ブックサロン GENBUN
幕末維新の美女群
本書は、歴史上の重要な事件や人物を縦糸に、それに絡む遊女、洋妾、薩英戦争の際の女スパイ、大名の囲い女、大奥の女性、将軍の正夫人、花見名所の看板娘、勤皇芸者などを横糸にして、実録体小説に纏め上げた。
幕末とはペリーが来航した嘉永六年(一八五三)から慶応四年(明治元年一八六八)までの十五年間を指すのが通例で、本書もそれに従っている。
幕末に定説はないようで、例えば天保以後の事柄を題材に『桃太郎侍』など多くの時代小説を書いて、ひと頃、貸本屋で一番もてはやされた山手樹一郎は天保年間も幕末として扱い、その年号を一四四六六一三一三と電話番号のように記憶したという。
天保(一四)、弘化(四)、嘉永(六)、安政(六)、万延(一)、文久(三)、元治(一)、慶応(三)の間に幕末の、それこそ重要な出来事、事件が次々に発生したが、なるほど四と六と一三を重ね併せると、その年号が覚え易いようである。
安政は大地震と条約、万延は桜田門外の変、文久は殺戮と暗殺事件が多く寺田屋、生麦事件などが起きた。
元治は池田屋、天狗、蛤、長州の名で大事件が多く、慶応は重要人物の死去、同盟、政権返還、討幕戦と重大な出来事が凝縮している。
また本書では、「維新の起点が慶応三年十二月九日の大政奉還で、維新の終点は廃藩置県までの五年間を維新の幅とする」通説には従わずに、明治二十年の鹿鳴館までを(但し続巻で)扱う。
幸い著者へは「面白い」、「読みやすい」、「ユニークな切り口……」との好評を戴いている。(著者記)
(自費出版ジャーナル第25号)
メディー・ジャポネ-ズ
三百ページの分厚い戯曲集である。六つのコメディーが収録されている。これらは題名を見ただけでは、これから舞台で展開されるドラマがどんなものかまったく想像もつかない。しかし、読者の想像力は掻き立てられる。
著者は言う。「面白くなければコメディーではない。では面白いだけでよいのか」 この面白いというのが曲者である。ただ笑い転げておしまいのドタバタ喜劇を頭に描いている読者にとっては当てはずれであろう。ここには登場人物たちの何気ない会話の中に思わず吹き出してしまう滑稽さ、笑った後に笑って済まされない諷刺が効いた内容がきっちりと盛り込まれている。
浮浪者ジョンがひょんな事からユートピア王国の統治者に選ばれる「キングダム」、赤字の大病院に超診断装置スーパーヒポクラテスがやってきて、閑古鳥が鳴いていた病院には患者の行列ができるが、さて病院の行く末は「医話情スキャナ横流」、舞台は法廷、クロツラヘラサギが不法入国者として裁判にかけられるのだが、その判決はいかに「鳥裁判」、鍋がぐつぐつ音を立てている。その中には湯葉、とうふが煮られて熱い、熱いとうめき声をあげている。鍋の外では調理されたささげ、つみれ、あん肝の食材たちが、ギリシャ的神々に食される儚い運命を嘆き合っている。彼らは果して神々に食べられてしまうのか、「湯葉・とうふ・あん肝・ささげ・つみれ汁」、二十世紀最後の大統領選挙は、ニュートン候補とワシントン候補の一騎打ち、勝敗は如何に、「林檎のニュートン/桜のワシントン」の六編である。著者はあとがきで、レーゼドラマかも知れないと書いているが、読者は演出家になったつもりで読んでみてはどうだろう。新しい風を予感する一冊である。(自費出版ジャーナル第18号)
戯 曲 集
「海賊」「横笛」「アンナ」「Lady楊」の四つのドラマが収録されている。二八八ページの本である。
カリブ海の海賊の首領キッドの物語「海賊」を始めとして、奥能登の山中の小道に夕暮が迫って、一人の僧が一夜の宿を探している。彼は一ノ谷の合戦の折に十六才の平敦盛を討った熊谷次郎直実(出家して蓮生)である。雪深い山中で彼が見たものは……「横笛」、女優アンナの恋の行方と彼女の恋人の大門の苦悩を描いた「アンナ」そして最後に、玄宗皇帝の寵姫楊貴妃の物語「Lady楊」、これらはすべて悲劇である。
ここに著者のあとがきを記す。
悲劇は難物である。はたして、現代に悲劇は存在するのかという疑問もある。そして、文章で表されたものが現実の悲劇に及ばない事は明らかである。それで、この集のタイトルも単に戯曲集とした。コメディーでないというほどの意味である。悲劇のあるなしは別として、例えばシェイクスピアの作り上げた怪物たちは、圧倒的な存在感で我々の心に迫ってくる。リア王しかり、マクベスしかり、ハムレットやオセロしかり、である。とすると、いわゆる悲劇とは怪物を作り上げる事なのか?それともソフォクレスのように、恐ろしい状況を綿密に暴いて見せる事なのか?
それにしても怪物は……? まずは私自身が怪物となる事がその近道かも知れないと、ひょうたんのような頭をしたシェイクスピアの肖像をながめながら、日々考えている次第という作者は、近い将来、「海賊Ⅱ」の執筆を予告する。海賊キッドは実は死んでいない。奇跡的に脱出に成功してインドに渡るのである。(自費出版ジャーナル第20号)
現代寓話集
「彼方へ!」「カラフル・スパークリング・ボンボン」そして「獄門」最後に「カラフル・スパークリング」ワインのCM。
「あの男」はそのままふらふらと歩いて行き、そして交差点の横断歩道の上に倒れて、そこで爆発した。シュワーッと音がしただけで激しい音はせず、青や白や赤の火花が散って、まるで花火のようだった。…人が爆発した破片というのは生々しいものと思っていたが、そうではなかった。足元に一つ落ちていたのを拾ってみたが、それはカラフルなボンボンのようなもので、ウィスキーの染み込んだ虹色の砂糖のかけらのような感じに見えた。最近は人が爆発する事に誰も関心を示さなくなっていた。それで、私もそのかけらを捨てた。(カラフル・スパークリング・ボンボンより)
あらゆる物が溢れ、飽和状態になってしまった文明社会、しかしそれは本当に人類が求めている豊かな社会であるのだろうか。一方では戦争、地球の汚染、飢餓、病気等など人類は病んでいる。そうしたことへの警告となる一冊と言っては言い過ぎだろうか。読者の受け取り方によっては、意味深い作品集である。(自費出版ジャーナル第19号)
現代寓話集Ⅱ海洋ファンタジー
著者は学生時代漱石、芥川、カミュ、三島由紀夫などの作品を乱読する。一九七一年東京医科歯科大学医学部に入学するが、ランボー詩集に触発され詩作を開始し、翌年同大学を中退。その後詩作、読書、美術、音楽等に没頭し数年が経過するが、その間再受験し、一九七七年信州大学医学部に入学。一九八三年同大学を卒業し、会田記念病院、白井聖仁会病院に勤務する傍ら、小説、戯曲の執筆活動を続ける。写真、俳句、和歌、パソコンと趣味の域を越え、著作も中編小説「あらし」、「詩・和歌・俳諧」、「ULO」、「コメディー・ジャポネーズ」、「戯曲集」、「現代寓話集」と多種多彩。一九八五年から執筆開始の大河物語「世界」は、第四編までを二冊の単行本にまとめ、今後第五、第六編を執筆の予定。
以上が著者のプロフィールであるが、昨年病院を退職し、グルノーブル大学短期留学、ピースボートによる地球一周の旅に出て帰国後、今回の「現代寓話集Ⅱ」を執筆し、出版となった。
収録作品は、『船幽霊』『ブラックオパール』『漂流』『イルカ』そして掌編『反逆』『ピストル』である。いづれも太平洋、アラビア海、タヒチ島等、周航の思い出がちりばめられている。その素材、発想が個性的で新鮮である。
カサコソカサコソと、枯れ葉が風に揺すられるような音がした。……略……突然、デッキの隅が薄明るくなった。相手はそこにいた。……略……背丈は40㎝くらい、紙のように薄く、枯れ葉のようにカサカサとしていた。
「貧相なやつ…」
思わず口走った。と、相手はカサカサと笑った。妙に神経に障る不思議な笑い声だった。それからひらりと飛んで、すぐ近くに立った。
「幽霊か?」
と尋ねると、「ソウダ」と答えた。
……略……
「だが、どうしてわざわざ俺の前に現れた?乗客は何百人もいるというのに…」
「オマエガイチバン感ヅイテイタカラサ。ジブンジシンノ無意味サヲ。ソレハミゴトナモノデ、事ニヨッタラコノ二十年間デオマエガイチバンカモシレナイ」(船幽霊より)(自費出版ジャーナル第24号)
島童子しまわらび
著者は沖縄本島に生まれ、復帰の翌々年に絵かきになるべく上京した。独学で描きながら、沖縄で育った少年時代の中からテーマを見つけ、今回初めてその作品を詩画集にまとめ発表した。
どこで生きても/血は濁り/息を吐けば/針になる/汚れを嫌って/汚れるよりも/いっそこのまま/身を横たえて/海亀は/血の色の/島になる/(島童子より)
どこまでも澄みきった大海原に向かって立っている家々の素朴なたたずまいの中で「島」の少年は、昼は太陽の下で走りまわり、夜は島独特の神秘の世界に心引かれ、特に月夜の砂浜は少年にとってはインスピレーションの宝庫であった。
月の輝く海原に向って、少年の想像の世界は果てしなく広がって行く。やがて少年は「月の果実」を捜して、未知の世界に舟を出し、試練の旅に出発する。
少年の頃の体験は上京してからも著者の心に「原風景」となって度々よみがえり、生きる原動力になっている。どこで生活しようと、見上げる月を通して、少年の日の過去は、神秘の世界の詩や絵となって現在に生まれてくる。
沖縄の「島」が育てた著者の感性は、見事にこの作品群となって結実した。
見ない見ないよ洞窟を/怖い怖いよポッカリが/だけど豊作祈る時/みんなみんな そこに行く/だけど戦争あった時/みんなみんな そこに行く
(島童子より)(自費出版ジャーナル第21号)
いま花鳥がとぶ
一面に広がる菜の花畑と麦畑の中を通りぬけて、大きな山のふもとにある雑木林の中のゆるやかな山道を越えると、農業高校の実習農園が広がっている。絵里はその大自然の中を通って小学校に通っている。ある日絵里は、いつも一緒だった仲良しグループから訳もなく「仲間はずし」にされてしまう。そのグループでは以前からそんなことが公然と行なわれていた。絵里は自分が「仲間はずし」にあってはじめて、それまで「仲間はずし」にあったことのある美也の気持ちや、誰も話し掛けてくれなくなった時、「仲間はずし」にされることがわかっていながら話し掛けてくれた千晶の毅然とした態度を知る。そして、これまで考えもしなかったグループについて自分の問題として考えるようになって行く。
この「仲間はずし」という現象は、子どもたちの間ばかりでなく、大人たちの意識の中にもある大きな問題だと思う。人間が地域社会を作り、集団で生きていくようになった時、その中に起るさまざまな問題を解決していくためには、子どもの時から常にそれらを考え、立ち向かっていく力を身につけておかねば、やがて無気力な向上心のない大人になって、思いやりのない、自分本意な人間社会が出来上がってしまい、そのことさえも気づかない人間になってしまうのではないだろうか。
著者は小学校の教師をしている。近年の学校で起こっている「いじめ」「登校拒否」の問題を子どもたちの身近な出来事を通して作品にしている。この本が発行されると、著者の身近なところから次第に小学校の教材になるほど読み継がれ広がっていっている。
著者はあとがきで、「わたしはこの三十四年間、勇気が大きな力になり、新しい仲間やクラスを築く可能性になることを、教室の中で見つめてきました。だから、それを伝えたいと願っています」と結んでいる。この本の出版は、そういう意味からも多くの子どもたちから大人にまで読まれていくことに大きな意義があると思う。