掲示板

大沢久美子撮影

一枚の静かな雪景色の写真

1月20日(土曜日)。机上の卓上カレンダーには、「大寒」と添え書きがある。母が山芋を擂粉木で擂る擂り鉢の輪を私は、共に睨めっこしながら押さえていた。擂り鉢にたとえれば、大寒は文字どおり「寒気の底」である。おりしも、甲信越にとどまらず関東地方の南部にも、きょうあすにかけて降雪予報が出ている。気象予報士は、とりわけ山沿いの降雪確率の高さを付言した。予報が外れなければ鎌倉の尾根の一部を切削し、新たに開いた宅地に建つわが家は、先頭を切ってこの冬の初雪を被るかもしれない。平地では東京の街にも、2,3センチの降雪予報が出ている。しかしながら、能登半島、石川県のほぼ全域、さらには近接する富山県の一部の震災被災地の難渋を思えば、おのずから私は、わが家への降雪にたいする怯えを禁じている。不断は日本の国有数の観光地や雪景色を誇る被災地の現状を、テレビニュースの映像で観るだけでもわが心は、ひどく萎えてくる。だからと言って、目を逸らすことはできない悲しい情景である。こんなおり、一枚の雪景色の写真にわが心を和ませるのは、確かに大いなる不謹慎であろう。いやいや、情け知らずのバカ者であろう。それでも、写真を眺めていると、この文章に書かずにはおれないものがある。それは、掲示板上掲の一枚の写真を眺めることから溢れ出る思いである。もちろん、写真を眺めれば一目瞭然のことだけれど私は、拙い文章であっても臆せず、現在のわが心象(心境)を綴りたくなっている。上掲の一枚の写真は、山あいの鄙びた風景を醸す、静かな雪景色の特写である。撮影者には、大沢さまの唯一の弟様のお名前が銘記されている。以下はわが知るところを、お許しを得ずに弟様の人となりと、併せてご一家の様子を記すものである。間違いを記して大沢さまのご気分を挫き、さらには弟様の名誉を汚したとすれば、真摯に謝まることは覚悟の上である。弟様は人生の半ばほどしか生きられず、究める道の初途に逝かれたようである。大沢さまご一家は、ひとそれぞれにあらゆることに、才多いひとたちばかりである。亡きお父様は絵画の教育者である一方で、絵画と並んで陶器もまた、適地を選んで「望月窯」を構えられている。そして、どちらもプロフェッショナルの身に置かれていたのである。たぶん、写真技術にも造詣深いものがあったのであろう。すなわちこれは、並べて芸術家然である。亡きお母様は、ちょっとした手書きにさえ、文才が冴えわたっていた。大沢さまの多才ぶりは、絵画、陶器、写真はもとより、文才は群を抜いて「埼玉県文学賞」の受賞はじめとして、幾多の名著(単行本)を上梓されている。ところが、これらだけではなく現在は、単独に「現代文藝社」を主宰されて常々、まったく利益なのない同好の士の施しに懸命である。お二人の妹様のことはほとんど知る由ないけれど、伝えられる野菜作りや園芸の才能はずば抜けていてこれまた私は、才多いご一家の証しを見させてもらっている。さて、弟様は東京理科大で学び、そして将来の道と願望には、陶芸と写真家が相並び、さらには大沢さま同様に文筆を究められるはずだったのであろう。ところが弟様は、若くして逝かれて、ご一家は惜しまれる逸材を失くされたのである。つらいことだけれど四季折々に替わる、掲示板上掲の弟様遺作の写真は、そのたびにわが心を和ませてくれるのである。だからこの文章は拙くも、そのお礼にかえるものである。私は掲示板を開くたびに、「一枚の静かな雪景色の写真」をしばしじっと眺めては、気分を和めてキーを叩き始めるのである。NHKテレビニュースが映す、被災地の汚れた雪景色は、不謹慎ながら今は観たくない。夜明けの空は、どんよりとした雪模様である。鎌倉の雪降りなど、被災地を思えば恐れることを禁じている。

他郷・能登半島に馳せる、わが思い

1月19日(金曜日)。起き立ての現在(5:09)、鎌倉地方は寒気が緩んでいる。これだけでも、極端に寒がりやの私には、棚ぼたに思えている僥倖である。しかしながら現在の私は、わが身にかかわる寒気の緩みばかりを望んではいない。いや、わが身は寒気に震えても天の配剤により、能登半島を中心とする被災地の寒気が緩んでほしいと、願っている。もちろん、「鬼の目にも涙」、とは言いたくない。実在する、優しい人間の涙である。老い耄れのわが身にもまだ、人間らしい慈愛の心が残っている。おのずから、ほっとする。人間は、知らぬ者同士のもたれ合いで、生きている。なまじ、不断知り合っていると、要らぬ羨望や僻み総じて邪気が生じて、純粋のもたれ合いや互いの慈愛の心は翳りがちになる。ひるがえってこれすなわち、隣近所の助け合いより、ボランティア精神にこそ、人間の尊厳さと活動の有難味が存在する。いずれはわが身もまた、震災には遭わなくとも、どんなかたちでか? 他人様から思わぬ慈愛を賜ることとなろう。老いの身につきまとう悲しさである。現在、被災地の寒気は緩んでいるであろうか。私は、そうあってほしいと願っている。なぜなら、きのうのNHKテレビニュースの映像には、わが身に堪えるこんな映像が流れてきた。私は目頭に涙を溜めて、荒ぶる日本海に突き出ている能登半島の寒気を思いやった。もちろん、居もしない想像上の鬼の涙ではなく、老いの身のわが目頭に溢れる涙だった。「フローリングや板張りの床は、何枚も何枚も毛布や布団を重ねて身を覆っても、からだが冷えます」と、言われた避難者がおられた。一方では冷えを防ぐために、段ボールだけを用いて、大急ぎでベッドづくりに励まれる人の姿が現れた。こちらは「すべて、段ボールだけでの作りだけど、150キロの体重にも耐えられます。床に敷物を敷いて寝るより、暖かさは特段です」と、作業員のひとりが言われた。こののち、作り立ての「段ボールベッド」に寝転んでほほ笑む、若い女性の姿が映し出された。民放テレビの広告宣伝一辺倒の念入りにこしらえた画像ではなく、NHKテレビニュースが報じた、ありのままの被災地状況の一端である。どちらの映像もわが目がとらえて、私は被災地の寒気の緩みを願った。観終えると、溜まって溢れ出そうになっていた涙が、茶の間の畳の上にポロポロと落ちた。板張りに据え置くガスストーブは、熱すぎるほどにわが身と妻のからだを温めていた。能登半島は雨降りでもいい。いっときでもいい、寒気が緩んでほしと願う、夜明け前にある。ほとほと、切ない一文である。いや切ないのは、寒気に震える被災地、被災者、はたまたフローリングや板張りの床に寝泊まりする避難者たちである。きょうもまた、わがネタは能登半島である。ネタぎれでも、もう能登半島のネタは望んでいない。能登半島はわが心中の美景であってほしい。願うはただ一点、このことだけである。

竹馬の友

 「ふうちゃん」と「しいちゃん」の「つぶやき合戦」は、なんとも羨ましい掲示板上の交流である。ふうたろうさんの義姉様、前田さんの長兄様はともに亡くなられ、お二人とも計り知れない寂しさを抱いて、故郷への思いを語り合っておられる。言葉に言い表せない思いをお二人は共有されている。それが羨ましい。ふうたろうさんの杉林の話、杉が育つ五十年の歳月は重い。ふうたろうさんから始めて聞く生い立ちは胸に響くものがある。誰しも一つや二つは抱えている苦しい辛い想い出を耳にすると励まされることがある。生きているって素晴らしい。生きていればいろいろな出会いがあるものだ。

俺はしぃちゃが羨ましかっ!

 俺は長男でも、しいちゃんや大沢さんのような名門一家でもなく、小作人五反百姓の分家の分家の長男である。本家から「おい、駒雄(親父の名)、ちょつ来てくれ」と呼ばれると、親父は本家に飛んで行った。邑には入会権といわれる共同林があり、杉を売れば一軒に30万円(当時の金)の配当があった。しかし、分家の俺の家には、半分の15万円しか、配当はなかった。
 杉が売れるようになるには、植林から50年かかる。その間、植林、雑草狩り、間伐などの作業に、30万円の配当、15万円配当も、同じに行かなければならない。
 俺は大学に行ける成績でもなかった。あの地におれば、分家の分家の長男で暮らさなけれはならなかった。本家から「おい、文昭、ちょと来てくれ」と呼ばれれば、駆け付けなければならず、共同林作業も、半人前としか認められなかったであろう。
 俺は、小学校の高学年になると、あそこから旅立つことばかり夢見ていた。それを簡単にできる生い立ちの「しぃちやん」が羨ましかった。

わが終の棲家は、せつない

1月18日(木曜日)。嗚呼、わが身体には焼きが回っている。目覚めて二度寝にありつけず、仕方なく起き出している。寒気は緩んでいる。太陽は隠れているけれど、それでも味方している。震災被災地もこのところより、寒気は緩んでいるはずだ。そうあってほしいと、私は願っている。せつないわが願いである。デジタル時刻はいまだ真夜中の一定時、すなわち2:50を刻んでいる。わがキー叩きは学童の頃の「綴り方教室」における、鉛筆の芯を舐め舐めしながら書いた速度よりなお遅い。司令塔を自認する脳髄の指令に、生来不器用の指先が応じず、駄々をこねているからだ。(指先が俺は、脳髄の家来ではない!)と、真似て蟷螂の斧を擡げているのかもしれない。それゆえにたぶん、この文章が結文にありつける頃には、白々と夜が明けるであろう。この間に仮に、地震に見舞われたらアタフタとふためきそうである。なお運が悪ければ尻切れトンボのままに、この文章はわが遺稿になるかもしれない。そんなことはもちろん、知ったこっちゃない。もとよりきょうの文章は首尾、雑文んの入り交じりである。それは、時間潰しのゆえの悲哀である。時間潰しにつき合ってもらうことでは、友情に背くことになる。けれど、竹馬の友のよしみで許しを請うものである。もちろんそれで、83年間の友情が壊れることはない。竹馬の友のふうちゃんは、わが窮地のおりには常に、すばやく助け船を漕いでくれる。この文章では、ふうちゃんの人となりを記そう。掲示板上のペンネーム「ふうたろう」の実名は富田文昭君であり、そしてわが呼ぶ愛称は「ふうちゃん」である。見返りに彼は、私を静良君と言ったり、ときには「しいちゃん」と呼んだりする。共に生きてきた83年間、愛称が蔑称に代わったことなど一度もない。このことは、共に「誉れ」である。友人や友情に優越はつけたくない。けれど私は、ふうちゃんに対する憧れがある。なぜなら、ふうちゃんは生まれながらに才能を持っていた。小・中学校時代の運動会における、徒競走の編成は6人組だった。このときのふうちゃんは常に先頭を走り、両手を広げてトップでゴールテープを切った。しいちゃんはいつも、ふうちゃんの背中を追っかけた。しかし、幸いにも対校の400メートルリレー競技において私は、4人走者のメンバーに選ばれた。だけど私は、追い抜くことは必要ない、追い抜かれるな! という繋ぎ区間の第二走者だった。一方のふうちゃんは、リードしていればそのまま走り切り、遅れていれば追い抜くことを使命とされる第四走者だった。中学時代の部活は共に、バレーボール部でこれまたまた対校試合に臨んだ。ところが高校時代のふうちゃんは、生来の頑丈な体躯をなお鍛えるために、柔道部へ鞍替えした。薄らバカのしいちゃんは、一緒に登下校するにもかかわらず気づいてなかった。ところがふうちゃんは、このころから将来を見据えていた。高校を卒業するとふうちゃんは、柔道で鍛えた体を遠方の未知の大都会、すなわち大阪府警に投じたのである。そして、辣腕刑事に変じたふうちゃんは、府民の人望と信望を得たのである。ふうちゃんの終の棲家は大阪府にあって、今でも枚方市に住んでいるはずである。ところが最近、住処を変えたと言うから、おそらくどこかに新築を建てか、あるいはどこかの億ション購入し、住み替えているのかもしれない。年賀状のやり取りはしていないので、住所の詳細は不明である。もちろん電話で聞けばわかることだけれど、羨ましさだけがつのって聞けない。ふうちゃんは、ふたり兄弟の長男である。ここまで、富田文昭君、愛称「ふうちゃん」の人となりを記した。きのう(1月17日・水曜日)の私は、風がやんでが日光が暖かくふりそそぐなか、卓球クラブの練習に向けて、長い下り坂を下った。道すがらの雑草や雑木は芽吹き始めていて、見渡す周囲の見渡す杉林には、出番を待つ杉花粉が茶色に色づき始めていた。それらを見遣りながらわが心中には、こんな切ない思いが膨らんでいた。(おれは、こんなところで死ぬのか。なさけないなあ…、つらいなあ…。おれはもうふるさとへは帰れない。老いの身が拒むのだ。帰っても、迎えて会話を愉しむ、長兄はもういない。甥や姪はいて、ふるさと便を絶え間なく届けてくれる。確かに、帰れば歓迎してくれて、楽しい。しかし、おのずから長兄とは別物である。帰ってもかしづくところは、風すさぶ野末の丘にある墓の前である。そうであればやはり、心中の思いだけで、出会いを愉しもう。なぜなら、心情の醸す出会いの楽しさは、褪せず尽きないからである)。このところの私は、郷愁、懐郷、思郷、とりわけ望郷まみれにある。能登半島の寒気が気に懸かる夜明け前である。いや、時間潰しを試みても、夜明けはまだ先にある(4:42)。

1月17日・・・!!

 義姉の墓参りに行く前に掲示板を開くと・・・「阪神淡路大震災は、かつてのこの日、今ちょうどの時刻(5:45)に起きた。確かな日は、平成7年(1995年)1月17日である」・・・とある。29年前の1月17日、午前5時45分俺は小学校と中学校に挟まれた間道を散歩していた。街路塔の赤い灯が、左右に揺れながら、近づいてきた。そして、道端に弾き飛ばされる程の衝撃に、小学校の金網フェンスに、しがみ付き、揺れの過ぎ去るのを待った。
 幸い、我が家に被害はなく、自分本位に考えた俺は、大した事はないと思い、仕事に出かけた。そして、御堂筋沿いのビルの壁割れ、窓の落下を見て驚いた。被害は神戸に近づくほど大きくなり、阪急電車は動いていなかった。それから、3カ月間、俺は阪神大震災の後方治安のため派遣された。
 あれから29年、東日本大震災、熊本地震、能登地震が続き、我が身にも、昨年17日、義姉は亡くなり、当時住んでいた家も、解体された。時は移り行き、我も、83歳となり、阪神大震災を忘却する年齢となっている。

歌謡曲の題に模して、「嗚呼、能登半島」

1月17日(水曜日)、日を替えてきのうを凌ぐ寒さが訪れている。時刻は夜更けを過ぎ去り、夜明けへ向かっている。しかしながら物事は、夜明け前が最も暗いと言う。寒気に震えて、傍らの窓ガラスさえ開ける勇気がない。能登半島、金沢の街、広く石川県の寒さは、今時(4:52)、どれほどのものであろうか。もちろんその寒さは、わが想像の埒外にある。スマホでは飽き足らず、パソコンで高音を響かせ覚えたてで歌った『金沢望郷歌』は、現在は悲しく、心中で声なく歌っている。日本全国に名勝を轟かせ、一方他郷では名を知らぬあちこちの名勝地を詩(うた)に織り込んだ曲は、聴くに耐え得る望郷の和みと切なさを奏でてくれる。それゆえにこの歌は、当該地の人たちならず他郷の人たちにさえ、望郷つのる愛唱歌となっているようである。石川県のほぼ全域が酷い震災に見舞われて、日々死亡者数の増加が伝えられてくる。こんなおり、取ってつけた如くあわてふためいて、この歌をハミングする私は、とんでもないバカ者である。確かに、平時に聴き、そして歌えば、こよなく望郷つのる愛唱歌である。しかし今は、哀愁帯びたセレナーデ(悲歌)を響かせる。きのう(1月16日・火曜日)の夕方、NHKテレビの普段の番組にあっては、突如けたたましくアラーム(警報)が鳴った。またもや、地震警報である。私はぞっとした。そして、私はすぐに安堵した。警報は石川県における発生(余震)を伝えていた。「私はすぐに安堵した」。この表現は私にかぎらず、人間の咄嗟の浅ましさであろう。恐怖感を緩めて私は、聞き耳を立てた。アナウンサーは職業柄特有に、いくらかわざとらしく恐怖感を煽り、早口大声で対応策を告げ出した。その多くはすばやく逃げるように繰り返した。またもや、わがへそ曲がりの心根が蠢いた。(被災地の人たち、とりわけ避難中の人たちは、逃げようないではないか)。すると、アナウンサーの声は恐怖のいや増しにすぎない。アナウンサーの声はまさしく、尋常が異常に変わるが地震の恐ろしさである。アナウンサーも伝えることに必死であり、もちろんありがたく思うこそすれ、煽りを責めることはできない。被災地や避難者は、恐怖に怯え、じっと成り行きを見守るしかできない。やがて、突如のアナウンサーの声は消えて、いつもの男女ひとりずつのアナウンサーの姿が現れて、番組は正規画面へ戻った。それでもわが心境は、かなり長い時間、平常心を失っていた。「能登半島地震」は、はからずも「阪神淡路大震災」をよみがえらせている。阪神淡路大震災は、かつてのこの日、今ちょうどの時刻(5:45)に起きた。確かな日は、平成7年(1995年)1月17日である。そして、再び繰り返すと発生時刻は、午前5時45分である。震源地は兵庫県南部と刻まれている。このときの私は、被災地における被災者のひとりに数えられていた。当時の私は、勤務する会社(エーザイ)の大阪支店(中央区淀屋橋)において、社業に就いていた。妻と娘は共に、アトピー性皮膚炎の治療中にあり、「かかりつけの医院がいい」ということで、転院を拒んだ。仕方なく私は、会社に対して規則破りの特別のはからいを願い出た。会社は特段の配慮してくれた。すなわちそれは、単身赴任の許可であった。勤務地は大阪市のど真ん中であったけれど、私は兵庫県尼崎市東園田町に住んだ。実際には会社が単身赴任者用に借り上げた、未だ真新しい5階建てのマンションだった。ここで私は、阪神淡路大震災に遭遇し、被災者に数えられたのである。会社にあっての私は、震災後の社員の安否確認や、当面の復旧作業に追われた。多くの社員は、兵庫県に住んでいた。私は被災地に住んではいたけれど、実際のところは被災者とは言えなかった。なぜなら、家財は散乱したけれど、身体は無傷だった。だから、震災体験者ではあるけれど、被災者の本当のつらさとは無縁である。それゆえにいっそう、能登半島地震の恐ろしさが身に沁みている。想像出来ない恐ろしさは、いまだ未体験のゆえであろう。「東日本大震災」(平成23年・2011年、3月11日午後46分)は、ふるさとへ帰省中のため逃れた。わが故郷「熊本地震」(平成28年・2016年、4月14日21時26分)は、テレビニュースに右往左往するだけだった。これらの地震を鑑みてもなぜか、このたびの能登半島地震の恐ろしさと、悲しさ、つらさがわが身を覆っている。なぜだろうか? それはやはり、この時期の日本海から吹きつける寒さが想像できないせいであろう。きのうに続いて、能登半島、金沢の街、あまねく石川県の天気と、寒さが気に懸かる夜明け前である。つらいつらいは、わが身ではない。

同じ思いを共有できる人

 金沢望郷歌に酔いしれた古閑さんのご様子、投稿してくださり、心温まり嬉しくなりました。それだけに今回の能登半島の地震は一層心が痛みます。

金沢望郷歌

 金沢望郷歌、良いですね。思い出しました。私も妻と平成28年に石川県能登半島や兼六園方面に行ってきました。輪島の朝市にも行きました。当時は、私もユーチューブで「金沢望郷歌」をヘッドホンで随分聞いたものです。ただ今回の大地震で想定外の被害を受けたようで心が痛みます。

能登半島の記憶

 ラジオから思いがけず曲が流れて私は息を呑んだ。「犀星の詩をうつす犀川……」と心が大きく揺れた。「ああ、あの犀川……そうだ、遠いあの日の犀川……」私の胸にもう二十年以上昔の記憶が熱く蘇る。五木寛之作詞、弦哲也作曲、前田俊明編曲「金沢望郷歌」を歌手の松原健之が歌っていた。私は歌手も歌もはじめて耳にしたのだけれど、何とも言えず懐かしく、耳を澄ませてその歌に聴き惚れていた。そして再び聞きたいとネットで調べ、ユーチュブで繰り返し聞いた。
 文学の師である田端信先生が亡くなって(一九九八年九月四日逝去)、大きな喪失感に打ちひしがれていた月日だった。そんなある日、文学仲間の三人とともに師の故郷である能登への供養の旅を思い立った。私は四人の追悼の言葉を書き記すため手作りの灯籠を作った。庭先にあった長四角の石に毎年師から頂いていた年賀状の中から最も印象深かった詩をペンキで記した。この二つを旅行鞄に入れて、師の故郷へ向かった。そして文学仲間三人と共に犀川のほとりで灯籠を流し、石を置いて亡き師を偲んだ。あれから二十数年の歳月が流れているのに、犀川のほとりで手を合わせた日のことがまるで昨日のことのように蘇ってくる。
 先週妹と二人古河の実家を訪ねた折に、宇都宮線の古河駅で買い物をするため下車して、駅の周辺を歩いていてレコード店が目に入り、私の脳裏に「金沢望郷歌」が蘇ってきた。題名も歌手の名前も曖昧なままに店内に入り、女店主をさんざん手こずらせてようやくCDにたどり着き、大笑いしながら購入した。
 そういえば、能登半島は夫の運転する車に乗って訪れたことがあった。遠い遠い昔の事であったが、棚田の広がる美しい景色が今も思い出されてくる。
 それにしても、今年の元旦に起こった能登半島地震は、私の脳裏に眠っていた遠い記憶を呼び覚まし、災害に遭われた人々の苦難と重なって、胸がかきむしられるような切ない思いに苛まれた。