ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
モチベーション
人間社会には、モチベーション(意欲、意識)の有無あるいは高低という言葉が根づいている。人間が万物の霊長と崇められるのは、生きとし生きるもの中にあって、とりわけ精神や知能を働かすゆえであろう。もちろん、当たるも八卦、当たらぬも八卦の、わが下種の勘繰りである。それゆえに人間の行動や行為は必定、そのときどきのモチベーションに左右される。このことは物心ついて以来こんにちまで、自分自身、何事においてもわがこととして、体験してきたことである。気分の良い日のままごと遊びは楽しく、文字どおり遊び惚けていた。学童になって気分の良い日の宿題や漢字の書き取りは、親に言われることなくみずから進んで飯台(食卓)に就いて、またたく間に済ましていた。おとなになり仕事をするようになっても私は、常にモチベーションにつきまとわれてきた。現在の私は、いっそうモチベーションにつきまとわれている。すなわち、人間ゆえにゆえに絶えずにつきまとうしがらみである。
だとしたらわれのみならず人みな、モチベーションのしがらみから逃れることはできない。ところがモチベーションには、さきほどの有無や高低に加えて、ずばり良し悪しという、その時々の気分状態が映し出されてくる。おのずからこのことは、きわめて厄介である。なぜなら、その時々のわが気分は、おおむねモチベーションの低下に見舞われている。現在の状態に置きかえれば、私はモチベーションの低下に見舞われている。その証しには、この先、文章が書けない。その挙句、いたずら書きでオシマイである。
五月十五日(土曜日)、朝日の見えない、どんよりとした大空の夜明けが訪れている。自然界は文字どおり自然体のままである。モチベーションに左右される私には、羨ましいかぎりである。
苛まれ続けるわが心境
簡易な日本語を用いているにすぎないけれど、凡愚の私にとって書くことは、ほとほと心労きわまりない作業である。そのため、目覚めれば私は、心労の恐怖に怯(おび)えて、もう書きたくない思いに苛(さいな)まれている。一方で私は、この恐怖に負けて書くことを止めれば、たちまち認知症発症の恐れを感じている。つまり私は、日々この両者の鬩(せめ)ぎ合いに晒され続けている。そして、どちらかと言えば前者の思いに強く晒されている。だったら、(書くの、やめればいいだろう)、と声なき声が心中で、絶えず決断を迫っている。確かに、人様の助言にすがることもなく、わが瞬時の決断で済むことではある。ところが、生来のわが性癖(悪癖)の一つには、優柔不断というものがある。幸か不幸かこの悪癖がわざわいして、私は思い及ばぬ「ひぐらしの記」の継続にありついてきた。しかしこの継続も、今や風前の灯(ともしび)にある。きょう・五月十四日(金曜日)、寝起きにあっての隠しようないわが正直な心境である。
きのう(五月十三日・木曜日)、ほぼ一日じゅう降り続いていた雨はすっかり上がり、胸の透く清々しい夜明けが訪れている。太陽は音なく、外連味(けれんみ)の無い明るい朝日を地上いっぱいに、いや大気くまなくそそいでいる。こんな自然界の恩寵(おんちょう)のなかにあっても私は、こんな身も蓋もない思いにとりつかれている。「みっともない」どころか私は、ほとほと恥じ入る「愚か者」である。確かに、「バカは死ななきゃ治らない」。しかし、これくらいでへこたれて死ねば、生きるために懸命に戦っている、現下の世相に相すまない思いがある。
確かに、わが「身から出た錆」など、心労の内には入らないであろう。それでも、日々これにとりつかれているのは、わが小器の確かな証しである。そしてこれこそ、後天ではまったく直しようのない悪の根源である。このところの私は、小器の祟(たた)りに見舞われて、常にこんな直しようのない思いに晒されている。この思いは、文章のネタ不足の祟りでもある。やはり、書かずに、休めばよかったのかもしれない。
朝日が煌々とそそいで、眺望する家並みと遠峰は、反照で光っている。自然界は無償で、私に気分休めの効果覿面の処方箋を恵んでいる。自然界の恵みは、私いや人が、生き続ける喜びをなす一つである。だったら、嘆くまい! いや、嘆けば損である。
またもや、寝起きの「戯言(ざれごと)」
五月十三日(木曜日)、小ぶりの雨が降っている。早や、梅雨入りかな? と、思える夜明けの空である。おのずから鬱陶しい気分がいや増している。いや増す土台は言わずと知れた、新型コロナウイルスがもたらしている現下の日本社会の世相である。すなわち日本社会は、新型コロナウイルスのもたらすさまざまな現象の渦中にある。さまざまと書いたけれど、もちろん明るいことなどまったくなく、暗いことばかりの混乱状態にある。
ところがこの混乱状態は、人間のだれのせいとすることはできない。おのずから、罪のなすり合いはご法度である。ひたすら人間は、新型コロナウイルスの衰えを願って、待つのみである。しかしながらじっと待つだけではやはり、人間としてはなさけない。そのため、知恵ある人間は対抗手段としてワクチンを生み出したのである。ところがワクチン接種にはおのずから、優先順位をともなう順番がある。すると人間心理は現在、接種の順番取りに慌てふためくこととなっている。
確かに、生き続けるためにはおおむね、早い者勝ちは人みな共通の願望である。だとしたら順番取りに競争心が湧くのは、あながち身勝手と非難すべきものではない。しかしながら人間心理は、競争に負けた者は勝った者にたいし、恨みつらみを言いたがる。これにもとより、接種におけるハード(病医院や特設会場)とソフト(接種対応の医療関係者)の準備がととのわずに、接種を予約するだけでも想定外の混乱状態を招いているという。これまた、だれを責めることもできない。なぜなら現場の人みな懸命に、接種の対応に腐心されていると、メディアを通して伝えられてくる。そうであれば現在は、人間固有の節度の存在(証し)を見せるべきときであろう。
新型コロナウイルスにかかわるワクチン接種の予約における混乱状態は、いみじくも人間に節度が有る無しやを試されている。ただ浅ましいだけではもとより、人間の価値はない。「人の振り見て我が振り直せ」。心すべき、わが寝起きの戯言(ざれごと)である。焦らず待てば、「待てば海路の日和あり」。しかし、生きるためには人みな、そうはいかないのであろう。「うべなるかな!」。
確かに、人間はときには自分が生きるためには、浅ましい行為や行動を余儀なくする。仕方なくそれは、許されるであろう。不幸にも新型コロナウイルスは、いやおうなく人間の生きる修羅場をさまざまに見せつけている。それゆえ、新型コロナウイルスとの戦いは、人間共通の戦いである。人間の知恵が、「負けるわけにはいかない」。
戦いと闘い
きょう・五月十二日(水曜日)から月末日(三十一日・月曜日)まで、新たな新型コロナウイルスとの闘いが始まる。この間には、予約済のわが一回目のワクチン接種が挟まっている(五月二十日・木曜日)。
わが家とわが日常生活は、妻の腰の損傷以来、突然一変している。日本社会と国民は、優に一年を超えて新型コロナウイルスとの戦いの渦中にある。挙句、人みな気鬱な日常生活を強いられている。いやいや、こんな呑気なことは書いてはいけない。新型コロナウイルスは、日に日に多くの感染者数と、死亡者数のカウントを重ねている。もちろん、気分が滅入るところではなく、人の命が絶たれているのである。すなわち、人みな悲しい現実に晒されて、生命の維持に文字どおり懸命の闘いのさ中にある。
現下、日本社会だけでなく人間社会は、命の存続すなわち生き続けることの困難さに苦闘する日々にある。はたして人間社会は、いつの日にこの苦闘から逃れることができるのか!。結局、人間社会は神仏の加護など当てにならずいや当てにせず、ワクチンにすがることだけが唯一無二の新型コロナウイルスに立ち向かう、世界の国々と人々の共通の武器と言えそうである。まさしく、異界の魔物と人間の知恵の闘いである。いずれは人間の知恵が勝つであろうと、私は信じているところである。
それにしても人間社会は、長い戦いを強いられている。きのうの気象予報士は、日本列島各地の梅雨入り日の予想図を示していた。すでに沖縄と奄美地方には気象庁から、梅雨入り宣言がなされている。新たに延びた緊急事態宣言のほか、さまざまな新型コロナウイルス対応策が空振りに終われば、この戦いは梅雨のさ中の戦いとなる。なお梅雨が明ける頃まで戦いが延びれば、新型コロナウイルスは「東京オリンピック」(七月二十四日・開幕日)と、ひと月後れて続く「パラリンピック」(八月二十四日・開幕日)に大きな妨げとなる。
現下の日本社会と国民は、まさしく新型コロナウイルスとの戦いの中にある。加えてわが家とわが日常は、アクシデントのさ中にある。どちらからも私は、恐々の日常生活をを強いられている。おのずからこの頃のわが気力は萎えて、文章の執筆とわが意気は絶え絶えである。まったく、様にならない。確かに、わが気分は「嗚呼、無情」、人生は「嗚呼、無常」である。
寝起きの書き殴りに甘んじて、ほとほとかたじけなく思う、夜明け心である。朝日は、くまなく輝いている。
反芻(はんすう)
五月十日(月曜日)、久しぶりに目覚めが早く、のんびりと電子辞書を開いて、反芻(はんすう)という語句の復習を試みた。実際には今さら復習するまでもない、子どもの頃より見聞きして、知り過ぎている語句である。
『反芻』①一度のみこんだ食べ物を再び口中に戻し、噛み直して再びのみこむこと。典型的にはウシ目(偶蹄類)の哺乳類が行う。②二度三度くりかえし思い、考えること。
前者についてはわが家の牛で、しょっちゅう見ていた。牛は日がな一日、口を動かしていた。このとき私は、反芻という言葉(語句)を学んだ。しかしこの語句に、こんなにも難しい漢字をあてることなど、当時は知るよしなかった。こんなにも見慣れない漢字は、今でも漢字テストでは書けないであろう。確かに、電子辞書にかぎらず紙の国語辞典をひもといて、なんども書き取り練習をくりかえしても、覚えきれそうもない。ほとほとなさけない、わが脳髄の劣等である。
さて、必ずしも当を得ないけれど私は、実際のところは②の意味になぞらえて、反芻という語句のおさらいを試みたのである。それは、大袈裟好きのわが性癖の証しでもある。私は「寝ても覚めても」、心中にとりとめなく浮かんでくる語句をめぐらしている。もちろん、寝床の中で眠りこけているときには浮かべようはない。いやこのときは、常に悪夢に魘(うな)されている。確かに、寝ても覚めてもと言うことは、身の程知らずの大袈裟あるいは誇張な表現である。しかしながら、めぐらしていることは確かな事実である。もちろんそれは、言葉や語句の忘却阻止のためである。わが文章など、容易きわまりない言葉や語句の羅列にすぎない。それでも、容易なものさえ浮かばなければ、文章はたちまち頓挫に見舞われる。
確かに、これまでの私は、この苦衷を何度味わってきただろう。ところがそのうえ、年齢を重ねるにつれて言葉や語句の忘却傾向は、いっそう加速度を増しつつある。それを防ぐにはしょっちゅう、心中に言葉や語句をめぐらしているより、ほかに逃れる手はない。こんななさけない理由で目覚めにあって私は、実際のところは似ても似つかぬ、反芻という語句をめぐらしていたのである。新型コロナウイルスのことなど書き飽きて、書きたくなければこんなどうでもいいことしか書けない。
きょうはわが身(八十歳)に訪れた、ワクチン予約開始日である。自然界は、今朝もまた明るい陽射しののどかな朝ぼらけを恵んでいる。ところが、いつもとはかなり異なるわが気分である。
緊急事態宣言等、延長決定
窓ガラスを開いて道路を見遣れば、のっぺりと黒ずんでいる。就寝中にあっては気づかなかったけれど、夜間に小雨が降っていた。ところが夜来の雨はすっかり上がり、五月八日(土曜日)、明るい陽射しの夜明けが訪れている。時刻はいまだ夜明けの頃(六時あたり)だけれど、太陽のもたらす朝日は、明るく昼間の輝きを放っている。
このところの自然界は人間界に、晴れまた雨も良し、のどかな日々を恵んでいる。一方、人間界は、新型コロナウイルスという魔界の魔物により、その恵みをはねのけられて、日常をはてしない気鬱に晒されている。恨めしいはやり言葉を用いて、ひと言で表現すれば現下の日本社会と国民は、まさしく新型コロナウイルス禍の渦中に喘いでいる。
全国的にはきのう一日で、6054人の感染者数がカウントされている。併せて死亡者数に至っては、なんと146人と伝えられた。一日当たりでは前者は、過去二番目の多さであり、後者はこれまでの最大の数値という。しかし、この先なお打ち止めの目途が立たず、政府はいっそう多くの自治体へ拡げて、対応策が延長および追加されることとなった。
きょうはそれを伝えるメディアニュースを引用し、日本社会の現下の世相として記し置くものである。もちろん、引用文へ逃げる姑息なものではない。やむなくそしてひたすら、日本社会の一大事を留め置くものである。
【政府、4都府県の緊急事態宣言延長決定 31日まで 愛知、福岡も】(5/7・金曜日、17:22配信 毎日新聞)。政府は7日夕、新型コロナウイルス対策本部を首相官邸で開き、東京、大阪、京都、兵庫の4都府県に発令している緊急事態宣言を5月31日まで延長すると決定した。感染が拡大している愛知、福岡両県も12日から31日まで新たに対象に追加する。変異株による感染増加が続く中、対策の継続や対象地域の拡大が必要と判断した。酒類を提供する飲食店への休業要請は継続し、客による酒類の店内持ち込みを認める飲食店も休業要請の対象に加える。路上での集団飲酒は規制を強化する。一方で、百貨店など大型商業施設(床面積1000平方メートル超)への休業要請は見直し、午後8時までの時短営業要請に緩和するが、各知事の判断で休業要請も継続できる。これまで原則無観客としてきたスポーツなどの大規模イベントは5000人か収容率50%のいずれか少ない方を上限に入場を認める。緊急事態宣言に準じた対策が可能となる「まん延防止等重点措置」の対象地域は北海道、岐阜、三重の3道県を9日から追加し、感染が落ち着いた宮城県を12日以降除外する。現在対象の埼玉、千葉、神奈川、愛媛、沖縄の5県は期限を31日まで延長する。
薄らぎゆく、会話の愉しみ
人様と出会い言葉を交わし合うこと、すなわち「会話」は、人間の楽しみの最上位に位置している。とりわけ、普段から気心が知れて親しい人との出会いと会話は、まぎれもなく互いの人生に生き甲斐をもたらし、文字どおり滑らかな潤滑油ともなる。
出会いの席に互いの嗜好類(アルコールや好物の食べ物など)がともなえば、おのずから会話はいっそう弾んで、共に愉快な気持ちになる。そしてたちまち、互いのパラダイス(楽園)へとなり替わる。なかでも人の群がる酒席や宴席であれば群像劇さながらに、会話はあちらこちらへ弾んで小踊り光景さえ現れる。挙句、ほろ酔い気分になり、千鳥足で帰宅の途に就くことも多々ある。
こんな大掛かりな会話ではなく、見ず知らずの人との出合いがしらの短い会話であっても、気分は弾んでくる。この場合はおおむね、互いに短い挨拶言葉である。挨拶言葉が会話の範疇に入るのか? と自問すれば、わが答えは確かな会話である。その証しにはこれまでの私は、スーパーなどにおけるレジ払いのおりには、その会話を求めて係りの人に意識して「こんにちは。あるいは、ありがとうございます」などと、ひと声かけを貫いてきた。もとより、一方通行のわが気分癒しであり、多くは会話にはなり得なかった。それでも、わが気分が崩れることはない。もちろん、相手を責める気分もまったくない。なぜなら、身勝手な自分自身の気分癒しにすぎないからである。
いやわがひと声は、その場にふさわしくないありがた迷惑であろうと、自認するところがある。なぜなら、前後に並ぶ人たちはみな無言のままに、レジ道を通り抜けてゆく。おそらく、この行為こそ、寸刻を惜しむその場にはふさわしいのであろう。言うなれば私は、お邪魔虫なのであろう。それでも私は、カードを渡して支払いが済み、カードを受け取り、所定の籠を運ぶときには「こんにちは。ありがとうございます」と、ひと声かけを習わしにしてきた。ときには言葉が返り会話がなりたち、たちまち金を払うという、重たい気分が解(ほぐ)れた。
ところが、いつの間にか互いのカードの手渡し行為が、無くて済むようになっていた。それはレジ通りの末端に、みずからカードを差し込んで支払いを済ます、自動のカード払い機(精算機)が据え付けられているせいである。この文明の利器のせいで私は、レジ通りにあってはもはや、ひと声かけのチャンス(機会)を閉ざされている。おのずから私は、ささやかな会話の機会の自然消滅をこうむっている。
確かに、込み合い、レジ打つ(計算する)その場にはふさわしくなく、無用のひと声かけかもしれない。しかし、わがひと声とできれば返り言葉に、わが気分癒しを求める私には寂しさつのるものがある。
古来人間の知恵は、さまざまな機械類を生み出し、それを道具にして人の営みを豊かにしてきた。ところが、このところの人間社会はややもすると逆転し、道具と思えていた機械類すなわち文明の利器に精神をボロボロと翻弄(ほんろう)されつつある。(なんだかつまらないなあー…)と、思うこの頃の私である。
幸か不幸か私には、この先を案じる余生はほとんどない。夜明けの気分は、いつもつれづれである。ウグイスがさわやかに鳴いて、朝日が明るく輝いている。
雨の夜明け
五月六日(木曜日)、大型連休中にあってはまるで、遠慮していたかのように、雨の夜明けが訪れている。きょうは「昭和の日」(四月二十九日・木曜日)を含めて、五月へ月替わり通して四日、すなわち「憲法記念日」(五月三日・月曜日)、「みどりの日」(五月四日・火曜日)、「こどもの日」(五月五日・水曜日、立夏)の祝日をカレンダー上に記した大型連休の明け日である。この間にはいつもの週末二日(土曜日と日曜日)を挟んで日本社会は、文字どおりゴールデンウイークという大型連休に浸っていた。さらには政府や自治体の呼びかけに応じて、きょう・あすの平日を有給休暇の取得日にかえて、週末二日の休日へつなぐ人たちもいる。そうであればいくらか余儀ないこととはゆえ、まさしく休日満喫の大型連休の継続に浴することとなる。
だからと言って日本社会および国民ともに、必ずしも極楽とんぼではおれないものがひかえている。それは休日明けにともなう、新型コロナウイルスの齎(もたら)すさまざまな数値の推移である。なかんずく、「緊急事態宣言」下の自治体にあっては、所定の期限(五月十一日・火曜日)における、解除の可否あるいは是非の判断が迫られる。
わが下種の勘繰りをめぐらせば大型連休中のメディア情報をかんがみて、解除なく延長やむなしであろう。そうだとすれば、その先の鬱陶しさが思いやられるところである。これにわがことを加えれば、鬱陶しさは増幅するばかりである。その因(もと)は、鎌倉市の公報によるわが年齢(八十歳)へのワクチン予約開始(五月十日・月曜日)への対応である。
気象庁は早くもきのう、沖縄および奄美地方の梅雨入りを宣言した。季節いや一年は、こんなにも早くめぐるのか! と、私は唖然とするばかりである。人間界には新型コロナウイルスのもたらす鬱陶しさに加えて、この先には自然界のもたらす鬱陶しさがいや増してくる。七月と八月に予定されている世紀の祭典、すなわち「東京オリンピックおよびパラリンピック」は、なんら鬱陶しい気分癒しにはなりそうもない。なぜなら現下の人間界は、日々生き続けることの困難さの渦中にある。言うなればその日暮らしに明け暮れている。それに耐えて人々は、つつがない日々を願って生き続けることに懸命である。
もちろん、他人事(ひとごと)とは言えない。私もまたその渦に嵌(は)まり、樽の中の里芋洗いのごとくに、ゴロゴロと揉(も)まれている。雨の夜明けは、関東地方の梅雨入りの走りであろうかと、恐れて気を揉むところである。
「こどもの日・立夏」
五月五日(こどもの日・水曜日、立夏)、宮仕えの人たちが気兼ねなく休める、大型連休の最終日の夜明けが訪れている。現下の日本社会にあっては、新型コロナウイルスのせいで、外出や行動の自粛を強いられて、さらに週末の日曜日(五月九日)まで、自制の休暇(多くは有給休暇)を決め込んでいる人たちがいよう。政府や自治体の呼びかけ、これに呼応し役所や企業などが余儀なく休暇促進のさ中にあっては、これまた気兼ねなく休めることもあろう。理由はどうあれ休暇が続くことは、宮仕えの人たちにとっては、まさしく夢見る「パラダイス(楽園)である。
現役中の私であれば文字どおり、小躍り(あるいは小踊り)すること請け合いである。ところが現在の私は、もちろん欣喜雀躍(きんきじゃくやく)する気分をすっからかんに失くしている。当時の気分にもう一度ひたりたい思いは山々だけれど、もちろん今や叶わぬ願望である。ほとほと、残念無念である。
「あなたは、何たることを言われるのか! 罰が当たりますよ。あなたは、私たちからすれば涎が出るほどの幸せ者ですよ。果て無い、長い休暇にありつかれているじゃないですか」
「はいはい。確かにそうです。だけど、この休暇には小躍りする気分はありません」
こんなケチなことを書きたくなる日本社会の大型連休は、今週で打ち止めとなる。そして、十日(月曜日)には現役の人たちは、文字どおり休日明けの休日病や月曜病に罹り、終日悩まされることとなる。いやいやわが体験上、その一週を丸々休養に当てざるを得なくなる。挙句、明らかな給料泥棒に成り下がる。ところが、幸いなるかな! 今の私は、この悪習からは免れている。これらのことをかんがみれば、やはり現在の私は、現役の人たちを妬(ねた)まず、「極楽とんぼ」と、言うべきであろう。確かに私は、現役の人たち同様の大型連休にはありつけなかった。しかし、気分的には妬みなく「おあいこ」である。
きょうもまた私は、実の無い文章を書いた。もちろん、ありつけない子ども心、すなわち「こどもの日」を妬んでいるわけではない。だとしたら案外、「立夏」すなわち季節めぐりの速さに、肝を潰されているせいなのかもしれない。このところの私には、「書かずに、休めばよかった!」と、思う日が続いている。とことんなさけなく、そしてかぎりなくやるせない。
世代交代
「みどりの日」(五月四日・火曜日)の夜明けにあっては、のどかに明るい陽射しがふりそそいでいる。書きたい文章のネタなく、私は仕方なく実の無いいたずら書き始めている。
さて、ありふれた簡単明瞭な言葉であっても、それぞれには重たい意味を含んでいる。たとえば、単なる机上言葉とも言える「世代交代」は、命の入れ替わりという厳かな意味合いを含んでいる。すなわち、これまでの命はみな尽き果て、次代の世になりかわる言葉である。重ねて言えばそれには、それまでの人の命がみな尽き果てるという、厳粛さが存在する。
わが目覚めはいつも、ふと浮んだ言葉のおさらいや、再考察どきにある。今朝の目覚めどきには、世代交代という言葉が浮かんでいた。なぜ、浮かんだのかはかわからない。強いて因(もと)をめぐらせば、わが年齢(八十歳)が世代交代の時期にさしかかっているせいなのかもしれない。あるいは、新型コロナウイルスの発生以降、感染者や死亡者の年
齢区分をほぼ毎日、いやおうなく見せつけられているせいなのかもしれない。確かに、年齢区分一覧表を見遣れば、わが年代は世代交代の狭間(はざま)というより、れっきとしたところに位置している。年齢区分上位には、九十歳もあるにはある。しかし、実際のところは付け足しとも思えるほどに、私にはまぼろしの感をぬぐえない。やはりわが年代こそ狭間というより、世代交代の真っただ中にある。
世代交代という、言葉の意味がいや増すこの頃である。老いてなお矍鑠(かくしゃく)たる御仁(ごじん)には、わが不徳を詫びるところである。わが目覚めどきには単なる言葉遊び、いや身に染みて、言葉の重みをめぐらしている。確かに、書くネタのないときには、「三十六計逃げるに如(し)かず」である。なさけなくも、きょうはその証しである。