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オオニソガラム 高橋恵美子撮影

きのうに重ねて「無題」

4月16日(火曜日)。頃は好し。のどかに、朝が来た。だけど、文章が書けない。いや、もう書けない。わが終末人生は、暗澹を極めている。「身から出た錆」、わが甲斐性無しのせいである。まさしく恥晒し、慙愧に堪えない。重ねて、忸怩たる思いがつのる。書かくまでもない文章を書いた。かりそめのマイナス思考のせいではない。悩める現実がもたらしている。

無題

4月15日(月曜日)。薄く晴れ模様の夜明けが訪れている。季節は晩春へ向かい、やがては風薫る初夏へ到達する。春の季節にあっては、寒の戻りや花に嵐を遠のけて、最も心地良い頃であろう。鶏に代わる早起き鳥のウグイスは、もう鳴いている。ウグイスは、人間界の煩わしい生き様や、わが煩悩など知らぬが仏で、限られたわが世の春の謳歌に必死なのであろう。そうであればいつもとは違って逆に、私からウグイスへ「鳴け、鳴け、大鳴け!」と、エール(応援歌)を送りたい心境にある。ウグイスの必死の鳴き声に同調するのは、わが終末人生がウグイスに似ているせいでもあろう。なぜなら私も、今や短く限られた命の残存を必死に生きている。ウグイスよりわが命は、長そうには思えてはいる。しかしながら、いつ絶える(絶命)か、その恐怖(感)はほぼ同様である。わが終末人生の日常は、もっぱら生存だけが目的になり、半面、その瓦解が恐れをなしている。そして、これにちなむ心境は、時々刻々に様変わる。起き立てにあってきょうもまた、書くまでもないことを書いた。書いて、恥を晒すことは厭わない。けれど、どんな出まかせの雑文であっても、書くことには常に苦痛がともなっている。苦し紛れの文章は、確かなわが能力(脳力)欠乏の証しである。もちろん、こんな文章では生涯学習の範疇には入らず、実のないいたずら書きの汚名を被るだけである。きのうの文章とは違って表題は、まさしく無題でいいだろう。ウグイスは心地良く鳴いている。私は気分沈んで嘆いている。

早起き鳥のお手伝いさん

 前田さん、このところ朝寝坊が続いていますね。良いことですよ。年を取ると睡眠が浅くなると言いますから、ぐっすり眠れているのは若い証しかもしれませんね。早速、早起き取りのお手伝いさんを募集しなければならなくなりますね。でも、起こされて起きるのはちょっと悔しい。やっぱりぐっすり眠れて、気持ちよく起きるのが最高!

ただ書いただけの、無題

4月14日(土曜日)。ぐっすり眠れて、早く起き出している。だから、「早起き鳥」の真似をして、「コケコッコウ」と、鳴きたくなっている。しかし、早起き鳥にはなれない。ゆえに私は、早起き鳥のような社会貢献はできずじまいである。ふるさと時代にあって早起き鳥は、朝の起き出し時刻を告げる大切な役割をしていた。わが家の早起き鳥は、縁の下に飼っていた数羽の鶏だった。鶏の天敵は、産みたての卵を呑む青大将だった。今なお絶えず、恐怖がよみがえる過去の忌まわしい光景である。私いや人間は、常に天変地異と人間以外の生き物の恐怖に晒されて生きている。恐怖の枠から人間を外すことは、人間の驕りなのかもしれない。確かに人間とて、日々伝えられてくる社会現象を鑑みれば、恐ろしい生き物の範疇に在る。社会は、万物の霊長と崇められる人間の集団である。それなのに社会の実態は、必ずしもこの崇敬に見合っていない。なぜなら社会は、人間のしでかす大小の事件のオンパレードである。伝えられてくるもので、小とは言えず腹立たしいのには痴漢行為がある。メデイアは、痴漢防禦策をあれこれと囃し立ててくれている。もちろんそれは、出会いの月4月にからんで人の往来が激しくなるにつれて、痴漢被害が増えること案じるゆえであろう。痴漢行為には、(痴漢ぐらいは…)という、男の驕りがある。この驕りを断つには、痴漢をしでかした者を晒しものにして、社会から抹殺するほどの厳罰主義にするほかはない。なぜか社会は、痴漢行為にきわめて甘いと、思うところがる。手練手管の詐欺行為も、一向に減らない。新コロナ対策の補助金には、偽申告や応急の金を借りても、返済意志のない人が大勢という。すなわち、はじめから「横取り、もらい得」を決め込んでいる悪人多しである。気分直しをしてくれるのは、いつも「ふるさと便」である。ふるさとの甥っ子、姪っ子から、相次いでふるさと便がとどいた。一つは「タケノコふるさと便」、そして一つは「ふるさと産米ふるさと便」である。早速、どちらにもお礼の電話をかけた。すると、二人ともこう言った。「このところは、イノシシがやたらと増えています。被害も増えて、合うのが怖いです。退治する人はだれもいなくて、イノシシは増えるばかりです」。私は一日一日をひたすら生きている。高齢の身を生きるわが生活実感である。わが身のかぎらず総じて社会は、生きる苦しみにある。早起き鳴かずとも、朝がくれば起きなければならない。生きる者の宿命である。今朝は、麗らかな朝日がわが気分を解している。大地揺るがず、生き憎い人間社会のいっときのオアシスである。

♪古閑さんへメッセージです♪

古閑さん、御返事の御投稿どうもありがとうございます*(^o^)/*\(^o^)/
ハナズオウは、見れば見るほど素晴しく感じます☆
山吹は、知ってはいたのですが、八重山吹だけしか知らなかったものですから(苦笑)、古閑さんの画像からはわかりませんでした。
大沢先生がお書きになられた通り、『一重山吹』も存在していたのですね!
今回も良い勉強になりました◯
ありがとうございました*(^o^)/*

ありがとうございます。

 高橋さん花の感想有難うございます。ハナズオウの花もほめていただき喜んでいることと思います。黄色の花は大沢さんも書いておられるように山吹です。

ありがとうございます。

 大沢さん花の感想有難うございます。大沢さんの花の感想を読んでいると何だか良い物語を読んでいるようで嬉しくなります。ありがとうございます。

小鳥もお手伝い

古閑さんちのお庭は小鳥も奥様のお手伝いですね。種まきをしなくても芽が出て、その芽を大切に奥様が育てて、お礼に花を咲かせてくれる。何だか心も体も爽やかになった気がします。
一重の山吹が咲いていますね。酔芙蓉も若葉が出て、夏の太陽を待ち望んでいるのでしょう。
ハナズオウは小鳥の恵みで花盛りです。心地よい朝を有り難うございます。

朝書きの自戒

4月13日(土曜日)。目覚めると部屋の中は昼間のように明るい。陽射しこそそそいではいないものの、私は寝坊助を被っていた。慌てふためいて起き出すと、見渡す眺望には朝日がピカピカと輝いている。ウグイスは、朗らかに鳴いている。私は心が急いている。半面、待ち望んでいた自然界の恵み旺盛で、わが気分は晴れ晴れの夜明けである。心地良い気分は、春季節特有の恩恵、すなわち熟睡がもたらしている。まさしく、春の恵みである。一方、私は寝坊助の祟りにあっている。いや、このことは、夜明け前に書くわが習性の祟りである。もちろんこの祟りは自認し、ゆえに常に自戒している。もとより、この習性を改めないかぎり、私自身が求める文章は書けない。挙句、継続を断たないだけ目的になり替わり、いたずらに殴り書きと走り書きの協奏に甘んじる。確かに、文章の不出来はこのせいではない。ところが、独り善がりに私は、そのせいと思い込んでいる。気分は煮え切らず、常に生煮えの状態にある。みずからのせいとはいえ、恨めしいかぎりである。好気分に遭遇し、こんな文章を書くようでは、もとよりわがお里の知れるところである。実社会の年度替わり、そして出会いの月4月にあって、それぞれに人の営みは、本格稼働に入っている。季節は初春、桜の花の頃の中春を過ぎて、晩春へ差しかかる。日々、山は緑を成し、里は葉桜を深めてゆく。ここにきてようやく、春の夜明けは落ち着いて、この先は季節の恵みをふりまいてくれるのであろうか。再び記すと、胸の透く心地良い夜明けである。これまた再び書くと、私は寝坊助を被り心が急いている。目覚めて寝起きの私は、きょうは時間なく書けない、いや書くまいと、決めかかっていた。登山家は「山があるから登るのだ!」と言う。これに倣えば私は、「パソコンがあるから、駄文を恥じず書くのだ!」。私は蚤の気概ほどの決意を固めて、パソコンに向かったにすぎない。登山家の壮大な意志と気運に比べて、なんとわが意志のみすぼらしさであろうか。とことん恥じてこの先は書けず、仕方なく指先を擱くこととする。そして、朝御飯の支度前の残された短い時間は、のどかに朝日輝く大空を両頬杖ついて眺めることとする。文章とは言えないけれど、慌てふためいてせっかく書いた文章だから反故にはせず、名づけて残し置くものである。浮かんでいる表題は、「朝書きの自戒」である。熟睡の心地良さは、切なさに変わりそうである。

♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪

ハナズオウは、素晴しい花ですねー☆
小鳥がよい働きをしてくれたのですねo(^-^)o
黄色の花は、花の名前がわからなくて申し訳ありませんが、こちらも素晴しいです☆
酔芙蓉は、これからの生長が楽しみですね♪