黒田昌紀の総合知識論

黒田昌紀の総合知識論

下記作品群は現代文藝社発行の文芸誌「流星群」及び交流紙「流星群だより」に掲載されたものである。

日本経済の虚栄の繁栄と変化

 超好景気だった日本経済は土地の異常な高騰に規制がかかり、バブルがはじけ、一九九〇年代初めより経済崩壊となり、それ以後、マイナス成長になった。政府の適正な景気政策が取られず、楽観視していたため、経済状況は好転しなかった。その原因は不景気のため、消費者が買う物の出費を控え、売れなくなったので、店は値下げ競争を行い、激安、価格破壊などを行なった。その結果、商品の総生産高はバブル以後も現在まで延びているのに、個々の商品価格がどんどん下がり経済が萎縮していった。価格が下がれば、企業収益が下がり、給料が下がり、消費が悪くなり、経済全体が縮小する。これがマイナス=スパイラルである。
 これと逆なのが高度成長期の経済現象であった。企業は莫大な資本を投入し大量生産をし、手ごろな価格の商品を売る。すると消費者は買い、企業の利益が上がり、人々の給料は上がり、ますます、物を買う力は上がり、なお、企業の利益が上がり、経済成長をする。毎年、人々が買う結果、競争力により、物の価格は少しずつ上がっていく。
 だが、この高度成長期の物の価格や利益には風船のようなもろさ、膨張があったのだ。現在の不況時の値下げ競争で、価格が安くても利益が何とか出ているのに、高度成長時には種々の商品の価格がずっと高かった。つまり、通常より高くつり上げていたのだ。以下そのカラクリを事例で示して説明したい。
 まず、高度成長時、高額な価格を設定していたのが航空運賃である。とりわけ海外航空運賃である。国際協定機構(IATA)の国際協定により、法外な料金が定められていた。
 例えば、東京からヨーロッパ、ロンドン、パリへ行くのに当時は片道三十万円、往復六十万円もした。現在では同区間往復十万円前後である。この価格の意味は、個々の乗客に高額な運賃を払わせ、空席が出て、ガラガラになった時のフライト便の空席の分まで払わせていたのだ。通常、航空会社の国際線の全フライトは一年を通すと、満員になる時もあれば、半分以上空席の時もある。これでは、儲けが出ないで赤字になる危惧、リスク感がある。そこで、国際協定運賃で、例えば東京︱ヨーロッパ便など片道三十万円と定め、一年中すべてのフライト便が空席なく満席になったと想定して、空席になるだろう分も料金から補填させていたのだ。従って、ヨーロッパ便片道三十万円を払った乗客は、自己の運賃に他のフライト便の空席の分まで払っていたのである。これにより、航空会社は黒字利益を確保していたのだ。その上で、実際に空席が出たのをヤミの安い航空券として、かってに売っていたのである。高い料金で空席分を補填して利益を確保した上で、ヤミの安い航空券で売り、二重に利益を上げていたのである。当時も、旅行会社の安いパック旅行がヨーロッパ便を使ったものがあったが、団体料金の航空運賃は往復八万円ぐらいであった。これは片道三十万円の時に、空席をうめるためと、このような安い料金で出来たのは団体だと、一定数必ず乗ってくれる保証があったからである。現在は、かつての国際航空運賃の協定が規制緩和が取れなくなり、ヨーロッパ便は往復十万円前後となった。料金が安くなったことで空席は少なくなった。国際線を独占していたJALが破綻したのもそのような理由からだ。
 同様に旅館の料金にも、そのような傾向が現在でも見られる。旅館の料金は、春休み、ゴールデン=ウイーク、夏休みなど、人々が休暇があって旅行するオン=シーズンほど、旅行のピーク時に、オン=シーズン料金として、普段よりも割高な料金を設定する。旅行のピーク時は、たとえキャンセルが出ても、キャンセル待ち、ウェイティング状態であるので、すぐに代わりの客を補填できるのに、普通に考えたら変である。これも、かっての国際航空協定運賃と同じようなカラクリがある。旅館というのは、冬休み、夏休みなど、オン=シーズンにはお客が満室になる保証があっても、普段のオフ=シーズンの時はあまりお客が入らないので、空室の時が多いと一年通して赤字になるのではないかというリスクに対する不安がある。そこで、オン=シーズン中に一人当たりの宿泊料金を出来るだけつり上げ、シーズンオフの時の空室が出た時の分をも稼ぎ、赤字にならないようにしているのだ。そして、旅行会社は夏休みなどのシーズン中を避けて、普段の空室の出る時に一人当たり団体格安宿泊料金で安いツアーを組むのだ。旅行としては旅行会社に値切られても、夏休みなどのシーズン中に採算、黒字を確保しているので、ツアーを受け入れているのだ。ケーキの値段も同様である。ケーキ一個当たりは洋菓子屋によって違いがあるが、一個三百円から四百円している。この料金は、店頭のケースに並ぶ形のよい売り物になるケーキと、形が崩れたりした売り物にならない分も含めた、ケーキの材料費、加工費を含めた上で、利益が充分出るように想定して、ケーキ一個当たりの価格を定めている。形の崩れたケーキの数の方が店頭に並ぶ売り物になるケーキより多く出るかもしれないし、また店頭に並んだケーキも売れ残り、全部売れないこともある。それらを想定して一個当たりの値段をつけているのだ。
 売れ残りや売り物にならないケーキは捨てるか、店の人が私的に持ち帰るしかなかった。が、現在は長い不況で、形の崩れたケーキもワケあり品として売れるようになった。
 都会のスーパーでは、カレー粉、調味料、マヨネーズなどは小さい物を割高で売っている。ところが岩手県など地方のスーパーマーケットに行くと、料理店などが使う業務用の一キロとか二キロの大きな袋に入ったカレー粉、砂糖、調味料などを非常に安く売っている。これは、農村では農家など家の近くにスーパーがなく、交通機関もなく、アメリカのような車を持たなければならない社会なので、遠いスーパーへ車で行って、大量に調味料、砂糖などを買いだめしておかなければならない。そこで、キロ当たり安価な業務用商品が売れるのだ。これは都会だと大量に使う料理屋やレストランにしか売れないので、個人用としてのカレー粉や調味料など小さな商品を高い値段で売っている。スーパーが近くにあり、家庭では使い切れる家庭用の小量の調味料を頻繁に買い、業務用のキロ当たりの大量商品は使い切れないからだ。業者としては大量な業務用品は売れないので、利益確保のため家庭用の小さな商品を割高に売って利益を確保しているのだ。
 フランス料理や和風の高級料理店なども高い料金を設定し、利潤を上げていた。フランス料理店などは、牛肉、フォアグラ、エスカルゴなど、また和食料理店では神戸牛や松阪牛など、とびっきり高価な食材を選んで調理し出しているが、その量と言えばわずかな量しか出さない。フランス料理のフルコースも小量の食材を出している。これは高級イメージに便乗し、高い利潤を上げ、高級な雰囲気を出すための装飾を維持する費用に当てている。だが、不況が長く続き高級料理店も店を閉める所も出ている。格安な食堂などでもっと量の多いものを出しているからだ。もはや高い利潤は上げられない。高級ホテルは殿様商売をしていた。パーティーなどで一万円でちゃちな焼きそばや中華料理しか出さなかった。反対に一流でない小さなホテルは六千円でビーフシチュー、ローストビーフなど高級なものを出していた。
 このように、好景気の時は、売れなかった時のリスクを避けるため、多くの業種の企業が各商品の値段を高くつけて大きな儲けを上げていた。そのような高い値段で儲けていた構造が、長い不況で、グシャッとつぶれたのが現経済状況なのだ。が、長い不況で正規の物が、普通の値段では売れなくなり、キズのついた魚、大きさが不揃いな魚、形の悪い野菜、形の崩れたケーキ、一粒が半分になった米、くず米などが正規の値段と並列的に格安な値段で売れるようになった。
 これから消費者が自分のその時の経済状況に合わせ正規の値段で買うか、格安の値段を選んで生活する、安定経済が望まれる。案外、形の悪い野菜やキズ物商品など、それまで売れなかった物が売れるようになり、経済刺激になるかもしれない。

(流星群だより17号に掲載)

日本経済不況への誰も考えない奇策

 平成二十一年に麻生内閣が取った景気刺激対策は、アメリカのオバマ大統領がやった、環境問題すべてを対象とする解決目的とした、グリーン=ニューディール政策による経済対策、景気刺激政策を、ほんの一部をまねたエコ=プランであった。それは主として、長い不況で、製品が売れず、リストラ策を進めている、電気業界と自動車業界を救済するため、省エネ、電気を喰わない電気製品を買った者にポイントを与え、後に政府が税金で点数に合わせて、商品やサービスを与えるというものと、排気ガス等を出さないエコカーを買った時には減税や買うための補助をするというものだ。そして、太陽エネルギー利用による各家庭の屋根に取りつけるソーラー板購入を政府が補助金を出すというものだ。
 だが、これらの政府が行っている景気対策は片手落ちで、一時的には電気製品や自動車などを売り多少効果があろうが、長期に渡る効果は望めない。そこで、今、政府がまったく考えていない、経済対策についての良いアイディアを以下に於て述べてみたい。
 まず、政府が打ち出したソーラー発電板の取り付けに政府が補助し、個人が太陽発電を行い、消費分の余剰を将来、電力会社に買い取らせ、収入を上げる方法についてである。このソーラー発電の補助政策を、収入のある一般の人を対象とするのではなく、福祉優先に行うべきである。失業者、生活保護者、年金受給者で収入の少い人、老齢で収入の少い人、身体障害者、知的障害者の人々を優先的に税金で補助し、全額ソーラー板設備を提供し、発電した電気の内、個人で消費した電気の余剰を電気会社に買い取らせて収入を上げさせ、これらの働けない人、働きたくても働けない人を、働かなくても、ソーラー発電の設備補助で収入を上げさせ、働いたと同じ事にするやり方で、経済刺激をする方法である。障害者や貧困な老齢者、リストラなどの失業者の割合は人口の中でかなりの割合があるので、これらの人々の購買力を上げ、そこそこの景気刺激策となる。
 具体的には、年金生活や生活保護者、老齢で貧困な人については、家を持っている人やアパートに住んでいる人の屋根に全額的に国家が設備投資して、太陽エネルギー発電の自己消費分を引いた余剰電気を売り、収入を上げさせ、その中から政府が投資した分を少しずつ返してもらうのだ。身体障害者や知的障害者などは家族と一緒に住んでいる場合は前記と同じだが、福祉施設などに収容されたり、住んでいる場合は、その施設の庭や敷地などに共同のソーラー板の設備を国家が全面出資をして設置する。
 従来の介護ヘルパーや福祉ケアーは税金を福祉の業務に消費して終わりだが、太陽エネルギーのソーラー板設備への税金投入は、働けない障害者、貧困者などを、働いたと同じ形で多少収入を上げさせ、投入した税金を少しずつ回収することが良い。
 次に、不況下の日本でやるべき事は、家を災害などで失った人、派遣労働者で急に解雇された人、援助すべき、住宅問題についてである。災害にあった人、例えば阪神大震災の時や新潟大地震の時に、災害で家を壊され、失った人を救助する手段として、災害にあった土地を、残骸を取り払って広場にし、年数を限って仮設住宅に住まわしている。また、経済不況で、派遣切りにあったので、社宅を追い出され、ホームレスになった人に対し、政府や自治体は大きな公園に於て、テント村を作り、炊き出しをしたが、わずか一ヶ月で取り壊して、それ以後はまったく援助、救済をしていない。
 このような限られた年数、短期間しか行なわない自治体や国の援助に代って、導入すべき道は、アメリカに於て移動式住宅として普及しているモービル=ホーム(MOBILE HOME)、別名トレーラー=ハウスである。外見は普通の家であるが、土台(通常は木製)の四つの角のところに大きなタイヤが付いている。それを土地のある所に、トレーラー車やその他牽引できる車で移動する家である。従って、民法上は土地に付着していないので不動産ではなく動産である。
 この種の家は未だ日本では普及していないが、災害時に家を失った人や派遣切りで家を持たない人、ホームレスになった人に、政府や自治体が購入し、これらの人々に無償で提供し、永久に保持させるものだ。モービル=ホームは普通の家よりもずっと安価であり、一時的に政府援助金でモービル=ホームを与え、どこか別の土地を見つけ住むことになったらトレーラーなどで移動させる。そこで以後住むことになる。
 現在、災害の被災者や失業でホームレスになった人に、一時的に場所を見つけ、仮説住宅を作って住まわせているが、精神的に安定し、被災者が別の住む所を見つけると出てもらったり、数年の期限が来ると被災者を追い出し、プレハブなどで作られた仮設住宅を取り壊してしまう。それでは国や自治体の税金の無駄使いである。何故ならば、仮設住宅を建てる時に税金で費用を使い、取り壊わす時にもまた税金を使っている。二重に使っているのだ。それよりは、安価なモービル=ホームを被災者に与え、どこか借地を見つけたら、ホームをその土地に移動させ、永久的に所有、住まわすことが出来る。国家が家を与える形になるのだ。
 阪神大震災の時やその他の災害時に家を失った人は(老齢で無収入であるため)、自力ではもはや家を建て直せないで土地は所有しているが更地になったままでいる。このような時、国や自治体が安価なモービル=ホームを与えれば、自分の土地に同ホームを移動させ、永久的に家を持つことが出来る。
 モービル=ホームを日本に普及するためには、日本の法整備をしなければならないが(特に不動産に近い性質の動産なので民法も少し変えなければならない)、普及すれば安価なので、被災者以外の人で家を持ちたい人のマイホーム実現にもなるだろう。その他に漁村など風光明媚な所にモービル=ホームを移動させれば、避暑など季節的な観光政策にもなりうる。
 その他に日本政府が大不況対策として取るべきものでやるべきことは、不況対策用の特殊なデノミネーションである。これは文字通りお金の単価を高い方から低い方に変える事であり、それによりお金の価値を上げる事である。例えば、今まで千円の値段であったものを百円に十倍名目上引き下げて、実質上百円の価値を千円にするものだ。
 かつて、昭和五十年代の高度成長の真只中の時は、経済成長による拡大生産により、人々の収入が上がり、毎年物価が少しずつ上がるクリーピング=インフレーション(自然インフレ)だったので、名目上の単価を少し切り下げるべき事を、当時の経済評論家や経済学者等エコノミスト達が唱えていたが、平成不況になってからは、まったく聞かれなくなった。しかし、考えてみれば不況の今こそデノミをやるべきなのだ。忘れられたものをやるべきなのである。
 何故かと言えば、今現在の長い不況下では給料やボーナスは上がらず将来、経済不況がどうなるかわからないという不安から、また年金ももらえないのではないかという不安から人々、消費者が俗に言う財布のヒモを締めるということ、つまり人々が消費を大巾に控えるようになった。売れないから値下げ、激安、価格破壊となり、多くの商品の生産量は年々上がっているのに、価格が下がったデフレ現象になっている。デパートや大型スーパーは百円ショップで百円で買えるものを高く売っていたので倒産していた。
 このような時、不況対策としての特別なデノミを行うのだ。従来のデノミは千円から百円に十分の一に切り下げたとしたら、新しい紙幣を発行し銀行などに於て交換するやり方だが、これだと国民、消費者は何の利益も得ない。この場合の新しい特殊なデノミは現在、市中に出回っている量のお札やコインをそのままにして、政府が千円だった物を百円でかえるように宣言、布告するのである。そうすれば、今まで各消費者が持っていたお金が十倍に使えるようになる。千円を出さなければ買えなかったものが百円玉で同じものを買えるとなると、消費者は心理的に安くなったと錯覚し、思い込み、多くのお金を出し物を買うようになる。
 ただし、今まで持ったお金そのものが十倍の価値になったとすると、異常に購買力が上がり、市中に出回るお金が増えて、超インフレになるので、少しずつ時期を見て、政府や日銀が市中から貨幣を回収するべきである。十倍の価値のデノミは極端だが、一・五倍や二倍のデノミなら適性なのではないだろうか。
 政府や日銀は、新紙幣を発行することもなく、定額給付金のような税金を国民に出費することもない。

(流星群だより第16号掲載) 

野球の新しい変化球の開発の実績

 あれは小学校六年生ぐらいの時だったと思う。昭和四十年、その時、川上哲治氏が巨人軍監督をしていて、それまで、初期の頃巨人軍の監督をし、昭和三十六年に阪神タイガースの監督になりダイナマイト打線を率いていた強敵、藤本定義氏と、同年に巨人軍の監督になった川上氏との間で巨人と阪神が交互に優勝していた。その年、昭和四十年は、V9、即ち、巨人軍が九年連続セ・リーグ優勝をした、V1、初めて優勝した年だった。
 この年のV1、優勝が出来た一番大きな理由は、当時の国鉄スワローズ(現在の東京ヤクルト)から金田正一投手が巨人に移籍したのと、城の内、中村稔、宮田征典の三投手三人がシーズン二十勝を上げたことが大きいが、何と言っても特筆されるのは最初のリリーフ専門投手宮田投手の活躍だった。
 宮田氏は当時、「八時半の男」と呼ばれ、文字通り当時テレビの野球中継が九時少し前に終る八時半になると、必ず登板したものだった。宮田氏は、昭和三十七年巨人軍に入団したが、肝臓に持病があったため、先発完投型の投手としては目がでなかったが、昭和三十九年頃、投手コーチの勧めもあり、短いイニングならいけるということでリリーフ専門投手となった。昭和四十年に、当時はセーブ=ポイント制は記録になかったが、今で言う二十勝、二十セーブ、合わせて四十セーブ=ポイントを上げ、巨人のV1に大貢献したのだった。
 結局、肝臓病のため、その年とその翌年五勝ぐらいを上げ、昭和四十五年に引退したが、今なお伝説の投手である。その理由は同投手が当時、「決め球」として使い多くのバッターを空振りさせ三振を取り、誰も打てなかった伝説の魔球、「落ちるタマ」を投げていたからである。当時宮田投手が投げる「落ちるタマ」の正体が何だろうという疑問が新聞記者、解説者アナウンサー、そしてファンの間に湧き、噂が噂を呼び、「落ちるタマ」がフォークボールなのか、ナックルボールなのか、パームボールか、それとも、別の新たな魔球なのか解らず、それが各バッターの心理的プレッシャーになり、さらに打てなくしていた。
 後に、引退し、コーチや解説者になってから宮田氏本人が語っているが、「落ちるタマ」の正体は、スピードがあるタテに垂直に曲がる捻ったカーブだったそうである。そうすると、宮田投手はカーブ、シュート、スライダー、直球と「落ちるタマ」の五種類の投球をしていたので、カーブは二種類投げていたことになる。宮田氏にしか出来ない独特で特殊なカーブだったようである。宮田氏がコーチをして、巨人や南海ホークスにいた山内新一投手がやってみたが、「落ちるタマ」にならなかったそうだ。
 当時、テレビの画面で宮田投手の「落ちるタマ」を見ていてすごい魔球だと思っていたが、同時に自分自身で新しい魔球か変化球を生みだすべく開発をしたいという意欲が出た。同じ頃、野球マンガがいくつか雑誌連載されていて、中でも「誓いの魔球」の題のマンガの主人公椿林太郎の投げる「ゼロの魔球」に影響されたからである。何か自分以外、誰も出来ない魔球を投げてみたいと決心した。頭に浮んだのは、単純に宮田投手の「落ちるタマ」の反対で、「浮くタマ」の発明だった。
 その年の六月だったと思う。学校から帰るとすぐ、一目散に家の近くのコンクリートの塀のある工場跡の空地へ行き、新しい変化球の開発に励んだ。「浮くタマ」を投げるのに、下手投げで(アンダースロー)でボールに回転を与えた上で、地面スレスレに直球を投げ、バッターの足元から浮き上がることを想定していた。しかし、実際にやってみたら、ボールに回転を与えすぎ、ボールが斜めに直球で上がって行き、塀を越し、塀の向こうの家の二階の窓の所に行き、ガラスを割ってしまった。後日、その家に弁償しに謝りに行くハメになってしまった。最悪である。失敗の原因はマンガに刺激され、空想的現実離れした魔球を作ろうとしたことと、引力に逆らいタマを浮かせることは理論上不可能である事が、小学生の理科の知識では解らなかったからである。これが中学だと引力の方程式を習うので、不可能な「浮くタマ」を開発したりしなかっただろう。それ以来、「浮くタマ」を作ることを封印し試みなかった。
 その代り、この当時、投げるのに成功した魔球、変化球がある。超スロー、フォークボールである。逆フォークボールだ。これは文字通り中指と人差し指でボールを挟んで投げるのだが、ボールを投げる時にちょうど鉄棒の逆上がりをやる時の逆手のように、手のひらを顔に向けたまま投げるので逆フォークボールというのだ。普通のフォークボールは、両指で挟んだ手のひらを打者の方に向け、足を上げモーションをつけ、手首手のひらに体重を載せて投げるが、逆フォークボールは逆手で投げるので、手首を痛めるので、ノーワインドアップで、上の方へ向け、挟んだボールを放つ、スローボールである。超スローのフォークボールだ。挟んだ指からボールを放つと、ゆっくりと斜めに直球で、回転しないで高く上がり、やがて上り切ると折れ曲るように、ゆっくりと真っ直ぐに下降する。もちろん、ストライクも入るが実践向きではない。逆手で多投すると手首を痛めて直球もスピードが落ちるからである。手首のやわらかい私は投げられるが、硬い人は投げることが出来ない。投手が登板したとして、完投をするなら一試合一球から三球が限度である。
 その他に小学校六年生の時に出来た変化球は、現在メージャーリーグで時たま、限られた投手が投げるサークル=チェンジである。これは親指と人差し指を十字に組み(人差し指を親指に乗せる)、そして残りの指、三本でボールを握り、直球を投げるようにボールを放すと直球で行って、バッターの少し手前にやや斜めに落ちるタマである。
 その時から二十数年、かって住んでいた東京都港区から横浜市港北区へと引越していた。ある時、それまではなかったのだが、自宅の裏の小学校に、まん中に的をペンキで書いた厚いコンクリートの小学生などがボールを投げて遊ぶ投球板が建設された。そこで、かつて小六の時にやっていた新しい変化球を再び発明しようと思いついた。日曜日にピッチャーのまねをして健康のため、投球板の的をめざし、直球やフォークボール、ナックルボールなど在り来たりのボールを投げる一方、自分独自の変化球を作りたいと思い、握りを変えたりして色々やってみた。
 その結果、二つの変化球を投げることに成功した。一つは回転を与えず、ボールを捻らず、直球で高く上げ鋭角に落下させる力を抜いたカーブである。これを投げたきっかけは、私自身、手首を捻りボールに回転を与えるカーブをやってみたが、投げられないので、苦肉の策として試ったのがこの投球法だった。投げ方は、バッターをイメージし、バッターの頭の上一メートルぐらいの高さに直球を投げるのだ。すると、球は伸びずに、鋭角に上の方から、やや斜めに下降するように折れ曲がるのだ。この鋭角に曲がる角度が、前述の通り、宮田投手がかって投げた「落ちるタマ」と同じだが、宮田投手のそれは、鋭角に曲げるため強い捻りをし、回転を与えた直球で行き、バッターの手前で胸あたりで急に落ちたものだったが、こっちの方はもっと、頭の上の方からやや斜めに落ちるものである。この方法だと、実際にピッチャーとして試合で登板し、バッターに投げた経験はないが、バッターの上の方から折れ曲がるように落ちてくるので、相当打ちにくいと思われる。
 そして、もう一つがナックルボールによる「浮くタマ」が出来た事である。ナックルボールをアンダースローですくい上げるようにして投げてみた。手の角度を水平より四十五度の角度にする。すると蝶のようにひらひらと、左右に揺れながら投球板の的に当たった。すぐそばでキャッチボールをしていた小学生がグラグラしていたと言っていた。
 その他に、アンダースローのナックルでも地面スレスレに投げる方法も試みた。投げ方はロッテの渡辺俊介投手の投げ方と同じで、手を地面から十センチぐらいの高さで、ボールを水平に投げるのだ。すると、どうだろう。ボールが地面に水平に行き、斜めに浮き上がり、さらに水平に曲がったのだ。感動であった。小学生の時に失敗した「浮くタマ」が偶然出来た瞬間だった。小学生の時に浮くタマを投げて、他人の家のガラスを割ったので、開発するのを封印していたのが、偶然に封印を解いた形になった、感無量だった。同時に思った。なぜ、小学生の時、ナックルで「浮くタマ」が出来なかったのかと。しかし、考えてみると、小学生の腕の力では無理だった。
 以上のようにいくつかの変化球、魔球を開発して来たが、軟球でしか試みていない。硬球ではやっていない。今後、それもやり、そして他の変化球も開発してみたい。
 それと共に、世の中の野球をする人にお願いしたいのは、私の開発した変化球を参考にし、試合で実践し役立ててほしい。                                

(流星群だより第15号掲載)

「新数の論理」

平凡な才能でも数多く積み重ねれば、大家と認められる

 「数の論理」と言うと、大概の人は、かつて闇将軍として政界に君臨した田中角栄が自分の派閥の議員を与党自民党内で最大多数を占め、党内の政策決定や首相の決定を数に物を言わせ意のままにし、牛耳りさらに国会内に於いて、与党過半数を武器に法案すべて自分の思う通り政治を動かした「数の論理」を思い浮かべるであろう。が、ここで言う「数の論理」は、具体的には後に述べるとして、ありふれた平凡な才能の人でも、芸術にしろ、スポーツにしろ自分のやっている事を能力が向上しなくても、平凡な才能のままの実績を数多く積み重ねれば、大家として認められるという論理、法則についてである。
 先ず、私自身の体験から。一九九五年以来私は自己流でキーボードやピアノでやさしく弾ける曲を数多く弾くことを趣味としている。きっかけは、自宅の向いの安アパートに住んでいた人が引っ越しの時、使った古いキーボードを譲ってくれた事だった。「引っ越し先で新しいキーボードを買うので捨てる」というので、もったいないので引き取ることにした。自分自身、小学校でオルガンの入門を習ったことはあるが、それ以来、鍵盤を弾くことはなかった。その時から十年、やさしく弾ける曲を出来るだけ増やし、数多く弾き、楽しんでいる。
 初歩のオルガンを習ったのは東京都港区に住んでいた小学一年生の時であった。きっかけは、母方のおばの家がそろばん塾を開いていたが、休みの水曜日に教室が空いているので、その日にピアノ普及のためライバルのヤマハと競っていたカワイ楽器がそこでオルガン教室を開いた事だった。その教室の生徒が足りないので頼まれ私が参加し、オルガンを習う事になった。最終的には小学四年生まで習い、一応修了証は貰った。
 オルガンは、中学に入って音楽の教師が教材として買わせた歌集が唱歌やドイツ等外国民謡で知らない良い曲がたくさん載っていたので、自宅にあったオルガンで実際に弾いて、どんな曲か確かめ楽しんでいたが、それ以来長年近所にいた人にキーボードを貰うまでは鍵盤を弾くことはなく、大きなブランクがあった。キーボードを手に入れた私は、保育園時代から耳にした曲すべてを弾くことにした。童謡、小中学校で習う唱歌、マンガの主題歌、演歌、歌謡曲、フォーク、ニュー=ミュージック、ポップス、CMソング、クラシックで比較的やさしい曲などすべてを当時から持っていたレコード、ソノシートそして最近のCD、テレビでの歌謡曲を聞き、耳で音をおぼえて、楽譜を見ずに、試行錯誤して弾いていると、何とか弾くことが出来たら、次の曲へとまた、適当に弾いていると何とか出来るようになる。そして、さらに別の曲へと試みる。という風に次々に多くの曲をマスターしていく。そうやって積重ねて弾ける曲が三百を越えた。かつてオルガン教室で習った弾き方はまったく忘れたので、楽譜を見ずに自己流で弾いている。一つには、やさしい曲でも楽譜を見て弾くと間違えるとイライラして、さらに間違えるからである。初歩のオルガンしか習っていない私は、自己流で両手で弾けるが、左手の和音は適当である。従って小学生レベルのピアノすら習ってないので、ちょっと難しいクラシックは弾けない。楽譜を見なければならないからだ。そんな私でも、子供会やクリスマス会などに呼ばれ次々に多くの曲を弾いてあげると、色々な人に「何でも弾ける天才だね」とか、「音楽の大家?」と呼ばれたのだ。まさに平凡な積み重ねによる「数の論理」である。
 おなじ事が登山にも言える。平凡な庶民は、ヒマラヤやスイス=アルプスに登る事は体力的にも能力的にも不可能である。また、山岳部やワンダーフォーゲル部の人々のように天候等厳しい自然を克服して日本全国の主要な山々へ登る事も困難である。それでは登山家でない普通の人はまったく登山家として認められないだろうか。否である。一生の内に出来るだけ多く、軽装で登れる低い山でも、少し高い山でも数をこなして登り、記録を残す事である。埼玉県に住んでいる人ならば、まず有名な山々だと秩父の名山、両神山、武甲山などは素人でも登れる。次に一千メートル以下の伊豆ヶ丘、九山、黒山三滝、正丸峠、五百メートル以下は宝登山や飯能の天覧山、物見山等があり、これ以外の無名な山は数多くある。所は変わるが横浜では九三メートルの天王台や百四五メートルの円海山も山として認められている。これらの山々を一生の内に出来るだけ多く登り、山の姿の写真を取り、スケッチを描き、登山記のエッセー、俳句、短歌、歌詞等を残し、安い印刷屋やワープロで本を自費出版しておけば、地方の登山家として認められるだろう。ヒマラヤなどの登山家は難関の峰を登るため、何年もかかって準備をし、世界の高山のみを登るので、地域の山など相手にしないので、知らない。富士山なんかも登ろうとはしない。登山道があり、素人でも登れる山だからだ。それだけに地域の山々を凡人が数多く登り、所感を残すのは、登山家として価値がある。
 世の中には平凡な能力の人でも数多く実績を積み重ね大家になった人はいる。元広島カープの衣笠祥雄選手は打撃については三割をも打てない平凡な選手だったが、試合を積み重ね連続試合出場で世界記録を作り、川相昌弘選手も巨人や中日に在籍した平凡な守備の選手だったが、バントを積み重ね犠牲打の世界記録を作った。将棋の世界でタイトル一つで八段、名人だと九段になれるが、タイトルを取れる人は何人もいない。が、通算二百勝以上、一勝一勝積み重ねれば、普通の棋士でも八段九段になれる。相撲で高見山や青葉城は並の力士だったが、長年相撲を取り積み重ね、出場記録と通算勝ち星歴代何位だ。牧本という力士は、長年幕下と十両を往復し、一場所だけ幕内をつとめたのみだったが四十歳まで取り、入門から出場数は歴代何位の数である。北陸石川県のあるお寺の何代か前の和尚が、生涯千五百もの俳句を残した。殆んどが駄作であったが、同和尚を記念した俳句の賞がある。植物学の大学者で、高等小しか学歴のなかった牧野富太郎博士は、莫大な草を収集し、分類して植物学の権威になり、東大の講師となった。地味な草集めの積み重ねだった。心臓や脳外科手術の大家は異口同音に平凡な手術の何千もの積み重ねが大家となると言っている。色々な物のコレクターも平凡な物を多く集める事で大家となる。地味な平凡な努力が芸術に於いても趣味に於いても大家となる。全日本女子バレーの監督柳本氏が、「一試合一試合の勝利の積み重ねが世界を制す。全日本女子は横綱にはなれないが、名大関になって世界を取る」と言ったが名言である。四流五流の能力でも、人並みはずれた数を実績として大家になろう。

(流星群だより第14号掲載)

奥丹沢での森林伐採体験をして

 去年、平成十九年の三月初頭、抽選に当たり、神奈川県森林づくり公社のプログラムで一泊し、奥丹沢の札掛の杉の森林の木の伐採体験に参加した。同公社は森林維持のため一年の内、県内各地で一般の人から募ったボランティアに木を切り倒す、日帰りのプログラムを何回かやっているが、一泊のそれは、この時期、年一回だけである。
 朝五時に起きて、横浜から電車で小田急線の秦野駅前に八時半に集合。用意されていたマイクロバスで奥丹沢へ出発。以前は、駅前は数軒のお店があっただけの田舎の駅だったが、今は駅ビルのある横浜や藤沢などと同じ都会になっており、そこを通ると、ほとんど枯れ川になっている水無し川に沿ったガードレールの道に出る。そこから小型バスは左に曲がり坂道に入る。道の脇には、前からある古い農家や民家が続く。それから十分も急な坂道を進むと、道の脇の家はなくなり、ガードレールのある山道の車道になり、左右に日光のいろは坂を小さくしたようになって、さらに高い所へ道はカーブを折り曲って進む。その時、窓から下を見ると、出発して来た秦野市やその向うの湘南に続く平野が望める。約四百メートルの高い所へ昇って来たと実感する。そして昇り詰めた所に、東屋やベンチのある見晴し台と公園を兼ねた所がある。ヤビツ峠だ。ここから下の平野への眺望は圧巻。名所である。
 ヤビツ峠を右に曲がると道は平らになり、行き先の札掛を通り、もっと奥の宮ヶ瀬湖へと向う。道の右手は約七十度の急斜面の杉の雑木林が続き、やがて大山の後姿がにょきりと高く聳える。初めて見る大山の反対側からの姿だ。厚木方面から登ると、雑木林の木がすべて切られ、ケーブルカーがあって、頂上は岩肌がゴツゴツした険しい山であるが、後姿は手つかずの杉の木が生えたままだ。人の頭で喩えると、前頭部半分がハゲで、後頭部は髪の毛がフサフサだ。やがて、道の脇に流れていた細い川藤能川に。もっと幅の広い布川が合流する。その川に三ヶ所、石垣で堰を作り滝になっている所があった。堰の形も三つとも違い、滝の白い瀑布の流れも異なる。峠から約三十分左側の布川の橋を渡り、県立札掛森の家に到着。十時半。
 建物はほとんど木で造られたログハウス=ロッジであった。入り口のフロントの脇には丹沢の木の標本や木の工芸品がいくつか陳列されている。他に和室の二階建てと小さな風呂、自炊場と広いホールがある。
 着くとすぐ、ホールで午前中は森林に関する学科の講義を聞き、持っていった弁当を食べ、午後一時半からいよいよ実践の森林伐採体験だ。初日の森林伐採の二時間の実習に行く。動きやすいトレーナーに着替え、ヘルメットをかぶり、運動靴で森の家の玄関の前に集合。伐採指導者である森林インストラクターを中心に、いくつかのグループに分かれる。伐採注意事項を聞いた後、木を切る鋸を借り、紐で腰に刀を差すようにぶらさげる。
 一時半出発。布川沿いに約二十分起伏のある山道を行くと布川の幅も広くなり、丸太の筏の橋がある所に出る。そこを渡ると左側は遙か下に川、右側は約七十度の斜面の杉の雑木林、鎖をつかみ五十センチの巾の小径を恐る恐る歩く。やがて切り株のベンチのある所でしばし休憩。そこからいよいよ伐採場へ。七十度の斜面を約五十メートル登って行く。
 杉林の間の小道を登ると、約十メートル登る毎に切り倒された太いものや細い杉の丸太が横に並べられ、枯れ葉が散らばっていた。途中、何度も約二メートルも土で足が滑り落ちた。急峻な斜面を登るのは難しい。
 やっと伐採場に着く。作業は二つ。枝伐採からやる。約直径二十センチの杉の幹に、根元から二メートル五十センチの所に、アルミの梯子を掛け、一番上に登り、鋸で全方向の細い枝を切り落とす。ゴキゴキと半分も切ると、枝は自然に折れて下に落ちる。二メートル上は下を見ると足が震えた。切り屑が鼻に入り、プーンと臭いがする。約一時間で終えた。
 次に直径五十センチ以上の杉の幹を切り倒す作業。まず、片方を直径の約三分の一を水平に切り、そこから三十度斜めに切る。くさびのような切片を取る。そして今度は反対側を水平に半分の長さに切って、ロープを回して縛り、近くの他の木にロープを掛け、滑車のようにして手前に向けて張る。左右に人がいないかを確認して、「倒れるぞー」と叫びロープを強く引く。少しミシミシとして、切り込みを入れた杉の木が、ゆっくりお辞儀をするように地に倒れる。太い幹を切ったので息が荒くなり、暫く休憩。これを四回やり、作業を終る。元の道を引き返した。
 森の家に着く前に、森の家の玄関の手前の脇にあるいくつかの木が植えてある公園のような庭で、丹沢の野生の鹿三匹と出合った。おいしそうに草を食べていた。茶に白いお尻の鹿達は我々を見ると危険を感じたのか、睨み合いになった。その目がマスカットぶどうの粒か、又は薄緑の翡翠の玉が光っているように見えた。鹿は我々が襲わないとわかると、ゆっくりと庭の川沿の網の張ってある柵の下をくぐり、斜面になって川に続く土手の上の柵の向こうで草を数分食べ、山へ帰って行った。
 夜は自炊した質素な食事とホールで全員でささやかな親睦会をやった。
 翌日、午前、二時間の伐採と午後講演を聞き三時出発、家路についた。
 伐採の体験プログラムに参加した人は三分の一が女性で、ほとんどが神奈川県内各地の人であったが、中には他県の人もいた。東京奥多摩での伐採に飽き、丹沢に参加した人もいた。自然の中で、だれにでも出来る伐採作業であったが、普段やり慣れてないと、息がハアハアし、きつかった。もっと太い木を切る木こりがいかに大変な仕事をしているか、垣い間見た。いい体験だった。

(流星群だより第13号掲載)