ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

正月三が日

 1月3日(火曜日)、流し目で見遣る壁時計の針は、三時近くをさしている。晩御飯のあと茶の間のソファで寝入り、起き出して来てまったく火の気のないパソコン部屋で、キーを叩いている。茶の間で温まっていた体は、たちまち雪崩のごとく崩れて、冷えている。しかしながら、心は熱く燃えている。ご常連様の優しさがうれしく、わが心身に沁みているからである。自分勝手に継続文にすがり、明けて正月おととい、きのうと文章を書いた。これには、「読んでくださる人の数は少ないであろう」という、自分なりの思惑があった。ところが、この思いはご常連様の優しさに出合い、うれしく崩れた。カウント数を見たら、いつもとほぼ変わらない数が刻まれていたからである。正月元日および二日の家族団欒にあっても、掲示板を開いてくださったことがわが身に沁みて、うれしさが込み上げてきたのである。きょうはこのことを書かずにおれなくて、パソコンを起ち上げている。
 きょうだけは愚痴こぼしの文章など書いておれない、正月三が日最終日の清々しいわが心境である。この心境にこの先、駄文を加えては清々しさが崩れることとなる。それゆえ、尻切れトンボの恥などかなぐり捨てて、これで結文を決意するものである。「感謝感激、これあられ!」、身体は冷えても、心は熱く燃えている。壁時計の針は、わずかに進んで緩やかにめぐっている。

「書初め」

 新しい年の二日目、令和5年(2023年)1月2日(火曜日)の起き立てにある。現在、パソコン上のデジタル時刻は、2:42と刻まれている。言うなればこの時刻は、今年のわが文章のスタート、すなわち昔流に言えば「書初め」を為す。しかしながら子どもの頃にあって正座し、半紙に筆字を書いていたときのようなワクワク感はまったくない。
 さて、慣れるまで当分気を付けなければならないことの一つは、文章において年数を書き違えないことである。現在、わが心中には「歳月は人を待たず」と、学童の頃に学んだ「光陰矢の如し」という、成句が浮かんでいる。加えて、わが咄嗟の造語すなわち、「歳月は人を脅かす」という、成句が浮かんでいる。確かに、人生の晩節を生きるわが心身は、出来立てほやほやの成句の真っただ中にある。そして、甚(いた)く脅かされている。新しい年においてこの先1年間、わが御供をするのは真新しい机上カレンダーである。これにそって、わが悲喜交々の日常生活が進んでゆく。いや、多くは、悲しい出来事だけを刻んでめぐってゆく。万感きわまりない、片手・手の平程度のカレンダーの仕打ちである。今、心してそれを見ている。すると、きのうには「初詣」、そしてきょうには「初荷」と「書初め」の二つが記されている。
 確かにカレンダーは、古来、日本の国の原風景や様々な歳時(記)がコンパクトに記されたありがたい教本である。一方それにそって日々、新たな人生の侘しさや寂しさが記されてゆくものでもある。確かに、この文章は新しい年の書初めである。しかし、ワクワク感はない。こんな調子で、新しい年はめぐってゆく。「人間、万事塞翁が馬」。なんだか遣る瀬無く、切ない「書初め」である。

謹賀新年

 新年元旦(令和5年・2023年1月1日・日曜日)。起きて、寒さが身に沁みる。除夜の鐘は聞かずに寝て、目覚めて起き出している(3:26)。自然界が恵む熱源の「御来光」を拝みたい気分横溢である。明けましておめでとうございます。新しい年にあっては欲張って、共に健勝かつ清祥を願っています。

大晦日

 12月31日(土曜日)。未だ夜中のデジタル時刻(2:56)の起き立てにあって、電子辞書を開いて幼稚園児さえ知る言葉の説明書きを読む。
 「大晦日」:(各月の「みそか」に対して)1年の最終日。おおつごもり。おおとし。
 「みそか」(三十日・晦日):月の第30番目の日。転じて、月の末日をいう。尽日。つごもり。「除夜の鐘」:除夜の夜半、正(ね)の刻に諸方の寺で、百八煩悩を除去する意を寓して108回撞く鐘。
 「除夜」:(「除日(じょじつ)の夜」の意)おおみそかの夜。除夕(じょせき)
 令和4年(2022年)の漢字一字は「戦」という。この一年、わが文章は愚痴こぼしに塗れた。それゆえにわが身にまつわる今年の漢字一字は、「愚」ないし「痴」が適当である。正直な気持ち、なさけない思いがあふれている。だから、大晦日のきょうだけは、愚痴こぼしやまみれの文章は避けたいと、肝に銘じている。しかしながら人間はだれしも、愚痴をいだいて生きている。ところが多くの人は、愚痴をこぼすことを憚(はばか)り、心中に隠しながら生きている。ところが私の場合は、隠しきれずに生きている。そしてなおかつ私は、ブログという不特定多数の人の目に晒している。つくづく、バカな私である。しかし半面、嘘のつけない生真面目な正直人間の証しではある。いや、狭量な人間の証しである。すなわち、人間はだれしも、生存にあっては様々な愚痴の要素をかかえている。それを堪(こら)えることができるか、それともできずにこぼすか。究極は、人間の器の大小、人間性の良否に分かれる。私の場合は、もちろん「小、否」である。
 「大晦日」にあって「除夜の鐘」ひびくきょうだけは、心して愚痴こぼしの文章は書かない。すると、この先が書けない、長い夜となる。一年間、駄文を綴ったことを謝し、そしてそれを読んでくださったことに感謝し、御礼の志を記して、今年の書き止め文とするものである。年賀状にかえて、声なき声のご常連の皆様のご多幸を切に願うところである。「人間、塞翁が馬」、悩むことはない。私自身に対する、諦めというか、戒めの成句である。まだデジタル時刻は、4:13の刻みにある。おお、寒い。

沸き立つ雑念

 12月30日(金曜日)。今年1年間、溜まりにたまった澱(おり)のごとく、次々に浮かぶ雑念に耐えきれず起き出して来た。横目で見遣る壁時計の針は、夜中の2時半近くを回っている。起き立ての気分は、良いはずはない。きのうの胃カメラ検査の結果は、無傷すなわち無事放免だった。そのおり、主治医先生からカメラが写した四コマの写真を戴いた。写真にはごま塩みたいな傷一つどこにもなく、到底わが家では買えない特上の牛肉みたいな胃肉がピカピカ光っていた。主治医先生は写真を見ながら、「何でもありません」という、言葉の太鼓判を押された。しかしながら、検査前の胃部不快感は、今なお消えていない。カメラの捉えきれない、駄菓子の食べ過ぎのせいであろうか。それでも、胃潰瘍や胃癌は免れた検査結果だった。
 確かに、駄菓子や富有柿あるいは次郎柿などの生柿の食べ過ぎは自認するところである。これらに加えてこのところの私は、大袈裟に言えば生きることに疲れている。やや小さいことでは、日々の起き立ての文章書きに疲れている。本音のところは「もう書けない、もう書きたくない」という、強迫観念に脅かされている。それなのに凡愚をわきまえず私は、「ひぐらしの記」単行本、「夢の100号」への到達という、大それた夢見を決意した。書く気力を喪失しては、もちろん「空夢」さえ叶わない。まさしく現在の私は、「後悔、先に立たず」の心境に悩まされて、これこそ胃部不快感の元凶なのかもしれない。「芋蔓式」という言葉がある。この言葉を用いれば雑念は、まさに芋蔓式の状態にある。
 令和4年(2022年)の「掉尾(ちょうび)を飾る」文章は書けずじまいに、いよいよ明日は大晦日である。確かに、こんな文章は書かないほうが、わが身のためではある。それゆえ、文を結んで寝床に返るけれど、雑念は再び藪蚊のごとく沸くであろう。壁時計の針は、いまだ三時前を回っている。「冬至」は過ぎてもなお、私には寝付けない長い夜である。

掉尾の一振(苦難)、胃カメラ

 12月29日(木曜日)、いつもと比べて、いくらか気になる通院予定がある。病院は「大船中央病院」(鎌倉市)で、外来は消化器内科である。予約の施療は胃カメラ検査で、午前11時開始とある。これに備えて、きのうの6時頃の晩御飯以降の飲食は一切控えている。せっかく、毛嫌いする胃カメラを内蔵器官に通すのであれば、準備万端ととのえて検査に臨むためである。気になる通院と言うのは、ほぼひと月前から感じている胃部不快をなお引きずっているせいである。
 胃カメラ検査は、これまでに二回ほど経験済みである。ところが、そのときは事前に自覚する症状はなかった。だから、主治医の「念のため」という、甘い言葉に誘われて、いくらかお祭り気分でカメラを咥えた。しかしながらこんどは、そんな気楽な気分にはなれていない。なぜなら、検査後の主治医の画像診断による宣告を恐れるところがあるからである。大腸カメラは三度ほど経験しているけれど、私の場合、検査自体も胃カメラのほうに苦しんでいる。
 あれやこれやできょうの胃カメラ検査は、気分の重たい通院である。まさしくきょうの通院は、令和4年(2022年)の掉尾(ちょうび)の一振(苦難)である。よりよって大船中央病院とて、きょうは年内における診察および診療の最終日という。この日に予約を入れてくださったのは、お顔馴染みの主治医の粋な計らいであろうか。それとも、慌てふためいてであろうか。どっちみち、私は心鎮めて通院する心づもりにある。そうは言ってもやはり、文明の利器・胃カメラの働きに危惧するところがある。先日すでに書いたので二番煎じになるけれど、結局、きょうの私は「俎板(まないた)の鯉」の心境にならざるを得ない。だけど、元旦の雑煮餅だけは食べたい! 胃部というよりお腹(なか)全体が「グウグウ……」、と唸っている夜明け前にある。

仕事納めの日、今年のコロナ総括

 12月28日(水曜日)、実際にはどうだか知らないけれど、カレンダー上には「仕事納め」と、記されている。バカな私はこれにちなんで、「俺は生存納め」となるのかな? と、思いながら起き出して来た。人生の晩年を生きる私には、それほどに「生存」という言葉が脳裏にこびり付いている。私の場合、冒頭の文章はいつもしっちゃかめっちゃかである。もとより、これでは気の利いた文章は書けない。
 さて、きょうは何をネタに書こうと、気迷いながらパソコンを起ち上げた。そして、真っ先に開くのは「ヤフー」の画面である。画面には、メデイアが伝えるニュース項目が並んでいる。私は項目を読んで、関心を引く記事だけを読み通す。この後には、「ひぐらしの記」の執筆が控えている。そのため多くは、項目だけを読んで、記事は読まずに素通りとなる。
 ところがきょうは、以下の項目が関心を呼び、記事まで読んだ。さらには全文を引用し、ここに記している。その理由は新型コロナウイルスにかかわる、今年(令和4年・2022年)の総括に思えたからである。実際のところは、びっくり仰天した悲しい総括である。
 【コロナ死者、最多438人 第8波で増加、感染20万人】(12/27日・火曜日、20:41配信 共同通信)。「国内で27日、438人の新型コロナウイルス感染による死者が報告された。過去最多で、1日の死者が400人を超えるのは初めて。全国の新規感染者は20万8235人が確認され、1週間前と比べ1万8千人余り増えた。死者数は、11月は2桁や100人台が多かったが、流行「第8波」の拡大に伴い増加し、12月は200人台や300人台の日が目立つようになっていた。これまでの最多は23日の371人だった。27日の都道府県別の死者は北海道38人、神奈川33人、埼玉26人など。感染者は東京2万2063人、愛知1万55443人、大阪1万3962人など」
 仕事納めにあって、ゆっくり休めない年の瀬。新年の正月に向かって、なおその先が思いやられるところである。もちろん私だけでなく人間は、常に生存を脅かされている。ゆえに、一日一日の生存のありがたさがわが身に沁みる。夜明けの明かりはまだ見えず、やけに朝日にすがりたくなる。

大寒波、コロナ、インフル、三つ巴

 12月27日(火曜日)、起き立てにあって寒気は、いくらか緩んでいる。しかし、冬本番の寒気はこの先に訪れる。このことをかんがみれば寒気の緩みは案外、新たな寒気のエネルギーのたくわえの時期なのかもしれない。日本の積雪地方にあっては、すでに大雪に見舞われて、いろんな雪害を被っている。連日にわたる新潟県の柏崎市や長岡市における、車の立ち往生報道は、今なお生々しく甦る。
 起きて、パソコンを起ち上げると、この見出しが真っ先にわが目をとらえた。「アメリカ大寒波 街は冷凍庫に あらゆるものが凍り外出危険」(12/26(月)19:13配信 テレビ朝日系・ANN)。記事全文を読んだけれど、引用するまでもなく、大寒波の報道である。ただ、新型コロナウイルス報道とは異なり、「第何波」という、表現はない。しかし、期間限定の大寒波に見舞われている証しではある。
 さて、新型コロナウイルスは、日本にあっては現在、「第8波」が日々増勢の途中にある。それゆえに、天辺では一日の感染者数がどれほどの数になるのかと、恐怖つのるばかりである。この報道に輪をかけてこのところ、中国の感染者数にかかわる報道はただならぬ状況にある。まるで、川中の堰が一挙に大崩れしたかのように、一日の感染者数が百万人とも二百万人ともいう報道の仕方である。もちろんメデイアに罪はなく、実態が分からぬゆえであろう。なぜなら、中国の新型コロナウイルスにかかわる報道ではこれまでも、感染者数などに実態隠しが疑われていた。なお、実態は藪の中である。しかしながら現在、中国における蔓延の勢いは確かなようである。だとすればいずれは、日本への新たな波及が危ぶまれるところにある。
 翻って日本は、インフルエンザ流行の季節でもある。結局、年の瀬にあって世界の国々は、大寒波、コロナ、インフルの三つ巴現象に見舞われている。人間、もとより抗(あらが)えない現象に、少しでも抗って生きなければならない。ほとほと、一大難事業である。緩んでいた寒気がからだに沁みて、冷えてきた。弱虫の私は、寒気に抗えず、結文を決断した。熱源をたずさえる夜明けの朝日は、いまだ暗い所に隠れている。

歳末風景、歳末商戦

 12月26日(月曜日)、いよいよ令和4年(2022年)の最終週の夜明け前を迎えている。土竜(モグラ)のごとくにすばやく寝床に潜っていたら、「暖を貪り」起き出しが遅れてしまった。そのため慌てふためいて、パソコンを起ち上げている。もちろん脳髄には、塵(ゴミ)さえなく空っぽである。こんな実のない文章を書くために、立ち上げたのではない。浅ましくも、続を断たないためにすぎない。しかしながら、こんな文章では継続文にはなり得なく、いたずら書きの誹(そしり)は免れない。
 イブそしてクリスマス共に過ぎて、街中の商戦は入れ替わり、本番の歳末商戦たけなわとなる。いや、きのういつもの大船(鎌倉市)の街へ出向くと、入れ替わらず抱き合わせの商戦で、それぞれの店舗は買い物客でごった返していた。多くの学び舎は、すでに冬休みに入っている。そのせいかいつもと違って、多くの若者たちも繰り出していた。まさしく絵のような、歳末商戦風景であった。今時、テレビショッピング花盛りの世とはいえ、生きるために人間が繰り出す、子どもの頃から馴染みのある歳末風景である。
 おとなの財布の中の金銭は、未練を残しながら減り続けるけれど、一見、おとなにも楽しい風景である。歳末商戦はやはり、買う方にもいつもの買い物とは違って、お金が減る割にはワクワク(感)するところがある。おのずからそれには、「新年・正月」における祝膳や一家団欒が控えているせいであろう。逆に売る方は、このワクワク感がつけ目である。華やぐ売り場は、日本の国にはこんなにもいろんな品物があるのか? と、わが目はキョロキョロするばかりである。
 歳末商戦は、人間の知恵が産み出した商品の花盛りである。余程、「買うまい」という、意思を強く持たなければ、私はイチコロに売り手、すなわち商戦に負けそうである。それでも、歳末商戦を日本古来の「お祭り」と思えば、存分に楽しめるところはある。なぜならそれは、わが心中に織り成す「買うか、買うまいか」という、駆け引きの楽しさでもある。加えて、買い物客の渦に塗れる楽しさでもある。
 きょうは文章の体を為さない駄文に、浮かぶままのネタを付け足しして、結び文とするものである。冬至が過ぎて、夜明けが早くなっている。私は、朝御飯の支度に焦っている。

押し迫った年の瀬、一年を顧みてのわが心境

 12月25日(日曜日)、起き立てのわが脳髄には、こんなことが浮かんでいる。物事には、押し迫るという表現がある。この表現を用いれば、令和4年(2022年)は、いよいよ残り一週に押し迫る。年の瀬という川の流れは河口へ辿り着いて、大海に呑み込まれて淡水は鹹水(かんすい)、すなわち海水に変わる。単なる書き出しだから、こんなことはどうでもいい。
 六十(歳)の手習いにすぎない私は、それゆえにほぼ毎日、下手な文章を書き続けている。だから苦心惨憺、雲を掴むほどの困難事である。野球の場合はファン、サッカーの場合はサポーター、大相撲の場合は狭義にはタニマチ、すなわち競技(者)には総じて観客という、支持者が存在する。これらになぞらえれば作家(文章)には、読者という支持者が存在する。確かに、それぞれに言葉は異なっても、支持者がいてこそ競技(者)は、永続的に存在する。
 なぜ、こんなことを書いているの? と、自問する。すると、桁違いではあるけれど、文章を綴るわが心境が、ちょっぴり競技(者)の心境に似ているからである。すなわちわが文章は、書けば何人かは読んでくださるという、ご常連様の優しさに支えられている。もとより義理を恃(たの)んで、友人、知人へ「読んでください」と、頼み込んだゆえのご常連様だから、ファンやサポーターとはまったく異なるものではある。しかしながら私は、それらの人の優しさに支えられて、長く文章を書き続けている。確かに、ご常連様の恩恵がなければ、私は文章を書く気にはまったくなれない。このことではたとえ数名になろうと、掲示板を開いてくださるご常連様は、わが文章継続のためには大事きわまる人たちである。押し迫った年の瀬にあって、書かずにはおれないわが心境である。
 私は日々、掲示板に表記のカウント数を数えている。なぜなら、カウント数が止まれば、即私は、文章は止めるつもりだからである。確かに、下手な文章ではあっても、書くことはつくづくわが心身に堪えている。私にはご常連様の支えが満員の観客、すなわちファンやサポーター同然となっているという、思いがある。この文章は年の瀬押し迫るなか一年を顧みて、ご常連様にたいしあらためて、感謝と御礼の心を添えるものである。起き立てにあって、寒気も気分も緩んでいる。こんなことは、めったにない。