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大沢久美子撮影

ありがとうございます。

 大沢さん、高橋さん、花の感想の投稿ありがとうございます。今日は朝から適当に雨が降って庭もしっとりとしていい感じでした。

古閑さんちのお庭の花

 奥様の懸命な水やりのお陰で、まだまだ色鮮やかな元気な姿を見せてくれていますね。睡蓮、ゼラニュウム、松葉ボタン、薔薇、マリーゴールド、百合の花のような花びらの真ん中に小さな花が顔を出しているのは、何ともかわいらしい。花の名前は全部はわからなくてもうっとり眺めているだけで満足です。

望月窯だより

 先週の月曜日から二泊三日で訪れた古河の実家は、帰り際になって、妹とタクシーを待っていると、一羽の鴉が実家の二階の屋根の樋に止まって何やら口にくわえていた。目ざとい妹がすぐに「お姉ちゃん、鴉の巣があるよ」と指さした。よく見ると、以前に鳥が巣を作って雨漏りがした場所だった。ほとんど毎年、出入りの大工さんに樋の掃除をしてもらっているのに、今度は鴉が余計な仕事を作ってくれた。今年はまだ掃除を頼んでいないので、帰宅すると早速頼んだ。どうやら台風は免れそうなので、お盆明けにやってくれると言うことで一安心した。
 大きなケヤキやムクや朴の樹木が枝を伸ばして木陰を恵んでくれるのは有り難いけれど、やはり手入れが大変だ。 

♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪

古閑さん、今回の花々も鮮やかで素晴らしいです♪♪♪♪♪♪
台風7号が接近中ですが、花々に被害が出ない事をひたすら祈っています!!!!!!

8月盆入り日、御霊を迎えるのは「吾れひとり」

8月13日(日曜日)。8月盆入り日にあって、北上中の台風7号のせいか、小雨模様の夜明けが訪れています。小雨は時間を追って、大降りになるのかもしれません。台風が大過なく過ぎれば、このところの日照り続きにあっては、恵みの雨になりそうです。ところが台風にかぎれば、そんな暢気なことは言っておれません。なぜなら、わが家は2年前頃に屋根を吹き飛ばされて、恐怖と損壊そして多額の金の持ち出しを被りました。それゆえにそれ以来台風は、それまでのわが心模様とはまったく異にして、戦々恐々の心境はリアル(現実)に晒されています。挙句きのうは台風の接近を恐れて、早やてまわしに次兄の初盆のお参りに、東京都国分寺市内の宅へ行きました。すると、多くのきょうだいの中にあって、とうとう残されたのは「吾れひとり」と、あらためて実感しました。同時に、今や亡き、父と母、姉、兄、そして唯一の弟の面影を浮かべました。初盆のしんがりはやがて、私が務めることになります。そのときまでのわが務めは大事です。お盆、十分に御霊を偲ぶ務めを果たすつもりです。きのうは文章を休みました。きょうも休めば、こんなことは書かずに済みました。夜がすっかり明けました。台風7号北上中にあって、きわめて大切なお盆期間になりそうです。

庭の花

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 暑い日が続き雨も降らないため、妻の朝夕の水やりだけでは庭の花や草木もやや疲れ気味のようです。明日(13日)は雨の予報ですが。

人生にまつわる、述懐

8月11日(金曜日)。夏の朝が訪れている。いや、真夏の朝が訪れている。しかし、カレンダーの上ではすでに、「立秋」(8月8日)へと、替わっている。忘れていた季節変わりは、寝室の網戸から零(こぼ)れてきた、風の冷たさで感じている。自然界の営みは、常に平静淡々である。決して人間界は、それを真似ることはできない。なぜなら人間界は、常に煩悩まみれである。私にかぎらず人は、淡々と生きることはできない。実際のところ人はだれしも、煩悩にまみれて絶えず「つっかい棒」につかまりながら生きている。この苦しさを口にするか、それともしないか。それは、器量の大小の違いとして表れる。すると私は、きわめて小器で絶えず口にしている。わが小器の証しは精神のマイナス思考であり、その表れは愚痴こぼしである。もとより私には、望んでも「淡々と生きる人生」はあり得ない。だからと言って私は、当てにならない神様頼みはしない。身近なところでエール(応援歌)を聞きたくて、私は両耳に集音機を嵌めてパソコンを起ち上げた。ところが今朝もまた、朝鳴きのウグイスの声は途絶えている。いや、このところこの状態が続いている。私には、ウグイスの鳴き声を聞き分ける能力はない。ウグイスとてときには、愚痴をこぼしているはずである。朝のうちはまだ、セミも鳴いていない。短い命のセミは、愚痴をこぼす間もなく、やがては屍(しかばね)となる。愚痴をこぼしながらもそれらより長いわが人生は、とことん幸福のはずである。だけど、そう感じないのはわが驕(おご)りなのか、いや口にすることのできるつらさなのか。8月は過去の出来事を顧みて、もとより「命、重たい月」である。淡々と生きたいけれど叶わないのは、「生きとし生けるもの」、すべての宿命であろう。私の場合は、その度が酷(ひど)すぎる。いやひとだれしも、人生は淡々と生きられる代物(しろもの)ではない。青空に、淡々と朝日が光はじめている。私は、大空を眺めるのが好きである。

共感を感じる日常

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 ひぐらしの記を読むと、自分の日常の感情が重なる。年老いていく我が身、健康状態やその日の予定など、同じものではなくても、根底に流れている日常に変わりは無い。それらを自分の日々の暮らしに重ね合わせて、心を和ます。皆、変わりは無いのだと思う。だから、ひぐらしの記は私にとっても大切な宝物である。

空き家、空き地

8月10日(木曜日)、起き出して来て、パソコンを起ち上げた。もはや、書くネタも気力もない。しばし、雨戸閉めない窓ガラスを通して、四角に限られた額縁の中の景色を眺めている。天上には青い大空がある。その下、遠くには小さく山が見える。手前の視界には電柱が立ち、幾筋(7,8本)かの電線が張られている。家並みには、空き家の二軒の甍(いらか)が並んでいる。移り去った人がほったらかしにしたままの空き地には、むさくるしい茂りが見える。わが家周りの電線伝いには、山に棲みつく台湾リスが現れて這い走り、すぐに枠の中から消えた。このところ、ウグイスの声は途絶えている。現在、セミの声はしない。ただ、セミはもう、当住宅地に姿を現している。私は先日の通院のおり、その証しを見た。最寄りの「半増坊下バス停」へ向かう緑道(グリーンベルト)に、一匹のアブラゼミが転がっていた。アブラゼミは焦げ茶色の羽を下にして、白いからだを仰向けて死んでいた。履いていたスニーカーで蹴飛ばしてもいいけれど、私は指先で拾い上げて傍らの草むらに置いた。子どもの頃とは違って年老いた私は、セミの死に様には憐憫の情をおぼえている。ただ遊び心だけだったセミ取りの、遅すぎた罪滅ぼしや罪償いなのかもしれない。私はしばし、朝日きらきら光る、夏の朝を堪能している。きょうの私には、歯医者通いがある。人だれでも、生きることは、つらいことだらけである。