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坂本弘司撮影

同じ思いを共有できる人

 金沢望郷歌に酔いしれた古閑さんのご様子、投稿してくださり、心温まり嬉しくなりました。それだけに今回の能登半島の地震は一層心が痛みます。

金沢望郷歌

 金沢望郷歌、良いですね。思い出しました。私も妻と平成28年に石川県能登半島や兼六園方面に行ってきました。輪島の朝市にも行きました。当時は、私もユーチューブで「金沢望郷歌」をヘッドホンで随分聞いたものです。ただ今回の大地震で想定外の被害を受けたようで心が痛みます。

能登半島の記憶

 ラジオから思いがけず曲が流れて私は息を呑んだ。「犀星の詩をうつす犀川……」と心が大きく揺れた。「ああ、あの犀川……そうだ、遠いあの日の犀川……」私の胸にもう二十年以上昔の記憶が熱く蘇る。五木寛之作詞、弦哲也作曲、前田俊明編曲「金沢望郷歌」を歌手の松原健之が歌っていた。私は歌手も歌もはじめて耳にしたのだけれど、何とも言えず懐かしく、耳を澄ませてその歌に聴き惚れていた。そして再び聞きたいとネットで調べ、ユーチュブで繰り返し聞いた。
 文学の師である田端信先生が亡くなって(一九九八年九月四日逝去)、大きな喪失感に打ちひしがれていた月日だった。そんなある日、文学仲間の三人とともに師の故郷である能登への供養の旅を思い立った。私は四人の追悼の言葉を書き記すため手作りの灯籠を作った。庭先にあった長四角の石に毎年師から頂いていた年賀状の中から最も印象深かった詩をペンキで記した。この二つを旅行鞄に入れて、師の故郷へ向かった。そして文学仲間三人と共に犀川のほとりで灯籠を流し、石を置いて亡き師を偲んだ。あれから二十数年の歳月が流れているのに、犀川のほとりで手を合わせた日のことがまるで昨日のことのように蘇ってくる。
 先週妹と二人古河の実家を訪ねた折に、宇都宮線の古河駅で買い物をするため下車して、駅の周辺を歩いていてレコード店が目に入り、私の脳裏に「金沢望郷歌」が蘇ってきた。題名も歌手の名前も曖昧なままに店内に入り、女店主をさんざん手こずらせてようやくCDにたどり着き、大笑いしながら購入した。
 そういえば、能登半島は夫の運転する車に乗って訪れたことがあった。遠い遠い昔の事であったが、棚田の広がる美しい景色が今も思い出されてくる。
 それにしても、今年の元旦に起こった能登半島地震は、私の脳裏に眠っていた遠い記憶を呼び覚まし、災害に遭われた人々の苦難と重なって、胸がかきむしられるような切ない思いに苛まれた。

高橋様へ、御礼

10日で息切れになるところ、励ましを得て、駄文を繋ぎました。感謝と御礼を申し上げます。寒さが際立っています。御身大事にして、ご活躍ください。

この冬一番の寒い朝、思いは石川県、能登半島へ駆けめぐる

1月16日(火曜日)。現在のデジタル時刻は、未だ夜明け前の真っ暗闇にあって、5:01と刻まれている。起き立ての洗面にあって私は、いつものように水道の蛇口をひねり、身構えた。水に指先を当てると、冷たさで全身がブルった。水の冷たさから寒さは、この冬で一番だろうと実感した。周辺やパソコン部屋に、寒暖計はない。寒暖計で計らずも、体感により気温は、この冬で最も低いことが実感できる。それでも一桁の気温くらいで、もちろん氷点下ではないはずだ。文字どおり荒波荒ぶる日本海へ突き出す能登半島の冬の寒さは、私にはまったく想像さえできない。それゆえにいっそう、被災地と被災者へ思いが駆けめぐる。しかしながらそれは、なんら役立たずの空念仏である。嗚呼、すまない。テレビニュースの映像を観るかぎり、被災地と被災者の苦悩はいや増すばかりであり、いやいっそう深みに嵌って行くように見える。映像を眺めるだけのわが身は切ない。元日の発生からきのうで、早や半月が過ぎた。未だに、余震への怯えは絶えない。能登半島はこれまで、幾多の歌謡の名曲を生んできた。能登半島の日本一美しい棚田風景は、他郷とはいえわが故郷のように常に心中に浮かんでいる。石川県と言えば、観光の名勝は兼六園をはじめどこかしこにある。きらびやかでかつ清楚な友禅流し。海産物旺盛に並ぶ市場もある。加賀百万石の殿様は、名にし負う「前田侯」である。縁もゆかりもないけれど、私の場合は、47都道府県の中にあっては群を抜いて親しみを覚えている。だから心中、石川県には様々な場面に関心を持って、遠吠えにすぎない声援を続けている。先日行われた都道府県対抗女子駅伝にあっては、石川県代表の五島梨乃さんが1区を快走し、栄えある区間賞を取った。テレビ桟敷に陣取ったわが声援は、終始尽きなかった。現在行われている大相撲初場所においては石川県出身の二人の力士、すなわち新入幕の大の里と、人気を誇る遠藤の活躍が目立っている。二人にもまた、わが声援は尽きない。これら三人はインタビューでは異口同音に、「石川県と被災者の励ましのために…」と言って、涙声がとつとつと溢れ出た。今朝の能登半島の気温は氷点下を表し、日本海から吹きつける風の冷たさは、被災者の身に沁みているであろう。それなのにこのところ、「二次避難」という、聞き慣れない言葉がニュースに飛び交っている。つらいなあ…。いや、つらいのは、私ではない。

♪前田さんへ『人の命、わが命』の感想です♪

もう、自分の家から卓上カレンダーを含めたカレンダー類は、皆無となってしまいました↓↓
ケータイ電話にカレンダーのアプリが入っていますので、それをいつも見ています。しかし、祝日名の記載があっても、歳時については記述がないので、前田さんの日々の『ひぐらしの記』から学んでいますo(^o^)o
それから、お菓子の「どんどん焼」は知っていますが(大笑)、『どんど焼き』の行事はまったく知らず、こちらも前田さんが具体的にお書きくださってので、たいへんよくわかりました。

きょうは、歯科医院から帰宅されて、お餅はお召し上がりになられたのでしょうか?

今回は、前田さんへ『不老不死』『長生不老』の大大大エネルギー&パワーを贈ります(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/

♪大沢先生へ『味噌作り』の感想です♪

大沢先生、妹様との味噌作り、たいへんお疲れさまでございました。
先生の秘書のような妹様で、御存在がたいへん大きい方なのですね♪♪

圧力鍋が先生にとってとんでもない恐怖でしたら、時間がかかりますが、大鍋でもできます、というお話ですので、こちらを使用されてはいかがでしょうか? 精神衛生的にもよろしいかと思います。
それから、大豆をビニール袋に入れて、足で潰すと速くムラなくしっかり潰れるそうです。
まったく余計な事を申し上げてしまい、たいへん申し訳ございませんでしたm(_ _)mm(_ _)m
夏の熟成が楽しみですね♪♪

味噌造り

 今年も無事味噌造りを終えた。新年明けて早々に、妹と味噌造りの予定日を約束した。味噌造りの期限は大寒(一月二十日)までに終えると母から伝え聞いていたので、毎年出来るだけそのようにしていた。今年は十四日決めた。前の日から妹は我が家に泊まり込みでやってきた。午前十一時に和光市駅で待ち合わせて近くのマーケットで材料を買い求めた。大豆五百グラム入り五袋(二千五百グラム)、米糀二百グラム入り十二袋(二千四百グラム)、粗塩一袋(一キロ)である。
 朝五時に起床して、六時二十五分のテレビ体操を済ませ、朝食を食べて、八時から作業開始した。前夜に大豆を洗って、六百グラムずつ入れ物に分け、豆の二倍の水千二百リットルにつけておいたのを圧力鍋で四回にる。
 圧力鍋の使い方を説明書を読んでしっかりと頭に刻み込む。いい加減にやると作業が手こずるからだ。慎重にやっても毎年何だかのトラブルが起きてしまう。
「さあ、始めるよ」とかけ声をかけ、圧力鍋をコンロにかける。最初は強火で鍋の重りがシュウシュウ音を立てて回り出したら、火を弱めて五分そのままにする。
 妹が用心深く時計を見て記録している。さすがわが妹、気が利く。このように頼りになるのである。
 一回目は、鍋の音を聞いた妹のかけ声でコンロのそばに行くと、重りが勢いよく回っていたので火を弱めた。
 五分経って火を止め十五分の蒸らしに入る。妹はしっかりと出来上がる時間を記録する。この間に飯台で糀六百グラムを崩して粗塩二百四十グラムとよく混ぜておく。
 十五分経って豆はふっくらと良い具合に出来上がった。豆の煮汁(種水)は別の容器に移しておく。煮上がった豆をミンチで潰す。潰した豆を糀と塩を混ぜた飯台に移し、種水を散らしながらよく混ぜる。これで一回目は終了し、保存用の瓶に入れて、しっかりと上から空気が入らないように押さえておく。
 二回目を始めたとき、鍋がシューシュー音を立てたとき、妹の「鳴ってるよ」のかけ声に私は急いで立ち上がり圧力鍋に近寄った。シューシューと音を立てていたが重りが回っていない。少し待ってみたが音を立てているけれど重りは少し回って止まりを繰り返している。私は圧力鍋の料理は苦手だ。というのも、圧力をかけ過ぎて爆発するのではないかと恐れていた。だから出来ることなら使いたくないのだった。
 私はコンロの前で恐る恐る鍋の重りの様子を見ていたが、我慢できずに火を止めてしまった。
 出来上がった豆は固めだった。いざミンチにかけると、ハンドルが回りにくい。しまいには力を入れても回らなくなった。思案のしどころである。すり鉢を試してみた。とても潰しきれない。ミキサーを使ってみた。ミキサーには材料に水を加えなくてはならない。種水は分量どうりにしか取れない。かといって余分に水を加えるのは残念である。飯台で潰した豆と混ぜ合わせるときの種水は加えないことにして、ミキサーに煮豆と種水をいれて、どうにか潰した。
 三回目の時、重りがくるくる回る段階を用心深くながめた。とはいうものの重りが回るのを確かめている間、怖くて近寄れなかった。微かに回りそうになり止まりを繰り返す間、恐る恐る離れてみていた。
 そんなわけで、今回もトラブルがあったけれど、どうにか十一時に終了した。次回には今回の教訓を生かしてと思うけれど、一年後では記憶が薄れているかもしれない。圧力鍋を使いこなせば良いのだが、やっぱり怖いのである。
 味噌が出来上がるのは半年の熟成を待つことになる。
 ちなみに昨年造った味噌は、まだ少し残っているが、新しい味噌が出来上がるまでにはなくなっているだろう。

人の命、わが命

日々ふと、わが年齢(83歳)を思はない日はない。思えばそのたびにぞっとする。いつ何時、どうこうしてわが命は、果てるのだろうか。今さら、果てることに恐れはない。ひたすら恐れることは、命の果てかたである。もんどりうって果てることだけは、まったく御免蒙りたい思いである。このことは、このところの私によりついている願望と妄想である。人にはだれしも、平等に生きる権利がある。しかしながらその権利は、必ずしも平等には果たせない。震災をはじめとする天変地異がもたらす天災、そして事件・事故の絡む人災、ほかでもあまた日々、人の命は脅かされている。中でも、お釈迦様が諭す四苦、すなわち「生老病死」は、人ゆえの悲しい宿命である。そして、人の命にあってもっとも厄介に思えるものには、順番を問わない「老少不定」がある。人の命の儚さ、さらには果てかたの不平等さは、まるで雨後の筍のごとくきりなく、メデイア報道によって垂れ流されてくる。それは人の命の儚さの伝達であり、かつまた不平等な果てかたの確かな証しでもある。それゆえに人の世界には様々に古来、無病息災を願う催事や祭事が神仏頼りに行われてきた。もとよりおまじないとは承知の助で、現在もなお歳時(記)として営まれている。すべてこれらは手間暇かけて、あるいは多額の金銭を費消してまでも営む、遣る瀬無い習わしである。すると歳時(記)とは、人間に付き纏う「煩悩晴らし」の一覧表なのかもしれない。きょうは1月15日(月曜日)、新年も早や中日にある。机上の小さな卓上カレンダーには、「小正月」と添え書きされている。小正月にちなんで、子どもの頃の小正月を顧みれば、こんなことが心中によみがえる。いずれも、新年にからむ楽しい思い出である。元日の雑煮用の餅は暮に搗いてほぼ食べ尽くし、家人は小正月用の餅は新たに搗いた。保存剤はもちろんのこと、冷蔵庫などない当時は、餅に生える青カビには往生していた。青カビが目立ち始めた餅は、神棚に上げるには気が留めたのであろうか。家人は新たに、小正月用の餅を搗いた。そのときには再び、大きく平べったい鏡餅も搗いた。小正月には元日同様に、雑煮が食卓にのぼった。このしきたりとは別に小正月には、「どんど焼き」が地区ごと行われた。わが家が存在する「山下地区は」は、わが家の裏を流れている「内田川」の河川敷の中に、どんど焼きが作られた。村人たち総出で里山から切り出して来た青竹や雑木を用いて、手っ取り早くどんど焼きは出来上がった。そして、離れて回りを取り囲んだ衆目の中にあって、待ちかねていた火がめぐらされた。けたたましい轟音を響かせて燃え盛り、白い炎はゆらゆらと大空へ昇った。火の気が燻り始めるとどんど焼きを囲む山下地区の老若男女は、われ先(わが家先)に長い青竹の先っぽに挟んだ餅を先出し炙り始めた。こののちはそれぞれが、青竹の先に挟んだほどよく焼き焦げた餅を肩に担いで家路に就いた。どんど焼きは、残っていた正月用品、門松、しめ縄、書初めの半紙などを焼き尽くした。火の始末は、村人たちが終えた。どんど焼きの謂れなど、当時の私は知る由ない、楽しい行事だった。今にして思えば、楽しんでばかりはおれない、無病息災を願う切ない行事である。どんど焼きで焼いた餅を食えば、年中の病を除くという(電子辞書の記述)。昨年の暮れから私は、またまた歯医者通いを始めている。詰め歯が突如、欠け落ちたからである。だからこの間の私は、元日にあっても雑煮餅さえ遠のけている。いやそれ以来餅は一切、わが食品の埒外にある。きょうは心躍る、新たな入れ歯が嵌めこまれる日である。僥倖すなわち思いがけなく、小正月に間に合ったようだ。歯医者から帰れば、おそるおそる1個だけでも、餅の試し食いができそうである。両耳にはこれまた昨年末から、それまでの安価な集音器に代えて、補聴器を嵌めている(購入価格40万円余)。歳時(記)にまつわる数あるおまじない、さらには多額の金を費やしても、いずれわが命は断たれる。いずれとは、ほんのわずかな間である。ほのぼのと日本晴れの夜明けが訪れている。嘆くまい。

冬の雨

1月14日(日曜日)。雨戸を閉めず、カーテンも掛けない前面の窓ガラスには、起き立てに外気を窺う役割がある。夜明けにあっては太陽(朝日)の匙加減にともなう、天気模様を知ることができる。ところが、夜明けの頃(6:15)にあっても、いまだ真っ暗闇である。ゆえに、気に懸かる夜明け模様を知ることはできない。仕方なく私は、パソコンを起ち上げる前に、側近の窓ガラス開いて、直下の外灯の灯る路面を見遣った。おやおや、予期していた跳ね返る雨脚はない。雨の跡形の照り返る濡れもない。霙の後の恐れていた雪はもちろんのこと、小雨さえ降った様子はない。願ったり叶ったり。だけど、寝起きのわが心境は、なんだか狐につままれた面持ちである。就寝前に玄関ドアをちょっぴり開けて、外を覗いてみた。すると、霙が降っていた。霙は雪に変わるのかな? それとも雪にはなり切れず、あとずさって雨になるのかな? (いやだな。寒いなな…)。私はトントンと二階へ上がり、共に分厚い毛布と冬布団の二枚を身体に重ねて、急いで寝床を作り潜った。身体が温まるまでは一切動かず、隙間風を断った。ようやく身体が温まり冷えていた気分が落ち着くと、こんなことを心中に浮かべていた。(冬の雨は、春雨、夏の日照り雨(狐の嫁入り)や夕立、そして秋雨などとは違って、なんらの詩心やロマン心など生まず、ただ冷たく寒いだけだな!)。ここまで書いているうちに前面の窓ガラスには、はっきりと空模様が分かる夜明けが訪れている。夜明けの空は、太陽の恵みは今一つだけれど、それでも霙、雪模様、そして雨を蹴散らしてのどかな曇り空である。しかしながらわが身体は、寒さでぶるぶる震えている。この時期、寒気や冷気は仕方がない。なぜなら、季節の足取りは週末へ向かい、土曜日(20日)には、寒気の大底と言える「大寒」が訪れる。このところの私は、休み続けていた怠け心を恨むかの如く向きになって、だらだらと長い文章を書いた。ただ、わずかに一週間余にすぎない。だけど、向きになっていたせいか、いやに心身が疲れている。確かにこの無茶な行為は、老齢の私には身の程知らずの無駄な抵抗であり、半面「年寄りの冷や水」とも言えるものだった。そのため、きょうの文章は尻切れトンボをも構わず、恥をさらけ出しても、疲れ癒しにここで結ぶこととする。身勝手を恥じてこの先は、しばし机上に頬杖をついて、ぶるぶる震えることとなる。駄文ゆえに表題は雨には縁なくも、いっとき心中に浮かんだ「冬の雨」でいいだろう。あれれ! 太陽は満天に日本晴れを恵んで、大空はキラキラと眩しく光っている。だらだら文は、また長すぎた。ひどく、疲れるかな?。