ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

心地良い「夏の朝」

 書くこともない、浮かぶものもない、夜明けが訪れている。8月2日(水曜日)、しいて書けば、心地良い夏の朝が訪れている。たったこれだけの文章にあっても、私は表現に苦慮した。すなわちそれは、似たもの「夜明け」そして「夏の朝」の用い方である。実際のところは「夜明け」表現でいいところを、意識して「夏の朝」を重ねたのである。この理由を書けばそれは、心地良さすなわち清々しい気分を表すには、「夏の朝」のほうがはるかにわが五感をくすぐったからである。ネタが浮かばない場合、こんなどうでもいいことを書くより逃げて、結文にしたいところである。
 文章における語彙、実際には言葉の表現は難しく、確かに凡愚の私には手に負えないところだらけである。日本列島にあっては、夏の訪れとともに、いよいよ台風襲来の季節にある。早やてまわしにこのところのテレビニュースは、沖縄本島および周辺諸島における台風6号の状況報道におおわらわである。台風襲来のニュースに出合うたびに私は、こんな幼稚な言葉を浮かべて、わが頭を悩ましている。それは、兆し、前触れ、先ぶれ、余波、一過などの言葉である。総じて、「所為(せい)」という言葉である。傍らの妻は、ふとこんな問いかけをした。
「パパ。ちょっぴり雨が降ったのは、沖縄の台風のせいかね?」
 私は言葉に窮し、濁してこう答えた。
「兆しにはなっているかもしれないが、前触れとは言えず、まだ台風6号のせいではないであろう。気象予報士は、『関東地方は、大気不安定と言った』よ」
 自分自身、なんだか煮え切らない答えだった。
 妻は後追いの言葉をせず、黙りこくった。たぶん、わが頼りない言葉に飽き足らず、二の句が継げず匙を投げていたのであろう。
 一過そして余波は、台風にかぎらず物事が済んだ後の言葉だけれど、これとて用い方には難しいところがある。こんな幼稚なことは書き厭きた。それゆえに、いよいよ結文である。心癒しには、清々しい青天上の大空を眺めている。これこそ、夏の朝が恵む醍醐味である。
 ネタの浮かばない文章は、「夏の朝」にすがっている。みっともないけれど、心地良い朝の訪れにある。

8月初日

 8月1日(火曜日)、デジタル時刻は、3:09と刻まれている。ウトウトさえにも寝付けず、日を替えて0時過ぎあたりから、寝床で煩悶に苛まれていた。雨戸を閉めていない寝室の寝床に寝そべっていると、まるで間欠泉のごとくに稲光が煌めいてくる。稲光をいくらか後追いして、ゴロゴロと雷鳴が轟いてくる。自然界の営みは、わが身体の機能(器官)の不具合を超越して、真夜中をも構わず光と音をもたらしている。
 就寝のおりの私は、目から眼鏡を外し、両耳から集音機を外している。すなわち、視覚および聴覚不全の状態にある。ところが稲光と雷鳴は、共に認知される。稲光と雷鳴は、わが目と耳の機能テストみたいである。幸いなるかな! テストの結果は、まったくの不全ではなく、機能(器官)の衰えの証しである。突然の稲光と雷鳴は、人間心理に様々な恐怖心をもたらすところがある。
 私は仕方なく起き出して、パソコン部屋へ移った。まずは、窓ガラスに掛かるレースのカーテンを撥ね退けて窓を開け、右手を空中へ延ばし、掌をいっぱいに広げて左右に揺らした。雨粒は当たらなかった。すぐに、一基の外灯の照らす道路へ目を遣った。道路は、濡れて光っている。雨の跡の確かな証しである。
 私の場合、稲光と雷鳴に出遭って身近なもので最も恐れるのは、突然の停電である。停電になればそれを恐れて事前に、パソコンの電源を切るかどうかの判断が迫られる。ところが、私は切らずにパソコンを起ち上げ、この文章を書いている。このところの雨(天水)無しにあっては、「生きとし生きる者」、いや、草根木皮のすべてにいたるまで、いのち枯れ枯れの状態にある。すると私は、矛盾するけれど待ち焦がれていた雨をもたらしてくれた稲光と雷鳴にたいし、それらの代わりに御礼を述べたい心地にある。
 現在、稲光と雷鳴は止んで、涼やかな夏風と朝風をも恵んでいる。しかしやはり、いっとき身の縮む思いがした8月初日の未だ夜明け前にある。夜が明ければ、予約済の歯医者通いの準備に慌てふためくこととなる。端から休むつもりだった、8月初日の戯れ文である。

7月最終日

 7月最終日(31日・月曜日)、清々しい夏の朝が訪れています。ウグイスはいまだに朝っぱらから、高音を囀り続けています。ところが、先日はセミの初鳴き声を聞きました。セミの声に出番を奪われるウグイスの声は、この先、日ごとに切なさを帯びて、やがては夏の朝から消え去ります。それでもウグイスは、セミを妬むことはできません。いやもとより、命短いセミを妬むことは罰当たりです。なぜならウグイスは、半年ほども生存に浴して、もしかしたら再び春の季節を迎えることができます。一方セミはひと夏さえ、いや日数を数えるほどしか、生存は叶いません。セミの命は、短い命の代名詞として、人間界に定番を成しています。ウグイスの高音、そして雨無しの暑い夏、どちらも自然界の営みと思えば、素直に悦び一切腹は立ちません。
 腹立ちのすべては、自分自身に向かっています。すなわち私は、自分自身に克てず、長い夏休みというより、もう「ひぐらしの記」の継続は止めた! と決め込んで、文章を書かない安楽を貪り続けていました。
 きのうは老いた妻の手を取り、ひとり娘とひとり孫娘の住む、神奈川県横須賀市浦賀町における「夏祭り見物」へ出かけました。炎天下、神輿担ぎの人たちの力感溢れる姿を観続けていました。すると元気をもらい、この文章に漕ぎつけています。しかしながらまだ、ヨタヨタヨロヨロ気分で、この先は書けません。
 鳴き続けていたウグイスの声がなぜか、バッタリと途絶えています。切ない相身互い身、なんだかウグイスにエール(応援歌)を送りたい心地です。

大玉西瓜の魅力

 7月22日(土曜日)、夜更けを引き継いだ夜明け前にある(3:43)。パソコンを起ち上げて、脈絡なく浮かべている事柄を書いてみる。一つは、このところのテレビニュースを観るかぎり、ロシアとウクライナの戦争は、世界戦争への突入の様相(予感)を深めている。一つは、これまたきのうの悲しいテレビニュースである。福岡県のある町のある川では夏休み初日にあって、水浴びをしていた児童8人のうち、3人が溺れ死んだという。すぐに、わが児童の頃の夏休みを想起して、いたたまれないニュースだった。なぜなら私も、夏休みの初日から猿股パンツ一つで、わが家の裏を流れている「内田川」へ飛び込んでいた。つらく、惨(むご)たらしいニュースだった。ニュースに映し出された現場(川)の映像を私は、映像が消えるまで涙あふれて見続けていた。今なお、無念きわまりない。
 三つめは、これらとはまったく場違いであるけれど、浮かべていたかぎりは書き留めるものである。それは、きのうの文章で書き忘れていたことの付け足しである。題して、「大玉西瓜の魅力」である。これまた、ランダムに書き添えるものである。すなわち、美味しさのほかに、大玉西瓜に感じる魅力である。一つは、かかえたおりに感ずるスベスベツヤツヤする快い触感である。まるで、丸い地球をかかえているような快感でもある。次もまた、快感の重なりである。まずは、無傷の大玉西瓜に包丁を入れた瞬間の、バリバリ音の心地良さである。次には、半月に割った西瓜の真っ赤な色合いの快感である。あらかじめ知らされた黄色い実の西瓜を割ったことがあるけれど、ところがこの快感はなく、やはり西瓜は赤玉にかぎるところがある。最後は、盆皿に並んだ三日月形の西瓜を食べる楽しさとうれしさである。それをムシャクシャ食べると、涎と汁がポタポタ落ちてくる。すばやく母は、手拭いを持って来て、わが膝元に広げた。
 きょうの文章は、これらのことを書いて終わりである。この先、夜明けまでの空き時間をどうするか。思案のしどころではある(4:12)。

間抜けの夏

 7月21日(金曜日)、梅雨明け間近というより、すでに心地良い夏の朝の訪れにある。しかしながら何を書こうかと、気分はさ迷っている。それなら書かなければ、気分は一件落着である。確かにそうだけれど、パソコンを起ち上げてしまった。
 さて、わが買い物の店「大船市場」(鎌倉市)の売り場は、今や夏模様旺盛である。それらの中で最も目につき、かつまた食欲をそそられるものでは、あちこちに出盛りの西瓜の山積みがある。しかし、この頃の西瓜の売り場光景は、子どもの頃の大玉だけから様変わりを呈している。すなわち、大玉、小玉、半切り、さらには四分の一などと様々である。
 夏の季節にあって西瓜は、わが特等の好物である。ところが私は、プクプクする涎を抑えて、眺めるだけでいや目を瞑(つむ)って、足早に素通りしている。なぜなら、わが懐郷つのる西瓜は、小玉そのほかすでに切れ物や割れ物ではなく大玉である。わが西瓜好きは食感だけのものではなく、夏の風物詩の一端を担っているのである。すると、それを叶えるには、包丁や手つかずの大玉でなければ意味がない。私は買い渋る大玉にこそ未練タラタラであり、小玉や輪切りのものには、買う気も食い気も生じない。
 竹馬の友のふうちゃん(ふうたろうさん)だけは、このことを知っていた。かつてふうちゃんは、砲丸投げで強いわが腕で抱いてもヨロヨロする、(こんな大玉もあるんだな……)と、思う西瓜を送ってくれた。もちろん、ふるさと産の最高級ブランド「植木西瓜」だった。私はヨロヨロしながら小躍りした。美味しさは抜群、何日がかりで冷蔵庫に入れたであろう。挙句、妻はこう言った。
「パパ。西瓜の大玉は、もう買わないでね。冷蔵に入れられないのよ」
「そうだね。わかった。もう西瓜自体、買わないよ」
 確かに大玉は、わが買い物には難渋する。だからと言って大玉以外の物は、わが好む西瓜の埒外(らちがい)にある。結局、売り場の西瓜は現在、私にとっては意地悪な見世物へと成り下がっている。
 先日、西瓜はとっくに諦めて、これまた出回り盛んなトウモロコシを、夫婦に合わせて2本買って来た。これまた、夫婦共に大好物であり、加えて私の場合は郷愁まみれとなる代物でもある。子どもの頃の私は、馬小屋の馬や牛が、飼い葉桶の飼い葉をムシャムシャ食うように、トウモロコシを食べ続けていた。トウモロコシのレシピは、二通りに分かれていた。一つは塩茹でトウモロコシであり、一つは焼きトウモロコシであった。どちらかと言えば私は、後者が好きだった。けれどこちらは、焼くのが面倒で数が限られていた。一方前者は、母が大鍋いっぱいにギュウギュウ詰めで何本も茹でた。結局私は、どちらも変わりなく大好きで、ハーモニカを吹くときのように口に真一文字に添えて、粒にかぎらず粒床あたりまで齧り尽くした。ところが、買って来たトウモロコシの食べ方は、夫婦共にそうはいかず、鳩ポッポが豆を拾うように、一粒ひとつぶを恐るおそる口へ運んだ。なぜなら現在、夫婦共に歯の欠損に見舞われて、トウモロコシの食べ方に難渋を強いられているせいである。しかし、トウモロコシは西瓜の大玉とは違って、買い物に不便はなく、次の出番もありそうである。一方、大玉の西瓜は妻の禁を破ったとしても、帰りのタクシーに乗らないかぎりは、わが買い物にはもはや出番はない。西瓜を食べない夏は、間抜けの夏に変わり始めている。
 大船の街には、「氷旗」も見えなくなった。買い置きのアズキのアイスキャンデーだけでは、やはり間抜けの夏と言えそうである。書かないつもりが書けば、だらだらの長文となった。自戒すべきである。早起き鳥のウグイスが笑っている。

やはり私は夏が好き

 7月20日(木曜日)、やはりまだ、梅雨空の夜明けが訪れている。気象庁が梅雨明け宣言忘れのドジを踏んだと思えていたけれど、逆にわが早とちりのドジだったようである。いくら早いけれどこの時期、ほぼ毎年同じようなことを浮かべている。すなわち、「やはり私は夏が好き」である。まずは、夏の季節で困ることを浮かべている。すると、筆頭の地位に位置するものは暑いことである。おとなの問いに対し、なんだか幼児が答える理由みたいである。後には、それに誘引されるものが続くこととなる。
 熱中症の危険性が高まる。寝冷えで夏風邪がひきやすくなる。冷房エアコンや扇風機が入り用になり、はたまた頻発するシャワー掛けや、さらには洗濯機のフル回転などで、やたらと光熱費が嵩んでくる。しかしながらこれらは、冬の季節の暖房エアコンや風呂への給湯にかかる光熱費と比べれば、まだ少なくて済むところはある。
 繁茂する夏草取りには往生を極める。夏痩せ願望は逆太りに遭って、まったく果たせない。
 最後に持ってきたけれど、生きるための活動(生活)の基本を成す買い物には、途轍もなく難渋を強いられる。浮かぶままに並べてみた。すると、わが夏の季節が好きという理由は、ことごとく打ちのめされそうである。だからそれを防ぐにはおのずから、それらの項目を超える夏の季節特有の利点を浮かべなければならない。浮かぶままの利点を記してみる。もちろん勝負は、好き嫌いの項目の多寡ではない。たとえばこのことだけで、嫌いを打ち負かすことができそうである。すなわち、着衣の軽装、着脱の簡便さである。これらに付随するものでは、夜具の軽さがある。確かに、これらのことだけで、わが夏の季節好きの理由には、十分適(かな)っている。それゆえ、この先の項目は付け足しである。
 旬の夏野菜三品(トマト、キュウリ、ナス)が美味い。西瓜、かき氷、アイスキャンデーを食べれば老い心は、たちまち童心返りに恵まれる。網戸から入る夏風は、わが身にあまるほどに快い。セミの声には郷愁を掻き立てられる。板張りに仰臥する昼寝は心地良い。木陰の涼み、夕涼み、夕立のあとの涼みなどの快さは、何ものにも替え難い。いずれも自然界から、夏の季節にかぎりたまわる無償のプレゼントである。確かに、夕立に付き添う「雷さん」には恐れるけれど、幸いにもなぜか、鎌倉地方にはそんなに怖いものはやってこない。
 ところが、ほかの季節と違って夏特有に、とことん恐れるものには、ムカデの茶の間や枕元への闖入(ちんにゅう)がある。妻はヤモリやゴキブリにも形相を変えるけれど、それらはご愛敬で恐れることはない。スズメバチやマムシあるいは青大将の出没がなければ敵は唯一点、ムカデだけである。(あな、恐ろしや!)そのためには用意周到に、ムカデ殺しのスプレーをあちこちに常置している。挙句、わが夏の季節が好きの帰趨には、ムカデの出没ぐあいが大きくかかわっている。ほとほとなさけないけれど、それでもやはり私は、夏の季節が好きである。
 梅雨空ももはや、最後の悪あがきであと数日であろう。軽装の身には早やてまわしに網戸から、涼しい夏の朝風が吹きつけている。夏暑いのは、耐えるよりしかたがない。やせ我慢と言われても、気にすることはない。

夏の木陰の恵み」

 7月19日(水曜日)、このところの書き出し同様に、のどかな夜明けが訪れている。未だに気象庁の梅雨明け宣言はないようだけれど、私には腑に落ちない思いがある。気象のプロを自任する気象庁の「後だしへま」でなければと、老婆心をたずさえておもんぱかるところがある。なぜなら、このところの陽射しの厳しさは、体感的にはすでに梅雨明け後の夏の日照りと思うばかりである。
 きのうは、歯医者帰りに買い物を兼ねた。大きな買い物用リュックを背負う首筋には、汗がタラタラと流れ続けた。私はハンカチを手にして、流れ出る汗を拭き続けた。街行く若い女性の中にはチラホラと、本当の命名(商標名)は知る由ないが、小型の「電動携帯扇風機」を手にして顔の前にかざし、歩いている人たちがいた。テレビ映像でも街中にあってもこの光景は、未だに男性ではほとんど見ない。だとすれば暑さ凌ぎの電動携帯扇風機というより案外、現代女性のおしゃれの一つなのかもしれない。確かに、女性であれば、絵になる光景である。逆に、男性の場合は、様にならない光景である。現代のジェンダー(性差)喧(かまびす)しい日本社会にあっては、こんな表現は顰蹙(ひんしゅく)を買うのであろうか。
 現在行われている「大相撲名古屋場所」における観客席の浴衣姿も、女性に限れば絵になる光景である。手に持つ電動小型扇風機は、昨年あたりから若い女性に一気に普及しているように思えている。夏の暑さ凌ぎであれば私があれこれ言うことではなく、文明の利器の進歩を称賛するところである。暑さしのぎではないけれど、日本社会の移り変わりのことで最近、目にして驚いたことを加えればこのことが浮かんでいる。
 これまたテレビ映像のもたらしたものだが、学童が背負うランドセルには教科書ではなく、一つだけ小型のタブレットが入っていた。すると、インタービュアのインタービューに応じる学童は、こともなげに「軽くていいです」と、言った。もはや日本社会は、デジタル難民を自認する私の住むところではなくなっている。
 歯医者の診療椅子に横たわり私は、歯の痛みの場合の古代人はどうしていただろうかと、野暮のことを浮かべていた。このところは日本社会の止まらず世界中で急に、「ChatGPT,生成AI」すなわち、AI(人工知能)からみの話題が沸騰している。私の場合、日本社会の変容にはほとほと汗をかくばかりである。
 きのうの私は、深緑を増す葉桜の下、しばし半増坊下バス停のベンチに座り憩いながら、木陰のもたらす自然界賛歌に浸っていた。能無しの私には、ぴったしカンカンの自然界の恵みである。

寸時の幸福を呼ぶ「冷ややっこ」

 「海の日」を含む三連休明けの夜明けが訪れている。いや、もはや夜明けの頃は過ぎて、まがうことない夏の朝である。見渡す天上の大空は一面、純粋無垢の青色の広がりである。それに朝日が輝いて空中と地上もまた、朝日の恩恵を得て純粋無垢に輝いている。この光景をしばし眺めているわが気分は、すこぶる付きにのどかで穏やかである。夏の朝はやはり、人間が自然界からたまわる無償のプレゼントと言えそうである。
 本当のところこんな夏の朝に出遭わなければ、きょうの私は極めて気分の重たい日である。なぜならきょうの私には、午前10時予約済の歯医者通いが予定されている。このこともあって遅く目覚めた私は、文章は端から休むつもりだった(6:21)。ところが、パソコンを起ち上げてしまった。喜ぶべきか、それとも悲しむべきか。わが性(さが)は、習性になりかかっている。やはり、悲しむべきであろう。なぜなら、ネタのない文章に呻吟を強いられている。しかしながら、パソコンへ向かえば何かを書いて、消化不良のままであっても、閉じなければならない。これこそ、悲しい性のゆえんである。
 歯医者通いを始めて以降の私は、御飯時に難渋を極めている。おのずから、硬い食べ物は遠ざけている。いや、具体的には夏という時節もあってか、必然的に「冷ややっこ」(豆腐)が増えている。ところが、幸いにも子どもの頃から冷ややっこは好物の一つである。好物に助けられることは、身に沁みて幸福である。しかしブランドを変えて、冷ややっこを貪るたびに私には、不満タラタラの思いが駆けめぐる。不満の元は、もちろん郷愁ばかりではない。すなわちそれは、子どもの頃に村中のご夫婦の豆腐屋から買っていた手作り豆腐の美味しさゆえんである。確かにそれは、ブランドを変えて売り場にあふれている現代製法の豆腐の味をはるかに凌いでいる。夏の夕方、母に頼まれて買っていた四角四面の分厚い豆腐の味は、現代のあらゆるブランド名を超越し、飛びっきりの美味しさだった。布目の跡がくっきりとして、文字どおり冷ややっこの食感あふれるものだった。今でもありありと浮かぶのは、「栗原豆腐店」の豆腐の美味しさである。きょうはこのことを書き殴りに書いて、歯医者通いの準備にとりかかる。
 朝日は夏の風を呼び込んで、いっそうさわやかに輝いている(6:43)。

海の日

 「海の日」(7月17日・火曜日)、夏の朝ののどかな夜明けが訪れている。何物にも勝る夏の朝の、人間界に対するプレゼントである。これに出遭える喜びがなければ、私の場合は生きる価値(甲斐)はない。たぶん、ウグイスもそうであろう。朝っぱらから、高鳴き声を続けている。名を知らぬ小鳥が、電線を止まり木にして飛び交っている。これらもまた、夏の朝の快感に酔いしれているのであろう。とどまることを知らず、自然界賛歌を歌い続けたいところである。
 ところが、そうはいかないのが人の世の習いである。メディアが伝えるニュース項目に目を遣るとこの時期、海や川で命を亡くす人は多々である。豪雨は九州地方を皮切りに中国や山陰地方、そしてとどめには東北地方を舐め尽くし大雨被害をもたらしている。それらの惨状や惨禍は、テレビ映像で観るだけでも忍び難いものがある。結局、人生とは人の世界がもたらす苦しみを凌ぐだけで済まされるものではなく、同時に自然界がもたらす災害をもはねつけなければならない。まさしく人生には、至難の技を強いられる。だからそれに立ち向かうには、もとより強靭な精神力が求められる。
 このことを鑑みれば人の世は、精神薄弱の私が済むところではなさそうである。ところが生まれたかぎりは、常に愚痴をこぼしたり、泣きべそをかいたりしながらも生きなければならない。わが人生に負荷された、まったくあかぬけない宿命と言えるものかもしれない。
 現在の私は、9月中頃を打ち止めにして、ほぼ一週間おきに歯の予約・治療中にある。明日にも予約があり、通院しなければならない。この先、なんでこんなに多く通院しなければならないのか。摩訶不思議というより、憮然とするところがある。治療中とはいえ、歯並びは穴ぽこだらけである。加えて、既成の入れ歯は固定剤をつけても、すぐにゆるゆるするばかりである。挙句、御飯時の楽しみは損なわれ、それらに気を遣うため御飯自体、なんだか旨くない。それなのに夏痩せ願望は叶えられず、身体はプクプク太るばかりである。
 きのうは年に一度の鎌倉市が補助する定期検査で、最寄りのS医院へ通院した。恐るおそる体重計へ乗った。針は83キロ当たりでぴたり止まった。女性看護師は身長を計った。こちらは5センチほど縮んでいた。採血結果は、一週間のちの通院のおりに判明する。先日の「大船中央病院」(鎌倉市)の消化器内科への外来のおりには、主治医の宣告により8月29日に大腸の内視鏡検査が予約された。そののちの予約済には11月、「大船田園眼科医院」における緑内障の経過観察がある。こんな書き殴りの文章は、尻切れトンボを厭(いと)わずもうやめよう。
 海の日にあっても、鎌倉の海(由比ガ浜海岸)へ、まったく行き来のしないわが気分である。目の保養の気分さえ起きないのは、たそがれどきはとっくに過ぎて、宵闇深いところへわが身体が突っ込んでいるせいであろうか。朝日が輝いて、のどかな朝ぼらけにある。また、小鳥が飛んでいる。ウグイスは、鳴き続けている。自然界の恵みで、生きる楽しみはまだちょっぴりあるのかもしれない。ただ、周辺には空き家が増えている。人の世は、自然界とは別物のようである。

わが人生に授かる、助太刀

 「情けは人の為ならず:人に親切にしておけば、その相手のためになるばかりでなく、やがてはよい報いとなって自分に戻ってくるということ。人のためならずは、人のためではないという意味。因果応報の考えに基づいていう」
 わかりきっていることをあえて電子辞書にすがったのは、この成句は多くの人が意味の取り違えをするという。私が文章を書いているのは、この成句にかなり同義するところがあるからである。しかし、文章書き素人の私にとって、文章を書くことにはほとほと疲れるところがある。
 きのうは書き殴り文特有に、だらだらと長い文章を書いた。挙句、書き終えると、疲労度はいや増していた。「捨てる神あれば拾う神あり」。すなわち、お二人の神様のお褒めのコメントにより、わが疲労は癒されたのである。いつものことながら文章を書き終えると、ホッと安堵感が心身に染みわたる。文章の出来不出来にかかわらず、ちょっぴり味わえる快感である。いや、それほどに、文章書きに苦慮している証しである。
 7月16日(日曜日)、いつものように(もう書けない、もう書かない)という、思いをたずさえて起き出している。すでに淡い朝日の夜明けが訪れている。現在、心中にはこんなことが浮かんでいる。それは、わが身体の器官にかかわる戯言(ざれごと)である。言葉を変えればわが欠陥器官を補う、助太刀のあれこれである。一つは近眼を補う眼鏡、一つは歯の欠損を補う入れ歯、一つは耳の難聴を補う集音機、皮膚には日常的に痒み止めの薬剤が欠かせない。舌とて、舌先に口内炎の絶えることはない。身体の五官は、眼(視覚)、鼻(嗅覚)、耳(聴覚)、舌(味覚)、皮膚(触覚)である。ところが私の場合は、五官いずれにも無縁では済まされない欠陥人間である。これらにさらに付け加えれば、凡愚の脳髄には電子辞書の助太刀がなければ、にっちもさっちもいかない。
 生きている価値(甲斐)があるとは思えないけれど、83歳の胸の鼓動は続いている。きょうのわが予定には、最寄りのS医院への通院がある。採血のためゆえに、朝御飯抜きの通院である。朝日は梅雨晴れから、夏の朝の光に変わり始めている。
 きのうよりはかなり短い文章だけれど、疲労度はさして変わらない。文章書きはほとほと厄介である。だから、こんな文章でも書き終えれば、私はホッとする。結局、助太刀頼みのわが人生である。それらのなかでは、人様の優しいコメントこそ、効果覿面の助太刀である。浅ましい人間と自覚するところだけれど、あからさまにおねだりしてでも、それがなければ「ひぐらしの記」の継続はあり得ない。きょうあたり、梅雨明けを願っている。それに見合う、すっきりした青空である。