、まだ、高校2年生・・・そして、反省、以降、アルコールは飲まないことにした。連載『自分史・私』、18日目
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