ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

わが人生の苦しみは「生きること」

 1月25日(水曜日)、起き出して来てパソコンの起ち上げは、デジタル時刻3:50である。目覚めは途轍もなく早くて、書けば人様から「前田さんは、気狂いしたのか?」と、思われそうで書けない。ただし、気狂いの自覚はない。今や寝床は、安眠を貪る桃源郷ではなく、ひたすら安眠を願う修羅場と化している。
 さて、私は苦しみながら生きている。私にとって人生の苦しみは、「生きること」である。私日記丸出しに書けば、恐れていた雪は降っていないようである。夜明けて、晴れなのか、雨なのか、曇りなのか、それとも雪空なのか。窓外、暗闇にあっては知ることはできない。ただ、明らかな幸運は、窓ガラスに雪がべたついていないことである。寝床で温めていた身体は、ここまで書いただけですでに冷えている。寒さに震えてまでして、こんな実のない文章を書く必要があるの? と、自問を試みる。すると、心中の答えは、(即刻、止めなさい)である。「そうか、そうだな」、もうやめるよ。生来、優柔不断の性癖(悪癖)著しいのに、思いがけなく即決即断である。だからこの文章は、いつもにない決断の早さだけが取り柄である。文意は、わがお粗末人生の一端の披露にすぎない。
 現在、デジタル時刻は4:05。15分の殴り書きで結文とするものである。「ひぐらしの記」は、多くはこんな実のない継続文で、わが生きた証しを記してきた。確かに、人生の苦しみは、「生きること」である。だったら、(もう、あの世が、いいかな?)と、ちょっぴり思う一文である。夜明けの光はまだはるかに遠く、私日記定番の天気模様を記すことはできない。

雪月花、筆頭「雪景色」

 1月24日(火曜日)。寝床の寒さ対策はしたけれど、火の気のないパソコン部屋は、冷蔵庫の中みたいにも感じている。温まっていたわが身体は、たちまち冷えてブルブル震えている。こんな部屋では長居は無用。だから、わが文章に替えて、メディアの伝える記事を挟んで、ほうほうのていで再び、寝床へ潜り込むつもりである。【日本海側で危険な大雪・暴風雪 太平洋側でも積雪に要警戒 外出は控え安全確保を優先 tenki.jp】。山紫水明、雪月花。自然界が人間界に恵む風景にあって、シルバー(銀色)に彩る雪景色は、人それぞれに思いは異なるけれど、それでもたぶん最上位に位置している。私の場合は、まちがいなく最上位にある。ところが半面、雪景色を彩る雪は、降り方(積雪の嵩の高さ)によってこれまた、人間界に悪さをする最上位に位置する。確かに、水(海)も山(霊峰)も大暴れをして、人間界に大きな被害や苦難をもたらすことたびたびある。多くの人々に愛でられる花々とて、曲がり間違えば毒花もある。その点、月は待ちに待った「月見の宴」で翳るくらいで、人体に大きな悪さをすることはない。わが子どもの頃の雪降りの日の思い出は、雪だるま、雪合戦、雪掻き、雪滑り、さらにはドンブリに新雪を取り、砂糖をかけて食べた似非(えせ)かき氷に凝縮される。雪道に転ぶことはあっても、冷たいだけで痛くはなく、ほぼ楽しい思い出ばかりである。文字どおり長い氷柱(つらら)を、ポキポキ折りながら、食べたことも楽しい思い出である。雪がこんなにも人間界に悪さをすることを知ったのは18歳で上京し、以来関東地方(東京都、埼玉県、神奈川県)に住むようになってのことである。それでもその悪さは実体験ではなく、九州(熊本)に比べて、より身近に感じていたにすぎない。結局、わが見る雪景色のつらい風景は、テレビニュースに観る雪の降り様のもたらす、人々の苦しむ光景である。日本列島の多雪地方にあっては、大雪警戒警報が出ている。それゆえ、わが雪景色礼賛は慎む覚悟で、現在は起き立ての寒さを堪えている。山沿いのわが家周辺にも、雪が降りそうである。だとしたら積もらず、チラチラ小雪が舞う程度を願っている。ひたすら願うのは、警戒警報が出ている地方および地域の人々の安寧である。今や雪景色は、心中の思い出と風景で、十分こと足りる。嗚呼、寒いなあー。だらだらと、長く書いてしまった。夜明けの光(熱源)は、まだ先である。

潮時

 1月23日(月曜日)、5:28に起きている。寝床の寒さはこの二日、ごく小さな「電気行火(でんきあんか)」で対策している。功を奏して、よく眠れている。ところが好事魔多し、胃部不快感に見舞われて、気分を殺がれ、この先文章が書けない。「ひぐらしの記」は、潮時なのであろう。潮時とは、平易な日常語である。だけど、案外難しい言葉でもある。使い方を、間違っているかもしれないと思い、電子辞書を開いた。
 【潮時】「①潮水のさしひきする時刻。②あることをするための、ちょうどよい時期。好機。時期。」
 やはり、なんだか腑に落ちない。だから、この場合は潮時を用いず、こう言いかえればいくらか腑に落ちる。案外、「ひぐらしの記」を止める決断をする時なのかもしれない。しかし、決断は鈍っている。

寒い朝。究極のマイナス思考

 1月22日(日曜日)。目覚めて、胸の鼓動、腕の脈拍、確かめる。生きている。やがて、共に動きが止まる。死ねば、こんな文章さえ書けない。その点、短くても、愛しさきわまる文章である。今週には、稀なる寒気が訪れるという。だとしたら、早めに命を畳もうと思うのは、人生最良の決断なのかもしれない。しかし生来、優柔不断の私は、決断を鈍る。寒い朝、究極のマイナス思考文を書いて、閉じる。挙句、なお生存を求めて、階段の二段飛びで、茶の間へ向かう。そして、人工の暖に当たる。デジタル6:03における、いまだに消え去らぬ寝言である。

焼きが回る

 1月21日(土曜日)、ほぼ一晩じゅう眠れず、仕方なく起き出している。それゆえ気分すぐれず、文章を書く気分になれない。起き立てに浮かんでいた言葉を電子辞書でおさらいし、おさらばである。【焼きが回る】「①刀の刃などを焼くとき、火が行きわたりすぎてかえって切れ味がわるくなる。②年を取ったりして能力が落ちる。」身に沁みて、つらい言葉である。

大寒

 机上に置くカレンダー上には、「大寒」(1月20日・金曜日)と、記されている。言うなればきょうは、気象の上では寒気が最も厳しい、擂り鉢の底に当たる。もはや嘆くことは勿れ! 寒気は、擂り鉢の窪みに沿ってときおりぶり返しながら、確かな足取りで暖気の頂上へ駆け上る。
 再びカレンダーに目を遣ると暖気は、立春(2月4日)、立夏(5月6日)を越えて、間違いなく立秋(8月8日)あたりまで駆け上る。いや、それにとどまらず真夏日は、厳しい残暑の高気温さえもたらして、ようやく暖気は打ち止めとなる。このことでは大寒は、耐えて、歓迎こそすれ嘆くことはない。まさしく大寒は、一陽来復の気分ほとばしる、季節の恵みすなわち屈折節点である。
 暖入りのお先棒を担ぐのは、再来週にひかえる「立春」である。きょうは気分良く、このことだけを書けばいいのに、きのう晒した恥のことを書かずにはおれない。きのうの私は、わが日常生活における、真実一路の一端を書いた。もちろん、恥を厭(いと)うたり、覆(おお)うたり、することなく真摯にあけすけに書いた。きのうの恥晒しをあらためて記すとそれは、パソコン部屋とわが寝室における、人工の火の気のないなさけなさの吐露だった。すなわち、きのうの私は冬季にあって、火の気のない部屋におけるわが日常生活の一端を書いたのである。挙句、その主たることは、寒気への防具は身をぶるぶるふるわせるだけの我慢と書いた。結構、長い間の我慢だった。しかしながら、きょうの大寒を始点としてこの先強いられる我慢は、多くて両手指、少なければ片手指の数くらいで済みそうである。
 幸いなるかな! 大寒とは名ばかりで、寒気は緩々(ゆるゆる)でわが背筋は伸びて、猫背のように丸まってはいない。それゆえ現在の私は、「大寒」大歓迎の夜明け前にある。確かに、季節や気象はときには嘘を吐く。けれど大筋には、きょうから確かな足取りで、寒気を撥ね退けて暖気の頂上へ駆け上る。春の兆しはもはや兆しとは言えず、コトコトドンドン、確かな足取りで近づいている。

起き出し、「寒い夜明け前」

 1月19日(木曜日)。気象庁の予報に違わず、頗る低気温の夜明け前に起き出している(3:58)。起き立てのわが身は、ガタガタと震えている。風袋(ふうたい)の就寝時間は大きく間引きされて、正味の就寝時間はいくらもない。悪の根源は、頻尿のせいである。その回数は、6回ほどを数えている。パソコン部屋の熱源は、頭上の二輪の蛍光灯の明かりだけである。しかし、あたりまえだがまったく熱源の用はなさず、静かに本来の明かりだけを灯している。さらにきょうは、これまで隠していた生き恥を晒そう。わがひとり部屋の寝室のエアコンは、壊れたままで修復がきかずにほったらかしのままで、これまたまったくの用無しである。妻は階下に寝んで、長年、別就寝である。この状態は、文章を書く上では都合がいいためでもある。階下にはエアコンやガスストーブの人工の暖炉がある。私はエアコンの買い替えの金をケチっているわけではない。けれど、つまるところ私は、買い替えなしに冬の寒さや夏の暑さを我慢して寝んでいる。
 確かに、人生行路は艱難辛苦の茨道である。生きているかぎり、まるで陸上競技のハードル種目さながらに、越えても次のハードル(障害物)に遭遇する。人の世のこの艱難辛苦を出し(方便)にしてお釈迦様は、この世(現世)は「厭離穢土」(おんりえど)、あの世(来世)は「極楽浄土」(ごくらきじょうど)と説法される。挙句、「衆生(しゅじょう)を悟りの異界に」に導かれる。ところが、お釈迦様の施しとて無償ではなく、いや箆棒(べらぼう)に供物や賽銭を求められる。この世、あの世、共に俗物(金)の世に変わりない。
 寒さに震えて、こんなことを書くくらいなら、これで書き止めがわが身のためである。夜明けの明かり(熱源)はまだ先である。わが生き様の不甲斐なさが、全身いや心身に沁みる。明日は「大寒」(20日)」である。

安眠、熟睡、「永眠」

 1月18日(水曜日)、ぐっすり眠れて、起き立ての気分はすこぶるつきに良い。寒気は、きのうよりいくらか緩んでいる。安眠と熟睡がこんなに気分良いものであれば、永眠は輪をかけてさぞかし気分良いものであろう。だからと言って早やてまわしに永眠にすがる気持ちはなく、今しばらくは生きていたい気持ちをたずさえている。
 ところがきのうのNHK「クローズアップ現代」では、部屋の中の寒さは死亡に繋がりやすいという、警戒警報を鳴らしていた。当たり前のことでもあり、聞き耳を立てることはなかったけれど、のほほんと見過ごすこともできず、いくらかの警戒心をかき立てた。なぜなら私は、いつもまったく火の気のないパソコン部屋で、寒気に身震いしながら文章を書いている。だから、私への戒めの番組にも、思えていたのである。
 パソコンを起ち上げて、真っ先に見遣ったヤフー画面の項目には、こんなものがあった。今週の「大寒」(20日)に向かう日本列島は、十年に一度くらいの低温に見舞われるという。これまた、わが身に堪える警戒警報である。あれやこれやの警戒警報に際し、「死ぬものか!」と、奮起して気張っているところである。なぜなら大寒とは、擂り鉢にたとえれば真冬の底である。それゆえにこれに耐えれば、しだいに寒気を蹴散らし、暖かい春の季節が訪れる。いやいや、春は遠くない。二週間ほど先には「節分」(2月3日)、翌日には「立春」(2月4日)が訪れる。こんな季節の恵みを間近にして死ぬようでは、私はとことん愚か者である。挙句、人様とて私を、「バカ者」呼ばわりされるであろう。そんな蔑(さげす)みを撥ね退けるためにも私は、「一寸の虫にも五分の魂」という、気概を駆り立てている。
 二十分間ほどの殴り書きで、飛んでもないくだらないことを書いてしまった。それゆえに、詫びて結文とするものである。夜明けは、寝床へとんぼ返りをせずにおれないほど、まだ先にある。ほとほと、しくじった文章である。寒中にあって、生きているだけが取り柄である。春近し、永眠はまだ先でいい。

寒さと恥晒しで、身が震えている

 1月17日(火曜日)、きのう緩んでいた寒気は一夜にして戻り、起き立ての私は、まったく火の気のないパソコン部屋で、ブルブル震えている。嘆いても仕方のない、季節相応の寒さである。カレンダー上の「大寒」(20日・金曜日)はすぐそこにある。寒気に一利あるとすれば気を締めて書き終え、階下の茶の間へ下りて、人工の暖を取ることである。しかしながら気の引き締めは叶わず、走り書きと書き殴りのコラボ(競作)となり、茶の間へ逃げ込むこととなる。結局、気の利いた文章は果たせず、人工の暖を取るだけとなる。就寝にあっては安眠を遮られ、起き立てにあっては文章に悩まされ、昼間にあっては生存(命)に脅かされる。わが日常生活における、つらい心模様である。小さいこととはいえ、わが人生(生涯)にまつわる厳しさの一端である。しかし、私にかぎらず世の中の人だれしもにも、生涯をまっとうするには厳しさがある。
 私はパソコンを起ち上げると真っ先に、ヤフー画面を開いている。そして、連なるニュース項目を見遣る。見遣る項目は、新聞記事の総覧みたいなものである。ごちゃまぜに、10項目くらいの見出し記事が羅列している。すなわち、人間の生き様を表す社会編である。それらを読むと多くの記事は、人間だれしも生きる苦しみの証しをなしている。なんで人間社会は、こうも悪徳まみれだろうと思うばかりである。いつものことだがまったく、善徳や良徳を表す見出し項目には遭遇しない。悪徳を並べるのは目立ちがりやのメディアの習性なのかと、勘繰りたくなる。いややはり、世の中の出来事は悪徳まみれなのかもしれない。ちっとは綺麗な人間社会を夢見て、いや現実に見て、あの世へ逝きたいものである。
 項目の中には開いて、深読みするものもある。ところがそれをすると、そののちの「ひぐらしの記」の執筆時間が圧縮される。あるいは、悪徳記事を深読みすれば、気分の落ち込みに見舞われて、文章書きの気分を殺ぐことになる。それを避けるために多くは、項目だけをサラッと読んで、駆け足で「ひぐらしの記」へ向かっている。こんなときにはもとより、気の利いた文章など書けるはずもない。なさけない、楽屋事情(話)である。こんな文章は、先へつなぐ必要はなく、これで書き止めである。いや、書かなければよかった、思う30分間ほどの書き殴りである。寒気に身が震えている。重ねて、恥を晒したことに身が震えている。夜明けはまだ先にある。幸いにも生存を叶える、命の鼓動は脈々とある。

戯れ文

 1月16日(月曜日)、二つのごく小さい僥倖に恵まれて起き出している。一つは、「大寒」が今週(20日・金曜日)にひかえているのに、寒気は大緩みにある。一つは、恐れていた起き出し時刻の早さ(3時近く)の定着を免れて、いい塩梅の頃(4:59)に起き出している。この二つとは異なり、こちらは僥倖とは言えない不断の恵みだけれど、書けば読んでくださる人がいる。逆に言えば、読んでくださる人が絶えれば、即刻書き止める。このことは、虫けらの固い意志である。
 あえてこの理由を書けば、寝起きの眠気眼に加えて朦朧頭で、さらには文章に難儀し、恥を晒して書くまでもない私日記にすぎないからである。確かに、寝起きの駄文とはいえ、文章の体裁をととのえることには、ほとほとつらいものがある。換言すればそれは、わが脳髄の出来をはるかに超えた苦悶の作業である。挙句、こんな文章を書いては、あけすけに読んでくださることをねだっている。私は、身の程知らずの欲張りである。確かに、私日記であれば秘かに書いて、人様の目に晒さずとも満足すべきものである。ところが、これに反する心境をたずさえているのは、私日記をブログに認(したた)めているせいなのかもしれない。すなわち、ブログこそ欲張りの根源を為している。いや、ブログゆえに、人様の厚誼に出合い駄文継続の支えにあずかっている。ネタの浮かばない起き立ての文章には、私自身、何を書いているのかさっぱりわからない。たぶん、頓珍漢なことを書いていることだけは、はっきりと請け合いである。
 きのうの「小正月」が過ぎて、いよいよ正月気分はおさらばとなる。だとしたらこの先、少しは増しな気の利いた文章を書かなければならない。きょうは三十分近くの殴り書きで済まして、気分鎮めを試みることにする。夜明けはまだ先だけれど、寒気の緩みにすがり、長く頬杖をついて迷想を愉しむつもりである。こんな文章は読んでくださらない人がいても、もちろん書き止めの原因にはならない。なぜなら、単なる身勝手な継続文にすぎないからである。やはり文章は寒気に身震いしてこそ、体裁をととのえる意気が沸き立つのかもしれない。ほとほと、かたじけない文章である。デジタル時刻は現在、5:34と刻まれている。表題のつけようがない戯(ざ)れ文である。