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大沢久美子撮影

ありがとうございます

 大沢さん、高橋さん投稿の感想ありがとうございます。
 大沢さんのお父様も剣道しておられていたそうで一寸親近感を覚えます。剣道の大先輩ですね。私は、今でも剣道の稽古をしたいと思います、がもう無理でしょう。若い頃はまさか80歳を超えるまで剣道をしているとは夢にも思っていませんでした。

♪古閑さんへメッセージです♪

今回も古閑さん御宅の花々、鮮やかで素晴らしいです♪♪♪♪♪♪
『剣道人生』と『囲碁生活』、こちらも素晴らしく思います☆☆☆☆☆☆●○
「今」を楽しんでいらっしゃる『古閑さんの生き方』に”大大大エール”を贈ります(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/

♪大沢先生へメッセージです♪

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キュウリの成功とクチナシ三輪、そして、パッションフルーツの花芽、なによりですね(^^)(^^)(^^)
昨年4月に先生からいただいたパッションフルーツは、画像の通り大きくなりましたが、今のところ蔓も伸びず、特に変化はありません。

私の畑

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 我が家のベランダの畑のキュウリが随分大きくなりました。キュウリの苗は二本買いましたが、隣のもう一本の苗にも実がついていて、大きくなり出しています。いつもキュウリは下の方の葉が黄色くなってしまい、実が付きにくかったのですが、今年はうまくいきました。

素晴らしい暮らし

 古閑さん、花いっぱいに囲まれて穏やかな毎日をお過ごしのようですね。剣道をどうなさっているのかと訊ねてみようと思いながら聞かずじまいでした。ずっと続けていらしたんですね。テレビで剣道の番組を見ることがあると古閑さんを思い出します。私の父も若い頃に剣道をやっていて、木刀が数本残っています。父の剣道着姿も写真が残っています。
 囲碁仲間がいらしてうらやましいです。私はまったく布石が覚えられず、パソコンで闇雲に打っています。日曜日のNHKの囲碁トーナメントは欠かさず見ています。

私の庭

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先日咲いたクチナシの花はグラスにさして仏壇に供えました。今朝は三りん咲きました。どちらも上品な良い香りを漂わせています。クチナシの花の香りは、早朝に漂っているのが良いかなと思いました。

おっちょこちょこの人生

パソコンを起ち上げて、のっけから電子辞書を開いている。「徳俵:相撲で、土俵の東西南北に、俵の幅だけ外側にずらしておいてある俵」。力士にすればオマケの俵である。だから、徳俵と名がついている。これくらいの説明書きがなければ、電子辞書の価値はない。徳俵のことはどうでもいいけれど、文章の都合上、冒頭で徳俵の由来を記したのである。わが人生はオマケの「徳俵」さえ踏んでしまい、いよいよ後がない。きのうは下歯に詰めていた岩石みたいな詰め歯が、まるで西の空の日没を見ているかのように静かに外れた。このため下歯は、前歯周辺の何本かを残して、左右には噴火口みたいな旧い穴ぽこに加えて、新たな穴ぽこが並んだ。上歯はすでに詰め歯がとれていて、いたるところが穴ぽこだらけになってしまった。歯医者嫌いで、これまでは痛みが出ないかぎりほったらかしにしていた。しかし、きのうの下歯の詰め歯の外れは、「万事休す」、と宣告を受けたのである。上下すなわち、歯並び全体が「穴ぽこ」だらけになり挙句、大好きな御飯さえ(もう、食べなくてもいいや)と駄々をこねて、敬遠する状態になりつつある。すわ! これでは歯どころか、「命」が一大事だ! と、慌てふためいて私は、間遠になっている掛かりつけの歯医者に予約を入れた。そのとき決められた診察時間は、きょうの午後2時である。運よく修復できるのか。それとも運悪くもはやお手上げで、また穴ぽこのままにほったらかしにし、やがて訪れる痛ささえ我慢して、自然死まで耐えるのか。きょうは、わが生来の優柔不断の決断をどちらかに迫られる日になりそうである。もちろん診察を終えるまでは、わかりようはない。ただ、残存のわが命に突然、大きな出来(しゅったい)が生じたことだけは明白である。もう一つ、知りすぎている言葉だけど、電子辞書調べをした。「パンク:①自動車や自転車のタイヤのチューブが破れること②物が膨らんで破裂すること③適量を大幅に越えて機能が損なわれること」。調べるまでもない言葉なのにあえて、電子辞書を開いたのは、これまた文章都合上のためである。そしてそれは、電子辞書の説明書き③の記述に該当する。私の歯、いや体全体は、徳俵でこらえてももはや、後がないパンク状態にある。あすと言わずきょうにも、息の根が止まりそうである。いよいよ私は、人生の総括をしなければならない焦燥感に見舞われている。確かに私の体は、歯のみならず日に日にどこかの不良をいや増し続けている。ところが、わが体の不良や衰弱ぶりばかりではなく、身内、友人、知人の訃報は途切れることなく続くようになり、おのずからわが気分をむしばんでゆく昨今(さっこん)である。三度目の電子辞書すがりは、これまた知りすぎているこの言葉である。「昨今:きのうきょう。この頃」。わが体いや命は、焦眉の急に脅かされている。大袈裟に書いたけれど、創作文(虚構)の真似事をしたまでのことである。こんな文章など身のため、書かなければよかったのかもしれない。しかしながら、書かないと文章は、きのうで頓挫の憂き目を見たことになる。継続とは恨めしいかぎりである。継続は世に言う、わが人生に力を与えてくれているのだろうか。梅雨とアジサイの季節は、私にとっては物憂い季節である。ただ、きょうの診察しだいでは、すぐに明るくなることはある。表題は「おっちょこちょこの人生」でいいだろう。

庭の花

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 現在、私は、ほとんど毎日地区センターに行って仲間と囲碁を打っている。囲碁の仲間から「今日(囲碁を)やろう」と電話がくることもあるし、自分からかけることもある。また、連絡なしに行って手の空いている者と打つこともある。この、人との絆、交流は私にとっては欠かすことのできないものである。そして、生い先短い身、これからのこと、これまでのことはほとんど考えず、「今」を楽しんでいきたいと思っている。

庭の花

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 昨年3月、81歳で剣道を辞めた。高校時代から始めた剣道、自分ではもっと続けたかったが体力とスピードの衰えではやむを得ない。60数年、いや仕事等でできなかった時もあり実際に剣道をしたのは50年位であろうか。若いころ70歳くらいの先生二人の模範試合を見学したとき「70歳位にもなって剣道ができるなんてすごいなあ」と感心して見ていたが自分ではそれよりはるか上回る年齢まで剣道ができた。ただし、実力は当時の先生にはるかに及ばないが。

人生終盤における、一つの述懐

現在の私は、人生の最終盤を生きている。来月7月には83歳になる。最終盤というより、余命はほんの僅かである。この間の私は、もちろん仕事ではなく、趣味でもなく、ただいたずらに四半期を超える長い間、文章を(作る、書く、生む、綴る、紡ぐ、記す)ことの一つの行為を続けてきた。いや私の場合は、その序の口とも言える文章を作る(作文)ことに甘んじてきた。作文とは、与えられた課題やみずから気ままに選ぶ自由題を浮かべて、文意に添って語句(言葉と文字)を連ねて、文章を完成させることである。難しく書いてしまったけれど、もともとはそんなに難しいものではない。なぜなら、就学し立てにもかかわらず、小学校1年生と2年生の頃には「綴り方教室」の時間があり、書けない者などだれもいなかった。すなわち作文は、習い立ての語句を用いさえすれば、文字どおり十分に作れるものである。文章は語句の習得が増えるにつれて入り組んで、見栄えが良くなるところはある。換言すれば確かに、見た目、読む意、共に華やかにはなる。ところが、必ずしも語句が多く見栄えの良い文章が上手で、良質とはかぎらない。なぜなら、肝心要の文意がごちゃごちゃなら文章にはなり得ない。結局、文章は文意に添って単純明快に、できれば最も適語を嵌め込む作業である。そしてこれこそ、上手く良質の文章と言えるものである。もちろんこんな、当たるも八卦当たらぬも八卦の文章論など、六十(歳)の手習いさえ未完成の私が語るべきことではない。ただ、四半期を超える長いあいだ文章を書き続ければ、何か一つぐらい学びたいものではある。するとこのことは、たった一つだけの体験上のわが学びと言えそうである。しかしながらこれでも、私には易しいとは言えず、難しいところだらけである。繰り返しになるけれど作文は、まずは文意を浮かべること、次にはそれに添った語句を浮かべることである。これが叶えられれば作文は、見事という飾り言葉を付されて完成する。だから私は、このことだけに意に留めて、文章を書いてきた。そして、「綴り方教室」における作文同様の文章は書けたと、自負するところはある。しかしながら私には、種無しからネタを作るすなわち無から有を生じる創作文は書けない。そのため私は、常に文意を浮かべるネタ不足に見舞われて、いつも同じような文章の書き殴りに甘んじてきたのである。挙句、ネタに新味がなく、私自身書き飽き嫌気がして、このところは一気に疲れがいや増している。おのずから文章書きは、終焉のドツボに嵌まりそうである。なんでもいいから書かなければならない継続文は、やはりわが凡庸な脳髄には荷が重すぎて、トコトン恨めしいかぎりである。私の場合、継続は力というより、自分虐めの総本山になりつつある。総本山? 適語とは思えないけれど、これに替わる語句が浮かんでこない。もとより私は、望んでも叶わぬ熟練工(練達)は望まない。しかし、せっかく長く書いてきたのだから、できれば見習工(初歩技術)くらいは修めて、疲れ癒しにあの世へ急ぎたいものである。