ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

タイガースが恵んだ、棚ぼたの日暮らし

 10月18日(水曜日)。寝坊助をこうむり時間なく、焦燥感に駆られています。今朝もまた夜明けから、胸の透く晩秋の日本晴れです。このところの秋は、季節どおりにめぐっています。心身がワクワクする、何物にも勝るプレゼントです。慌ててきょうは、このことだけを記します。
わがファンとする阪神タイガースは、今夕六時からフランチャイズ・甲子園球場で、クライマックスシリーズ・ファイナルステージの6連戦を戦います。迎えて対戦するチームは、ファーストステージで横浜ベイスターズを下した広島カープです。カープに先に3勝すれば晴れてタイガースは、セントラルリーグの覇者として、日本シリーズへ臨みます。日本シリーズを戦うパシフィックリーグの覇者もまだ決まらず、対戦相手はこの先の千葉ロッテマリーンズ対オリックスバファローズの勝者となります。
 こんな文章を書いて、恥を晒しました。身勝手に、継続文の穴埋めとして記しました。このところの晩秋の日本晴れの定着にあって、わが気分はすこぶる爽快です。その証しの文章です。かたじけなく、心して詫びます。

「秋晴れ、万歳!」

 10月17日(火曜日)。きのうの真っ青な日本晴れとは視界を変えて、薄い青空に淡く色彩を帯びた夜明けが訪れています。それでも、のどかな夜明けの装いでは、日本晴れ一辺倒よりこちらが勝ります。きのうは朝っぱら胸の透く日本晴れ、そして昼間はこれぞ「秋晴れ」という、季節の恵みを堪能しました。身体を取り巻く空気は満遍、汚れなく澄み切っていました。これに応えて文字どおり、身も心も爽やかになりました。すると、予告の行動にしたがって私は、いつもの大船(鎌倉市)の街へ、心勇んで買い物に出かけました。この日の買い物の目当ては、果物の秋が恵む蜜柑と柿でした。蜜柑は、故郷の熊本産・ブランド名「玉名(市)みかん」を一網(一キロ強)買いました。柿は和歌山県産で、「種無し」表示を欲張って、10個ほど買いました。柿だけで、1キロ半近くの重さになりました。目当てどおりにこれらだけにすればよかったけれど、妻はお構いなしにスマホメールで、幾多の買い物メモを垂れ流してきました。メモ(妻)にあらがうことなく私は店舗を変えて、一つ違わず買い重ねました。
 バスを降りて、背中に大きな買い物リュックを背負い、なお両手提げのヨロヨロ足で、家路に就きました。わが家に着いては鍵を取り出すことさえままならず、玄関ブザーを押しました。しばしの時を置いて、茶の間からヨタヨタの妻の足音が近づいて、老いた妻の顔出しでドアが開きました。私は「重いよ!」とは言ったけれど、買い物メモの垂れ流しをなじることなく、「きょうは秋晴れのいい天気だよ」と、付け加えました。憤懣やるかたなしを抑えた、秋晴れに救われた「買い物行」だったのです。
 ここまで書いている間に大空は、先ほどの色彩は消した真っ青の日本晴れです。私は朝・昼・夕な、大空模様を眺めるのが大好きです。それゆえに、掲示板上部に掲載の、大沢さま撮影の白雲いだく日本晴れの写真は、もとより始終、わが心象の癒しをになっています。晩秋の季節はようやく、本来の「秋晴れと寒気抱き合わせ」の正常になりました。
 寝起きの私は、幼稚な「綴り方」を書きました。それでも、秋晴れがこれまた、わが恥を救ってくれました。だから、「書かなければよかった」とは思っていません。たぶん、「秋晴れ、万歳!」のおかげでしょう。

晩秋、夜明けの日本晴れ

 10月16日(月曜日)。久しぶりに一つの雲さえもなく、天上に日本晴れの夜明けが訪れている。思いがけない風景に、起き立てのわが心象もまた、日本晴れである。人間の心象は自然界の恵み、なかでも身近なところで空模様の晴れで、ころっと変わる証しである。
 目覚めて起き出すまでの私は物憂く、パソコンを起ち上げる気力さえ失くしていた。ところが、夜明けの日本晴れに遭遇した。たったこれだけのことで気分は一変し、あたふたとパソコンを起ち上げた。そして、こんな文章を書いている。もちろん、心中にはネタなく、空っぽである。挙句、大恥を晒している。しかしながら、休むつもりだったことを思えば私自身は、こんな文章でも満足である。
 夜明けの日本晴れに遭遇し、昼間のわが行動は予定外の買い物行になりそうである。老いの身の日暮らしに、これ以上を望むのは欲のツッパリと言えそうである。いや、これだけで十分。朝の内、心身が躍動している。

晩秋、雨の夜明け

 10月15日(日曜日)、現在のデジタル時刻は5:41を刻んでいる。なのに、いまだに夜明け前の暗闇である。なぜだろうと思い立って、傍らの窓ガラスを開いて、外灯の灯る直下の道路を凝視した。すると、雨が降り続けて、雨粒が光り跳ね返っている。そうだったのかと、こころもち安堵した。雨降りだけれど自然界は,季節を刻んで正常にめぐっている。それに引き換えこのところの私は、短い文章さえ沙汰止みを続けている。きょうも、そのつもりだった。夜長の走りにあって案の定、予期どおり文章を書くネタもなく、書く気力も失せているせいである。ならば、マスメディアが報じる配信ニュースの引用を思い立った。だけど、好悪の事柄、興味をそそる項目はなく、ぷっつり諦めた。ゆえに現在は、こんな無様な状態である。
 だから、一つだけ私日記らしいことを添えれば、きのうの私はまったく久しぶりに、卓球クラブの練習へ出向いた。それも、わが単独ならずに、妻をともなって出かけた。まさしく、思い立ったら吉日、好都合の異変だった。卓球クラブの男女の仲間たちは、妻の姿を見て一同に驚きを露わにして、そののち大歓迎してくれた。帰宅後の妻は、「パパ。きょうはとても楽しかった。行って、よかったわ」と、言った。私は報われた。もちろん、仲間たちの好意のおかげである。人間はやはり、優しい人情を持つ、文字どおり優れた動物である。きのうの私は、不断の天邪鬼精神を捨て去り、素直に人間に感謝したのである。
 きょうは、約十分、このことを書いて、継続が断たれることを免れるつもりである。かたじけなく思う、ようやく白み始めた雨の夜明けである。

夜長は、チャンスとピンチ

 10月12日(木曜日)。デジタル時刻は4:50を刻んで、いまだ真っ暗な夜明け前にある。日に日に日暮れが早く、夜明けが遅くなり始めている。この先の夜長はどう過ごすのか、大きなテーマ(課題)になりそうである。たぶん、二度寝にありつけずに、悶々とする夜長になりそうである。灯火親しむ候にあって、はなはだなさけないわが生き様である。挙句には長く、迷想に更けそうである。
 格好の夜長にあっては灯火の下、名作でも読めば万事好都合ではある。ところが私の場合は物心ついて以来、絵本や漫画を含めてまったく読書習慣がないままである。いまとなっては、後悔激しくつのる大損である。思えばすべてに、生来の三日坊主の祟りのせいである。なぜなら、名作を読もうと何度か試みた。けれど、そのたびに三日にさえありつけず挫折を繰り返した。結局、わが身にはそんな素養がなかったのである。それゆえにこれまでの私は、たったの一度さえ読書感想文を書いたことがない。夜長にあっては、いまさらながら残念無念である。読書習慣のないことは、余生短いとはいえこの先まで大きな難題である。そうであれば、スヤスヤと安眠を貪ればいいはずだ。ところが、一度目覚めれば二度寝にありつけず、これまた難儀である。
 確かに夜長は、文章を書くには天与の好機(チャンス)である。さらには生涯学習を叶えるにも、これまたまたとないチャンスである。ところがもはや、肝心要の向学心が消え失せている。せっかくのチャンスは、もとよりピンチである。
 薄っすらと夜が明けてきた(5:20)。朝日の見えない曇り空だけれど、しばし大空を眺めて、朝日のお出ましを待ってみよう。こんな心境ではやはり、この先の夜長が思いやられるところである。

大空眺めて、作文

 10月11日(水曜日)、久しぶりに雨模様のない夜明けが訪れています。薄い日本晴れを隠し、白雲や彩雲が色彩を添えています。晩秋の夜明けはようやく、願ったり叶ったりです。しかしながら寒気は、わが身に堪えています。それでも、本来の季節に応じた夜明けであればうれしく、我慢しなければなりません。
 きのうの夜明けに書いた文章では雨模様で晴れ間を望めず、私は自然界のしわざに難癖をつけました。ところが時間を追って、かつての「体育の日」の日本晴れを髣髴するような好天気になり替わりました。そのため昼間の私は、心中で早とちりを詫びました。
 ここでしばし、指先を休めて、大空模様を眺めます。不断の私は朝・昼・晩にあって、大空模様を仰ぐのが好きです。その時々に大空の描く風景はまさしく千変万化、果てしなくかつ汚れのない無償の恵みです。これこそ、ひとり悦に入ることのできる天恵です。
 先ほどの薄い日本晴れは、浮雲を遠のけて朝日が射し、青色を増した晩秋の日本晴れになり替わりはじめています。待ちに待った、胸の透く夜明けの風景です。ようやく、晩秋の好季節が訪れています。きょうはこのことを書くだけでいいでしょう。きょうのわが行動予定は、気分良く買い物行です。売り場は、「果物の秋」全開です。出回り中のサンマ(秋刀魚)は、すでに二度ほど食べています。学童の頃の「綴り方教室」の作文になりました。

「秋」忘れの季節

 現行の振替休日の「スポーツの日」が過ぎて、かつての「体育の日」(10月10日・火曜日)の夜明けが訪れている。好季節を鑑みれば、満々と輝く朝日が昇り始めていいはずの朝は、きのうに続いてまたもや雨模様である。わが感慨は、「秋」を忘れている季節、の思いひとしおである。
 10月になってきょうで十日、最も好季節であるはずの10月初旬は、とうとう季節忘れをこうむってしまった。あす以降の気象情報は聞いていないけれど中旬は、まずは初旬の罪償いを望むところである。そしてそののちは、本来のゆるぎない晩秋の好季節を存分に振舞ってほしいものである。そうでなければわが不断の自然界賛歌は、おのずから色褪せて打ち止めとなる。寒気だけは季節どおりだけに現れているだけに、このところの悪天候には余計腹が立っている。年老いてすがるのは、無償で得られる自然界の恩恵がイの一番である。
 もっと具体的には、天変地異なき日本晴れである。日本晴れであっても、秋天高い晩秋の日本晴れほど胸の透くものはない。確かに、冬晴れの日本晴れもさわやかだけれど、ところがこれにはわが嫌う寒気がともなっている。初冬の小春日和もいいけれど、しかしこれは、一日ないし二日の賞味期限付きである。期限が尽きるとこんどは、肌身にいっそうの寒気をおぼえて、それに慄くこととなる。こんなことを胸中に浮かべているとやはり、肌身に心地良い晩秋の日本晴れに勝るものはない。とりわけ、現行のきのうの「スポーツの日」(10月9日・月曜日)、そしてかつてのきょうの「体育の日」には、満天大海原とまがう日本晴れを望んでいた。しかしながら、自然界の人間界への悪戯かいや怨念なのか、この望みは叶えられなかった。つくづく残念無念である。
 挙句に起き立ての私は、きのうに続いて二番煎じの文章を書いている。いくらネタ不足とは言え、この文章にさら駄文を重ねるのは、生き恥晒しであり、ここで書き止めである。こんな文章を再び読んでくださる高橋弘樹様には、心して詫びるところである。

「スポーツの日」の雨

 「スポーツの日」(10月9日・月曜日)にあって、日本列島の多くの地方や地域は雨の予報である。長い過去体験を顧みても、こんなことはめったにない。わが住む鎌倉地方もまた、予報に違わず小雨模様の夜明けである。9月から月替わって10月初旬、なんだか異常気象と思えるところがある。季節どおりに確かに、日々寒気は深まりつつある。ところが一方、季節に呼応する胸の透く秋晴れは、いまだ遠のいている。せっかくの好季節にあって、片肺進行ではうんざりであるし、もちろんもったいない。欲深い私は、寒気の深まりと秋天高い秋晴れの同時進行を望んでいる。もとより、気象の恩恵は無償である。ならば、好季節にふさわしい好天気を望むのは、わが欲のツッパリであろうか。
 予告どおりに私は、きのうのわが町の「市民体育祭」へは出かけずじまいだった。だけど、夜明けにあっては好天気を願っていた。夜明けて、ちょっぴり好天気の兆しが見えた。そののち、朝日は雲隠れた。挙句、太陽は一日じゅう日光を隠したままだった。幸いにも、雨は降らなかった。けれど、肌寒い市民体育祭に終始した。出かけなくとも、市民体育祭は他人事とは思えない。悪天候は、天界の意地悪に思えていた。
 夜明けの小雨模様は風をともなって、今は嵐模様の大降りである。おそらく日本列島あちこち、「スポーツの日」にあって予定されていた運動会や体育祭などの催行(行事)は台無しである。万事、人間界の楽しみや営みは、自然界におんぶにだっこである。

寝起きの「繋ぎ文」

 10月8日(日曜日)、どんよりとした曇り空の夜明けにある。私には、きょうの天候が気懸りである。寝起きの私は、寝坊助を被り、慌てふためいている。二日坊主にはなりたくなくて、パソコンへ向かっている。ゆえに文章は、しっちゃかめっちゃかである。
 風邪薬を服用し就寝したせいか、副作用が効いて熟睡に陥り、目覚めが遅くなり起き出している。不断の私は、二度寝にありつけないことを嘆き続けている。このことを鑑みれば、棚ぼたの副作用効果であり、大いに歓迎すべきことである。しかしながらやはり、文章を書くうえでは喜べず、慌てふためいている。
 頃はあすの「スポーツの日」(10月9日・月曜日)を前にして、晩秋一番の好季節にある。この証しに日本列島のあちこちにはきょうあすに、運動会や体育祭が行われという。実際には実施日明けのからだ休めを狙って、多くはきょう行われるようである。確かに、わが町にあってもきょうは、市民体育祭が予定されている。観覧へ出かけるつもりはないけれど、きょうの天気が気になる夜明けの曇り空である。観覧はおぼつかないけれど、新型コロナウイルス騒動が一応収まった証しとしては、うれしさあふれる体育祭である。少しずつ日本社会は、新型コロナウイルスの呪縛から逃れて、平常いや日常生活に戻りはじめている。
 こんなことを書いていると、あらためてロシアとウクライナにおける、泥沼戦争の帰趨が気になるところである。為政者のメンツはいつまで、無辜の市民を巻き込むのであろうか。戦争が終わり、世界平和が待たれるところである。
 きのうの夜の私は、公式戦を終えた阪神タイガースのテレビ観戦に代わり、バレーボールの日本男性チームの試合をテレビ観戦した。この試合において日本チームは勝利し、晴れて来年の「パリオリンピック」の出場権を確定したのである。私は喜びに浸った。
 この文章は二日坊主を断って、三日へつないだだけのものである。それでも私は、こころ安着気分にある。それほどにこのところの私は、文章の継続に右往左往を強いられている。もとより、こんな書き殴りは、文章とは言えない。約30分の時が過ぎて、曇り空を蹴散らし、朝日が昇り始めている。「天恵、様様」である。

季節は秋モード

 10月7日(土曜日)、雨の無いどんよりとした曇り空の夜明けが訪れている。しかし、空の端には朝日が昇り始めて、薄っすらと光が紅色に染めている。時間を追ってきょうもまた、晩秋の日本晴れになりそうである。きのうの天候は一日じゅう満天、胸の透く日本晴れだった。10月になって初めて出合えた快晴であり、それゆえにわが肌身を潤す快感だった。たちまち私には、これでこそ好季節の恵みと思えていた。
 好天に釣られて私は、出かけて二つの行為を叶えた。一つは、最寄りの掛かり医院・S院へ出向いて、インフルエンザの予防注射を打った。新型コロナウイルスの7回目の予防注射は、当院で一週間前に済ましていた。ところが、このときの私は初めて、注射後の二日間はあちこちに痛みが生じ、気分の滅入りに晒されていた。幸いにもインフルエンザの予防注射の後は痛みなく、平常心が保たれている。
 インフルエンザの予防注射を済ますと当院を出て、すぐ近くのバス停「北鎌倉台」から、巡ってきたバスに乗車した。行き先は、いつものわが買い物の街・大船(鎌倉市)である。買い回る店は通常と変わりない。真っ先に出向いた店は、野菜と果物の安売り店「大船市場」である。ところが、見慣れている店内の様相は、見た目一変していた。それはまさしく、秋モードだった。売り場の野菜には、大した変化は見られなかった。売り場模様を大きく変えていたのは、西瓜売り場に代わる秋の果物のお出ましだった。中でも、いよいよ王者、双璧を成す、柑橘類と柿の並びようだった。柿はふるさと便ですでに味見していた。けれど私はまた柿を買い、もちろん蜜柑を買った。ヨロヨロ足取りでわが家へ帰ると、茶の間の妻と共に、柿、蜜柑、そして茹で栗で、果物の秋を堪能した。
 栗に関して言えば、二度目のふるさと便で賜っていた。一度目は庭柿と共に、市販の栗が段ボールに詰められていた。送ってくれたのは、共に亡き長兄夫婦の次女・姪っ子だった。二度目の栗は、共に亡き長姉夫婦の長女・姪っ子だった。こちらは、自家の栗山の収穫作業に多忙を極めている最中の贈り物だった。段ボールには大きめの網袋に詰められていた栗が、なんと四袋も入っていた。次に予定されているふるさと便は、獲れ立てのふるさと産新米である。毎年、この手はずをしてくれるのは、長姉夫婦の長男・甥っ子である。
 きのうの私は、10月になって初めて、途切れていた文章を書いた。それゆえにきょうの文章は、たった一日で継続を断たないためだけの殴り書きである。朝日が昇り始めて、視界一面が明るくなった。ただ、わが心中の明かりは、いまだロウソクの灯り程度である。