ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

戸惑いをおぼえた「東京行」

 きのう(十一月十三日・土曜日)は、次兄宅(東京都国分寺市内)へ向けて、久しぶりに電車に乗った。夜明けのころには強い寒気が訪れていた。そのぶん、出かけるころの大空には、満艦飾に日光が輝いて、またとないほどの初冬の好天気だった。その下でわが気分は、田舎者、お上りさん、はたまた浦島太郎のようだった。
 私は座席に腰を下ろして、車窓を通して移りゆく風景を眺めていた。皆々、初めて見ているような心地だった。それは、風景の変化にともなう驚嘆だった。換言すれば、都会の風景の変化の速さにたいする脅威でもあった。私は、車内の風景にも怯(おび)えていた。すなわち、若い人たちの目立つ中にあっては、もはや私は、過去の異物だ! と、思い知らされていたのである。いや内心、もうこの世には住んではいけないとも、思っていた。このことでは、電車に乗る前から怖気(おじけ)ついていた。その証しには往復共に、遠回りや時間はかかるけれど、座れそうな電車を待ったり、選んだりして乗車した。なぜなら、座っている人たちの前に近づけば、即座に席を譲られることを懸念して、それを回避することにわが意をそそいだのである。
 車窓の風景を眺めながらわが気分は、車内の案山子(かかし)のように無表情に委縮していた。日本社会にあってはコロナ禍の行動の自粛は緩和されたけれど、私の場合この先、外出行動の自粛いや自制は、いっそう強まりそうである。座席の私は、(もう一度だけでも、東京見物したいなあ……)と、思っていた。しかし、電車に乗ることを思えば、この切ない願いさえも果たせそうにない。私はスマホを見ることもなく、車外風景と車内風景を眺めながら、黙然と気迷っていた。車内の人たちは、盛んにスマホに興じていた。私は、通勤で通い慣れた「東京行」に戸惑いをおぼえていた。

心身震える、夜明け前

 人生晩年の日常生活は、こんなものだろうと、諦めきってはいる。しかし、悟りきってはいない。こんなものとは、息苦しい日常生活である。きょう(十一月十三日・土曜日)は、早立ちで東京へ向かう。コロナ禍のせいで自粛を強いられていたため、久しぶりの次兄宅への表敬訪問である(東京都国分寺市内)。ところが、心晴れのする訪問でもない。なぜなら、互いの老いを確認するだけになりそうである。
 このところは暖かい日が続いていた。けれど、起き立てのわが身体は、ブルブル震えている。一方、心象は寒暖にかかわらず冷えている。またしても、書くまでもないことを書いた。いっときのズル休みではなく、もう書かないほうが、わが身、人様のために良さそうである。結論は電車の中で、ぐるぐるとまわりそうである。

とてもつらい、私事

 きのう(十一月十一日・木曜日)は、義父と義母の合わせ法事(回忌)に出向いた。共に、永別の日から長い歳月が過ぎていた。それぞれを偲ぶ和みはあった。一方では、悲しさがぶり返した。菩提寺は鎌倉市に連なる逗子市に隣接する、神奈川県三浦郡葉山町に存在する「新善光寺」である。寺は由緒ある大伽藍を構えている。義父母の墓は境内の一角にある。催事の主は、義父母の後継をなす義姉と義兄(逗子市)である。これに、わが夫婦と娘夫婦が加わった。読経を唱えるご住職の後方には、六人が間隔をとり、椅子に座り並んだ。静寂きわまる大伽藍の大広間にあって、法要はきわめて厳粛に行われた。このあとには出来立てほやほやの卒塔婆(そとば)を手に取り、墓地の石塔の前に出向いた。ご住職はここでも、短く読経を唱えられた。読経の下、六人は入れ替わり、厳かに合掌した。みはるかすほどに広い境内と、それを抱え込む後背の小高い山には、黄葉や紅葉が照り輝いていた。法事は、しめやかに閉じた。
 ところが、出かける前の私には、飛んでもない異変が起きていた。首周りは、絞首刑さながらにきつく締めつけられていた。身体は、ワイシャツと喪服にぎゅうぎゅう詰めにされていた。さらには、思い及ばぬ難儀に見舞われた。ネクタイは、喪服に合わせて黒色を選んだ。最大の異変は、このときである。私は、ネクタイの結び方を忘れてしまっていた。このことには、かぎりないショックを受けた。結局、正規にはなり得ず、ちょろまかして結んだ。とても悲しかった。

罪つくり、「雉(きじ)も鳴かずば撃たれまい」

 十一月十日(水曜日)、きょうもまた書くまでもないことを書いている。もはや、病と言えそうである。わが文章はマイナス思考の塊であり、もとより自分自身の気分は殺がれ、さらにはご常連の人たちの意気をも阻喪している。このことでは人様に悪さをしていることだから、常々かたじけない思いつのるばかりである。悪さを断つには、書かないことに尽きる。こんな思いをたずさえて、パソコンを起ち上げる。実際にはパソコンが無ければにっちもさっちもいかないわが日常なのに、パソコンを恨めしく思うところ多々である。もちろん、パソコンを前にして心中では、明るいネタ探しをめぐらしている。ところが、制限時間の中にあっては、いっこうに浮かんでこない。すると、執筆時間に急かされて書き殴りを始めている。おのずから、似たり寄ったりの文章を書く羽目となる。このときの私は、つくづくつらい心境にある。挙句、「もう書けない、もう書きたくない」という潮時にさいなまれている。
 これまでの私はこんな心境をたずさえ、こんな文章を書いて、恥を晒して何度となく吐露してきたのである。まさしく、わが生来の錆(さび)である。きょうもまた、暗いネタを書き添える。このころの私は、就寝中に大腿部の激痛に見舞われている。明るいネタはなにもない。無理矢理探して添えれば、ふるさと・熊本産みかんは旨いなあー……という、餓鬼の感慨だけである。間断なく頬張るふるさと産みかんは、確かなわが命綱である。
 長い夜、まだ夜が明けない。執筆時間はたっぷりあるけれど、書く気を殺がれて、尻切れトンボのままにおしまいである。いやいや書くことは、もはや人様への罪つくりである。「雉(きじ)も鳴かずば撃たれまい」。

悪夢だけが旺盛

 長い夜にあって、就寝から目覚めにいたるまで、夢見に晒され続けていた。もちろん、年老いて見る夢は、子どものころに見ていた夢とは、まったく異質のものである。夢見には目覚めて気分の良いものと、悪いものとに大別される。あるいは、みずからの人生行路において、できたら望みを叶えたいと託す夢と、精神状態を冒され錯乱状態に陥るため、できたら見たくない夢とに大別される。前者を良夢とすれば、後者は悪夢である。私の夢見は、もはや悪夢ばかりである。
 子ども心を真似て、できたらと望む夢見は、「ピンピンコロリ」のみである。ところがこれとて、とうてい正夢(まさゆめ)にはありつけそうにない。挙句、就寝中の夢見は、まったく御免こうむりたいものである。
 阪神タイガースは、宿敵・読売ジャイアンツに負けた。しかしこの先、リベンジを果たす夢を見るには、それまでのわが命がもたない。だから夢見はもうすべて、打ち止めを願っている。夢見のない人生、いや夢見をことごとく捨てたい人生、もはや生きる屍(しかばね)の証しである。
 こんなことを書くために、パソコンを起ち上げたのではない。継続は力とはなり得ず、ただただ恨(うら)めしいかぎりである。今や、ズル休みこそ、「百薬の長」になりかけている。もちろん、望まない薬剤である。袋小路に嵌(は)まった状態で、約十分間の殴り書きである。初冬の夜明けは、いまだに暗闇の中にある。

「立冬」

 一年の季節のめぐりは、春・夏・秋・冬と分けられる。四区分は、総じて四季と称される。それぞれには経過に応じて、おおむね「初・中・晩」という、言葉(文字)が添えられる。おおむねと記したのは「初」にかえて、「早」という言葉が用いられるゆえである。たとえば「初春」にかえて、「早春」と言う場合がある。しかし、三区分の呼称では決まって、初春が常態化している。人は季節のめぐりに応じて、それぞれの感慨を懐(いだ)いている。感慨にはずばり、好き嫌いという感情がまとわりつく。
 私の場合、四季にあっては冬が最も嫌いである。その理由は、冬は寒い季節だからである。なんだか、赤ちゃんじみた理由である。炬燵(こたつ)の上で丸くなる、「猫」の気分丸出しでもある。ところがきょうは、冬の入り口すなわち「立冬」(十一月七日・日曜日)である。
 このところの私は文章において、やたらと「晩秋」と書いてきた。もちろん、わが好きな季節ゆえである。その証しには晩秋にたいし、惜別とか賛歌という、わが感情のほとばしりの言葉を添えた。ところがきょうは、どんでんがえしに立冬である。言葉をかえれば、わが嫌う冬の季節の初日である。もちろん、立冬のせいではないはずだが、早や風邪をひいたようだ。現在、やたらとくしゃみの連発に見舞われている。さっき、風邪薬をのんだ。
 晩秋とは心地良い言葉である。惜しんで、「晩冬」と書くことはとうていあり得ない。きのうとはうってかわって、どんよりとした冬空の夜明けが訪れている。

「晩秋、賛歌」

 私は目覚めると起き出してきて、執筆時間に急かされて、成り行き的かつ走り書きで文章を書いている。このことは自認する悪癖、すなわち恥晒しの悪習である。この禍(わざわい)は、覿面(てきめん)に文章に現れる。おのずから、代り映えのしない似たり寄ったりの文章となる。このことでは、常に忸怩(じくじ)たる思いに苛(さいな)まれている。こんな悪の自意識があるにもかかわらずこれまで、この習慣を改めることはできずにきた。挙句、わが意志薄弱の証しの一つとなっている。もとより、こんな様にならない文章は、御免こうむりたいものである。
 このところの文章には、多く晩秋ということばを書き連ねている。直近の文章には表題に『惜別、晩秋』と、記した。文字どおり過ぎ行く晩秋を惜しんで、書かずにはおれなかったからである。なぜならこのところの晩秋の空は、わが思いに逆らうことなく日々、胸のすく好天気を恵んでいる。おっちょこちょい、いや馬鹿げていると言おうか、常々私には憂鬱気分がつきまとっている。ところが、このところの晩秋の空は、かぎりなくわが憂鬱気分を払ってくれている。この恩恵に応えて私は、文章のなかにあからさまに「晩秋を礼賛」を連ねてきたのである。確かに、胸のすく好天気は、晩秋の恵みと言えるものだった。言うなればそれに応える、わずかな恩返しの発露である。
 ところがきょう(十一月六日・土曜日)は、カレンダーの上では、初秋、中秋、晩秋と季節を替えてきた「秋の最終日」である。過ぎ行く秋が名残惜しくて私は、成り行き的にこんな文章を書いている。カレンダーの明日(十一月七日・日曜日)には、「立冬」の添え書きがある。現在は、ようやく白み始めた夜明け前にある。たぶん、しんがりの晩秋の空は、きょうもまた天高い秋晴れ、いや胸のすく日本晴れを恵むであろう。やはり、「惜別、晩秋」、つのるばかりである。
 似たり寄ったりではなく、明らかに同一文章に成り下がってしまった。それでも、わが胸はさわやかである。もとより、晩秋の好天気がもたらしている好い気分のおかげである。立冬! かなり恨めしい季節替わりである。この先は、たまの「小春日和」にあって、晩秋の気分に浸るしかすべはない。成り行き文の表題は、わが意を尽くせず、ありきたりに「晩秋、賛歌」でいいだろう。

「太陽」の威光と、自然崇拝

 十一月五日(金曜日)、目覚めてみると、すでに夜が明けていた。長い夜にあって、久方ぶりに二度寝にありつけていた。このことでは快眠をむさぼり、目覚めの気分はすこぶる付きの良好状態である。せっかくのこの気分にケチをつけているのは、執筆時間の切迫に基づく焦燥感である。挙句、防ぎようなく、書き殴りを強いられている。小ネタさえ浮かばず、数分間の書き殴りを強いられて、結文となりそうである。それでも快眠を得て、まったく悔いはない。もちろん、寝坊助だったと、嘆きたくはない。
 さて、私には時々、意図的に小学生気分にさかのぼる癖がある。それは人生行路において、小学生時代が最も無碍(むげ)の純粋な心をたずさえていたと、自認しているからである。太平洋戦争後からまもないころにあって、さらには片田舎育ちの私には幼稚園自体が無く、小学一年生(昭和二十二年・1947年)が就学の始まりだった。おのずから純粋無垢の心情をたずさえて、真実一路の人生行路を歩み出していた。
 こんな気分に立ち返り、きのうの私は、小学生さながらの幼稚なことを自問した。(人間界にたいし、自然界がもたらす最高かつ最良の恩恵は、何んであろうか?)。たちまちそれは、「太陽」、と心中の答案用紙に書いた。このときの私は、茶の間のソファーにもたれて、窓ガラスから差し込む太陽の恵みをいっぱい心身に享(う)けて、和んで日向ぼっこをしていたのである。そしてそれは、快眠をはるかに超える快感を恵んだ。すると、太陽にたいし素直に畏敬をおぼえ、かつ自然崇拝の心を宿した。ときおり、陽射しが翳(かげ)ると、たちまち寒気をおぼえた。それはそれで恨みっこなしの、まさしく太陽の威光でもあった。
 このところの私は、まさしく太陽の威光に酔いしれている。晩秋の夜明けは、きょうもまたのどかな朝ぼらけである。日が昇れば、全天候型の秋晴れとなろう。私は淡く染まる大空模様を心おきなく眺めている。いやもう、晩秋の陽射しが暑さを帯びない、心地良いカンカン照りを始めている。約三十分間の殴り書きを終えて、「太陽様様」の気分は、横溢(おういつ)するばかりである。

「惜別、晩秋」

 十一月四日(木曜日)、現在はきのうの「文化の日」(十一月三日・水曜日)が明けての夜明け前にある。いや、長い夜にはあっては、いまだに真夜中のたたずまいさながらである(4:13)。
 きのうは気象庁の過去データにたがわず自然界は、人間界に長閑(のどか)な秋晴れの好天気を恵んだ。気候は、晩秋の真打(しんうち)の穏やかさにある。まさしく、晩秋がもたらす掉尾(ちょうび)の一振とも思える恩恵である。もとより、私にかぎらず人々にとっては、身体的には一年じゅうで最も凌ぎ易い頃と言えるであろう。ところが、二兎(にと)は叶えられない。すなわち、好季節にあっても精神的には、もの悲しさやもの寂しさがつきまとう。あえて繰り返せば晩秋は、身体的には過ごし易さの半面、精神的には寂寥感(せきりょうかん)にとりつかれる。結局、季節のめぐりは、心身共に好都合などあり得ない。そうであってもやはり晩秋は、ピン(最上等)の好季節である。
 ところが、それを妬(ねた)んでに打ち止めでもするかのようにカレンダーにあっては、今週末日(十一月七日・日曜日)には「立冬」と付されている。いよいよ、わが心身共に嫌う、冬の季節のお出ましである。ただし、冬の季節にあって一つだけ報(むく)われるのは、寒気に慄(おのの)いたり、身震いしたりしていると、寂寥感にとりつかれる気分は遠のいている。どちらがいいかと自問すればもとより、寂寥感はあってもやはり、比べようもなく晩秋を好むところである。そのためきょうの文章は、あからさまに「惜別、晩秋」の思いである。確かに、身体はちっとも寒くない。しかし、わが心中には茫々(ぼうぼう)と寂寥感が渦巻いている。

「文化の日」

 「文化の日」(十一月三日・水曜日)、5:55.まだ夜が明けきれないから、きょう昼間の天気は知り得ない。きのうは、きょうの天気予報を聞かずじまいだった。聞かずじまいは、わが心中に宿るたぶん「晴れ」であろうという、わが例年の思いからであったろう。
 気象庁は過去の気象データを基に、文化の日前後は一年じゅうで最も雨の日が少ないという。雨の日が少なければおのずから、晴れの日が多いこととなる。加えて、晩秋のころであるから、気候的には最も穏やかで過ごしやすいことにもなる。まさしく日本社会は、文化の日にふさわしい好季節にあずかっている。
 私にとって文化の日、いや「文化」はまったくの無縁である。それでも、勤務時代にあっては祝祭日の恩恵にさずかり一日、長距離通勤者の悲哀を免れていた。ところが、この恩恵も今や、まったくの無縁である。こんなことを浮かべて、文化の日を迎えている。まるで、アホ丸出しである。しかしながら、81年生きてきて現在、私はおおむね無病息災にある。加えて、駄文であっても文章が書けている。まるで、餓鬼のこじつけだけれど、これこそわが文化と言えるものかもしれない。もちろん、文化とは言えないけれど、こんなこじつけしか浮かばないのは、わが身の無能の証しである。しかしこの恩恵は、わが身に余る果報である。
 きのうの新聞紙上のある見出しには、女性の「自殺者が増えている」という、記事があった。記事を読むことなくこれは、日本社会における異変である。これまでは相対的に男性に比べて、女性の自殺率は低く推移していたという。ところが、女性の自殺率は上がっているという記事だった。この一事だけでも現下の日本社会は、混迷いや生き続けるつらさ蔓延の最中にある。すると、のほほんと文化の日にひたっておれないわが心境である。究極のところ私は、日本国民こぞってのめでたい文化の日を望んでいる。
 夜明けの空は朝日の見えない曇り空である。でも幸いなるかな! 気象はのどかな夜明けをもたらしている。しかし、文化の日にあって日本社会は、穏やかならず混迷を深めている。文化の日にあって、女性の自殺者増からみてとれる、わがひとつの考察である。