ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

妻同行の歯医者、そして買い物行

 十二月十四日(月曜日)、予報によれば今週には寒気が訪れるという。冬季という時節柄、慌てることはないけれど、これまで暖かい日が続いていただけに、寒気に身構えるところはある。いやいや、予報どおりに寒気が訪れれば、きわめてつらい週となる。
 確かに、冬季にあっては、いつまでも暖かい日が続くはずはない。しかしながら欲深い私は、のほほんとしてなおそれを欲張っていた。とりもなおさずわが身体は、暖かさに慣れきっていた。そのため、思いがけない寒気の訪れには慌てふためいている。加えて、きょうの私には予約済みの歯医者通いがある。ところがこれには、先週から妻を連れ立っている。妻は、単なるわが付き添い役や介添え役ではない。妻自身もまた、私の次にひかえる患者である。早い話わが夫婦は、ほぼ同時間帯に予約を入れられた、M歯科医院(鎌倉市大船)の患者なのである。
 私同様に妻もまた、従来のS歯科医院(横浜市栄区)から鞍替えしたのである。もちろんこの鞍替えは、S歯科医院の技術を見限ったからではなく、この先の加齢をおもんぱかり、余儀なくしたものである。実際のところ鞍替えの理由はただ一つ、通院行程の不便によるものだった。S歯科医院の場合は、路線バスを降りて速足で、二十分強の徒歩を強いられていたのである。ところが、鞍替えしたM歯科医院の場合は、バスを降りて待合室の長椅子に腰を下ろすまでも二分足らずである。そのうえ、M歯科医院の技術は、卓球クラブの先輩の折り紙付きでもあった。
 M歯科医院へ先行していたわが感想では、通い易さとそして技術共に、十分納得できるものだった。そのためこんどは、私が妻をM歯科医院へ誘導する羽目となったのである。ところが幸いなるかな! 先週の初回のおりの妻もまた、私同様にM歯科医院への鞍替えに十分納得していたのである。妻同行の歯医者通いは、きょうで二週目である。もちろん歯医者通いとなれば、ありがたい同行ではなく、やむにやまれぬ同行である。私の場合はきょうで七週目であり、おのずから治療の打ち上げは、私のほうが早いはずである。しかし、家計からしたらこの先、延々と続くお金(治療費)の持ち出しとなる。妻の治療を待って、二人分の支払いを済ますのは私である。そしてその先には、ついでの二人しての買い物行となりそうである。
 すると気になるのはやはり、新型コロナウイルス禍にあっての感染恐怖である。妻にかぎらず主婦の買い物は財布をあずかるせいか、買い物時間はかたわらで待ち飽きるほどに、品定めが馬鹿丁寧である。普段にあっても妻同行の買い物にあっては、私は「早くして! 速く買って!」の連発である。ところが、新型コロナウイルス禍にあって、買い物客まみれの中での長居には、感染に慄(おのの)くばかりである。
 きょうの妻同行の歯医者通いとそれに続く買い物行には、わがひとりのときとは違って、二倍の感染脅威に晒されることとなる。二人そろっての予約時間は午前十時である。もとより、二人分の医療費はわがなけなしの財布(お金)からのお出ましである。きょうの私は寒気の訪れとともに、オチオチしておれない年の瀬の半ばにある。

長い夜はつらい夜

 十二月十三日(日曜日)、現在デジタル時刻は2:43と刻まれている。一基の蛍光灯の灯る部屋の中は、静寂にいまだ真夜中の佇まいである。わが目は輝いているわけではなく、眠気まなこ状態にある。習性にしたがって目覚めたため、起き出して来たにすぎない。おそらく、キーを叩き終えれば寝床へとんぼ返りを試みるであろう。なぜなら、そうでもしなければ長い夜はもたない。しかし、再び寝床へ就いたところで瞼は閉じずに、悶々として夜明けを待つばかりであろう。
 今、心中に浮かんでいることをランダムに書けばこんなことがある。新型コロナウイルスのせいで人の世は、末世の感を呈している。日本社会にかぎればきのう(十二月十二日・土曜日)だけで、とうとう全国の感染者数が三、〇〇〇人を超えた。恐るべき加速ぶりである。年の瀬も新たな年の正月も、日々の感染者数値に怯えることとなりそうである。分科会の尾身茂会長は、年の瀬と正月の日本社会にあっては、「静かな日常」を懇願されている。私流にとらえれば感染の蔓延を恐れて、「人は出歩くな!」、ということであろう。すなわち、分科会会長の立場からすれば、感染を防ぐにはもはやこの提言しかないのであろう。つらく、また身を超えた警告であろう。そうであればやはり国民は、この警告に応ずるべきであろう。
 もう一つ浮かんでいるのは、呆れてものが言えないことばである。最初、このことば「ガースー」とは、何だろうと思っていた。ところが、菅総理がみずからの名、すなわちスガを「ガースー」と言われて、笑みを浮かべて話し始められたという。すると、新型コロナウイルス禍にあっては、あまりにも緊張感のない不見識なことばとして、そののちバッシングをこうむられているという。確かに、バッシングを受けられることには私でも、「さもありなん!」、と思うばかりである。あえて、古来のことばを重ねれば、「恥を知れ!」、ということば浮かんでいる。すなわち、駄じゃれにさえならない、人柄(人品)崩しのことばと言えそうである。
 手元の電子辞書を開いた。『開いた口が塞がらない』:「あきれてものが言えない」。学童の頃におぼえた成句を、総理のことばから浮かべるようでは、ひとりの国民としても大恥晒しである。この先書けず、尻切れトンボに寝床へとんぼ返りである。

寝坊助の心境

 十二月十二日(土曜日)、顔に浸す蛇口の水が冷たくて体が震えた。寝起きが遅れて、五時半近くにパソコンへ向かっている。だから、慌てふためいている。起きれば、文章を書かなければならない。このことは、わが身には途轍もなくプレッシャーである。そしてできれば朝刊が届くように、夜明け前には書き終えたい思いをいだいている。
 ところがこれまた、私には大きなプレッシャーである。それでも書き殴りを始めて書き終えればこんどは、文意はもとより文脈の乱れが気に懸かる。能力の無い私自身に課した文字どおりの日課とは、呪縛(じゅばく)いや自縛(じばく)そのものである。このため私は、パソコンに向かうおりにはいつも、もう書くのを止めたい! と、思っている。もちろん、こんな後ろ向きの姿勢では、心もとない文章へ成り下がるばかりである。
 こんななさけない心地にまみれて、私は途方もない年月を書き続けてきたのである。それはなぜだろうか? と、自問を試みた。すると、欲張って三つの答えが浮かんでいる。一つは、大沢さまのご好意に感謝し、だからそれに背いてはならないという、人間固有の道議である。一つは義理立ての読者、すなわち友人・知人そして未知の人たちとの出会いを絶ちたくない思いからである。最後の一つは、書き殴りであっても書き続けることによって、ほかになんらの取り柄もない私に、いくらかの誇らしさを感ずるところがあるからである。実際にはそれは、どうにか生来の三日坊主を克服し、生きる屍(しかばね)を免れただけのみすぼらしい自惚(うぬぼ)れにすぎない。
 この時間にあって文章を急かせるのは、ほぼ同時間帯に位置する、もう一つの日課すなわち道路の掃除がある。ところが、この時期の長い夜にあっては、いくらか道路の掃除にたいする焦りは消えている。現在、時間的には六時をちょっぴり超えたけれど、道路に向かうにはいまだに夜明け前にある。それでもこんな文章に甘んじ、私は夜明けを待って道路の掃除に向かうつもりでいる。
 慌てふためいて、どうにか書き殴りの文章を終えた。それでもやはり、文章を書くのはもう止めたいと、思っている。一縷(いちる)の幸いは、毎度の思いだから、案外あすへ繋がるかもしれない。実の無い文章を書いて、なさけない、かたじけない、思いで結び文とするものである。
 まだ、夜が明けない。いや、現在の私は、長い夜に救われている。「冬至」(十二月二十一日)までは、いよいよカウントダウンの始まりである。

勢いを増し続ける「新型コロナウイルス」

 十二月十一日(金曜日)、勢いを増し続ける「新型コロナウイルス」。いまだに節目とも言えない途中経過に過ぎないけれど、現下そしてこの先にわたり、東京都のみならず日本社会が怯える状態だけに引用を試みたものである。
 【東京 ついに600人台に 医療ひっ迫「受け入れ断念」も】(12/10・木曜日、18:39配信 フジテレビ系(FNN))。東京の感染者が、初めて600人台となった。都内の病院では、重症患者の受け入れができないなど、医療体制がますます逼迫している。東京・渋谷の電光掲示板に流れた東京の新たな感染者数。この衝撃的な数字が伝えられた瞬間も、スクランブル交差点を多くの人が行き交っていた。20代「危ない、怖いです」20代「すごく増えているなと感じています」東京都の1日の感染者としては、初めて600人を超え、602人。このうち、重症化リスクの高い65歳以上の高齢者は、77人にのぼる。重症者の数は、9日と変わらず、59人。都は午後に、モニタリング会議を開催。注目された医療提供体制の警戒度については、上から2番目の「体制強化が必要であると思われる」が維持された。東京都・小池知事「キーワードは『ひきしめよう』。引き続きテレワーク出勤、基本を徹底、食事を複数でとる際は、マスクを頻繁につけてもらって」年末に向けて、都民に気を引き締めるよう、呼びかけた小池知事。一方で、感染拡大の一因ともいわれるGO TOをめぐっては10日午前、「(GO TO停止を検討している?)現在の状況で続けていきたいと考えている、国に決めていただく形に」と話している。20代「地域の経済を盛んにするために必要なものなのかなと思う」20代「GO TOのせいで増えているなら、やめた方がいいんじゃないかなと思う」東京だけではない。10日は、これまでに、千葉・高知・大分・岐阜・山形の各県でも、過去最多の感染者が確認されている。全国の感染者が過去最多の2,809人となった9日、国内の累計感染者も、17万人を超えた。12月5日に16万人を超えてから、17万人に達するまで、わずか4日間。急拡大のペースが続いている。都内の医療現場では、重症患者の受け入れが断られる事態も起きていた。この重症患者も、複数の医療機関から受け入れを断られた末、東京・品川区の昭和大学病院に搬送されてきた。昭和大学病院・相良博典院長「この患者も(特定機能病院など)複数の医療機関から受け入れを断られ、われわれのところに来たが、人的問題もあって、残念ながら、断らなくてはいけなくなった。(第3波では)初めてのケース。今後増えてくる可能性があると思う」医療体制の逼迫が、さらに深刻な北海道。10日午後、追加の感染対策を発表した。北海道・鈴木知事「道民の大切な命と健康、暮らし、平穏を守るため、集中対策期間をさらに延長せざるを得ない」北海道は、不要不急の外出自粛などを呼びかけていた集中対策期間を、クリスマス当日の25日まで2週間延長。札幌市に続く対象として、新たに旭川市が加わった。また、道民に対しては、5人以上が参加したり、2時間を超える飲食、また、年末年始のあいさつ回りなどの自粛を要請した。「追記」:きのう(十二月十日・木曜日)一日だけの感染者の増加数は2、973人とあり、きょうにも3、000人超えとなりそうである。

長い夜の終盤に身を置いて

 十二月十日(木曜日)、長い夜も「冬至」(十二月二十一日)へ向かって、終盤にかかっている。現在(3:43)は寒くもなく、身体的には凌ぎ易いいまだ夜中にある。すでに一時間近く、メディアの報じる配信ニュースを読み漁っていた。ニュースの多くは、新型コロナウイルにかかわるものばかりである。今さら言わずもがなことだけれど新型コロナウイルスは、日本社会にのみならず世界中の人々の営みを変えている。終息までにはなおどんな変化がもたらされるのかと、いっそう恐々(きょうきょう)するばかりである。
 英国では待たれていたワクチンの接種が始まったと、伝えられている。しかしながら拙速のきらいもあり、副作用を恐れてのおっかなびっくりの模様が伝えられてくる。懸念されていた副作用が顕われて、必ずしも万々歳とはいっていないようである。それでも、新型コロナウイルスの感染恐怖下にあっては、副作用に慄(おのの)いても接種せざるを得ないところがある。すなわち、人みな、悩ましい決断を強いられている。
 もし仮に、日本社会にもワクチン接種が可能となったとしても、効果あるいは副作用の見きわめつかないあいだは、私は接種を渋るであろう。こんなあやふやな状態にあっても、あわてふためいてワクチン接種がされ始めているのは、世界中が新型コロナウイルスに手を焼いている、確かな証しと言えそうである。
 新型コロナウイルスにかかわる項目の一つには、家庭内感染を恐れて、家庭(家の中)でもマスク着用が必要(強要)との記事があった。わが家であれば、夫婦の会話にあってもマス越しを強いられそうである。もはや人間社会は、疑心暗鬼の渦の中にある。「パパ。コロナうつるから、マスクしなさいよ!」と言われたら、家庭とは言えそうにない。いやいや、他人同士(他人同居)の家庭生活と、言えそうである。
 長い夜にあっても別段、書くことも、書きたいこともなく、これにて結び文とするところである。この先、夜明けまでのあり余る時間は、わが人生の来し方にぽつねんと耽(ふけ)るつもりである。あえて、行きし方(行く末)をめぐらすと、命切れのことばかりで、ちっとも面白くない。長い夜に長居をしたせいか、寒さを感じていなかった身体は、いくら冷えている。

人、鳥(鶏)、二様のウイルス惨禍

「現在ページ」は日に日に「過去ページ」へ移り、「未来ページ」はまったく無縁である。十二月九日(水曜日)、起き立てのわが思いである。
 さて、人間界は新型コロナウイルスに翻弄され、鳥類は鳥インフルエンザウイルスの脅威に晒されている。千万羽を超える鶏(ニワトリ)の殺処分ニュースは、鶏の命と生産者の悲惨な胸の内をおもんぱかり、泣くに泣けない悲しいニュースである。もとより、生きものの鶏に託さざるを得ない生業(なりわい)にはつらいところがある。いやいや、殺処分ニュースを見聞するたびに私には、双方すなわち鶏と生産者のつらさが身に染みる。なぜなら、私にとってのニワトリは、人間同様だからである。
 子どもの頃からこんにちにいたるまでわが命は、ニワトリに養われてきた。子どもの頃の私は、「わが家では、ニワトリを養っている」と、言っていた。すなわち、持ちつ持たれつそれほどにニワトリは、わが家とわが身一体の大事なものだったのである。
 わが家のニワトリは、育てて卵を産ませて、それを売りさばいてお金を得る、役割ではなかった。いや、わが家のニワトリには、もっと直接的にわが家の家族の命を育む役割があった。その役割を担っていたのは、座敷先につらなる縁の下で、養っていた数羽のニワトリだった。産み立てほやほやの卵を急ぎ足で取りに行くのは、ほぼ私の役割であった。そしてこの行動は、青大将(蛇)との競争でもあった。
 現在、世の中の食生活において、「美味しい、旨い」の連発で、にわかに「卵御飯」が持て囃されている。こう光景をテレビで垣間見ると私は、ちゃんちゃら可笑(おか)しいと思うところがある。なぜならそれは、産み立ての生温かい卵による、卵御飯の美味しさに味を占めているからである。
 運動会時の弁当箱の中心に見栄え良く置かれた、白地に赤の半身の茹で卵の思い出は、私にまつわりつく母恋慕情と郷愁の最上位に君臨している。しかし、こんなままごとみたいな思い出は、鶏の殺処分のニュースに出合えば、たちまち雲散霧消(うんさんむしょう)となる。なぜなら、ニワトリの命と生産者の嘆きをかんがみて、木っ端みじんになるからである。
 人間界における新型コロナウイルス禍、そして鳥類における鳥インフルエンザウイルス禍、共に比類なき悲しい出来事である。なかんずく、生産者の哀しみには、殺処分ニュースのたびに胸突かれる思いである。もちろん、殺処分大わらのニワトリにも、鳥で済まされないつらさがある。きょうの表題は、「人、鳥(鶏)、二様のウイルス惨禍」でよさそうである。起き立ての私は、つらい心情に苛(さいな)まれている。

ストレス病

 十二月八日(火曜日)、気分重たく起き出している。実際には、胃部あたりに不快感をおぼえている。あれこれと脳髄をめぐらしても、原因不明である。強いて原因を探せば、わが人生に付き纏うストレス病なのかもしれない。対人関係の少ない現在のわが日常生活にあって、ストレス病に罹るのは、まったくの自損である。だとしたら、これぞ人生の悲哀! と言えるのかもしれない。そろそろ、胃カメラを呑む頃かもしれない。しかしながらカメラは、真空管みたいなストレス病を、病巣や映像としてとらえることができるであろうか。案外、「加齢のせいですね!」「そうですか」、のやりとりで終わりそうである。うれしい診断ではあるけれど、半面、内視鏡検査料がもったいなくて、新たなストレスを招くであろう。
 このところ頓(とみ)に薄くなるのは、わが頭髪と財布が一頭地抜いている。きょうはにわかにストレス病に罹り、この先、自作文が書けない。そのため、この文の下段にメディアの報じる配信ニュースを引用文して、お茶を濁すものである。新型コロナウイルスに対応しては、「GO TO トラベル」をはじめ、さまざまに政府肝入りの支援策が目白押しである。それら自体は背に腹は代えられず、もちろん非難すべきところはない。しかし、制度自体が急ごしらえで不備なのか、それとも国民良識の欠如のせいなのか、それぞれの施策において「正直者が馬鹿を見る」という、悪徳現象が起きているようである。
 なかでも、「持続化給付金」施策においては、申請手続きの不備などで、いやいや明らかな不正でお金の横取りが莫大な額になっているという。わが不埒(ふらち)な下種の勘繰りでは、なんだか「詐欺助成金」にも思えるほどの悪徳現象である。すなわち、このところの政府および自治体の施策は、総じて小手先と思えるものばかりである。その挙句には、世渡り上手、いや小賢(こざか)しい人だけが世に蔓延(はびこ)る現象を見る思いである。
 さらに言えば、弱者は置いてきぼりをくらい、強者救済の施策ばかりである。おのずから私は、さまざまな施策に腑に落ちないところがある。これもその一つである。案外、わがストレス病は、世情からもたらされているのかもしれない。そうであれば治療のほどこしようなく、「泣き寝入り」である。
 【地方移住&住宅購入で「100万円」 対象者は東京23区居住者ら】(12/7・月曜日、16:54配信 フジテレビ系(FNN)。地方に住宅を購入すると最大100万円分の家電などがゲットできる、ポイント制度が導入されることが明らかになった。対象は、地方移住をする東京23区内に住む人や、働く人で調整中。杉並区在住・20代女性「テレワークが進んでいる中で、都心に必ずしも住まなくていい方とか、1つのきっかけにはなるのかな」品川区在住・20代女性「家建てたり、リフォームだったりは、数百万円じゃ足りない場合も多いと思う。100万円もらえるから踏み切ろうとはならない」品川区在住・50代女性「今、真剣に検討している人は、背中を押してもらえるかなと思うけど、たかだか100万で人生が変わるって選択ができるのかなって」狙いは、16カ月連続で前年に比べ、減少し続けている住宅市場の活性化と、移住を勧めることで地方創生につながることとみられている。コロナをきっかけに、注目の地方移住。地方自治体も、さまざまな支援策を打ち出し、移住者の呼び込みを行っている。富士山のふもと、静岡・富士市では、テレワークをきっかけに東京近辺から引っ越した場合、引っ越し費用など最大50万円を補助。また石川県では、東京23区から移住し就業した人へ、最大100万円を支給している。新制度の対象は、都内で生活を続けながら省エネ住宅を購入する場合や、コロナ禍で根づいてきたテレワークなどのためのリフォームについても、ポイントの対象とする方向で調整されている。この新制度、8日にも閣議決定する追加経済対策案に盛り込む予定としている。

寒い朝の愚痴こぼし

 十二月七日(月曜日)、遅く起き出して来た(5:32)。そのため、あわてふためいて、走り書きを強いられている。きょうは、早出の歯医者の予約通院日である。こんな予定がある日の私は、平常心を失くしてオチオチとしておれない。明らかなとばっちりは、執筆時間に大慌てをこうむることである。
 文章は心象風景の紡(つむ)ぎである。このため、心象が時間に急かされ揺れていると、端(はな)から文章は書けない。もちろん、能タリンのわが固有の理由である。こんな弁解は飽きあきしているけれど、いつも逃げ口上の常套句(じょうとうく)に用いている。
 遅く起き出して来た理由は、寒さに負けて布団の中で起き出しを渋っていたからである。きのう書いたようにこの時季、ようやく本来の寒さが訪れている。すると、寒気に弱いわが心身は、たちまちカタツムリやミノムシのような状態になる。それでも、予約済みとなれば、身を動かざるを得ない。
 きょうの歯医者の処置には、出来立てほやほやの二つの金属の被せ作業が予定されている。早や、歯医者通いも六週目になる。先回のおりには、「次回には、二万円ほどご用意ください」と、言われている。年の瀬にあっては、身や財布に堪える痛い出費である。一方では、見栄えだけの「おせち料理」に比べれば、はるかに身のためになる出費かな! と、思うところはある。もちろん、これにて歯痛が収まれば万々歳である。
 ところが、二つの被せ金属の処置は、いまだ序の口にすぎないところがある。なぜなら、掛かりはじめにこうも言われている。「このところが済んだら、次にはここのところに入れ歯を作ります。それは、一か月半が過ぎた頃になります」。つまり、大きな処置と大きな出費は、いまだこの先にひかえているのである。余生をかんがみればなんだかやりすぎかな! そして銭失いかな! と、思えるところもある。いやいや、歯の痛みは堪えようもないから、こんなケチなことは言わないようにしようと、戒めてはいる。しかし、承知の助ではあっても言いたくなるのは、一度掛かれば果てしない、歯医者通いへの恨みつらみと言えそうである。
 落ち着かないことを理由に、きょうの文章は早や手じまいである。文章とは言えないから、慰めのつくところはある。寒さも身に堪えている。

不意打ちの「寒気団」

 十二月六日(日曜日)、悪夢にも魘(うな)されたけれど、それよりなにより寒さが身に堪えて、起き出してきた(3:54)。いよいよ冬将軍のお出ましかな! と、思える寒気著しい長い夜に身を置いている。だからと言って私は、自然界の仕打ちにたいし、手の平返しに恨みつらみは言えない。なぜならこれまでの暖かさには、私は望外の恵みをたまわり続けてきたからである。
 現在の寒気は、異常気象を正した季節相応にすぎない。わが身が震えているのは、期間限定の異常気象がもたらした暖かさを、のほほんと貪(むさぼ)っていたことにたいする、罰当たりなのであろう。言葉を重ねれば身に染みている寒気は、わが頓馬(とんま)のせいと言えそうである。
 いよいよ年の瀬は、本来の寒気団を引き連れて深まることとなる。すると私は、防寒にたいして緩んでいた意識を、あわてふためいて正さなければならない。現在の私は、飛んだ戒(いまし)めをこうむっているところである。今年は生まれて初めて、早々にインフルエンザの予防注射を打っている。効果のほどは知らないけれど、気休めにはなっている。インフルエンザ以外に風邪をひいたり、新型コロナウイルスへ罹患した場合は、明らかにわが落ち度である。だからこの際、気の緩みの隙(すき)を衝かれないよう、強く気を引きしめるところである。なお欲張って、つつがない年の瀬を希(こいねが)うところである。
 ネタのない書き殴りにあっては、この先が書けない。不意打ちの寒気に遭って、わが身はブルブル震えている。年の瀬にあって、実の無い『ひぐらしの記』は、十四年目をヨロヨロとめぐっている。

「無題」にしようかな

 十二月五日(土曜日)、いまだに真っ暗闇だけれど、長い夜の夜明け間近にある。悪夢に魘されず久しぶりによく眠れた。私にすれば願ってもない快眠! と言えるであろう。もちろん起き立ての気分は、さわやかである。人生にあって身近なことでは、快眠ほど素敵なものはない。起き立ての確かな実感である。しかしながら私の場合は、すべてがいいわけでもない。なぜなら、眠りすぎたせいで目覚めが遅くなり、執筆時間に焦りをおぼえている。その祟(たた)りには、指先まかせの走り書きと書き殴りの文章を書く羽目に陥っている。このことではやはり、現在のわが気分は、不愉快なところもある。しかし、快眠など滅多にないことだから、すこぶる付きの良い目覚めである。
 きょうもまた、飽き飽きしている新型コロナウイルスのことは、避けて通りたいという思いがある。ところが、そう粋(いき)がっているとやはり、書くネタはない。現在のわが日常生活は、確かに新型コロナウイルスの感染恐怖に翻弄(ほんろう)されている。おのずからテレビや新聞などでは、新型コロナウイルスにかかわるニュースを見聞するばかりである。
 これに加わるものでは、『鬼滅の刃』という、言葉と文字がある。私は、これにはまったく無縁、いやまったく無頓着(むとんちゃく)にうち過ぎている。このため、この物語の内容など、ちんぷんかんぷんである。それでも、新型コロナウイルス禍にあっては、ありがたくかつ微笑(ほほえ)ましいニュースであり、社会現象でもある。そして、まったく無縁の私でさえ、気分がほっこりと、和むところがある。それほどに現在の私は、明るいニュースに飢えていると言っていいのかもしれない。
 いつものことながら、脳髄にネタをめぐらすことなく、指先まかせに書いている。すると、これまたいつものことだけれど、たちまち立ち往生に見舞われて、この先が書けない。幸い身が冷える夜明け前ではない。このことでは泣きべそをかくことなく、夜明けを迎えそうである。確かに、このうえない自然界の恵みに身を置いている。そうだとすれば四の五を言わず、しばし快眠後の夜明けの気分を貪(むさぼ)り続けたい思いである。
 無理矢理この先を書けば、文章の不出来で快眠気分が殺がれそうで、書かない。いや、書けない。走り書きと書き殴りは、とんとなさけない。いやいや、かたじけなく、詫びるところである。まだまだ、とうぶんのあいだ、夜は明けそうにない(5:37)。焦る気分に急かされて、へんてこりんの文章を書いてしまい、ミスったかな……。気分は、ちょっぴり憂鬱である。実のない文章ゆえに題のつけようなく、「無題」にしようかな。