黒田昌紀の総合知識論

黒田昌紀の総合知識論

下記作品群は現代文藝社発行の文芸誌「流星群」及び交流紙「流星群だより」に掲載されたものである。

元阪神タイガース、ジーン=バッキー投手の故郷   ルイジアナ州のケイジャン社会の特性と歴史的背景

 もう、今から四十五年ぐらい前になるが、古いファンなら憶えていると思う。昭和三十年代後半から四十年代前半まで、阪神に七年、近鉄に一年在籍し、先発投手として何回も二十勝以上を挙げ、巨人相手に一度ノーヒットノーランを記録し、全盛期の王や長嶋をキリキリ舞いさせた実力派のアメリカ人投手ことジーン=バッキー(GENE=BAQUE)のことである。バッキー投手は八年の日本球界在籍で百勝以上を挙げた。これは同じく百勝を挙げた、元南海ホークス、大洋ホエールズに長年在籍したテキサス州ヒューストン出身のジョー=スタンカ投手と並ぶ記録であり、バッキー氏は大投手である。
 このバッキー投手は、アメリカ本土ではメジャー=リーガーになれず、ハワイの2Aリーグに所属し、プレーしていた時に日系人の取りなしで、阪神タイガースのテストを受けて、昭和三十七年の春のキャンプから阪神タイガースに在籍することとなった。当時の名投手コーチ、杉下茂氏の指導により、素質が大開花し、二年目より阪神のエースとして活躍する。村山実投手とこの阪神タイガースの両輪として、阪神の二回の優勝に貢献した。
 背が高く、投球にスピードがあったが、コントロールが悪かったのを、杉下茂氏の指導で矯正し、また初期の頃、巨人で監督をした名将藤本定義氏の指揮のもと、昭和三十九年の阪神セリーグ優勝時には、二十五勝をあげ、同年の南海ホークスとの日本シリーズでは、前述のスタンカ投手と投げ合った。
 長身から投げ下ろす、くねくねとした投球フォームでタイミングをずらし、速球、カーブ、ナックル=ボールを駆使し、巨人の王や長嶋、そして、セリーグの他球団の強打者をキリキリ舞いさせ、押さえ切った当時の大投手である。歴代の阪神の外国人選手の中では、昭和六十一年に三冠王になった「史上最強の助っ人」、ランディー=バース内野手と並ぶ名選手である。
 昭和三十九年に阪神は日本一を逃がしたが、翌昭和四十年五月には、巨人戦ではノーヒットノーランを達成し、その試合で自らも二本のホームランを放ち、栄光を勝ち取った。昭和四十一年、四十二年と二十勝以上挙げたが、悲劇は翌年の昭和四十三年に起きた。九月に対巨人戦で、バッキー投手が打者王貞治選手に投げたビーンボールまがいの投球に、王選手が怒り、王選手がマウンド付近で注意した後、バッキー投手と交代した権藤正利投手が誤ってデット=ボールをさせ、巨人、阪神両チームの選手、コーチと大乱闘になった。その際、バッキー投手は、王選手への危険球に怒った、当時の巨人打撃コーチ荒川博氏と格闘になり、親指を骨折した。そのケガにより、翌年、阪神から近鉄へトレードされたが、わずか七勝に終り、その年で退団し、日本球界から去ることになった。
 バッキー投手の生まれた土地、ルイジアナ州南西部、レーク=チャールズは、アメリカ南部のフランス文化とカナダのフランス文化の影響を受けた伝統の地であることは、日本では殆どの人が知っていない。この地は、十八世紀以後、カナダのフランス系アカディア人が、フランスが抗争でカナダの領土を失って、カナダがイギリス領になった後、フランス領だったルイジアナ州に入植し、元々の同地のフランス文化に、カナダのアカディアのフランス文化を融合させ、地域社会を作り、独得のフランス文化圏を作った。この南西ルイジアナ州の一地域にある、カナダ系フランス文化をケージャン(CAJUN)文化という。ケージャンとは、カナダのアカディア(ACADIA)がルイジアナ風に訛ったものだ。  以下、アカディアを中心とするカナダのフランス植民地とそこへのイギリスの進出、ルイジアナ州のアメリカのフランス植民地の歴史を辿り、バッキー投手の住む、ルイジアナ州南西部の独得なケイジャン社会の生成過程とその文化、習慣を歴史的アプローチで論じてみたい。
 カナダのアカディアは、新大陸にスペインが植民をし始めた後、やや遅れ、一五二四年にバラサーノがセントローレンス川沿いから占領し、小さな植民地を作ったのが最初である。小さな集落で、一六〇五年ルイ十四世の時、リシュリュー宰相の植民地政策で、ポート=ロワイヤル港の建設がなされ、その時、正式な王室によるフランス植民地となる。その後、アカディアは一時、イギリスの進出によって、その植民地が奪われたが、兵力で奪回し、ブレダ条約によって再び、一六六七年にフランスの植民地となる。
 そうしているところに、イギリスの北米への進出、植民地化が一五八〇年から一六〇〇年以後、本格化した。ヘンリー=カボットやサー=ドレークの新大陸探険後、アメリカの大西洋岸を植民地化し、さらに北上し、アカディア地方からニュー=ファウンドランド島へ進出した。
 一六六〇年以後、イギリスで王政復古後、一六八八年名誉革命により、ジェームス二世国王の妹、メアリーが嫁いだオランダ、オラーニュ公ウィルヘルムが、メアリーと共同統治をし、ジェームズ二世を追放した事は、フランス王ルイ十四世との対立を生み、以後フランスとイギリスの抗争を多くの国々を巻き込んだ形で行う。それがヨーロッパに於ける戦争だけでなく、北米カナダでの英仏の戦争による植民地の奪い合いとなって行った。
 ヨーロッパに於けるウィリアム王の戦争(一七八九年︱一七九七年)、スペイン継承戦争(一七〇一年︱一七一三年)の戦いは、北米にも及び、英仏の戦争となり、軍事力で優位に立つイギリスは、スペイン領のフロリダの一部とフランス領アカディアをユトレヒト条約で得て、ノバスコシア(新スコットランド)とニュー=ファウンドランド島をも取得し領有した。
 さらにヨーロッパに於ける七年戦争では、カナダに於て、一層激しい英仏の領土争いになった。ハリファックス卿が、カナダ東部のフランス領(現在のハリファックス村)に向け、多くのイギリス人住民を入植させ、イギリスの植民地にしようとした。
 そして、英仏はセントローレンス川を挟み、領土進出、争奪戦となった。イギリスはアメリカのペンシルベニア西方から北上し、一方、フランスはそれを阻止するため多くの砦を築き、互いにインディアンを扇動していると主張し、戦いを始めた。これが北米に於けるフレンチ=アンド=インディアン戦争である。戦いの結果、イギリスが勝ち、一七六三年のパリ条約に於て、カナダのフランス領だったニュー=フランスはイギリスが領有し、同国の植民地はアメリカのミシシッピー河以西の現在のルイジアナ州、テキサス、アーカンソー、コロラド、ネブラスカ、ミズーリ、ノースダコタ各州を含む、ルイジアナ領地のみとなった。ニュー=フランス領をカナダで失った事により、フランス王室はカナダの毛皮や水産資源を失い、財政難となり、フランス革命に走る一因となった。
 後のアカディアより、アメリカのルイジアナへのフランス系カナダ人の入植について述べるために、その間のアカディアの事情を見てみる。カナダの中で狭くアカディアに絞って、そこへのイギリスの進出について見ると、一七一三年のユトレヒト条約でカナダ東岸のアカディアは一応、イギリス領となったが、実質上の統治は行なわれず、フランス系住民は数千人いて、なおも小さな砦が作られ、戦争は続いていた。が、イギリスの総督は、入植地ハリファックス建設後、イギリス人やドイツ人を移民させ、フランス人を圧制した。そして、一七五四年以後は、総督となったチャールズ=ローレンスは、フランス系カナダ人、約一万人を本気でアカディアから追放しようと決意した。
 一七五四年フレンチ=アンド=インディアン戦争が起きると、フランス人の抵抗を避けるため、一万人を船舶、教室、要塞などに収容し、拘束した。これが、後の第二次世界大戦で、イギリスではイタリア人、ドイツ人、日本人など敵性外国人をマン島に収容し、アメリカではカリフォルニアの日系人がアメリカ政府によってネバタ州などへの収容の歴史的先例となった。
 戦争後、一七六三年以後、フランス系住民は役人であった一部を残し、他は財産と権利を奪われ、アカディアやノバスコシアから出て行かなければならなくなった。それはフランス系住民が、イギリス総督に忠誠を誓わなかったからだ。よその土地へ移住した先は、フランス本国、その他のフランスの植民地で、この時、ルイジアナのメキシコ湾岸南西部へ移民した最初となった。
 当時、フランス領であった広い地域のルイジアナは、一七〇〇年代後半に戦争により、スペイン領になったりフランス領になったりしていたが、一七九〇年頃までにアカディアから約四千人のフランス系住民が、ルイジアナ南西部のメキシコ湾岸のレイクチャールス市周辺に移住入植し始める。そこで、従来から根づいていたアメリカ、ルイジアナのフランス文化と違う、カナダのフランス系文化を持ち込み、ルイジアナの文化と混じり、独得のフランス文化、アカディアが訛ったケイジャン文化を作り上げる。
 アカディアからの移民の多くが農民、漁民、毛皮商人であった。一八〇三年に、フランス革命後、財政難とイギリスとの戦争のため、ナポレオンは広大なルイジアナをアメリカへ売却することになる。
 ルイジアナ領を買収した当時のジェファーソン大統領は、イギリス流のコモン=ローの法体系の行政司法をルイジアナに植えつけようとしたが、フランス伝統の行政体制は変えることができず、フランス領時代の行政機構をそのまま使わざるを得なかった。民法、刑法、憲法(ナポレオン制定法)も今なお、ナポレオン法典の伝統を維持している。フランス文化も同様だ。アメリカ領となった後、一八三〇年以後はアカディアの漁民を中心にルイジアナのケージャン文化圏へ移民は続いた。
 ケージャン文化の特色は、言語、音楽、食、人種に見られる。  まず、言語についてであるが、フランス語をアカディアからルイジアナへ持ち込んだ事は間違いないが、一部古典フランス語、ドイツ語、そして英語の混ったもので、さらにルイジアナで独得の言語が作られることになる。そのケージャン=フランス語が、十八世紀から人々の間で話されていたが、アメリカ領や州になってから学校教育で英語を押しつけられ、生徒が学校でフランス語を話すと笑われたため、人々が話さなくなり衰退して行った。しかし、現在もディスクジョッキーやケージャン音楽を放送するケイジャン=フランス語のラジオ局が存在する。
 食文化については、独得なものがある。ザリガニを水田などで養殖し、そのゆでた物をスパイスやケチャップをつけて食べたり、スープにした物。エビ、ザリガニの手、ホタテを使って味つけした雑炊、お粥、シー=フード=ガンボー、独得のケージャンスタイルのピリ辛のフライド=チキンやフライド=ポテト、長いフランスパンをドッグパンのようにしてジャラペノ=ペッパーを入れたルイジアナ=ホット=ソーセージ、腸詰めのルイジアナ=ホット=ソーセージ=サンドウィッチ、これらはケージャン=フードとかフレンチ=ポーボー(PO︱BO)と呼ばれる。その他にブタの皮のから揚げ、米とソーセージのちまきなどがある。
 音楽には、ケージャン独得のバイオリンを使ったり、アコーディオンを使い、アカディア以来の伝統の民族衣装での舞いがあり、ケージャンの人々がパブなどに集まって、それらを聞き、楽しんでいる。そして黒人もアコーディオンや金物の洗濯板を改造した楽器の音楽を持っている。人種的にもフランス系白人と八分の一や十六分の一黒人の血が混じったルイジアナ=クリオール人がいる。
 バッキー元投手はレーク=チャールズ郊外のケージャン地域社会で生まれ育った。彼の名前、バッキーは、BACKEYという英語名でなく、BAQUEというフランス名であるのでもそれがわかる。ただ、フランス式にバックと読まず、バッキーと英語風に読んでいるのだ。
 バッキー氏は野球に入る前に、地元の州立大学サウス=ウェスタン=ルイジアナ大学で教育学部を卒業し、教員免許を取得していたので、日本球界から去った後、地元の小中学校で教えながら、阪神タイガース時代に稼いだお金で、故郷の家の近くに、東京ドームの数倍あるという、数万エーカーの牧草地を購入し、牧場を経営している。BAQUE RANCHという。これについては成功したようである。そして、バッキー氏は、自らの阪神タイガース時代の活躍、ピッチャーとしての勇姿を地元の人に知ってもらうため、自宅で当時の映像をビデオで上映し、人々に見てもらっている。
 ついでに言うと、バッキー元投手が教員免許を取得したサウス=ウェスタン=ルイジアナ大学には、地元ケイジャン文化と歴史の史料や資料を集めたケイジャン文化研究所(THE INSTITUTE OF THE CAJUN CULTURE)が存在し、そのケイジャン文化、歴史については、全米の他の大学や博物館、その他では見られない膨大な資料を持つケイジャン文化の研究のための随一の資料館である。
 私的な話であるが、筆者は一九八〇年代半ばにテキサス州ヒューストンにある黒人大学テキサス=サザン大学の歴史学部に在学し、修士号を取ったのだが、その間に顔だちが殆ど白人に似ている黒人の血が十六分の一入っている大変太った大柄なルイジアナ、クリオール人のロー=スクール(法学大学院)の学生と相部屋であった。
 この男子学生は、当時はUCLA(カリフォルニア大学、ロサンゼルス校)で学士を取り、テキサス=サザン大学のロー=スクールに来ていて、自宅は当時、カリフォルニアであったが、以前はルイジアナ州、レーク=チャールスの近くに住んでいた。そして、そこに親類もいて、時々訪ねていた。ルーム=メイトとしてバッキー元投手の話をしたが、大変よく知っていて、地元の人々にはバッキー元投手の阪神タイガース時代の活躍が、かなり知られているようだった。ケイジャン文化地域の誇りのようだ。
 昭和三十九年に日本シリーズで、南海ホークスと投げ合ったジョー=スタンカ投手の地元がテキサス州ヒューストンである事を考えると、すぐ隣に住むアメリカ人の投手二人、即ちバッキー(阪神)とスタンカ(南海)と二人の百勝投手を、セ・パ両リーグで輩出したのだなと思うと興味深い。
 バッキー投手とスタンカ投手の投げ合った阪神、南海の昭和三十九年の日本シリーズの試合は、ルイジアナ州のケイジャン=フランス社会とテキサスのイギリス文化の形を変えた戦いだったと言えよう。
 その後、引退したバッキー元投手は、昭和五十年以後から六十年代に何回か日本を訪れ、大阪のUHF局サン=テレビで阪神戦の中継に、ゲストとして招かれ、阪神タイガースの同僚選手であった解説者鎌田実氏と、日本テレビの対巨人戦では村山実氏と、たどたどしい日本語で阪神時代の思い出や解説のようなことを話していた。
 バッキー氏ほど阪神の現役時代に、便所や食生活、風呂など、慣れない日本の生活に敢えて慣れようとし、日本の習慣に合わせようとしたアメリカ人選手は他にいない。その過程で、他の選手と融け込み、英語と日本語の会話帳を駆使し、日本語を習得したから、それが出来たのだ。一度は阪神や他の球団でコーチや監督をやらせたい人だった。
 日本にケイジャン文化の香がする所が一つある。一八三〇年のルイジアナで創業したフランス風カフェオレの喫茶店、カフェ=デュ=モンド(CAF`E DU MONDE)である。ここの横浜店ではケイジャンに近いスィーツとカフェオレがルイジアナの味で、アコーディオンを使ったケージャン音楽をBGMとして使っている。
 バッキー投手の阪神時代の活躍の姿を覚えている人は、カフェ=デュ=モンドへ行き、スィーツを食べ、音楽を聞き、束の間のケイジャン文化に浸り、バッキー氏の顔を思い出してはいかがだろう。

参考文献と資料

 別冊ベースボール=マガジン「阪神タイガース60年史」 陽春号 平成7年 ベースボー ルマガジン社
 「アメリカの町」︱ルイジアナ州、ユーニス、ケージャン音楽と文化 BS︱TBS 平成二十三年五月四日放送
 GRAND DICTIONNAIRE ENCYCLOPEDIQUE LIBRAIRE LAROUSSE PARIS 一九八〇年 VOL1
 ENCYCLOPEDIA AMERICANA INTERNATIONAL EDITION CROBEL INCORPORATED 一九九二年 VOL5、17
 JAMES OLSON THE ETHNICAL DIMENSION OF THE AMERICAN HISTORY HARPER&ROW 一九八一年

(流星群第27号掲載)

キング牧師暗殺の疑問 ――史料による検証と私的捜査による検証

 一九五〇年代以来、何回か逮捕されながらも種々の差別と戦った偉大なる黒人リーダー、マルチン=ルーサー=キング牧師は、一九六八年四月四日、テネシー州メンフィス市のロレーヌ=ホテルに於て凶弾によって暗殺された。キング牧師の暗殺については、ケネディー大統領の暗殺のように、公衆の面前で行なわれ、狙撃された方向が複数であり、狙撃犯人が本当に単独犯人であるか、種々の本などで異論が唱えられたのと異り、キング牧師を狙撃した犯人が暗殺を本当に実行したのかどうかについて、あまり異論がなく、疑問が唱えられていない。しかし、ごくわずかだが、キング牧師暗殺の資料があり、それを参照してみると、暗殺犯について大いなる疑問が湧き、検証してみる必要があると思われる。以下について資料を参考にした上で、私自身のキング牧師の暗殺現場ロレーヌ=ホテルでの現場検証捜査を記し、かつ、キング牧師暗殺犯が囮にされた犯人で、実際の犯人が至近距離から撃った可能性について述べてみる。
   (一)史料による暗殺の検証
 まず、キング牧師暗殺の経過を簡単に述べてみたい。一九六〇年代に、アメリカ、テネシー州メンフィス市では、市の黒人下水道局の清掃夫達が低賃金で劣悪な労働条件の下にあり、なかなか改善されずにいた。そこで黒人労働者達は、一九六八年三月、労働条件改善と黒人の労働者組合設立を求め、ストライキに入った。しかし、市長はそれを拒否し、ストの黒人を解雇し、非スト黒人を残し、白人の労働者を代わりに雇用したので、黒人労働者達は市内でデモ行進を行い、警察官と衝突して投石が行なわれ、暴動寸前に至った。
 そんな状況下、地元の教会関係者や黒人の南部諸州のキリスト教団体やその中心の南部キリスト教指導者会議(SCLC)が、黒人労働者を支援する動きを示していた。
 キング牧師は三月二十八日にメンフィス市入りし、教会で演説した後、ロレーヌ=ホテルに投宿し、彼が同年四月二十三日メンフィスで「貧者の行進」を計画し、支援者の黒人牧師、ラルフ=アバネシー牧師、ジェシー=ジャクソン牧師、そして後の国連大使、アンドリュー=ヤング氏と計画について話し合っていた。その間、連邦地方裁判所は、政府の求めでキング牧師達の行進を禁止する命令を出すべく、キング牧師に出頭命令書を裁判所書記官が手渡していた。(P29‐P81) ※ジェラロルド=フランク著・木下秀夫訳、「キング牧師暗殺事件―あるアメリカの死」 早川書房 昭和四十八年初版 洋書名 �GEROLD FRANK AN AMERICA DEATH WILLIAM MORRIS AGENCY�一九七二を参照した。文の下にカッコで頁を記す。以下も同じ。 キング牧師は一九六八年四月四日、宿泊先のロレーヌ=ホテルの三〇六号室前のバルコニーの所で、前の道、マルベリーストリートの向いの丘の上にあるサウス=メインストリート四一八︱三、労働者用簡易宿舎、間貸屋の5B室の浴室の窓から、同室に宿泊していた、エリック=ゴールトによって、ライフルで後から右アゴを撃たれたとされている。(後の捜査でゴールトはジェームス=アール=レイが本名だと判明)
 キング牧師がロレーヌ=ホテルのバルコニーでアール=レイに撃たれるまでのレイの生い立ちと、犯罪の前歴について、そして暗殺に至るまでの移動経過について触れてみたい。
 アール=レイはミズリー州の小さな貧しい村でアイルランド系アメリカ人の極貧の家庭に生まれた。家の回りには、同じく極貧の白人達が住んでいた。レイの家庭では一日わずか七十五セントしか食事に回せないほど貧しかった。そして、レイの回りの白人達は、白い肌を持っているということが、同じく貧しい黒人より上であるという誇りがあった。
 レイは学校をわずか一年ぐらいで落第し、兵役に就くが、能力不適応で、早くに除隊することになる。その後、レイは金めの物を奪う犯罪を重ねることになる。一九五二年から五九年までの間に、強盗、タクシー強盗、詐欺、強盗殺人を犯し、二度刑務所に収監されていた。キング牧師暗殺の前までは、ミズリー州ジェファーソンシティーの刑務所に収監されていた。
 その独房は、黒人に対して憎悪をいだく多くの白人達が収監されていた。レイは白人が貧しいのは、黒人が貧しさから脱出しようとして、白人の職を奪うことになるからだと思い、黒人を憎むようになった。そして、獄内で「キング牧師を殺せば多額の奨金を得られる」という噂を吹き込まれる。レイはキング牧師を暗殺すれば報酬が得られると信じ脱獄する。その方法は、脱獄が厳重なはずのところ、パンを運ぶカートの中にレイが隠れ、監獄の外に出て、近くの鉄道の線路沿いに歩き、アラバマ州バーミンガムで中古車のムスタングを買い、家族のいるシカゴへ行き、二人の兄弟と会うことになる。極貧の生活をしていた家族は、ポルノをやろうとしていたが、レイはキング牧師暗殺をほのめかす。
 その後、アール=レイは、カナダのモントリオール、メキシコで売春婦と過ごし、ロサンゼルスに四ヶ月ほど滞在する。ここでレイは、ダンスを習ったり、カギ師の職業訓練やバーテンダーの学校を出たり、出所後の手に職をつける行動を取っている。そしてキング牧師がロサンゼルスで演説したのを聞き、キング牧師の住むアトランタに住居を移し、暗殺の機会を待った。三月になって、アラバマ州モントゴメリーへ行き、スコープ付きのライフル銃を買い、三月二十八日にメンフィス市に入り、市内のモテルに宿泊し、監獄から持ち出したトランジスターラジオでキング牧師がロレーヌ=ホテルの三〇六号室に宿泊していることをつかみ、暗殺の数日前に、向い側の労働者用間貸屋の一室を借り、暗殺に備え、近くで双眼鏡を買い、キング牧師を浴槽の窓から監視していた。そして暗殺を実行した。
 ゴールト(レイ)が犯人とされた根拠はいくつかある。まず、ゴールトの名が宿帳にあり、キングが撃たれた時間帯に5B室浴室からライフルのような布に包まれた物を持って出て来たのを隣人に見られている事(P134‐P136)。さらにそれを持ってかかえて宿の外へ逃げ去ったのを目撃され(P295‐P296)、同間貸屋の近くの店からレイ所有のアラバマ州ナンバーの白いムスタング車に乗って逃げたのを目撃されている事(P131)。そして、ゴールトは前の日に別のホテルに投宿し、メンフィスに犯行時にいたことのアリバイがある事(P307)。近くの銃砲店でケース入りのライフル銃を購入したのを目撃されている事(P90)。また、近くのバーでゴールトが黒人二人によって目撃されている事(P138)。同じ銃砲店の前で間貸屋宿で目撃されたライフル銃が店先に破棄されていた事などである(P131‐P132)。
 キング牧師暗殺者の捜査は、まず幾人かのメンフィス市警の警察官が駆けつけ、非常線を張った。そして、キング牧師が黒人運動を支援をし、当局が取り締まっている重要人物なので、FBIが暗殺犯を全国的手配をした。捜査の過程でゴールトなる人物は、前年の三月にミシシッピー州の刑務所を脱獄したジェームス=アール=レイである事が判明し、セントルイス、ニューオーリンズ、ロサンゼルス、メキシコなどへ移動して暗殺の前にメンフィスに入り、暗殺を決行後、白のムスタングでアトランタへ行き、その後バスでカナダへ行き、偽名の偽造パスポートでロンドンに渡り、さらにポルトガルから白人主義者の国アフリカのローデシアに行こうとしたが、アフリカ行きの船がすでに出航していて、仕方なくロンドンへ戻った時、アメリカの司法当局の共助手続きによりロンドンで拘束されメンフィスに護送され、州の裁判所で刑事起訴された。
 裁判に於ては、レイが実行犯としては疑惑があるので弁護士が公判で反証しようとしたが、レイは取り調べでラウルという人物に多額の報酬で依頼され、単独犯として殺人を行ったと認めたが、三日後に否認し、裁判で争ったが、九九年懲役刑に自ら服した。そして一九九八年に獄中で死亡した。
 ところがレイが犯人として疑わしい根拠がいくつかあるのだ。レイが向い側の間貸屋の浴室から撃ったとする証言が確実でない事(P307)。それにレイの公判担当の弁護士の依頼で探偵が森でヤギをキング牧師に見立てレイが撃った同じ角度から撃った所、角度から言ってキング牧師殺害は不可能だという結論を持った事(P292)。また、キング牧師を病院に車で運んだ人々の話では、同氏は右アゴに穴があき、体の方々に複数の被弾痕があった事(P294)。この事は色々な角度から撃たれた事を示す。また、ホテルの斜向い側の消防署員の妻が、ロレーヌ=ホテルの内部から撃ったのを見たという証言(P294)。間貸屋のウラの茂みの中で撃って逃げた別の白人がいたとする証言がある事である(P295)。さらに、キング牧師が撃たれた時、すぐに掛け寄って介抱したナゾの白人がいた事(P117)。これらの証言は公判で取り上げられなかった(P301)。
 他に、ライフル銃の弾丸がキング牧師の体内を貫通したものであるという科学的証明がなく、指紋も一致しないなど(P292)。
 このようにキング牧師の暗殺犯をレイだと断定するには大いに疑問がある。       (二)筆者(黒田昌紀)によるキング牧師暗殺現場捜査検証
 筆者は昭和五十八年十二月より翌年一月末までキング牧師の暗殺現場、以前から黒人が主として泊まるロレーヌ=ホテルに滞在した。当時筆者はメンフィス州立大の歴史学の博士課程に在籍中であった。
 同ホテルは昭和三十年代に繁華街であったミシシッピー川沿いの土手の高い所にあるメインストリートから一区画入った、消防署の角を曲ったマルベリーストリートにある。
 同ホテルの間取りは次の通り。通りから入って左手に受付のガラス張りの開き戸のある事務所があり、その上がジャズアーティストBBキングが泊ったシャンデリアの特別室がある。その右手にプールがあり、奥に広い駐車場があり、その奥に二階建てのモテルがある。二階建てで下は二〇一号室から二一五号室、上に三〇一から三一五号室があり、鉄の手すりがあり、下に向う階段があり、二〇七号室の所、そして二一五号室の所にあった。二階は部屋の前がバルコニーになっている。キング師のいた三〇六号からバルコニーは、三〇七号室が一部屋分奥に引っ込んでいるのでカギ形に曲っていた。キング牧師は上の三〇六号室に泊まり、暗殺後はこの部屋をガラス張りし、花輪が飾られた記念館になっている。筆者は下の二〇五号室に滞在した。モテルの左手は、旧ホテルでうす茶のレンガ作りで、従業員などが滞在していた。
 当時いた人は、黒人の経営者のウォルター=ベイリー氏と兄のオーティス=ベイリー氏、すでに二人共六十代の黒人で、他に料理人のスコービー、受付のジャッキー=スミス、若い黒人の売春婦二人とカルヴィン=ブラウンがいた。筆者は同ホテルで料理を作ってもらって、この人達と一緒に食事をしていた。
 さて暗殺についての検証であるが、私が現場検証による捜査をした結果、レイが犯人ではない疑いがある。向い側のレイが撃ったとする労働者用の間貸屋は、当時すでに廃屋、空家になっていたが、入口から入りレイが撃ったとする5B室の窓からロレーヌ=ホテルのキング牧師の部屋を覗いてみた限り、レイがキング牧師を暗殺するのは角度から不可能であると思われる。その理由は、レイがいた部屋から見てキング牧師の三〇六号室は右斜め水平に約四十五度、垂直に三十度から四十度の角度になる。直線で約二百フィートの距離である。そこからキング牧師のアゴを撃つのは可能であるが、弾丸は斜め上の方からなので、首を貫通していなければならないが、後で述べるように遺体の写真では、そのような形跡がない。また当時のメンフィスの写真屋アーネスト=ウィザース氏の撮った写真によると、倒れ方が不自然である。キング牧師のいた三〇六号室は三〇七号室が一部屋分奥へ引っ込んでいるので、前のバルコニーがカギ形に曲っていて、キング牧師は道の方へ足を向け、三〇七号室への三〇六号室の横の壁に沿って倒れているのだ。もしレイが道路向い側の労働者用間貸屋の浴室から撃ったなら、キング牧師は部屋のドアの所で撃たれ、ドアに寄りかかり仰向けに倒れるはずである。
 そして当時、経営者のウォルター=ベイリー氏に、キング牧師が柩に入った未発表の写真を見せてもらった限り、葬儀屋の死体手術で整形されていたが、書物で言われているように右アゴが砕けておらず、左アゴに下からつき上げるような弾痕があった。このことは、二〇八号室の前の駐車場あたりから上へ、横斜めからキング牧師を撃ったことを示している。するとレイ以外に致命傷をキング牧師に与える弾丸を撃った者がホテルの敷地内にいる事になる。そしてキング牧師の死体には数ヶ所の弾丸による傷がある事から、道を挟んだ向い側の労働者用の間貸屋の茂みから撃った人間がいた可能性もあるし、キング牧師をすぐに介抱した白人が至近距離から撃った可能性もありうる。また。ロレーヌ=ホテルの敷地内にいたキング牧師に反対する黒人が撃ったかもしれない。
 レイは向い側の間貸屋の浴室から発射をしたのは事実であろう。その点、暗殺直後のキング牧師の倒れた三〇六号室でヤング氏やジャクソン師などが向い側の間貸屋の窓の方を指差している写真が残っている。しかし、囮の発射で、実際には別の者が至近距離からアゴを撃ったのだろう。
 そのような暗殺の背景には、流星群十二号のケネディー大統領の暗殺に関する作品で、ケネディー、マルコムX、ロバート=ケネディー、ウォレスの犯罪は、FBIの陰謀と述べたが、手口が共通していて、逮捕された犯人アール=レイは囮で、実際の犯人は至近距離で撃っている可能性がある。キング牧師の暗殺もレイに発砲させ、実際には同時に二〇八号室のあたりと、間貸屋の外の茂みからも撃っている可能性が高い。      (三)キング牧師暗殺に関するFBIの陰謀の可能性について
 キング牧師暗殺の裏にはFBI長官エドガー=フーバーの陰謀が感じられる。
 FBIにとって、キング牧師がメンフィスを訪れ、三月二十八日のメンフィス市の清掃局職員のストライキをした時に、それに参加し、結果的に警官隊と衝突し、小暴動化し、さらなる支援活動として来たる四月二十三日にメンフィス市に於ける貧者であり、かつ、低賃金労働者である黒人の清掃局職員を支配し、「貧者の行進」を実行しようとしていたことが大変な脅威であった。
 前年から、キング牧師の弱者黒人を支援する闘争の方針に変化がみられた。それまではキング牧師は、レストラン、駅、学校、劇場などの公的な場所で、黒人を白人と共同使用させるのを引き離し隔離する制度に反対し、抗争するやり方から、貧しき人々にデモや行進をして貧困を根本的に改善するために、政府に貧困改善を求めるという「貧者の行進」を進めようとしていた。
 前年の一九六七年十二月に人々の前で講演をし、黒人ばかりでなく、貧しい白人やメキシコ系米人など貧困に喘ぐ人々、総てをワシントンに集結させ、政府に極貧を根本的に改善する改革を求めようという「貧者の行進」を、翌年一九六八年一月に行うことを計画していた。
 そんな時に、三月にメンフィス市に於て、市の黒人清掃局労働者のストライキが起った。彼らは八十五セントという時給よりも七十セントも下回る低賃金しか支払われず、さらにゴミを掃する仕事にも拘わらず、風呂で体を洗う設備が供給されず、ウジが付いて、バスにも乗れず、歩いて帰宅していた劣悪な労働条件にあった極貧の黒人が、メンフィス市長に改善を要求したが受け入れられず、市長の反対にも拘らずストライキを行ったのを、キング牧師はメンフィス市に於ける「貧者の行進」として支援したのだった。
 結果として、警官隊と衝突し、小暴動を起こした。そして、さらに四月二十三日には、裁判所の禁止命令書を受け取っていたにも拘らず、それを無視してさらに「貧者の行進」をメンフィスで実行することをFBI長官フーバーは大変懼れていた。
 それまで、一九六五年のロサンゼルスの暴動や、一九六七年のミシガン州デトロイトやニュージャージー州ニューアークでの黒人の放火や略奪による大暴動が起きて、社会の脅威になっている背景で、キング牧師が裁判所の命令を無視して、さらなるメンフィス市に於ける「貧者の行進」を決行することは、ストライキの時、すでに、警官隊との間で小暴動となっているのに、さらなる黒人による大暴動がメンフィス市で起き、全米に黒人による大暴動を誘発しかねない。フーバー長官は、この暴動が全米に於ける黒人革命とも成りかねないと憂慮した。
 それ故、キング牧師を何とかしなければ、このまま放置すれば取り返しがつかないと思い、秘かに暗殺しなければならないと、計画した可能性がある。そこで、FBIフーバー長官は、暗殺する実行犯として、アール=レイを選び、労働者の間貸屋宿泊所B5号室の窓から、向い側のロレーヌ=ホテルのバルコニーに出たキング牧師を撃たせ、実際には別の真の暗殺者を用意し、近い所からキング牧師に向け撃たせ、暗殺させたのである。そしてアール=レイは囮の暗殺者として逃がし、指名手配にし逮捕したのだった。
 ちょうど、ケネディー大統領暗殺の時に、実際には別に撃った者がいるのに、教科書会社のビルの六階からオズワルドが単独で撃ったとして囮の犯人として逮捕されたのと同じやり方である。
 アール=レイがキング牧師暗殺犯の囮の実行犯として、仕立てあげられたと思われる状況的証拠が幾つかある。
 まず第一に、アール=レイが貧困な生い立ちを持ち、白人として黒人に対して強い偏見を持っている人間として選び、キング牧師に対して暗殺する動機を持つ者として、囮の暗殺者として仕立て上げたのだ。刑務所でアール=レイを黒人に偏見を持つ白人が多く入った独房に入れ、「キング牧師を暗殺すれば名声と報奨金が貰える」などと噂を立て、吹き込み、アール=レイにキング牧師暗殺の動機つけをしたのも、意図的にFBIが刑務所に働き掛け、行ったものと思われる。ちょうど、オズワルドがソ連にいた経験や共産主義者の活動をさせ、ケネディー大統領暗殺犯として仕立て上げられたのと似ている。
 第二に、アール=レイが脱獄が大変難しく不可能に近い刑務所をいとも簡単に脱獄している点である。パンを運ぶ荷車に刑務所内で隠れ、容易に発見されず脱獄しているが、警備が厳重な刑務官が気が付かないはずがない。これは、FBIが刑務所側に圧力を掛け逃がした疑いが大きい。
 さらに、脱獄しても脱獄犯として刑務所も警察も、指名手配をせずに積極的に追跡をしなかったことだ。これはFBIがアール=レイを囮のキング牧師暗殺犯として仕立てるために逃がし泳がした可能性が高い。不審なのは、アール=レイが脱獄後逃亡するため、中古車のムスタングを買ったり、暗殺実行までの間だ一年ぐらい全米、カナダを転々と移動した資金として五千ドル以上所持していた事である。FBIはこの点に関してはラウルなる人物から、アール=レイは多額の報酬を受け取って、キング牧師を殺害した共同謀議であるという捜査結果があるにも拘らず、アール=レイの公判ではそのことを否定している(P330‐P340)。ラウルなる人物は架空の人間で存在せず、FBIがアール=レイを単独暗殺犯に仕立て上げるための陰謀を企てた疑いがある。これはFBIが暗殺資金を用意して、アール=レイに提供した可能性が高い。
 また、前述のように獄中に於て、「キング牧師を暗殺すれば名声と報酬が得られる」とアール=レイが洗脳されたとしているが、レイにははっきりとしたキング牧師を暗殺する動機がまったく見当たらない。また、このことについて公判でも立証されていないのだ(P308)。この点についてもFBIが、アール=レイを暗殺犯に仕立てあげる陰謀を感じる。
 さらに、アール=レイが暗殺犯人でないではないかと疑わせるのは、レイが暗殺時にいたとする間貸屋のB5室にいなかったとする疑いや、暗殺後、犯人はムスタングで逃げ、アトランタで乗り捨て、バスでカナダへ逃亡した人間はレイではなかったという証言がある。にも拘らず、公判でテネシー州政府の圧力で証言されなかった。これもFBIが証言を差し止めるよう、州政府に圧力を掛けた陰謀の疑いがある。FBIがキング牧師を消防署の所から二人の黒人によって、暗殺前から監視させていたのも、FBIが暗殺を企てた傍証とも言える。(P70‐P73)
 最後に、キング牧師以外のもう一人暗殺の犠牲者がいた秘話を紹介したい。キング牧師が暗殺されたホテルの経営者、ウォルター=ベイリー氏の夫人は、八分の一黒人で白人の血が強い、ルイジアナ=クリオール人であるが、キング牧師が被弾し、倒れるのを見て、ショックでクモ膜下出血を起こし倒れ、病院で数日後に亡くなっている。夫人の遺品が、三〇六号室の記念館に飾られている。なお、キング牧師の暗殺されたロレーヌ=ホテルは、建物を残し、アール=レイが撃ったとされる道路の向い側の労働者間貸屋と、消防署と共に、大きな立派なビルを建て、国立公民権博物館になっている。一九九三年の設立であった。
  その他の参考資料
 プレミアム(文化・芸術 世界史発掘)時空タイムズ=キング牧師暗殺の謎に迫る。 二〇一〇年十一月二十三日、NHKハイビジョン放送 ゆらり散歩、世界の街角、メンフィス 二〇一一年五月十四日 BS・TBS放送

(流星群第26号掲載)

アルバニアと他国との通貨統一による経済 破綻、アメリカの百年以上の通貨発行をめ ぐる商工業、農業州間の抗争との比較検証

 一九九二年のマースト=リヒト条約により民族、言語、人種の違うヨーロッパの国々は連合して長年の夢であった経済市場の統一、通貨統一を成し遂げた。同条約の発効する一九九七年ごろから徐々に、各国通貨から統一通貨に変わり、二〇〇〇年頃から軌道に乗せて来た。
 しかし、その後、農業不況、経済不況などに対し、統一した執行機関欧州委員会や欧州中央銀行(ECB)もEU加盟国全域にわたる統一した金融政策を取れず、EU加盟国、各国の金融政策に頼らざるを得ず、強い金融政策と通貨政策を行い得なかった。また、EU内の国々にあって、工業力が強く、貿易などで競争力のある国々と、主として農業国で、工業力の弱い国々との間で、経済市場と通貨統一したことで、ますます格差を広げる大きな矛盾が露呈して来た。
 このようなEUの民族、言語、面積、人口の違った国々を集めて市場統合の下に通貨を統一するのはいかに困難であるかは、過去に於いて一九〇〇年代のユーゴスラビアとアルバニアの間で交わされた相互援助条約に基づく経済市場統合により、アルバニアの財政経済の破綻、十八世紀に於ける中央銀行である連邦銀行を支持する工業・商業を主とする北東部と農業や開拓移民のために自由な紙幣の発行を求め、州立銀行を求める南部、西部の人々の対立と十八世紀後半銀鉱が西部で発見され、金と一定の比率を基準に、大量の銀貨を求める西部と、金本位のみを求める北東部などの興業・商業地帯の対立の例が見られる。
 違った国々はおろか、国内であっても通貨統合はいかに困難かの歴史的経験が、EUの通貨統合にまったく考慮されなかった。そこでEUの通貨統合、市場統一のなされる過程と、アルバニア、アメリカの銀行、通貨発行をめぐる農工社会の対立などの歴史的事例を比較し論じる。

 (1) EUの通貨統一の過程と通貨統一の困難によるスペイン、ポルト     ガル、ギリシャなどの財政破綻の原因分析

 ヨーロッパの国々はローマ帝国崩壊以来、中世の領主領で成り立ち、その上に国王がいてという体制で、それぞれ言語、人種、民族性、経済の異なる国々が、現在に至るまで、領地を奪う戦争を起こし対立していた。
 このような中で、中世以来、民族性、言語の異なるヨーロッパの国々を統一する思想は、中世のフランス国王顧問、ピエール=デュポア、第一次世界大戦後のオーストリアの外交官カレルギーの唱えた「汎欧州」、フランス人のジャン=モネの「欧州統合」案、ウィンストン=チャーチル英国首相の唱える「欧州合衆国」案など存在したが、どれも戦争回避のための欧州統合論に留った。
 ヨーロッパの国々の統合の最初のきっかけは、戦後復興のため、アメリカの財政投入による「ヨーロッパ復興計画」であった。第二次大戦後、ヨーロッパ各国は大戦禍に見舞われ、自力では自国の財政を立て直せなかった。ヨーロッパは連合国が軍事占領をした西側諸国と、ソ連が軍事占領した東欧諸国に分かれ、占領した東西の国々の経済財政をどう立て直すかについて、占領国とソ連の外相会談の意見が合わず、決裂した。そうしているうちに復興を早くしなければならない必要性に迫られ、西側の連合国か占領した国々については、一九四七年、アメリカが西側各国の財政に資金投入し、立て直した。これに対抗してソ連は東側諸国に共産主義体制を植えつけ、一九四九年にコメコン(経済相互援助会議)をつくり、西側と東側で経済政治軍事体制で対立する冷戦体制となる。そして、弱小国のベルギー、オランダ、ルクセンブルグ三国は関税の壁をとりはずし、一早く市場統合を果した。
 その後、ヨーロッパ全体の産業を、戦禍から復興させるために、製造業に必要なエネルギーと材料を確保するためと、石炭や鉄鋼を各国に等しく分配するために、共同市場を持つ必然性が生まれた。そこで、欧州石炭鉄鋼協定(ECSC)が独仏伊蘭、ベルギー、ルクセンブルクの各国の参加を見て、最高機関、諮問機関、各国代表の閣僚理事会、そして石炭、鉄鋼の取り引きを解決する裁判所組織も持ったが、それはあくまで、鉄鋼や石炭に関する取り引きのみの統合であり、完全なる市場、経済統合、通貨統合には至らなかった。
 その後、戦後、早急に市場統合したベネルクス三国は貿易黒字になり、多少の市場統合で経済繁栄の成功を見たので、独仏伊三国に呼びかけて、一九五五年にECSCの下で、イタリアのメッシーナで外相会談を催した。その会議の中でベルギーの外相スパークは、財政、経済、労働移動などの社会政策をヨーロッパ各国の共同体で行える市場、経済機構の設立を唱え、一九五七年にローマ条約でヨーロッパ共同体(EEC)が設立された。加盟国の域内で経済の自由を唱った市場統合で、関税、共同の農業、運輸、労働政策など共通の経済活動を取ることになった。欧州委員会加盟国の閣僚会議、欧州投資銀行、欧州社会基金などの機構組織を持つことになった。
 電力、原子力、ガスなどのエネルギーについては、同時期エジプトのナセル大統領のスエズ運河の国有化に伴い、アラブの石油の供給危機が予想されたため、原子力をヨーロッパで共同して分配利用するための欧州原子力共同体(EURATOM)も同時に設立された。
 これに対し、イギリスは北欧のスカンジナビア諸国やポルトガル、オーストリアなどと共に貿易の自由な取り引きによる経済の交流を目的とする欧州自由貿易連合(EFTA)を設立する。しかし、一九六〇年以後、イギリスは貿易赤字による国際収支の悪化でEECに加盟をし、またEFTAに参加したポルトガル、オーストリア、フィンランドなどがEECへの加盟を申し出た。EFTAの効果や結束力は弱かった。
 そして、一九六七年に、欧州共同市場(EEC)、欧州石炭鉄鋼協定(ECSC)、欧州原子力共同体(EURATOM)を統合し、オランダのハーグに欧州理事会を開き、将来の共同市場統一を目標としたヨーロッパ共同体と改組、改称した。
 一九八五年、フランスの経済学者で、元財務相のジャック=ドロールの主導による欧州委員会によって、共同市場内の関税、資本の投入、農産物の市場への自由供給、旅券の自由化などを求めた単一欧州議定書を出し、ECをより強化なものとした。
 通貨統合に関しては、多くの小国の集まりで国の国境ごとに為替相場があり、それぞれの国の通貨を交換していた不都合を解消する為、統一通貨をEC諸国で流通させ、為替相場を安定させ、よりスムーズなヨーロッパ広域市場の経済政策が望まれた。一九七九年に欧州通貨同盟(EMU)が設立され、各国通貨の為替相場の変動幅を規制し、その安定を図った。
 そして、一九八七年のマースト=リヒト条約が調印され、EU加盟国内の市場の経済統一と通貨統一に向け、一番具体的な基本方針が合意された。一九九七年から一九九九までの間に、各国の為替相場幅の安定、次に欧州銀行発行のEU下の欧州中央銀行(ECB)の発行する通貨と各国通貨との為替相場の安定、レート設定、そしてEU通貨を統一したEU加盟国で流通させる三段階を踏み、ユーロによる完全通貨統一が実現した。
 その間に、一九九七年のアムステルダム条約、二〇〇〇年のニース条約、二〇〇一年のリスボン条約などが加わり、本来のEUの趣旨の加盟国内の市場統合、通貨統合の他に、EU内での福祉、人権問題、労働の移入と労働条件、難民の受け入れとその扱い、知的財産の保護などの取り決めも加わり、ヨーロッパ加盟国の間でEUの機関として、多くの組織が整備された。EUの憲法案がまとめられ、欧州委員会(行政執行機関)、欧州理事会、欧州会議、欧州司法裁判所、欧州中央銀行の他に多くの諮問機関と内部事務部局が設置された。加盟国もデンマーク以後の北欧諸国、ブルガリア、ルーマニア、オーストリア、アイスランドの国々が加盟する予定である。
 EUの通貨統合以後の金融政策は、一九九五年のマドリードの欧州理事会で欧州中央銀行(ECB)の設立が決められ、ユーロの発行と各国の交換比率が定められた。それ以来、EU通貨統一後は、EU通貨の信用を図るため、EUに加盟すべき国の条件を設けた。まず、加盟国の国内物価上昇率が年一%以内で、インフレ率二%以内、財政赤字三%以内とした。そして、GDP、つまりマイナス成長三%で、財政赤字三%以上出した場合、EUに〇・〇五%の預託金を無利子で提供するというものであった。
 統一通貨ユーロの発行は各国が行い、ユーロのマークの他、発行国の英雄やシンボルをデザインしている。
 このように、EU諸国の通貨統一と加盟国の共通市場を持つことによって、EU諸国内の経済安定や物価安定を図ったが、二〇〇〇年以後、EU経済、金融は安定したかに思われたが、数年にして、EU全体の経済不安に基づく金融政策に、各国の間で乱れが露呈して来た。通貨統一後も、EU諸国全体の金融政策は取れず、欧州委員会も欧州理事会、欧州中央銀行(ECB)によるEU諸国に対する監督権がなく、金融政策については、EU諸国の政府や中央銀行に委ねられている。従って、ドイツとかフランスなどの政府や中央銀行の政策がEUの全金融政策に影響し、その他の諸国の金融政策に影響しやすくなっている。
 二〇〇一年の経済不況や農業不振による経済不安定期にも、欧州中央銀行は通貨(ユーロ)の安定に各国の国債買い入れや公的資金投入にEUの役割は十分でなく、イギリスやアメリカの主要銀行に橋渡しをしただけである。利回りや各国の信用度が違い、買い入れが困難だからだ。
 また二〇〇八年のサブプライム問題の時にも、EU委員会の執行部や欧州中央銀行は、サブプライムによる世界的経済不況によって、各国の倒産企業を救済するにも、公的資金投入を欧州理事会で加盟国の閣僚たちの決議を得たが、結果的にはイギリス、フランス、ドイツなどの中央または主要銀行に委ねられた。アメリカの主要銀行にも救済を求めた。欧州中央銀行は中央でEU各国の金融政策を統制することが出来ないでいる。
 さらにEU市場統合をした結果、深刻な問題が起きた。平成二十年頃までに、財政破綻をした国々がいくつか出始めている。ギリシャ、スペイン、ポルトガル、アイルランドの国々である。それらの国々は、国際通貨基金(IMF)から公的資金を投入してもらい、財政再建が検討されている。これらの国々に共通することは、工業国ではなく、農業、漁業、観光立国であることだ。そして、国力としての経済は弱い国々である。
 ざっとおさらいしてみると、まずギリシャは工業力が約五〇%しかなく、残りは農業、漁業、歴史的名所旧跡が多く、観光収入である。輸出額は輸入の三分の一しかない。
 ポルトガルは農業と製造業があるが弱体的で、石油、機械、綿花などが輸入で、輸出はコルク、ワイン、鉱物で輸入が五〇%ぐらい上回る貿易赤字で、さらに軍事費が財政の二分の一にもなり、間接税が直接税の二倍の超弱財政国で、スペインに習い観光収入とブラジルへの移民の仕送りで補っている。
 アイルランドは工業は二十六%、農業三〇%、その他観光収入と海外へ出稼ぎに行った人々の送金で補っている。
 このようにEU通貨統一後財政破綻した国々は、政府が財政粉飾決算をしたギリシャ、それを考慮しても、ギリシャも含み、農業国と観光立国であることがわかる。
 このスペイン、ポルトガルなどの国々が財政破綻したのは、次のような理由だ。EUが通貨統一した後、ドイツなど工業国で統一通貨により貿易で競争力の増した国々が、スペインなど工業力が弱く、農業、観光に依存し、弱い競争力の国々を貿易上経済支配をし、彼らに競争で圧倒し、統一通貨ユーロをスペインなどの農業観光国から流出させ、EU通貨統一前よりも、ますます通貨を減らしたからだ。つまりスペイン、ポルトガル、ギリシャ、アイルランドの国々は、EU通貨統合前よりも経済的にますます貧しくなったのだ。
 また、前述のように、欧州委員会、欧州中央銀行は、こうした財政困難な国々に直接財政援助できず、財政再建は各国に委ねられ、ドイツ、フランスなどの国々は経済不況や財政難に自力更生できるが、スペインなどの国はそれが出来なかった。
 具体的な例としてスペインとの観光行動を例に取ってみる。
 EU通貨統合前は、スペイン通貨ペセタが国内に流通していて、為替では弱くともペセタは国内ではしっかりした貨幣価値が存在して保たれていた。そして、ペセタは、スペインが工業的に弱い国であったので貿易力が弱く、対米ドル、対フラン、対英ポンドの為替相場は価値が弱く安かったが、反対に隣接国や遠くからスペイン国内に観光客を多く招くことが出来た。スペインでペセタに換金すると通貨を多く貰え、使い出があるからだ。スペインは観光で潤っていた。
 例えば隣のフランス人にとって、EU通貨統合前は、スペイン国内でフランをペセタに替えれば、為替相場上、価値があるので、為替レートで多く貰え、使い出があった。それゆえ、スペインは多くのフランス人観光客を招くことが出来た。
 ところがEU通貨統合後はフランスもスペインも通貨ユーロの価値が同じなので、フランス人は、かつてのように国によって違う通貨使用による為替相場の差益が存在しなくなったので、フランス人の観光客が減ったのだ。その他の国々、例えば、イギリス、ドイツ、イタリアの国々の人々のスペインへの観光客も減ったため、スペインの観光収入は大幅に減った。大打撃となった。
 反対に、スペイン人は、母国と価値が同じの統一通貨ユーロを使い外国への観光をより多くするようになったり、ドイツ、フランスなどの工業国の製品を貿易で買うようになり、ユーロが多くスペインから流出するようになった。その結果、ドイツ、フランスなど工業力により競争力のある国々に、統一通貨ユーロは集中し、富み、反対に農業国、観光立国であるスペイン、ポルトガル、アイルランド、ギリシャの国々からユーロが流出し、貧しくなり財政破綻を起こさせたのである。通貨統一が競争力のある工業国と競争力の弱い農業国、観光国との間に、EU同盟国内の経済格差を生んだのだ。スペインなど経済的な弱国はEUでは財政赤字を解決できず、国際通貨基金により援助を受けることになる。
 中世の領邦国家から発展し、言語民族性の違い、経済の違い、各国で関税や異なる通貨を発行して、経済的に自立し、他国から防御して来たのである。とりわけ対外的に経済力の弱い国にとっては、自国通貨を持つことは対外的な為替価値がなくとも、国内では通貨価値があるのだ。また外国人を貿易や観光で招致し、外貨を獲得できるのである。ゆえに関税と自国通貨の流通は、経済的に弱い国にとって必要な防波堤なのだ。世界一経済が弱く、混乱した北朝鮮でさえ対外的にはほとんど通貨の価値がないにも拘らず、自国紙幣を持つことは国内価値が最小限あり、経済自立が保てる。これが、中国の人民元を北朝鮮国内で流通させると、北朝鮮の市場は中国経済に破壊させられる。
 EUの通貨統合は国によって貧富の差を生んだが、過去に於てもアルバニア、アメリカの例があり、通貨統合が国際的にも、地域経済の違う国内でも、いかにむずかしいかを示す例があるので、以下に於て示してみたい。

 (2) トルコ戦争以後アルバニアのイタリアによる占領とユーゴスラビ
    アとの通貨協定による経済破綻の先例

 一九四六年にユーゴスラビアのチトー大統領による押しつけられた相互援助条約によって、ユーゴスラビアの貨幣がアルバニア国内で流通出来ることになったことで、アルバニアの通貨レクがユーゴの通貨ディルナに圧倒され使えなくなり、アルバニア経済が破綻した例があり、EU通貨統合以来、スペイン、ギリシャなどの弱小国の財政経済破綻と酷似したケースと比較し以下に於てアルバニアの歴史を辿ってみる。
 十四世紀に入り、オスマン=トルコのビザンチン進出は激しさを増し、同世紀にはバルカン半島に大進出をし、一三六一年から一三八八年までの間にアドレアノープル、ブルガリア、ギリシャ、マケドニア、モラーバの公国が次々に支配下に入った。アルバニアに対しては、一三八三年のコソボの戦いで移り住んでいたアルバニア人と戦い、その後、アルバニア南部、そして次第に中部山岳地帯にまでトルコ軍が進出し、トルコの軍事の下に、貴族達はトルコ支配によるアルバニア貴族への卑下した扱いに怒り、連携して戦って抵抗し始めた。なかでも、名門貴族のギェルギ=カストリオティ=スカンドルペグは貴族をまとめたアルバニア連合を組織し、西方から進出して来るトルコ軍を何回も阻止し、アルバニアを防御した。一方に於て、ハンガリーのヒュンダイも同様な反乱をトルコに対し起こしていた。
 何回も迫ってくるトルコを撃退させ、一四五一年にはスカントルペグはアルバニアを国家に育て上げた。その名声はヨーロッパ中に届き、ローマ法王の資金援助とベネチア領国の資金援助を得て、バルカン半島の新十字軍として対トルコ戦に勝利を得たが、利害を重視したベネチアがトルコと和平を望み、次の法王からも十分な援助を受けられず、なおも単独で戦い、トルコ軍の進出を阻止したが、アルバニアの英雄スカンドルペグの病死でトルコの支配下に入り、その支配が何世紀も続いた。これによりアルバニアは七〇%の白人イスラム国となった。
 五世紀ものオスマン=トルコの支配に対し、バルカン半島の諸国は十九世紀になって、ロシアの南下政策と合わせ、英仏伊の国々も参戦し、バルカン半島を辿る戦争や露土戦争の終結後のバルカン半島の分割ではアルバニアの自治は認められなかった。
 一九一一年になり、イタリアが対トルコ戦争を起こすと、ブルガリア、モンテネグロ、マケドニアもトルコ領の分割と独立を求め戦争を起こし、バルカン戦争が起きた。さらにサラエボ事件が起き、それをきっかけに、汎スラブ主義と汎ゲルマン主義の対立で、第二次バルカン戦争が第一次世界大戦へと発展していく。その間に、アルバニアは中立の動きを示し、アブドリ=フラショリの下で「アルバニア=ブレズレン同盟」を作り、自治を守った。一九一三年のロンドン会議により、六ヶ国の管理下でウィード公を元首にした独立が一応認められた。
 一九二〇年に大戦中、アルバニアは枢軸国イタリアの占領下にいたが、大戦後、ベルサイユ条約でアルバニアの独立が認められ主権国となった。イタリア軍も撤退し、アーメト=ゾーグ首相の下、首都チラナで戒厳令を敷き、独裁体制となったが、反革命勢力により、一度追放されたが、一九二四年にユーゴより帰国し、再び首相になり、経済体制が極弱であったので、アルバニアはかってアルバニアを占領したイタリアとチラナ協定を結び保護国となり、実質上、イタリア資本主義の半植民地となった。イタリアの自国の工業資本にアルバニアは支配され、イタリアへの原材料の供給源となり、アルバニア経済は弱くなってしまった。そこでゾーグは一九三六年にさらにイタリア=アルバニア協定を結び、三年後、ムッソリーニによるイタリアファシズムの台頭でアルバニアの軍事占領が再び行われた。占領体制化の強化体制によるイタリアの経済、通貨体制、資源の統制によって、政治、経済のイタリア化が進んだ。
 イタリアは大地主のシェフキュト・ブェラルキを首班とする傀儡政権の下、外務省を閉鎖して外交権を奪い、各省庁はイタリア人顧問による行政、イタリア軍参謀によるアルバニア軍の統制、イタリア銀行によるアルバニアの通貨体制の支配、アルバニアの農産物の価格廉売決定などをし、アルバニア経済は完全に支配されて弱体化された。
 このイタリアによる経済支配に対し、一九四二年に共産主義者による革命委員会が設立され、共産党の組織化が行なわれ、エンベル=ホッジャの指導の下、アルバニア民族解放戦線軍による武装闘争が行なわれ、一九四三年にイタリア・ファシストが連合国に降伏するまで続いた。その後、ナチス=ドイツの占領に対して、共産党による民族解放戦闘隊が二度にわたる戦いで、一九四四年にナチス軍を解放させ、アルバニアは祖国の独立を勝ちとった。
 イタリア、ドイツの占領による戦いで、道路、通信網は破壊され、電力、エネルギーはなく、交通のマヒ、工業は起こせず、耕地は耕されず、家畜が減少、銀行は準備高がなく機能停止、飢餓が広がっていた。社会経済は完全にマヒしていた。大混乱であった。
 この状況下で、アルバニア共産党政権は、人民法廷と人民警察団を組織し、強く国内を軍隊が治安維持をした。
 その上で、共産主義的経済政策を取った。資力をつくるため、資本家の戦争利得を莫大な課税による没収、穀物の私有化禁止、私有地の国有化、占領したイタリア、ナチスの財の没収、国有化私有地の国有化などが政策として取られた。
 一九四五年に憲法制定議会選挙でアルバニア共産党の勝利で、エンベル=ホッジャのアルバニア人民共和国が樹立し、翌年憲法が制定された。そして、さらなる経済、社会政策が取られた。食用穀物の購入、調達、販売の国家統制、通貨の改革と個人の通貨を交換の最高限定、食料の配給、土地改革に於て、自ら耕さないブドウ園、オリーブ園、農業施設の土地の接収、教育改革などが実施された。
 それに加え、ホッジャ政権はソ連やその他の東側諸国との兄弟的援助を政策方針としていたので、一九四六年ユーゴスラビア連邦人民共和国と相互援助条約を結び、翌年、それが実行された。この主なるものは通貨平衡価格であった。ユーゴスラビア共産党の強い圧力で取られた経済政策で、ユーゴとアルバニアの経済市場の統合をし、価格を統一しようというもので、さらに、ユーゴの貨幣ディナルとアルバニアの通貨レクを為替ルートがなく交換し、アルバニア内でも流通させようという、実質上、ユーゴとアルバニア国による通貨統合であった。これは、ユーゴがアルバニアに押しつけた五ヶ年計画の一環とする二国間の通貨統合で、後のEUのユーロによる加盟国内の通貨統一の疑いもない先例である。
 しかし、ユーゴとアルバニアとの経済格差は雲泥の差があり、混乱状態にあったアルバニア経済市場で、ユーゴの企業と個人商人は富んだ金持の権利を悪用し、アルバニア市場で欲しい物を何でも買い漁った。それにより高いインフレと総体的な物価の上昇がアルバニア自由市場で起こり、アルバニアの庶民と経済に大打撃となった。この経済影響は、EU通貨統合後、工業力、貿易競争力の強い独仏両国にユーロが流れ富み、工業力のないスペイン、ギリシャなどの農業国、観光立国が財政破綻、経済困難となり、経済格差が拡大したのと酷似している。
 これはユーゴとアルバニアの経済統一は、相互援助条約通りの対等な主権国家の統合ではなく、弱国アルバニアに対しユーゴスラビア共産党と政府は、指導者を送り、経済協定を運営する委員会をアルバニア政府の上に超国家的機関とし、経済市場を支配し、軍部をも指導する属国化政策であった。
 その後、一九四八年の第一回共産党中央委員会に於て、アルバニアはユーゴスラビアの共産主義計画が成された時、ユーゴの指導者チトーを修正主義者と批判し、相互援助条約を打ち切り、またフルシチョフを修正主義と批判し、独自のマルクス=レーニン主義の路線を取った。後にソ連と国交を断絶し、さらに米中接近で唯一の友好国、中国とも国交を断絶し、長らく国交をどの国とも結ばず、外国人の入国と自国民の出国をも許さず、鎖国状態が続き孤立する。
 一九八五年に武力で人民を圧制した超独裁者ホッジャの死で、アリアの政権となり、一九九一年、民主選挙が行なわれ労働党が勝ち、憲法が制定され、民主国家となった。ベルリンの壁崩壊の影響で、多くのアルバニア人が国外に脱出した。アルバニアは、イスラム経済、軍事体制共産主義、資本主義を経験した稀に見る世界で唯一の国である。
 アルバニアは、すでに述べたように、一九二六年以後、一応独立を果したが、経済的に弱く、イタリアの保護国となり、またファシストの出現により軍事体制となった経済、超弱経済国のアルバニアは、経済の強いイタリアの資本家、銀行家、商人によって経済が握られ、通貨を統一した形になったが、イタリア人に購買を独占され、物不足にアルバニア人民は苦しみ、貨幣はイタリアに流出し、イタリアとアルバニアの貧富の大きな格差を生じた。
 また、戦後の一九四六年に社会主義国の援助の名のもとに、ユーゴスラビアとの相互援助条約で、ユーゴとアルバニアの市場統合、ユーゴの通貨をアルバニアで流通させ、自由市場で購買させたところ、ユーゴの商人や企業が買い占め、ひどいインフレ、物価の超上昇などアルバニア市場経済は大混乱し、ますます、アルバニアの経済は弱体した。これはアルバニアが経済力が弱く、イタリアやユーゴの経済に依存し、経済的安定を期待したが、結果として従属国となり、貧富の格差を生じた。
 このアルバニアのイタリアとユーゴの市場統合、通貨統合の二つの例は、EUの市場経済や通貨の統合の後、EU内で、工業力の強い独仏が富み、農業や観光国であるスペイン、ポルトガル、ギリシャなど経済力の弱い国との貧富の差が広がった事実の先例であるのだ。しかし、その歴史的先例、すなわち、経済的に強い国と弱い国が市場合体すれば、弱い方が通貨統一によって、経済困難、財政破綻するという法則が、もっと多くの経済弱国を含むEUの多国間の市場経済と通貨の統合を実行する前に、考慮参考にされず、生かされなかった。
 その理由は、アルバニアが戦後共産主義体制であり、さらに長い間鎖国状態にあり、西側諸国の資本主義社会であるEUの諸国にはその経済情報が伝わることはなかった。そればかりでなく一般的に、西側諸国は共産主義国の経済体制と長く対立し、共産主義体制の経済知識は資本主義の敵であると見做し、嫌い、学ぼうとはしなかった事にもよる。ましてや、長い間、鎖国をしていたアルバニアは、共産圏の中でも知られざる小国であり、アルバニアの共産主義体制の通貨統合の事例は紹介されたり、EUの通貨統合の参考にされなかった。
 ちなみにたとえ、EUがアルバニアのイタリア、ユーゴとの市場及び通貨統合の例を参考にしようとしても、アルバニアが民主化に伴い、同国の情報が解禁されたのは一九九二年であり、EU通貨統一を定めたマースト=リヒト条約が結ばれた五年後であったので不可能であった。
 アルバニアの例よりも遥か前、またEUの通貨統合よりも、二世紀も前に、アメリカが通貨や紙幣を発行する銀行が、国の中央銀行や国立銀行(連邦政府が認可した銀行)がよいか、州の銀行で地域の事情に合わせた発行がよいか、また、紙幣がよいか、金本位がよいか、銀貨を含めた金銀復本位がよいかをめぐって、広い北米大陸国家で、東部の商工業者と西部、南部の農業者や開拓者の対立の例がある。独立後約百年に渡って、揺れ動いたアメリカの銀行の通貨発行をめぐる経験は、EUが通貨統合をめぐる市場経済で、強い工業国と工業力の弱い国と格差を生んだ先例として、つまり広い大陸のアメリカ国内では、経済力の強い北東部の商工業と、経済力の弱い南部西部との抗争という形であるが、EUが市場統合による通貨統合をするにあたり参考にされなかった。以下に於てアメリカの銀行をめぐる通貨発行の歴史と、その理由を検証する。

   (3) 独立後百三十年に渡る通貨や紙幣の発行をめぐり、金本位に基
      づく国内の通貨統一のため中央銀行の発行に関して、東部都会の
      商工業者と、州の銀行や州の認可の銀行による地域の需要、事情
      によって紙幣発行を求める南部の農業者と、銀鉱開拓により銀貨
      の自由発行による金銀複本位を求める西部の開拓者との国内の対
      立

 アメリカで初めて銀行が出来たのは独立戦争の際、十八世紀の終わりのことであった。十七世紀の終わりから、ヨーロッパの戦争の一端として、イギリスとフランスはカナダの植民地をめぐって、抗争をしていたが、一八五四年に、大々的な戦争に突入した。フレンチ=インディアン戦争であった。一七六三年のパリ条約でイギリスが勝ち、フランス領(ニュー=フランス)を得て、フランス植民地を失い、フランス系カナダ人は住民として英領カナダに残ることになった。
 この植民地での戦費が莫大であったため、一八七〇年代以後、印紙税、印刷物、砂糖税などを北米の植民地に次々に課して行った。このイギリス本国の税による圧制に反発し、植民地は第一回大陸会議を開き、統一して独立する決意をし、独立戦争となった。
 アメリカの銀行は一番初め、独立戦争をする費用を捻出するために、北米銀行を設立した。そして、一八八三年のパリ条約で独立した後は、アメリカは戦争のため、国内外に借金の返済のためと国内の財政を安定させるため、国債を発行し、北部の商工業の発展の融資のために、外替を作り貿易を促進し、通貨の紙幣を発行できる国立中央銀行を設立をさせた。これはワシントン大統領の下の財務長官アレクザンダー=ハミルトンの権限によるものであった。ハミルトンは商人の出身で、連邦政府が中央で強い統制をした政府を望んだ連邦主義者であった。
 これに対して、当時の副大統領トーマス=ジェファーソンは、農業者の利害の支持者で、州の利害を最大限に尊重すべく、連邦政府は必要最小限に州をまとめるべきで、強い統制をすべきでないという州権論者であった。国の銀行が中央で通貨を統一し、流通させれば、経済的強い北東部の商工業地域に農業州が支配され、お金が商業社会に集中し、農業州のお金は不足してしまう。それ故、州の需要で地域毎の通貨の発行を求めた。
 国立銀行は設立時に二十年を期限になっていたが、一八一二年の対英戦争により、同じ年に議会で同銀行の改新が審議されたが、更新の議決に成らなかった。しかし、四年間は通貨発行の国立銀行が存在しない状態となったので、金本位の準備のある州の銀行が設立され、通貨紙幣の発行をしたが、一八一二年の対英戦争の戦費とインフレが起き、一八一六年になって連邦議会は第二次国立銀行を裁可した。名はアメリカ合衆国連邦銀行となる。
 この時、連邦政府が選んだ五人の経営理事が同銀行の経営に当たり、一八二三年にニコラス=ビドルが同銀行総裁になると、連邦銀行は各州に多くの支店を開き、国内の流通貨幣の統制を強化した。ビドルは連邦銀行が政府として独立し、政治的影響力を除き、また西部開拓に決して反対するものでなかったが、ニューヨークの州立銀行家で、後の大統領マルティン=バン=ビューレンや農業州テネシー出身のアンドリュー=ジャクソン大統領により、連邦銀行による各州の強い通貨支配に反対された。
 一八三二年、北東部の商業者やビジネスマン出身の議員の賛成で、連邦銀行は再び裁可されたが、ジャクソン大統領は拒否権を行使し、連邦銀行の更新の法案に署名をしなかった。
 ジャクソン大統領は農業州出身で、連邦銀行が州全体を従属的にして、国内の通貨流通を支配すると、北東部の商工業への融資によって利子を稼ぎ、富と繁栄をもたらし、反対に農業州は商業地域の北東部に支配され、貧しくなっていくことを恐れた。それゆえ、州の需要に応じ、州の銀行で州のとりわけ農家の必要な額の独自の紙幣通貨を発行することを唱えた。ジャクソン大統領は銀行についての州権論者であったが、安定した貨幣、コインを発行するハードマネー派であった。同じ州権論者のサウスカロライナ州出身のヘンリー=カルフーンはソフトマネー派で州立銀行による紙幣の発行を望んだ。多くの南部や西部の農民は農地担保に束縛されていて、州立銀行の発行でインフレが起きて紙幣価値が下がっても名目全額を払えばよいからである。これに対し、北東部の商工業を利害とするニューイングランドの議員は、北東部の商工業者が南部西部の農産物、原料を大量に安く買い入れ、自分達の生産した商品を南部や西部の農業州などに売る市場にし、国内を経済統合し、国の銀行である連邦銀行が強い統制をし、信用、貯蓄、融資を商工業者にする政治力とも合わせ、国内経済統合する連邦主義者である。今でいうEUの市場経済、通貨統合と同じ考え方だ。
 ジャクソン大統領によって再裁可を拒否された連邦銀行は、一八三六年で期限が切れ、代わりに州立銀行が紙幣や通貨を発行していたが、ビドル連邦銀行総裁は、ジャクソン大統領と対立し、州立銀行に対し割引や為替取引を制限し対抗措置を講じた。これに対し、ジャクソン大統領は怒り、財務長官を後の最高裁判所長官、ロジャー=ターニーに交代させ、連邦銀行に貯け入れていた政府の財政税収預金すべてを引き上げさせ、代わりにいくつかの州立銀行に入金し対抗した。このジャクソン大統領とビドル連邦銀行総裁との抗争を歴史上、銀行戦争(バンキング=ウォー)と呼ぶ。
 その結果、農業州の各州の事情と需要に合わせた州立銀行による自由な独自の紙幣発行は、紙幣が異常な増刷発行され、大量インフレになり、一八三七年に大恐慌となった。連邦銀行は紙幣の供給ができず、また北東部の商工業者に融資や貸出しする紙幣が回らず、ビドルは連邦銀行の州立銀行化をしたが、一八四一年に経営破綻する州立銀行が増大し経済パニックになった。
 州立銀行は南北戦争中の一八六三年まで続いたが、リンカーン大統領は戦争の戦費を調達などのため、国立銀行法で国立銀行が三十年ぶりに再度組織され、それまでの州立発行の紙幣も、国立銀行で払い戻しが出来るようにし、また紙幣の発行は会計監査人の指導で発行するようになった。一八六六年に南北戦争の終止期には各州に国立銀行の支店の数は増え、その数が州立銀行の数を上回った。一方に於て、南部や西部の農民地帯や開拓地では州認可の銀行も作られ、それらの地域の実情に合わせた紙幣を流通させた。
 国立銀行は戦後、戦時中に発行された、グリーン=バック紙幣が供給過剰になり、金本位に基づく新しい紙幣と交換し、回収できる措置を取った。インフレが起き、それを押えるためである。これについては北東部の商工業の経済を安定するためでもあった。しかし、農業州では交換することが困難であった。
 一八七〇年以後、西部や南部への鉄道の発展と共に北東部の企業は銀行から融資を受け、南部、西部の農製品や原料を鉄道で安く仕入れ加工し、国内の市場や海外へ、貿易輸出商品として売り、莫大な利益を上げるため、多大な融資を必要とした。そこで、JPモルガンのモルガン銀行などが国の認可を受けた私立の大銀行として設立され、幅を利かせるようになった。
 歴史上、株式会社の組織を持つロックフェラーの石油会社やカーネギーの鉄鋼会社などビッグビジネスといわれる大企業が北東部に於て大繁栄する一方で、南部や西部の多くの農民や開拓者達は見捨てられた存在であった。
 多くの農民達は広大な土地を所有するに当たり、それを担保に多額の借金をし、農産物を売って返済しなければならなくて、苦悩していた。さらに生産過剰による農産物の下落、生産した穀物を北東部の市場へ輸送するためのコストは、鉄道会社の独占による価格設定で高く据えられ、農家の自弁であったため、利益は薄いものだった。また、北東部での農産物の価格決定権は同地の商人に握られ、国の政治は利害関係によって彼ら商人に操られ、税金、鉄道の独占料金の認可、貨幣の発行と流通などで、農民は不利益を被っていた。
 このような不遇に、南部や西部の農民達は立ち上り、団結して共同組合を作り、経済的不利益を守り、政治活動として州議会や連邦議会へ農民代表の議員を送る努力を展開した。
 農民達の団結した組合をグレンジャーと言い、同連盟が北西部の農民の間に、さらに中西部の農民の間にも出来、選挙で議員を州議会へ送り、鉄道の独占輸送料金や農産物価格の低下の規制などをした。
 グレンジャー組合は一八九〇年までにいくつもが合体して、ポヒュリスト党(人民党)を結成し、国、即ち連邦議会で農民の利害を国政に反映させようとする。彼らの政治項目は、鉄道の独占価格規制と禁止、電信電話会社の国有化の他、通貨については国立銀行の廃止と州立銀行による紙幣発行、南北戦争時発行のグリーンバック紙幣回収に反対、さらに西部の銀鉱の発見による大量の銀を使った金一対銀十六の割合による銀貨の自由鋳造を求めた。
 連邦政府は、南北戦争中に発行しすぎたグリーンバック紙幣がインフレになり、金本位をもとに同紙幣を回収しようとしたが、農民の間には回収されると紙幣が引き上げられ流通しなくなるので、グレンジャー連盟は反対した。また銀貨の自由発行を認めたのは、西部開拓の人々の事情による。
 元々、銀貨の発行は、一八四八年にカリフォルニアの金鉱発見によるゴールド=ラッシュに始まり、一八五九年から六一年にかけてネバタ州の銀鉱、次いでコロラド州で銀鉱が発見され、西部開拓者は西ではなく東へ向った。特にネバタで莫大な銀が産出されて、金と銀の一対十六の比率で、銀貨が大量に鋳造、発行された。その後、銀塊の値段が急騰したため、人々は銀貨にせず、銀塊を売ったため、国内の銀保有高が減ったので、連邦政府は一担、一八七三年に銀貨の自由鋳造を停止した。が、南部、西部の農業者や開拓者達の通貨、紙幣の流通不足を理由に銀貨発行の強い要求で、ヘイズ大統領は一八七八年に再び銀貨を金と銀の比率を一対十六で鋳造を認めた。
 さらに一八九〇年に政府は財務省が銀を大量に買い、金と共に紙幣発行の本位とするための金銀による複本位制を取った。しかし、一八九三の大不況で、クリーブランド大統領は、大銀行家のJPモルガンのような大銀行家の圧力により、金本位の兌換による通貨発行を求めたので、財務省の銀の買い上げる法の廃止を模索した。大銀行達は、財務省保有の金塊の量が減少したのは、グリーンバック紙幣の所有者達が、銀の塊の証明書や金の払い戻しを要求したためと考えたからである。
 一八九六年の大統領選挙では、共和党の推す金本位制の通貨発行を主張するウィリアム=マッキンレーと金銀複本位制を主張するポピュリスト党を作った農民達は、銀本位を主張する民主党の候補、ウィリアムJブライアンを推し、選挙戦を戦い、マッキンレーが勝ち、一九〇〇年に金本位法を通過させ、金本位となった。
 その後、従来の銀行組織、連邦銀行と州立銀行の通貨、紙幣発行では不都合が生じ、産業の発展や、農業州のさらなる発展に、そぐわなくなっていた。そのため、一九一三年にオルドリッジ=ランド法により、連邦政府の通貨委員が出来、多くの民間銀行の出資による中央銀行の設立が勧告されたが、別のプージョ委員会は、私立銀行の有力なモルガン銀行、ロックフェラーが経営するファースト=ナショナル銀行など大銀行が小さな銀行も含め大半を支配していることが報告され、中央銀行の案は否定された。強い統制による都市に富が集中し、農業州への資金融資などが出にくくなるのだからだ。
 この点について、ウィルソン大統領の国務長官ウィリアムJブライアンは中央銀行の私企業による支配に反対し、政府の運営による中央銀行の設立を要求した。農民への融資などが出来ないからだ。そこで、ウィルソンはブライアンの意見を参考にし、多くの私立銀行の出資の連邦準備銀行(FRD)を中央に設立し、そして弱い統制による十二ヶ所の地域発行銀行を設備し、地域の事情の経済需要に合わせ、新しい紙幣を発行するようにした。四〇%の金準備高で、農民の救済のための短期ローンも発行できるようになった。この銀行には本来の連邦銀行や州立銀行も統合された。大企業に大融資をする市中中央銀行でなく、銀行間に融資する国の連邦政府の通貨発行銀行組織で、都会の商業利益と農民の利益の調整がとれた。なお四〇%の金本位は、大恐慌中一九三三年にフランクリン=ルーズベルト大統領によって金本位が大恐慌で停止されるまで続いた。それ以後は地域の需要に合わせ、金本位でない紙幣の発行をする完全な管理通貨体制となった。
 EUの通貨統合によって、人種、言語の違う国々を市場統一をした結果、競争力の強い独仏に通貨が流れ、繁栄し、反対にスペイン、ギリシャなど農業や観光を産業とする弱小国が貨幣を失い財政、経済破綻をし、ますます貧富の差が出た例は、アルバニアがイタリアやユーゴスラビアに経済、通貨統合された時、アルバニアの経済が混乱し、その両国によって経済支配された例よりも、はるか前、EU統合より、百三十年前、アメリカで通貨発行をめぐり、都会の商業社会と、南部、西部の農業社会の利益の対立、つまり、紙幣かコインか、金本位か銀本位か、国の中央銀行が良いか、農業州の需要に合わせた州立銀行かの抗争がアメリカで起こっていた。アメリカの場合は百年以上かかって通貨統一、発行の問題を解決した。
 アメリカの場合は、EUのように、中世以来の人種、言語封建制度が違う領邦国家から発展した国々を市場、通貨統合をしたために、工業力の差で貧富の差が生じたのと異なり、広い大陸国家の国内に於て、商工業社会と農業社会に於て、通貨の流通の仕方によって、貧富の差が出来、その問題を解決するため通貨の発行の仕方と金と銀による本位の仕方についての両者の抗争であった。
 EUが通貨統合を行う時、アルバニアの例は別にして、通貨を統合することによる、商工業社会と農工業社会に貧富の差が出る問題について、遥か前のアメリカの事例を参考にしなかったのは失策であり、いただけない。なぜならば、アメリカは独立した時に、ヨーロッパや中国、江戸時代の日本の政治行政制度を参考にし建国したのだから。
 EUがアメリカの百三十年もの発行銀行をめぐる抗争の例を見落した一つの理由は、戦後、ヨーロッパが戦禍になり、アメリカに財政援助を受け、アメリカに奪われた世界の主導権を取り戻したい一心で、通貨統合を急いだのだ。アメリカでさえ、体制を作るのに百三十年も掛けたのに、古き中世以来の異なる国からなるEUの通貨統合は無理がある。
 かつて、十九世紀にドイツでは独自の関税と通貨を持つ領邦国家を統一するため、関税同盟を作り、強いドイツ帝国を建国し、統一通貨を発行した。また、戦後、経済的に弱い小国、ベネルクス三国も関税を廃止し、市場と通貨の統一をし、繁栄した。このことは、経済的に弱い地域や小国が市場通貨統合をすれば、まとまった強国になるが、EUのように言語、民族性、そして面積、人口が違い、工業力のある強い国と工業力のない弱い国が統合すれば、貧富の差が大きく開く。EU統合で財政破綻したスペイン、ポルトガルや英仏はかつて、アジア、アフリカの国を武力で植民地として統合し、原料を供給地として搾取し、繁栄した。これも、EU統合の失敗の歴史的先例である。

  参考文献

 (1) 村上直久編著 EU情報事典、大修館書店 二〇〇九年

 (2) 自由国民社 現代用語の基礎知識二〇〇九年版

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(流星群第24号掲載)

EU通貨統合による問題と、過去に於ける アメリカに於ける中国人、台湾人の社会

 今から二十数年前、私はテキサス州ヒューストン市にある、南北戦争後差別されていた黒人に高等教育をうけさせるために設立された黒人大学の一つ州立テキサス=サザン大学の大学院に留学していた。その時、その大学の政治学の教授、何国正(日本名、山河正男、英名 KUO CHEN HO)先生の家に、毎週、金、土、日曜日に泊めてもらった。さらに同教授が経営していた中華料理店、GUN‐HO RESTRAUNT 和園で、バス=ボーイ(食卓で客の食べた食器を片づける役)をしながら、そこのレストランで雇われていたコックやその他の従業員達で、中国の色々な地域から出て来た人々を実際に観察して来た。中国の色々な地域(例えば広東省とか、四川省とか、胡南省など)出身の彼らを見た結果、中国人の複雑さ、中国人社会の複雑さ、中国人の色々な地域の人々の国民性の違いなどを垣間見ることが出来た。また、中国大陸の人々や、中華民国のある台湾に於ける明の末期に渡って来た台湾人と、戦後、蒋介石と一緒に来島した外省人とも、国民性が異なることがわかった。その体験について記する。
 テキサス=サザン大学に入学した年の八月末に、大学に着くと、留学生のためのピア=カウンセラー(すでに大学の学生になっているアメリカ人や留学生で、新しく入学した留学生のために、学内を案内したり、相談に乗る人)の案内で、講堂に於ける学内の事務所、図書館、カフェテリア(食堂)の位置、科目の登録の仕方、授業料の払い方、寮に住む人については入居手続きの仕方など、全体的なオリエンテーションを受けた。そして、黒人の新しく入学した学生と共に、黒人の歴史学科長に初めて会い、秋学期(毎年九月初めから十二月三週目まで)の取る科目の選択を同学科長と話し合った。私の場合、歴史の大学院レベルだったので、多くの歴史書を読むコースや論文を書くコースで、とりあえず二科目を取ることにした。学科長キャルビン=リース氏は黒人とインディアンとの混血の人であった。
 科目を登録して一週間ぐらいした時、講堂の脇にある、大学事務本部があるハナ=ホール(HANNAN HALL)の二階の教室を出たら、廊下でアジア人である日本人の私を見かけ、白人の血に近い黒人の大学の先生が、私に近づいて来て、握手をして来て、「元気でやってますか」とか、「生活にはもう慣れましたか」とか、声を掛けてくれた。その時は、「元気でやって下さい」と言って別れた。その人は社会学の学部長をやっていたセシル=パウエル教授であった。
 それから一週間ぐらいした時、ある日の五時頃、大学のカフェテリアで食事をしていると、パウエル教授が丸いテーブルに座っていた。そして、私の向い側に座って食事をしてくれた。食事をしながら、私に話をしてくれた。パウエル先生の生まれたノース=カロライナ州の田舎の町のこと。また、同じ州の黒人の大学、ノースカロライナA&T大学で学士と修士を取った時の事、そして、その後博士を取ったケンタッキー大学での事や様子を話してくれた。また、テキサス=サザン大学で社会学の学科長をしていた時のことを親切にも話してくれた。私はパウエル教授に答える形で、私が何故、黒人大学であるテキサス=サザン大学に学びに来たかを話した。そして食べ終って、最後にセルフ=サービスのカフェテリアで食べた食器を片づける前に、
 「大学内に日本語を話す教員がいるから、話しておいてあげよう」と言ってくれた。
 それから三週間ぐらいして、ある日の午後、昼食をカフェテリアで終え、図書館へ行き、三階でスチール製の本棚で本を探して目を通している時、ちょっと日本語で「ここにはないのかなあ」と呟いた。すると、スチール製の本棚の向うから、中年の東洋人の人が顔を向け、私の方を見た。私が本棚から本を二、三冊取って階段の出口付近の仕切りのある読書机でそれらを読んでいると、ふと、私の肩を叩く人があった。顔を上げて見ると、先程、本棚の所で私の顔を見た人であった。その人は隣の読書机に座り、英語で話しかけて来た。「どこから来たのか」とか、「何を学んでいるのか」と私に聞いた。そして、私とカフェテリアで会った社会学のパウエル先生が、先日、「日本人の学生が来ているよ。研究室へ行くように言おうか」とその人に言ってくれたことを話してくれた。話し終わる最後に、日本語で「日本語を話します」と言ってくれた。
 この人こそ、その大学、つまりテキサス=サザン大学で政治学を教える台湾人の教員、何国正(日本名、山河正男、英語で書くと、KUO CHEN HO)先生であった。昭和八年に日本統治時代の台湾の高雄市で生まれ、家柄は土地を多く所有する郷士であった。日本の官庁から委嘱され、高雄市の塩の専売権を与えられていた。何国正先生の父親の山河清氏は、日本統治時代の台北師範学校を出て、当時の高雄市の尋常小学校の校長をしていた。当時、学校の校長は日本人が多く、台湾人で校長になる人は数が少なかった。教頭は台湾人の人も数多くなっていたが。
 戦後、中国大陸で対日戦争のため国民党と共産党は国共合作をしていたが、戦争が終った後、抗争が再発することが予想されたので、アメリカの将軍ジョージ=マーシャル(後の国務長官、国防長官で、欧州復興計画のマーシャル=プランで有名)は日本軍が降伏後、八月十五日に国民党軍に台湾を占領させた。その後、昭和二十四年に国民党が共産党に内戦で敗れ、蒋介石以下二百万人の中国人が台湾島に逃れて来た。この二百万人を外省人と言い、日本時代からいる台湾人(本島人)と区別している。顔立ちも異なる。
 国民党の亡命政権統治によって何家は没落させられた。土地政策によって何家から多くの土地を取り上げた。また父親の清氏が地方議員に立候補した時、投票数では明らかに勝っていたのに、選挙を管理する者が国民党員であったため、台湾人に政治参加をさせまいとして、清氏に投票した用紙を手垢で汚し意図的に無効票、廃票にし、当選を阻止させられたのだった。
 何国正先生は多くの兄弟の中で下の方で、中華民国の兵役で軍の英語の教官をした後、アメリカへ渡り、夜、飲食店などで働きながらサン=ノゼ州立大学(カリフォルニア州)で政治学の学士と修士を取り、その後オレゴン州の小さな大学や黒人大学のアーカンソー州パインブラフにあったアーカンソーA&T大学で教え、その後、一九七三年インディアナ大学で博士を取り、テキサス=サザン大学に赴任した。それから六年後に私が同大学に留学し、何国正先生と私が会うことになった。何国正先生にとって、昭和二十年の終戦の年まで今で言う小学校に当たる尋常小学校で、十二才の時まで日本語教育を受けたので、日本人が懐かしかったことや、黒人大学であるテキサス=サザン大学には日本人がほとんど留学して来なかったので、日本人の私が学びに来たというので、私に会いたがっていたようだ。
 それから約一週間ぐらいして再度、図書館の一階の参考図書の読書用の椅子のところで何国正先生に会った。この時は日本語で何先生がインディアナ大学で博士を取った時の事などを話してくれた。
 そして十一月の中頃、サンクスギビングデーの時、一泊二日で泊まりに行った。それより前、九月中旬に、一度何先生の家に行ったことがあった。何家は、ヒューストン市の中心街から北に約七十キロ、高速道路で一時間ヒューストン=インター・コンティネンタル空港から少し入った高級住宅街にあった。一泊で泊まりに行った時、初めて台湾人の奥さんと息子のギルバートと会った。二人は戦後生まれなので、日本語は話せないので英語で話すしかなかった。その時は、丁度、松の木の雑木林を切り開き、中華料理屋 和園 ガン=ホー レストランを新築すべく、土台工事をしていた所であった。この時初めて七面鳥(ターキー)を御馳走になった。
 それから一年ぐらい過ぎた十二月末、秋学期と春学期の間のクリスマスと新年の休み期間三週間は学生寮が閉まり、どこか他の宿泊施設か、友人の家などに泊まり過ごさなければならない。この時は市内の安いホテルかモーテルなどを探したが、予約が遅かったのか、どこも見つからず、何国正先生の家へ電話をし、当時、中華レストランの従業員用に借りていたアパートに泊めてもらうことにした。当時、皿洗いをしていた出稼ぎのメキシコ人と同居することになった。メキシコ人があまり英語がわからず、私がスペイン語を話せたからである。私がスペイン語を話せたのは、大学時代に日本でスペイン語を学んでいたからである。
 約三週間、大学が休みの期間、何先生のアパートに泊めてもらう代わりに、大きな中華料理レストランを手伝うことになった。クリスマスの期間、年末、年始の時期はレストランに食べに来るアメリカ人客も多かったからである。やった仕事はバス=ボーイで、客が食べ終わった食器を片づけることであった。それと、メキシコ人の出稼ぎ労働者を二名使っていたので、私がある程度スペイン語が話せたので、彼らの通訳をもやった。
 三週間ぐらい泊めてもらい、正月が明けて大学の学生寮が開いたので、大学の寮へ帰る時、台湾人の奥さんから私に、毎週金曜日に来て、土、日と月曜日の朝まで、二泊三日で、中華レストランを手伝ってくれないかと頼まれ承諾したので、一月中旬よりそうすることにした。
 毎週、月曜日から金曜日まで、大学の一回、三時間の授業に三回出て、毎日授業と三回のカフェテリアでの食事を間に挟み、図書館と寮の机と教室との往復に追われた。多くの本を図書館から借りて来て読み、レポートや論文を書いたりして、きつい勉強であった。
 金曜日の夕方になると、何国正先生が自動車に乗せてってくれ、約一時間でレストラン和園に到着、そのまま夕方六時以後夜の十一時まで手伝った。
 アメリカ人は一週間、会社での仕事にうんざりし、金曜日に解放され、その夜は家族と一緒にレストランで外食をして気分転換をする。そのため、金曜日は夜六時頃から大変忙しくなる。七時頃になると、人々がお客として入れ替わり立ち替わり来客し、駐車場が自動車でいっぱいになる程忙しくなる。
 土曜日は昼食後多くの人々が食事に来て、夜も同様にレストランは客でいっぱいになる。
 日曜日は、人々が午前中に教会に行くため朝食を食べていないので、朝食と昼食を合わせたサンデー=ブランチという特別の食事をレストランでは出す。そして夜の十一時頃レストランを閉めるまで手伝い、月曜日の朝、何国正先生の自動車で大学へ戻る。毎週このパターンであった。
 レストランがガン=ホー レストランという名の他に「和園」という名前を使っていたのは、何国正先生が日本時代の懐かしさから、レストランの屋根を日本の農家の茅葺きの屋根の形にしたからであるという。
 レストランを手伝っていた事で、雇われていたコックなど多くの中国人で、違った出身地の人々の違いを細かく観察することが出来た。北京あたりの河北省や山東省から来た者、南京あたりの江蘇省あたりから来た者、その他胡南省、山西省、福建省あたりから来た者、広東省あたりや香港から来た中国人、台湾から来た外省人など様々な地方出身の中国人を見ていた。彼らの言葉はわからなかったが、彼ら色々な地方出身の中国人の特性をつぶさに観察すると、彼らの民族性、習慣が出身地によって違い、さらに出身地が違うと中国人同士が排他的であって、お互いにうちとけないことがわかった。言葉についても毛沢東が中国共産党政府を樹立した後、中国全土を統一するため、北京周辺の中国語の一方言、北京語が行政上の公用語、北京官話として広く使われ、学校でも教育された。
 しかし、それでも各省出身の人間は、なかなか北京官話を使おうとせず、各地の南京語、上海語、福建語、広東語などで話し、お互いに通じない。そのため時には英語で話す場合もある。新聞などを読んだ場合は、同じ漢字なので読めばわかるのだが、話した場合は、例えば北京語と広東語では漢字の発音が大部違うので、まったく通じない。何国正先生によると、北京語と広東語や、元々福建語であった台湾語の違いは、日本語と中国語、即ち北京官語ほどの違いがあるという。この点、日本人が中学三年生まで学校で国語を習い、漢字を相当習っているので、高校一年になった時、中国語の古典である漢文を、発音はわからなくても書き下しという方法で唐の漢詩などを読めるのとよく似ている。
 レストランという職場でも、中国人の出身省が違うと、民族性が違い対立していた。この点について、何国正先生がレストランの経営者として苦労し、頭を悩ましていた。ある時、中国人で違う省出身者二、三人がグループを作り喧嘩をして、喧嘩両成敗で双方を解雇しなければならなくなった。経営者の何国正先生は、すぐにアメリカ内にある華僑に連絡をしたり、台湾からコックやその他の従業員を雇用しなければならなかった。
 また、ある中国人のコックは、ある期間働いていやになると、無断でやめて出て行った。金曜日の夜、アメリカの友人の所へ行くと言って、月曜日には帰らず、夜逃げして行った。ある中国系のコックは、一つの店に勤めながら秘かに他の中華料理屋のコックと情報交換していて、給料やその他の条件が良い店へ勝手に移って行ってしまう。また、店にあきたりず、店の経営者と対立したりすると逃げていってしまう。一般的に中国人は自己中心的で、自分の欲求を通そうとする。通らないと怒ったりする。
 中国人の中でも、とりわけ福建省の出身者、広東省の出身者が仲が悪くソリが合わない。元々、福建省と広東省では、風土、環境が大いに違い、中国人の間でも、気質、習慣がまるで違う。福建省の人間は農業もやっていたが、主として東シナ海沿岸での漁業や、船を使って台湾、フィリピンや東南アジアでの海外貿易をしていた民族であった。特に十七世紀以後、台湾の台中に入植していた。この時に、すでにインドネシアのジャワから北上していたオランダが台湾の台中に先に植民をして、日本の長崎の出島への中継地としていた。その後、長崎の日本人を母に持ち、長崎から明へ父親と一緒に帰った鄭成功が明の残党の軍を使い、台中のオランダの勢力を駆逐した。さらに、フィリピンの上流階級の中国系やマレーシア、シンガポールの中国人社会を福建人が移り形成した。フィリピンではスペイン系と共に中国系もスペイン語を話す。
 一方、広東人は奇妙な風習がある。女と男の生活の役割が主客転倒なのだ。女が外に出て畑を耕し、働き、男が家の中で家事や子供の世話をする。そして、広東人は海外に出稼ぎに華僑として行く。世界の色々な国へ行って広東人のみの地域を作る。アメリカでは貧しい黒人の社会に個人経営のスーパーマーケットや雑貨屋を経営している。そして自分達は比較的高級な住宅地に住んだりしている。貧しい人々から富を得ているので、広東人は「東洋のユダヤ人」などと呼ばれている。
 広東人の仲間で、香港の港で黒い船、ジャンクと呼ばれている水上生活者がいるが、これもルーツは広東人だと言われている。
 このように、福建人と広東人は習慣、生活感、民族性が違うので、お互いにうちとけない。対立ばかりする。
 アメリカの中華街でもサンフランシスコの中華街とロサンゼルスの中華街ではチャイナタウンとしての民族性が違う。サンフランシスコのチャイナタウンは広東系人の独占である。「広東語を話さない者は人でなし」という言葉があるくらいで、サンフランシスコのチャイナタウンでは中国の他省の出身者の参入を許さない。そのくらい排他的なのだ。かつて、渡辺はま子が、「サンフランシスコのチャイナタウン」という歌を唱っていたが、それは広東人の社会を唱っていたのだ。本人は、その事を知らなかったかもしれない。
 ロサンゼルスのチャイナタウンは、いくつかの中国の省出身者がいるが、別々に華僑組合を作っている。ここは、かつて中国国民党の創始者、孫文も亡命していたこともあり、その後も国民党の支部があり、スパイ活動をしていた。
 その他にニュー=ヨークやシカゴ、シアトルなどにチャイナタウンがあるが、中国人の出身省はまちまちである。華僑組合は各省人ごとに別々に作っている。テキサス州ヒューストンにはチャイナタウンから離れた所にベトナム人のベトナムタウンがあり、食料品店や飲食店をやっている。
 日本に於ける中華街を見てみると、横浜の中華街と神戸の中華街が有名で、二大チャイナタウンであるが、とりわけ横浜の中華街は各省出身者の垣根が取れ、一体となっている。世界中のチャイナタウンでも横浜ほどまとまりのある所はない。広東人、上海人、北京人、山東人、胡南人、台湾人など仲よくやっている。これは中国人の一世が日本人の女の人と結婚し、二世、三世となるにつれて中国各省の古い習慣が薄れ、日本語で話し、日本に同化したためである。そのため、二世、三世には中国の民族性を教育するため、中国語、北京官話で中華学校にて教育をしている。二世の中国の各省出身者が、共同で出資し関帝廟を作り、横浜の観光地として寄与している。
 神戸の中華街も色々な中国の省出身者で成り立っているが、広東系が優勢である。
 日本の中華街は、コックなどを日本の中華料理店の店主が香港や中国各地や台湾から雇い、一時的に働いた者が、アメリカ、カナダ、ヨーロッパなどの中華街へ働き場を移す中継地となっている。
 台湾には、台湾人と中国人(外省人)、そして高砂族、つまり原住民と三種類いる。まず、台湾人についてであるが、元々は十七世紀明の王朝が満州の女真族により滅ぼされ、清に王朝が代った時から、対岸の福建省から徐々に移民して来た人である。すでに述べたように、オランダが最初に台中に要塞を作り植民地化したが、前述のように明の軍人、鄭成功がオランダを台中から駆逐し、三世紀もの間だ、福建人が徐々に台湾に入植し、台湾の島に根づき、台湾人となる。
 そして、三世紀ぐらい経った時、日清戦争が起こり、日本の勝利となった。台湾は正式な中国、即ち清の領土となっておらず、主権もはっきりしていなかったにも拘らず、日本が領有権、主権をはっきりさせ、清に認めさせるため、下関条約で清から台湾を日本に割譲した形にした。
 その後、五十年日本の統治下で、乃木希典など軍人を総督に置き、地方に行政官を置き、台湾人に学校に於て日本語で教育をした。
 何家については、土地をたくさん持つ階級の家柄であったので、父親を校長にしたり、塩の専売権を与えて、日本政府は保護した。よく、日本人の地方官吏が台湾の高雄に赴任すると、何家に挨拶しに来たそうだ。
 戦後、蒋介石の国民党が共産党に追われ、台湾に来た時、約二百万人の中国人、即ち外省人が台湾に逃れて来たが、台湾人と外省人の見分け方は、日本時代に日本語教育を受け、台湾語と日本語と両方を話すのが台湾人である。台湾人の方が日本人より肌が白いが、風貌は日本人に近く、外省人の方が痩せこけていたり中国大陸人らしい顔をしている。芸能人で言うと、テレサ=テン(_麗君)、欧陽菲菲などが外省人で、ジュディオング(翁倩玉)が台湾人である。
 台湾人の他に日本人から戦前、高砂族と呼ばれていた原住民が存在する。オランダ人や台湾人が福建省から入植前から台湾島に住んでいた原住民で、元々はフィリピンから渡って来たと言われている。初めのうちは今の台北、台中、台南、花蓮港などの平野に住んでいたが、台湾人が入植するにつれ、追われるように山岳地帯に住むようになった。アミ族、タイヤル族などいくつもの部族に分かれ暮し、それぞれ違った言語を話していた。日本統治時代に日本語が教育され、現在も日本語が多くの部族の共通語となっている。日本の商品やビデオ、CDなど高砂族の山岳村へ運ぶ行商のルートが今もある。
 台湾人の中には少数ではあるが客家(ハッカ)と呼ばれる人々がいる。出身が迷であって、広東省の海での船上生活者だと言われている。香港なんかでジャンクと呼ばれている人々の一派だと言われている。
 終戦の時、日本が敗戦となった昭和二十年八月十五日、中国国民党軍が台湾を占領し、それ以後、長い間、九〇年代台湾人出身の李登輝総統まで中華民国の亡命政権として、民主的選挙が行われず、野党のない一党独裁政治が続いた。
 アメリカの将軍ジョージ=マーシャルが、戦時中に抗日戦線のため、国民党と共産党による第二次国共合作が崩れ、戦後、国民党と共産党による内戦抗争が予想されたので、前もって国民党軍に台湾を占領させたのだ。
 一九四九年、中国全土で共産党軍に敗れ、共産党が中華人民共和国を樹立すると、蒋介石国民党総統は台湾に亡命政権の中華民国を作り、中国人約二百万人を台湾に移住させた。これが台湾人(本島人)に対して外省人となる。
 これ以後、一千三百万人以上いる従来の台湾人を弾圧し、政治運動、言論の自由を規制し、違反すると逮捕し、民間人なのに軍人の犯罪を対象とした軍事法廷に掛け、重い罪を課した。昭和二十二年二月二十六日の高雄市事件では、国民党軍事裁判権に反抗する台湾人を何人も高雄市の駅前広場で地面に木の棒を打ち、縛って公開銃殺に処したのは有名である。この事件は長い間、語ることをタブーとされていた。以後、台湾人は反乱せず、おとなしくなってしまった。
 台湾人と中国人(外省人)の比率は八割と二割である。経済的自由は資本主義が認められ、経済力、主導権は台湾人が持っている。
 国民党が台湾で軍事亡命政権を樹立した後、本省人である台湾人と外省人である中国人の民族的対立が起きる。台湾人は元来、先祖が中国大陸の福建省の出身であったが、約三世紀の長い間、台湾島での生活で身につけた中国大陸の人とは違った独立した民族性を持ち、日本統治時代に日本の教育を受け、日本の文化、風習を身につけた台湾人と、戦後、中国大陸から亡命して来た色々な省出身の中国人(外省人)とは合わず、また、蒋介石の国民党の政権は一党独裁、軍事政権を敷き、中国人優位の統治をしたので、台湾人の政治や行政に参加する事を望まず弾圧した。
 台湾人は日本統治時代は、ほとんど反乱も起こさなかった温和な民族であったのに、国民党がやって来たら、国民党の独裁的、圧制的統治にすぐに反発し、各地で国民党打倒の台湾独立運動、台湾人自治の運動を起こした。
 また、台湾人が地方議員に出たりすると、国民党は選挙人に贈り物や金銭を与え、台湾人の候補に投票しないよう圧力を掛けたり、投票されたものを選挙管理をする国民党員が不正をし、無効にしたりした。すでに述べたように何国正先生の父、山河清氏は、高雄市の議員に立候補し、台湾人の票を集め、勝っていたのに、国民党員の選挙管理人によって手垢をつけられ無効にされ、陰謀で落選させられた。
 こうして台湾人は、戦後、中国から来た中国人を不信に思い、戦前受けた日本語教育や日本文化に対し懐かしく思い、日本人には親しみを持ち、戦後も台湾に訪れた日本人観光客に対しても親切にしてくれるのだ。また、日本のテレビ、ビデオ、映画、日本の本にも親しんだ。
 何国正先生がアメリカの黒人の大学で日本人の学生であった私に世話をしてくれたのは、日本統治時代に日本語教育を受け、日本の文化、風習を身につけていたので、日本人に対して親しみがあり、懐かしさがあったと思われる。中国人である外省人は、台湾人に対し高圧的な態度をし、国民党政権が圧制したので、外省人に対しては台湾人は嫌いだが、日本人に対しては、戦前の懐かしさもあり、割と日本びいきである。しかし、その後、蒋介石の国民党の中国語(北京官話)による教育が行なわれ、戦後世代になると、戦前の日本語教育を受けた台湾人と中国人との意識が失われ、台湾人も同化というか、中国人意識が植えつけられた。
 何国正先生の家にお姉さんや姪二人がいた。お姉さんは尤何玉香さんで、その娘さん、そして、もう一人の姪はルイジアナ州立大学に通う食品化学を専攻している大学院生であった。
 お姉さんの玉香さんは戦前の日本統治時代の日本人と台湾人の関係や何家の様子などを話してくれた。すでに述べたように何家は多くの土地を所有し、日本政府から塩の専売を委され、お父さんの山河清さんが、台北師範を出て高雄の国民学校の校長をしていた事などを話してくれた。台湾人は教頭までは多くの人がなったが、校長は日本人に比べ少なかった。清氏はやはり家柄がよかったので校長までなれたのだ。
 台湾人は比較的穏和な性格、国民性のため、日本人の台湾での統治がうまくいったのだ。玉香さんの話からそれがわかった。これが気性が荒い朝鮮人には、日本が統治するのに軍事力、警察力をもって強く取締らなければならなかった。日本人に反抗し対立したからだ。
 また、従順な南洋諸島のパラオ諸島とか、トラック諸島、サイパン島などの原住民に対しても、日本の統治は、日本語教育を通してうまくいっていた。そして、軍事占領したラバウルのあるパプア=ニューギニアでも、従順な原住民は日本人の農業指導もあり、日本人とうまくいった。
 玉香さんは台湾人であったが、家柄がよかったので、当時の女子の高等教育である高雄高女に入れてもらえたそうで、戦後になっても日本人の卒業生達と高雄市でクラス会を時々やっていたそうだ。
 その後、玉香さんは結婚し、御主人の大阪の商業学校入学のため、台湾の基隆から船で瀬戸内海を通り、神戸で上陸したそうで、初めて見る瀬戸内海の島々の美しさが良かったそうだ。関西に二年ぐらい住み、長男を出産し、その後、御主人の東京にある日大入学のため、東海道線に乗って上京し、東京の中野に下宿し住むことになる。列車で上京する途中、蒲原から沼津の間で、初めて見る冠雪の富士山の雄大な姿を列車の窓から真正面に見たので感激し、新ためて「富士山は日本一の山」と実感したそうだ。私が「台湾の新高山(中国名 玉山)の方が当時は、標高が高いのではなかったですか」と言ったところ、「富士山の方が麓からの高さのある大きな山で、雄大さがあったので、やはり富士山は『日本一の山』であると思います」と言ってくれた。
 戦前、台湾人が日本語教育を受けたことで面白い現象がある。戦前の台湾人は家では当然、福建語から発展した台湾語を話すが、学校では日本語で教育を受けたので日本語も話す。そこで、台湾人同志で話すと、通常、当然のことながら台湾語で話すが、ある時、突然日本語に変わり、また台湾語に戻ったりする。そして、また日本語が出て来る。これが自然なのだ。意図的に日本語を使っているのではない。玉香さんによると、日本語の方が言い易い時は日本語で言うそうだ。例えば「早くいらっしゃい」など。このことは、戦前の日本の台湾人への日本語教育がかなり成功した事を意味している。蒋介石の国民党が台湾に来て、台湾人が反抗した時、連絡はすべて日本語を使ったそうだ。台湾語だと戦後、福建省から来た者に知られてしまうからである。
 また、台湾人が台湾人同志で手紙を書く時は日本語で書く。それは、話すと違うが、台湾語も北京語も書くとすべて画数の多い漢字で書かなければならないが、日本語で書くと、ひらがな、カタカナを多く含んでいて、短時間で文章が書けるからである。つまり、日本語の方がすらすら書き易く便利だからだ。
 若い世代の台湾人は、国民党による中国語(北京語)の教育を受けたので、台湾語と北京語しか話せなかった。何国正先生の奥さんは戦後派であったので、台湾語と北京語しか話せず、日本語は話せなかったので、私とは英語で話していた。玉香さんの娘さんは、学校で北京語を習っていたので、台湾語と北京語の他に、台湾に於て日本の企業に勤めていたので日本語が少し話せた。
 面白いことに、戦前日本語教育が行なわれ、台湾語にも北京語にも日本語から入った言葉がいくつもある。「背広」「お酒」「みそ」「タクシーの運ちゃん」「油揚げ」「おじちゃん」「おばちゃん」「むずかしい」などなど。
 何国正先生の息子ギルバート(何義抜)とは兄弟みたいに接していた。もちろん英語であったが、色々なことをして遊んであげた。一番最初に会った時は、テニスボールを使い、ピッチャーのまねをして、レストラン和園の玄関、入口の脇の壁にぶつけた投球をして、バッティングをさせた。ある時は近くのスーパーへ気晴しに連れて行った。部屋がなかったので、私は同じ部屋に寝泊まりをした。英語で面白い事を言って笑わせていた。
 一番最初に会った時は、小学校五年生ぐらいであったが、兄弟がいなかったので、ちょうど私がレストランを手伝うため、一週間に一度泊まりに行っていたのでいい話し相手になった。面白い事を見つけては教えたりした。例えばヒューストン市内に日本の麦茶を売っていて、それを飲ませたり、日本のテレビ番組の話をしたり、当時、現地で放送していた日本のアニメの話をした。また、学校の宿題で数学やスペイン語の文法なども教えた。
 私がテキサス=サザン大学卒業後、しばらく会っていなかったが、手紙をやりとりしていた。頭脳明晰であったギルバートはミズーリ大学の医学部に全米から十人選ばれた特待生になり、生物学の三年生で学部を終えずに三年間の医学部大学院に行ける六年間をセットされたコースに入学出来た。通常、アメリカで医師になるためには生物学で学士を取り、成績が良い場合、医学部の大学院で学士の上、九十単位を取り、MD(医学博士)になる。この場合、たいがい学部を卒業した学校と違う大学へ行くのが普通だが、ギルバートの場合はミズーリ大学医学部のセットされた特別コースである。MDは医師という職業に必要な学位で、学問的な学位の博士(PHD)例えば英文学や歴史学、政治学、生物学などの学問学位より下で、それらの修士と博士の中間の学位がMDなのだ。PHDもMDも学士の上、九十単位を取るが、MDには博士論文がないのでPHDより下なのだ。医者の中には、生物学の小分野、解剖学、病理学、免疫学、微生物学でPHDを取る人もいる。この方が医学部の教職に就けるからである。
 その後、日本に戻っていた時に、ギルバートがミズーリ大学医学部の最後の年に、脳科学の実験をしていた。脳の神経細胞のつなぎ目に脳内のある酵素が入り込むのを阻害するのに、日本の化学メーカーのみが製造している炭素Cと全身麻酔薬エーテルのEの化合物C12E8の物質を捜していた。
 ある日、ギルバートから手紙が来て、この物質のサンプルを買ってミズーリ大学医学部に送ってほしいという依頼があった。そのすぐ後に、ミズーリ大学の医学部の主任教授から依頼の手紙があったので、すぐに最寄りの図書館へ行き、電話帳を引くと、その化学メーカーの会社は東京の日本橋にある事がわかった。早速、電話連絡すると、C12E8の物質を製造している事がわかった。そればかりかC11E6、C10E6など炭素Cと麻酔薬Eの化合物をこの会社だけが製造している事がわかった。訪ねて行って担当者に会って聞いた所、日本の大学や工業会社にはほとんど納入していないが、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、オーストラリアの大学、医学部や理工学部に納入している事が分った。すぐに二箱買い、自宅近くの郵便局から航空便でミズーリ大学の医学部に送った。これについては、アメリカ人の医学部主任教授から、お礼の手紙が届いた。後日、会社の担当者に聞いたら、ファックスでミズーリ大学の医学部から同化学物質の大量注文が来たそうである。
 私がミズーリ大学医学部に依頼されたのは、ギルバートが主任教授に、以前にテキサスの実家で日本人の留学生の私を預かっていたことを話した事による。もう一つは、たとえ日本の医者に知り合いがいたとしても、ミズーリ大学の医学部としては自分達がやっている脳の実験を、その日本の医者に依頼することで知られてしまい、日本で先に実験をやられてしまい論文を発表される恐れがあるからだ。そこで、秘密の保持のため、医者でない私に白羽の矢が立ったようだ。
 アメリカの医学部の日本の代理人をやって学んだのは、日本の医学部はアメリカやヨーロッパの大学の卓れた実験に、自分達の足元にある会社が作っている化学物質が使われている事を知らないという事実だ。それを知るのは、臨床上必要になった時、後日、論文を読んで知るのだ。そればかりか、医学に限らず、化学でも物理でも、アメリカやヨーロッパの研究者がノーベル賞を取った業績の影には、日本の無名の会社が作っている化学物質や部品が使われ、手助けしているのではないかと感じた。アメリカの医学部の代理人になったことで、同医学部の内幕を垣間見る事が出来た。
 その後、ギルバートはミズーリ大学の医学部を終え、カリフォルニア大学サンティアゴ校の医学部脳科学研究所へ就職し、老人性の脳病、アルツハイマー病、パーキンソン氏病、ハリントン病、ピッグス病の臨床的研究をしている。ノーベル賞等を取る勢いである。
 こうして、台湾人の教授の家に泊めてもらい、また中華レストランを手伝い、多くの地域の中国人の民族性、文化、習慣の違いを知ることが出来た。また、台湾人の家族の中で、台湾人のことを知ることも出来た。多くの地域の中国人が一ヶ所に集まっていたから出来たことで、もし実際に中国へ行ったら、何千キロも大陸を廻らなければ出来なかったろう。貴重な体験であった。また、台湾人の家族に世話になりながら、未だ台湾に行っていない。これから台湾へ行こうと思う。何家で学んだことは、何家族が台湾の習慣や文化を保ちつつ、アメリカ人の住宅地でアメリカの生活様式を合わせ持っていたことだ。ここが現地でアメリカの社会になじまず、自分達の社会を作る中国人や日本人と違っていた。

(流星群第24号掲載)

アメリカ銃社会の特質

 多くの日本人が海外で商社などの企業の社員として出張したり、また何年か企業の現地事務所に駐在したり、又一般の人が海外旅行を何回もして帰国すると、海外の色々な所へ行ったり、滞在した場所について、見聞したことを自慢して話し、あたかもその国の場所や社会を知っているかのように他人に話すことがしばしばある。しかし、彼らは、それら海外にいた土地の社会について何も知ってはいないのだ。彼らは海外旅行で行った土地や企業の出先機関のある海外の土地に何年か駐在した場所の町並みや風景、飲食店などを外観的に見て知っているにすぎない。
 なぜならば、滞在した海外の地の現地の人の社会に入り込んでいないからだ。現地の人の社会に身を置き、例えば現地の人の隣りに住んで現地の人の言語で話したり、教会に通ったりして現地人とコミュニケーションを取って、社会性をつけ、その国の日本と異なった国民性を何も身につけていないのだ。
 長期間海外の現地に駐在する商社などの社員は、取引上最小限に現地の外国人と接するが、英語など外国語が必要な時は、現地の外国人秘書に任せている。それ以外の時は、他の企業の日本人の人々と同じ地域に固まって住んで、飲食をしたりして、日本人のみと付きあい、親睦をし、日本に帰ってから役立つ、日本人同志の人脈づくりを海外で行っているのだ。やはり、現地人と外国語で話すのが困難で、慣れた日本語を話したいがため、日本人同志の付きあいとなる。そのため、滞在した国の外国人ともほとんど接しないので、外国語も苦労して身につけず、現地の人々の物の考え方や習慣も身につかない。つまり、日本人は海外に滞在しても、国際性を身につけて来ないのだ。
 この点、私はアメリカの大学の歴史学の大学院に在籍し、黒人大学であったので、他の黒人学生二、三人と寮の一室で生活を共にし、その廻りの黒人社会の人々と接し、泊めてもらったり、教会に行ったりし、黒人社会に馴染み、さらに白人社会、スペイン語を話す、メキシコ系米人の社会にも融込んだので、アメリカ人の習慣や英語を充分に身につけ、社会性、国際意識、感覚を身につけることが出来たのである。とりわけ、自分自身も銃を身につけ極貧の黒人社会を歩いたり、アメリカ銃社会の特質を見たり体験した。以下、日本人の企業社員がアメリカでは絶対に入り込まない銃社会体験について記してみたい。
 私が銃社会の体験があるのは住んでいたアメリカ社会の環境による。アメリカの黒人大学、テキサス州ヒューストン市にあるテキサス=サザン大学に留学したことによる。大学の廻りは黒人の住んでいる黒人社会であり、ヒューストン市の広域の黒人社会は、その中でも貧富の差があり、大学の廻りの黒人社会はさほど貧しくなかったが、黒人社会の中でも地域によっては、極貧で、危なく、強盗や銃の発砲による犯罪の起こる黒人社会もある。全体的に見て、白人社会に比べれば、黒人社会は貧しく、銃による犯罪が起きやすい社会であるが、そうかと言って、相当な貧しい、大変危険な地域と呼ばれている黒人社会でも、戦場のようにしょっちゅう弾丸が飛んでくるわけではない。
 テキサス=サザン大学に留学していた時、歴史学の大学院に留学していたので、勉学が大変きつかった。何冊もの歴史の厚い本を読むコース、論文を書くコースなど大変量が多かったので、毎日、こんな過酷な勉学をしていたならば、頭が疲れて働かなくなってしまう。何か本から離れ、気晴しをしなければならない。
 その方法として大学のあったアメリカ南部の大都市ヒューストン市内を隈なく網羅している市内バスを四方八方に乗り、市内を隅々まで見てやろうと思った。市内には、裕福な白人が住んでいる地域、スペイン語を話すメキシコ系米人が住む所(彼らはそれ程裕福でない)、不法にメキシコから渡って来た人々が住んでいる地区、その他中米の国々の人が住む地域、貧乏な白人の住む所、黒人の住む所、スペイン語を話す人と黒人や少しの裕福な人が混成して住んでいる所など様々な人種の地域社会がある。
 黒人の地域は、その内部の黒人社会で貧富の差があり、広くヒューストン市の東部を占めている。その黒人社会は、外部から社会全体を見ると白人社会から見れば、相対的に貧しいが、広い黒人社会の中でも、比較的裕福な地域とそうでない地域、そして極貧の地域がある。この広い黒人社会は、郵便番号では77003、77004、77005に分かれるが、それぞれ、・003、・004、・005に合せ、3RD(サード)ウォード(WARD地区)、4TH(フォース)ウォード、5TH(フィフス)ウォードと呼ばれる。ウォードは地区を意味し、日本のように東京の特別区や政令指定都市の区のように行政体を持たない、便宜上の通称の区なのだ。
 中でも、5THウォードが極貧な黒人社会なのだ。その中でもライオンズ=ストリートは、ボストンやニューオリンズの似たようなストリートと並んで、全米三大極貧ストリートの一つであった。ここへは、周辺の貧しい地域の黒人でも近寄らないという通りであった。  勉強の合間の気晴しに、ヒューストン市内の路線バスをすべて終点まで乗ってやろうとしていたので、市内の東西南北、白人社会、メキシコ系米人の住んでいる地域など色々な場所を訪ねて行った。黒人の社会は、いくつかの地域へ行ってみた。多くの黒人が礼拝に来ている黒人地区の教会に行ってみたり、黒人地区の古道具屋、古着屋へ行き安い物を買い、黒人相手の安い食堂や黒人のおばさんがやっている自宅を改造した内職の店で、ハンバーガーやホットドッグ、コーヒーなどを非常に廉価で食べて楽しんだりした。その後、極貧の黒人の地域、5THウォードのライオンズ=ストリートへも是非行ってみたいと思った。
 当時、大学の寮に住んでいたので、副寮長に「極貧のライオンズ=ストリートへ行きたい」という希望を話したところ、「黒人でも近寄らない場所だから、行かない方がいいよ」と忠告され、「あそこへ行く時は銃を持っていかなければならない」と教えてくれた。  大学に入ったばかりの時、大学の近くの小さな安酒場でテネシー=バーボンウイスキーを飲みながら話し、顔見知りになった大学の近くの黒人の家の主人に、スーパーマーケットへ行った帰りに立ち寄り、「5THウォードのライオンズ=ストリートへ行って歩いてみたい」と話したら、「危いからやめろ」と一応、諫められた。後日、その家へ遊びに行った時、「どうしても黒人の極貧の街、ライオンズ=ストリートへ行き、様子を見てみたい」という私の強い願望を話したら、「どうしても行くのか。それなら、行く時は必ずウチへ寄って声を掛けてから行けよ」と言ってくれた。この人はかつて立川基地に兵士として赴任していたことがある。
 そしてライオンズ=ストリートへ行くと決めた日に、その家に行くと、主人が「どうしても行くのか。それなら渡すものがあるから」と言って奥へ行き、手持ち金庫を出し、持って来て、中を開いて二十二口径のリボルバーの拳銃を出し、「何かあったらこれを使って身を守れ」と言ってそれを持たせてくれた。
 その日はバスに乗って黒人でもなかなか近づかない、極貧の街、ライオンズ=ストリートへ向った。私が在籍していたテキサス=サザン大学はヒューストン市の中心街ダウンタウンから南西に四キロ離れた所にある黒人大学であり、東に五百メートル離れた所に、もっと大きい州立大学、ヒューストン大学がある。
 バスに乗って北の方、ダウンタウンに向うと、古くなった木で出来た黒人の家々の住宅街を抜け、黒人がやっている古くなった靴屋、銃砲店、ケンタッキーフライド=チキンの店、黒人のやっている安バーなど店が並んでいるダウリング=ストリートを通る。廃校を利用した黒人の病院もある。その後二十分、大学から乗ると、ダウンタウンに着く。ここは中心街で、ビジネス街でもある。市役所、連邦政府支所、ヒューストン警察やFBI支所、裁判所などの官庁や会社のビル、デパートやスーパー、レストラン、洋品店など多くの店が並ぶ。バスはその中心街から北東に曲がり、やがて東の方へとライオンズ=ストリートへ向かう。十分くらいでライオンズ=ストリートを通る。通りは、かつては白人が住んでいたお店が並んだ所のおもかげがあり、その後黒人が入って、貧しい地域になったようだ。通りの両側に屋根や壁が崩れた家、災害の後のような壊れた家々、明らかに人が廃材で作ったバラック、壊れていないが黒ずんだりした広く大きな家、崩れかかった、かつての酒場、ビリヤード場、レストランなど極貧の街だと分かる。黒人の男達が汚れた上着を着て、椅子に座って、ウイスキーの小瓶で昼間から酒を飲んでいた。何人かの男達は通りの歩道や車道に足を投げ出し、酒に酔ったのか、寝ていた者もいた。
 私はバスを降り、その地点から二キロぐらい歩いてみた。初めてライオンズ=ストリートへ行った時もそうだが、それ以後そこへ行った時も、バッグの中に大学の近くの黒人の主人に借りた二十二口径の拳銃を入れて、隠し持っていた。アメリカの住所は、日本の住所のように一定の大きな土地に番号を打ち、○○町三百六十五とか21514のようになっているのと違い、ストリートに0から千番台まで等距離に番号を付け住所にしている。バスを下りた所がライオンズ=ストリートの千(一〇〇〇)だとすると、五〇〇〇番まで歩いた。約四キロである。歩いている途中、変な汚い格好の男が話しかけて来たが無視した。ライオンズ=ストリートの四〇〇〇番台になると、低所得者だが、崩れた家の極貧の黒人の街ではなく、スペイン語を話すメキシコ系米人が住んでいて、相当古くなったかつては白人が住んでいたであろう木造の家が並んだ所になる。
 ライオンズ=ストリートのような極貧の黒人の地域では、質の悪い人間が刃物で脅し、金を要求したり、強盗をしたり、時には、初めから殺しに来る場合もある。そのような時、丸腰では自分を守り切れないし、殺されるままだ。刃渡りの長いナイフで襲われたらたまったものではない。そこで、刃物で向って来た時に銃を出し、銃口を向けて相手を威嚇したり、場合によっては、そらして威嚇発射すれば、刃物を持った男の突進を止め、退散させることが出来る。ライオンズ=ストリートにはその後五回行ったが、幸いにして一度も銃を抜いて威嚇したり、発射することもなく済んだ。それは、前もって大学内で、シカゴ、ボストン、ニューヨーク、マイアミなど犯罪が多発する大都市から来た黒人学生達に、それぞれの都市で最も危険な黒人社会の地域の特徴について事情を聞いていたからである。
 貧しい黒人の地域では貧しさから非行に走り、薬物を常用したり、ナイフなど刃物で強盗や殺しをやるのは言うまでもないが、私が黒人学生達に聞いた所によると、彼らは夜に暗躍し、昼間は寝ている事が多いという。従って、彼らが寝ている昼間に行けば、比較的安全だということである。正に、鬼のいない間の洗濯である。黒人社会という藪に悪いヘビがいないか竹棒でつついて慎重に行ったということだった。
 ライオンズ=ストリートは隅々まで見て歩いた。ある日、往きの市内バスがライオンズ=ストリートに差しかかった時、私が座っていた座席の窓ガラスが、酒に酔って通りに寝転んでいた黒人の男の投げたビール瓶によってヒビが入った。すぐに、黒人のバスの運転手が急ブレーキを掛け、バスを止めて降りて行って、その男を軽く蹴ってバスに戻り、再び運転し始めた。帰りのバスで、私はビールの空き瓶を拾っておき、その男がまだ道路に寝そべっていたので、お返しに空き瓶を投げてやった。その男の顔の近くで空き瓶が割れた。これを見て、帰りのバスの太った黒人の運転手は「よくやった!」と言いながら手を叩きゲラゲラ笑った。私は「往きのバスで窓に空き瓶を投げられたので、やり返した」と説明すると、太った運転手は首肯いてくれた。(ライオンズ=ストリートは十五年ぐらい前に、ヒューストン市の都市計画により整備され、現在は存在しない。)
 銃社会の経験に関連する事として、アメリカ大学警察での経験がある。一般的にアメリカの大学は面積が広く、また学問により高度な知識を養う聖なる地で、凶悪な暴力犯罪があってはならない。また勉学に励む学生も教育上、規律上、暴力的犯罪や窃盗などの犯罪を犯さないよう取締らなくてはならない。
 そこでアメリカの大学では、市の警察や州をいくつかに分けた郡の警察である保安官事務所から独立した警察権を、大学の自治の基に持っている。その捜査権、警察権は大学の敷地内とその周辺地域である。周辺地域で犯罪人を見つけても自ら逮捕せず、逃げないようにして、市の警察や保安官事務所に連絡し、そのいずれかに引き渡す。
 テキサス=サザン大学で、私は大学院生として選ばれた大学警察の捜査アシスタントとして少しの手当を貰い、活動した。それに選ばれた理由は、私のルームメイトが同じ大学のロースクール(法学大学院)の学生であって、寮でその学生とアメリカの法律と日本の法律は、どう違うかなどを議論していたので、そのことが伝わり、私は法律にある程度精通している者として推薦されたからだ。大学警察の部屋に於て、テキサス州の刑法などのあらましを必要な範囲で習い、必要な逮捕術として警棒の使い方などを正規の大学警察の制服の警察官に習ったりした。大学は教育という知識を養う神聖な場所であるので、銃は使用しない。一つにはあまり凶悪な犯罪が学生によって犯されないことと、学生から選ばれた捜査アシスタントとして自主的に大学の自治権に基づき、他の学生の犯罪を取締っているので、銃を使用すれば、捜査権を持つ学生が他の学生に銃口を向けることにもなるので、教育の場、大学としては好ましくないからである。
 学内で寮に住む学生が犯した犯罪について捜査したり取締ったりした。例えば鍵の掛っていない隣の学生の部屋から財布を盗んだ窃盗とか、軽い暴力行為とか、飲酒の取締りをもした。また学生が銃を持ち込んでいないか部屋にある持物検査をもした。時にはガールフレンドを奪い合った暴力事件も取り扱った。一番重要な捜査はマリファナなど薬物使用の捜査であった。前もって、大学警察の部屋で薬物の標本を見せられ、試しにそれら標本の薬物を燃やして煙の臭いを嗅ぐのである。ラテンアメリカのマリファナでもコロンビア産、メキシコ産などもあり、また東南アジアの国々の産など色々あり、それぞれ煙の臭いが違う。これらの臭いを覚えた。  マリファナなど薬物を取締るには部屋で学生が吸っていると部屋から薬物の臭いがする。それを探るため、廊下を靴を脱いで足音を立てずに、学生がマリファナを吸っている部屋に近づき、学生が吸っているのを確認すると、大学警察の本部に無線連絡し、外側で学生が窓の下の庇に隠れないか制服の警察官がパトカーで来て張り込み、捜査アシスタントと制服の警察官とでドアを開けさせ踏み込んで逮捕する。やってみて大変スリルがあった。
 学生から選ばれた捜査アシスタントは各寮から二人ずつ選ばれる。そして学内で黒人学生が犯した犯罪を大学警察からテキサス州ヒューストン市内の州郡裁判所内にある州検事局の(DISTRICT ATTORNEY,S OFFICE)検事に事件として送るための用紙に書き込み、他の捜査アシスタントと交代で、黒人学生が学内で犯した微罪を検察官に報告に行った。検察官はすべての犯罪を把握していなければならないという原則からである。
 検事局では白人の女の検察官と、黒人の男の検察官が大学の事件担当検事であった。大学で黒人学生が犯した軽微な犯罪は通常、白人の女性の州検事(検事補)に報告をする。女性の州検事が大学での学生の事件の報告を受けるのは、女子学生が性的犯罪に会ったりした場合に女性検事の方が対応を配慮できるからだ。男の検事の方は、めったに起こらないが学生が学内で殺人を犯したり、大学の建物に放火をしたとか悪質な犯罪や一般の人が独立した捜査権のある大学内で犯した事件を担当する。例えば銃を持ち込んだなど大学の学生が犯した軽微な事件の報告を受けた白人の女性検事補は、男の黒人の検事にもそれを説明し協議をする。
 通常、学生が犯した犯罪は検察官は初めから罰しない。それは学生の犯した犯罪は軽微であり、罰金刑ぐらいであり、また教育の場があっての司法手続きであって、大学は学生が犯した犯罪について、大学の方で停学や退学処分など懲戒的罰を与えているので、罰金刑など軽微な事件で起訴し二重に罰する必要はないからである。大学当局が停学や退学の処分では足りず、さらに罰する必要があると判断し、学長や学生部長の名で検察官に文書で請求した時に、罰金刑などを課す。
 例えばある学生が、盗みなどを前の大学で犯し、退学処分を受け、現在の大学でも再び犯罪を犯した場合などがそれに該当する。しかし、殺人を犯したとか、大学の建物に放火したなど、重大な悪質な犯罪については、有無を言わせず検察官は検察起訴陪審である大陪審に起訴の評決を求める手続きを取る。悪質な犯罪なので、大学教育の場の処分に委ねられないからだ。また大学内の職員が公金横領などを犯した汚職事件などは大学警察は捜査せず検事局が直接捜査する。  私は四回ぐらい検察官に学生の犯した犯罪について報告に行った。大学内に住む学生の寮毎に学生の犯罪について書いた検察官あての用紙に記入したものを集め、代表して交代で検察官に報告に行ったのだ。大学警察のパトカーに、大学警察が市の警察に連絡がある時などに乗せてもらって郡裁判所の検事局に行ったこともあれば、自分で市内バスに乗って書類を検事局に持って行ったこともあった。パトカーが学内パトロールであいてない時などバスを使った。
 ある時、バスで書類を検事局に持って行った時、帰りは白人の女性の州検事補が、ルイジアナ州の検事局に自動車で捜査に行くので乗せてもらい、大学まで送り届けてもらった。大学から少し行った所にルイジアナへ行く高速道路、ガルフ=フリーウエイの入口があったからであった。州検事は、テキサス州で強盗や放火を犯した男が、以前にもルイジアナ州でも同様な犯罪を犯していて、テキサスで起訴し量刑を決めるため、ルイジアナ州でどのように刑を課せられたかの記録を調べる捜査に行ったのだ。警察には出来ない捜査であった。ルイジアナ州はフランス領であったのでフランス法体系(ナポレオン=コード)(制定法)でイギリスの伝統の慣習法(コモン・ロー)のテキサス州と刑事裁判の手続きと量刑の課し方が違うのである。それを参考にするため州検事補はルイジアナ州へ捜査しに行ったのであった。このような経験は、日本の法手続きではありえないことで、日本の刑法学者、検察庁や警察も知り得ない法手続実務なので貴重な経験をした。
 テキサス=サザン大学の大学警察の本部長をやっていた人が、黒人の男の人で背の高さが二メートルぐらいある人で、かつてニューヨーク市立大学の犯罪学の大学院を出て、三十代でニューヨーク市警の殺人課課長をしていた。その後、テキサス=サザン大学の警察本部長として赴任した。日本だったら東大を出て警察庁のキャリア官僚にあたる。違うのは東大出のキャリアは行政官で銃も持たないし、パトカーにも乗らないが、黒人の本部長は、それが出来た。クリスマスと正月の冬休みなどにホーム=ステイして泊まり、ニューヨーク市警の業務などについて教えを請うたのである。
 ある日、破壊力のある四十五口径の銃を持った男が大学の構内に入って来たことがあった。危険な非常事態なので学生達を避難させなければならない。私は捜査アシスタントとして受け持ちの寮の学生の部屋のドアをドンドン叩いたり、内線で銃を持った男が捕まるまで、鍵を掛け、部屋を出るなと指示した。大学の敷地の両側の端にはヒューストン市警と郡保安官事務所のパトカーが、それぞれ待機していた。結局、大学警察のパトカーが逃げる銃を持った男を構内から外へ追って行き、郡保安官事務所のパトカーと近くの教会の玄関の所に追いつめ、保安官事務所のパトカーが逮捕した男を引き取り連行して行った。本当にひやりとした。アメリカで大学や高校で学生や侵入して来た男が銃を乱射して死者が出る悲惨な事件がテレビなどで時々報道されるが。被害のない、銃を持った男が入って来る事はニュースに取り上げられないが、頻繁に起きているのが実情だ。
 銃社会を象徴する事件が平成の初め頃起きた。米ルイジアナ州立大学に留学していた学生服部剛丈が、間違ってよその家に夜間行き、撃たれて死んだ事件である。一九九二年十月十七日に、米ルイジアナ州、バトン=ルージュにあるルイジアナ州立大学に日本から交換留学生として学んでいた服部剛丈が、ハロウィーンパーティーの日の夜にハメをはずし、自分が行こうとしていた友人の家と、まったく他人の家を間違え、入って行こうとしたところ、家の主人が驚き、警戒して家に近づかせまいとして、家の中から長いライフル銃を持ち、威嚇し、剛丈を追い払おうとして、銃を構え、「動くな! 近づくな!」と言い、退去させようとしたところ、剛丈は言葉が分からず、「何ですか」と言い、主人の方に近づいた所、主人は攻撃されると思い、身を守るため、ライフルを一発発射した。剛丈は胸を撃たれ死亡した。法的には正当防衛が成立した。
 この悲劇的な事件は、留学していた服部剛丈がアメリカの社会を知らず、日本にいる感覚で行動したために起ったのだった。アメリカでは通常、夜犯罪が多く、多発しているので夜は出来る限り、外出しないようにしている。特に夜に歩いて外出することは、襲われるので、白人の住む社会でも、黒人の住む社会でも禁物なのだ。もし、外出する時は、行く前に行く家、相手の家に「これから行く」旨の電話連絡をした上で、自動車で行くべきなのだ。そうしないと、相手の人は、いきなり訪問されれば、誰か見ず知らずの人が襲って来たと警戒し恐れるのだ。そのように白人や黒人社会では、夜は人通りがなく、人が外出しないので、目撃者がないため、強盗などの犯罪をする悪い人間が暗躍しやすいのだ。
 そんな環境で服部剛丈が、アメリカの社会の夜の習慣を理解せず、日本にいるつもりで夜にはしゃぎ回って、ハロウィンパーティーに行き、友人の家と間違え、知らない他人の家にいきなり行けば、その家の主人は、何者か不審者が襲って来たと思い、銃を持ち追い払おうとするのは当然である。家の主人が、「動くな!」と言って静止させようとしているのに、そこで直ぐに帰れば、無事で問題なかったのに、言葉が分らないというので「何ですか」と小走りに近よれば、襲って来たと思われ、撃たれるのは当然である。剛丈は、「郷に入れば郷に従え」の諺に反し、「郷に従わなかった」ことにより、撃たれたのだ。
 白人や黒人の地域では夜は外出しないが、メキシコ系米人の社会は夜外出する社会であり、前者とは異なるのである。従って、服部剛丈がメキシコ系米人の社会で夜、他人の家と友人の家と間違って行っても撃たれなかった可能性が大きい。ヒューストン市の中心街ダウンタウンの北側は、メキシコ系米人や不法滞在のメキシコの人々が住む地域で何度も足を運んだが、夜八時以後、十時近くなっても、人々が歩いて、レストラン、バーや酒場、スーパーマーケットへ買いに行ったりしていた。お母さんが女の子二人を連れて、夜九時過ぎに道を歩いて買い物に行っていた。まだ、多くの人々が道を歩いていた。白人や黒人の地域では同じ時間帯は外出せず、人出がないのと大違いだった。一つには所得が低いので自動車を持つ人が少ないこともあるが、民族性、国民性による習慣の違いによるだろう。スペイン系の人と混血している場合もあるが、メキシコ人の祖先はモンゴロイドのアジア人で、太古の昔、シベリアとアラスカが地続きであった時にアメリカ大陸に渡って住みつき、メキシコ人、中米人、南米人などの原住民となったので、メキシコ系米人のお母さんが子供を連れて歩いたりする習慣は、日本人と何か似ていると思える。服部剛丈がメキシコ系米人の所で夜、家を間違い、他人の家へ行っても銃を構えられず、行くべき家を教えてくれたであろう。人通りが多いのでメキシコ系米人の地域では夜、犯罪が起こりにくいのだ。目撃者が多いからである。
 服部剛丈の両親は、葬式の席で、息子が銃で撃たれたことについて、「こんなことがあってよいのでしょうか」と出席者に同情を買うように悔しさを憤懣やるかたない風に言って、アメリカ社会を非難していたが、息子の剛丈が、アメリカ銃社会のルール、つまり、夜の外出は控えるというルールを知らず、他人の家に間違えて行くなどという、やってはいけない事をした否については棚にあげて言っているのは、自己中心的な主張である。剛丈の両親の心情は、息子が米国への交換留学生に選ばれ自慢であったのだが、一転して銃で撃たれて息子が死に、悲劇になったので、その心理的落差からみじめになって、アメリカ社会のせいにして、怒りをぶつけたのだ。
 私は一度だけ、大学寮を出てアパートに住んだことがある。この時は、黒人の極貧の地域ライオンズ=ストリートへ行った時、二十二口径の銃を貸してくれた黒人の主人に保証人になってもらい、身を守るため、銃を持った。二重になっているベッドのマットレスの間に隠し持っていた。室内にいる時や寝ている時に、何者かが襲って来た時にすぐ銃を抜いて対応できるようにしていた。また、もしアパートに銃を持った人間が侵入して来た時は、一人で対応せず、前もって隣の部屋に住む人々と話し合っておき、何人もで応戦しようと申し合わせておいた。銃を持った男一人に対し何人もで応戦すれば、相手は逆に自分がやられると思い、退散するからである。
 銃を持つと大変な依存心が出て麻薬と同じである。銃を持つと持たないでは、安心感が違って来る。アパートの一室で銃を持たずに寝ている時など、いつ何時、誰かが襲ってくるのではないかという気があるので、眠っていても、何か音がすると、目が覚めてしまう。ところが、銃を持つと安心してぐっすり深く眠れるのである。
 考えてみれば、小さい二十二口径の銃であっても持っていれば、自分より体格のはるかに大きい、素手で戦っても敵わないプロレスラーやボクシングの世界ヘビー級チャンピオンにでも撃てば勝てるのだ。威嚇すれば対抗できるのである。このことが、アメリカの社会で、いくら銃を規制しようとしても(ガン=コントロール)できない理由である。人々が銃を持っていれば安心だが、手放した時の不安は大変なものである。
 例えば、アメリカでABCDと四つの家があったとする。その内B家の主人が銃撲滅主義者だったとする。他の三家ACDの主人達が身を守るため銃を所有したいとする。そこで銃規制を唱えるB家の主人が、一人だけ率先して銃を放棄し、丸腰になれるかと言うと現実的にはそれが出来ない。銃を放棄し、一人B家だけもっていないということが知れれば賊に狙われ、銃で襲われるからだ。銃の規制や放棄を唱える人が、引き続き銃を所持しなければならない事情が現実にある。それと、前に述べたように銃を所有することで銃の依存症というか、麻薬性があるので、銃の所持者はなかなか銃を手放せないという事情があるのだ。
 よく、日本人の銃の所持に反対する主婦達が「銃は絶対に許しません!」と強く言っているが、それは銃を完全規制し銃の所持のない日本の社会だから言える理想なのだ。銃に反対の主婦達が銃のあるアメリカ社会に住めば、その主婦達こそ、「銃の所持は許しません!」と言っておきながら、銃に怯え、誰言おう、真先に銃を持とうとするのである。それが現実なのだ。日本は銃を取り上げて安全性を保っているが、アメリカ社会は銃という毒に対して、別の銃という毒で拮抗して安全を保っているのである。(アメリカでは警察の管轄が東京から小田原ぐらいまで広い。ゆえに個人で銃を持って自分の身を守らなければならない。

(流星群第23号掲載)