1月5日(木曜日)、未だ夜明け前にある。しかし、心理の変化に負うところではあるけれど、旧年の「冬至」(12月22日)が過ぎて、こころもち夜明けの早さと、夕暮れの遅さを感じている。時はまったくぶれなく刻んで、めぐっている。「寒い、寒い」と呟き、身震いを強いられたとしても、あと一か月我慢すれば、月が替わり節分や立春がめぐって来る。歌の文句を浮かべれば、台湾の亡き歌姫・テレサテンの『時の流れに身をまかせて』をハミングしたくなる。新年・令和5年(2023年)は、四日を過ぎ五日目を迎えている。過ぎた四日間を振り返れば、愉快な気分が凝縮していた。元日には娘、つれあい、孫のあおばが訪れた。二日と三日は、妻と私共に阪神タイガースの応援グッズ・メガホンを口角に当て、「箱年駅伝」のテレビ観戦に興じた。単なる観戦ではなく「熱狂」、文字どおり気違い沙汰の応援観戦だった。気狂いの応援の甲斐があり、母校中央大学は二位に躍進した。私は仕事始めのきのうまで、なお興奮を引きずっていた。その証しには、録画撮りを繰り返し観ていた。このためわが仕事始めは、玄関口から門口を出て、トボトボ歩いて20メートルほどのゴミ出しだけだった。これに加えれば私は、片道200メートルほど先にある郵便ポストとわが家間を往復した。つごう四日間の屋外歩数は、700歩ほどにすぎないであろう。茶の間ではソファに座り込んで四日間、ふるさとの姪っ子(亡き長姉の長女)から送られて来た丸餅、買い置きの駄菓子、さらには三段重ねのおせちを食べ通しだった。それゆえ現在のわが図体は、名物の「高崎だるま」など買うまでもなく、自作の「ダルマさん」になっている。体重増加が恐ろしくて、明けては体重計に乗っていない。いや、体重計に乗らずとも、鏡餅のように膨れている腹を撫でれば、平常の80キロに5キロ増しぐらいかな? と、目鼻は着く。しかしながら母校の健闘で、気分良好の新年の出だしである。気狂いにまかせて、身勝手な文章を書いてしまい、詫びるところである。まだ夜明けの明かりが見えない、デジタル時刻6:10の現在である。 令和4年(2022年)は過去になり、新たな令和5年(2023年)も三が日を過ぎた。そして、1月4日(水曜日)の夜明け前にある。壁時計の針は止まることなく、正確に時のめぐりを刻んでいる。夜が明ければ朝日と名を替えた太陽光線が、暗闇を照らし始める。命あるものはこぞって、新しい年の実質の始動となる。これまた表現を替えれば、生き続けるための否応ない人の営みである。端的には生業(なりわい)という、新たな年の日常生活の始まりである。机上カレンダーに目を落とすと、「官庁御用始め」と記されている。ただ、生来へそ曲がりの私には、「官尊民卑」時代の古めかしい表現にも思えている。明治、昭和、平成、そして令和と変遷した現代にあっては、単に「仕事始め」でいいはずである。もちろん、「官」という、名だけの尊い職業にありつけなかったわが僻みではない。しかし、この表記にはいくらか腹が立つけれど、「歳時(記)」の名残と思えば、気分の収まりは着く。カレンダーに沿えばきょうは、「官民平等」にうちそろっての、新しい年の仕事始めである。しかしながら、これにも語弊がある。確かに、大方の人は休む三が日ではある。だけど、「世のため、人のため、そして自分のため」、三が日をも働き尽くめた人は大勢いる。それでもきょうは確かに、一年を区切りとして、厳かな日と言えるであろう。そうであれば私は、世の中のだれしも、沸き立つ気分で仕事始めに臨んでほしいと、願うところである。とうにそんな気分は遠のいている、現役諸氏へのわが年頭の餞(はなむけ)の所感である。私の場合、ワクワクする仕事始めはないけれど、それより厳かな「生きる活動」を老体に鞭打って、日々続けている。すなわち「生存」、私にかぎらずだれしもにも、これを超える尊いものはない。仕事始めは、その身近な手立て(便法)である。もちろん私には叶わず、羨望つのるところである。仕事始めにありつけない私の場合、きょうは新しい年の「迷い言」の言い始めなのかもしれない。寒気を感じるわが身体には、朝日が恵む熱が欲しいところである。しかし、まだ朝日の蠢(うごめ)きはなく、体は冷えている。欲はかくまい、生きているだけで「大儲け」である。現役時代の私は、片道二時間余をかけて、仕事始めに就いていた。人生晩年を生きる現在、甘酸っぱい思い出である。 1月3日(火曜日)、流し目で見遣る壁時計の針は、三時近くをさしている。晩御飯のあと茶の間のソファで寝入り、起き出して来てまったく火の気のないパソコン部屋で、キーを叩いている。茶の間で温まっていた体は、たちまち雪崩のごとく崩れて、冷えている。しかしながら、心は熱く燃えている。ご常連様の優しさがうれしく、わが心身に沁みているからである。自分勝手に継続文にすがり、明けて正月おととい、きのうと文章を書いた。これには、「読んでくださる人の数は少ないであろう」という、自分なりの思惑があった。ところが、この思いはご常連様の優しさに出合い、うれしく崩れた。カウント数を見たら、いつもとほぼ変わらない数が刻まれていたからである。正月元日および二日の家族団欒にあっても、掲示板を開いてくださったことがわが身に沁みて、うれしさが込み上げてきたのである。きょうはこのことを書かずにおれなくて、パソコンを起ち上げている。きょうだけは愚痴こぼしの文章など書いておれない、正月三が日最終日の清々しいわが心境である。この心境にこの先、駄文を加えては清々しさが崩れることとなる。それゆえ、尻切れトンボの恥などかなぐり捨てて、これで結文を決意するものである。「感謝感激、これあられ!」、身体は冷えても、心は熱く燃えている。壁時計の針は、わずかに進んで緩やかにめぐっている。 新しい年の二日目、令和5年(2023年)1月2日(火曜日)の起き立てにある。現在、パソコン上のデジタル時刻は、2:42と刻まれている。言うなればこの時刻は、今年のわが文章のスタート、すなわち昔流に言えば「書初め」を為す。しかしながら子どもの頃にあって正座し、半紙に筆字を書いていたときのようなワクワク感はまったくない。さて、慣れるまで当分気を付けなければならないことの一つは、文章において年数を書き違えないことである。現在、わが心中には「歳月は人を待たず」と、学童の頃に学んだ「光陰矢の如し」という、成句が浮かんでいる。加えて、わが咄嗟の造語すなわち、「歳月は人を脅かす」という、成句が浮かんでいる。確かに、人生の晩節を生きるわが心身は、出来立てほやほやの成句の真っただ中にある。そして、甚(いた)く脅かされている。新しい年においてこの先1年間、わが御供をするのは真新しい机上カレンダーである。これにそって、わが悲喜交々の日常生活が進んでゆく。いや、多くは、悲しい出来事だけを刻んでめぐってゆく。万感きわまりない、片手・手の平程度のカレンダーの仕打ちである。今、心してそれを見ている。すると、きのうには「初詣」、そしてきょうには「初荷」と「書初め」の二つが記されている。確かにカレンダーは、古来、日本の国の原風景や様々な歳時(記)がコンパクトに記されたありがたい教本である。一方それにそって日々、新たな人生の侘しさや寂しさが記されてゆくものでもある。確かに、この文章は新しい年の書初めである。しかし、ワクワク感はない。こんな調子で、新しい年はめぐってゆく。「人間、万事塞翁が馬」。なんだか遣る瀬無く、切ない「書初め」である。 新年元旦(令和5年・2023年1月1日・日曜日)。起きて、寒さが身に沁みる。除夜の鐘は聞かずに寝て、目覚めて起き出している(3:26)。自然界が恵む熱源の「御来光」を拝みたい気分横溢である。明けましておめでとうございます。新しい年にあっては欲張って、共に健勝かつ清祥を願っています。 ご常連様、実際のところは何人? どなただろうか? 継続の支えに授かり、感謝と御礼を申し上げます。 12月31日(土曜日)。未だ夜中のデジタル時刻(2:56)の起き立てにあって、電子辞書を開いて幼稚園児さえ知る言葉の説明書きを読む。「大晦日」:(各月の「みそか」に対して)1年の最終日。おおつごもり。おおとし。「みそか」(三十日・晦日):月の第30番目の日。転じて、月の末日をいう。尽日。つごもり。「除夜の鐘」:除夜の夜半、正(ね)の刻に諸方の寺で、百八煩悩を除去する意を寓して108回撞く鐘。「除夜」:(「除日(じょじつ)の夜」の意)おおみそかの夜。除夕(じょせき)。令和4年(2022年)の漢字一字は「戦」という。この一年、わが文章は愚痴こぼしに塗れた。それゆえにわが身にまつわる今年の漢字一字は、「愚」ないし「痴」が適当である。正直な気持ち、なさけない思いがあふれている。だから、大晦日のきょうだけは、愚痴こぼしやまみれの文章は避けたいと、肝に銘じている。しかしながら人間はだれしも、愚痴をいだいて生きている。ところが多くの人は、愚痴をこぼすことを憚(はばか)り、心中に隠しながら生きている。ところが私の場合は、隠しきれずに生きている。そしてなおかつ私は、ブログという不特定多数の人の目に晒している。つくづく、バカな私である。しかし半面、嘘のつけない生真面目な正直人間の証しではある。いや、狭量な人間の証しである。すなわち、人間はだれしも、生存にあっては様々な愚痴の要素をかかえている。それを堪(こら)えることができるか、それともできずにこぼすか。究極は、人間の器の大小、人間性の良否に分かれる。私の場合は、もちろん「小、否」である。「大晦日」にあって「除夜の鐘」ひびくきょうだけは、心して愚痴こぼしの文章は書かない。すると、この先が書けない、長い夜となる。一年間、駄文を綴ったことを謝し、そしてそれを読んでくださったことに感謝し、御礼の志を記して、今年の書き止め文とするものである。年賀状にかえて、声なき声のご常連の皆様のご多幸を切に願うところである。「人間、塞翁が馬」、悩むことはない。私自身に対する、諦めというか、戒めの成句である。まだデジタル時刻は、4:13の刻みにある。おお、寒い。 途中できれてしまいましたので、続きを書きます。 以前にもお伝えしましたが、音楽を聴くなど、前田さんなりのリラックス方法を見つければ、雑念や強迫観念に打ち勝つ事ができて、『最強の前田さんになれる!!』と固く信じております!! きょうも前田さんへ大大大エールと大大大エネルギー&パワーを贈ります(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/ 前田さん、胃カメラ検査異常無しでなによりでした。しかも前田さんの胃は、超極美との事で、これまたなんともよろしい事ですね。新年の出だし、気分良好、だけど体重増
「仕事始め」
正月三が日
「書初め」
謹賀新年
感謝と御礼、申し上げます
大晦日
◎前田さんへメッセージです2◎
☆『ひぐらしの記第100号』☆の御出版を心より楽しみにしております☆×100◎前田さんへメッセージです◎
主治医の先生に太鼓判を押されても胃部不快感があるのは、おそらく精神神経的な事もあるかもしれませんね。
神経性胃炎という病名もあるぐらいですから。
ぼくも胃腸は弱く、小5で早くも胃のレントゲンを撮り、中1で十二指腸潰瘍の診断を受けました。
大人になってからは、過敏性腸症候群の診断を受けています。
なので、市販薬のパンシロン01+(ロート製薬)やワカ末錠(クラシエ)はかかせません。
特にパンシロンは、1日3回服用と説明が書かれていますが、1日6回とか症状がヒドイ時は8回も飲んでいます(大笑)。