12月24日(土曜日)。令和4年(2022年)の年の瀬は、大晦日(12月31日)へ向かって、流れ着くところにある。大晦日に年越しそばを食べて、響いてくる除夜の鐘を聞き、目覚めれば夜明けは、新しい年(令和5年・2023年)の元旦となる。年の瀬迫るきょうあたり、わが心中には子どもの頃の新年・正月準備の家事光景がよみがえる。一つは、わが家族に加えて、近くに住む異母長兄の家族うちそろっての餅つきである。当時のわが家の餅つきは、土間に石臼を据えて、周りに男性連が並び、「ヨイ、ヨイ、ヨイ」の掛け声唱和の長い杵棒つきだった。つきあげほやほやを上がり框(かまち)に待って、すばやく丸餅や鏡餅に手丸めしたのは、居並ぶ女性連だった。餅つきが済むと、一気に正月が近づいた。家人はそれぞれに一年の終いごとと、正月準備に忙しく駆け回った。私は里山へ入り、飾り餅に挟む楪(ゆずりは)を採りに行った。飾り餅には、母が新米を半紙に包んだおひねり、小さな河内みかん、さらには自家製の吊るし柿が、母の手で飾られた。冬休みは夏休みと違って短いせいなのか、宿題はなかった。だから私は、存分に家事手伝いをした。釜屋(土間の炊事場)は、身に堪える寒さだった。しかし、家族の温もりがそれを打ち負かし、正月準備は万端ととのった。年越しそばは、自作の蕎麦(そば)を母の手打ちそばだった。現在のわが年越しそばは、日清の「カップラーメン」である。それでも、食べていると眼前に、こよなく父と母の面影がちらついてくる。夜明け前、私は寒さに震えて、年の瀬の追憶文は、あえなく結文となる。こののちは、面影を懐かしく偲んで、心の中に「暖」を取るつもりである。 お久しぶりです。高橋様のエールがないと孤独になり、書く気分が殺がれます。歳末にあたり、御礼申し上げます。人間の楽しみの一つは、出会いです。 ぼくだったら、みかんやほかの柑橘系の実を浮かべていたかもしれません。 現代文藝社の掲示板がリニューアルされてから、初登場されたと思いましたが、大沢先生がおっしゃる通り、花々は素晴らしく、今後も楽しみです♪♪ なんとも心温まる場面ですね♪♪ 今朝は用事があって出かけた。帰宅途中の郵便局の前にさしかかると、駐車していたバイクの座席からヘルメットが歩道へ転げ落ちた。風がひどく吹いていて、ヘルメットは歩道を転がって車道へ出てもまだなお転がる気配だった。 古閑さん、リニューアルの掲示板に色々とお手数をかけてお詫びします。投稿への試みをしていただいて、有り難いです。私も新しい掲示板にはいまだ手こずっております。どうか懲りずにお付き合いくださいませ。今回も心和ませてくださってありがとうございます。 12月23日(金曜日)、起き立てにあって寒気が緩んでいる。この時季にあっては、自然界からもたらされる特等の恩恵である。きのうの「冬至」(12月22日・木曜日)にあって私は、湯船にたった一つだけ、武骨なユズの実を浮かべた。労わり、慈しむかのように私は、ユズの実を鼻先に引き寄せた。馥郁とする柚香は、しばしわが心を和ませた。たった一つだけとは、われながらケチ臭いと思う。農家出身の私には切ない言葉だけれど、それはユズの実が「不作」だったせいである。台風で倒れた柚子の木は、私がいくらか起こした。しかし、それ以来今なお、傾いたままである。倒れたおりには枯れることを懸念し、本幹を残して枝葉の多くを切り落した。ようよう生きながらえてくれている柚子の木は、ことしは僅かに五つの実を着けた。私は五つとももいで、湯船に浮かべるつもりだった。「冬至だから、ユズは全部、取るよ!」「パパ。全部は取らないでよ。料理の香りにするのだから…」。これだけの私と妻のとの会話が、わが取るつもりの思惑に邪魔をしたのである。一つであろうと五つであろうと、構わない。なぜなら「ユズ風呂」は、無病息災を願うだけの、もとより効き目のない「ゲン担ぎ」にすぎない。すなわち、「ユズ風呂」は、古来の歳時を引き継いだ子どものままごと遊びにも似た、おとなの「おまじない」である。しかし、湯船の中のユズの香りは、なんだかなあー…、病を撥ね退けてくれそうな心地良い香りである。私は、たった一つだけのユズの実の香りに満足した。一方、たった一つだけのユズの実は、冬至におけるユズ風呂の役割を十分に果たした。冬至が過ぎてきょうから、季節めぐりは冬本番へ向かい、すぐに春を近づける。たった一つだけだったけれど、ユズ風呂の中のユズの実の香りは、確かな「一陽来復」の先駆けである。寒気の緩みとユズ風呂の和みの余韻、すなわち自然界と人間界の知恵がおりなすコラボレーション(協和)のおかげで、めずらしく起き立てのわが気分は和んでいる。ユズ風呂の効果は、これだけで十分である。実現不可能なおまじないに、あらたかな効果を求めるのは、人間の切ない強欲である。 令和4年の「冬至」(12月22日・木曜日)の夜明け前にある。起き立ての私は、わが身を震わす寒気に耐えている。カレンダー上には日々折々に、一年めぐりを刻む季節用語が様々に記されている。加えて、中国伝来の語と言われる二十四節気をはじめ多くの節気が記されている。さらには一年中の折々の歳時、すなわち自然・人事百般のことを編んだ歳時記から抜粋の事柄など、ほかにも多々記されている。わが凡庸な脳髄は、到底これらを学び尽くし、それらの意味を覚えきれるものではない。もし仮に、私が気象予報士にでもなろうと思えば、これらの季節用語や歳時記に記載されている事柄は、必定の出題範囲として勉強せざるを得ないであろう。このことではカレンダーは、まさしく人間の一年中の日暮らしのあり方を示す、最良の道しるべである。もちろん、カレンダーに記載の言葉を学び尽くし、それに応じた日暮らしを続ければ、豊かな人生の一助になること請け合いである。しかしながら私にかぎらずだれしも、もとよりそれを叶えることは不可能である。さて、冬至。もちろん私は、冬至すなわち、太陽をめぐる気象や科学など、学問的意味にはまったく珍紛漢紛(チンプンカンプン)である。冬至にまつわるわが知識の一つは、一年中で最も夜間が長く、そのぶん最も昼間が短いことである。そして一つは、冬至にちなむ歳時で、無病息災を願って「ユズ風呂」に入ることである。文章に書けばたったこれだけのことだけれど、心象的には書ききれない様々な思いがある。その一つは、「夏至」と対比してめぐりくる半年の速さ(感)である。人生の晩節を生きる私の場合、格別、その速さ(感)は痛切である。加えて私は、冬至に出合えるのはこの先、片手指の数にさえ及ばないのかもしれない。きょうのユズ風呂のおまじないも、効きそうにない。私は、予定(12月29日)されている胃カメラ検査に向かって、今なお胃部不快感を引きずっている。令和4年(2022年)の「冬至」におけるわが日暮らしと、バタバタとつのる感慨である。年の瀬の追憶
高橋弘樹様へ、感謝!
○前田さんへ『ユズ風呂』の感想です○
邪道ですね(笑)。♪古閑さんへメッセージです♪
♪大沢先生へ『ハプニング』の感想です♪
人と人とのふれあいは、どんな時代になっても必要だと思っています。ハプニング
私は、目の前に転がり出たヘルメットを追いかけたが、なかなか追いつかず車道の前後を咄嗟に見て車道に出て追いかけてやっと捕まえることができた。ヘルメットを拾い上げていると、そばを通った仕事人風の男性が、「あのバイクの方から転がったみたいですよね」と声をかけて私の手からヘルメットを受け取ってバイクのそばに置いてくれた。私は、自分の責任ではなかったけれど、思わずその方に「すみません」と頭を下げてしまった。親切に声をかけてくれた感謝の気持ちからだった。
たったこれだけのことだったけれど、声を掛け合うとは素晴らしいことだと感激しながら自宅へ急いだ。古閑さんに感謝!
たった一つだけのユズの実に懸けた「ゲン担ぎ」
冬至