ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

実りの秋、ふるさと原風景

 実りの秋にあって、脳裏に浮かぶふるさと原風景は、稲刈りから籾摺(もみず)りに至るまでの穫り入れ全風景である。この間にあって子どもの私は、すべてにかかわり家事労働の一役を任されていた。猫の手も借りたいほどのわが家にあっては、子どもとて私は十分すぎる働き手であった。
 稲刈りから籾摺り、すなわち新米の穫り入れは、私にとって実りの秋によみがえる、特等の懐かしいふるさと原風景である。当時のわが家は、農家に兼ねて水車を回し、精米所を生業(なりわい)にしていた。それゆえに私は、新米はもとより米全般へのこだわりには尋常でないものがある。精米所とはいえ精米にかぎらず、麦刈り、麦を精(しら)げること、そしてそれを粉にする(製粉)工程もまた、懐かしくよみがえる。
 しかしながら麦刈りは、初夏(五月ころ)のふるさと原風景である。それゆえに実りの秋から外れた、ふるさと原風景の一角(ひとかど)を成すものである。また、麦刈りから穫り入れまでの麦仕納(むぎじのう)は、米仕納(こめじのう)に比べれば、仕事量とそれにつきまとう感興や感慨には雲泥の差がある。
 実りの秋の感慨は、一頭地抜いて一入(ひとしお)である。稲仕納には稲刈り鎌、稲扱ぎ機、そして籾摺りには発動機が家族の人手と共に、大車輪の活動をした。半円まではないが曲がった稲刈り鎌は、子どものわが手にもなじんだ。稲扱ぎ機には、稲わらを丸めて長兄へ手渡す風景と、ジータン・バータンの音がよみがえる。籾摺りにおける発動機は自家用ではなく、馴染みの委託業者のものだった。この音は、耳を劈(つんざ)くほどの絶え間ないドウ・ドウだった。
 きのう(十月十六日・土曜日)の夜、甥っ子から手配を依頼していた今年度(令和三年)産、新米(三十キロ)が届いた。実りの秋にあって、真打のふるさと原風景がつのるばかりである。とめようなくよみがえるふるさと原風景だけれど、風邪をひいて頭重のせいで、尻切れトンボのままに結文とする。ふるさと産新米は、風邪薬をはるかに超えて、効果覿面の風邪退治になること請(う)け合いである。

冠の秋、実りの秋

 現在、自然界は四季にあって秋の季節である。私の場合、気候的には最も体に馴染んで快感をおぼえている。たぶん、たくさんの人たちもまた、秋を最も好まれるであろう。確かに、「天高く馬肥ゆる」秋は、凌ぎ易さに加えて文字どおり、食欲モリモリの秋でもある。食欲をそそがれることではずばり、「実りの秋」の恩恵にあずかっている。
 「冠の秋」の一つ実りの秋には、生産者および消費者共通に、喜悦が満ち溢れている。すなわち秋の季節には、みんなの悦びが充満している。四季のなかにあってこんな悦びは、おそらく秋が筆頭であろう。特に今年の秋は、台風シーズンと銘打たれているなかにあっても、小さな台風が一度だけ日本列島の限られた地方を襲っただけである。小さな被害はあったけれど、台風はおおむね大過なく過ぎ去った。そののち台風は、鳴りを潜めている。そのうえ、秋彼岸が過ぎても寒気の訪れはいまだなく、寒気はこの先へとずれ込んでいる。そして、ここ二日くらいには、秋本来の好天気が訪れている。季節は、まさしく秋快感の真っただ中にある。
 機を一にして新型コロナウイルスの感染恐怖は、かなり遠のいている。自然界はさわやかな秋をもたらしている。目下、ようやく人間界は、遅れてきたさまざまな「冠の秋」の喜悦に浸っている。恐れるのは、一語の慣用句を用いれば「好事魔多し」である。具体的には自然界および人間界共にかかわる「災いは忘れたころにやってくる」と、心すべきである。挙句、人が気を良くしてのほほんと過ごすことを警(いまし)める「油断大敵」にこそ、意を注がなければならない。
 現下の人間界で特筆すべきイベントは、選挙(衆議院議員)の季節である。ところがこちらには、冠の秋とは違っていっこうにワクワク感がない。結局、この季節にあってワクワク感をもたらすのは、自然界がさずけるさまざま恩恵である。それらのなかでピカイチは、食いしん坊の私の場合は、実りの秋がイの一番である。なかんずくそれは、新米と数々の秋の果物の出回りにありつけることである。
 実際にも私は、新型コロナウイルスにともなう行動自粛が緩和されて、買い物行が楽しくなっている。初動の蜜柑の買い物にあって私は、二キロ詰めの熊本蜜柑を買った。甘い蜜柑は、たったの250円の安さだった。これでは、ふるさとの生産者は嘆き、消費者の私は喜ぶばかりである。不断の特段のわがふるさと志向と郷愁は、かりそめの偽善だったのかもしれない。
 実りの秋にあずかっていることには、大きな台風の襲来がなかったことが、一役買っているのであろう。だからと言って、台風に「値段の折り合い」をつけて、とは言えない。私は生産者の嘆きをおもんぱかって、まるで餓鬼のように熊本蜜柑を食べ始めている。この先は、いっそうそうなるであろう。薄利多売に報いるふるさと心を露わにして、実際には安さを願う浅ましさを露わにしている。生産者と消費者の共利共生は、絵に描いた餅さながらである。十月十六日(土曜日)、雨の夜明けである。

魚心あれば水心

 十月十五日(金曜日)、時節は秋の夜長の走りにある。目覚めて、寝床の中でスマホ片手に仰向いて、二つの慣用句のおさらいを試みた。今さらおさらいをするまでもない、普段多用されるきわめて容易な日常語である。言うなれば、秋の夜長のいっときの時間潰しにすぎない。もっとましなことをすればいいけれど、せいぜいこれくらいが関の山である。
 一つは【溜飲が下がる】。「溜飲:不消化のため飲食物が胃に溜まって、喉に上がってくる酸っぱい液(胃液)。溜まらず、すっぽりと胃に落ちれば(下がれば)気分がすっきりする。不平、不満などが解消し、気分の晴れることをいう。類義語:胸のつかえがとれる」。一つは【魚心あれば水心(あり)】。
 「(魚に水と親しむ心があれば、水もそれに応じる心がある意から)、相手が好意を示せば、自分も相手に好意を示す気になる。相手の出方しだいで、こちらの応じ方が決まるということ。もとは、魚、心あれば、水、心あり。水心あれば魚心」。
 昨夜のナイターでは、タイガースが宿敵ジャイアンツに勝って、溜飲が下がった。確かに、今さらおさらいするまでもない、ごく短い時間潰しにすぎないものだった。この先の秋の夜長にあっては、いっそう気が揉めるところである。こんな時間潰しをするようでは、私はバカじゃなかろか! と、苛(さいな)まれている。

待ち望む、胸のすく秋晴れ

 きのう(十月十三日・水曜日)は、これまでの季節外れの暖かさを浮かべて、異常気象と書いた。もちろん、気象庁による公式なものではなく、わが体感に基づく当てずっぽうの考察にすぎないものである。当てずっぽうは半面、嘘っぱちに近似(きんじ)している。
 きょう(十月十四日・木曜日)、夜明け前の私は、まさしく当てずっぽうは当てにならないという、思いをたずさえている。なぜなら、言うも言ったりきのうから、季節に違(たが)わぬ寒気が訪れている。具体的には、のほほんとしていた肌身に寒気が沁みている。実際にも寒気に身構えて、就寝時の私は、冬布団を重ねた。いよいよ季節は、冬将軍の先駆けにある。
 確かに、これまでは寒気を感じず、それを嫌う私には、ありがたい異常気象と思えるところがあった。一方ではいまだに、好季節にふさわしいさわやかな秋晴れが遠のいていた。これまたわが当てずっぽうだけれど、秋天高い秋晴れは、いくらか冷気あるいは寒気をともなうものであろう。するとやはり、これまでは異常気象であったろう。異常気象をありがたく思うのはへんてこりんだけれど、へそ曲がりの私は、異常気象の快さに浸っていた。しかしながら、棚ぼたとも思えた異常気象は、きのうで打ち止めとなり、私は冬将軍の先駆けに心身共に、にわかに防御態勢を固め始めている。そうであれば仕方なく一方では、私はさわやかな秋晴れを望んでいる。嫌う寒気を感じて、もちろん願ったり叶ったりではないけれど、夜明けの空は、雨が上がってのどかな秋晴れの兆しにある。

異常と異変

 十月十三日(水曜日)、気候の良い十月も半ばに差し掛かる。これまで、気温は寒気をまったくおぼえない日が続いている。ところが、夜明け前にあって現在は、ちょっぴり肌身に寒気を感じている。しかし、十月半ばにあっては、異常とも言える高気温が続いてきた。いくらか寒気をおぼえるのは、きのうからきょうにかけて降り続いている雨のせいであろう。好季節にあって二日続きの雨は、ちょっとした異常気象であろう。
 気候の異変にかこつけてきょうは、プロ野球の異変とも思える記事を引用する。プロ野球は現在、セ・パ両リーグ共に、最終盤戦の最中にある。そして、両リーグ共に優勝争いは、熾烈を極めている。そんななかにあって優勝は、セ・リーグの場合は東京ヤクルトスワローズに、パ・リーグの場合はオリックス・バファローズに、ほぼ決まりそうである。こんな異変を起こしたのは、セ・リーグの場合は読売ジャイアンツが、パ・リーグの場合はソフトバンクホークスが、共に優勝を逸したからである。プロ野球にあって両チームは、常勝球団という名を馳せている。ところが、今シーズンにかぎれば両チームは、きのうかつ同日に優勝を逸したのである。プロ野球にかぎれば、まさしく異変と言うべき珍事だったのである。
 【巨人とソフトバンクが同日V消滅 昨季セ・パ王者が沈む】(10/12・火曜日、21:54配信 西日本スポーツ)。「パ・リーグ4位のソフトバンクは、札幌ドームで最下位の日本ハムに快勝した。わずかに残っている優勝の可能性をつなぐには、日本ハム戦で勝ち、同時刻のオリックス-ロッテ戦でオリックスが敗れるしかなかったが、オリックスが0-2の8回に追いつき、9回表を同点で終えて引き分け以上が確定。ソフトバンクは試合中に2連覇の可能性が消滅した。オリックスとロッテはそのまま引き分けた。一方、セ・リーグでは首位ヤクルトが5位中日に敗れて足踏み。2位阪神が3位巨人との接戦を制し、14年ぶりの対巨人シーズン勝ち越しを決めるとともに、ヤクルトに2ゲーム差に迫った。敗れた巨人は3連覇の可能性が消滅した。昨季セ・パ両リーグで優勝し、日本シリーズでも対戦した両チームが、今季は同日に両方ともV消滅という偶然に見舞われた」。

グルグルめぐる雑念

 いつものことだけれど一旦かかりだすと、歯医者通いは長丁場になる。来週(十月十九日・火曜日)にもまた、予約が入れられた。今回の場合は三か月検診ゆえに、気楽な通院ではある。それでも、来週を含めば三度の通院となる。三度目で打ち止めとなるのかどうかは、心もとない。来週で打ち止めとなっても三か月先には、また検診要請のはがきがくることとなる。こうなると年四回の検診は、命の終焉まで続くのであろうか。現在の私は、このことにとことん怯えている。疑心暗鬼まみれでもある。
 わが心中に蔓延る、確かな雑念である。半面、歯医者通いくらいで済めばいいけれど、という思いはある。なぜなら、身体にはいたるところで病が、出番を待って伏在している。顔面だけでもほかには、緑内障経過治療のために眼科医院への半年ごとの通院がある。そしてこちらは、すでにエンドレス確定にある。さらに、耳には難聴がわざわいし集音機を嵌めて、絶え間ない鬱陶しさに加えて、会話喪失の社会生活を脅かされている。これらのほか、目に見えない、あるいは知覚できない内臓の病は、万病としてひかえている。おのずからこちらにもまた、十二月に内視鏡検査が予約されている。幸いにして今のところは、大病あるいは不治の病の発症はない。いや、自己診断による病の症状はない。そうであっても、日々蝕まれてゆく身体現象は、さまざまなところで顕在している。まさしくわが身体は、加齢現象の真っただ中にある。
 私に限るものではなく人間ゆえと観念し、耐えて生き長らえている。幸か不幸か命にはエンドレスはなく、やがては打ち止めとなる。挙句、これらのこと、いやすべてのことから解き放される。そのときこそ案外、至上の幸福なのかもしれない。
 好季節、中秋半ば(十月十二日・火曜日)にあって、そぼふる雨の夜明けである。

タイガース、奮戦

 十月十日(日曜日)、今シーズン初めて、プロ野球のことを書いている。残りの試合数は、どの球団も十試合余りである。こんななか、わがファンとする阪神タイガースの優勝はほぼなく、二位確定で今シーズンを終えそうである。前半戦の好成績を見るかぎり、優勝を確信するときがあった。しかし、結局叶わず、尻切れトンボの憂き目にあっている。いや、尻切れトンボと言うには忍びなく、善戦という戦いは続けてきた。それでも優勝が遠のいたのは後半戦に入り、東京ヤクルトスワローズの快進撃のあおりを食っているせいである。優勝をほぼ手中に収めたスワローズは、憎たらしいというより賞賛すべきあっぱれな戦いぶりである。
 これに引き替えて、常勝球団を自任する読売ジャイアンツのこのところの急失速ぶりには、(なんでだろう)、と疑念たらたらのところがある。ジャイアンツは長年、「目の上のたん瘤(こぶ)」、いや悪性腫瘍とも思えるタイガースの宿敵である。だからと言って私は、ジャイアンツの失速ぶりを悦ぶほど、バカでも狭量でもない。むしろ現在は、「汝(なんじ)の敵を愛せよ」という、誇り高い心境にある。
 確かに、例年であればジャイアンツの強さは、ただ憎たらしいばかりである。しかしながら今シーズンにかぎれば、いっとき「同病、相哀れむ」の心境をたずさえている。残り試合にあってジャイアンツの奮起を促し三位にとどまり、共にクライマックスシリーズへの戦いを望むところである。書くネタなく目覚めて、こんなことを心中に浮かべていた。
 あす(十月十一日・月曜日)には、今年のドラフト(新人選択会議)が予定されている。有望選手を早々とジャイアンツに横取りされては、こんな殊勝な心持は消え去り、たちまち憎たらしい思いの復活となる。もちろん、「敵に塩を送る」心境など、雲散霧消である。文末にあって本音を書けばジャイアンツこけて、スワローズの優勝は快い気分である。それは、タイガースの優勝を凌ぐ快さでもある。やはり私は、「箸にも棒にもかからない」、狭量すなわちせこい人間である。
 かつての「体育の日」は、運動会日和の穏やかな夜明けである。時節はコロナも収まり、後れてきた秋たけなわのさ中にある。「嗚呼、めでたい」。タイガースこけて、かなり嘘っぱちの心境である。しかし、ジャイアンツを浮かべて、泣いてはいない。表題には「タイガース、奮戦」と、決めよう。

生存のかなしさ

 十月九日(土曜日)、余震にびくびくしながら一夜を過ごした。一晩だけど、幸い余震は免れた。しかしこの先には、なおビクビクが続いて行く。人間は生きているかぎり、常に何かにつけてびくびくしている。人間の生存にからみつく業(ごう)、すなわち、むなしさ、つらさ、かなしさ、おそろしさである。
 きのう、ふるさと電話のベルが鳴った。受話器を耳にあてると、後継者の甥っ子はこう伝えた。
「お父さんは、あしたが四十九日なもんで、坊さんに来てもらって、そのあと納骨をしますから……」
「そうだね。四十九日は数えていたからわかっている。納骨もあしたするんだね。行けなくてごめんね」
 今、周囲を竹藪に囲まれ、風の音をいっそう強める野末の丘に立つ、「前田家累代の墓」が彷彿と浮かんでいる。もはや、長兄の生存にたいし、びくびくすることはない。そのため、安らぎさえおぼえている。この先は、悲しさに耐えるのみである。それでも、日々ビクビクするよりはどんなにかいい。私は、独りよがりの身勝手な性(さが)にからみつかれている。唯一、人間らしい心情は、わが生存あるかぎり長兄を慕い続ける、尽きない悲しさである。

去就

 人気スポーツ、国内外のプロ野球界にあって今シーズンの話題は、大谷選手(エンゼルス)の活躍ぶりがひと際群を抜き続けた。その活躍ぶりは、一世紀前の数値さえをも呼び起こし、比較されて連日燦々たる称賛を浴び続けた。まさしく、国内外に轟く国際的スターの誕生であり、大谷選手は世紀を彩る名選手にその名を列ねたのである。
 大谷選手の活躍は、いくら称賛しても、しきれるものではない。この証しにはこの先、日本にとどまらず世界中の小さな野球ファンは大谷選手に憧れて、波打つごとく彼のようなプロ野球選手になることを夢見るであろう。もちろん、万々歳である。
 現在、プロ野球界は内外共に、来シーズンに向けて選手の去就のさ中にある。日本のプロ野球で言えば来週には(十月十一日・月曜日)には、今年度のドラフト(新人選択会議)が予定されている。会議とは名ばかりであり、実際のところはわが球団に欲しい選手の「クジ引き合戦」である。就活の一端をテレビで映し出すことには、私には必ずしも賛成できないものがある。しかし、主催者やメデイアにすればファン心理につけこんで、格好の視聴率や話題づくりとなっている。確かに、この光景を好む人たちがいるかぎり、非難するには野暮なところもある。私とて、野暮なかつぎ棒をかついでいる。
 どの球団にもおのずから、背に腹を変えられない必要悪とも言える定員管理がある。そのため、新人を選択して迎えるにあっては、それを前にしてほぼ同数の選手を解雇しなければならない。このことはプロ野球にかぎらずどの世界(業界)にでも見られる、職業選択(定員管理)にともなう厳しい掟である。
 プロ野球であれば人気スポーツゆえにほぼ連日、紙上に去りゆく人を表す「戦力外通告あるいは自由契約」の見出しの下に、それらの選手名が記されている。こうまでしなくてもいいと思うほどにそれは、寂しさが胸に詰まる記事でもある。確かに、栄枯盛衰は人の世の定めである。するとこの記事は、人生の厳しさとつらさを大っぴらに世間へ垂れ流し、それにたいする警鐘や教訓を含んでいるのであろうか。そうであればいくらか納得できるところはある。ところが実際には、そんな大義ではなさそうである。
 去就、すなわちかなしさ、うれしさ交々の人の世は、秋真っ盛りである。

生存の証し

 支流は大河に吸い込まれて姿を消す。大河は海に巻き込まれて姿を失くす。浮雲は大空に抱かれて、いつの間にか姿を隠す。私にかぎらずすべての人の命と心は、川の流れや浮雲のごとくに、絶えず揺れ動いている。言わずもがなのことだけど人の場合は、心模様の揺れや動きがピタリと止まったら、即「御陀仏」である。このことからすれば絶え間ない命と心の動きは、必要悪とも言える生存の証しである。実際のところその揺れぐあいは、ほとほと厄介である。
 こんどは私にかぎれば、その揺れに安寧を貪(むさぼ)ることは到底できず、これまた絶えずぐらぐらと揺れ動いている。寝床の中で、こんなことを浮かべていた。確かに、命と心すなわちわが人生には、焼きが回っているのかもしれない。それでも、幸か不幸か生存にありついている。そうであればせっかくたまわっている命であり、もっと生き長らえなければソンソン(損々)、いや大損である。自然界は絶好の秋の恵みの真っただ中にある。
 わがきょう(十月六日・水曜日)の行動予定には歯医者通いがある。よりにもよって予約時間は朝の九時である。夜が明ければ、ソワソワ気分で支度行動が待ち受けている。おのずから、急かされた心理状態では文章は書けない。そのため、目覚めるままに起き出して、書いてみた。すると、様にならないこんなみすぼらしい文章になってしまった。ただ言えることは、心は揺れ動いて、私は生きている(4:43)。
 ふだんはピンピンコロリを願っておきながら、歯医者へ通うことには虫が良すぎるほどに、私は自己矛盾のさ中にある。しかし、綺麗ごとだけでは生存は叶えられない。いや、人生とはどぶ川の流れみたいなものでもあり、たとえしばし澱(よど)んでも、決して流れを止めてはいけない定めにある。命と心の動きを止めたら、いやそれが止まったら、たちまちこの世とおさらばである。行き着くあの世にあってはたぶん、お釈迦様の説教(お招き)どおりの、住みよい極楽浄土などあるはずもない。確かに、命を惜しむ、歯医者通いである。だからと言って、「なさけない」とは言えない。なぜなら、歯の痛みには、命が削られる思いがある。命と心が揺れ動く、生存の証しは常に切ない。まもなく、夜が明ける。腕の脈拍は、間欠泉のごとく正常に動いている。