掲示板

坂本弘司撮影

悪しからずと思う、夜明け前

2月17日(土曜日)。パソコンを起ち上げると四発、咳が出た。続いて、鼻水が垂れそうになる。机上に置くテイッシュを手にとり、鼻先を押さえた。寸でのところで、難を逃れた。風邪の兆しなのかもしれない。曲がり間違っても、新型コロナウイルスの兆しではないだろう。おお、寒い。春はまだ、寒気を脱してはいないようだ。そうであれば、図に乗ってはいけない。今しばらくは気を引き締めて、冬防寒重装備(着衣)を身に纏うより仕方がない。きのうの文章だったかな? 暑苦しくて、防寒コートだけは脱ぎ捨てたいと、書いた記憶がある。季節はやはり、三寒四温を繰り返し、まだまだ冬から春へ向かっている。ゆめゆめ、気を抜いてはならないと、「天の戒め」だろうか。日記は文字どおり、「日の記(しるし)」である。それゆえに日記には主に、一日の出来事や行動を書き留める。「ひぐらしの記」もまた、日記みたいなものである。ところが、これには貧弱な脳髄(凡庸)をフル回転させて、何らかのことめぐらして付け足している。掲げられている命題からすればひぐらしの記は、「日記」を脱して、「随筆」まがいのことを書かなければならない。そのぶん、「ひぐらし記」の執筆は、私には厄介なものとなっている。もちろん、言い訳でも、負け惜しみでもない。いや、木っ端みじんに負けている。なぜなら、日記を書き続ける人には、何十年も書き続けている人がいる。わが知る人には、50年、60年いや期限なく、この先も書き続ける人がいる。三日坊主の私からすれば、まさしく現人神(あらひとがみ)として、崇敬するばかりである。これらの人からすれば、途切れ途切れのわがひぐらしの記は、「ひよっこ」である。くしゃみと咳を繰り返している。そのたびに鼻水が溜まり、溢れそうになる。テイッシュ箱の紙が減り始めている。ここまで、20分ほどの殴り書きには寒気がいや増して、わが身に堪え始めている。現在のデジタル時刻は5:26、早くなり始めているとはいえ、まだ夜明けは先である。やはり、こんな屑みたいな文章は、書かなければよかった。あれ、ゴホンと音が出た。まぎれもなく咳である。風邪用意には枕元に、市販の「カコル持続性鼻炎カプセル」(坂本漢方製薬)を置いている。行きつけのドラッグストアで、値段の安さだけを頼りに買い求めた、名をまったく知らないメーカーの風邪薬である。それまでは名の知れた、「コルゲンコーワの鼻炎用ミニカプセル」を買っていた。効き目はどちらもどっこいどっこいである。私の風邪はいつも鼻炎症状である。だから私は、総合感冒薬は買わない。それは効果覿面の風邪薬を買って、遠回りに銭失いをしたくないためである。このところの掲示板のカウント数は、わが想定外に増えている。それに報いるつもりで、書こうと思った文章である。ところが、こんなみっともない文章ではわが意に反し、掲示板のカウント数は減るであろう。わが脳髄は(なんだか、無駄働き)をしたようである。所要、30分ほどの殴り書きの気分は惨めである。パソコンを閉じて、枕元へ向かい、鼻炎カプセルを手にして、水道の蛇口をひねり、ふた粒、服んでみる。まだ夜明けは先の先である。殴り書きの駄文、悪しからずと思う、夜明け前である。

♪HIROKIのタレント日記♪

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《北浦和駅西口の雪だるま完全消滅!!》
この現代文藝社の掲示板に☆『ひぐらしの記』☆を長期連載され、この程、☆『ひぐらしの記90集「少年」(第七十二回コスモス文学新人賞ノンフィクション部門奨励賞)』☆を出版された☆前田静良氏☆が昨日吹いた春一番について、本日2/16(金)付け『ひぐらしの記』でお書きになっていらっしゃいますが、この春一番と気温の上昇が原因だと思われますが、北浦和駅西口の雪だるまが”完全消滅”していました!!↓↓
昨日午前中はまだ胴体部分が残っていたのですが(先日2/13〈火〉付け日記の画像参照)、本日の午前中に通りかかったところの消滅でした↓↓
画像からは一応、溶けて濡れている痕跡が確認できますが物悲しいですね(◞‸◟)
今回は久しぶりに見た◯大型雪だるま◯でしたので、最期まで様子を見てみました(苦笑)。

関東地方と北陸地方に、「春一番」が吹いた

2月16日(金曜日)、あえて現在のデジタル時刻を記そう(2:36)。真夜中を過ぎた頃にあって寒気はまったく感じず、人工の熱源は要なしである。起き立てにあって私は、いつものように冬防寒重装備(着衣)を身に纏っている。ところが暑苦しくて、重ね着の厚手の防寒コートだけは、脱ぎ捨てたくなっている。日本の国の気象の特徴は、明確に変わる四季(春夏秋冬)と言われている。私の場合、梅雨入りには夏近し、梅雨明けには夏の訪れを感じる。台風一号の発生を伝えるニュースや集く虫の音には、秋の訪れを感じる。そして万民は、木枯らし一号が吹けば寒々しい冬の訪れを感じる。小春日和には束の間の暖かさを感じる。春一番には、風の冷たさに身震いしながらも春の訪れを感じる。四季の変わり目にあっては、ぼうっとしていても感ずる、それぞれに特有のシグナル(徴)がある。私は冬の訪れを告げる「木枯らし一号」は大嫌いだ。一方、春の訪れを告げる「春一番」は、吹きつける風の冷たさに一瞬身を竦めても大好きだ。相対する両者は、わが心模様をまったく異にする、季節変わりの徴(しるし)である。きのう(2月15日・木曜日)、気象庁は関東地方と北陸地方に「春一番が吹いた」と、告げた。いよいよ、待ったなしに「春」が来たのである。しかしながら北陸地方、なかでも震災被災地および被災者・避難者の人たちは、どんな生活状態や心境で、春一番を迎えているであろうか。遠吠えながらひたすら、わが案ずるところである。いの一番には日本海おろしの風の弱まりと、雪の日が遠ざかることを願っている。これまた知りすぎているとはいえ、私は机上に置く電子辞書を開いた。【春一番】「立春後、はじめて吹く強い南寄りの風。天気予報では、立春から春分までの間に広い範囲ではじめて吹く、暖かく強い南寄りの風をいう」。わが生涯学習は死ぬまで、電子辞書すがりである。暖かい春の訪れが、わが生涯学習を後押ししてくれたらと願っている。だけど、そうは問屋が卸さない。しかしながら春一番が吹いて、本格的な春へ向かい、日に日に暖かくなることは願ったり叶ったりである。さらに欲深く願いを重ねれば、天変地異なき穏やかな春の訪れを望んでいる。寒気が緩んでいて、この先を書きたい気分はある。けれど、書けばだらだら文となる。ゆえに、ここでおしまいである(3:49)。寒気が緩んだ夜は、寝床にとんぼ返りはせず、机上に頬杖をついて、しばし愉しみたい心地である。春一番のおかげである。

来年は他の人をさがします。

 大沢さん、お言葉だけで満足です。来年は、あきちゃん、かつちゅん、ひろちゃん、きみちゃんに電話してみます。

やっぱり春が好き

 古閑さん、かわいらしい花の投稿ありがとうございます。先日実家に行ったとき、フキノトウが顔を出していました。朝の朝食のお味噌汁に浮かべていただきました。春が待ち遠しいです。

私の言い訳のぼやき

 ふうたろうさんの憤りに一言申し上げます。
私は今日までバレンタインのチョコレートを配ったことは一度も無かったことに気付かされました。そして、ふうたろうさんの投稿で、ふと心に浮かんだことは、「送ってみようかな」でしたが、催促されてから実行するのは野暮だなあと止めました。ぶっちゃけた話、ネットで購入しプレゼントしようとしたのですが、もしかして支払いが手違いになってふうたろうさんに請求がされたらと心配になって止めました。
チョコレートは郵送でも心配なので送る決心がつきませんでした。それに、義理堅いふうたろうさんですから、私のお遊びに付き合って、お返しがあったら申し訳ないので、やっぱり気持ちだけプレゼントします。
 

世情とわが事情

2月15日(木曜日)。起きて(3:57)、パソコンを起ち上げる前にあって、こんな簡易な語句さえ電子辞書を開いた。世相:世の中のありさま。生きて、世の中に存在するかぎりは世相まみれであり、ゆえに現下の世相を浮かべないことは一刻さえない。すると、真っ先に浮かんでいるのは格差社会の高進である。実際のところは、インフレ(物価上昇)の高まり現象である。ここでいう格差社会とは、お金を持つ者、持たざる者のとの差、すなわち日常の生活水準の差である。より具体的には、お金を持たない者、お金にありつけない者の日常生活の苦しみである。現下の日本政府の舵取りは、長年続いていているデフレ(物価下落)から脱却である。このための施策は、インフレ傾向(2パーセント程度)を目指していると言う。そして現在は、ようやくこの施策の達成が見込めるところへきていると言う。反面、物価上昇による齟齬をきたさないために政府が躍起となっている施策の一つはそれに見合う、いやそれを超える給料や賃金の上昇である。ところが半面、この施策は格差が生じる元凶ともなっている。すなわちそれは、給料や賃金にありつけない人たちの置き去りである。職業や仕事を持たずに、収入というお金にありつけない私も、この範疇に入る。このところ、株価がバブル以来(34年ぶり)の高値を更新したと囃し立てられている。まさしく、株式(金銭)を持つ者と、持たない者の格差の現出である。新型コロナウイルス蔓延の時期にあっては仕方なく自粛を強いられていたけれど目下、堰が切れたごとくに海外および国内旅行への復帰が取りざたされている。これまたお金持ち(富裕層)に限られて、お金を持たざる者(貧困層)は、おのずから置いてきぼりにあっている。きのうのNHKテレビニュースは、医療機関における初診料および再診料の値上げを報じていた。世情に疎い私は、(なんで、初診料や再診料が要るんだ!)と、腑に落ちない思いだった。こんなことを長々とそして一々書いては、わが気分が滅入るばかりである。だから、わが柄でもないことはここで書き止めである。きのうの聖バレンタインデーにあっての私は、わが身銭を切って買ったクッキーを自分の口に鱈腹入れた。義理チョコにさえありつけないわが身の悲しさは、まぼろし仕立ての女性の愛にさずかり、自前でもクッキーは美味しかった。いや、美味はともかく、わが気分はすこぶる和んだ。そして、世知辛い世相(世情)を生き抜くには、たまにはこんな気違いじみた自演も必要悪だ! と、悟った。愛のない世相は、真っ平御免である。お金のように形はないけれど、愛(愛情や情念)こそ、人間の生きる価値の本源と言えそうである。ところが今の私には、現(うつつ)の他人様からさずかる愛はなく、自演でまぼろしの愛を紡ぐより便法はない。それにはやはり、一抹の寂しさはある。それでも、まぼろし仕立ての女性の姿は、安価なクッキーにまぼろしの美味を加えていた。これ以上書けばいたずら書きは、エンドレスになりそうである。夜明けまではまだたっぷりと時間がある(4:49)。だから、ここで止めなければインフレのごとくに、わが妄想は高進しそうである。夜長に向かい妄想は、日々更新を続けている。

♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪

古閑さんのおっしゃる通り、本当に『春の気配』が感じられますねーーー♪♪♪

庭の花

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 我が家の庭は、まだ冬枯れの状態であるがそれでもわずかに春の気配が感じられ、小さな花が咲いています。

チョコレートが欲しい。

 世の女どもは、俺が若い時も、今でも、俺をすり抜けて、大した男でもないヤツに ”チョコ” を渡しやがる。俺の好は、スーパーで売っている・・・100円の森永か?・・・98円の明治か?・・・のホワイトチョコである。誰かくれないかな!