
坂本弘司撮影 季節のめぐりはカレンダーに記されている。きょう(3月5日・火曜日)には、二十四節気の一つ「啓蟄(けいちつ)」と、記されている。啓蟄は、机上の電子辞書にすがることもなく知りすぎている。蟄居(ちっきょ)とは、虫が地中に潜っていることを言う。そして、蟄居(ちっきょ)を啓(ひら)くこと、ゆえに啓蟄とは、地中で冬ごもりしていた虫が地上に這い出ることを言う。地上に春が訪れて、冷えきっていた地中は温もり、地中の虫はきょうあたりから蠢(うごめ)き出し、そしてより暖かさを求めて地上へ姿を現してくる。虫たちにとっては、ようやく耐え忍んでいたわが世の春の訪れである。本格的な春の訪れを告げる啓蟄は歓迎するものの一方、ムカデを筆頭に虫嫌いの私には、眉を顰める季節の到来でもある。地上では草木は新たに芽吹き始めて、木の葉や草の葉はすでに、艶々の萌黄色を成している。虫たちの這い出しとは違ってこちらには、何ら恨みつらみはなく、私は日々美的風景に酔いしれている。ちょっとばかり恨みがつのるのは、わが庭中に茂りを強めている雑草の萌え出しである。確かに季節は、啓蟄の訪れに背くことなく早々と、このところ春の証しが現れている。その一つ、「春眠暁を覚えず」の候にあってきょうのわが起き出しは、いつもより遅れをとっている。おのずから執筆時間の切迫(感)に襲われて私は、悪癖すなわち走り書きと殴り書きの抱き合わせを被っている。現在のデジタル時刻は4:49と刻まれている。ところが、春本番の訪れにあっても気象はまだに気まぐれであり、天候不順から脱し切れていない。なぜなら、きのうの気象予報士は、短いこの一週にあっても日本列島の地図(天気図)の上に、雨、風、雪、晴れ、曇りなどのマークを印して、なお、雪崩、真冬並みの寒さなどと、知るかぎりの気象用語を重ねていた。すると、わが心中には(春は嘘つき!)という、フレーズが浮かんでいた。きょうの文章は、書き殴りで「啓蟄」のおさらいである。 春は「節分」(2月3日)、明けて「立春」(2月4日)からスタートする。そして、「ひな祭り」(3月3日)と「啓蟄」(3月5日)を越えれば、いよいよ「春到来」のゴングが鳴る。こののち、春本番すなわち春の真っ盛りは、「春分の日」(3月20日)辺りであろう。きょう(3月4日・月曜日)の私は、カレンダーが記すことをあえて、心中に浮かべて起き出している。書くまでもないことを書いたのは、これまであれほど虐められてきた寒気が緩んでいて、待ち望んでいた「春」を体感しているからである。現在のデジタル時刻は、4:59と刻まれている。きょうの文章は春到来を告げる、すなわちこのことだけで十分である。なぜなら、季節の恵みが深々とわが心身を潤している。一方では矛盾するようだけれど、わが気分が萎えている。それは、常にわが心身につきまとう六十(歳)の手習いの難儀ゆえである。難儀を類語に置き換えれば苦悶と苦衷になる。六十の手習いにあってわが文章は、何年書こうと育ちきれない雛(ひな)、すなわち「ひよっこ」のままである。だから、女児の「ひな祭り(雛祭り」になぞらえて、わが文章の「雛祭り」でもして、気分を癒したいところである。わが文章の不出来は、凡庸な脳髄と指先不器用の抱き合わせのせいである。それでも、これらにすがらなければ文章は書けない。「針供養」という歳時(記)がある。真似てきょうは、わが脳髄と指先の供養日として、この先は書き止めである。そしてしばし、春到来気分に耽り、これまでの寒気で疲弊している心身を癒すつもりである。この文章の恥晒しは厭(いと)わない。なぜなら、文章を書くたびに私は、恥を晒している。もとより、恥カキは「なれっこ」である。無償の春が来た。十分、満喫したいものだ。寒気は遠のいている。こののち寒気が訪れれば、私は「寒のぶり返し」あるいは「寒の戻り」と書く羽目になる。 古閑さん、御返事の御投稿と花の名前の御投稿をどうもありがとうございました*(^o^)/* 上段左はパンジー、下段左はビオラ、残り4枚はクリスマスローズ(3枚)と水仙です。 大沢さん、高橋さん庭の花の感想有難うございます。 背丈の低い花々が春に向かって精一杯咲いていますね。クリスマスローズが今盛りなのですね。この花はいつもうつむいて、恥ずかしそうに咲いています。胸を張ってと声をかけたくなる花です。 3月になり、古閑さん邸の庭に本当の春がやって来ましたねーー*(^o^)/*\(^o^)/ 「ひな祭り」(3月3日・日曜日)。起き出して来て、パソコンを起ち上げる前に電子辞書を開いて、ふと浮かんだ言葉のおさらいを試みた。【口幅ったい】「身のほども考えないで大きなことや生意気なことを言う態度である」。現在(4:51)、寒気が緩んでいる。やはり私は、春の訪れが好きだ。日々、悩まされる人たちには不謹慎だけれど、幸いにも私には花粉症はない。「不謹慎」より先には、「口幅ったい」という言葉が浮かんだ。しかし、違和感をおぼえた。ゆえに、電子辞書を開いた。案の定、適当な言葉ではなかった。だから使用をやめて、不謹慎を用いた。ところが、これとて適語なのか? と、危ぶむところがある。あっさりと、「悪いけれど」と書けば、すんなりとわが意が通じたのかもしれない。わが文章の発端は六十(歳)の手習いゆえに、常に試行錯誤に陥っている。だから、心中ではいつも声なき声で、読んでくださる人たちにたいし詫びている。さて、一日の中でわが思索時間と言えるものは、起き立ての数秒間にすぎない。何事にも大袈裟好きだから大袈裟に書いた。けれど、実際のところは起き立てにあって、心中に浮かんでいることだけである。それゆえにもとより、思索と言えるものではない。現在、私は長年続けてきた新聞の購読を止めている。これまでに雑誌は、たったの一度さえも定期購入したことはない。雑誌で言えばわが子どもの頃、いや小学校低学年の一時期へ遡る。母はなぜか、「少年倶楽部(クラブ)」を定期購入(月刊)してくれていた。貪り読んだところは、漫画『のらくろ』(作者田河水泡)だった。父は、西日本新聞を購読していた。こちらでは、スポーツ記事を貪り読んだ。顧みれば「少年倶楽部」と「西日本新聞」は共に、わが「文字学びの原点」であった。書いているうちにおのずから、母と父の面影と優しさが浮き彫りになる。戦後間もない頃の片田舎において、両親からさずかっていた宝物と言える思い出である。なぜなら、そのときからこんにちにいたるまで、それら以外には教科書だけが文字学びを助けたにすぎない。私には俗にいう、読書歴や読書習慣は皆無だった。このことでは常々、「後悔、先に立たず」という、残念無念きわまりないしっぺ返しを被っている。それを補ったのはやはり、「西日本新聞」「熊本日日新聞」そして「朝日新聞」へと続いてきた新聞遍歴である。それゆえに新聞購読は、わが最期の時まで続くと思っていた。ところが、わが意志でぷっつり止めたのである。確かに、新聞の有用さがパソコンとスマホに置き換わったせいもある。しかし、本当の理由はそれよりなにより、新聞勧誘人の執拗な契約どりと、併せて悪態ぶりに腹が立ち、私は購読停止に踏み切ったのである。新聞であればどんなにいい記事(役に立つもの)であろうと、新聞配達人や販売所(雇の勧誘人)が悪態をつけば新聞は台無しである。挙句、購読停止の憂き目を見ることとなる。翻って普段の買い物にあっても、どんなに買いたいと思う物(有用商品)でも、お客対応(店員)の悪い店には二度とは行かない。思索というにはわが脳髄のみすぼらしいことを書いたけれど、これで書き止めである。薄っすらと「ひな祭り」の夜明けが訪れている。雨、風のない、のどかな夜明け模様である。
啓蟄
春到来
♪古閑さんへメッセージです♪
ぼくは、色の濃い花の方をパンジー、淡い色の方をビオラだと思っていましたが、実際は逆だったのですね〜〜(^^;)参考まで
ありがとうございます。
古閑さんちのお庭
♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪
宮沢賢治も大喜びですね♪♪♪♪♪♪ひな祭り





