ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

生存のかなしさ

 十月九日(土曜日)、余震にびくびくしながら一夜を過ごした。一晩だけど、幸い余震は免れた。しかしこの先には、なおビクビクが続いて行く。人間は生きているかぎり、常に何かにつけてびくびくしている。人間の生存にからみつく業(ごう)、すなわち、むなしさ、つらさ、かなしさ、おそろしさである。
 きのう、ふるさと電話のベルが鳴った。受話器を耳にあてると、後継者の甥っ子はこう伝えた。
「お父さんは、あしたが四十九日なもんで、坊さんに来てもらって、そのあと納骨をしますから……」
「そうだね。四十九日は数えていたからわかっている。納骨もあしたするんだね。行けなくてごめんね」
 今、周囲を竹藪に囲まれ、風の音をいっそう強める野末の丘に立つ、「前田家累代の墓」が彷彿と浮かんでいる。もはや、長兄の生存にたいし、びくびくすることはない。そのため、安らぎさえおぼえている。この先は、悲しさに耐えるのみである。それでも、日々ビクビクするよりはどんなにかいい。私は、独りよがりの身勝手な性(さが)にからみつかれている。唯一、人間らしい心情は、わが生存あるかぎり長兄を慕い続ける、尽きない悲しさである。

去就

 人気スポーツ、国内外のプロ野球界にあって今シーズンの話題は、大谷選手(エンゼルス)の活躍ぶりがひと際群を抜き続けた。その活躍ぶりは、一世紀前の数値さえをも呼び起こし、比較されて連日燦々たる称賛を浴び続けた。まさしく、国内外に轟く国際的スターの誕生であり、大谷選手は世紀を彩る名選手にその名を列ねたのである。
 大谷選手の活躍は、いくら称賛しても、しきれるものではない。この証しにはこの先、日本にとどまらず世界中の小さな野球ファンは大谷選手に憧れて、波打つごとく彼のようなプロ野球選手になることを夢見るであろう。もちろん、万々歳である。
 現在、プロ野球界は内外共に、来シーズンに向けて選手の去就のさ中にある。日本のプロ野球で言えば来週には(十月十一日・月曜日)には、今年度のドラフト(新人選択会議)が予定されている。会議とは名ばかりであり、実際のところはわが球団に欲しい選手の「クジ引き合戦」である。就活の一端をテレビで映し出すことには、私には必ずしも賛成できないものがある。しかし、主催者やメデイアにすればファン心理につけこんで、格好の視聴率や話題づくりとなっている。確かに、この光景を好む人たちがいるかぎり、非難するには野暮なところもある。私とて、野暮なかつぎ棒をかついでいる。
 どの球団にもおのずから、背に腹を変えられない必要悪とも言える定員管理がある。そのため、新人を選択して迎えるにあっては、それを前にしてほぼ同数の選手を解雇しなければならない。このことはプロ野球にかぎらずどの世界(業界)にでも見られる、職業選択(定員管理)にともなう厳しい掟である。
 プロ野球であれば人気スポーツゆえにほぼ連日、紙上に去りゆく人を表す「戦力外通告あるいは自由契約」の見出しの下に、それらの選手名が記されている。こうまでしなくてもいいと思うほどにそれは、寂しさが胸に詰まる記事でもある。確かに、栄枯盛衰は人の世の定めである。するとこの記事は、人生の厳しさとつらさを大っぴらに世間へ垂れ流し、それにたいする警鐘や教訓を含んでいるのであろうか。そうであればいくらか納得できるところはある。ところが実際には、そんな大義ではなさそうである。
 去就、すなわちかなしさ、うれしさ交々の人の世は、秋真っ盛りである。

生存の証し

 支流は大河に吸い込まれて姿を消す。大河は海に巻き込まれて姿を失くす。浮雲は大空に抱かれて、いつの間にか姿を隠す。私にかぎらずすべての人の命と心は、川の流れや浮雲のごとくに、絶えず揺れ動いている。言わずもがなのことだけど人の場合は、心模様の揺れや動きがピタリと止まったら、即「御陀仏」である。このことからすれば絶え間ない命と心の動きは、必要悪とも言える生存の証しである。実際のところその揺れぐあいは、ほとほと厄介である。
 こんどは私にかぎれば、その揺れに安寧を貪(むさぼ)ることは到底できず、これまた絶えずぐらぐらと揺れ動いている。寝床の中で、こんなことを浮かべていた。確かに、命と心すなわちわが人生には、焼きが回っているのかもしれない。それでも、幸か不幸か生存にありついている。そうであればせっかくたまわっている命であり、もっと生き長らえなければソンソン(損々)、いや大損である。自然界は絶好の秋の恵みの真っただ中にある。
 わがきょう(十月六日・水曜日)の行動予定には歯医者通いがある。よりにもよって予約時間は朝の九時である。夜が明ければ、ソワソワ気分で支度行動が待ち受けている。おのずから、急かされた心理状態では文章は書けない。そのため、目覚めるままに起き出して、書いてみた。すると、様にならないこんなみすぼらしい文章になってしまった。ただ言えることは、心は揺れ動いて、私は生きている(4:43)。
 ふだんはピンピンコロリを願っておきながら、歯医者へ通うことには虫が良すぎるほどに、私は自己矛盾のさ中にある。しかし、綺麗ごとだけでは生存は叶えられない。いや、人生とはどぶ川の流れみたいなものでもあり、たとえしばし澱(よど)んでも、決して流れを止めてはいけない定めにある。命と心の動きを止めたら、いやそれが止まったら、たちまちこの世とおさらばである。行き着くあの世にあってはたぶん、お釈迦様の説教(お招き)どおりの、住みよい極楽浄土などあるはずもない。確かに、命を惜しむ、歯医者通いである。だからと言って、「なさけない」とは言えない。なぜなら、歯の痛みには、命が削られる思いがある。命と心が揺れ動く、生存の証しは常に切ない。まもなく、夜が明ける。腕の脈拍は、間欠泉のごとく正常に動いている。

引き潮

 十月五日(火曜日)、目覚めて二度寝に就けぬままに、寝床の中で二つのことを浮かべていました。一つは、新型コロナウイルスはなぜ? 急に感染力を弱めたのであろうかという疑問でした。一つは、なぜこれまで長く文章を書き続けることができたのであろうかという、自問でした。
 自問だからと言って、ほったらかしにはできずに、答えを探しました。すると、答えはただ一つ、掲げた生涯学習の実践のためだろうと、いうものでした。ところがさっき、これには生涯学習の打ち止めを具体的に表す、文章は「もう書けない、もう書けない」という、思いに晒され続けていました。
 わが掲げてきた生涯学習は、忘却の進む語彙の復習と新たな学びです。これらに加えてできれば、語彙を用いて文章を書き続けることを肝に銘じていました。そしてこの思いは、わが念願をはるかに超えて、たくさんの実を結びました。もちろんこのことには、人様の篤い好意と情けの支えがありました。それなのに私は、「もう書けない」という結論をたずさえて起き出してきました。「なさけない」とは言えない、本音をいま書いています。表題のつけようのない恥晒しの文章にあって、ずばり「引き潮」と、浮かべています。

長い夜はいまだ序の口

 長い夜はいまだ序の口である。それなのに、一度目覚めると再び寝付けない、長い夜に見舞われている。秋の深まりにつれて長い夜は、この先なお長くなるばかりである。このことを浮かべれば、晩秋から初冬にかけての睡眠にはいっそう恐怖がつのるばかりである。再び寝付けなければ心中、悶々とすると同時、迷想と妄想の渦に巻き込まれることとなる。できればこんな雑念などはねのけて、快い瞑想にありつきたいと願っている。しかしながらこれは、今や叶わぬ願望へと成り下がっている。
 主治医先生に訴えれば素っ気なく、型通りに「それは、加齢のせいですね!」という、一語だけの診立てになのであろうか。何でもかんでもにかぶせられる「加齢」という不治の病は、ほとほと厄介なものである。こんな病気になけなしの医療費をはたくのは、自分自身惨めきわまりない。それよりなにより、国家的には税金泥棒の謗(そし)りを招きそうで、片腹痛いところである。ただ健康保険制度へのわが唯一の貢献は、いまだかつてたった一度さえの睡眠薬の処方箋をおねだりしたことはない。言うなればわが睡眠は自然体のままである。ところが長い夜にあってはいまだに序の口なのに、早やこの自然体を脅かされつつある。
 確かに加齢前の私は、ことのほか長い夜を愉しんでいた。いや、もっと大袈裟に言えば、至福の時にも思えて、無限大の安らぎをおぼえていた。さらに具体的には文章を書くにあたっては、焦燥感一切なく余裕にありついていた。このことをかんがみれば、このころは文章書きに行き詰まり、つまり長い夜が身に堪えているのであろう。すると、主治医先生の診断にすがるまでもなく自己診断を試みれば、不治の「わが能タリン」のせいである。おのずから、呆然とする長い夜である。
 十月四日(月曜日)、再び寝付けず、つらさに耐えかねて起き出してきた。そして、約十分間の殴り書きで、長い夜をわずかに凌いだだけである。嗚呼、この先が思いやられている。熟睡や、二度寝あるいは三度寝は、今の私には過去を偲ぶだけの夢まぼろしである。

遅れてきた「秋万歳」

 月替わり初日(十月一日・金曜日)には台風十六号に見舞われた。きのう(十月二日・土曜日)は余波なく一過となり、風雨は遠のいて普段の夜明けを迎えた。私は閉め切っていた雨戸のすべて開けて、いつもの夜明けの状態にした。次には、気に懸かっていた家周りの点検に向かった。被害はたったの一つだけ。すでにほぼ水平に倒れかかっていた柚子の木は、無残にもダメを押されて土に着いていた。(これくらいで済んだのか)、わが胸は安堵した。
 気を良くして、わが清掃区域と決めている周回道路へ急いだ。ところが、ここは目を覆いたくなるほどのありさまだった。道路には山から振り落とされた木々の枝葉が、てんでんばらばらに落ち敷いていたのである。小枝とも言えない、朽ちかけの大枝が何本も、あちこちに倒れていた。道路は、まだ乾ききってはいない。しかし、放って置くには忍びない。物置から三種の神器(箒、塵取り、半透明袋)を持ち出し、渋々掃除をせざるを得なかった。道路に立つと、わが区域の先には隣家の奥様のお姿があった。私に先駆けるお姿だった。挨拶を交わし合うと二人の共同作業となり、掃除は想定外に捗(はかど)り、二時間余の想定時間は、一時間ほどだけで済んだ。汚らしかった道路は(顔をつけてもいいかな?……)と思うほどに、綺麗に仕上がった。私は何度も言葉をかけて、奥様に感謝した。散歩まわりの人たちに先駆ける、二人の共同作業だった。綺麗になった道路は、たちまちわが気分を全天候型にした。
 きょう(十月三日・日曜日)の夜明けの空には、ほのかに朝日が差し始めている。台風が去って訪れた、のどかな朝ぼらけである。いよいよ、きょうあたりから実りの秋、さらには遅れてきたさまざまな冠(かんむり)の秋を楽しめるのかもしれない。これまで、冠の秋に通せんぼをしていた新型コロナウイルスの感染力は、どんでん返しに殺がれている。鬼のいぬ間に、我慢に我慢を強いられてきた日常を取り戻したいものだ。なぜなら新型コロナウイルスは、なおこの先第六波が懸念されている。そうであれば束の間かもしれない。だとすれば余計、今朝の朝ぼらけにはのどかな秋の先導役と願うところである。ただ惜しむらくは、かなりの出遅れである。それでも秋万歳の気分は、いや増してつのっている。もとより秋は、さわやかな気分を味わえなければ、寒気の走りに慄(おのの)くばかりである。せっかくの好季節にあって、つまらない秋だけは、もうこりごりである。

気の揉める秋

 月替わり初日にあってきのう(十月一日・金曜日)は、一階と二階の雨戸のすべてを一日じゅう閉めきり、私は一階の茶の間暮らしに終始した。この間、明かりは茶の間だけに明々と点いていた。これは台風十六号に備えて、とりわけ山から窓ガラスへ飛んで来る枝葉を恐れてのものだった。このたびの台風は、主に伊豆諸島あたりで暴れていた。天気の良い日に裏山の「天園ハイキングコース」へ上れば、相模湾を隔てて水平線遠くに、伊豆大島あたりを見晴るかすことができる。それゆえに伊豆諸島を襲う台風の場合は、いつもほかと比べて鎌倉地方には大きな脅威をもたらしている。このたびも例外にならず、雨戸に打ちつける暴風雨の音は、ほぼ一日じゅうわが身に脅威をもたらしていた。
 きのうは、まさしく台風に怯える一日だった。こんな日にあっても妻は、娘のマイカーによる送迎で、予約済みの腰骨の治療に、はるばる久里浜(横須賀市)へ出かけた。妻は、朝の十時前に出かけて夕方の六時過ぎに帰ってきた。帰りの車には娘の連れ合いの運転で、中学校帰りの孫のあおばも同乗していた。この間の私は、ほぼ茶の間のソファに座りきりだった。茶の間のテレビは主に、台風状況、自民党の党人事、眞子様の結婚のこと、さらには定例の料理番組などの繰り返しと垂れ流しばかりであった。眞子様の場合は、結婚確定のニュースであった。日本国民こぞって慶事のはずなのに、私にはかなりの不安がつのっていた。
 見飽きたテレビはリモコン片手に消した。すると、手持無沙汰どころかもはや、何もすることがない。仕方なくわが意思でできる行為は、二つに限られていた。一つはつまみ食いとは言えない、かたわらに置く駄菓子の品を替えてのひっきりなしの食い漁りである。一つは、両膝に分厚い国語辞典を置いて、語彙のおさらいを試みていた。このときのわが心中には、こんな切ない思いがうずくまり、おびやかし続けていた。(妻が逝って、われひとりの生活になれば、死ぬまでこんな日にだけになるのか……。そうなれば余生など、おれは要らない!)。
 きのうの私は、とんでもない予行練習していたのである。妻が送られて帰り、私はホッとした。いつになく、ニコニコ顔で出迎えた。暴風雨は、かなり弱まっていた。半面、わが気分は、持ち直していた。いまだ雨戸は閉めきったままである。夜明けて台風一過の様子と被害の有無の点検は、この文章の投稿後であり、まだ分からずじまいである。デジタル時刻は、5:46と刻まれている。この秋、この先どんな日暮らしになるであろうかと、気の揉める十月の訪れである。

もとより秋は……寂寞

 とりわけ今年の秋は、寂しい気分で過ぎています。ふるさとが遠くならないよう例年のごとく、甥っ子にふるさと産新米の送付依頼をしました。新米の味は、去年までとは異なるでしょうか……。

戦いは余生へ続きそう…だったら悲憤慷慨

 九月三十日(木曜日)、九月最終日のトピックスは、新型コロナウイルスにかかわる緊急事態宣言等の解除と言えそうである。しかしながらこれで、新型コロナウイルスから解放されたわけではない。このことで恐れていることがある。それはわが余生が安穏(あんのん)にありつけず、日々蝕(むしば)まれてゆくことである。
 行動の自粛や抑制をボクシング用語で表現すれば、まるでボデーブローのごとく効にいている。なかでも、日常生活で最も鬱陶しいと感じているものは、衆目の目に晒されてマスク着用を強いられることである。実際にも私の場合は、眼鏡をかけさらには両耳には難聴逃れの集音機を嵌めている。これらに、マスクの紐がまつわりついている。そのためとりわけ、マスクの外しどきには、わが能タリンの神経を尖らしている。なぜなら、メガネと集音機がマスクの紐にひっかかり、今にも落ちそうになるからである。傍(はた)から見ればこれなど、ごく小さいことに思えるけれど私にすれば一大事である。そのたびに私には、鬱陶しさこの上ない思いがある。
 大きなことでは、人様の出会いに齟齬(そご)をきたしている。その一つは親しい人に出会っても、近づいて会話が憚(はばか)れることである。これまた具体的には買い物にあって、お顔馴染みの女性のレジ係の人にたいし、「こんにちは」のひと声さえにも気が咎(とが)ている。おのずから、現下の実りの秋の実感が殺がれている。新型コロナウイルスが消え去らなければ、わが余生はまさしく、「嗚呼、無情」である。
 緊急事態宣言等は解除されても、新型コロナウイルス自体は消えそうにない。私の場合、会食、夜間の飲み歩き、はたまた旅行の解禁など、何らの恩典もない。唯一望むのは、「長い間、ご不便をおかけしました、この先、マスクの着用は不要です。マスクを外して構いません!」という、鶴の一声である。
 九月の月末日、私はこんな独り善がりの思いをたずさえて起き出して来た。近づく台風の前ぶれはいまだしの、のどかな夜明けである。それにもかかわらずわが心中は、新型コロナウイルスに翻弄(ほんろう)されている。そしてなお、新型コロナウイルスがからむ余生に思いを煩わしている。「小さいこと」とは言えない、大きな現実である。

異国少年、横綱「白鵬」引退、引用文

 62キロの少年がつかんだ「運」と「夢」 孤独と闘い 白鵬引退』(9/27・月曜日、19:48配信 毎日新聞)。歴代最多45回の幕内優勝を誇る大相撲の横綱・白鵬(36)=宮城野部屋=が現役を退く決意を固めた。2001年春場所での初土俵から20年。横綱を14年以上務めた第一人者は自らの強さを「よりどころ」に、常に孤高の存在であり続けてきた。「(体重)62キロの小さな少年がここまで来られるとは、誰も想像しなかったと思う」。白鵬は自らの相撲人生を振り返る時、いつもそう口にしてきた。白鵬は15歳だった00年秋にモンゴルから来日。父ムンフバトさん(故人)はモンゴル相撲の元横綱で、レスリングで同国初の五輪メダリストになった国民的英雄だったが、白鵬は体の小ささから入門先がなかなか見つからず、帰国寸前のところで現在の師匠である宮城野親方(元前頭・竹葉山)に引き取られた。「無理やり牛乳を5リットル飲ませたり、ご飯をどんぶり3杯食べさせたり……。新弟子の頃はさぞ苦しかったと思う」。宮城野親方は当時を振り返る。それでも相撲の素質や期待から、名付けたしこ名は「白鵬」。昭和に一時代を築いた大鵬、柏戸の両横綱にあやかったものだった。かつて兄弟子だった同郷モンゴルの元幕内の龍皇(38)が「まるで殴り合いだった」と語った激しい稽古に耐え、幕下時代には巡業中に積極的に関取衆の胸を借りることで番付は急上昇。18歳だった04年初場所で新十両に上がると、わずか2場所で新入幕。07年夏場所で2場所連続優勝を果たすと、22歳の若さで横綱に昇進した。モンゴルの先輩横綱・朝青龍が暴行事件を起こし、10年初場所後に急きょ引退して以降、12年秋場所後に日馬富士が横綱昇進を果たすまでの計15場所は「一人横綱」として角界を支えた。常に勝利を求められ、孤独と隣り合わせの中、「昭和の大横綱」大鵬の納谷幸喜さんが持つ32回の最多優勝記録を抜くことがモチベーションになった。晩年、体調がすぐれなかった納谷さんを見舞うたび、白鵬は声をかけられた。「四股や鉄砲など基本の稽古を続けなさい。稽古をしっかりやって(優勝記録を)抜かれるなら、俺はそれでいい」。13年1月の納谷さんの死去後は献血運搬車の寄贈事業を引き継ぎ、15年初場所に33回目の優勝を果たすと、「大鵬さんに恩返しができた」と喜んだ。白鵬が相撲人生を振り返った言葉がある。「10代では朝青龍関、(元大関の)魁皇関、栃東関ら先輩の壁にぶつかり、一人横綱の時代が来て、(後輩横綱が誕生し)新たな時代を生きている。私は三つの時代で、相撲を取っているんですね」特に同年代だった日馬富士の存在は大きく、互いが横綱になっても稽古先で顔を合わせると激しい申し合いを行った。そんな日馬富士や鶴竜ら同郷の横綱のみならず、好敵手だった稀勢の里までもが先に引退。「周りは『もういいだろう』と思っているかもしれないが、そうはいかない」。またも訪れた孤独な戦いの中で、若手の「壁」であり続けることにやりがいを見いだした。近年はかち上げや張り手といった荒々しい取り口に加え、公然と審判への不満を口にしたり、優勝後のインタビューで観客に万歳三唱を促したりと、横綱の「品格」が問われた。日本相撲協会横綱審議委員会(横審)の矢野弘典委員長は27日、「横綱在位中の実績は歴史に残るものがあった」と評価した一方で、「粗暴な取り口、審判に対する態度など目に余ることが多かった」と振り返った。文字通り、未到の境地に挑み、戦い続けた土俵人生だった。ファンからサインを求められると白鵬は、色紙に納谷さんが好んだ「夢」とともに「運」の文字を添えた。「運は『軍』が走ると書く。つまり、戦わなければ運は来ないんです」。「約20年の力士生活における主な戦績。優勝回数45回、63連勝、横綱在位84場所、横綱899勝、通算1187勝、幕内1093勝」。