ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

季節の雨は、消費期限切れ迫る

 7月17日(水曜日)。夜明けの薄明りの下、雨は止んでいるものの、夜来の雨が残したばかりの跡が、くまなく道路を濡らしている。隅々には、濡れ落ちた木の葉が汚らしくべたついている。起き出して来て、窓ガラスを開いて、道路を眺めたときの原風景である。今朝は、道路の掃除はできないと腹を決めた。ゆえに、心を鎮めてパソコンへ向かっている。いや、鎮めきれてはいない。
 一方では、こんな気分に苛まれている。すなわちそれは、道路が乾いた後に急かされて掃く、面倒くささと気分の鬱陶しさである。梅雨の季節の雨は、まもなく消費期限が切れる頃にある。期限が切れて、気象庁の梅雨明け宣言は来週あたりであろうか。それとも豹変し、今週末あたりになるのであろうか。こんないい加減な自己観測は、気象予報士の予報を観ていない祟りと言えそうである。
 日本列島のあちこちでは、すでに梅雨明け前特有の大雨による災害(被害)が報じられている。それなのにすでに梅雨明け宣言を受けたのは、沖縄地方だけに限られている。なんだか日本列島は、自然界(気象)に小馬鹿にされている感じである。もう十分に梅雨明けの証しとなる雨は降り、それによる災害はもたらされている。もしかしたら、関東地方だけがまだ降り足らないと、気象が駄々をこねているのであろうか。
 きのうのテレビ映像には、「京都・祇園祭の大雨」状況があった。京都の街は、大雨による人出の大混乱ぶりを見せていた。この映像を観れば、確かにこれまでの関東地方(鎌倉の雨)は、比べようもない小降りである。だとしたら、この先の雨が気になるところである。降りやんでいた雨は、風をともなって降り出している。私は欲深く、災害をもたらす大雨にならないことをひたすら願っている。なぜならわが家は、鎌倉市指定のハザードマップでは、土砂崩れ危険区域にある。

すでに、84歳

 7月16日(火曜日)。「海の日」を含む、三連休明けの夜明けを迎えている。雨降りではないものの、曇天の梅雨空である。きょうにあってふるさとは、7月盆の送り日(火)である。現在、わが生家を守るのは、亡き長兄の長男(甥っ子)とその奥方である。この二人が守っているかぎり、わが心中のふるさと観とふるさと慕情は、尽きることはない。このこともあってきのうの私は、LINEメールで二人にたいし事前の墓掃除とお盆における、すなわち二度にわたる「迎えと送りの墓参り」をねぎらった。
 きのうの文章を再び繰り返すと、お盆の最中のきのう(7月15日)は、わが誕生日と母の祥月命日が重なる日でもあった。毎年訪れるこの重なりは、自分的には奇跡とも思える悲しい日であり、あるいは一層うれしい日でもある。さらには盆と重なり、わが誕生日にあっての母は、風雨に晒される野末の石塔(墓)から、4日間の限定にすぎないとはいえ、わが家に帰ってくるからである。しかしながら母は、姿無き御霊として仏壇に祀られ、無言で居座っているにすぎない。仏壇のある座敷には数多くの盆提灯が立ち並び、さらに何本かは天井から下がり、仏壇にはロウソクの火が灯り、線香の臭いがしていたはずである。母の生存中にあって、母が取り仕切っていたよみがえる盆の原風景である。
 きのう私は、年齢を一つ加えて84歳になった。たった一つだけにすぎないのに84歳になると、まるで大きな岩石みたいに重くわが心身を脅かしている。挙句、このときから私は、極度の寂寞感に苛まれている。それゆえにきょうは寂寞感に負けて、端から文章を書く気が殺がれていた。ところがそれを覆していただいたのは、高橋弘樹様から賜った「祝、誕生日メッセージ」である。高橋様にかぎらず人様からさずかる善意を無為・反故にすれば、私はもはや「生きる屍」である。
 時の流れは年数を加え、人の命は年齢を加えてゆく。つれて確かに、寂寞感はつのるけれど、じたばたしてもしようがないと、思うしかない。きのうの私は、日本列島のあちこちに住む甥っ子と姪っ子にたいして、こんなLINEメールを送信した。
「きょうは84歳の誕生日です。自分お祝いのために、今、独りで、鎌倉市大船の街のお店で、童心に返り大好きな千円かき氷を食べています」
 1000円のつもりで注文したかき氷はなぜか? レジでは1210円を払わされた。かき氷の美味しさは、子どもの頃の「相良観音様」の参道で、5円硬貨を払って食べたものに負けていたのである。

嗚呼、きょうから84歳

 令和6年(2024年)7月15日(月曜日)。「海の日」(祝休日)にあって、三連休の最終日である。きょうはわが84歳の誕生日であり、重ねて母の何回目かの祥月命日でもある。今、身体のあちこちには、ヌルヌルと汗が溢れている。1時間半ほどの道路の掃除を終えて、駆け足で戻りパソコンへ向かっている。早起き鳥(ウグイス)に急かされることなく、5時前に目覚めて道路へ就いて、掃除を終えてきたのである。このところの雨のため、掃けずにいた道路を懸命に掃き清めると、70リットル入りの透明袋に落ち葉がいっぱいになった。散歩に回る何人かの人は、「大変ですね。ご苦労様」と、言ってくれた。他人様の言葉と優しい心根が、重たい気分を解した。きょうは雨上がりの道路の掃除を優先したため、この先、文章を書く時間はない。そのため、誕生日にちなむ文章は書かずに、やむなく結び文とするものである。
 きょうには、誕生日にちなむ祝膳の予定はない。きのう食べた買い置きの「鹿児島産ウナギ」が祝膳の代わりを成していると思えばいいからである。ただ心残りは、「ふるさと・内田川」で獲れたウナギであればと、思うところである。草葉の母は、わが84歳の誕生日を知ることはない。残念きわまりない。

よみがえる「ふるさと盆」の追想

 7月14日(日曜日)。ふるさとは「7月盆」の最中(さなか)にある。起き出して、「お盆」の追想に耽っている。それぞれの御霊を浮かべている。今や、ただひとり生きているわが務めである。まぼろしの墓(前田家累代の墓碑)は、わが心中に建っている。盆にかぎらず春・秋の彼岸、あるいはときどきの墓参りの原風景は、こうである。母は「墓参りに行くばい……」と言って、決まって私を連れだした。墓参りどきの母は、野良仕事の普段着から、いくらか見栄えのする装いに替えていた。たぶん母は、道すがらに出遭う人様にたいし、気兼ねをしていたのであろう。
 わが子どもの頃、すなわち生家の当時の行政名は、熊本県鹿本郡内田村だった。現在の行政名は、熊本県山鹿市菊鹿町である。ふるさとと言うにはやはり、内田村こそしっくりする。熊本県の北部地域に位置し、熊本、福岡、大分と県境を分け合う尾根に囲まれた内田村は、山囲いの盆地を成していた。もちろん、今なお変わらない。当時の村人のほとんどは、農業と山林の上がりを生業にしていた。何らかの仕事を兼ねていても、生計は主にそれらの上りにすがっていた。農家は狭隘な田畑、さらには家畜(牛馬)の入れようのない鍬や鎌頼みの段々畑にすがっていた。もとより、村人の生計は、自給自足を旨に営まれていた。山林へ向かう人の仕事とて、炭焼き、椎茸作り、筍(たけのこ)の掘り出しくらいで、実入りを増やす大掛かりな山働きなどなかった。それでも、村中には製材所が一軒あったから、その仕事にたずさわる人達だけは、本業として山に入っていたのかもしれない。馬車引きさんは二人ほどいた。往還(県道)には「産交バス」(九州産業交通)が定時に往復し、ときたま「〇通(丸通)」(日本通運)のトラックが走っていた。乗用車(自家用車)は見ることはなかったけれど、のちにわが家のかかりつけの「内田医院」(内田医師)」の自家用車が登場した。村中のあちこちには、よろず屋風の「なんでんもんや」の店があった。
 小学校と中学校(内田村立)の位置する村の中央の堀川地区には、内田医院、村役場、駐在所、文房具店、酒屋、鍛冶屋、精米所、畳屋などがあった。村中は地区ごとに、小さな集落(名)を成していた。わが生家は、「内田川」べりの「田中井手集落」に位置していた。墓は内田川から離れて、歩いて片道20分ほどの「小伏野集落」の小高い丘の上にあった。それは、父の生誕地が小伏野集落だったことに起因している。父はのちに、水車を回して精米業(所)を営むために、田中井手集落へわが生家を構えていたのである。内田医師、そしてふうちゃん地区の「原集落」の相良医院(相良医師)、ほか「谷川医院」(谷川医師)を除けば、村中の公務員(役場人や学校の先生)を含めて村人たちは、農家を兼ねて暮らしを立てていた。
 母が私を連れ立つ墓参りは、いつもこうだった。母は縁先のちっぽけな花壇から、自然生えみたいな草花を摘んだ。それを古新聞で束ねた。大きな薬缶にはたっぷりと川水を入れた。火付けには、大きなマッチ箱を用意した。封切らずの線香の束を携えた。私は薬缶を手提げた。野末の墓には、絶えずそよ風が吹いていた。墓標を水で浄めて、置かれている茶碗の汚れは指先でぬぐい取り、両脇の花入れには持参の花を挿げた。これらが済むと、マッチを取り出し、古新聞に火をつけた。火を線香へ移すと、燻る火を足で踏んづけて消し去った。線香立ての線香の炎がゆらゆらと空へのぼりはじめた。母は「さあ、参ろうかね……」と、言った。「うん」。私は応じた。二人は並んで腰をかがめて、墓標に向かって深々と合掌した。雨のため道路へ向かえず、時間があることをいいことにして、長々とこんな文章を書いてしまった。つくづく、かたじけない。

人間の知恵

 7月13日(土曜日)。ふるさとは7月盆の迎え日(火)にある。きのうの雨の名残で、道路は濡れている。そのため、道路の掃除はできずに、仕方なくパソコンに向かっている。仕方なくという表現は止めて、喜んでと書けばいいものの、そう書けば嘘っぱちになる。嘘は、禁物である。だから、本音を言えば、継続を断たないためのパソコンへの対峙である。きょうは、10日間の頓挫の後の再始動3日めである。言うなればこの文章は、生来の三日坊主を恐れて、それを免れるためだけの文章にすぎない。ゆえに、用意周到なネタなど持ち合わせず、ひたすら継続を願うだけのいたずら書きの文章と言えるものである。
 自分自身、この先、何を書こうかとさ迷っている。人間の生身(身体)には、様々な器官がある。それらの中で、感覚器官として五官を成しているものを順不同に記せばこれらがある。すなわち、耳(聴覚)、鼻(嗅覚)、目(視覚)、舌(味覚)、皮膚(触覚)である。すると、これらの欠陥や劣化に対しては、人間の知恵が補うこととなる。人間の知恵が生み出すものには、かぎりなく様々なものがある。しかし、凡愚の私は、それらを知ることはできない。ゆえに、生身(身体)の欠陥や劣化にかぎり、ごく常識的に浮かべているのは、薬剤と器物である。この二つの中で薬剤は別にして、今、わが知るかぎりの器物を浮かべている。すなわち、人体機能(器官)の欠陥と劣化を補助する、人間の知恵の産物類である。
 まずはわが身を照顧すれば現在は、メガネ、入れ歯、補聴器の有効さにさずかっている。妻の場合は、今のところ補聴器は要なしだけれど、この先の予備軍にはある。ところが妻の場合は、脳髄には金具が埋め込まれている。これは自転車の後部座席に乗る妻を、私が振り落としたおりの脳外科手術で埋め込まれたものである。50日を超える入院で妻の命は助かり、私は加害者という犯罪者から免れた。わが生涯にわたりまったく消えることのない、つらい事故の後処置であった。私は妻の命を救った金具を見ることはできない。けれど、このときの主治医(今は亡き院長先生)と「大船中央病院」(鎌倉市)には、これまたわが生涯において、尊敬と尊厳を欠くことはできない。
 妻は二年ほど前の転倒、そして大腿骨骨折にあっては、大船中央病院へ救急車で搬送された。私も同乗した。入院手術のおりの人造骨(人工骨)で妻は現在、歩行が叶えられている。私と妻にかぎっても、これらの人工器物の補助にさずかり、日常生活を営んでいる。もちろん、世の中の人々は、人間の知恵すなわち様々に多くの人工の器物にさずかっている。私の知るかぎりを記すと、こんなものが浮かんでいる。これまた順不同に思いつくまま記すところである。一般にカテーテル(管)と言われる器具は、部位ごとに様々な用い方で使用されている。詳細は知る由ないけれど、心臓の補助器材にはペースメーカーがある。運動機能をよみがえらせる義手や義足がある。先ほどの金具や人工骨もある。総じて、車椅子なども人間の知恵の産物と言えそうである。薬剤を生み出す人間の知恵にもかぎりはない。未知のことを書いて誤りがあれば、伏して詫びるところである。
 三日坊主で止めれば、心の安寧に行き着ける。しかし、継続を断たないために仕方なく書く文章には、安寧にはありつけない。朝日が射し始めている。道路が乾けば、掃除へ向かうことになる。あさって(7月15日)、ふるさと盆の送り日(火)には、わが84歳の誕生日が訪れる。わが命は劣化を続けている。だけど命を救う適当な器材はなく、対症療法の薬剤頼みである。人間の知恵の開発はまだ残されている。わが死後に有効な器材が現れるかもしれない。それでも悔いることなく、良しとしなければならない。ウグイスは、気分良く鳴いている。わが気分は、どんよりとくすんでいる。

青息吐息で書きました

 7月12日(金曜日)。夜明けて、曇り空である。雨は降っていないけれど、道路は雨の跡を残して濡れている。だから、きのう書いた、文章の頓挫の理由の一つは使えず、パソコンに向かっている。二者択一すなわち、今朝は道路の掃除のほうを諦めて、半ば仕方なく文章を書き始めている。文章の継続を阻害する因(もと)は、もとよりこれにとどまらずかぎりなくある。その一つは、時間的制約である。具体的なものでは、寝起きて書く文章と、ほぼ同時間帯に負荷している道路の掃除である。この制約を免れるためには、どちらかを同時間帯から、逸らせばいいことである。だれでもできる、きわめて簡易な対処法である。もちろん私も、これまで何度も試みたし、今も試みている。ところが、その試みは未だに定着をみずに、なさけなくも文章の途絶えの言い訳の一つとなっている。確かに、たったこれだけの文章にあって、時間的制約の理由を持ち出すのは愚の骨頂である。書き殴りに書いて、一度の推敲を試みても、30分ほどで済むものである。しかし、文章の頓挫は防ぎきれない。やはり、文章頓挫の根源は、総じて心(精神)の病・堕落の現象と言える気力の萎えにある。ところがそれも、一時的に現れる「モチベーション(意欲・気力)の低下」では済まされず、今や気力の萎えは常態化している。もちろん、このにっちもさっちもいかない状態を覆すことは生易しいことではない。なぜならそれには人生の晩年を生きる、抗(あらが)えない諸々の事情が絡み合っているからである。「偕老同穴・共白髪」とは優しい響きにあって、極めて惨酷なフレーズ(成句)である。すなわち、日々、配偶者(妻)の衰えを眼前にするつらさである。もとより、一方通行で済むものではなく、妻から見る配偶者(夫・私)の衰えを見るつらさも同居している。
 きょうは、きのうの一日限りで頓挫を免れるための目的で、こんな実のない文章を書いてしまった。伏して詫びるところである。日が昇り、道路が乾けば、道路の掃除へ向かうこととなる。このところ暑い日が続いたせいで、秋口まで生き延びることができない、朽ち葉が矢鱈と落ちている。掃くには面倒だけれど、掃き捨てるには戸惑いをおぼえる、木の葉の「成れの果て」である。

励ましに応える「点滴のひとしずく」

 7月11日(木曜日)。6月で見終えていたカレンダーは、初めて7月のページを見ながら、曜日を確かめた。するときょうは、7月になって早や、11日目を迎えている。先ほど、久しぶりにパソコンメールを開けると、真っ先に一つの受信メールに出合った。送信者は、掲示板ではお馴染みの入社同期お仲間の渡部さん(埼玉県所沢市ご在住)である。メールには7月になって10日休んでいる「ひぐらしの記」に対する危惧と、再始動への激励文がこころ優しく綴られていた。人生における最大かつ最良の幸福は、良友との出遭いである。渡部さんからさずかったメールは、確かなその証しだったのである。
 さて、7月になってこれまでの10日間、大袈裟に言えば生きるためのわが気力は萎え、小さいことでは文章を書く気力は失せて、挙句「ひぐらしの記」は頓挫した。いや一時の頓挫では済みそうにはなく、もはや再始動への心意気自体、すっかり消えていた。この原因は総じて、年老いたことから生じている気力の萎えだった。これに追い打ちをかけていたのは、執筆とほぼ同時間帯にする朝の日課、すなわち道路の清掃だった。この間の私は、普段の道路の清掃とこの時期特有のアジサイの剪定に頭を悩ましてそちら優先し、毎朝五時前あたりからそれらの作業にたずさわっていたのである。そうこうしているうちに文章は日に日に書けなくなり、いやもう書きたくない心境が膨らみ、通せんぼさせられていたのである。挙句には、「惰性」という有効な倣いさえ遠のいていたのである。
 確かに、カンフル剤を打たなければ、わが気力は萎え切っている。もちろん自力では叶わず、他力本願すなわち渡部さんはじめ高橋弘樹様、そのほか掲示板上の声なき声すがりである。加えて、お顔馴染みの散歩常連組のご高齢女性のこの問いに、心臓の鼓動が波打ったのである。
「文章はまだ毎日、書かれているのでしょ? 今朝はもう書き終えられたのですか? 偉いですね」
「いや、きょうはこの後で書きます」
 わが身に堪えた嘘だったのである。効果覿面のカンフル剤にはならないけれど、私は点滴のひとしずくにすがっている。

6月最終日

 6月最終日(30日・日曜日)。現在、デジタル時刻は6:23を刻んでいる。今朝は夜明けを待って5時近くから、雨上がりの道路の掃除へ向かった。このため、殴り書きであっても、この先文章は書けない。ずる休みと言うより、おのずから執筆時間の切迫を被り、しかたなく休養を決め込んで、パソコンに向かっている。
 散歩常連組の中で、二人の高齢ご婦人と佇んでお話をした。最初の人とは、互いの庭中の手に負えない立木の処置を話し合った。続いて佇んだ人とは、高齢者特有の互いの身体現状(病)のことに話題が及んだ。常連組とはいえ、会話は初めてである。それなのに二人の会話は、まるで互いが身内のごとく深入りした。先方は、薬の副作用に悩まされていることを話された。私は、先ずはご主人様のことをお尋ねした。すると、10年ほど前に亡くなられたという。すぐに、わが妻のことに返りの問いがきた。私は悪びれることなく、妻の骨折そして入院、現在の生活ぶりを話した。もちろん、夫婦の年齢を添えた。すかさず先方は、こう言われた。
「どんなことでも、二人そろって80を超えるまでおられることは、稀にみるお幸せなことです」
 私は丁寧な言葉を添えて別れた。ご婦人はメイン道路へ向かって進まれた。ちょうど、きょう最初のバスがやって来て、ご婦人は見過ごすために立ち止まれた。
 私はしばらく掃除を続けて、やり終えたのちはのんびりとわが家へ戻った。文章は休みを決め込んでいたので、焦る気持ちはなかったのである。
 私を含めて3人は、老後特有の様々な悩みを抱えて、最も卑近な話題を口にしたのである。お二人の若い頃に出会えば、声掛けさえ憚(はばか)れると思えるご婦人(女性)と、面と向かって会話が出来て、老後も悪くもないと実感した、朝の出会いであったのである。
 夜明けは曇り空である。きょうは雨なく、晴れてほしいと願っている。

梅雨の雨、そして涙雨

 6月29日(土曜日)。夜明けにあってきのうから、梅雨の雨が降り続いている。梅雨本来の現象のことゆえに、嘆いては様にならない。わが身にあって、嘆くことはかぎりなく。その多くは、生来のわが「身から出た錆」に由縁している。「文は人なり」という。もとより「ひぐらしの記」は、わが小器の証しである。挙句には、人様の愉快な気分を挫く、独り善がりの文章へ成り下がっている。このことではもともと、ブログに書くべき文章ではない。もちろん私自身、常々十分自覚しているところである。大沢さまの「前田さん。何でもいいから、書いてください」というお言葉に甘えて、なお図に乗ってしまったのであろう。いや、常に反省は繰り返している。だけど、生来のマイナス思考の性分が災いし、長年書いてもいっこうに改めることができずじまいである。だからと言って、自分を責めても仕方がない。いや責めては、哀れや惨めさが弥増(いやま)すばかりである。だったら、秘かに私日記にでも綴ればいいものの、三日坊主の祟りにあってそれはできない。なぜなら、学童の頃に試した私日記は、三日にさえにもとどかずじまいだった。
 こんな体たらくの私なのに、想定外に「ひぐらしの記」だけは続いている。冒頭の文章とは矛盾しているけれどそれは、ブログのおかげである。いや、実際には、人様の支えのおかげである。大沢さまには、変わらぬご好意を賜っている。高橋弘樹様には、都度の「大・大・大エール」のみならず、みずからのご体験を踏まえて、教科書さながらのサゼスチョン(指導)にあずかっている。「毎朝、読んでいます」という、入社同期の渡部さん(埼玉県所沢市ご在住)の励ましパソコンメールには、そのたびにうれしさ身に余るものがある。異国中国に赴任中の木村様のお便り然り、また竹馬の友「ふうちゃん、マーちゃん」の励まし、平洋子様のふるさと情報、またまた然りである。おのずから、声なき声の皆様の励ましも、これらに劣らず大きな支えである。こんなわが身に余る僥倖には、決して書き殴りでわが意を記してはいけない。もちろん、書き殴りのつもりはない。けれど、書き殴りのようにも思えて、真摯に詫びるところである。
 わが生来の、小器およびマイナス思考には涙雨が降り続いている。「ひぐらしの記」は、「シオドキ、シオドキ」と、音を立てている。

泣きべその夜明け

 「前田さん。なんでもいいから書いてください」。大沢さまのご好意で書き始めた「ひぐらしの記」。この間、次兄をしんがりにすべての兄たちを亡くした。この世に、親、兄弟・姉妹のいない文章を書くのは、もうつらい。加えて、日々翳りゆくわが命と向き合って書くのも、つらい。カラスとて、自分の意思で生まれたわけではない。だけど、生きるためには「カアカア」と鳴いて、食べ物探しに必死である。この点では人間、とりわけ私自身もまた、カラスと同類項にある。なぜなら、諸物価、食品(食料)の値上がりの最中にあって、私も生きるための食べ物探しに必死である。もはや、人間の尊厳など、喪失状態にある。エンゲル係数だけがダダ上がる。わが日暮らしは、生きることだけに特化し、成り下がっている。なさけないと言うより、つくづく哀れである。
 ネネタがなければ、継続のためには恥晒しなど厭わず、「ダジャレ文、何でも……」、書かなければならない。こんな文章を書く、なさけなさと惨めさが身に沁みている寝起きである(6月28日・金曜日)。心身に、気狂いの自覚症状はない。だけど、わが脳髄の司令で書く文章は狂っている。潮時を示す、アラーム音が鳴り響いている。梅雨空は、雨の夜明けをもたらしている。