黒田昌紀の総合知識論
下記作品群は現代文藝社発行の文芸誌「流星群」及び交流紙「流星群だより」に掲載されたものである。
リサイクル機構をいかに社会に確立するかについて
現在、今もっての日本は長い不況に喘いでいるが、それでも人々は依然として、かつての好景気の時の大量生産による、物が有り余った生活の中にいる。まだ十分に使用出来る物がゴミとして焼却され、その過程で発生したガスで大気が汚染されたり、粗大ゴミとしての家具類や電気製品等が野原や山林に不法投棄され、かつ、野放しにされ、挙げ句の果てに錆びたり、ハエや蚊の発生の温床になったりしている。
このように、一度使用された物で、もう一度他人に渡れば価値がある物が破棄され、かつ環境をも脅かしている現実を解決するには、それらの物を再利用、活用するリサイクル事業が確立した経済機構を社会に作らなければならない。
そこで以下に於いて、リサイクルを社会に根付かせるにはどうしたらよいかについて、小さな視点からは、再利用できうるリサイクル資源をいくつかの品目に分類した上で、どう加工、修繕でき、また販売できるかについて述べ、さらに大きな視点からは、リサイクルを社会機構として確立するには、官民でどのような努力が必要かを論じてみたい。
先ず、一番身近な物でリサイクルしやすいものはガラス製の酒類のビンである。これまではゴミとして回収され、その後機械で砕かれ、ガラス製品を再生する原料としてリサイクルされていた。
この方法だと労働力等のコストがかかり過ぎるようだ。このコストを省くには、すべての洋酒メーカーに清掃局に回収された自社製のウイスキーやブランデー及び日本酒などの空ビンを丸ごと無償か、少し手数料を払って引き取ってもらい再利用してもらうのが望ましい。これまではビールビンだけは試みられていたが、その他のビンもそうされるべきであろう。
同様に、ペットボトルやガラス製のインスタントコーヒーの容器などもそのような方法で回収し、フタを変えて新たな製品に再利用すればよいと思われる。生産の回転も効率的に早くなる。缶ジュースなどはプルトップが取れても、缶を回収し、金属テープを貼れば使えるであろう。
発泡スチロールやプラスチック類は石油に還元する技術が望まれ、回収して利用されるべきである。また木材で家を取り壊した廃材は回収して焼却せず、紙の原料として使ってほしい。古タイヤは積極的に輸出すべきだ。
次に、大企業で使われていた設備機械は、これまでのように解体業者に渡り解体されるのではなく、中小零細企業に仲介し、廉価で譲るべきである。
小さな企業は新品では何億もするので買えないが、まだ稼働する設備機械を安価で譲渡されれば中小企業の産業育成、特に地方の振興に役立つ。医療機械、例えばレントゲン等のものは、これまで同様、病院の勤務医から開業する医師の設備機器として安価で譲渡すべきであるし、特に、山村などの診療所に譲れば地域医療の改善にも役立つ。海外、特にアジア、アフリカの諸国の病院等に安価で譲れば国際医療開発援助になろう。
次に大局的に官庁主導でリサイクル事業を築きあげる方法については次の通りである。まず国家機関でリサイクル事業が出来るのは刑務所である。各清掃局で回収された電気製品や家具類を刑務所で引き取り、修理技術を身に付けた受刑者が修理し、その修理したものを模範囚の生活や刑務所でまず使う。さらに学校、大学や福祉施設や生活保護者に優先して利用してもらえば良いと思う。廉価で販売して引き取ってもらうのだ。
さらに品物が余れば刑務所内に各地域の自治体の援助で第三セクター方式の販売所を設立し、修理したリサイクル品を一般の人々に安価で販売するとなお良い。職員は刑を終えた受刑者を雇用すれば、再生事業にも寄与することができる。そうすれば、刑を終えた受刑者が出所する時の収入アップにもなる。
次に民間のリサイクル業者の育成を自治体がいかなる方法で助成できるかについて論じたい。
発泡スチロールやプラスチック等は、原料であった石油系オイルに還元可能である。もしそのようなものを開発できる技術を持っている企業が採算が取れず、赤字になって事業として成り立たないならば、国や自治体は財政援助して利潤が出る分まで助成すべきである。
また国や自治体のリサイクル企業育成は不況による失業対策にも役立つ。不況やリストラで職を失った人々を一時的に雇用する企業として、自治体が財政援助した第三セクターのリサイクル企業を設立するのである。
さらに、この種のリサイクル事業は福祉にも役立つ。福祉施設で作業所や福祉授産所に自治体が財政助成し、電気店や清掃局で下取りや回収された電気製品を引き取り、心身障害者のリハビリや就労として修理する技術修得に役立て、修理されたリサイクル製品は生活保護者や老人ホームのお年寄に優先して分け与えるのが好ましい。またそれを売った代金は、障害者の収入として還元するのも方法である。
以上の方法でやればリサイクル事業はしっかりと社会に新経済システムとして根付く。
我が考古学修得の体験記
多くの分野の知識を持つ筆者にとって考古学を学ぶ方法は、他の知識を身につけたやり方と違っていた。他の知識は、大学、大学院、そして多くの講習を受けた後自分でその分野の本を図書館から借りて読み深めたもの、電気回路や溶接など高等技術校に通って身につけたもの、自分で本を読み、独学で身につけたものだが、考古学を身につけた方法は特異なものだった。
初めて考古学に触れたのは、保育園に行っていた頃、父親に静岡市に連れて行ってもらい、古代人の住居が保存してある登呂遺跡を訪ねた時だった。ワラの屋根を持つ古代人の住んでいた竪穴式住居の中へ入ってみた時、古代の人々の家に感心したのだった。
小学校に入ってからは、あまり考古学に興味はなかったが、学習雑誌の特集で、南米インカの人々の骨、頭蓋骨に四角い切った痕があり、それが頭を手術していたのではないかという記事に興味を持ったのが一つ。それと、江戸時代に福岡市の志賀の島の農民が畑仕事をしていた時、小さな金印を発見し、それが当時の中国の王朝、後漢に、倭の王族が朝貢していたことを証する印章であった。「漢倭奴国王」と印にあり、後漢書東夷伝」にも記述がある。
この二つに興味を持った以外、大学生になるまで、中学、高校と殆ど考古学に興味を持たなかったが、弟の使っていた高等学校の国語の教科書に、小学校の学歴しかない行商人、相沢忠洋氏が、行商に行く途中の地層を調べ、それまで日本ではないとされていた旧石器時代が、日本にもあったことを証明した。群馬県岩宿で火山灰の層である関東ローム層の下から石器を発見したことが、相沢氏自身の体験記に載っていた。それを読み、考古学に興味を持った。昭和五十年頃のことである。
同じ頃、かつて私が住んでいた東京都港区の新堀にあるお寺さんが経営している幼稚園の境内から、江戸時代の女性のミイラが発見され、肌が生きていた時のようにみずみずしい状態だったことを知った。たまたま自宅にあった港区の郷土史の本の中に、小学校時代によく遊んだ東京タワーの近くの芝公園は、全体が古墳であることが書かれていた。同公園は、階段を昇るようになっていて、二階の藤棚がある休憩場、そしてさらに三階へ階段が続き、頂上はベンチのある見晴し台と、すぐ隣にゴルフ場のネットがある。頂上には江戸時代の地図の測量家、伊能忠敬の石碑の台がある三十メートルの高さの丘である。この丘の前には柵で囲んだ梅園がいくつかあり池もある。
この芝公園が、郷土史の本によると学術的に調査がまったく行われていない上に、残念なのは、半分以上ゴルフ場を建設した時、古墳の一部が切り崩されてしまったことだ。芝公園の隣は、徳川家ゆかりの増上寺や東照宮の分家があり、かつてはここで二代将軍、秀忠公の皮膚のみずみずしいミイラが発見された所である。
私はそれを知り、すぐに芝公園の現地へ行き、簡易調査を行った。一階の梅園から二階の休憩場へはやや急な斜面になっていて、雑草が生えていた。そこには多くの貝殻の破片と、ごく小さな土器のような欠片が得られ、それを横浜の自宅に持ち帰り、和菓子の箱を区分けした中に入れ、標本にしたものだった。
そのすぐ後、自宅の裏の小学校の社会科教師が、小学三年生の使う郷土の教科書を作るため、向い側の丘の私有地に遺跡があり発掘するというので、一緒に発掘を手伝った。約三十メートルの丘の斜面で、貝殻や土器の欠片を収拾できた。師岡遺跡であった。
このように考古学に興味を持ち、昭和四十九年初版の小学館の「日本の歴史Ⅰ」古代史編で考古学の歴史について調べてみた。すると、日本の考古学は、多くの在野の、それも学歴も高校程度の人々によって調べられ、発展してきたことを知った。
大学の考古学調査が行われず考古学者がいなかったのは、終戦前は、天皇が神格化され、紀元二千六百年前に誕生したという皇国史観が幅をきかせ、思想的にも取り締られ、科学的で客観的な考古学は、生神様である天皇の先祖を否定するものになるので、大学の学部に考古学が置かれることはなかった。そのため、多くの学歴のない庶民の研究家によって、考古学は調査、研究されることとなった。わずかに大学では、東大などの自然人類学などで、骨を中心に古代人の研究がなされているのみであった。
大学の研究者ではなく考古学をやっていた人の例をあげると、東京開成中学の英語教師だった酒詰伸男氏、古墳の調査を行い論文集「史論」を刊行。岩倉鉄道高校出身で、兵庫県明石で、明石原人を発見し、後に早稲田大学の教員になった直良信夫氏。京都大学で空いた教室で自主講座を開いていた森本六爾氏。旧制中学の学歴しかなく、銅鐸や弥生時代の農耕文化について多くの論文を雑誌「考古学研究」や「考古学」に載せ発刊したが、病に倒れ、わずか三十二才で没している。
森本氏に影響を受けた藤森栄一氏は、長野県諏訪で旅館を経営しながら、前記の「考古学」や独自のガリ版刷りの雑誌を作り、論文を発表していた。
その他に橿原考古学研究所の所長となった末永雅雄氏。九州の邪馬台国の発掘をした原田大六氏など、いずれも旧制中学の学歴であった。
中でも、前述の岩宿の発見をした相沢忠洋氏は、日本に旧石器時代の層を発見した考古学者だが、小学校ぐらいの学歴しかなかった。そして、それには伏線があった。この相沢氏の発掘を学術調査を行ったのが、明治大学考古学研究室の芹沢長介氏であったが、明治大学では先輩達が日本には旧石器時代は存在しないという説を教えていたので、旧石器時代の存在を主張する芹沢氏は、明大を追われることとなる。学歴のない相沢氏と共同調査を行ったこともその理由である。
その後、芹沢氏は東北大学に移ることになるが、さらなる伏線がある。二〇〇四年頃、高卒の考古学者の研究者が集まる東北考古学研究所が、珍しい土器を発見して実績を上げていたのだが、ある時、その一人で、これまで「神の手」「ゴッドハンド」と呼ばれた者が、意図的に珍しい土器を地面に事前に穴を掘り埋め、新たな石器を発見したように見せかけたねつ造が新聞記者に見つかり問題になった。同研究所を応援していたのが停年で東北学院大に移っていた芹沢長介氏であった。その後同研究所は、役所からの助成金が打ち切られた。相沢忠洋賞も取り消しとなった。
このように、学歴のない多くの人が、考古学の調査を行って来たことを知り、私も地域で考古学の活動をやってみたくなった。昭和六十年頃のことである。
まず、自宅のある横浜市港北区大倉山あたりの遺跡を回ることにした。自宅近くにある熊野神社の資料室博物館は、毎年八月末のお祭りの時には無料開放している。この神社の山全体が遺跡であって、多くの考古学の貴重な出土品と鎌倉時代以後の古文書が、資料室には展示してある。中でもピンク色のガラス質の石器と薬研は特に珍しい。宮司の娘さんの説明によると、戦前から先代の宮司さんが、地道に発掘をし、出土品を分類し、学芸員が年代を整理したそうだ。国学院大学を出た宮司さんが、皇国史観が唱えられた神社で、考古学的調査を行われていたのには驚かされた。
その他に自転車で菊名小学校にある菊名遺跡、網島遺跡、梶山遺跡、下末吉遺跡、川崎の夢見ケ崎公園の遺跡を回った。遠い所では、勝土遺跡、世田谷区の等々力渓谷の遺跡、大森貝塚、港区の亀塚古墳、横浜市南区の三殿台遺跡などを訪ねた。また、神奈川県の大和市や海老名市で、県庁がやっている発掘現場見学会にも参加した。一度、石原軍団の俳優で考古学研究家の苅谷俊介氏にお会いした。
この間に、古代ではないが、教師をしていた父親の紹介で、東京都品川区の教育委員会に協力する形で、大井町のジェームス坂下の江戸時代の味噌屋の跡の発掘に参加し、味噌樽の破片や茶碗の破片を自分の手で発掘し、手に取って喜んだものだった。
考古学現場に足を運ぶだけでなく、多少書物でも学ぶ機会を持った。港北区の持っているリサイクル文庫で、他の人がいらなくなった本を出し、別の人が出した本を無料で持ち帰ることが出来る書棚がある。ここで、東京都教育委員会の八丈島の遺跡考古学調査報告書、川崎市教育委員会の発掘調査紀要、富士吉田市教育委員会の考古学研究紀要などを無料で入手出来た。川崎区の貝塚町の歴史と名前の由来、忍野八海の古代遺跡などが勉強になった。中でも圧巻だったのは、八丈島は、元来鎌倉以来、犯罪を犯した者が島流しとなって、流刑者として一生を過ごした場所であったが、それより遥か前に、古代の人が船を作り島に渡って来た遺跡がある。そして、八丈島の地層には、大昔の九州桜島や阿蘇山が噴火した時に、黒潮に沿った風に乗って、火山灰が降った地層が見られることだ。そのくらい、二つの火山の噴火は大きかったことがわかる。鹿児島のシラス台地の地層と同じである。
これからの筆者の抱負として、「自転車で回る考古学調査」として住んでいる港北区師岡町の周辺の町、樽町、新吉田町、篠原町には小さな遺跡があったが、家を建てた時に調査もされずに失われてしまった。家が建っている周辺から貝殻や土器片でも見つけ、ここには遺跡があったと推定される記録を残したいと思っている。
かつて樽町の農家の畑に貝殻が多く出ており、何回も教育委員会に貝塚として保存を申し入れたが受け入れられず、しばらくしたら、ダイクマが建ってしまった苦い思い出がある。
自転車で考古学の調査をやるだけでなく、近くの港北区の鶴見川の流域には、相模川大堰にしかないと言われるタコの足と呼ばれる吸盤のようなものを持つ赤い葉の雑草がある。それの植生を川の土手で監視しようと思う。さらに、新吉田町や樽町の丘で、枝葉の断層がないか調べてみたい。東日本大震災では、福島県などで枝葉の断層が動き、地滑り被害をだしたから。防災になるので。
医者から処方された薬を無駄なく使う方法
いつもゴミを捨てにゴミ捨て場に行く時に思うことだが、多くの人がお医者さんから貰った処方薬の多くを無駄にしていることに気がづく。医者に処方された薬が殆んど飲まずに薬袋ごと、透明のゴミ出し袋に入れられて、捨てられているのだ。殆んどの人が医者に処方されて、ある程度の薬を飲んだ後、例えばカゼなどの不快感や足を痛めた時など、それが治ると、残っている薬をもういらないとばかりに、薬袋ごとゴミ袋に入れて、捨ててしまうのだ。
このようなやり方で、薬をむやみに破棄することは、大変もったいないことだ。考えてみれば、普通、患者は健康保険組合に加入していて、保険の種類によって一割から三割負担で薬を薬局から受け取っているので、薬の値段を安く感じている。が、もし、保険に加入しておらず、十割払っていたら、相当高い薬代を支払うことになる。そのことを多くの人々は認識していないのではないだろうか。それゆえ、医者から薬を処方され、ある程度飲んで病が回復し、気分が良くなると本来は高い値段である薬のおかげ、有難さをわすれ、残りをゴミとして捨ててしまうのだ。
広く、人々がお医者さんから処方してもらった薬を、最後まで飲まず捨てないようにするにはどうしたらよいだろうか。それには、人々が薬の知識をつけ、処方された薬を知ることであって、さらに、もし、薬を保険が効かずに十割を支払ったなら、薬は大変高い値段になり、貴重なものだということを認識することだ。そうすれば人は、例えば、カゼをひいて、処方された薬をある程度飲んで、不快感がとれたとしても捨てずにとっておいて、次にカゼをひいた時に、また同じ薬を飲もうという意識が出来、ゴミに捨てたりして、薬を無駄にしないようになるだろう。
薬の知識をつけるというのは、薬には一つの効果だけではなく、別の疾病の症状にも効くものがあることを知ることだ。人がそのような薬の知識を少し持てば、人々は医者から処方してもらった薬を捨てずに取っておいて、別の症状が出た時に使うようになるかもしれない。
その具体的な薬の例をあげてみたい。ある人が、足を捻挫で痛めたり、膝をひねって痛めたとしよう。その場合、その人は整形外科へ行き、貼り薬と痛み止めの飲み薬を処方してもらうのが普通だ。そして、人は痛みを止めるためその薬を飲み、痛みが取れ、薬が余ったとする。その薬を捨てずに取っておけば、カゼをひいた時にカゼ薬としても使える。整形外科で処方してもらったその薬は、解熱鎮静剤と呼ばれ、カゼについては熱っぽいだるさや寒気の不快感を取ってくれるものだ。もし、薬の知識のある患者であれば、薬をゴミに捨てずに取っておき、風邪薬として使っただろうが、知らない人だと足の痛みが治ると、残りの薬を捨ててしまう。このようなことがないように、薬の知識をつけて、薬を捨てたりしないで取っておいて、カゼをひいた時に飲んで、内科医へ行って薬を処方してもらわなくても、整形外科でもらった痛み止めを飲んで代用するのだ。そうすれば、医者代、薬代を節約できる。私は、このような自己処方を実行している。
同じように、解熱鎮痛剤を出しているのが歯医者である。主として歯を抜いたり、歯を削ったり、あるいは虫歯で、ひどいもので神経の根を深くいじって、ひどい痛みがある時、痛み止めとして出している。三日分とか少ないもので、整形外科や内科のように一週間分とか多くは出さない。歯の治療で、特に痛い場合は、飲まなくてはならないが、そんなに痛まなければ飲まなくても済むこともかなりある。私の場合がそうであって、何回も歯医者でもらった痛み止めを飲まずにとっておき、カゼ薬として使っている。
歯医者は、一般の医者と違う傍系の医学なので、解熱鎮痛剤や抗生物質も一般の医者が出せる薬のほんの一部、限られたものしか患者に出せない。しかし、私が薬の辞典や一般向けに書かれた医学雑誌、NHKの「きょうの健康」などを見て調べると、歯医者が出している解熱鎮痛剤、抗生物質は、整形外科の出しているものと同じものを出している。また、これらは内科でもそれと同じものをカゼ薬としても出している。それ故、飲まずに取っておけば、カゼ薬としても使えるのがわかる。
他に歯医者は歯を抜いた時には、抗生物質を出す。また内科でもカゼをひいた患者に解熱鎮痛剤と共に処方している。この抗生物質は、バイ菌を殺すための薬であるが、歯医者が出したり内科医がカゼをひいた時に使うのは、予防のためだ。歯茎が化膿しないためと、カゼの二次感染で肺炎にならないようにするためだ。このような抗生物質を飲まずにとっておけば、皮膚におできが出来て化膿した場合に、またヤケドをした時にバイ菌の感染を防ぐのに使える。
私の経験として、抗生物質をためておいたものを使って、下痢を治した事がある。かって、私は品川区の八潮公園にカキを獲りに行っていた。人工の渚があり、海の中に多くの庭石のような岩を組み立て、海水に浸かった所に多くの天然のカキがひっついていた。大きめのをそれを大きなマイナスドライバーで引きはがし、スーパーのビニール袋に二つぐらい電車で持ち帰り、横浜の自宅でペンチで割り、カキの身を生でポン酢かレモンの汁をたらし、ケチャップをかけて食べていた。新鮮で生ものはなかなかのものだった。しかし、ある時、失敗したのは、貝殻が開きかけたカキをいいだろうと思って食べたところ、バイ菌に当たって数時間で大便が水のようになり、十分おきに便所へ行くハメになった。ひどい下痢で有り、一種の食中毒である。
そこで私は、飲み残してためておいた抗生物質を片っ端に飲んで治療することだった。薬の知識があったので、すぐにこの方法が取れた。一番初めに抗生物質を飲んでも、すぐには効かず、十五分おきに水のような大便が出たので便所へ行った。そこで三十分おきに色々な種類の持っていた抗生物質を飲んだ。セフェム系の薬、青カビ系のペニシリン系、合剤、静菌性抗生物質などをかまわず飲んだ。中には、その時より十五年以上前、歯を抜いた時にもらった変質したカプセルもあった。そんな努力が叶い、二時間ほどで下痢が止まり、気分がよくなった。抗生物質が菌を殺してくれたからだ。
この例などは、薬の知識があったので、医者に行かずに食中毒と思われる下痢を自分で治せた。保健所にも届けはしなかった。
他の例として、精神安定剤があるが、私自身は神経内科より処方されている。この安定剤は神経不安を取るだけでなく、血圧を下げたり、その関係上、筋肉を柔らげてくれる。だから、高血圧の薬としても使われ、肩こりなどにも多少効く。この薬、安定剤を神経内科からもらう他に、麻酔科の開業医から緊張性頭重感のため、肩こりが原因なので、麻酔注射を首の神経節に打ってもらうだけでなく、肩こりを取るため、筋肉を柔らげる薬、ミオナールをもらっている。薬には相互作用というものがあって、二つの薬を一緒に飲むと互いの薬を強化するものがある。私は、薬の知識があるので、安定剤とミオナールを一緒に飲んで、相互作用を利用している。
その他に神経内科からもらっている薬に古い型の胃潰瘍の薬として開発され、後にウツ症状に効くことがわかった。学名スルピリドという薬で有名なものは、ドグマチールとかアビリッドとかあるのだが、私が医者から処方されたのは、ジェネリックの薬、学名と同じスルピリドだった。ただし、この薬は、本来のウツ病の薬とはちょっと性質が違うものだ。
その薬を飲んでいた時、偶然に面白い事が起った。元来、私は世の中で悪い人間が犯罪を犯したりすることを見ると、強い怒りを覚えたり、他人に嫌な事をされたりすると、すぐに怒ったりする。すると、胃が収縮するように感じたりしたが、約半日ぐらいすると、自然に治ったりしていた。実は、これが胃潰瘍の自覚症状であったのだが、胃潰瘍だとは思わず、内科へ行き、胃潰瘍の薬を処方してもらうこともなかった。が、後日、保健所で胃ガンの検診を受けたら、レントゲンに胃潰瘍の痕が見つかった。これは胃潰瘍の治った痕なので、間違いなく精神薬として、神経内科から処方されたスルピリドが偶然に効いていたことが判明した。もっと詳しい検査をしたら、その時は胃にそれ以上は異状がなかったが、それ以来、いやな事があった時などは、胃に収縮感を覚えた時は意識して神経内科で精神の薬として処方されたスルピリドを飲んで治療している。
このように、薬には、お医者さんから処方された薬をある程度飲んで病気が治ったら、残りを捨てずに取っておけば、同じ症状だけでなく別の症状にも効くので、自分で処方し、お医者さんへ行かずに済む場合があることが筆者の体験でわかるであろう。他の人が私と同じようにやるとしたら、どうしたらよいだろうか。そのためには、言うまでもなく薬の知識をつけることだが、一番簡単な方法は、本屋さんに売っている厚い「お医者さんからもらった薬がわかる本」を買って来て読むことだ。これは一般向けにわかりやすく薬について書かれた辞典のようなもので、薬の効用、薬の学名や副作用、相互作用、一緒に飲んではいけない薬などが書いてあり、薬学の知識のない人でも薬の知識がつく。
私の場合、今から二十年前、成人病になり、医学の勉強をしようと思い、たまたま横浜駅の地下鉄の駅の構内にあったリサイクル文庫で、医者が医療現場などから破棄した古い医学書を二百円とか三百円とかの二束三文でたくさん買って読み始めた頃だった。それに加え、たまたま平成の初め頃、ハゼ釣りを観見川の河口でした帰り道、観見駅の近くの古本屋さんで、白馬出版という無名の出版社が出していた「お医者さんからもらった薬がわかる本」を見つけ、安価で読み始めた。興味を持ち、毎日のように読んだ。その後、リサイクルショップで九四年版の医師が使う医学書院の「治療薬マニュアル」をわずか百円で手に入れ、それに製薬会社がお医者さん向けに渡した薬の論文や資料を医者からいらないものをもらい読んでいった。
他の人は、そこまでする必要はないが、せめても本屋さんで、「お医者さんの薬がわかる本」を買い、薬の知識をつけて、薬を無駄にしないようにしてほしい。十割払ったら薬は高い上に、あと数十年で石油が枯渇すると、今の薬が飲めなくなるかもしれないからだ。殆んどの薬は石油から精製されている。将来は、漢方やその他の生薬に変えなくてはならないので、現在の石油から作った医者の処方薬を無駄なく飲むべきである。
なお、「お医者さんの薬がわかる本」は、平成の初め頃、白馬出版が出したところ、売れたので、今では小学館や講談社などメジャーの出版社も出している。
従来の経済学理論と異なるアジア、アフリカ、オセアニアの経済学
現在我々日本やアメリカ、ヨーロッパで使われている経済知識、経済学や経済論は、ヨーロッパの国々、とりわけ、イギリス、フランス、ドイツやアメリカの学者が、それらの国々を中心に世界を見た視点に立ち、打ち立てられたものである。そして、それが主流となって世界中で受け入れられているが、人々は、そのことを意識せず、気付いていない。
日本も、ヨーロッパやアメリカの経済学の本を読んで、経済学や経済論の本や論文を書いているので、日本の経済学もそれらの国々によって確立されたものであるという事を意識していない人が多い。官庁エコノミスト、経済学者、経済評論家なども当り前と思って、欧米視点の経済論を標準経済学として受け止め、大学の経済論として講義され、また高校や中学の教科書の経済論として記述されている。
ヨーロッパ諸国、とりわけイギリス、フランス、ドイツの経済学がいかに構築したか、その時の経済や社会情勢背景についてみてみる。
ヨーロッパの国々は中世以来、農業経済を基盤とする封建領土を持つ封建領主が公となり、その領国がいくつか連合し、王を君臨させ、封建王国が形成されてきた。その後、自由都市に商業や工業が発達し、資本主義の基礎を作った。
十四世紀からポルトガルが海路でアフリカ中部へ向い、時を同じくして北アフリカ、マグリブのムアッハド王朝が、サハラ砂漠を縦に横切り、今のマリ王国のツンブクトゥまで達し、その後西アフリカのガーナに達した。またポルトガルはナイジェリアに商業貿易及び軍事拠点を築いた。
十三世紀までは北アフリカの西部、とりわけ、今のモロッコのあたりまでを、イスラムのアラビア語で「マグリブ」即ち「西の端て」と呼ばれ、ムアッハド王朝が領土を治めていたが、今のアフリカ大陸の西端の岬、「セネガルの鼻」と呼ばれている所までがわかっていて、それ以南は、天地が落ち込んでいると信じられていた。
ゆえに、イスラムのムアッハド王朝は、サハラ砂漠を大きく縦断し、ポルトガルは海路で大きく回り、西アフリカ南端の海岸線を発見し、アフリカを回る「セネガルの鼻」以南の地理を陸路と海路から双方で発見し、アフリカの地理上の発見となった。双方が貿易、交易の拠点を作り、商業交易のための植民地化の先例となる。
十五世紀終わりから十六世紀に入ると、スペインやポルトガルが地理上の発見で互いに競争になり、アフリカの南海岸やアメリカ大陸を新大陸として、地理上の発見となる。
スペインは新大陸に於いて、広大な地域を植民地とし、金銀などの金属材料や香料、農産物を本国に輸送し、大規模な資本主義を打ち立てた。
イギリス、フランスそしてオランダは、スペインやポルトガルに一世紀遅れて、商業、交易目的で、主として北米大陸を植民地にし、毛皮、漁業産物、オットセイの毛皮などを本国に運送し、本国の商業交易の供給地とした。
一般的には、食料資源、鉱物資源、毛皮、香辛料を求め、海外に拠点を設け、本国から本国人を移住させ、それらの供給物を集める交易に従事させ本国へそれらを安く輸入させることで本国の経済を発展、繁栄させる植民地依存の資本主義経済体制の確立であった。
二十世紀に入り、イギリス、フランスやドイツ、ベルギーの国々は、アフリカやアジアの国々に、本国の繁栄、つまり経済を中心にした国力の向上、富国政策を取ることになる。
言うまでもなく、食物資源、鉱物資源などを求め、交易拠点とするのだが、本国から市民を移住させず、本国人は最低限の統治する役人や軍人に限り、軍事力を背景に植民地化し、恒久に領有した。
無知な原住民から原料を廉価で買い叩き、利益を与えず、それらを本国へ運送し、本国だけが繁栄するという本国を中心とした資本主義体制を作った。これを帝国主義という。海外の植民地と本国を海と航路で結ぶ資本主義体制である。
一方、アメリカはというと、ヨーロッパの国々とは別の、そして違った資本主義経済体制の形成を見る。一七七五年に独立宣言し、一七七八年のパリ条約によって獲得した大西洋岸からミシシッピー川東岸までの領地の他に、同州の西岸の膨大な太平洋岸に至る外国領の土地を、一八〇三年にナポレオンから広大なフランス領ルイジアナを買収し、一八四八年には米墨戦争の結果として、メキシコ領だった西部のカリフォルニアに達する土地を手に入れることになる。
これによってアメリカは、大西洋から太平洋岸に達する大陸国家となった。
この間に人々は西の方の開拓地に移動をして行った。南部では人々は奴隷を使役し、プランテーション農業による綿花や農産物を生産し、中西部では穀物と牧畜による食肉を生産した。西部ではカリフォルニアから東へネバダ、コロラドへと人々が移住し、金や銀など鉱物資源を掘り起こした。
さて、アメリカの経済がどのように発展したかと言うと、ニューヨークを中心とした東部地区の工業商業地帯は、南部の農業地帯、中西部の小麦を中心とする穀物地帯、さらに西部の鉱山まで鉄道を敷き、産業に必要な資源や原料や農産物、食肉を輸送し、産業の発展でアメリカの資本主義経済を確立していった。ヨーロッパの国々が海外の交易拠点、植民地を海路で結んだのに対し、アメリカは領土とした国内の原料供給地を陸路、長距離貨物鉄道で結び、独自の資本主義経済を打ち立てた。それ以後、百年以上も農村を中心とする農業社会とそれを経済支配する東部商工業社会との対立で、経済は進むことになる。
アメリカも帝国主義形成期にハワイ、サモア諸島、フィリピン、キューバをも領有したが、ヨーロッパ諸国に比べ、強い統制や経済搾取などによる統制をしなかった。
このようにヨーロッパやアメリカが植民地や原料供給地を支配して、商工業の発展を通じて本国の経済発展によった資本主義経済が確立する中で、現在までの世界で主流の経済学は、ヨーロッパの国々、とりわけイギリス、フランス、ドイツで原料供給地である植民地を搾取、踏み台にした本国中心に見た視点の経済学として確立したのだ。それが世界で標準の経済学として受け入れられた。アメリカもヨーロッパの経済学の影響を受けて発展した。
日本は伝統的な江戸時代前の独特の経済学はあるにしろ、現代の日本の経済学は、ヨーロッパ、アメリカの資本主義経済学を手本にしているので、亜流ヨーロッパ型経済学と言えよう。ただ、アメリカは広大な南部や中西部の大規模農業地帯を対象にした農業経済学を発達させた。
オーストラリアの大学で使用される厚い経済学の本は、「オーストラリアの経済学」と呼ばれ、アメリカなどと同じ英語で書かれているが、内容はヨーロッパで打ち立てられた標準型の経済学と視点がかなり異なる。需要と供給線とか、景気循環線などの基本経済理論は同じであるが、市場論や経済流通論などは、オーストラリアも含むかつてヨーロッパが植民地としたアジア、アフリカ諸国の側から見た経済学及びその理論なのだ。つまりヨーロッパ型の標準型経済学では、オーストラリアも含むアジア、アフリカの経済事情に合わず、役に立たず、彼ら独自の経済学理論を構築したのだ。
南アフリカの経済学も視点をアジア、アフリカの側に置いたものである。また、同国の国際法や国際関係論もアジア、アフリカ、オセアニアに視点を置いたもので、それらを大学等で講義している。
ベトナム人の学者の書いたエスペラント語版の経済を中心とした国際関係論を読んでみると、東南アジアの経済圏を中心とした貿易論を展開していて、なるほどヨーロッパやアメリカの経済学や経済国際関係論と違った、大変卓れた理論だなと感じる。ベトナムにも独自の優秀な学者はいるものだと思わせる。
また、タイの経済学の本をタイ語で読むと、やはり、東南アジアに視点を置いた卓れた経済論を唱えている。
東南アジアの国々は、一般的に言って、都会と地方の経済格差が大きい。特に、農村は自給自足の状態に近い。この都市と地方、特に農村との格差は、東南アジアの国々によって事情が異なる。また、これらの都会との格差を生む道路などの整備の状況も国によって異なり、商品の流通の仕方も東南アジアの国々によって異なる。
これらの例からわかる通り、アジア、アフリカ、オセアニアの国々の経済学、経済論は、彼らの地域経済圏に当てはめた独自の理論に基づくもので、かって、それらの国々を植民地にして、工業資源を吸い上げ本国が繁栄した過程で打ち立てられたヨーロッパの経済学とは大きく異なり、世界で一般的に受け入れられている標準型のヨーロッパ中心に見た従来の経済学では、アジア、アフリカ諸国、オセアニアの経済実情には当てはまらない。
二十一世紀に入って、東南アジアの国々が教育も普及し、工業化が進み、発展途上国から先進国へと変わりつつあり、毎年六%の経済成長を遂げている。そして、インド、ブラジル、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランドの国々も、経済発展を遂げ、先進国の仲間入りをしている。
かつて、スペイン、イギリス、フランスなどに植民され、原料供給で搾取されたアジア、アフリカ、オセアニアの国々は、ヨーロッパへの原料供給源とされ、また、ヨーロッパの作った商品のマーケットとして経済支配され、ヨーロッパが繁栄する一方で、百五十年もの間、経済的貧困の状態に置かれた。
二十一世紀になった現在、経済発展を遂げ、先進国になりつつあり、ヨーロッパ、アメリカ、日本に追従している。
ヨーロッパの国々やアメリカ、日本など先進国は、かってのようにアジア、アフリカ等の国々から安く原料を買い叩くことで経済繁栄をすることはできない。工業化したアジア、アフリカの製造した商品、民芸品、特産物を交換する貿易による経済関係を行うしかない。フェアートレードなどのように、アジア、アフリカの諸国が、かってのようにヨーロッパに搾取されず、相当の利益の上がる貿易でなければならない。
このような国際経済関係の状況では、従来のヨーロッパ中心の観点からの標準化された経済学では、もはや有効ではなく、アジア、アフリカ、オセアニアの新興国のベトナム語、タイ語、インドネシア語などで書かれた、それも、もっと細かく、これらの国々の地域の実情に合わせた現実的な経済学、経済理論が重んじられなければならない。
松井秀喜選手の引退会見のウラにある事情を推理する
平成二十四年の十二月に入り、巨人、メジャー=リーグのヤンキース、カリフォルニア=エンジェルス、そしてダイヤモンドバックスの3Aと渡り歩いた松井秀喜選手が、半年ほどの沈黙を破り、突然、表に現われ、自身の引退の記者会見を開いた。記者を前にして、身の振り方として、二十年の野球人生に終止符を打つ旨を宣言したのである。
二〇一二年の六月頃成績不振からダイヤモンドバックスからも契約解除、フリーエージェントされ、日本球界復帰も噂されながら、本人はあくまでも、メジャーリーグでプレーすることを目ざし、それ以後プレーする球団も決まらず、松井選手の動向は報じられず、忘れ去られた存在になっていた。
ところが、十二月に入って、突然の記者会見を開いたのである。引退すると宣言したのだ。それも切望していたメジャー復帰してプレーすること、日本球界に復帰することも決まらず、又は今後の身の振り方、例えばテレビ解説者になることも、又コーチになることも決まっていない時、つまり中途半端の時に、突然の引退発表会見なのである。将来の不安が残るはずなのに、松井選手の会見での表情を見ていると、あたかも将来が約束されているような安心感と、引退のプレッシャーから解放された安堵感が見え、リラックスした気分で、時には微笑みを浮かべ、丁寧な言葉で、慎重に言葉を選びながら記者の質問に答えていた。
他のプロ野球で活躍した選手が引退会見をした時も、見たことがあるが、同様に選手時代の練習の厳しさや実戦のプレッシャーから解放された安心感は誰もが表情として持っていたが、この人達は引退するに当たり、コーチや野球解説者の職が決まっていることが多く、その就職できた安堵感も含んで、さばさばした気持を表わし、引退の記者会見の質問に答えていたものだ。
しかし、松井選手の引退会見を見ていると、まだ今後の就職先も決定していないのに、そして、現役にも未練があったにも拘らず、満足した表情と微笑みを浮かべ、言葉を意識して丁寧にし、記者の質問に対して、随所に言葉を慎重に選び、優等生の答えをしていた。その答え方もあらかじめ用意して置いたかのような不自然さがあった。メジャー=リーグに移籍後の松井秀喜は、初めの数年間は記者によってインタビューを受けるときは、アメリカ人記者に対しても、日本に於けるような、言葉を選び、都合の悪いことは避け、当たり触りのない言葉で応答していたが、とりわけ日本人の記者に対しては優等生の応答をしていた。これは日本の社会では、思ったことをハッキリ言えば、「アイツは態度が悪い」とか、「アイツは選手の資質が欠ける」とか、「良識が欠けている」とか悪者にされるので、思ったことを控え、体裁のいい言葉を選んで遠慮ぎみな言い回し、つまりタテマエを言わなければならない。とりわけ地位のある人は、立場に合わせたそつのない言葉使いをしなければいけない。野球選手も例外ではない。
このような日本の習慣により、思い切り意見を言えない日本で、プロ野球選手はフロントから、相手の顔色を窺い、記者の質問に当たり触りのない言葉で対応し、「アイツはこう言った」と非難されないような受け答えをするよう指導を受けている。 松井選手も例外でなく、巨人にいた時やヤンキースの初めの数年は、アメリカ人記者にも日本人記者にも慎重に控え目な言葉で取材に応答していたが、ある時、ミーティングでヤンキースの監督に「監督に対して欠点を言って見ろ」と言われ、恐る恐る批判的に言ったら、「うん、参考になったよ」と言われ、安堵した。その際、松井は日本人記者に「こんなことを巨人で言ったら、監督批判の罰で百万円以上の罰金だよ」とコメントしていた。その後、上腕部を骨折した後、アメリカでは十分な言論、思ったことをズバリ正直に、気配りせずに記者のインタビューに答える習慣に慣れたのか、松井選手は日本人の記者の取材を受ける時、ゴジラらしいドスの効いた声で、かなりズケッとした言葉で受け答えしていた。
ところが、引退会見の松井選手の記者を前にした応答は、言葉使いに気を付け、笑みを浮かべ、満足そうにした微笑さえも出た優等生会見であった。この松井選手の引退の裏側には、渡辺恒雄オーナーの影が見え、巨人との密約が存在するように見える。
その根拠として、引退会見で、記者の「野球人生での一番の思い出は何か」という問いに、「巨人に入団した時に、長嶋監督につきっきりでバットを一緒に振ってもらい、指導してもらったことです」という言葉が出たことだ。他の野球選手の引退会見を見た限り、殆どの選手が初めてホームランを打ったこととか、タイトルを取った時とかを一番の思い出としていた。松井にも初めてホームランを打った時とか、ワールドシリーズでMVPを取ったとか、戦績の思い出があるはずである。しかし、敢えて入団時の長嶋監督とのことを一番の想い出として挙げた。この言葉の裏側には、巨人との密約が存在するように思われる。それも渡辺恒雄オーナーとの水面下に於ける交渉により、将来巨人の監督にするという内容があり、松井秀喜は日本での復帰し、どこかの球団でプレーする意志もあったのだが、すんなりと引き際、時期を選び、十二月の引退会見となったのだ。記者会見を行った松井の美学ともとられていたのだ。
渡辺恒雄、巨人オーナーにとって、松井秀喜を巨人に生え抜き監督として迎えなければいけない事情があった。現在の原監督で、平成二十四年現在、ここ数年優勝したりして実績も残し、順調であるにもかかわらず、かつての巨人人気も陰り、テレビの視聴率も上がらず、ゴールデンタイムの巨人戦の放送も、BS日本テレビでかろうじてやっている有様である。そこで何か巨人人気を回復する方法を考えなければならない。また数年後の原辰徳監督の後釜についても、そろそろ考えなければならない。そこで、次期監督候補として、この渡辺恒雄オーナーの条件に叶ったのが、巨人より格上のメジャー=リーグの名門ヤンキースでそこそこの活躍をし、ワールド=シリーズでもMVPを取った名声のある松井秀喜だったのだ。
一方、松井選手にとっては、あくまでメジャー復帰をめざしていることを前提に、ダイヤモンド=バックスを契約解除された後、選手活躍を続けたい未練があったのが、メジャー復帰は難しいので当然、水面下では日本のプロ野球球団と交渉していたことは間違いないだろう。
スポーツ紙の報道では、松井選手の阪神タイガース入りが進展しつつあった。これは、松井選手にとっては自分の方からは巨人へ選手として復帰したいとは言えない。それは巨人からヤンキースへ移籍した時、渡辺恒雄オーナーがあくまでも巨人に留まる意向で、「松井君は巨人で永久にプレーしてくれることを信じている」と言っていたのに、それに耳を傾けず、ヤンキースへ入団したのだ。しかし、あくまで渡辺オーナーの恩情があったので、対立というほどではないが、巨人の意向を無視して出て行った形でヤンキース入りしたのである。
一方、巨人、渡辺オーナーとしても、「出て行った」形の松井を、体面上、面子上、「帰ってこいよ」とは表面的には言えない。そこで阪神が松井を取ろうとし、その人気で阪神タイガースのブームを作り上げようとしたのである。衰えたと言っても、両膝を手術した今の松井でも打率三割、二十五本塁打は可能だと言われている。守備はあまり動かないファーストを守らせれば良い。メジャーの名声のある松井が阪神に入ることは、阪神にとって至福である。とりわけ対巨人で打ってくれることは阪神ファンを熱狂させるからだ。
松井の阪神入りとそこでの活躍を一番恐れ、忌み嫌っているのが、巨人の渡辺恒雄オーナーである。言うまでも無く、阪神の選手として巨人戦で巨人出身のメジャーリーガー松井に猛打され、伝統の一戦で敗戦に追い込まれたら、巨人は大変な屈辱を受ける。「ゴジラ松井」にジャイアンツが破壊されるようなものだ。たまったものではない。
さらに、松井が阪神でプレーすることは、将来の巨人の監督になる条件、資格を失うことになるのだ。つまり、巨人、ヤンキースと栄光のある松井にとって、国内の他球団阪神でプレーすることで、巨人の生え抜き監督候補としてキズ物になるのだ。巨人には創設期から現在まで、監督になる条件として厳然とした不文律がある。巨人の監督になる人物は、巨人の生え抜きの大選手でなければならないというものだ。生え抜きであっても、成績が低かったり、地味で守備の人も巨人の監督になれない。人気が上がらないからだ。そして大選手であっても、他球団にトレードされた選手や他球団でコーチ、監督をやった者は巨人の監督になれない。プロ野球の創設球団で球界の盟主、巨人の聖なる空気を他球団の汚れた空気を吸った者に汚されてはならないからだ。過去に古くは他球団に移籍したスタルヒン、呉昌征、千葉茂、南海出身だが生え抜き扱いだった別所毅彦、そして最近では森祇晶、広岡達朗、高田繁、高橋一三、中畑清、西本聖、駒田徳広などは他球団でプレーしたりコーチや監督をしたので、巨人ではコーチにはなれるが監督になれない。江川卓も入退団で問題を起し、阪神からトレードされたので監督になれない。例外は昭和五十年、秋山登監督下で大洋の投手、コーチをした藤田元司だけだ。
また、他球団で監督をした者でも、巨人はコーチにしかしない。これは他球団で監督をした者を巨人生え抜きの監督の下に従え、球界の盟主巨人の監督は他球団の監督より上であることを示しているからだ。山内和弘、中西太、武上四郎などは、この例である。
しかし、他球団出身の者も考慮に入れたことはある。王監督の後の古葉竹識、横浜大洋ホエールズの監督に就任する前の須藤豊、そして堀内恒夫の後任に星野仙一が監督として候補に上ったことがある。適任者が生え抜きに見当らない時にちょっと考慮された。
巨人の大物選手が他球団でプレーしたと言っても、日本より格上のメジャー=リーグは別である。松井の場合、名門ヤンキースでの実績があるので、巨人の監督にはうってつけである。かって渡辺恒雄オーナーは記者の質問に、「イチローや野茂は将来巨人の監督にしますか」の質問に、「それは考えるな。但し、高橋由伸の後が良いな」と言明している。メジャーでの大選手ならば、日本の他球団出身者でも巨人の監督にするということだ。
そこで渡辺オーナーは、松井選手が阪神タイガース入団へ動いていたのを阻止すべく、水面下で交渉したのだ。先述のように巨人を出て行った松井選手に渡辺オーナーの方からは声を掛けられない。そこで公私で親しく松井選手に近く、脳梗塞を患った後も、メジャー=リーグへ行っても電話などでアドバイスをしていた長嶋茂雄氏を仲介させ、まだ阪神でプレーをする意欲があった松井に、選手を続けることを断念させ、引退させる見返りに将来の巨人の監督を保証する密約を与えたのではないだろうか。実力の低下した松井は、巨人では選手として使えないからだ。
かつて渡辺恒雄オーナーは、長嶋監督がやめる時にもこれと同じようなことをしている。長嶋氏を永久にジャイアンツの職員である球団重役待遇の終身名誉監督にしておいたのだ。これは渡辺オーナーが、引退後、自由の身になった超人気のある長嶋氏に他球団、とりわけセリーグの球団でライバルの阪神タイガースの監督になられるのを一番嫌がったのだ。それゆえ、丁度犬が逃げられないように鎖でつないでおくように、長嶋氏を永久職員として巨人に縛りつけておいたのだ。後に長嶋氏は脳梗塞で倒れたが、もしこの時だったら終身名誉監督にしなかっただろう。健康上、阪神など他球団で監督はやれないからだ。
巨人サイドで、長嶋氏を介して渡辺オーナーに将来の巨人の監督のポストを密かに約束された松井選手は、きっぱりと現役続行をあきらめ、巨人側が設定したであろう良いタイミングで、十二月を選び、引退会見をしたのだ。会見での松井の表情は晴れ晴れとし、満足した表情で笑みを浮かべ、言葉を選び、優等生の言葉使いで記者の質問に答えていたのだ。そして、「松井選手にとって野球人生で一番の思い出は何か」と聞かれた答えとして、巨人やヤンキースでの活躍を胸にしまいつつ、「巨人に入団した時に長嶋さんにつきっきりで、バットを振ってもらった」ことを記者に答えたのも、将来の巨人での監督を約束すべく渡辺オーナーに密かに仲介してくれた長嶋茂雄氏に恩を感じ、感謝の気持を表わしたものと推察される。