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大沢久美子撮影

♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪

薔薇の花、美しく素晴らしいです♪♪♪♪♪♪
そのほかの花々もボリューム感があり、まったくもって素晴らしいです♪♪♪

連載『少年』、十二日目

昭和二十二年の春先から初夏にかけては、少年の入学式、始業式、授業参観、家庭訪問などがあって、少年の家は学校とのかかわりが多くなっていた。家庭訪問の日がきた。少年の担任は、うら若く美しい渕上孝代先生である。母は顔見知りとはいえ、やはり緊張している。恥ずかしがり屋の少年の緊張は、言わずもがなである。渕上先生は下の方から、真新しい自転車に乗ってやって来る。やって来られる道で一番見易いところは「仏ン坂」である。少年は縁先に立って、(渕上先生、来ているかな?)と、何度か様子見を繰り返した。これは、釜屋(土間の台所)で支度をしている母の指図だった。様子見のたびに少年は、「渕上先生は、まだ来よんならんよ」と、釜屋の母に知らせた。渕上先生は自転車で、仏ン坂を下って来られるはずだったのである。母はおもてなしの支度に大わらわで、釜屋の中を往来していた。家庭訪問は、親と子の落ち着きのない一日だった。やがて先生は、どこからかひょっこり来られた。先生は用意していた表座敷に上がられて、母と向き合って少年の学校の様子を話されていた。ときおりは母、「そうでしょうか……」と言って、ぎこちないよそ行き言葉で相槌を打っていた。少年は先生に挨拶もせずに、近くの襖の陰に隠れて、聞き耳を立てていた。しかし、二人の話の内容は聞き取れなかった。突然、母が、「しずよし、隠れていないで出てきて、先生に挨拶すればええたいね」と、言った。母に不意におびき出されて決まりが悪かったけれど、少年はおずおずと出て行った。渕上先生は「しずよし君、いたばいね」と言って、笑われた。先生が母に、おいとまの言葉をかけて立ち上がられると、母は用意していたおもたせを先生に渡した。先生は自転車に乗って、次の友達のだれかの家へ行かれた。少年は母に、「渕上先生は、なんて言うてた」と、矢継ぎ早に聞いた。「渕上先生は『しずよし君は、とてもいい子です。心配することは何もありません』と、言われたよ」と、母は言った。少年はうれしくなり、はにかんだ。母と少年が気懸りだった家庭訪問は、何事もなく済んだ。当時の内田村には保育園や幼稚園はなかった。だから少年は、小学校へ入学してはじめて、村中の同級生に出会い、学校という集団生活が始まった。それゆえ、少年にとっての学校生活は、毎日が新鮮で楽しいことばかりだった。学校へ行きたくないと思う日は、一度もなかった。少年は水道の蛇口のある水飲み場もおぼえたし、足の洗い場おぼえた。運動場や砂場にも慣れた。みんなでガヤガヤ言ってする、教室や廊下の掃除も苦にならず、楽しかった。学校にあるいろんな施設もだんだんとわかった。友達とは、みんな仲良しになった。少年は、渕上先生をますます好きになった。少年は日に日に学校に慣れて馴染んだ。小学校入学したての頃は、教科書を開くことも少なく、渕上先生を先導役に友達との輪を広げて、集団生活に慣れて行った。学校行事の一つには運動会があった。少年は運動会では天真爛漫に、とことん楽しんだ。もう一つには遠足があった。春と秋、二度の遠足の行き先はほぼ決まっていて、少年の家からははるかに遠い鷹取山だった。鷹取山は山というより小高い丘で、村中の桜の名所をなしていた。鷹取山の遠足には少年は、リュックに握り飯を三つ詰めて、ほかにはゆで卵や駄菓子、果物があればそれも持って行った。重たくても、水筒の持参は欠かせなかった。行きは弁当を食べる楽しみがあって気分が弾んだ。しかし、帰りはすっかり草臥れはてて、重い足を引きずった。そのうえ少年は、のんびりと道草を食べながら帰ったため、帰る時間が長く余計疲れが増幅した。原集落を過ぎて、近くの内野集落あたりになると、いっとき道端に座り込んで、元気の良い友達を見送った。途中の原集落には、クラス仲間で仲の良い富田文明君の家があり、内野集落にはこれまた仲の良い宏子さんの家があった。少年の家から鷹取山は遠く、このあたりから帰り道は、まだ半道強を残していた。鷹取山への遠足は、こんなことでつらい思い出である。これに比べて運動会は、楽しいだけの思い出である。

連載『少年』、十一日目

昭和二十二年三月には、教育基本法が制定され同時に学校教育法によって、六、三、三、四の新学制が発足し、六、三制の義務教育が導入された。いよいよ日本の国は、戦勝国の占領体制の下、あらゆる面で敗戦後の復興政策がスタートした。おりしも少年はこの年の、桜の花がいまだいくらか残る四月初旬にあって、内田村立内田小学校に新一年生として入学した。少年は母の手に引かれて、運動会の入場門のように花で飾り立てたられた内田小学校の正門を嬉々としてくぐった。少年の家には久しぶりに明るい話題が訪れた。不幸続きで重苦しかった少年の家は、少年が小学校一年生になったことでいくらか華やいだ。少年は一年一組にクラス分けされた。気に懸けていた担任は、美しい渕上孝代先生だった。幼い心が高ぶった。少年は教室に入ると立ったままに、窓ガラスを通して運動場を兼ねる校庭を見た。校庭の広さに驚いた。少年は緊張をほぐすため深呼吸をした。おそるおそる座った椅子はひんやりとした。すぐに、木椅子の肌触りがズボンを通して尻に馴染んだ。しかし、体の大きい少年には二人掛けの机は窮屈で、身を縮めて両膝を直角より内側に曲げた。教壇にはニコニコしながら渕上先生が立たれている。名簿を広げて、名前を読むためである。渕上先生は、「名前はあいうえお順に読みます」と、言われた。少年は頭の中で、自分の順番をめぐらした。少年は生まれつきの小心で、恥ずかしがり屋である。精神状態はもう、オドオドドキドキしている。「ま行」はうしろのほうで、順番の早い友達は「はい」と言って、すでに返事を済ましていた。そのためか教室は、だんだん騒がしくなっている。しかし、順番の遅い少年の緊張は解けない。少年の名が読まれた。少年は「はい」と、言った。順番を長く気に揉んでいたせいか、「はい」の声のタイミングが少しずれた。少年に恥ずかしさが襲った。しかし渕上先生はニコニコ顔で、次の順番の松本宏子さんの名前を読まれた。宏子さんはハキハキと明るい声で、「はい」、と言った。先生のニコニコ顔はさらに微笑ましくなった。少年は宏子さんが羨ましくなった。同時に、恥ずかしさがいやまして、綿飴のように一気に膨らんだ。恥ずかしさは先生のニコニコ顔に救われて、しだいに萎んだ。少年は渕上先生が好きになった。学校が終わると少年は、渕上先生のことを母に話したくて、ときには走り出しながら家に帰った。学校で感じた恥ずかしさは消えて、普段の少年になっていた。少年は大きな声で、「ただいま」と言って戸口元を入り、土間の三和土(たたき)を急ぎ足で駆けて、釜屋(土間の台所)へ行った。母は、「もう帰ったつや、早かったばいね」と、言った。「きょうは、教室で名前を読まれただけじゃもん。担任は、渕上先生になったよ」「そうか。そりゃ、よかったね。渕上先生は、よか先生じゃもんね」「うん。とても、よか先生じゃった」「渕上先生の家は、矢谷の尾上にあるよ」「うん、知っている」「渕上先生のお母さんは、自分と同級生で仲良しじゃったけん。あそこの人はみんな頭が良くて、女の人たちはとても綺麗な人ばかりたいね」「渕上先生も、美しかったよ」。少年は上がり框(かまち)に片膝をついて、座敷の埃を片手で払い、ランドセルを置いた。座敷脇の板張りにも白く埃が見えた。家の中のどこかしこが埃まみれになるのは、母屋の中に機械類が据えられて、糠や粉が舞うせいだった。少年の家は、作業場付きの住まいだったのである。家事に一息ついたのであろうか。釜屋にいた母が、垂らした前掛けに残りの雛あられを包みながら、少年の所へやって来た。母もまた座敷の埃を手で払い、板作りの上がり框をそばにあった濡れ雑巾で拭いた。雛あられは新聞紙を広げて転がされた。少年と母は、雛あられを挟んで上がり框に座った。少年は腹が減っていた。雛あられを指先で一度にいっぱい抓まんで、矢継ぎ早に口に入れた。空腹はかなり満たされた。母はまた、「きょうは、どうだったや?」と、少年に聞いた。少年はさっきのこととは別に、渕上先生のことをたくさん話した。「はい」のタイミングがズレて、恥ずかしくなったことも話した。宏子さんのことも、ちょっとだけ話した。母は「そんなこつ、気にせんちゃ、ええたいね。宏子さんは、内野の松本先生の娘さんじゃろ? 松本先生も、よう知っとるたいね。よか人じゃもんね」と、言った。少年は、校庭の広さのことも話した。母はニコニコしながら、少年の話に聞き耳を立てて、うれしそうだった。また母は、「渕上先生は、よか先生じゃけん、よかったばいね!」と、言った。少年は母ちゃんが何度も、「渕上先生は、よか先生じゃけん」と、言ってくれたことがとてもうれしかった。

連載『少年』、十日目

まだ分別が利かない少年は、昭和二十年にわが家を襲った数々の忌まわしいできごとが、時間の経過とともに早く薄らぎ、遠ざかることだけを願った。少年は、家族の哀しみが日々疎くなることを望んだ。少年は弟や姉のしめやかな葬儀にも、実際には肉親が亡くなったという意味や悲しみのすべてを、感得できる年齢ではなかった。ただ土葬のおり、棺に泥をコロコロと落とすときだけはひたすら悲しく、号々と泣いた。皮肉にも本当の悲しみは、少年の成長に合わせて増幅した。ところが、少年の家にはこの先も不幸が続いた。昭和二十一年十一月には内田村を遠く離れて、福岡県大川市(筑後)に住む、義兄・秀夫さんのもとに嫁いでいた異母二女のキヨコ姉が、突然の心臓麻痺で亡くなった(二十七歳)。キヨコ姉と義兄は、一粒種の赤ん坊新治君を遺した。不断のキヨコ姉は、頑丈この上ないほどの丈夫な体だったらしい。父は届いたキヨコ姉の訃報を手にして、「キヨコが死んだ? そんなばかな、人違いだ!」と、絶句した。父は異母一女のスイコ姉がすでに嫁いでいた筑後に、妹のキヨコ姉をも嫁がせて、安心しきっていた。異郷からの悲しい知らせだった。戦後という切ない名称を付されて日本の国には、復興の槌音が響き始めた。少年の家でも、敏弘を吞み込んだ水車は、日々荒々しく回った。生業とはつらいものである。少年の家は、忌まわしい内田川の水から離れることができず、いや日常の生活用水として、なお内田川に家族の命を託さなければならなかった。少年の家は、またもや不幸に見舞われた。昭和二十二年一月、日頃わが家で病気療養中だった異母二男の利行兄が、闘病に勝てず力尽きて亡くなった(三十三歳)。チズエ義姉との間には、これまた一粒種の晟暢君が生まれていた。利行兄は志願して海軍の軍務に就いていたが半ばで病になり、療養のためわが家へ帰っていた。療養中の兄の姿には、軍務を諦めざるを得ない悔しさと国にすまないという、思いが滲み出ていた。鄙びた内田村を出て世間を知る兄は、それゆえ世の中の動きを直視していた。父は子どもとはいえ兄には一目置いて、大きな信頼を寄せていた。それに応えて兄は、父の相談役をも務めた。戦時色を深めてゆく日本の国にたいし二人は、行く末を見据えていた。海軍勤務という職業柄の気概もあってか、兄の愛国心は常に高揚した。病身とはいえ背筋を伸ばし、凛々しく佇む兄の姿に少年は、近寄りがたい思いを抱いた。年の差も離れていた。しかし、兄の威厳には怖さばかりではなく、常に優しさが付き纏っていた。だから、少年にたいする兄の威厳は、少年の兄にたいするする敬慕にかわった。兄は職業軍人特有に、親に孝行する心構えと、きょうだい愛に格別腐心していた。なかでも、弟妹にたいする向学の勧めと、それを支える気持ちは殊更旺盛だった。わが母の一男一良兄は、「おれは利行兄のおかげで、旧制中学にも行けた」と、常々口癖のごとく言っては感謝頻りだった。利行兄の強い体と高い見識は蝕む病魔には勝てず、日本の国の敗戦を強く悔いたのち、短い人生が閉じた。利行兄は軍務半ばで、胸の病に罹っていた。少年の家はほぼ三年間に、五人の子どもたちを野辺に送ったのである。この悲しみは少年の小学校への入学程度で、忘れ去れるものではなかった。少年の家に不幸はいつまでとりつくのであろうか。父と母そして家族に、涙が乾ききる日はまだ遠く、悲しみを克服する日が続いた。しかし、戦時下および戦後にあっての哀しみは、国民だれでもが一様に見舞われ、耐えなければならなかったのである。少年の小学校への入学は、利行兄の他界の悲しみまだ消えないのちの、この年・昭和二十二年の四月初旬だった。内田村にあっては、桜の花の散り際だった。

望月窯だより

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 五月の望月窯は新緑真っ盛り。到着すると、ウグイスの賑やかな歓迎のさえずり。遠く近くでキジの甲高い声。水仙の花は姿を消し、アヤメ、オオニソガラム、都忘れ、雑草の花々、、紅梅の実がぎっしり、柿の花芽が顔を出し、すっかり初夏の景色になっていた。
 ベツレヘムの星と言われるオオニソガラムは真っ白な花を緑の雑草の中で咲いていた。今年は良い時期に訪れた。

連載『少年』、九日目

国敗れて山河あり。内田川の流れも周囲の山並みも変わることなく昭和二十年、内田村には煮えたぎるような太陽の陽ざしが照り煌めいていた。変わっていたのは人の命と、戦時下における人々の営みであった。八月十五日の昼下がり、少年は異母二男の利清兄から、怒号まじりの説教と詳しい説明を受けた。兄の言葉が終わると少年は、濡れた猿股パンツを脱いで、乾いたものに取り換えた。この日はそののち、神妙に家の中に閉じ籠った。少年は戦争の勝ち負けがどういうものかも知らずに、終戦(敗戦)の日を迎えていた。少年はあくる日からまた、小魚取りや水浴びに行った。夏の間、猿股パンツだけで裸丸出しの少年の肌は木炭のように黒びかり、少年は内田村の山河を遊びまわった。少年はひと月前の七月十五日に、五歳の誕生祝いを終えていた。少年にとって昭和二十年は戦争が終わった年というより、三人のきょうだいを亡くしたつらい年として心に刻まれた。少年はこの年の二月二十七日に、自分の子守どきのへまで、唯一の弟・敏弘の命を絶った(生後、十一か月)。結局、敏弘は一歳の誕生日を迎えることなく、家族の言う敏弘は誕生日前に歩くだろうという予想をも覆し、短い命を絶った。少年の生涯から、弟を持つ兄の気分は幕を下ろした。少年にとって、弟との生活は短い間だった。だけど、敏弘が味あわせてくれた、兄の気分は最高傑作だった。弟のからだを抱き上げることで、兄の肌身に、弟の感触が伝わった。戦地に赴いていた異母三男の利清兄は、戦地から帰らぬ人となった。帰らぬ日となったのは、七月十七日。父は利清兄がフィリピン・レイテ島・ビリベヤ方面で、名誉の死を遂げたという公報を受け取った(独身、二十三歳)。「名誉の死などあるものか!」。父は憤慨した。少年は後日談で母長男の一良兄から、切ない話を聞いている。「利清兄には、戦地に恋人がいたらしい…」。利清兄は、異国の地に若い命を埋めた。少年の家には時を置かずに、またもや不幸が訪れた。体つきも性格も少年に似ていたという、母二女のテルコ姉が病魔に攫われたのである(若い身空の十八歳)。病は単なる盲腸炎から腹膜炎を併発していた。テルコ姉は、二日後に終戦となる八月十三日、病床で見守る家族のそれぞれに、途切れかかる声を細く絞り出し別れの言葉を告げた。テルコ姉は少年の手を取って、息絶え絶えに掠れる声で、「しずよし、力強く生きて、わたしの代わりに親孝行をしてね…」と、言った。今、このフレーズを書いている少年の両眼には、こらえきれなく悲しい涙があふれている。父と母はこのとき以来、「テルコは、戦争さえなければ死なずに済んだ」と、言い続けていた。この言葉は、家族に臨終を告げた村中のかかり医院・内田清医師からの受け売りでもあった。内田医師はこの言葉に添えて、「薬さえあれば娘さんは、盲腸炎くらいで死ぬことはなかった!」とも、言われたという。戦争が招いた、哀しい言葉だった。敗戦後のことなどわかりようのない少年には、この先の生活など気に懸けることはなかった。しかし、弟、兄、姉と、三人のきょうだいを亡くした昭和二十年は、少年の心の襞につらく悲しい記憶として刻まれた。戦争が終わって国民は、一様に脱力感に見舞われ、さらには悲壮感、疲労感、虚無感などの三竦みの気分にも襲われた。一方で国民は、これまで体験したことのない敗戦国の戦後処理とは、どういうものになるのであろうかという、不安に苛まれた。少年の家にも他家にも悲しみが伝えられて、戦争の傷跡が痛んだ。昭和二十年八月三十日、日本国民は神奈川県厚木飛行場で、タラップを下りてくる連合国最高司令官マッカーサー元帥の一挙手一投足に怯えた。敵軍の将は太いパイプをくゆらして、戦いを終えたばかりの適地に悪びれる様子もなく、また凱旋将軍の傲慢ぶりも見せずに、淡々とタラップを下りた。日本国民が懸念していた戦後処理は、敗戦国日本からみれば国民生活に配慮された、望外の温情に満ちたものだった。日本国民はひとまず悲憤慷慨の胸をなでおろしたが、以後七年間にわたり、敗戦を被った占領国の呪縛に耐えなければならなかった。敗戦であっても、ようやく戦争は終わった。夜間、人々の家の電燈からは灯火管制でかぶせていた布切れが外され、裸電球が明るく灯ったのである。

連載『少年』、八日目

「日本軍、敵機を撃墜せり」。勇ましく始まった太平洋戦争も、昭和十七年六月のミッドウェー海戦の大敗北により、戦局はしだいに日本の不利に転じた。戦場の不利は精神力と大和魂で覆すのだと煽られ、日本および国民は一層戦意を強めて、日本社会ますます戦時色を濃くしていった。マスメディアは戦地の苦戦を善戦という言葉に置き換えて、まるで勝利者のように進軍ラッパを吹き続けた。マスメディアは国民を有頂天にさせながら、限りない我慢と士気の高揚に努めた。子ども同士の喧嘩であっても、負けを覚悟すれば最後のあがきから、一瞬蛮勇が湧いてきて、自分の勇気と腕力を疑うほどの胆力が出るものだ。この頃の戦況はもはや、それに似ていたのではないだろうか。ラジオや新聞で、「勝っているぞ。勝っているぞ!」と、囃し立てれば勝利を願う国民は、たちまち勝利者気分に酔いしれる。社会の木鐸をになうはずの当時の報道には、「嘘を真に」丸めたものが多かった。ところが昭和二十年には、敗戦の色濃いはずのアメリア軍が、忽然と日本本土に爆撃を激化させた。艦載機やB29が飛来し、日本の空に爆音を轟かせた。内田村にも、編隊を組む機音が地響きを立てた。南の空、西の空から現れる機影の恐ろしさは、少年を怯えさせ心に焼きついた。少年は綿入りでできた布製の防空頭巾を頭に被り、紐を顎の下で固く結んだ。警戒警報と空襲警報を伝える半鐘の早鐘が打ち鳴らされると、少年は近くの防空壕へ一目散に駆けた。銃後の守りは、戦場における戦意の高揚に重きをなしていた。全国民は、要の兵士の戦意の高揚とエール(応援歌)伝えに躍起となった。女性や子どもたちは竹槍の訓練、そしてまた、千羽鶴、千人針、慰問袋作りに勤しんだ。回覧板は、戦時下にかかわる美談で埋め尽くされた。国民は戦争の実態など知らぬままに、みんなが銃後の守りに営為した。一方、空襲や爆撃の多い都会からは恐れて疎開が始まり、辺境の内田村にまで、身寄りを頼り疎開者が来た。少年の家の近くで記憶にある人では、森さんという人が来ていた。精米業を営む少年の家では、他人様の家族構成や家族の人数の増減が真っ先に見えた。ときには見知らぬ人が訪ねて来て、母に「米を分けてください」と、せがんだ。そんなおりの母の応対は、飛びっきり優しく丁寧だった。母はたぶん、わが身に他人様の事情を重ねていたのであろう。少年の家では、異母二男の利行兄が海軍の軍務に就き、三男の利清兄は戦地に赴いていた。だから母は、相身互い身の思いで応対した。昭和十九年から二十年にかけては、なお意気軒高な報道とは逆に、戦地はいよいよ敗け戦の状態に陥っていた。少年の父は戦争の結末を案じて、秘かに(もう、降参)の手を上げかかっていた。もとより、父にそれ以上の勇気を望むのは、酷というものであろう。しかし、父がそういう見識をいだいていたことには、少年は父にたいし、十分に敬愛をつのらせることができた。アメリカ軍は、一向に白旗を上げず、終戦(敗戦)のシグナルを見せない日本政府に苛立ち、とうとうとどめの原子爆弾を広島市(八月六日)と長崎市(八月九日)に相次いで落とした。そしてこの年、昭和二十年八月十五日、NHKラジオの昼のニュースの中に、昭和天皇陛下のみことのり(玉音放送)を挟んで、終戦(日本の敗戦)が告げられた。この日の少年の年齢は、五歳と一か月だった。少年は隣の遊び仲間の子どもたちと、田んぼ脇の小川に入り小魚取りに興じていた。上の兄たちは、近場の「蛇渕」(淵深く、近場にあった人気の水浴び場)で、水浴びをしていたと言う。ところが少年と兄たちは、海軍の軍務半ばで病気になり、自宅療養中の異母二男利行兄に呼び戻されて、縁先に並べられた。軍務という職業柄、無念の表情を露わにした利行兄は、普段の優しい表情を鬼面に変えていた。「おまえたちはこんな日に、遊んでばかりいるな!」と、厳しく叱った。この後では、敗戦の事実と玉音放送の内容を兄の言葉で伝えた。少年は敗戦の悔しさより、兄の厳しい言葉に震えあがった。少年は戦争のとばっちりを受けて、平和な日の訪れを願った。