ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

連ちゃん! 書き殴りの妙

 十一月二十七日(土曜日)、このところはずっとだけれど、パソコンを起ち上げても長く頬杖をついている。明らかに、危険な兆候の一つである。きのうは買い物のついでに、大船(鎌倉市)の街に存在する「行政センター(市役所分室)」へ入館した。十数年ぶりとも思えるほどに、間隔が空いていた。入館の目的は、わが生活や市政にかかわるものではなかった。ここの二階には、図書館が併設されている。この日の目的は、図書館へ上がることだった。あまりの久しぶりであったためか図書館は、勝手知っているにもかかわらず異様な光景に思えた。逆に、スタッフから見ればわが姿は、かぎりなく神経を尖らすほどに、異様に思えたであろう。見知らぬ老人が大きなリュックを背負い、覆面みたいにマスクを着けている。わずかに覗くところは、皺だらけである。そのうえ、書棚近くをあちらこちらへうろついている。確かに私は、読むあてどなくうろついていた。スタッフが盗難などに、身構えるのは当然である。わが心中は、(驚かして済まないなあ……)、という思いにとりつかれていた。それゆえ、驚かしたことにたいし、(詫びたい気持ち)が充満していた。その証しには意識して足音に気をくばり、静かに書棚周りを一巡した。挙句、雑誌や新聞コーナーにさえにも足を止めず、早々に退館した。読書欲がまったくわかなかったせいである。もとより、冷やかしにもならない体たらくぶりだった。確かに、私には子どものころよりこんにちに至るまで、読書欲や読書歴はまったくない。きのうの私は、この悪癖を今さらながらにあらためて、確認しただけだったのである。
 館内を出ると、暖かい陽射しがふりそそいでいた。私は気分をととのえて、普段の買い物コースをめぐった。たちまち、後ろめたい気分は正常へ戻った。もはや私は、買い物で気分をほぐすだけの「生きもの」になり変わっているのだ! と、自覚した。
 このところの私は、三度の食事と間断なく間食をむさぼる以外、何もかもが面倒くさくなっている。本音を言えば、生きること自体がとてつもなく面倒くさくなっている。しかしこのことは、妻の前では禁句である。なぜなら、体を傷めている妻は、ありったけの思いでわが年金にすがっている。その証しには、「パパ。これは体にとてもいいのよ!」と言っては、わが長生きのためのレシピの推奨に大わらわである。「旨くもないないものが、体にいいはずはないと、私にはわかっちゃいる」。しかし、わが唯一の手っ取り早い妻へのいたわりとすれば、無下にはできない。
 面倒くささは、断捨離をともなう終活である。とりわけその筆頭は、もはや短くかぎりあるとはいえ、まだ残る命の営みである。用意周到に構えては、こんなケチくさい文章はまったく書けない。恥も外聞もいとわない、書き殴りの妙と言えそうである。確かに、書き殴りには想定外の本音がちらついている。殴り書きに加えて走り書きのため夜明けの朝日は、いまだにまったくの暗闇の中にうずくまっている。

書き殴り、「わが日常生活」

 危ない兆候はいくらでもある。半面、年年歳歳、安寧な気分や楽しみは薄らいでゆく。老体をかんがみれば、仕方のないことである。しかし、現在のところは幸いにも、わが身体には大きな病はとりついていない。実際のところで薬剤にすがっているのは、緑内障の進行防止ための一日一滴の目薬くらいである。緑内障とて、みずから申告して治療開始になったものである。すなわち、主治医が「これは大変だ!」と言われて、点眼が開始されたものではない。言わずもがなの「藪蛇」とも言えるものでもあり、私には悔いるところがある。進行も遅くこの先の余生からすれば、もう通院打ち切りでもいいはずくらいのものである。ところが快癒の宣告はいまだなく、おそらく点眼は、今わのときまで続きそうである。点眼くらいはいいけれど、目薬をもらうには半年ごとの通院が強いられる。これが厄介であり、そろそろ通院拒否の決断を胸中に浮かべている。 
 一方、これまたエンドレスを覚悟していた歯医者通いは、現在は通院の中断にありついている。このことは、まさしく僥倖である。高血圧の薬剤には用無しにありついている。現在、予約表が財布の中に張り付いているものには、「大船中央病院」(鎌倉市)における、12月6日の胃部内視鏡検査である。これとて自覚症状はなく、定期的にめぐってくる、いわば「念のため」くらいのものである。
 このほか十二月になると、「大船田園眼科医院」における、三か月先の予約を入れなければならない。ここには九月に通院したけれど、半年ごとの予約はできないシステムのため、三か月ごとに予約を入れているからである。
 難聴は耳鼻咽喉科にかかるまでもなく、テレビ通販による安っぽい集音機で我慢している。高価な補聴器を購入し、銭失いを恐れるためである。風邪症状は、市販の風邪薬に頼り切っている。老体にあってこれくらいで済んでいるのは、自己診断ではきわめて「健康体」と、決め込んでいる。
 身体が健康体であれば、愚痴ることはないはずである。それでもしょっちゅう愚痴るのは、私の場合、精神が宿病にとりつかれているのであろう。確かにこちらは不治の病であり、もはや施療や治療の埒外にある。しかしながら、気に病むほどのものでもない。いや、気を揉んでもどうなるものでもない。それこそ生来の錆、人間性を問われる愚痴の塊にすぎない。つまるところ日常生活において、安寧気分や楽しさが薄れているのは、自分自身の精神状態に起因している。
 一つだけこれ以外のことを浮かべれば、老境に入り人様との交流が細りゆくゆえと言えそうである。ずばり、生存の充実感は、人様との会話の愉しみに尽きるのである。一方通行の診断結果を怯えて聞くだけでは、もとより会話にはなり得ない。このところの私は、茶の間のソファにもたれて、日向ぼっこに勤しんでいる。ばかじゃなかろか! 勤しんでいると表現するのは誤りであり、虚しく明け暮れていると言うのが適当である。このお伴は、好物の柿と蜜柑のやけ食いである。
 「わが日常」、もちろんこんなことを書くためにパソコンを起ち上げたわけではない。もとより、きのうのズル休みの罪滅ぼしにはならず、とんでもない悪あがきである。十一月二十六日(金曜日)、のどかな夜明けが訪れている。

暮らし

 人は、目覚めると起き出してくる。朝の訪れである。人は、眠くなると床に就く。夜の訪れである。この間の昼間にあっては、人はそれぞれにさまざまな生存の営みに着く。日常生活、すなわちこれ「日暮らし」と言う。日暮らしの連なりは、「暮らし」である。ことばを換えれば、「人生」である。ことばで凝縮すれば人生とは、ざっとこんなところである。ところが、まっとうするには難行苦行や艱難辛苦がつきまとう。私は、こんなことを寝床の中でめぐらしていた。もとより、安眠できるはずはない。仕方なく、夜明け前に起き出している。つれない、わが日常の始動である。心中のさ迷いとは裏腹に、(なんだかなあ……)、目が冴えている。人生晩年における、わが暮らし(ぶり)である。まったく、様にならない。表題のつけようはないけれど、「暮らし」にしよう。

「勤労感謝の日」

 才能ある者はその上に努力を重ねる。無能な者はその上に怠惰を重ねる。私は根っからの後者である。コンプレックスと自虐精神に苛まれて文章が書けない。実際のところは、書く意欲の喪失に見舞われている。わが精神状態を虐めるかのように、長い夜は加速している。時刻(5:52)では夜明けのころだが、未だ真夜中のたたずまいである。久しぶりにぐっすり眠れて、寝起きの気分は悪くない。「勤労感謝の日」(十一月二十三日)。それでも、パソコンを起ち上げて、すでに長い時間、頬杖をついている。現在の私は、夢遊病者状態にある。文章を書くのは、(もう打ち止めでいいかな……)と、思う。勤労感謝の日にあっては、やけに生前の父の働く姿が彷彿する。きょうは、懐かしく父の姿を偲んで、十分佳き日としよう。

元横綱・白鵬、親方と解説者デビュー

 現在、開催中の大相撲九州場所(福岡国際センター)は、きのう(十一月二十一日・日曜日)、折り返し点の中日(なかび)を迎えた。中日を終えて無傷の八連勝で勝ち越しを決めたのは、番付どおりに横綱照ノ富士と、大関のひとりである貴景勝の二人だけとなった。千秋楽に向けての優勝争いは、たぶんこの二人だけになりそうである。私は横綱や大関陣がバタバタと倒れる、すなわち荒れる土俵はまったく好まない。それは、番付どおりに強い横綱や大関であってほしいと、願っているからである。
 こんな思いをたずさえて私は、毎場所テレビ観戦を続けている。もとより、私はプロ野球を凌ぐほどの大相撲ファンと、自認している。わが願う強い横綱としては白鵬が応えて、これまで四十五回の優勝を重ねて、偉業を遂げてきた。だから白鵬は、わが好む横綱だった。ところが白鵬は、先場所すなわち秋場所(九月場所)の全勝優勝を打ち止めにして、土俵に別れを告げた。すなわち、白鵬の土俵姿は先場所かぎりで、わが目から消えた。私には寂しさつのる、白鵬の引退宣言だった。
 引退後の白鵬は、間垣親方と名を変えて、親方修業の一歩を踏み出した。実際のところは今場所に初めて親方の姿をさらけ出し、大相撲協会の一員となり役割を務め始めた。テレビカメラに映る元横綱・白鵬の間垣親方の姿は、力士の入退場口に辺りに陣取る場内整備係りだった。もちろん、白鵬にかぎらず、横綱であっても、だれでも一様に通る協会のしきたりだという。そのため、文句は言えないけれど、(なんだかなあ……)と、一抹の寂しさを思えるところはある。しかしながら、白鵬から名を変えた間垣親方自身には、覚悟の引退だったようで、映像で観たかぎりは、悔しさは見えなかった。だから私は、安堵というよりほのぼの感につつまれた。もちろんそれは、テレビカメラに映るマスクを着けた顔面と、声から感じたわが印象だった。
 きのうの私は、とりわけテレビ観戦に釘付けとなっていた。それは間垣親方となった、元横綱・白鵬の大相撲のテレビ解説デビューの日だったためである。そのデビューは、無難というより名解説に終始した。そして、私にかぎらず放映後の世論(大相撲ファン)の評価にもまた、万雷の好評を博していた。白鵬には異国・モンゴル出身に加えて、取り口にやや荒々しさがあると言っては、偉業を押しのけてブーイング(悪評)がつきまとっていた。それゆえに私は、解説デビューの好評に安堵した。稀代の大(名)横綱が引退後にあってまで、バッシングやブーイングの荒らしまみれであっては、大相撲テレビ観戦はまったくの興ざめである。これを逃れてきのうの私は、胸のすく一日だった。
 日本列島のきょうの天候は、大荒れの予報であった。予報に違わず夜明けは大雨である。しかし、間垣親方の解説デビューが好感度で迎えられ、わが気分は悪くない。

嗚呼、無題

 十一月二十一日(日曜日)、現在のデジタル時刻は、日を替えたばかりの「0:32」と刻まれている。これから床に就くのではなく、いや目覚めて二度寝を妨げられて、しかたなく床から抜け出して来たのである。わが人生を一つだけの成句を用いて表現すれば、最もふさわしいのはこれに尽きる。すなわちそれは、「後悔は先に立たず」である。すでに過ぎたことにくよくよして、かぎられた余生の命を憂いで覆うのは、確かに愚の骨頂とは知り過ぎている。それでも、この憂いを払いのけることができないのは、つくづくわが小器ゆえである。
 小器をかんがみれば、身のほど知らずの欲得と言えるのかもしれない。なぜなら、九十九折(つづらおり)のごとく曲り曲がってでも、八十一年の人生行路を歩み続けてきたのである。確かに、身のほどをかんがみれば「これで良し」と思わなければ、この先、罰が当たりそうである。しかしながらそう思いきれないのが、わが憂いの根源である。起き立てにあって、こんな馬鹿げたことを書いている。主治医いや精神科医に相談すれば、危険な精神状態の兆候(シグナル)と、診断されそうである。
 文章は心象風景で書くものであるから、気分が良ければ意のままにスラスラと書けるところがある。しかし私の場合、そんな状態にはめったにめぐりあえない。挙句、悶々とする精神状態で、なお仕方なく書いている。だから、書き終えれば駄文である。書くまでもないことを書いて打ち切り、床に返り再び二度寝への挑戦を試みる。私自身には、気狂いの自覚症状はない。ところが、傍(はた)から見ればそれこそ、危ない兆候に見えるかもしれない。やはり、「くわばら、くわばら」である。現在、デジタル時刻は「0:52」である。再び、二度寝を妨げられれば、長い夜をどう過ぎようか。悩み尽きない、晩節を汚(けが)したわが人生である。

中冬の陽射し

 十一月二十日(土曜日)、季節は初冬から中冬へめぐる。この秋は悪天候に見舞われて、胸のすく秋晴れは少なく、私はせっかくの好季節にあって消化不良をおぼえていた。ところが、カレンダーに立冬(十一月七日・日曜日)と記されると、後れて秋晴れみたいな好天気が訪れている。寒がり屋の私にとってこの一番の恩恵すなわち幸運は、まったく冬入りらしくないことである。実際にも、ちっとも寒気を感じない日が続いている。この間、ときたま地球の揺れに身を竦(すく)めた。しかし大過なく過ぎて、胸のすく天恵にありついている。
 確かに、天災は忘れたころにやってくる。だから、この成句には常にびくびくしている。自然界の営みは恩恵ばかりではあり得ず、いや人間界は日々、自然界のもたらす恐怖に晒されている。そのためか立冬以来の穏便な自然界の恵みにたいし、ことさらありがたみが身に沁みている。この先の命運は天まかせではあるけれど、立冬からきのうまでの天恵は、まさしく胸のすく天上の粋(いき)なはからいである。
 きのうの私は、いつもの循環バスに乗って、大船(鎌倉市)の街へ買い物に出かけた。車内はやけに明るかった。(なぜかな?)と、思った。すぐに、答えにありついた。過ぎ行く窓外には、次々に真っ黄色に染まった銀杏(イチョウ)が映えていた。イチョウにふりそそぐ陽光の照り返しが、車窓を通して車内を明るくしていたのである。(そうか)、老い耄(ぼ)れのわが気分は和んだ。
 このところの好天気は、重たいわが図体(ずうたい)を軽々と道路の掃除へ誘い込んでいる。私は黙然と整然とした手捌きで、道路に敷きしめる落ち葉を鏡面のごとくに清めてゆく。ところが、清めたあとには間髪を容(い)れず、山から枯葉が音もなくひらひらと舞い落ちてくる。憎たらしいと思えば、確かにかぎりなく憎たらしいしわざである。しかしながら私は泰然としてそれにも、すばやく箒を揮(ふる)っている。ばかじゃなかろか! このときの私は、自然界のおりなす営みに腹を立てることなく、逆に胸のすく和みにありついている。
 ときには枯れ落ちた葉っぱを指先で拾い上げてみる。落ち葉は文字どおりからからに枯れて、風船みたいな手触りである。まさしく、潔(いさぎよ)い臨終の姿である。できればわが最期も、この姿に肖(あやか)りたいと思う。
 長い夜にあっては未明、すなわち夜明け前である(5:16)。冬防寒重装備に覆われたわが身体は汗ばむほどである。夜が明けて日が昇れば、きょうもまた中冬の陽射しが満々と地上にふりそそぐであろう。このところの私は、かぎりなく天恵に酔いしれている。だけど、この先へ長く続くことのないことぐらいは、年の功とは言えないけれど、知り過ぎている。確かに、制限時間付きの天恵だから、素直に酔いしれたいものである。身体を脅かす地震だけは、真っ平御免こうむりたいものである。なぜなら地震は、好季節にあって最も様にならない難物である。

後ろめたい「安楽」

 遊び心のつもりのズル休みが休み癖となり、現在の私は、再始動不能状態に陥っている。ほとほと、いやいや根っから、私は怠け者である。この体(てい)たらくぶりはだれかれへというより、自分自身に詫びなければならない。それに先立ち、わが怠け心を諫(いさ)めなければならない。ところがこれは建前であり、実際のところは休みの安楽をむさぼり、心地良さにひたっていた。
 一方では、罪作り気分に苛(さいな)まれていた。そして現在、この先へのあてどなく、こんな文章を書いている。もちろん、とうてい再始動にはなり得ず、寝起きの戯(ざ)れ文にすぎない。人間、いや私の場合は、単に書き殴りの文章を書くだけであっても、一度休み癖がつけばそれを克服して、再始動を叶えることには困難を極める。わが小器ゆえである。
 休みにともなう安楽は、生来三日坊主の私にとっては、もとより心中に棲みつく魔物である。正直言って休み中の私は、身体はまったく傷(いた)まず、精神が病んでいたのであろう。その証しには休みの安楽に加えてこの間、私は玉名蜜柑(熊本県)や有田蜜柑(和歌山県)、はたまた奈良県産や愛知県産の柿を買い込んでは、時の過ぎ行くままにたらふく食べ続けていた。確かに、文章を休んでいる後ろめたさはあったけれど、至福の時に浸り、それをむさぼり続けていたのである。
 このところは初冬の好天気が続いている。幸いなるかな!、コロナも収まりかけている。再始動のきっかけは盛りだくさんにある。それでもままならないのは、わが心身にべたついている休み癖である。そしてそれは手軽に安楽にありつけるから、始末に負えないものでもある。

早鐘、乱れ打ち

 きのうは「七・五・三」(十一月十五日・月曜日)だった。文章はズル休みした。「七・五・三」にあって文章を休んだのは、間違いなく初体験である。しかも、弁解の余地ないズル休みだった。このところの私は、日課とする道路の掃除さえ、ズル休みがちになっている。これらのことでは、「くわばら。くわばら」と、みずからに早鐘を打たなければならない。こんな危険な状態は、自分自身承知の助である。だから起き立てにあって、なさけなくもこんな文章を書いている。換言すれば私は、モチベーションの低下、すなわち気勢が上がらない状態にある。たぶん現在の私は、不登校に陥る児童や生徒の精神状態さながらであろう。不登校になる人はなんとなく学校へ行きたくない気分に陥り、二・三度休んでいるうちに休み癖がついて、思わぬ長休みになるのであろう。ほかから「やいのやいの」言われても、いっそう反発心が湧き出るであろう。結局、不登校を克服するには、みずからをみずから鼓舞するしかすべはない。まさしく現在のわが状態は、「これ」である。「敵は本能寺にあり」、いや私自身にある。
 私は、きょう(十一月十六日・火曜日)もズル休みを決め込んで、床に就いていた。ところが目覚めた。すると、きのうのズル休みが不登校みたいに長休みになることを恐れた。それを断ち切るためだけの目的で、パソコンを起ち上げた。すなわち、恥も外聞もさらけ出して、自分自身への鼓舞を強いている。他人行儀に優しく叱咤激励などとは言えない、なりふり構わぬ自己への大いなる警鐘である。確かに現在は、気狂い状態と言われることさえ厭(いと)わない心境にある。挙句、ズル休みを断つだけの文章へ成り下がっている。それでもズル休みが習慣にならず、ヨタヨタしながらでも継続にありつければ勿怪(もっけ)の幸いである。この期(ご)に及んで文章の質を望んでは、不登校さながらの爺(じじい)になる。
 現在のデジタル時刻は、長い夜にあって4:23である。私は小学生および中学生を通して、九年間の無欠席(皆勤賞)だった。もちろんこのときの私は、登校するのが目的ではなく、デコボコの砂利道を四十分近くかけて、歩いたり、走ったりしながら、勉強をしに行っていた。はるかに遠い当時が、懐かしく偲ばれる。それに比べると現在のわが心境は、大いに寂しいところにある。
 私の場合「七・五・三」は、わが気分が最も和む日本社会の年中行事である。だからであろうこれまでの私は、この日には切らさず文章を書いてきた。それなのにズル休みで断つとは、みずからにたいし早鐘乱れ打ち状態にある。継続の断絶なのか、それとも寸断なのか、今の私は知るよしない。きょうの文章は気狂い状態ではなく、目覚めどきの単なる「戯(ざ)れ文」であることを願っている。

戸惑いをおぼえた「東京行」

 きのう(十一月十三日・土曜日)は、次兄宅(東京都国分寺市内)へ向けて、久しぶりに電車に乗った。夜明けのころには強い寒気が訪れていた。そのぶん、出かけるころの大空には、満艦飾に日光が輝いて、またとないほどの初冬の好天気だった。その下でわが気分は、田舎者、お上りさん、はたまた浦島太郎のようだった。
 私は座席に腰を下ろして、車窓を通して移りゆく風景を眺めていた。皆々、初めて見ているような心地だった。それは、風景の変化にともなう驚嘆だった。換言すれば、都会の風景の変化の速さにたいする脅威でもあった。私は、車内の風景にも怯(おび)えていた。すなわち、若い人たちの目立つ中にあっては、もはや私は、過去の異物だ! と、思い知らされていたのである。いや内心、もうこの世には住んではいけないとも、思っていた。このことでは、電車に乗る前から怖気(おじけ)ついていた。その証しには往復共に、遠回りや時間はかかるけれど、座れそうな電車を待ったり、選んだりして乗車した。なぜなら、座っている人たちの前に近づけば、即座に席を譲られることを懸念して、それを回避することにわが意をそそいだのである。
 車窓の風景を眺めながらわが気分は、車内の案山子(かかし)のように無表情に委縮していた。日本社会にあってはコロナ禍の行動の自粛は緩和されたけれど、私の場合この先、外出行動の自粛いや自制は、いっそう強まりそうである。座席の私は、(もう一度だけでも、東京見物したいなあ……)と、思っていた。しかし、電車に乗ることを思えば、この切ない願いさえも果たせそうにない。私はスマホを見ることもなく、車外風景と車内風景を眺めながら、黙然と気迷っていた。車内の人たちは、盛んにスマホに興じていた。私は、通勤で通い慣れた「東京行」に戸惑いをおぼえていた。