ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

世代交代

 「みどりの日」(五月四日・火曜日)の夜明けにあっては、のどかに明るい陽射しがふりそそいでいる。書きたい文章のネタなく、私は仕方なく実の無いいたずら書き始めている。
 さて、ありふれた簡単明瞭な言葉であっても、それぞれには重たい意味を含んでいる。たとえば、単なる机上言葉とも言える「世代交代」は、命の入れ替わりという厳かな意味合いを含んでいる。すなわち、これまでの命はみな尽き果て、次代の世になりかわる言葉である。重ねて言えばそれには、それまでの人の命がみな尽き果てるという、厳粛さが存在する。
 わが目覚めはいつも、ふと浮んだ言葉のおさらいや、再考察どきにある。今朝の目覚めどきには、世代交代という言葉が浮かんでいた。なぜ、浮かんだのかはかわからない。強いて因(もと)をめぐらせば、わが年齢(八十歳)が世代交代の時期にさしかかっているせいなのかもしれない。あるいは、新型コロナウイルスの発生以降、感染者や死亡者の年
 齢区分をほぼ毎日、いやおうなく見せつけられているせいなのかもしれない。確かに、年齢区分一覧表を見遣れば、わが年代は世代交代の狭間(はざま)というより、れっきとしたところに位置している。年齢区分上位には、九十歳もあるにはある。しかし、実際のところは付け足しとも思えるほどに、私にはまぼろしの感をぬぐえない。やはりわが年代こそ狭間というより、世代交代の真っただ中にある。
 世代交代という、言葉の意味がいや増すこの頃である。老いてなお矍鑠(かくしゃく)たる御仁(ごじん)には、わが不徳を詫びるところである。わが目覚めどきには単なる言葉遊び、いや身に染みて、言葉の重みをめぐらしている。確かに、書くネタのないときには、「三十六計逃げるに如(し)かず」である。なさけなくも、きょうはその証しである。

憲法記念日

 朝日の輝きさやかに、「憲法記念日」(五月三日・月曜日)の夜明けが訪れている。しかしながらわが気分は、晴れない。いや、晴れようがない。就寝時にあって私は、頭部の一部に痛みと違和感をおぼえていた。脳の病の前触れかなと? と、いくらか驚いた。ところが目覚めてみると、幸いにもこの現象は去っていた。それでも寝起きの私は、憂鬱気分まみれにある。憂鬱気分をもたらしているのは、日本社会に渦巻く新型コロナウイルスにかかわる社会現象である。なかんずく、日々加速度的に伝えられてくる医療崩壊の恐怖である。
 実際のところ私は、医療現場の崩れ様など、まったく知るよしない。それでも、テレビ映像などからもたらされる恐怖(心)は身に染みて、日々いっそうつのるばかりである。これまでの日本社会にあっては、病に罹れば病医院へ駆け込めるという、安心感が根づいてきた。ところが、現下の日本社会にあっては、新型コロナウイルスと感染の拡がりのせいで、現在この安心感が閉ざされている。そのことによる恐怖(心)は、もはや想像するに余りある。この恐怖(心)は人間だれのせいでもなく、もちろん新型コロナウイルスのせいである。だから、余計抗(あらが)う手立て無く、日本社会にかぎらず人間社会は、苦難を強いられている。いや苦難では言葉足らずで、実際には感染者と死亡者を世界中、あまねく累増させている。ところが人間は浅ましく、罪(対策の不備)のなすりあいや、ののしり合いなどが、いっこうに止まないところがある。
 憂鬱気分に輪をかけて目下の日本社会は、いっそう濁り水状態に陥りつつある。これから抜け出すには、一筋縄ではいかない。一年経っても人間社会は、魔界の異物すなわち新型コロナウイルスのさらなる蔓延状態にある。人間躍動の季節、加えて日本社会は、大型連休真っただ中にある。ところが私は、身を絞るような文章を書いた。いや、おのずから書かずにはおれなかった。ほとほと、なさけない。休むつもりで起き出し、そして書き出した文章は、生煮えどころか少しも煮立たず、結びとするものである。「休めばよかった」と、悔いるところがある。新型コロナウイルスのせいで、憲法記念日は色あせている。

初夏と大型連休、しかし……

 月が替わって五月一日(土曜日)、もう晩春とは言えなく、明らかに初夏の季節である。朝日の輝きには「晩」という暗さは微塵もなく、明るくさわやかな夜明けが訪れている。窓ガラスに垂れるカーテンを開ければ、目先の山は緑色に映えている。
 春から夏へと季節替わりを告げる確かな証しは、「立夏」(五月五日・水曜日)を記して、今週半ばに訪れる。カレンダーにはきょうからその日まで、三日の赤字の祝祭日が記されている。すなわち、憲法記念日(三日・月曜日)、「みどりの日」(四日・火曜日)、そして「こどもの日」(五日・水曜日、立夏)である。あすの日曜日(二日)を挟んで今週は、まさしく五日間の連続休暇の訪れにある。日本社会はこれに先立って、過ぎた「昭和の日」(四月二十九日・木曜日)から、すでに大型連休すなわちゴールデンウイークに入っている。頃は良し、海・山賛歌の季節真っただ中でもある。連休や好季節に応じて多くの国民は、物見遊山の楽しみに耽るときでもある。
 ところがこんな好機会にあって、去年と今年のゴールデンウイーク共に、邪魔者が人々の行楽の足に通せんぼをしている。それは言わずと知れた、憎さ百倍の新型コロナウイルスの妨害である。こんなに朝日が輝き、自然謳歌あふれるなかで、足止めの呼称「ステイホーム」を食らっている国民は、恨みつらみ満タンである。つくづくもったいない、初夏の朝日の輝きである。
 今朝はステイホームの呼びかけに甘んじて呼応し、普段にも増して見知らぬ散歩めぐりの人たちが多そうである。そうであれば私は、大慌てで周回道路の掃除へ向かわざるを得ない。年じゅうステイホームを強いられているわがささやかな「おもてなし」である。このことを口実にして、実の無い文章の結文とするところである。
 私にはまったく代わり映えしないけれど、世の中の人たちが待ち望んできた大型連休の訪れである。「ちくしょう、新型コロナウイルスめ!」。煌煌と照る朝日の輝き、「もったいない、もったいない!」。

大型連休、「生きています」

 四月三十日(金曜日)、目覚めてすぐに起き出して来た。現在のデジタル時刻は、5:32と表示されている。しかし、慌てる気分は遠のいている。それは、開き直りをみずからに課しているためである。きのう、一日じゅう降り続けていた雨は止んで、朝日が明るく大気を照らしている。うっかりしていたけれどきのうは、「昭和の日」という祝祭日だった。
 早やはや日本社会にあっては、きのうからゴールデンウイークという、心地良いひびきのする大型連休に入っている。こんな甘い言葉と習わしを忘れるようでは、もはや私は、朴念仁(ぼくねんじん)の世捨て人へと、成り下がっている。そのせいか、「バカは死ななきゃ治らない」という成句が、にわかに心中に浮かんでいる。
 現在のわが脳髄は、まったく文章のネタのかけらもない空っぽである。パソコンを起ち上げて書こうと決めたのは、生きている証しにすぎない。実際のところそれには、一行だけでも書こうと、決意したにすぎない。なぜなら高齢の身には、おのずからあすも生きているという保証はない。ところが、すでに一行は超えている。しかし、こんな身も蓋もない文章を書くようでは、すでに死んだも同然の「生きる屍(しかばね)」状態に変わりない。「嗚呼、なさけなや、なさけなや!」。現在のわが心地である。
 振り返れば、一年経ってもまったく代わり映えのしない、現在のわが心境である。大型連休などわが身にはまったく無縁であり、もちろん夢見る気分はさらさらない。老齢の身であれば十分に予知していた、一年めぐり後のわが心境である。ところが、例年であれば変転きわまりない日本社会にあっても、まるで映し絵を見ているような一年めぐりの実相にある。それをもたらしているのは、一年経っても衰えず止まらない、新型コロナウイルスのせいである。確かに、私にはなんら代わり映えしない大型連休である。
 ところがびっくり仰天、大型連休が去れば私には、文字どおり一つの大きな決断と、それによる実践行動が待ち受けている。それは、すでに鎌倉市の行政から届いている新型コロナウイルスに抗(あらが)う、ワクチンの予約開始への対応である。実際には五月十日から始まる、市民一斉の予約行動である。接種の優先順位は、高齢者が先駆けとなっている。するとああ無念、わが身はこの範疇にカウントされている。すでに、まるで赤ちゃんに教え導くかのような懇切丁寧な実施要項が届けられている。それでもなお分かりづらいのは、たぶんわが老い耄(ぼ)れのせいであろう。こんなにも税金と手間暇をかけて、私にはこの先へ命を繋ぐ価値があるであろうか。いやいや自分自身、価値があるとは思えない。だからと言って、「ありがた迷惑」と嘯(うそぶ)けば、わが身が廃(すた)ることとなる。
 確かにこれまでの私は、躊躇(ちゅうちょ)なく右の上腕にブスッと、注射針を突き刺されることを心待ちにしていた。ところが現在の私には、かなりの躊躇(ためら)い心がフツフツと沸いている。それはわが身に、接種するほどの価値があるやいなやへの疑念である。それでも結局、接種に向かわざるを得ないと思うのは自分が罹り、人様へうつしてはならないという、世のため、人のためでもある。
 大型連休の朝日の陽射しは、憎たらしいほどに明るくさわやかである。生きている証しの文章は、単なる書きの書き殴りである。わが身を恥じて、平に御免こうむりたいものである。

寝起きの戯言(ざれごと)

 横文字やきらびやかな言葉の多用は、確かに多能や多才の証しにはなろう。しかしながら半面、頼りない才能の見せびらかしにも思えてくる。実際、時と場合においては、緊張感をともなわない実の無い言葉になり下がる。たとえ簡易な日常語であっても、分かり易い言葉がイの一番である。できれば用意周到にあずかり、「寸鉄人を刺す」言葉に出遭えば、素直に応じたくなる。
 こんな柄でもないことを浮かべて書いているのは、指示・命令あるいは要請として、突如「人流(じんりゅう)」という、言葉が多用されているせいである。わがケチな考察をめぐらせばこの言葉は、行為や行動の抑制を求めるには、はなはだ緊張感に欠けるものに思えている。確かに私は、この言葉を聞いて呆気にとられていた。挙句に、ことの趣旨をわが言葉で言い換えてみた。「今は人の流れを止めて、出会いの楽しみをしばらく我慢しましょう。コロナを止めるには、これしかありません」。私にすれば「人流」では、行動抑制の真髄からかけ離れた、緊張感をともなわない言葉に思えたのである。
 見出し語に無いことは承知の助であえて私は、電子辞書を開いた。案の定、「人流」という言葉(熟語)はない。もちろん、「人の流れ」で十分である。いやこの場合は、「人の流れを止めましょう」こそ真髄となり、私はおのずからその言葉に従いたくなる。横文字の多用もまた、必ずしもピッタシカンカンとくるものでもない。
 古来、日本社会にあってはいまだに廃れることのない、日本人にふさわしい秀逸な日本語がたくさんある。これらの言葉の中から時と場合に応じて、最もふさわしい言葉を用いられてこそ、私は使用者の多能と多才ぶりを称賛したくなる。わがへそ曲がりの証しであろう。
 四月二十九日(木曜日)、久しぶりの早起きによる寝ぼけまなこと、脳髄の空っぽのせいで、わがお里の知れる戯言(ざれごと)を垂れたようである。これまた、久しぶりの雨の夜明けである。

わが疲れ癒しの処方箋

 猫の額にも満たない庭中にあってこのところの私は、百円ショップで買い求めたプラ製の腰掛に座る日が続いている。この主目的は、イタチごっことも思える、雑草取りのためである。ところが、主目的変じて腰掛に座れば逆に、私は雑草に憂鬱気分を癒されている。確かに、無心に雑草と向き合えば心が癒される。ときには地中のミミズが指先に当たり地上に現れて、ミミズ特有に身をくねくねと伸縮させて、大慌てで這いずり逃げ回る。「逃げなくてもいいよ、ミミズさん。今のぼくは、決してあなたを捕らないし、捕る必要もない。子どもの頃の罪滅ぼしに、日光で干からびないように、ホラ、土を掛けてやるよ!」。
 ミミズ捕りは、子どもの頃のわが日常で定番をなしていた。わが家の裏に流れている「内田川」へ、魚釣りに向かうにあっては釣り餌に、ミミズは欠かせなかったのである。もちろん私だけでなく遊び仲間のみんなが、テグスに釣り針を着けてミミズを餌にして水中に垂らしていた。私はミミズを犠牲にして雑魚(ざこ)を釣り、わが家は晩御飯の御数の一部を賄っていた。ミミズのおかげで私は、子どもながらに家事手伝いの真似事にありついていたのである。
 さて、庭中の草取りにあって私は、雑草には憂鬱気分を癒され、ミミズには深く懺悔(ざんげ)し、そして真打のウグイスにはいたく励まされている。人間界からこうむる疲れの癒しにあって、このところの私は、万能薬を凌いで庭中の腰掛に託している。雑草の中には、名を知らない草花がチラホラと入りまじっている。するとこれらはいっとき、目の保養を恵んでいる。雑草呼ばわりするにはしのびない。穏やかにふりそそぐ日光の恩恵、さらに輪をかけている。頃は良し、自然界の恩恵は底無しである。このところのわが憂鬱気分の癒しには、私は自然界のもたらすコラボレーション(協奏)にすがりきっている。
 遅まきながら私は、ガラケーからスマホへと、変えた。案の定、その操作に梃子摺り、このところのわが心身は疲れ切っている。その癒しのために庭中の草取りは、薬剤に頼らない無償の処方箋をなしている。言わずもがなのことだけど、天変地異さえ無ければ自然界の恵みははかり知れないものがある。このところの私は、その恵みに浸りきっている。
 四月二十八日(水曜日)、きょうもまた夜明けにおける飽きないわが自然賛歌である。援軍を率いるウグイスは、朝っぱら持ち前の高音(たかね)をさわやかに奏(かな)でている。きょうもまた私は、庭中の腰掛に腰を下ろしそうである。会話無しにひたすら黙然とするだけだから、鬱陶しいマスクはまったくの用無しである。

途中経過の悲しみ

 これまでの私は、意識して新型コロナウイルスにかかわることは、できるだけ書くまいと、肝に銘じてきた。なぜなら、このことにかかわることを書き連ねれば、気分の晴れることはない。
 人類社会は、今なお収束の見えない新型コロナウイルスとの戦いのさ中にある。止まない物事には、途中経過という過程がある。そしてそれは、節目ふしめに伝えられてくる。以下に引用する記事は、新型コロナウイルスにかかわる日本国内事情における、いまだ途中経過と言えるものである。はなはだ、残念無念である。引用記事は、全体からの一部抜粋である。
 【国内のコロナ死者1万人超 増加ペース加速、昨年12月以降が8割】(4/26・月曜日、21:21配信 毎日新聞)。「新型コロナウイルスによる国内の死者は26日、毎日新聞の集計で1万24人となり、累計1万人を超えた。前日から35人増えた。死者の増加ペースは加速する傾向にあり、感染『第3波』が深刻化した昨年12月以降の死者が約8割を占めている。一方で重症者は898人に上り、1カ月でほぼ3倍に。重症化しやすいとされる変異株がさらに死者を増加させる恐れもあり、予断を許さない。国内では、2020年2月13日に神奈川県の80代女性が亡くなり、初の死者となった。5カ月後の7月20日に1000人に達し、さらに4カ月後の11月22日に2000人を突破した。その後は増加ペースに拍車がかかる。『第3波』に入り、3000人に達したのは1カ月後の12月22日。1カ月後の今年1月23日に5000人、2月15日には7000人に達した。国内で初めて死者が確認されてから1年足らずで5000人に達し、そこから3カ月で死者は倍増した格好だ」。
 わが日暮らしに暗雲をもたらしていることゆえに虚しくも、気に留めて引用せざるを得ない。これには、いまだに途中経過にすぎないという、悲しさつきまとっている。そしてこれには、自然界の恵む長閑(のどか)な朝ぼらけが悲しさを増幅させている。

延長戦続く、新型コロナウイルスとの闘い

 どこまで続く、泥濘(ぬかるみ)ぞ! 人間社会の穏やかな日常が、始末に負えない新型コロナウイルスのせいで、日々砕けてゆく。東京都、京都府、大阪府、兵庫県の四自治体は、きょう(四月二十五日・日曜日)から、三回目となる「緊急事態宣言」の開始となる。期間は、来月・五月十一日(火曜日)までの十七日間という。設定理由は、第四波と言われているぶり返しに抗しきれなく、短期間で勢いを止めるためだという。
 この間における日本社会にあっては、大型連休がある。そのため政府や自治体には、この連休期間に便乗して、人の移動を抑え込みたい意図がある。なぜなら、大型連休にあって無策を決め込めば、人の物見遊山にともなう、新型コロナウイルスのさらなるまき散らしが懸念されるためである。
 確かに、新型コロナウイルスの蔓延を抑え込むには、国民は行動の自粛を強いられても、我慢するより仕方ないところがある。しかし、年に一度の大型連休を楽しみにしている人たちにすれば、我慢しきれない思いがあろう。このことでは不意打ちを食らった、我慢くらべをこうむることとなる。
 わが現住する神奈川県は、今回はこの宣言から外れている。しかしながら、我慢比べを強いられることでは、もちろんこれらの自治体と同類項にある。ときあたかも自然界は、一年じゅうで最も好季節を恵んでいる。もとよりそれを当てにして日本社会は、官民こぞって大型連休を仕組んでいる。ところが新型コロナウイルスは、まるで日本社会のこの期間の営みや享楽を妬(ねた)むかのように、さらなる感染力を日本列島に蔓延(はびこ)らせている。
 さて、わが身体におけるワクチンの接種予約開始は、五月十日からと鎌倉市の公報で告げられている。同時に、二度にわたる接種会場間の往復の用立てとして、無料のタクシー券(四枚)が送られてきている。関係者の多忙と苦悩をおもんぱかれば、私は生来のへそ曲がりを矯(た)めて、素直に応じるつもりでいる。だから、なんとしてもそれまでは行動の自粛、いや蟄居生活(ちっきょせいかつ)に甘んじも感染を免れて、晴れてワクチン注射針を右肩に、ブスッと刺す心構えを固めている。
 今朝もまた、すでに朝日が煌々とふりそそいでいる。わが自然賛歌は尽きない。もちろん、新型コロナウイルスは自然界の範疇(はんちゅう)には入らず、人間社会を無法に懲らしめる異界の魔物、なかんずくとびっきりの悪魔である。そうであれば人間の知恵で、新型ウイルスに負けてはならない。私もその決意を固めている。しかし、負けそうである。

夜明けは、いつもの好天気

 四月二十四日(土曜日)、今朝もまた遅い起き出しである。いつもであれば文尾に書いている朝日の模様を、きょうは冒頭に書いてみる。似たり寄ったりの文章に、姑息な手段で変化をもたらすためである。
 夜明けの空は、すでに朝日に明るく染まり、大気と地上は透明感のあるのどかな風景を醸している。開けっぴろげの前面の窓ガラスを通して見える、晩春いや初夏間近の清々しい朝の一コマである。いつもこんなことばかりを書いては、もちろん埒が明かない。それでも一つだけ言えることは、このところの夜明けが胸の透く証しにはなる。現在の私には、これを凌ぐおもてなしはない。
 これまたいつもの常套句を用いれば、自然賛歌は尽きない。こんなにも長く、穏やかな朝日が続くことは滅多にない。まさしく、人間界が新型コロナウイルスに滅多打ちにあっていることおもんぱかっての、自然界の飛びっきりの癒しのおもてなしと、言えそうである。かつての「ありがたや節」を借りれば、「ああ、ありがたや、ありがたや!」と、口ずさみたくなる。
 確かに、起き出しは遅くなったけれど、目覚めは早かった。そして、寝起きまでは文字どおり寝床に寝そべり、電子辞書を枕元の友にしていた。寝起きの気分は悪くない。しかし、そのため身体は疲れ切っている。ところが、いつもとはちがって自業自得の疲れとは言えない。なぜなら、わが承知の助の疲れだからである。
 こんな身も蓋もないことを書いてトンずらしたら、わが身はなさけない。それを承知で私は、結び文と決めた。ほとほと、かたじけない。「男子、厨房に入るべからず」の成句は、現代社会には通用しない。台所に向かうのは、わがささやかな朝の営みである。

「生きるために食べている」

 四月二十三日(金曜日)、こんな書き出しはどうでもいいことだけれど、今朝の私は「おさんどん」を先に済まして、階段を上がってきた。このことではこのところ続いていた寝坊助による心の焦りはなく、ゆったりとした気分には、ほんのりと余裕さえ感じている。
 階段を一歩一歩のんびりと踏みながら私は、大それたことと、とるに足らないこと、すなわち二つのことを心中にめぐらしていた。前者は、世界社会に悲壮きわまりない難事をもたらしている新型コロナウイルスは、この先、いつ打ち止めとなるであろうかと、いうことである。一方後者は、現在のわが日暮らしから生じている、長年のわが考察における小さな結論である。
 人間は「生きるために食べるのか」、それとも真逆に「食べるために生きるのか」。これは卑近なところで、これまで永遠に軍配を下ろしようのないわがケチな考察の一つと、言えるものだった。ところが、「案ずるより産むがやすし」の成句に準じて、私はあっさりと軍配を下したのである。結局、人間いや私は、「生きるために食べている」と、判定を下したのである。この判定の依拠するところはずばり、わが「おさんどん」である。すなわち、怠けてこの行為が沙汰止みになれば、妻共々にわが家の日暮らしは途切れて、その挙句私たちは、この先を生き続けることはできない。ちっちゃなわが体験によって私は、不意打ち的に長年のわが考察に判定を下したのである。そしてそれは、きわめて下種(げす)な結論だった。
 私は、確かに「生きるために食べている」、と悟ったのである。いやいや、まだ「食べるために生きている」という、思いも引きずっている。だからやはり、今ではまだどっちつかずのわが永遠のテーマと、言えるのかもしれない。それでも結論は、いくらか「生きるために食べている」のほうへ傾いている。
 寝起きの心に焦りがあろうと余裕があろうと、文章の出来は、おっつかっつである。幸いなるかな! 近くの山から、私を「馬鹿」呼ばわりするカラスの鳴き声はない。「早起き鶏(どり)」に代わって、ウグイスが朝鳴きを続けている。もちろんウグイスはカラスとはちがって、私を馬鹿呼ばわりなどせずに、わが寝起きの気分を癒してくれている。いやいや、そう思いたい!。
 朝日は、今朝もまた煌々と照っている。わが自然賛歌は、尽きるところがない。私は、見得も外聞もなく餓鬼のように、ひたすら生き生き続けるために食べている。この先、生きる価値があるのかどうかは、「知らぬが仏(ほとけ)」である。それを知ったら、元も子もない。