ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置
異国少年、横綱「白鵬」引退、引用文
62キロの少年がつかんだ「運」と「夢」 孤独と闘い 白鵬引退』(9/27・月曜日、19:48配信 毎日新聞)。歴代最多45回の幕内優勝を誇る大相撲の横綱・白鵬(36)=宮城野部屋=が現役を退く決意を固めた。2001年春場所での初土俵から20年。横綱を14年以上務めた第一人者は自らの強さを「よりどころ」に、常に孤高の存在であり続けてきた。「(体重)62キロの小さな少年がここまで来られるとは、誰も想像しなかったと思う」。白鵬は自らの相撲人生を振り返る時、いつもそう口にしてきた。白鵬は15歳だった00年秋にモンゴルから来日。父ムンフバトさん(故人)はモンゴル相撲の元横綱で、レスリングで同国初の五輪メダリストになった国民的英雄だったが、白鵬は体の小ささから入門先がなかなか見つからず、帰国寸前のところで現在の師匠である宮城野親方(元前頭・竹葉山)に引き取られた。「無理やり牛乳を5リットル飲ませたり、ご飯をどんぶり3杯食べさせたり……。新弟子の頃はさぞ苦しかったと思う」。宮城野親方は当時を振り返る。それでも相撲の素質や期待から、名付けたしこ名は「白鵬」。昭和に一時代を築いた大鵬、柏戸の両横綱にあやかったものだった。かつて兄弟子だった同郷モンゴルの元幕内の龍皇(38)が「まるで殴り合いだった」と語った激しい稽古に耐え、幕下時代には巡業中に積極的に関取衆の胸を借りることで番付は急上昇。18歳だった04年初場所で新十両に上がると、わずか2場所で新入幕。07年夏場所で2場所連続優勝を果たすと、22歳の若さで横綱に昇進した。モンゴルの先輩横綱・朝青龍が暴行事件を起こし、10年初場所後に急きょ引退して以降、12年秋場所後に日馬富士が横綱昇進を果たすまでの計15場所は「一人横綱」として角界を支えた。常に勝利を求められ、孤独と隣り合わせの中、「昭和の大横綱」大鵬の納谷幸喜さんが持つ32回の最多優勝記録を抜くことがモチベーションになった。晩年、体調がすぐれなかった納谷さんを見舞うたび、白鵬は声をかけられた。「四股や鉄砲など基本の稽古を続けなさい。稽古をしっかりやって(優勝記録を)抜かれるなら、俺はそれでいい」。13年1月の納谷さんの死去後は献血運搬車の寄贈事業を引き継ぎ、15年初場所に33回目の優勝を果たすと、「大鵬さんに恩返しができた」と喜んだ。白鵬が相撲人生を振り返った言葉がある。「10代では朝青龍関、(元大関の)魁皇関、栃東関ら先輩の壁にぶつかり、一人横綱の時代が来て、(後輩横綱が誕生し)新たな時代を生きている。私は三つの時代で、相撲を取っているんですね」特に同年代だった日馬富士の存在は大きく、互いが横綱になっても稽古先で顔を合わせると激しい申し合いを行った。そんな日馬富士や鶴竜ら同郷の横綱のみならず、好敵手だった稀勢の里までもが先に引退。「周りは『もういいだろう』と思っているかもしれないが、そうはいかない」。またも訪れた孤独な戦いの中で、若手の「壁」であり続けることにやりがいを見いだした。近年はかち上げや張り手といった荒々しい取り口に加え、公然と審判への不満を口にしたり、優勝後のインタビューで観客に万歳三唱を促したりと、横綱の「品格」が問われた。日本相撲協会横綱審議委員会(横審)の矢野弘典委員長は27日、「横綱在位中の実績は歴史に残るものがあった」と評価した一方で、「粗暴な取り口、審判に対する態度など目に余ることが多かった」と振り返った。文字通り、未到の境地に挑み、戦い続けた土俵人生だった。ファンからサインを求められると白鵬は、色紙に納谷さんが好んだ「夢」とともに「運」の文字を添えた。「運は『軍』が走ると書く。つまり、戦わなければ運は来ないんです」。「約20年の力士生活における主な戦績。優勝回数45回、63連勝、横綱在位84場所、横綱899勝、通算1187勝、幕内1093勝」。
交情
わが掲げてきた生涯学習は、友人・知人さらには声無き声の人様の激励と厚情に支えられて、身に余るたくさんの実を結びました。ひたすら、御礼を申し上げるしだいです。彼岸が過ぎて寒さに向かうにあたり、「もう止めてもいいかな?……」と、思念をめぐらして起き出してきました。枕元では目覚めて、わが愛読書の分厚い国語辞典をひもといていました。命あるかぎりほそぼそと、この動作だけは欠かせません。なぜなら、わが夢づくりの原点を成してくれたありがたい教科書だからです。
一方ではかぎりなくたまわっている交情を断つ勇気はなく、心中では今なお決断がさ迷っています。九月二十七日(月曜日)、この先に訪れる寒気と秋の夜長は、とことん恨めしいかぎりです。
デジタル時刻、5:14。文章を閉めて、冷えた寝床へとんぼ返りをいたします。再び、国語辞典をぺらぺらとめくれば、すぐに二度寝にありつけます。
秋賛歌
きょう(九月二十六日・日曜日)は、この秋の彼岸の明け日である。自然界は人間界に比べると、文字どおり自然体というか、素直というか、いや嘘を吐かない。昨晩あたりから明らかに、肌身に寒気をおぼえていた。目覚めて起き出して洗面のために蛇口をひねると、顔面を濡らす水もまた、(おっ)と顔を背けるほどに冷たく感じた。なんだか、遠のく暑気が恋しくなった。
寒気の訪れにあって厭なことの一つには、軽装から重たい着衣への衣替えがある。顧みれば勤務していたおりの、女子社員の冬服への衣替えは十月一日だった。確かに、夏服や冬服への衣替えは、季節替わりの明らかな証しだった。代り映えのしない勤務にあっては、いっとき目の保養にもなり、職場に和みを醸していた。それは今のわが身には二度とはありつけない、懐かしい光景でもある。
天変地異さえなければ自然界は、人間界にたえず素敵な光景や恩恵をもたらしてめぐる。彼岸明けのころは、まさしく自然界謳歌と賛歌の真っただ中にある。わが庭中から道路へ向かって立つ、今にも「枯れ時」を迎えそうな一本の柿の木には、わずかに六個の柿の実が生っている。気張って千切るほどでもなく、日に日に熟れゆく光景に、私は目の保養を兼ねてその風情(ふぜい)を玩(もてあそ)んでいる。まもなく熟れすぎて枝から離されて、直下の道路へ「ベチャ」と、音を立てて落ちることとなる。すると私は、宅配便、郵便配達のバイク、動き回る介護の車、あるいは救急車などに踏んづけられる前に、拾ってあげなければならないと、意を留めている。なぜなら柿の実は、私にさずかる秋の味覚の筆頭に加えて、郷愁に浸ることでもまた、他を寄せつけない位置にある。そうであればやはり、きょうあたり落ちる前に千切り、感謝の思いを込めて、わが口内へ入れてやるべきであろう。ただ無念なのはわが家には、柿の実へとどく竹竿がない。タイワンリスはひどい奴で、捕っては口に加えて山中へ逃げ隠れすればいいものを、その場で旨いところだけガツガツ食って、やがては食い飽きて汚らしく道路上に食い散らす。すなわちタイワンリスは、走る回る車輪をはるかに超えて悪態をさらけ出す。人間の命と食べ物を競い合う、野生動物の本能とはいえ、私にはそのつどほとほと憎たらしい光景である。
先日の買い物にあって私は、無意識のごとくに、栗、林檎、蜜柑を所定の籠に入れた。柿にも目を留めたけれど、庭中の柿の実が浮かんで、この日は買わずじまいだった。実りの秋は、新米を加えて満開である。秋が深まれば野山は、絵になる熟れた柿の生る風景が郷愁をつのらせて、とことんわが気分を癒してくれる。寒気の深まりを恐れて、いっきの秋賛歌である。だからと言って、「小さい秋」とは言えない。寒さの深まりまでは、わが身にうれしい「大きな秋」である。
わが余生にまつわる「雑感」
新型コロナウイルスの出現以来世の中は、その収束や終息へ向けて時間軸を基にして動いてきた。この間には東京オリンピックやパラリンピックなどをはじめ、大小さまざまなイベントが予定されていた。ところが、予定されていたイベントの多くはやむなく中止になったり、あるいは変質を余儀なくされてきた。
特筆すべきことではこの間には、各自治体に対応して「緊急事態宣言」の発出が繰り返されてきた。もちろん、緊急事態宣言には期限が設けられていた。そのせいで日常生活の時間軸は、おのずからその帰趨(きすう)にとらわれて進んできた。私の場合はいつもにも増して、時の流れの中に埋没した日常生活に甘んじてきた。同時にそれは、いやおうない時の流れの速さ(感)の体験でもあった。幸いなるかなこのところは、全国的に新型コロナウイルスの感染者数は漸減傾向にある。しかしながら今なお、明らかに収束や終息に目途がついているわけではない。いや多くの専門家たちは、第六波へのぶり返しを危ぶんでいる。そうなると残り少ないわが余生は、これまでと同じように新型コロナウイルスにかかわる時間軸に翻弄(ほんろう)され続けるであろう。おのずからわが日常生活には、安寧は得られそうにない。このことは、現在の私が最も恐れ怯(おび)えていることである。至極、残念無念である。だからと言ってどうすることもできず、私は「俎板(まないた)の鯉」や「轍(わだち)の鮒(ふな)」の心境にある。
このころは、三回目のワクチン接種の日程さえ取り沙汰されはじめている。こうなるとわが日常生活はおのずからこの先も、新型コロナウイルスの時間軸の埒外(らちがい)に置くことはできそうにない。おのずと、私には時の流れの速さ(感)がついてまわることとなる。新型コロナウイルスが終息しないかぎり、わが余生には風雲急を告げることとなる。実際には残りの時(余生)とわが命は安楽を得られず、新型コロナウイルスの時間軸に蝕(むしば)まれてゆくこととなる。
いくらか、いやかなり早いけれど、きょうの文章は、第一弾の秋の夜長の迷想である。九月二十五日(土曜日)、パソコンのデジタル時刻は現在、5:09と刻まれている。わが余生は、時々刻々に残りの時を減らし続けている。この「時」にずっと、新型コロナウイルスの時間軸がまとわりついたら、私は死んでも死にきれない。もちろん、「死にきれないならそれもいい」とは言えない。ひたすら、私は新型コロナウイルスに翻弄されない、安寧な日常生活と余生を欲しがっている。
秋晴れ高く秋風さわやか、わが身悄然
眠気はあるのに脳髄に迷想がこびりついて、目が冴えて二度寝ができない。仕方なく起き出して来た。私は日を替えたばかりの真夜中に居る。きのうの「秋分の日」(九月二十三日・木曜日)にあっては、真夏と紛(まが)う陽射しがふりそそいだ。私は咄嗟にはやりことばを捩(もじ)り、「シルバーサマー」(準夏)という、出来立てほやほやの自己流造語を浮かべた。夏草取りを怠けていたせいで、庭中は雑草茫々である。見苦しさに耐えかねて、草取りを敢行した。いや、大袈裟に敢行と言うほどではない。いっとき、少しばかり雑草を抜いた。しかし、汗の噴き出しに負けて、すぐにやめた。
庭中に立つ一本の柚(ゆず)の木は、あまりにもたわわに実を着けすぎて、突然ほぼ水平に倒れた。悔しさはあるものの非難することなどできない。いやいや、健気(けなげ)な自己犠牲であるから余計、愛惜(あいせき)きわまりない。しかし、衰えたわが腕力では、まったく起こしてやることはできない。ふだん、私をはるかに凌いで柚の木、いやユズの実を恋い慕うのに、妻は力を貸すことなく、無下にこう言い放った。
「パパ。パパじゃできないわよ。森さん(住宅地内の顔見知りの造園業者)へ頼みましょうよ」
私は要請を突っぱねた。
「もう、枯れてもいいよ。我々も、もう長くは付き合えないんだから、柚の木も潮時だよ」
ユズの実はまだ青みだ。この秋に黄色を成して、もう一遍わが家と隣近所のユズ風呂に貢献してくれたら切り刻んで、私は涙を流しておさらばするつもりでいる。
柚の木の横倒れに遭って、物置への通路が塞がれた。このためきのうの私は、狭苦しい仮の通路を設けた。草取りはそこだけで終えた。このあとには缶笊(かんざる)を台所から持ち出して、零余子(ムカゴ)取りをした。腰を傷めて茶の間のソファに横たわる妻は、仕方なく日ごろからわが動作には無頓着である。
ムカゴを着ける山芋の蔓は、キンカンの木にまとわりついている。いや、意図してまとわりつけさせているのである。大袈裟に言えば秋の味覚と収穫を望んで、キンカンの木にだけに巻き付けて蔓を育てているのである。その証しにキンカンの木の根元には年に一・二度、物置から買い置きの鶏糞を柄杓で掬って、気ままにふりかけている。
ムカゴ取りは容易(たやす)いようで案外、手こずるところがある。指先からこぼれて、缶笊にカンカンと音をたてたり、いや多くはあっちこっち、雑草の中へ散らばっている。すると、腰痛持ちで中腰ができない私は、これまた物置から100円ショップで買い求めたプラ製の腰掛を持ち出して来ては、仕方なく座ることとなる。
雑草に隠れて散らばっているムカゴを一つひとつ拾い上げるにはかなりの時間がかる。腰掛に座ると、天高い秋晴れの下、時ならぬ暑さをいましめてくれるかのようにさわやかな秋風が吹いた。確かに、快い秋風である。一方で私は、風に秋愁(しゅうしゅう)をおぼえた。私は去年の秋分の日にはいて、今年はいない人に心を留めた。やおら、指折り数えた。片手指では収まらない。両手を広げて、指折り始めた。両手の指でも、まったく数えきれない。ムカゴや木通(アケビ)の蔓探しに競い合った近所の人。ふるさとの友だち。大学時代の飛びっきりの親友。勤務していた会社では数え上げるに暇(いとま)なし。卓球クラブでは複数人が浮かぶ。ごく身近なところではふるさとの長兄。いつも気懸りだった人では大沢さまのご主人様。暑い肌を潤す秋風が身に沁みた。
缶笊を持って茶の間に入ると、開口一番、妻はこう言った。
「パパ。ムカゴ、そんなにいっぱい取れたの? ムカゴ、どこにあったの? 今晩、ムカゴ御飯にするわよ。わたし、ムカゴ御飯、とても好きなのよ」
「そうだね、おれも好きだよ」
妻には、秋愁などないのか。妻のことばは余計、わが身に沁みた。私はメガネと両耳の集音機を外した。汗まみれの涙を手元の手ぬぐいで拭いた。庭中へのひとり出向きには、マスクは用無しだった。快い秋風はさわやかさを凌いで、わが身を悄然(しょうぜん)とさせていた。
「秋分の日」
私の場合、「寄る年波」ということばはもはや死語であり、使えば不謹慎きわまりなく馬鹿呼ばわりされるのが落ちだ。なぜなら私には、加齢という波はとっくに着岸している。知り過ぎていることばながら、あえて辞書調べを試みた。「寄る年波とは、じわじわと寄ってくる加齢。年を取ること。年波は年が寄るを波にかけた表現とされる」。
きのう(九月二十二日・水曜日)の私は、まったく久しぶりに卓球クラブの練習へ出かけた。上手下手など、どうでもいい。なぜなら、今や「上手下手の判定」などこれまた死後に近く、たとえ「下手の判定」を食らっても、もはやジタバタすることや不平不満など微塵(みじん)もない。自分が下手なことなど普段の練習で、十分に納得いや確信していることだからである。
ところが、きのう感じた足の衰えだけは、想定外すなわちわが想定をはるかに超えるものだった。私にはこれまで、正規の「体力テスト」の体験は一度もない。ところが、きのうのわが足の衰えぐあいを体力テストに擬(なぞら)えれば、自己判定で下駄をはかせたとしても、贔屓(ひいき)のしようのないほどの赤点だった。このことが誘因でたぶん、今やまったく場違いの寄る年波ということばが、未練がましく浮かんだのであろうか。
きょうは季節を分ける「秋分の日」(九月二十三日・木曜日)である。言わずもがなだけれど、「春分の日」(三月二十三日ころ)と対比される季節の分かれ目である。秋分の日が過ぎれば、日に日にわが嫌う寒気が忍び寄る。いや、大手を振って近づいて来る。このことでは春分の日に比べて秋分の日は、私には必ずしも歓迎できるものではない。ところが、たった一日で比べれば私には、断然秋分の日に軍配を上げるものがある。その理由はほぼ例年、秋分の日の恵みはわが身に途轍もなくさわやかだからである。
例年にたがわず、きょうの秋分の日もまた、雨なく、風なく、そこはかとなく明かりが空を染め始めている、穏やかな夜明けである。こんなにも穏やかな夜明けにあってなぜ? 私には、今やとっくに置いてきぼりになっている、寄る年波ということばが浮かんだのであろうか。わが身には寄る年波というより、それよりはるかにつらい「焼が回って」いるのかもしれない。そうであれば私は、たった一日の秋分の日だけでも、のどかに暮らしたいものだ。切ない単願、いやいや喉(のど)から手が出そうな嘆願である。
ちょっとだけ、心満たされた出会い
きのう(九月二十一日・火曜日)は「中秋の名月」。わが人生は疾(と)うに黄昏時(たそがれどき)を過ぎて、やがては尽きる真っ暗闇の中にある。望んでももはや、社会貢献は一切なし。人様との会話もほぼなし。日常的に会話にありついているのは、相対する妻だけである。ところが妻との会話は、胸の透く会話にはなり得ない。互いに生きることに愚痴をこぼしては俯(うつむ)いて、むなしく声が途切れるからである。私はそばにいたたまれなくなり、さりげなく二階のパソコン部屋へ向かう。中秋の名月を肩並べて、仰ぐことはなかった。できれば共に生きて、来年は月見団子を互いの口に頬張りながら、肩を組んで仰ぎたいものだ。
秋彼岸はあすが半ばの中日で、「秋分の日」(九月二十三日・木曜日)が訪れる。その先は日を追って、肌身に沁みる「寒の季節」となる。彼岸の入り日から二日めのきのうの鎌倉の空は、秋天かぎりなく高くうららかに晴れた。わが重たい気分は、たちまち解(ほぐ)れた。私は物置から掃除用具の三種の神器(箒、塵取り、半透明のゴミ袋)を持ち出して、所定の周回道路へ向かった。側溝に汚く生えている雑草は腰をかがめて抜き取り、側壁に乱れて垂れている法面の草木は、腰を伸ばして手鎌で伐り落した。こののちは丁寧に掃いて、道路をまるで鏡面のごとく清めた。タバコを吸う身であれば、ホッと一服、紫煙をくゆらすところである。ところが、私は生まれてこのかた紫煙はまったくの未体験である。
長年、日課としてきた道路の掃除は、もはや八十一歳のわが身には汗ダクダクにまみれる重労働である。だからそのつど、先が思いやられている。汗が噴き出るままにしばしたたずんで、私は疲れ直しになんとはなしに山の天辺(てっぺん)を見上げていた。そのとき、秋晴れに誘われたのであろうか、迷い道を踏んできたのであろうか。バス通りから折れて、中年から高齢者へさしかかるくらいに見えた、ご婦人がひとりゆっくりと近づいて来た。山の天辺を見上げているわが近くに、ピタリ足音が止った。私は首をまわした。見知らぬ人はリュックを背負い、山道でも歩き易そうな靴を履き、いっぱしのハイカー姿であった。会話の口火はご婦人が切られた。
「この山の上に、何かあるのですか?」
「こんにちは。いや、山の上には何もありません。ただ、山の中には有名な『天園ハイキングコース』がめぐっています。ハイキングコースへ入るには、この先七十メートルくらいのところにある広場の奥に、のぼり口があります。ハイキングコースへ行かれるとしたら、そこからのぼってください」
「そうですか。ありがとうございました」
ご婦人はわが言葉に逆らうことなく、いくらか足取りを速めて周回道路を進まれ、ほどなくお姿はわが視界から消えた。私は腑に落ちない気分だった。完璧なハイカー姿でありながら、目指すところの当てもなく、なぜこんなところを歩いているのであろうか。普段のハイカーたちはみんな、天園ハイキングコースを目指して歩いているのに……。
それでも、わが気分は高揚していた。それはとっさの道案内が人様のためになったこと、ちょっぴりだけど出合いがしらの会話にありつけたことから得られた充足感だった。もはやわが生きる喜びとは、ざっと、こんなところ、これくらいである。普段の私は、社会貢献と人様との会話に飢えている。ところがいまや、それは叶わない。それがこのときの出会いで、ちょっぴりだけど叶い、そのためわが心はかなり満たされたのである。
伐らずに引きずり下ろした蔓(つる)の中には、小さな青みの木通(アケビ)が混じっていた。たちまち郷愁をそそられて、わが心はなお存分に満たされた。いのちを惜しむセミの何匹かが、まもなく尽きることさえ知らず、まだ声を嗄(か)らして鳴いていた。私は、わがいのちをこよなく愛(いと)しんだ。
きょうは雨の夜明けである。十六夜(いざよい)の月は見えそうにない。自然界・人間界ともに、思うようにはならずとも、せっかくのいのちを惜しんでいる。
日中のバスの車中の「一コマ」
私には途轍もなく耳に痛いことばがある。そのことばが厭なため私は、(もう止めよう、もう書きたくない)と、心中で愚痴りながらもようよう、これまで「ひぐらしの記」の継続を叶えてきたのである。このことばに出合うのは、友人や知人のなかでも普段から、飛びっきりお顔見知りの人たちである。言うなればわが日常生活を知り尽くされて、ありがたいわが応援隊にも思える人たちである。
確かに、これらの人たちのことばの投げかけにより私は、わが怠惰な心に発奮を促し、そのひとつにはこれまで、ひぐらしの記は途絶えずきた。だから、耳に痛いことばは嫌なことばの半面、ときにはおねだりしたくなるような、効果覿面のカンフル剤でもある。
先日、バスの中で思いがけない出会いがあった。そしてそれは、買い物帰りのバスの中の思いがけない一コマでもあった。この日もまたいつもとたがわず、私は背中にはパンパンに膨れ上がった国防色の馬鹿でかいリュックを背負っていた。さらにはこれまた両手にはかつてのビニール袋ではなく、今では超薄手の買い物専用の布袋を提げていた。
バスに乗ると、幸いにも長椅子が空いていた。普段であればここには座らない。なぜなら、青文字で「優先席」と大きく、表示されている。この席の一方の端には、エンジン隠しなのか? ひときわ高く狭苦しい台が設けられている。「荷物を置いてはいけない」と、書いてはない。だから、この近くに座る人たちは、おおむねこの台を目当てにして、われ先に座っている。もちろん、それを非難することはできない。なぜなら、今や日中のバスの乗客のほとんどいやすべては、優先席資格保持者である。
このときの車中はガラガラであり、私は目ざとくこの席を見据えて腰を下ろした。ふうと吐息して、安堵した。すぐに三つの買い物袋を台の上にぎりぎりに重ねた。私には優先席に座った後ろめたさがいくらかあって、正面を見ることなく俯いていた。時節柄、白いマスクがほぼ顔いっぱいを覆っていた。それになお、眼鏡をかけている。さらに両耳にはすぐに目につく、集音機を嵌(は)めていた。醜(みにく)いこれらのいでたちにも、年寄りゆえに必要悪でもあるから、もはや恥ずかしさはおぼえない。ただ一つ私には、ちょっぴり優先席に座った気まずさがあった。そしてそれは、隣の席に座る人にたいし、怯(おび)へと委縮する気分につながっていた。
俯いていたにもかかわらず、「よう、前田さん!」と、声を掛けられて、隣に人が座られた。からだを縮めいくらか席を広げて、顔を上げ視線を仕向けた。隣りに腰を下ろした人は、卓球クラブの先輩男子、石井さんだった。わが心中を騒がすいろんなことがあって、私は一年強も卓球クラブから遠のいている。
「ああ、石井さん。こんにちは、いま買い物帰りです。この台のものは全部、ぼくのものです」
「おれも、買い物帰りだよ」と言われた。けれど、買い物袋は見当たらない。突如、嫌なことばがわが耳に投げ込まれた。
「前田さんは、まだ文章を書いているの?」
これはお顔見知りの人だけが問う、実際はどうか不明だけれど、自分としてはいつも好意のことばと受け止めている。
「はい、書いています」
「そう、続いているの? 前田さんは偉いなあー。おれにはなんもないよ」
「石井さんは、あんなに卓球が上手じゃないですか。みんなのコーチ役じゃないですか。羨ましいですよ」
繰り返し「そう、まだ書いてるの? 前田さんは偉いなあー、まだ続けるんでしょ。続けたがいいよ!」
「ありがとうございます」
私はズボンのポケットからスマホを手にして、「これを開ければ、きょう書いた文章があります」。私はひねた子どものように、いくらか見せびらかし、ひぐらしの記の画面を開いた。そこにはまだ見ていなかった、高橋弘樹様の新たなコメントがあった。
「書けば、ときにはこんなうれしいコメントも出合うんですよ」
「そう、それはうれしいね。前田さん、続けたがいいよ」
石井さんは途中、ご自宅最寄りのバス停で降りられた。私はバスを降りるまで、なんだか押し売りで手に入れたような喜悦に酔っていた。
私は三つの買い物袋を持ち上げて、ヨロヨロ足でバスを降りた。命を惜しむ、季節迷いのセミが鳴いていた。
真夜中の夢遊病
「文は孤独」ということばと並列して、「文は人なり」ということばがある。私は双方ともに体現している。目覚めて二度寝に就けず、仕方なく起き出して来た。時刻は日を替えて、まもない。壁時計の針は夜の静寂(しじま)にあっても、音無くめぐっている。これまでの私はもう長いあいだそして日々、継続の頓挫に怯(おび)えながら、たくさんの文章を書き続けてきた。大袈裟好きのわが表現を用いればその数と量は、すべてを四百字詰め原稿用紙で書き残していれば、地球の何回りとは言えないが、たぶん小型の軽トラックでは積みきれないほどであろう。もちろん、応募などの必要に応じては原稿用紙に書いた。
顧みて原稿用紙で最も多い枚数を書いたものでは、埃まみれの額縁入りの「賞状」にその証しがある。わが六十(歳)の手習いの初期の成果だけに、ちょっとだけ自惚(うぬぼ)れて、死ぬ前にいま一度だけ、日の目を当ててやりたい。「賞状 奨励賞ノンフィクション部門『少年』前田静良様。あなたは本会主宰第72回コスモス文学新人賞全国公募文芸作品コンクールにおいて頭書の成績をおさめましたのでこれを賞します 平成12年2月1日 文藝同人誌 コスモス文学の会」。
六十(歳)の手習いゆえに、確かにほんのりとする自慢がないわけではない。しかし、実際のところはそうではない。これがわが生涯における、手書き原稿の最大枚数(99枚)だったと、記したにすぎない。これ以外の多くの文章は、パソコン搭載のワード機能を用いて、かつてのフロッピーディスクに収めてきた。そしてその数は、これまた大袈裟に言えばわが胸にひとかかえもあるほどの枚数だった。ところが、これらのフロッピーディスクのすべては、もはや海の藻屑のごとくに消え去っている。ちょっとしたことばのはずみで、分別ごみ置き場に捨てられたのである。捨てた真犯人は、難産きわまりなく産み育てた、すなわち生みの親の私である。もちろん今となっては慙愧(ざんき)にたえず、かえすがえす残念無念である。
現在使用中のパソコンの起ち上げには、私は安売り量販店の「ヤマダ電気」で購入後に、初期設定等を含むすべてを、JCOMの技術者へ出張依頼をしたのである。そのとき技術者は、「フロッピーディスクは使いますか。機能は残されますか、それともなくていいですか?」と、問われた。するとかたわらの私は、「そうですね。もう、要りません」と、言ってしまった。あとの祭りである。そののちは、わがことばの祟(たた)りに見舞われている。つくづく、「わが口は、禍の元」であった。そんなこんなあんなで、このころの私は、文章を書き続けることに疲れと限界をおぼえている。
きょう(九月二十日・月曜日)は、秋彼岸の入り日である。同時に、三連休日を閉める「敬老の日」である。彼岸にあっては四十九日に満たない、亡き長兄をことさら偲び、敬老の日にあってはだれからも労(いた)われようなく、しかたなくわが身の老いをみずから労り敬(うやま)っている。六十(歳)の手習いにすぎないのに、たくさんの文章を書き続けてきたのは、わが無能をわきまえない過大の負荷だったようである。手書き原稿のコピー、あるいはフロッピーディスクを残していさえすればと、いまさらながら悔やまれるところである。なぜなら、それらを二番煎じすればこの先まで文章は、案外続くかもしれないのだ。まさしく、「後悔は先に立たず」である。
確かに、このところ私は、夢遊病者になりはてたごとくに疲れている。それはたぶん、駄文の書き疲れから生じているようである。疲れ癒しの効果覿面(こうかてきめん)の処方箋は、ちょっぴりの成果に大きく自惚れてみることのようである。なかんずく、大きく自惚れていいのではないか? 自問するのは、「ひぐらしの記」の継続である。ところが、それももはや、風前の灯火(ともしび)状態にある。まだ、真夜中である。夢遊病は、危篤状態に陥っている。
『わが生涯学習』
漢字検定一級に合格したのちには研究員扱いとなり、二級までの指導資格が付与される。私は、平成8年の第3回の検定試験において、漢検受験初体験にもかかわらず、幸いにも1級に合格した。受験は勤務する会社における大阪支店への単身赴任のおり、住まいを構えていた兵庫県尼崎市のどこかの試験会場であった。額入りの大きな合格証書には、平成9年2月24日と刻銘されている。合格したのちには、課題論文の提出を要請される。この文章はそのおりに書いて、提出したもののなかから、多くの部分を削除して繋げたものである。
本旨はわが生涯教育において、漢字学習を選んだ経緯と、その決意を書いたものである。それゆえ本稿には与ええられたテーマにそって、『当用漢字について思うこと』と題して提出した。しかしやたらと長く、内容も掲示板にはふさわしくないため、『ひぐらしの記』にそう部分だけを連ねたものである。この点では、きわめてちぐはぐな文章となっている。あらかじめ、詫びるところである。このことでは当初の題目を変えて、『わが生涯学習』と、銘打つものである。
私が島田外科を「しまだがいか」と言ったので、五歳違いで中学を終えて看護婦になり立ての「静姉ちゃん」から、苦笑いがこぼれた。静姉ちゃんは異母長兄の二女なので、私にとっては年上の姪っ子にあたる。このことは四十余年前へさかのぼり、私は中学一年生だったはずである。こんな日常語を中学生になっても間違えるなんて! 私が漢字で初めてあじわった苦々しい体験だった。このときの恥ずかしさは、おとなになってこんにちにいたるまで、いっときも離れていない。一方ではこのときの恥ずかしさが、のちの漢字学びのきっかけとなっている。
勤務する会社には、五十五歳になると定年後を見すえて、宿泊をともなった集合研修が行われる習わしがある。それは、いまやどこかしこにはやりのライフプラン(生涯教育)研修の一環である。私は平成7年7月、この研修に参加した。確かに、人生晩年、とりわけサラリーマンであれば、定年後の生き方の善し悪しは幸不幸に直結する。研修最終日にあって研修者たちは、決意を固めて宣誓をすることが義務付けられていた。私はこう宣誓した。「漢字検定一級に合格し、さらには語彙力を高めて、定年後は文章を書いて、ふるさとの人たち、友達、見知らぬ人たちと文通をしたい」。
私は今年(平成12年・2000年)の9月末日付けで、定年退職する(60歳)。わが家から最寄りのJR横須賀線北鎌倉駅までは、途中、小走りをしても歩いて、25五分ほどがかかる。勤務する会社は、営団地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅前にある。この間にはJR東京駅で降りて、乗り換えなければならない。会社までの片道所要時間は、2時間近くである。定年後の私は、会社生活にまつわる時間から解き放される。そして、あり余る自由時間にありつける。それと同時に、生涯設計のやり直しが強いられる。
具体的には、定年後の生き甲斐づくりである。それを支えるのは生涯学習である。私はあらためて、掲げる生涯学習の復習を試みた。一つめは、漢字検定一級に合格すること。幸いにして四年前に叶えている。二つめは、子どものころから持ち続けていた文章を書きたいという、夢を実現すること。これには、ほそぼそと自己流の手習いを始めている。そして三つめは、ふるさとの長兄(現在七十三歳)の生き方を真似ること。(長兄はいろんな人と文通したり、NHKラジオの番組に投稿したりして、しょっちゅう兄の名と文章が世の中に流れている)。これには、いまだに手つかずである。
私は平成10年8月10日に、机上にパソコンを据えて、二つめの実践に向けて本格始動に就いた。具体的にはこの日を境にしてほぼ毎日、ワードで文章を書き始めたのである。目標を定めた。最初は1000字、次には1200字、その次には1400字を自らの日課にした。そののちには、約2000字(400字詰め原稿用紙5枚程度)が定常になった。この日課は、一年半強続いた。出勤前の五時近くに私は、書きたての文章をふるさとの長兄へファックスした。
ふるさとの同級生が企画した還暦旅行へ参加するため、私はふるさと帰行に恵まれた。そのおり長兄は、「あのころは、ファックス用の感熱紙を何本も買ったたいね」と言って苦笑いした。いやそれは、わが頑張りにたいする、長兄の飛びっきりの褒め笑いだった。掲げた目標が礎(いしずえ)となって、定年後のある時期から、現在の「ひぐらしの記」へとつながったのである。そのため幸運にもわが生涯学習は、頓挫することなく継続にありついている。
振り返れば、中学生になっても外科を「がいか」と読んだ赤っ恥が、漢字をわが生涯学習に仕向けたのである。だから、漢字仕立てのわが生涯学習に偽りはない。かたじけない。またしても長い文章を書いてしまった。きっかり、2000字である。