ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

わが脳髄は、空っぽ

 十月十二日(水曜日)、起きて、パソコンを起ち上げても書くこともない。こんな心境が果て無く続いている。私は、もう止め時と際限なくつぶやいてきた。ところが、なかなか見切れず、牛の涎のごとくだらだらと続けている。挙句、味もそっけもない文章に陥っている。自業自得とはいえ、常連にあずかってきた人さえ、少なくなってしまった。ゆえに現在の心境は、部活やスポーツ競技において、練習ばかりで試合には出られない人の切なさ、侘しい心境に似ている。無理して何かを書こうと思えば、こんなくだらないことしか書けない。こんな文章の唯一の取り得は、生きている証しにすぎない。
 この文章、ここでやめようかと思う。しかし、せっかくだから、世の中の一つや二つ、三つのことを書いてみる。一つは、ウクライナは連日戦争状態で、実際のところはどんな状態であろうか。連日戦争状態であれば、国は破綻していると思うところがある。一つは、幸いにもこのところのコロナの感染選者数は、ようやく漸減傾向にある。うれしいかぎりである。これに関してわが望むのは、だれもがマスクを外した生活への復帰である。マスク生活は自分自身鬱陶しいし、さらに人様のお顔の見えないことは、生活の面白味を欠いている。最後の一つは、経済活動の後押しとはいえ、旅行へ行く財力のある人へ、あえて税金で補助をする必要があるであろうかという、下種の勘繰りである。すなわち私には、税金の使い道の不公平感が渦巻いている。
 約二十分間の書き殴りで、文章を閉じる。能無し野郎の切なさが込み上げている。夜明けの空はわが心象のごとく、どんよりとして今にも雨が落ちてきそうである。こんな文章は、無理して書かなきゃ良かった。寝坊助の後の祭りである。

「スポーツの日」、明けて

 十月十一日(火曜日)、三連休明けの夜明けは、雨なくのどかに明けている。手元にカレンダーがなく、きのうの表題では、失態を演じた。脳裏にこびり付いていた「体育の日」は、二年前(2020年)から「スポーツの日」と呼称を変えて、設定日を替えていた。飛んだしくじりだったけれど、そんなに罪意識はない。
 きのうの私は、みずからの身体は茶の間もソファに凭れたままに、二つのスポーツのテレビ観戦に興じた。もとよりこんなスポーツの日は、設定の趣旨に副うものではなく、大いに慎むべきところではある。ときにはソファから身を起こし、テレビ体操に合わせて柔軟体操でもすれば、いくらか設定趣旨に副うところはある。ところが私は、それさえせずにミノムシさながらに、ソファにべったり張り付いていた。
 テレビ観戦の一つは、大学三大駅伝の一つである「出雲駅伝」であった。出雲は、大沢さまのふるさとである。私は、かつて大沢さまが書かれたご姉妹三人のお母様の納骨紀行文を懐かしく蘇らせていた。それゆえ、大沢さまに何度か電話を入れようかと思いながらも果たせず、観戦を続けた。
 もう一つはプロ野球、阪神タイガース対横浜ベイスターズの第三戦(最終戦)のテレビ観戦だった。こちらはタイガースが勝利し、次のステップで東京ヤクルトスワローズ戦へ進んだ。結局、スポーツの日は、みずからの身体はソファに張り付いたままに、人様が為すスポーツのテレビ観戦で終始した。しかしながら気分は、晴れ晴れとした。このことでは他力本願にすがり、スポーツの日に報われた気分だった。すなわち、きのうスポーツの日は、二つの競技のテレビ観戦に興じて、気分晴れ晴れの清々しい一日だった。
 老躯に鞭打つスポーツは沙汰止み、もっぱらテレビで観るスポーツに変わっている。それで気分が晴れれば、越したことはない。なぜなら、粋がってやって、挙句転んで腰でも傷めれば、年寄りの冷や水となり、バカ呼ばわりされるだけである。夜明けの空は、淡い日本晴れに変わっている。

体育の日

 きょうは「体育の日」(十月十日・月曜日)、三連休最終日にあっても、とうとう雨まじりのぐずついた夜明けを迎えている。目に見えない天界の事情は知るよしないけれど、損々気分横溢である。日本列島のきょうあたりは、好季節の秋の真っただ中にあっても、飛びっきりの好天にあずかれるはずである。ところがきょうと言わず三連休の天候は、好季節の恩恵を遠のけたままである。もとより体育の日は、好季節および好天をあてにして、国民の健康増進の一助を願って、国の祝祭日として設けられている。これに呼応し体育の日にあっては、学び舎では運動会、自治体などでは市民体育祭などが集中的に行われている。これらのことをかんがみれば、とんだ悪天候の夜明けである。運動会や体育祭にかぎらず、このおりの三連休は絶好の物見遊山の機会でもある。ところが、天候のぐずつく三連休は、それらの多くを台無しにして終わりそうである。つくづく残念無念である。
 翻って私の場合は、夏風邪以降いまだに治りきらず、加えれ諸々に体調を崩している。それにより、今なお憂鬱気分を引きずっている。憂鬱気分は、文章を書く気分を殺いでいる。挙句、こんな愚痴こぼしを二か月余も書いている。それゆえ、パソコンを起ち上げる前はいつも、(きょうは休もう)という気分が心中に渦巻いている。きょうもまたそんな精神状態でパソコンを起ち上げ、こんな文章を書いている。自分自身なさけないと同時に、かたじけなく思うところである。この先、書く気分を失くしている。ほとほと、なさけない体育の日である。

一日を生かされた、テレビ観戦

 十月九日(日曜日)、どんよりとした曇り空にあって、雨のない夜明けが訪れている。明日の天気予報は聞いていないけれど、行楽日和とは言えそうにない三連休半ばの空模様である。起きてきて、生きている証しの文章を書いている。
 きのうの昼間は、プロ野球、阪神タイガース対横浜ベイスターズ戦のテレビ観戦に興じた。試合は今シーズンの公式戦を終えたのちの、クライマックスシリーズの初戦だった。どちらかが二勝すれば、次のステージへ臨めることになる。次の相手は、今シーズンの公式戦で優勝した東京ヤクルトスワローズである。きのうの試合は、タイガースが勝った。それゆえきょうも勝てば、タイガースは次のスワローズ戦へ勝ち進むことになる。負ければ、明日の試合でどちらかに決まる。きょうもまたわが夫婦は、身構えてテレビ観戦をすることとなる。
 夜は、世界卓球選手権のテレビ観戦に見入った。男子は準決勝で中国と対戦した。結果は2対3で惜敗した。しかし、日本チームは予想を超える大奮闘だった。女子は決勝戦で、これまた中国と対戦した。試合結果は、0対3の完敗だった。中国の強さが際立った。しかしながら、男女両チームともに、神業とも思える技量を発揮した。神業とは、人間業ではないという決まり切った表現である。私は、中国であろうと対戦国にお構いなく、技量を称賛し堪能した。男女とも中国に負けたとはいえ、私はまったく引けをとらない日本選手の技量の凄さに酔いしれた。
 結局、きのうの私は、昼夜のスポーツのテレビ観戦で、気分の良い一日を過ごした。きょうの私は、きのうに続いて「柳の下のドジョウ」を狙っている。ひたすら、他力本願にすがるわが生存である。

つらい予報「秋が短くなりそう」

 十月七日(金曜日)、夜明け未だしで、窓ガラスの外は暗闇である。雨は降っていないようだけれど、こののちの天候は、いまのところはわからない。体感で知り得るのは、きのうに続いて寒気が痛烈である。きのうの寒さは、わが身に堪えた。寒気の証しにはほぼ一日じゅう、人工の熱源(ガスストーブ)にすがっていた。現在の寒気からすればきょうもまた、きのうの日常生活の繰り返しになりそうである。できればそれは、真っ平御免こうむりたいところである。
 気象予報士だったか、それともテレビニュースのアナウンサーだったか記憶にないけれど、「秋が短くなりそう」と、言っていた。四季にあって秋が短ければ、その前後は長いことになる。ところが、すでに過ぎた夏は、残暑さえ撥ね退けて短く去った。そうであればこの先は、おのずから冬が長いことになる。そうであれば寒気を極端に嫌う私には、とんでもなく厳しい季節回りになる。体調不良で執筆は、今にも頓挫しそうである。体調不良に寒気が加われば、たちまち「ぐうの音」も出なくなる。私は長袖への衣替えどころか、早やてまわしに冬防寒重装備で、寒気に備えなければならい。
 九月に続いて十月もまた、異常気象となるのであろうか。ふるさとの柿は、すでに二度送られてきた。ところが、ふるさと産・新米の宅配は、まだかなり先になりそうである。すなわち秋は、いまだ真っ盛りとも言えないのに、もう秋仕舞いかな? とも思える予報を耳にした私は、一瞬度肝を抜かれた思いだ。わが身に堪えた「秋が短くなりそう」という、予報だったのである。
 世界中の科学者が警告する地球温暖化傾向など、私にはまったく実感するところはない。研究に研究を重ねた挙句、そんな嘘っぱちなど、私は聞きたくもない。へそ曲がりゆえにあえて記すと、地球寒冷化傾向であれば、大いに納得するところがある。結局、寒気を嫌う私は、秋短く、冬長い季節のめぐりは、懲り懲りである。夜明けて、曇天の寒空である。わが身は冷え切っている。

「ふるさと便」は「魔法便」

 十月六日(木曜日)、体調不良による気分の滅入りに寒気が重なり、いっそう気分の萎えの増幅に見舞われている。寒気はいまだ緒についたばかりなのに、こんなことではこの先のわが身と気分が思いやられるところである。「好季節・秋」真っただ中にあってもわが気分は、その恩恵からすっかり遠のけられている。至極、残念無念である。
 ところが、このわが気分を見透かしてもくれたかのように、先日の姪夫婦から二度目の「柿、ふるさと便」が送られてきた。まさしく好都合、そののちの日々の私は、生柿を包丁で剥いては頬ばりながら、憂鬱気分癒しに与(あず)っている。柿自体、いっそう膨らみと黄色身を増し、よりいっそう食べごろに熟していた。ふるさとの柿は、まったく薬剤要らずの効果覿面の確かな処方箋(好意)である。ふるさと便は、段ボールに詰められた柿の旨味(うまみ)に加えて、文字どおり様々な「ふるさと情感」を蘇らせてくれるところがある。それゆえにふるさと便は、おのずから詰められた物(今回は柿)の旨味、甘味を増幅させる、魔法の便とも言えるものがある。
 「きょうは、休みます」と、書くつもりでパソコンを起ち上げた。ところが、出まかせにこんなことを書いてしまった。いや、ちょっぴり、書かずにはおれなかったのかもしれない。夜明けの空はきのうに続いて、どんよりとした寒々しい雨空である。秋空もさ迷っている。わが気分は、二度のふるさと便に助けられている。確かに、休むつもりだったこの文章は、ふるさと便の恩恵の証しである。柿は、たっぷりと甘味を増している。

実のない文章、継続は限界

 十月五日(水曜日)、現在の時刻は夜明け前にあって、五時近くである。パソコンを起ち上げても書くことなく、机上に長く頬杖をついている。鼻炎症状は今なお二分ほど残し、鼻先ムズムズの不快感を引きずっている。おのずから朦朧頭にある。こんなことを書くために、パソコンを起ち上げたのではない。頬杖をついていると、来し方(過去)、この先(余生)への行きし方が、堂々巡りしている。過去のことではいろんな後悔ごとに苛まれて、余生のことでは矢鱈と不安感がつのってくる。結局、生きることは、死ぬまでの闘いである。確かに、生まれなければ、この苦しみ免れる。私は、とことんバカなことを書いている。そしてそれを、秘かに私日記で留めることなく、ブログで公開している。まさしく、現在の私は「雉も鳴かずば撃たれまい」という成句に、ピッタシカンカンの心境にある。
 「継続は力なり」という成句は、広く人口に膾炙(かいしゃ)している言葉である。私は長年、文章を書いてきた。六十(歳)の手習いをかんがみれば、かなりの継続にありついている。ゆえに、ちょっぴり自惚れるところはある。しかしながら、ちっとも力にはなり得ていない。継続が力になり得るのは、際限ない(無期限)継続あってのことゆえである。私の場合は、生来の三日坊主を少しだけ克服しているにすぎない。それも多くは、こんな実のない文章を書いて、続いているだけである。実際には、心侘しい継続である。
 きょうは起き立てにあって長く頬杖をついて、パソコンを起ち上げても頬杖をついたままに書いている。もとより、夜明けまでの時間潰しにすぎない。二十分ほどの指先運動の合間に、夜明けが訪れている。いまだ夜を引き継いだ、朝日の見えない夜明けである。単なる時間潰しのはずだったけれど、挙句、恥を晒してしまった。パソコンは閉じるけれど、頬杖はなお先へ継続である。

称賛、村上選手

 十月四日(火曜日)、先ほどまでの就寝時にあって私は、身体の危険信号とも言われる寝汗にまみれた。そのため、汗に濡れた肌着を着替えて、パソコンに向かっている。いまだに治りきらない風邪は、飛んでもない病を潜めているのかもしれない。どんな危険信号なのか? と恐れて、私はネット記事のいくつかを読んだ。この文章を閉じれば、念のため体温を測るつもりでいる。
 さて、もとよりきょうは、野球ファンであればすでにだれもが周知のことを記録しておくことに決めていた。実際には、メデイアが伝える配信ニュースの引用である。村上選手は本塁打数で、これまでの日本人最高本数(55号)で、読売ジャイアンツ在籍時代の王貞治選手に並んでいた。そしてこの日、ついに56号を打って、今シーズンを終えたのである。ところが村上選手は、本塁打王(日本人最高本数)のみならず、三冠王(本塁打、打率、打点、三ついずれも首位)の快挙を成し遂げたのである。言葉を重ねれば、高校出四年目の若干22歳の若者が果たした壮挙である。村上選手は熊本県出身、学び舎は私立・九州学院高校である。下記は、全容記事からの一部抜粋である。ヤクルト・村上 最終打席で決めた56号は会心「手応えばっちり」呪縛解かれ安ど「長い1本だった」10/3(月) 22:34配信 デイリー)。「ヤクルト8-2DeNA」(3日、神宮球場)。すでに優勝を決めていたヤクルトがCSで対戦する可能性があるDeNAに快勝して、リーグ最終戦を終え、リーグ戦を締めくくった。村上宗隆内野手が球界18年ぶり、令和初の三冠王に輝いた。最終成績は打率・318、本塁打56本、打点134だった。レギュラーシーズン最後の打席となった七回。DeNA5番手の入江のインコースの直球をジャストミート。61打席ぶりの快音で、歴史の扉をこじ開けた。試合後は「手応えはばっちり。タイミングも合っていた」と振り返り「ホッとしましたし、長い1本だった。本当にホッとしました。最終打席というより、打撃フォームを修正しながら、動画を見て感じたところを表現できたらと思っていた。こうして最後の打席で打てたのは自分でもビックリしてます。最後のご褒美と思って喜びたい」と、うなずいた。

ちよっぴりだけ、明るい文章

 十月二日(日曜日)、きのうの初日の天候から鑑みれば、どうやら十月の気象は不順なく、晩秋の好季節にありつけそうである。きょうの夜明けの空は、白地というより淡い青地に、朝焼けの彩りが浮いている。清々しい朝空である。自然界の穏やかな恵みは、眠気眼を見開きにしてくれる、長閑(のどか)なひとときである。おのずから、昼日中の秋天の恵みが楽しみである。
 きのうは妻の髪カットの引率同行で、大船(鎌倉市)の街にある、妻が行きつけのお店へ出かけた。お店とは何たる不穏当の表現であろうか。やはり、美容院と書くべきか? と戸惑った。しかし、お店とした。熟慮の末に、美容院よりお店のほうが適当に思えたからである。言うなれば美容院という言葉にはなじまない、安価を旨に十五分程度の髪カット専門である。私は妻と一緒に店内に入り、仕上がりを店内で待って、終われば二人して外に出る。髪カットの済んだ後の妻の表情は、良く写真などで見かける仕様「前、後」のように、様変わりに明るくなっている。老婆になっても女性! 美容にかかわる女性心理は、男性の推測をはるかに超えるものがある。
 確かに私自身、散髪の後の気分は、かなり解(ほぐ)れてくる。しかしながら、美容院(髪カット)後の女性の場合は、この程度の気分の解れで済みそうではない。すなわち女性の場合は、美容(見目形の良さ、綺麗、美しさ)は生涯のテーマであり、憧れと言えそうである。いや、ないものねだりでもある。もちろん、妻も同類項である。このことには十分、私は同意・納得するところがある。
 髪カットが済むと二人は、気分良く買い物回りを済まして、帰途に就いた。妻の予約時間は、午後三時半だった。わが家へ返り着いたのは、ほぼ五時だった。リモコンスイッチでテレビを点けた。読売ジャイアンツ対横浜ベイスターズ戦は、運よくプレイボールだった。私たちは、試合終了まで見入った。ファンとする阪神タイガース戦でもないのに、手を叩き、固唾をのんで、ベイスターズを応援した。その甲斐あり、1対0で、ベイスターズが勝利した。他力本願だがこのとき、タイガースの3位が確定した。負けたジャイアンツが4位になり、タイガースはCS(クライマックス・シリーズ)への進出を決めたのである。
 私は風邪薬を服んで、床に就いた。明けても、いまだに鼻炎症状を残している。しかし、いつもと違って、ちょっぴり明るい文章が書けたのである。きょうのわが日課には、妻の髪染めの手伝いがある。わが自主行動であるから、これにはまったく腰の重さはない。妻のお返し言葉は、いつも決まって「パパ。ありがとう」である。大空の彩りは消えて日本晴れ、すなわち青一辺倒に変わっている。十月の気象は、不順だった九月の罪滅ぼしをしてくれそうである。

十月一日

 月が替わって十月一日(土曜日)、文字どおり中秋から晩秋にかけての、秋たけなわの夜明けを迎えている。朝日は照らず、台風に前触れみたいな風が吹いている。けれど、まずは穏やかな月替わりの朝を迎えている。しかし、わが身の場合は、必ずしも穏やかではない。もちろん、気分もすぐれない。
 さて、きのう夜明けにあっては、早とちりをしてしまった。すなわちそれは、「鼻風邪は持ち込まずに済んだ」と、書いたのである。確かに、夜明けから昼過ぎあたりまでは、風邪症状は消えていた。ところがこの間は、不完全状態をひた隠しにしていただけだった。なぜなら風邪症状は夕方頃からぶり返し、私はたちまち憂鬱気分に取りつかれた。そして、一夜明けた現在もなお、風邪症状に悩まされて、おのずから気分は憂鬱状態にある。挙句、とんだ月替わりを招いている。S医院からもらっていた風邪薬はとうに服み尽くし、今は妻が貰っていた「葛根湯」を盗み服みし、さらにそれに買い置きの市販の総合感冒薬を重ねている。ところが、罹り始めの夏風邪は名を秋風邪に代えて、未だに治りきらないままである。
「風邪は大病の基」。そうであれば現在は、肺炎の惧(おそ)れを気にせずにはおれないところはある。だったら風邪などと侮(あなど)らずに、早々に外来患者となるべきときかもしれない。
 きのうのNHKニュースでは、落語家・三遊亭円楽さんの訃報が伝えられた。私より十も年下(享年72歳)である。きわめて惜しまれる、他界(肺がん)だった。他人様(人様)とは思えず、心からご冥福を祈るところである。わが年齢をかんがみれば、風邪症状を蔑(ないがし)ろにするところはまったくない。もちろん、承知の助ではある。しかし、通院にさえ決断力不足(優柔不断)がともなうのは、わが生来の「身から出た錆」である。
 秋本番、すなわち好季節の真っただ中にあっては、季節にふさわしい明るい文章を書きたい、書くべきである。しかしながら書けず、とんだ月替わりに成り下がっている。「可もなし、不可もなし」、いや不可だらけの月替わりである。平に詫びて、御免蒙(こうむ)りたい思い満杯である。強風に朝日が加わり始めている。