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坂本弘司撮影

♪HIROKIのタレント日記♪

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《天丼てんやで『ふきのとう』を食べた!!》
本年1/5の日記で、てんやの野菜天丼の事を書きましたが、あれから何回も食べに行っていました(笑)。
きょう〔3/10(日)〕は、♪春の旬菜♪として、『ふきのとう』(1ケ税込230円)がメニューにありましたので、野菜天丼といっしょに注文してみました。
何故、「ふきのとう」を注文したのかといいますと、現代文藝社代表で作家の大沢久美子先生が『望月窯だより』で、「ふきのとう」について、お書きになっていらっしゃり、食べてみたくなったからです(^^)
幼少年期に食べたような記憶がありますが、大人になってから食べた記憶がありませんので、それもオーダーした理由になります。
店員さんが「野菜天丼とふきのとうのセットですねー。」と言って、テーブルまで持って来てくれましたが、メニューには、煮物のような感じの画像で掲載されていましたので、「後から持って来てくれるのかな??」と思いつつ、食べ始めたところ、画像の通り!! ナント!!『ふきのとうの天ぷら』になっていました!!
心の中で、「まさか!! 天ぷらで出てくるとは!!」と大笑いしていました。
食べてみた実感は、蕾の部分はサクサクしていて、ほのかな苦味が(←ゴーヤのように苦味は強くありません!!)、葉柄の部分は、天ぷらの衣とよく合っていて、しっとりとした食感があり、美味でした。
ということで、天丼てんやで『ふきのとう』を食べる事になるとは思っていませんでしたが(笑)、次回は『煮物のふきのとう』でオーダーしてみようかな、と思ったところでした♪

「『ひぐらしの記』がもたらしている僥倖」

3月10日(日曜日)。歳月日時はまるで、鉄棒競技の大車輪のごとくに速く駆けめぐる。もちろん、知恵多い、人間の手に負えるものではない。とりわけ、老いの身を生きる私には、唖然とするばかりである。嘆いてもしようがないことだけれど、私は日々嘆いている。春3月もきょうで、上旬(10日)が過ぎてゆく。わが身に堪(こた)える速さである。3月になれば寒気は、日を追って遠のくばかりと思っていた。だから余計、現在(3:39)の寒気の戻りには、わが身体は箆棒に堪えている。しかしながら寒気の戻りは、気分を引き締めて堪(こら)えることができる。堪えようのないのはやはり、実感する歳月日時の速さである。年周りの速さでは、来月4月に早や、次兄の一周忌が訪れる。月のめぐりの速さでは、これまで何度か書いたけれど、月ごとの薬剤切れにともなう通院の速さである。そして、日時の速さでは、時を空けず「ひぐらしの記」の執筆がめぐってくる。長いことでは定年(60歳)後、そして「ひぐらしの記」を書き始めて以降の歳月の速さである。止めようなく歳月日時は、先々へ駆けてゆく。先のないわが身にあってはそれでもやはり、嘆いてもしょうのない痛恨事である。さて、起き立ての私は、心中にこんなことを浮かべていた。「ひぐらしの記」を書いてきたことで私は、凡庸な脳髄をさらけ出し、数多(あまた)の恥をかいてきた。一方、ひぐらしの記にめぐり合えたことで、恐れていた定年後の空虚な「時」を免れてきた。顧みればこのことは私に、夢のようないや「正夢の僥倖」をもたらしたのである。このことには大沢さまのご好意をはじめとして、友人知人そして声なき声のご常連様の励ましとご厚意にさずかってきた。わが真摯きわまりないうれしい述懐である。きのうは短い文章を書いた。続いてきょうも、短い文章を書こうと決めていた。そして、わが心中に浮かんでいたことはこのことだった。それゆえに表題は、「『ひぐらしの記』がもたらしている僥倖」でいいだろう。確かに、「もう潮時、もう潮時」と脅かされながらも私は、ひぐらしの記がもたらす僥倖にありついている。実際には人様からさずかる温情(わが身に余る情け)に浸り、常に喜びを嚙みしめている。うれしいことを書いたゆえであろうか、寒気が緩んでいる心地にあり、わが気分は和んでいる。確かに、人様が恵んでくださる箆棒な「情け」のゆえである。歳月日時の速めぐりだけは手に負えない。そのぶん私は、人情の温かさに浸りきっている(4:43)。春は自然界に頼らず、みずからの心の持ちようで育(はぐく)むものなのかもしれない。

生きている

3月9日(土曜日)。今現在は(4:45)、生きて起きている。しかし、この先はわからない。命の絶えは、時を置かずかつ一瞬である。窓を開けた。雨や雪はなく、風も感じない。窓を閉めた。それでも、寒気が身に沁みる。おのずから心中に浮かぶのは、「能登半島地震」における、震災地の復旧具合と被災者の生活ぶりである。テレビニュースが伝える悲惨きわまりない映像は、今しばらくは消えそうにない。しかしながら、被災地と被災者は置いてきぼりにされたままで、やがて映像は遠ざかる。メデイア、いや人の世の宿命である。なぜなら、人の世にあっては、新たに伝えなければならない出来事が日々追っかけ、ぐるぐる駆けめぐる。この中にあって人の命は、芥子粒ほどに小さいものである。だけど、人の命はゴミ芥(あくた)とは異なり、取るに足らないものではない。やはり、人の命は尊厳である。だから、個々人はもとより、社会全体で大事大切にしなければならない。寝言いまだ消え去らず、こんなことを書いて、きょうはおしまいである。私は温もりのある映像を欲しがっている。いや、だれでも欲しがっている。ネタなく書いたけれど、夜明けはまだ先である(5:16)。人工のもたらす春は遠くても、能登半島には陽射し暖かい、春の訪れを願っている。

♪前田さんへメッセージです♪

今朝は、夜勤明けでしたが、雪化粧しているところが多数ありましたが(線路脇や民家の屋根・駐車している車です)、積もったりせず、歩行も良好・傘無しでも大丈夫でした!!
早くに止んでよかったですね(^^)
保育士の友達から「子どもたちと外で雪遊びしたよー。遊ぶには、雪が少なかったな。。。」とのLINEがきました。
雪が降って喜ぶのは、子どもたちだけですが、今朝は、大人は喜び、子どもにとってはイマイチといった天気でしたね(笑)。

♪大沢先生へメッセージです♪

「春なのに冬みたい!!」な状況下の望月窯行き、たいへんお疲れさまでございました。
野木駅周辺は、オモシロい被写体が多数存在していて、本当に楽しくなりますね♪♪
今回は、『猫と犬に見える庭木』で、楽しさ&オモシロさ200%以上です↑↑

望月窯だより

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雪の予報が流れる五日から二泊三日で古河の実家を訪れた。このところの思わせぶりな春の訪れをくつがえして、冬の寒さに逆戻りである。グンと背丈を伸ばして春待ち顔だった庭の水仙が、身を縮めて震えている寒々とした望月窯の風景である。

あれ、猫かしら?

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 実家から帰宅途中の野木駅のホームから眺める景色は、いつも楽しい。今回は、ホームに並んで立っていると相棒の妹が、「お姉ちゃん、猫が座っているよ」と声をあげた。遠くブロック塀の所に猫と犬が向かい合っているような。よくよく見ると、白い布で覆われた庭木のように見える。それにしても、二匹が何やら会話をしているような姿である。近くまで行って確かめられないのが残念だけれど、想像するに、ソテツか何かの植栽を布で覆っているように見える。暖かくなったらきっと外されるだろうから、正体がわかるのだろう。

小雪の夜明け

3月8日(金曜日)。きのうに続いて、パソコンを起ち上げる前に、二つの行為をした。今や、起き出して来て、ほぼ行うルーチン(決まり切った行為・動作)である。きのうの気象予報士は、きょうの天気予報に際して、関東地方には降雪と伝えた。天気図上のわが住む鎌倉辺りには、東京都内と変わらず2~5センチ程度の積雪を伝えた。それゆえにきょうは、まずは雪模様の確認であった。私は傍らの窓ガラスに掛かる二重のカーテンを撥ね退けて、窓ガラスを通して外を眺めた。すると目の前に、小雨か、霙(みぞれ)か、小雪みたいなものがちらついた。身体が冷えていて、私には窓ガラスを開いて右腕を外気に差し出す勇気はなかった。なさけない、心許ない外気の確認である。そののちは足を運んで、私は雨戸を閉めていない前面の窓ガラス際に立った。ここに立てば窓ガラスを通して一目瞭然、外の様子が見渡せるからである。一基の外灯は、直下の道路のみならず、近くに建つ家並みを照らしていた。道路は濡れていたけれど、薄い雪さえなく、普段の雨降りの道路だった。この先、予報を違えず霙や雪に変わったとしても、現在は小雨模様である。きのうに続いて私は、カレンダー上の添え書き、すなわち歳時(記)を確認した。すると、きょうには「国際女性デー」と記されていた。私には、きのうのNHKテレビニュースの一つがよみがえった。そのニュースは、このことにちなんでいたのかもしれない。いや、確かにそうだったのである。【女性の働きやすさランキング 日本は29か国中27位 英経済誌】(2024年3月7日 11時43分)。「3月8日の『国際女性デー』を前に、イギリスの経済誌『エコノミスト』が、主要な29か国を対象に女性の働きやすさを評価したランキングを発表し、日本は最下位から3番目に」。記事の引用は短く、一部だけにしたけれど、記事の伝えるところは十分に理解できた。日本の国には、悪しき慣習を伝える「男尊女卑」という、言葉が長く根付いている。この言葉を打破し、そして捨てないことには、働き方だけなく日本の国における女性の地位は、この先も男性に対し低い位置に留まるであろう。ゆえにこの汚名の返上は、男性の責任でもある。日本の国における女性の有能さは、最も身近なところで私は、大沢さまから日々、感得・認知している。あれれ! 夜が明けると、前面の窓ガラスを通して見える二軒の屋根の上には、雪がかぶさっている。今のところは一センチ止まりであろうか。それでも、このところの気象予報士の予報は、ズバリ当たっている。私は身を竦(すく)めて、予報の当たりを褒めるどころか恨めしく眺め、そして嘆いている。

春先の気迷い文

3月7日(木曜日)、カレンダー上には「消防記念日」という添え書きがある。起き出して来て窓ガラスを通し、私は真っ先に外の様子を見た。一基の外灯は、風雨なく乾いた道路を照らしていた。わが身体に寒気は遠のいて、私はのんびりとキーを叩き始めている。きのうの昼前あたりから、ようやく陽射しが見え始めた。すると私は、茶の間のソファから立ち上がり、勢い込んで買い物支度を始めた。わが突然の豹変を見て、相対していた妻は、呆気にとられていた。そして、その表情にひとこと加えた。「パパ。買い物へ行くの? また、雨降るわよ!」。「行ってくるよ」。私は普段の買い物のいで立ちで、大船(鎌倉市)の街へ出かけた。買い物を終えて、わが家に帰り着くまで、雨は降らなかった。その後も、風雨は去ったままだった。そして現在(4:20)、風雨および寒気共になく、ようやくこのところの気狂いの気象は落ち着き始めている。夜明けてその先、春の陽気になれば万々歳である。気分が緩んでいるせいか、私は心中にこんなことを浮かべている。現行のわが身体の補強行為は、ざっとこんなところである。すなわち、目には眼鏡、耳には補聴器、そして口内には差し歯と入れ歯がある。一方、命の延長策には有償の医療行為を行っている。それらは、こんなオンパレードである。緑内障の進行防止には一日に一度の点眼液。便通を促す薬剤は朝夕の服用。腎不全と悪玉コレステロールの改善薬剤は、前者は朝一度、後者は夕一度。これらに加えて、予約通院を繰り返しているのには、半年ごとに訪れる緑内障の経過観察がある。これらに無償の散歩、テレビ体操、欲張って軽い筋トレが加われば、命の延長策は「鬼に金棒」である。ところが、生来怠け者の私には、これらはまったくの縁無しである。無償で済むことゆえに、もったいないとは思うけれど、どれも果たせず残念無念である。挙句、身体の補強行為そして命の延長策共に、多額の医療費まみれを被っている。まったくなさけない。きょうはいくらか短く、こんな無粋なことを書いて、結文を決め込んでいる。半面、このところのだらだらの長い文章の償いと詫びとするものである。私は、きょうあたりから春本番の陽気の訪れを願っている。もちろん、地中の虫たちも、願っているはずである。ただ、「救急車」の走り回りだけは、真っ平御免蒙りたいものである。いまだ夜明け遠く、きょうの天気を知ることはできない。

春は悪魔

3月6日(水曜日)、わが身体は寒さでブルブル震えている。いまだ夜明けまでは遠く、夜の佇まいにある(3:52)。、部屋の中は夜の静寂(しじま)とは言えない。なぜなら、戸袋の雨戸は風の音で、頻りに打ち鳴らされている。雨戸を閉めていない前面の窓ガラスには雨垂れが、無数の筋を引いて滂沱のごとく流れ落ちている。窓ガラスを開いて、外の様子を確かめるまでもなく、風雨強い大嵐である。酷(ひど)い寒気に見舞われて、老いの身は甚(いた)く堪(こた)えている。身体を震わしてまで書く文章でもない。長居は無用である。だから、このことだけを書いて、早々に退散を決め込んでいる。きのうの文章は表題に『啓蟄』と記して、春本番の訪れを書いた。実際には啓蟄にともなってズバリ、地中の虫たちの蠢(うごめ)き出しのことを書いた。ところが、きのうは気象予報士の予報が当たり、日本全国津々浦々にあっては、雨、風、雪、加えて寒気がそろう悪天候に見舞われた。わが恐れていた寒の戻り、寒のぶり返しを用いて、挙句、真冬並みの寒さだった。啓蟄にあって春は、季節狂いを演じたのである。そして、季節狂いはきのうで打ち止めとはならず、きょうの現在まで持ち越している。季節は春、とりわけ啓蟄に背いて、とんでもない仕打ちを続行中である。それゆえに、きのう使ったフレーズをきょうも使って、この文章は書き止めである。「季節は嘘つき!」、重ねて「春はごまかし!」。地中の虫たちの地上への這い出しは、余儀なく日延べを食らっている。私もまた、もうしばらく「冬ごもり」を食らっている。春の悪戯(いたずら)とは言えない、「春は悪魔」である。