ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
手習い始めのころの一文、『秋の山』
平成十年十月三十日、私は勤務する会社近くの歩道を歩いていた。ハナミズキの赤紫の朽ち葉が三、四枚空中に翻り、私の胸にあたっては舗道の方へ散らばった。歩きながら眠りこけそうな、のどかな秋日和だった。こんな麗らかな日は会社を離れて秋の山の陽だまりで、落ち葉の褥(しとね)に寝そべり手枕をあて、高く澄みわたる秋の空を眺めていたいものだ。
先日の新聞には都会の人たちのなかで、林業に関心を持つ人たちが増えているという記事が出ていた。林業と言えばここ数年は廃(すた)れる一方で、国有林を統括する林野庁は、膨大な赤字をかかえているという。言うなれば身動きがとれない、国の厄介事業である。むかし、林業王と言われた山持ちのお大尽(だいじん)さえも、今では山の手入れができずに、山は無残な姿をさらけ出し、荒れ放題になっているという。こんな林業の衰退現象に歯止めがかかるとは到底思えないけれど、記事自体にはいくらか皮肉だけど、ほほえましさを感じた。いや、実際のところは都会生活に行き詰まり、背に腹はかえられない、切ない願望なのかもしれない。
この記事は熊本県のはずれの農山村にはぐくまれたわが血肉が、いまなおふるさとの山野への郷愁を捨てきれないでいる証しだった。それはまた、不況や解雇の恐れなどによって都会生活に疲れを帯びた人たちが、自然願望をつのらせて行き着くところ、林業という山の中の生活に桃源郷を求めた切ない心象の証しでもあった。
バブルの時期にあっては、耕作に向かないむさくるしい土地までもが地価の高騰を招いた。そのため、農地の宅地並み課税や相続税対策などで苦しむ都市近郊農家は、やむにやまれず休耕田を日曜農園や家族農園に開放した。借り受けた人たちの多くは、日ごろコンクリートジャングルに住み土や緑に飢えたり、あるいは懐郷の念ひとしおの人たちだった。加えて、野菜作りなどまったく初体験の人たちがそろって、にわかにミニ農夫・農家ブームを巻き起こした。借り受けた人たちは、子どもたちのままごと遊びのように土いじりに狂奔した。なかには、趣味と実益を兼ねるだけでは飽き足らず、いっぱしの篤農家まで上り詰める人たちもいた。それはそれで、日ごろ「消費者は王様だ!」などと煽(おだ)てられ、「米や野菜、そして魚は…どうしてこんなに高いの?」と、不満たらたらだった人たちに、農水産林業にたずさわる人たちの苦衷(くちゅう)を体験させたことでもあった。
確かに人は、生活の重みに疲れて心身の癒しを求めるときには、自然への回帰や自然賛歌を声高にする。しかし、私にはこんな記事に出合うと、うれしい半面「いい加減にして……」と、遣る瀬無い気分に陥るところがある。それはサラリーマンがにわか樵(きこり)になるほどに、都会生活に疲弊したのか? という、切ないわが同情でもある。一方、これがかりそめの憂さ晴らしへの逃避行であれば、実際に農水産林業にたずさわる人たちにたいしては、失礼きわまりないものでもある。
山の静けさ、木々を揺るがすそよ風、飛び交う小鳥たちを頭上に仰ぎ見る山の生活は、確かに憧れへ誘(いざな)う魅惑旺盛である。しかしながら山仕事が本業ともなると、もちろん美的風景と喜悦ばかりを堪能できるものではない。このことは林業が長年、後継者不足を露呈しているという、現実が如実に物語っている。
確かに、ひと仕事ののちに、山の中で食べるおにぎりや弁当の美味しさは格別である。だからと言って、有閑マダムの職探しさながらに、興味本位ににわか林業マンになりかわり、山の中に入られても困るのだ。これでは、暴走族みたいに山荒らしになるのが落ちだ。自然や山、かつまた生業(なりわい)の林業マンの真摯な仕事を蹴散らすだけ蹴散らして、挙句には「山はきれいではなかった……」などと、捨て台詞(せりふ)を吐いて都会へとんぼ返り、悠々自適の年金暮らしでもされたら、子どものころから山を愛してきた私には耐えがたいものがある。
薪割りや薪出し、柴刈りや柴拾いなどが毎日の仕事となったら、日曜農園のようにはいかないのだ。野菜作りには身近に収穫の喜びがある。しかしながら山の仕事は植えつけるだけで、自分の代で収穫や収入の喜びにありつけることなど滅多にない。多くは、長年ひたすら耐えるだけの根気のいる仕事である。
私はふるさとの長兄に連れられて、スギ林や雑木林の中で、薪割りも薪出しもした。竹山では重たい竹を肩にかついで、汗たらたらに竹出しもした。クヌギ林の中では、原木に椎茸の菌打ちも体験した。それらのときの私は、長兄の仕事ぶりをつぶさに見ては真似をした。それでも、山の仕事に喜びを見出すことはできなかった。挙句、私は「兄さんは、ええな。こんな山の仕事があって……」とは、つゆも思わなかった。生業の山の仕事は、秋の山の中で寝そべって木々を眺めたり、空を見上げたりするのとは違って、ちっとも楽しいものではない。おのずから林業は、この先廃れてゆくばかりである。林業へのロマンは、未体験ゆえのロマンである。
記録と記憶
九月六日(月曜日)、記事引用。【東京パラリンピックが閉幕 東京2020年大会が全て終了】(9/5・日曜日22:03配信 毎日新聞)。「東京パラリンピックは5日、閉幕した。新型コロナウイルスの影響で1年延期された東京大会は、オリンピック(7月23日~8月8日)、パラリンピック(8月24日~9月5日)ともに日程を終えた。パラリンピックには、162カ国・地域と難民選手団の約4400選手が参加した。東京での開催は57年ぶり2回目。13日間の日程で22競技、539種目を実施し、日本は51個(金13、銀15、銅23)のメダルを獲得した。」
私見:テレビ観戦。オリンピックおよびパラリンピック共に、総じて成功裏に終えたと思う。両者を比較すれば私は、オリンピックよりパラリンピックにたいし、はるかに大会の成功観と、自分自身の感動をたずさえている。
わがテレビ観戦の多くは、NHKテレビ一辺倒だった。オリンピックにかぎれば民放の視聴率稼ぎとも思える、勝利者だけを何度も称える風潮に食傷気味だった。言うなれば民放の場合は、感動押しつけの空騒ぎ、バカ騒ぎに思えるものだった。
パラリンピックのテレビ放送には、端(はな)から民放は少なく、いやほとんどなかった。オリンピックに比べれば視聴率を稼げないという、身勝手なおざなり観のせいであろう。反面、NHKテレビの競技中心の放送姿勢にありついて、そのぶん私は、静かな感動に浸ることができた。
やはり、国家的イベントは、NHKテレビだけでいいのではないだろうか。NHKだけでも、三チャンネルほどあったように思う。私は競技に合わせて、リモコンスイッチを回していた。そして、それで十分だったのである。私にとって、パラリンピックからさずかった感動はこの先長く続いて、もちろん一幕(ひとまく)ものではない。
呻吟
九月五日(日曜日)、昼間、つれづれに文章を書いている。長雨続きだった空に、ほのかに陽射しがそそぎ始めている。これに応じて、鬱陶しさにまみれていたわが気分は、いくらかほぐれ始めている。まさしく、太陽がもたらす、何物にもかえがたい天恵である。
ひ弱なわが精神力では、一旦継続が絶たれると、再始動を叶えることは、至難の業である。これまでの私は、こんな苦い体験を幾度となく、実証してきた。すると、継続の頓挫を防ぐために私は、文章の内容や質には意を介さず、惰性という武器をたずさえて、ひたすら駄文を連ねてきた。そして、いくらか功を奏して、「継続は力なり」を実感した。
ところがこのところの私は、惰性にさえそっぽを向かれて、継続がままならない。挙句には、「もはやこれまで」、と再始動を断念していた。実際には、再始動の苦しみから逃れることに心を安んじていた。このことでは確かに、心身の安寧を得ていた。
一方でこの安寧には、充足感が欠けていた。正直言って、安寧にはかなりのうしろめたい気分がともなっていた。それはたぶん、長年の継続をみすみすほうむりさる、遣る瀬無さであったろう。こんなことを心中にたずさえて、私は文章を書いている。すると、自分自身に哀れさを感じている、現在のわが心境である。
一年延期された「2020年、東京オリンピックおよびパラリンピック」は、きょうのパラリンピックの閉会式をしんがりにして、すべての競技とイベントを終える。東京オリンピックの開会式(七月二十四日)から空白を挟んで、きょうのパラリンピックの閉会式(九月五日)までは、やはり夏空の下の祭典だった。
祭典済んで、日本社会はあすから平常社会に戻ることとなる。ところが、日本社会の難題と喧騒は、いまだに新型コロナウイルスの脅威とその収束を残したままである。加えて、新たに政治にまつわる突風が吹き始めている。ほとほと、ままならない日本社会の世相である。おのずからわが憂鬱気分は、なお晴れないままである。
こんなことはどう気張ってもわが憂鬱気分は失せず、再始動はおぼつかないかもしれない。おのずから、明るい陽射しのなかにあっても、わが心中にはなお暗雲が垂れ込めている。しかし、無駄な抵抗と諦めてもおれない。私は、再始動のきざし探しにおおわらわである。
ウグイスは声仕舞いをして、セミはいのち尽きたのであろうか。鳴き声が途絶えている。私は、声無く呻吟している。寂しさつのる、日なかのたたずまいである。
産交バス
産交バス(九州産業交通)は、わが子どものころの憧れでした。今やふるさとと名を変えたわが生誕の地・内田村には、現在、産交バスの運行は途絶えています。村の過疎化とマイカーの登場という、ダブルパンチに見舞われて、利用客の減少に拍車がかかったせいと、言われています。確かに、民営の会社にすればやむにやまれぬ決断であったろうとは、十分に理解するところです。しかしながら一方、定期路線バスの廃止以降の村は、いっそう過疎化に加速がかかり、たちまち村の風景をも、寂しく変えています。
バスの廃止やマイカーの登場は、おのずからその後のわが家(ふるさと・生家)の送迎風景をも変えています。わが家のある集落は、隣と向かいの二軒を含めて、三軒ほどにすぎないけれど、「田中井手」という、集落名で呼ばれています。近隣の街中(山鹿市)とは一時間に一本ほど、はるかに遠い熊本市との間には、一日に一本の直通バスの時刻表がありました。その終点のバス停は、一時は「田中井手」でした。
わが高校生のおりの修学旅行の行き先は、華の都「東京」でした。ところが私は、この修学旅行には参加していません。なぜなら、私は修学旅行が実施される前に一度だけ、東京へ行っていました。東京に住んでいた次兄のところへ、遊楽の一人旅を敢行していたのです。このとき、遠い東京への旅支度と旅立ちの伴(とも)をしたのは、生家をあずかる長兄でした。長兄は、私をはるばると熊本駅まで連れて、東京行き夜行列車に乗り込ませました。そして、私の視界から長兄の姿が消えるまで、両手を振り続けていました。
私たちは一度、途中の山鹿市で下車し、乗り換えて熊本市(駅)まで向かいました。
田舎道をめぐる産交バスはいつも、小石や砂利、土塊(つちくれ)むき出しを走り、土埃(つちぼこり)を周辺にまき散らし、乗客の体をピンポン玉のように跳ね上げていました。この日の道程は、山あいの村から熊本市内へ行くだけでも、二時間ほどかかる、小旅行とも言えるものでした。熊本駅からの夜行列車は文字どおり夕方に発ち、明けて朝の十一時頃に東京駅のプラットホームに滑り込む、十九時間ほどの長旅でした。当時の私は、バスに乗るとすぐに小窓を開けていました。それでもすぐに、吐き気や胸のむかつきに見舞われました。そのため私は、常に用意周到を余儀なくし、おそるおそるバスに乗り込むようになっていました。そのせいで私は、憧れとは裏腹にバスへの乗車が恐怖となり、バスが嫌いになりおのずから、バス利用の遠足や遠出は避けていました。
この日もまた、バスに乗るやいなや、私はすぐに吐き気に見舞われました。かたわらの長兄もまたすぐにあたふたとして、それでもかいがしく手当てに翻弄してくれました。そのとき以来いつもこのことを振り返り、私はこのときの長兄の心中はいかばかりであっただろうかと、案じ続けてきました。今なお、心中には悔恨と申し訳なさの気持ちがいっぱいです。なお重ねればそれ以来、わが心中にはつらさと心苦しさが同居し、いまだにわだかまっています。
長兄と私は、十三の年齢違いです。長兄は先日(八月二十二日)、この世からあの世行きのアクセス(交通機関)に乗りました。行き先は、産交バスなら、「田中井手バス停」から見知らぬところです。私は新型コロナウイルスのせいで、見送りをフイ(不意)にしました。かなり残念だけれど、そのぶん長兄は、わが命あるかぎり心中に、生き続けてくれます。ただ、最期だけはきらびやかな葬送車ではなく、臨時雇いの産交のマイクロバスか、あるいは後継者(長男)が運転する、長兄の自家用車(軽トラック)に、乗せてあげたかったです。
わが傷心もまた、わが命あるかぎり癒えず、この先へ続きます。ふるさとではこの時分、村自慢の彼岸花が見ごろに咲き始めているはずです。今年にかぎれば、とことん恨めしい「ふるさと花」です。
ふるさと
私は農家に生まれて、よかった。水車の回る精米所に生まれて、よかった。大家族の一員になれて、ほんとうによかった。特に、善い父、好い母、良い兄姉に恵まれて、よかった。美しいふるさとを持てたことは、ほんとうによかった。
東に大分県と宮崎県、北に福岡県と佐賀県、西に長崎県、南に鹿児島県、なお南に沖縄県とその諸島にあって熊本県は、別名中九州と呼称されている。熊本県にあってわが生誕地は、福岡県と大分県と県境を分け合う、県北部地域に位置している。おのずからわが生誕地は、山あいの盆地をなしている。生誕時の行政名は、熊本県鹿本郡内田村であった。そののち、二度ほど近隣市町村との合併を余儀なくし、現在は熊本県山鹿市菊鹿町の行政名をあずかっている。しかしながら生誕地の様相は、昔とちっとも変わらず、今なお鄙びたたずまいにある。
いや、昔と大きく変わっているところがある。すなわちそれは、日本社会の世相をきびしく映し、年々過疎化きわめて少子高齢化現象の渦中にある。隣接するところでは、米どころ・菊池平野と夢大地・鹿本平野との地続きにある。生誕地にかぎれば、今なお田園・山村風景の真っただ中にある。岩肌を縫って湧出する源泉は、川上から川下に至りしだいに水量を増して川幅を広げ、「内田川」と名づけられて、ひと筋河口へ流れている。途中、名流「菊池川」に吸い込まれて川の名を失くし、有明海へ潜り込んで行く。この間、「井尻川」など数多くの村内の支流を合わせ込んだ内田川は、普段は早瀬、せせらぎ、澱みをごちゃ混ぜにして、のどかに流れている。もちろん、集中豪雨や大水の時には暴れ川になる。けれど、わが記憶ではこれまで、村中に大きな被害をもたらしてはいない。このことでは、村人にとっては優しい川である。
わが小学校時代にあって、内田村立内田小学校にはプールはなく、そのため内田川は天然プールの役割を担っていた。わが家の生業(なりわい)をなす精米所は、内田川から水路を引いて水車を回していた。内田川と並走する一本の県道は、共に村の風景の主役なして、かつ主要な生活基盤をなしている。村人の生業は、山野および田畑中心のほぼ自給自足で営まれている。村中には一基の交通信号機さえない。行き交う人たちはみな気心が知れて、会釈なく通り過ぎる者はだれもいない。地区ごとに寄り集まって登下校をする学童たちは、おとなに会うとみなけなげに、大きな声であいさつをする。
村中には四つの天然温泉がある。ド派手な誘致ポスターなど無くとも、村内や近郊近在から、農作業の疲れや心身の癒しにやってくる。ときには、ドサまわりの芝居が大広間に掛かり、昔ながらの母モノや人情劇を観覧できる。勝手知った村人たちは、いくらか色がくすんだ厚手の湯飲み茶碗に、何度も湯を足して出がらしの番茶をそそいでは、それぞれが思い思いの弁当を広げている。膝を横崩しにして座り、長テーブルに頬杖を突いては、連れの仲間たちと談笑に耽っている。多くは、嫁のこと、孫のこと、通院のこと、はたまたすでに野辺の送りをして久しい連れ合いのことなどを偲んでは、まなうらに涙を溜めている。しゃべり過ぎた人や、話の種が尽きた人は、畳の上で寝そべっている。
思いようではわが生誕・内田村は、確かな「悠久の里」である。もちろん今や、ありきたりに「ふるさと」と、名を変えている。だからふるさとは、わが心の中で常にもっとも輝いていなければならない。もちろん、色褪せるはずはない。いやいや、郷愁という心模様を映して、いっそうつのるばかりである。そのぶん、ときにはただただかなしい……。
私家本『ひと想う』より、『コンニャク』
年の瀬(平成十二年)に、コンニャクが送られてきた。宅急便の人が、「印鑑、おねがいします」と、差し出された伝票には、ふるさと(熊本県山鹿市菊鹿町)の義姉の名まえが記されていた。「コンニャクを送ったからね!」。前もって、こんなメッセージがフクミ義姉から知らされていなかったので、妻と私はびっくり仰天した。そのぶん、二人はうれしさにつつまれた。「しいちゃんを、驚かしてみよう!」という、義姉の粋な魂胆であったとしたら、まさしく大当たりの演出だった。
「正月をふるさとの味で迎えなさい!」、という義姉の心が詰まったふるさと便は、とても重かった。段ボール箱を開けると、透けたビニール袋の中に入った「コンニャク」が、キラキラまぶしく見えた。丸形でわずかに茶みを帯びた、文字どおり灰色のコンニャクは、わが心の中で義姉と亡き母の面影を、すばやくよみがえらせた。箱の隙間をうめるパッキン代わりには、干しタケノコが間隙なく詰められていた。どこかしこに、義姉の心遣いが詰まっていた。それは、生前の母の荷造りのまったくの見真似だった。できるだけ母のしぐさを真似て、送ってあげたいという、優しさむき出しの義姉の心くばりに違いなかった。
義姉は、私の好物を知り尽くしていて、寸分たがわず生前の母の代役をしてくれたのである。わが心境は、いつものふるさと便を受け取る気持ちとは、異なるものだった。私は厳かな気持ちで、義姉荷造りのふるさと便を丁寧に開けた。
ふるさとで、母から義姉へ受け継がれてきた手作りのコンニャクは、これまた母の手作りと寸分たがわず丸形だった。ビニール袋から取り出し素手で持つと、コンニャク特有のぬめりが手の平に快くなじんだ。同時に、懐かしい石灰臭が鼻先を覆った。これらこそ、子どものころからわが身体に馴染んでいた、わが家のコンニャクの風合いだったのである。
関東地方(現在は神奈川県鎌倉市)で生活するようになって、店頭で初めて長方形のコンニャクを見たときの私は、コンニャクの形にかぎりなく違和感をおぼえた。具体的には長方形で平型のコンニャクは、郷愁はおろか母と義姉の姿を遠ざけていたのである。
1951年(昭和26年)、私が小学校5年生(11歳)のおり、義姉は長兄のお嫁さんとして、わが家に迎えられた。そのときの母の年齢は、48歳だった。義姉は、村内(当時は内田村と言った)の縁戚の人だった。長兄からすればおお嫁さんは、従妹違いにあたる人であり、そのため互いの家には、不断から行き来の多い付き合いがあった。縁戚の娘さん(義姉)は、長兄との結婚を境にして、はからずも嫁と姑の間柄へ様変わりしたのである。
私は、高校3年生(18歳)までをふるさと(生家)で過ごし、1959年(昭和34年)2月、大学受験のため上京した。このときこそ、親元と生家からのわが巣立ちだった。大学を卒業すると私は、東京の会社に就職し、27歳で華燭の典に恵まれた。公団の新婚者向け社宅には、埼玉県朝霞市にあったアパートの一室をあてがわれた。ところがこののち、妻の喘息症状を治すため、私は妻の実家(神奈川県逗子市)に近い現在地へ移り、そのまま終の棲家を構えている。
巣立つと同時に、生誕地内田村と生家は、他人行儀に「ふるさと」という、名に変えた。こののちの帰省は、文字どおり「ふるさと帰行」と、なりかわった。ふるさと帰行のおりに、必ず食卓に上がるものの一つは、母あるいは義姉と協働の手作りのコンニャクだった。手作りのコンニャク作りには、私も加勢した。きれいに泥を落としたコンニャク玉を納屋から運び出すと、母は一つひとつを撫でるように出刃包丁で皮を剥いた。でこぼこで武骨な皮を剥いて現れた真っ白い肌身のコンニャク玉は、大きな鍋で茹でられた。茹で上がると冷やし、適当に切断され石臼に移されて、山椒の硬い棍棒で潰された。母はそれに水を加えて攪拌し、灰汁を加えて練りまわした。こののちは、それをしゃもじですくって手の平に置き、にぎりめしをむすぶしぐさで、両の手の平の中で練りながら、一つずつ丸形のコンニャクに仕上げた。このあとは、再び大きな鍋で煮た。まさしくレシピ、おふくろの味やふるさとの味になり変わる、母手作りコンニャクの作業工程であった。これらの技法は、そっくりそのままに義姉に伝授されていた。
小太りの母は、乱れ髪をこざっぱりに結んで、首筋には汗取りようの手拭いを垂らしていた。上半身には薄手の肌着一枚を纏い、下半身には色の褪せかかった普段着のモンペをはいていた。腰回りには前掛けを結んでいた。極端に汗っかきの母は、手拭いと前掛けで、タラタラと垂れる汗を拭いていた。後継の義姉の動作も、ほぼ母同様だった。義姉のコンニャクづくりの姿は、今でも在りし日の母の姿同然であろう。
「生で、食べてみるよ」
「パパ、まだ生でだいじょうぶなの?」
「だいじょうぶだよ!」
私は、コンニャクの入った重たいビニール袋をひとかかえにして台所へ運んだ。義姉の優しさがわが身に沁み込んだ。
私家本より、『雑煮の具』
食べものには、それぞれに旬というものがある。同じ食べものであっても、食べる時季や時期によって、おのずと味覚や風味が異なってくる。
雑煮は、元日の朝に食べる雑煮の味が旬である。夏の盛りにあって雑煮はもちろんのこと、私は餅そのものを敬遠したくなる。ずばり食べもの美味しさは、食べどきの季節や雰囲気、はたまた五感の微妙な調子に左右されるところがある。
正月用の雑煮の準備が始まる年の暮れになると、私には切なく思い出されてくる「できごと」がある。それは、元日の雑煮の具をめぐるものだった。父と母はすでに亡くなり、私は六十歳になった。最近のできごとのように思えていたけれど、遠い昔へさかのぼるできごとなっている。
生前の父は不断、無塩(生魚)や馬肉を好んで買い求めて、よく得意げにぶら下げて帰ってきた。もちろん、家族に食べさせたい、という親心ではあった。だけど反面、父自身が食べたい食べものであり、自分の嗜好に逆らえない証しでもあった。父は馴染みで行きつけの精肉と魚介類のお店へ寄り道しては、魚の藁苞をぶらぶらと提げて帰ってきた。わが目で見る父の性格はおおようで、細かい神経など持ち合わせていないように思えていた。実際にも父の買い物ぶりには、値段にこだわらない殿様ふうの買物風景があった。挙句、いつもの父の買い物ぶりに私は、家計事情の翳りを見ることはなかった。確かに、不断の父からは、お金めぐりの事情までに気をめぐらす様子は、私にはうかがえなかった。それでも私は、イワシやサバそして太刀魚、赤身鯨(刺身)、あるいは馬肉が食卓に上る不思議さは感じていた。三段百姓を兼ねて水車を回しての精米所のなりわいと、さらには大家族(父は十四人の子沢山だった)の家計事情は苦しいはずだった。しかし、好物をぶら提げて帰る父にたいして母は、不満の表情を見せたり、ぶつぶつと嘆きの声を言うことなどなく、父の買い物に応じて家族の好みに仕上げていた。
魚ほど頻繁ではなかったけれど父は、赤身鯨や馬肉もよく買ってきた。馬肉の固い塊を食べるときの家族は一様に、牛の二度噛みを真似ていた。馬肉の筋部は、口内に長く噛んでも噛み切れなかった。そのため挙句には、一度口内から出しては再度口内へ入れ戻し、執拗に噛み続けた。それでもみんなが、われ先に馬肉にむしゃぶりついた。
ある年の暮れにあって父は、
「正月(元日)の雑煮の具は『スルメ』で、いいね!」
と、断定的に母に訊いていた。
日頃の私は、父の雑駁な買い物ぶりを見ていた。だから、この言葉を耳にしたときの私は驚き、父の言葉の真意をはかりかねていた。ところが実際にも元日の雑煮の具は、スルメになっていた。
確かに、不断の父はスルメにも目がなかった。スルメの束を誇らしげに、ぶら提げて帰ってきた。私も、スルメは大好物だった。だけど、この言葉を聞いたとたん私は、声無く心中で(えっ、なんで! スルメ……)と、思った。母も、一瞬驚いたようだった。
「雑煮の具をスルメで? 合うかどうか……」
いつもの母に似ず、いぶかった。
当時、スルメと馬肉では価格で、馬肉がはるかに高かった。値段どおりに雑煮の具には、家族はスルメより馬肉のほうがはるかに旨いのを知り尽くしていた。父にしても、元日の雑煮の具が、スルメより馬肉が旨いのは知り過ぎていた。だからあのとき、父が母への「元日の雑煮の具は、スルメでいいね!」という、問いかけにはどんな事情がったのであろう? 家父長であるかぎり、やはり家計事情であったのであろうか。そうであれば、「父ちゃん、スルメ、旨いかもね?」と、助け舟の相槌を打てばよかったのかもしれない。今なお、悔恨の残る昔日のワンシーンである。それとも、父の嗜好に変化があらわれ始めて、馬肉よりいっそうスルメを好み出していたのであろうか。いや、その年にかぎり家計事情が苦しくなり、止むにやまれず元日早々に、ふだんのんきな父さんも、みずから好物の切りつめを意図したのであろうか。私には今なお謎に包まれたままである。
スルメの具入りの雑煮は、けっこう旨かった。しかしながら、食べ慣れていた馬肉の具の雑煮の旨さには、到底かなわなかった。それでも私は、「父ちゃん、旨いよ!」と言って、餅と具を腹いっぱい食べた。自分と家族の食欲を満たすためには、いつもの父は家計経済には無頓着を装い好好爺然だったのに、あのときの父は切羽詰まっていたのであろうか。雑煮の具をめぐる小さなできごとだけれど、私の心の中に今なお解けないしこりとなっている。
私も父の在りし日の年齢に至り、家計の苦しみを味わい始めている。切ない、父、追憶の一コマである。
「八月盆」
八月十三日(金曜日)、雨の夜明けにあって「八月盆」の迎え日が訪れている。お盆の期間は四日であり、最終日は送り日となる。古来、お盆は正月と並んで、日本社会における二大の大事な習わしである。しかしながら、この習わしの響きには雲泥の差がある。言うなれば正月は和みの儀式であり、一方のお盆は哀しみと慰みの儀式である。唯一、似ているところは親しき者たち(身内、家族)の集い合いである。おのずからどちらにも、日本民族大移動の光景がさらけ出されることとなる。もとより、この光景は歓迎こそされ、人様から非難されるものではない。
ところが、今年(令和三年)のお盆にあってこの光景には、非難をこうむり後ろめたさがつきまとっている。すなわち今年は、ふるさと帰りでお墓参りなどのせっかくの善意も、ままならない状態にある。かえすがえす残念無念である。通せんぼしているのは、新型コロナウイルスである。日本民族こぞって、打ちのめしたいところだけれど、叶わないきわめて難物である。
わがふるさとでは死後に初めて迎えるお盆は、文字どおり「初盆」と言う、習わしだった。ところがこの呼び名は、所変われば「新盆」、あるいは「新盆(にいぼん)」と呼ぶようである。はたまた地方や地域によっては、これらのほかの呼称があるのかもしれない。大沢さまの表記には「新盆」と、拝見した。しかし、音読はどちらか知るよしない。ご主人様の「新盆」に際して、あらためて「謹んでご冥福をお祈りいたします」。確かにお盆は、正月とはまったく異なる、哀しさだけがつのる年中行事である。
「東京オリンピック」、男子マラソンスタート
台風接近のため雨戸を閉じて就寝し、起き出してきてパソコンを起ち上げている。だから、外の様子はいっこうにわからずじまいである。起き立ての私は、両耳に集音機を嵌めている。このため難聴の耳は、音を拾っている。雨戸を強く叩くほどではないけれど、絶えずザーザーと雨音を立てている。予報に違わず台風の影響を受けて、雨の夜明けのようである。
現在、デジタル時刻は、8月8日(日曜日)6:49と刻まれている。そのためわが気持ちは、焦りと逸る気持ち旺盛である。「東京オリンピック」もきょうは、競技の最終日である。東京オリンピックにかぎらずほぼオリンピックの掉尾の一振を飾る「男子マラソン」は、きょうの午前七時スタートである。おそらくこの時間にあってテレビは、その様子を放映始めているはずである。このため私は、そのテレビ観戦のためここで文章を閉じて、階下の茶の間のテレビの前へ移動を決め込むこととなる。
男子マラコンはもとより、暑さを避けて北海道・札幌市で行われる。幸いなるかな札幌市は台風の影響を受けずに、雨のないマラソン日和であろう。しかし、気温はいくらか懸念するところである。日本選手は、大迫選手、中村選手、服部選手、の三人である。大健闘を願ってやまない。さあー、移動!
平和! それはみんなの願い。
一分間の黙祷を終えて、松井広島市長の「平和宣言」を聞き、子どもたちの「わたしたちの使命」の言葉を聞いて、私はまなうらに涙をいっぱい溜めて、開きぱなっしのパソコンへ戻ってきました。そして、読み後れていた古閑さんのメッセージや、大沢さまの追い打ちのコメントを読み尽くし、ありがたく放念しています。現在のわが心中には、生々しく平和のありがたさが込みあふれています。お二人様には、「ありがとうございます」、とお礼と感謝を申し上げます。
確かに人生は、「生きていてこそ、楽園」です。だから、被爆死や被爆者の悔しさがふつふつとよみがえっています。今朝の広島の空は、「まっさらの青い空」、と式典の女性アナウンサーが告げていました。なおさら、「かなしい」です。私は、いっとき「愚痴離れ」を決め込んでいます。
前田さんへ 投稿者:古 閑 投稿日:2021年 8月 5日(木)23時04分34秒
毎日ひぐらしの記を書く、というのは大変なことですね。
今までよく書いてこられたと思います。すばらしいですよ。どうぞこれからも思いつめずにに書いて下さい。休んでもいいじゃないですか。もう我々は、若いほうではないですから。世間のことは 気にしてもどうにもならない。コロナのぶり返し、医療崩壊等。ただ ひぐらしの記にこういうことがあった、と記しておくのは良いですね。
私は、これらはすべてケ・セラ・セラです。一老人が心配してもどうにもならない。
現在は、オリンピックの日本選手のめざましい活躍を楽しんでいます。たぶん前田さんも同じだと思いますが。
前田さん健康には十分注意して下さい。そして奥様をどうぞ大事にして下さい。
気分を悪くするようなことを書いたところがあったらどうぞご容赦下さい。
古閑さん、前田さんへの励ましの投稿感謝します。投稿者:大沢 投稿日:2021年 8月 6日(金)07時49分39秒
古閑さんの投稿に接して、こんな世の中に声かけってすごく大事だと改めて思いました。そしてささやかではありますが、この掲示板の存在も一役買っていると思い、嬉しくなりました。
自分の声を発する場所があることは、今の閉塞感が充満している社会にあって、心強いと古閑さんの投稿で、改めて気付かされました。
古閑さん、本当にありがとうございました。