ひぐらしの記

ひぐらしの記

前田静良 作

リニューアルしました。


2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影

 

タイガース、奮戦

  十月二十四日(日曜日)、寝起きにあって書くことがない。そのため、わがファンとする阪神タイガースの奮戦を伝える記事を引用した。
 【阪神、ヤクルトともに最短Vは26日 貴重なドローでついにゲーム差0】(10/23日、土曜日、20:56配信 デイリースポーツ)。「広島1-1阪神(23日、マツダスタジアム)。阪神は投手戦の末、広島と引き分けた。先発の秋山は、5回3安打1失点の好投。打線は好投の広島先発・森下からワンチャンスを生かして同点とした。七回2死無走者からロハスが四球を選び出塁。佐藤輝が左前にポトリと落ちる安打で一、三塁とし、坂本が右前に執念の同点適時打を放った。デーゲームで行われたヤクルトは巨人に大敗。優勝へのマジックは「3」で変わらず。ヤクルトとのゲーム差は「0」になった。この結果、阪神、ヤクルトともに最短Vが26日となった。阪神は24日に広島と、26日に中日と対戦し全日程終了。残り4試合のヤクルトは24日に巨人、26日にDeNAと対戦する。阪神が残り2試合に連勝、ヤクルトが連敗すれば、26日に阪神の優勝が決定。一方、ヤクルトの最短Vも26日になっている。」 
 タイガースの優勝はないと、思う。だから、奮戦とした。奮戦に悔しさはなく、いや善戦と言える。ようやく訪れた、晩秋らしいのどかな夜明けの空である。

選挙カーは夢まぼろし

 十月二十三日(土曜日)、現在は月末日(十月三十一日・日曜日)に投開票日をひかえて、衆議院議員選挙の選挙戦のさ中にある。期日前選挙はすでに始まっている。すなわち、参議院議員選挙と二分する、大事な国政選挙の選挙戦の真っ最中である。ところが、わが大規模住宅地にあっても、選挙カーはまったくめぐって来ない。このことでは、閑古鳥が鳴くような選挙戦さながらである。住宅地が少子高齢化、さらには過疎化傾向を深める証しとして、ほとほと寂しいかぎりである。
 選挙戦にちなんで言えば世帯の有権者は、一人ないし二人くらいの細々である。稀に見る大家族であっても当てにする有権者は、昼間は街中の仕事へ出向いて留守である。選挙戦は真剣勝負のかたわら、一過性の華々しい国民のお祭りでもある。お祭りにあってお囃子太鼓とも思えるのは、マイクで轟音をがなり立て、入れ代わり立ち代わりやって来る選挙カー風景である。確かに、やかましいという人もいるから選挙カーの巡回は、半面では必要悪と言えるのかもしれない。しかしながら一方、選挙戦にあってはなくてならない風物詩とも言えるものでもある。ところが、魚のいないところに餌を撒いたり、釣り針を垂らす必要はなくなったのであろう。「時は金なり」である。確かに、限られた選挙戦にあって候補者は、コストパフォーマンス(効率)の悪い選挙戦、すなわち時間の無駄遣いは必然的に避けなければならないのであろう。それでもやはり、有権者にすれば選挙戦の賑わしがないのは寂しいかぎりである。
 はるかに遠い子どものころの選挙戦では、選挙権はなくても子どもなりにとても楽しかった。当時の選挙戦にあっては、文字どおり入れ代わり立ち代わり絶えず、村中をいくつかの選挙カーがめぐっていた。それらに出合うと子どもたちは道端に並んで、選挙カーの人たちと互いに、身を乗り出して手を振り合っていた。今でも、キラキラと心中に残る懐かしい光景である。選挙戦にはやはり、こんな光景がほしいところである。老いてもなお有権者なのに、なんだか見捨てられたようで、寂しくかつつまらない選挙戦である。限られた短い期間だから普段の訪問介護車や、救急車のサイレンだけではなく、選挙カーの駆けめぐりがほしい選挙戦である。選挙カーには、なくてはならないお祭りのお囃子の太鼓の役割がある。そうは思っても確かに、票田は草ぼうぼうである。

ささやかとは言えない、わが願い

 季節は寒気を強めたり緩めたりしながら晩秋から初冬へとめぐり、この先なおいっそう寒気を強めてゆく。自然界現象だから人間は、これには無駄な抵抗はしたくない。いや、人間にはどうにもならない。だから人間は古来、季節に応じた暮らし向きを工夫し、できるだけ平穏な日常を望んで、実際にも営んできた。このことは、万物の霊長と崇められる人間の人間たるゆえんでもある。当てずっぽうに柄でもないことを浮かべて書いたけれど、まったく嘘っぱちではなくいくらかは当たっているであろう。
 私の場合、季節のめぐりに対応するものの筆頭には、衣替えすなわち着衣の変化がある。具体的にはきのう(十月二十一日・木曜日)から私は、上半身の肌着では半袖にかえて長袖にし、下半身の肌着では薄手のステテコから厚手の布製にかえた。しかしながらこれらは、寒気を防ぐためにはまだ序の口にすぎない。この先は寒気の強まりに応じて衣を重ね、わが身を冬防寒重装備で固めてゆくこととなる。確かに、ささやかだけれど、しかし、浅はかとは言えない、例年繰り返してきたわが知恵である。
 幸いなるかなこのところ、新型コロナウイルスの勢いは衰退傾向にある。これにともなって今月末あたりを境にして、さまざまなところでこれまでの規制が緩和されそうである。もちろんこのことは、願ったり叶ったりである。しかしながら、私自身のことでかんがみれば、いまだ大きな変化とは言えない。なぜなら、私の場合はもとより、酒宴、旅、外出行動など、埒外の日常にある。だから、これが解禁されても私には、大きな実利はない。しかし、精神的箍(たが)は外れて、気分の落ち着きは大いにある。
 こんな私が最も願っているのは、マスク不要の生活である。この先、マスク不要の日常が訪れるのであろうか。このことには懸念と同時に、常々戦々恐々とするばかりである。私の場合、実際のところマスク着用の恐怖は、難聴ゆえに両耳には集音機、そのうえ、マスク、メガネの三段重ねの不便さに梃子摺っていることである。そのため、マスク不要のゴングが打ち鳴らされたときこそ、私は喜悦まみれとなる。恐怖を重ねればわが余生にあって、ゴングは鳴るであろうか。ささやかとは言えない願いである。金輪際とは言えなくも早いとこ、私はマスク用無しの冬防寒重装備を願っている。私は「虫が良すぎる」のであろうか。

晩秋、つれづれ

 十月十九日(火曜日)、目に見えて夜明けが遅くなってきた。すなわち、晩秋にさしかかり、長い夜は加速度を強めている。もちろん、季節の正常周期ゆえに歓迎こそすれ、ためらいはまったくない。自然界および人間界共に、異常状態こそ恐れるべきものである。
 人間界は一年半強にわたり、新型コロナウイルスの感染恐怖に慄(おのの)いてきた。まさしく、世界中を動転させ続けてきた異常事態だった。ところが、日本国内にかぎれば、第五波と言われてきた感染力の勢いは、このところ急速に収束へ向かっている。現在はこの先第六波を免れて、文字を変えて終息へたどり着くかどうかの瀬戸際にある。第六波が来なければそのとき、人間界には正常の営みが訪れる。このことでは私は、目を凝らして新型コロナウイルスにかかわるさまざまな数値に、一喜一憂するところにある。
 自然界とりわけこのところの気象は、正規軌道に乗っかりめぐり始めている。言葉を変えればこのところの気候は、季節相応に寒気を帯びている。わが身に堪える寒気の到来である。しかしながら反面、異常気象に怯(おび)えるよりはるかにましではある。
 現在、私は寒さに震えて、寝起きの殴り書きに甘んじている。まだ夜明けは訪れないけれど、デジタル時刻は5:54と刻んでいる。壁時計の針は、音無くめぐっている。そのため私は、気をもみ始めている。きょうの私には、早出を強いられる歯医者通いがあるためである。わが行動予定がきっちりと埋まるのは、病医院を替えての通院予約日だけである。なさけなくもこのことには命に限りがくるまで、エンドレス(際限なし)が予想される。
 確かにそれは、時が限られた異常状態ではなく、もはやきわめて正常な命のめぐりである。それゆえ、寒気にビクビク怯えるのとは違って、抗(あらう)すべなどない「俎板の鯉」の心境である。だからと言って、「さっぱり」という心境ではなく、やはり無念である。
 薄っすらと、夜が明け始めている。夜明けが遅かったのは、雨の夜明けのせいだったのである。とっくに朝日が差していいはずの、デジタル時刻は6:12である。

寒気到来、兄追懐

 十月十八日(月曜日)。一気に寒くなりました。わが身に堪えて、ひたすら耐えています。心中にめぐるのは、「四十九日」(十月七日)の日に、お墓に納められた生前のふるさとの長兄の姿です。生身でないため兄は、寒くはないだろうけれど、わが身にはことさら寒さと寂しさつのります。夜明けの空は雨が上がって、天高い日本晴れです。いっそう切ない。すみません。

実りの秋、ふるさと原風景

 実りの秋にあって、脳裏に浮かぶふるさと原風景は、稲刈りから籾摺(もみず)りに至るまでの穫り入れ全風景である。この間にあって子どもの私は、すべてにかかわり家事労働の一役を任されていた。猫の手も借りたいほどのわが家にあっては、子どもとて私は十分すぎる働き手であった。
 稲刈りから籾摺り、すなわち新米の穫り入れは、私にとって実りの秋によみがえる、特等の懐かしいふるさと原風景である。当時のわが家は、農家に兼ねて水車を回し、精米所を生業(なりわい)にしていた。それゆえに私は、新米はもとより米全般へのこだわりには尋常でないものがある。精米所とはいえ精米にかぎらず、麦刈り、麦を精(しら)げること、そしてそれを粉にする(製粉)工程もまた、懐かしくよみがえる。
 しかしながら麦刈りは、初夏(五月ころ)のふるさと原風景である。それゆえに実りの秋から外れた、ふるさと原風景の一角(ひとかど)を成すものである。また、麦刈りから穫り入れまでの麦仕納(むぎじのう)は、米仕納(こめじのう)に比べれば、仕事量とそれにつきまとう感興や感慨には雲泥の差がある。
 実りの秋の感慨は、一頭地抜いて一入(ひとしお)である。稲仕納には稲刈り鎌、稲扱ぎ機、そして籾摺りには発動機が家族の人手と共に、大車輪の活動をした。半円まではないが曲がった稲刈り鎌は、子どものわが手にもなじんだ。稲扱ぎ機には、稲わらを丸めて長兄へ手渡す風景と、ジータン・バータンの音がよみがえる。籾摺りにおける発動機は自家用ではなく、馴染みの委託業者のものだった。この音は、耳を劈(つんざ)くほどの絶え間ないドウ・ドウだった。
 きのう(十月十六日・土曜日)の夜、甥っ子から手配を依頼していた今年度(令和三年)産、新米(三十キロ)が届いた。実りの秋にあって、真打のふるさと原風景がつのるばかりである。とめようなくよみがえるふるさと原風景だけれど、風邪をひいて頭重のせいで、尻切れトンボのままに結文とする。ふるさと産新米は、風邪薬をはるかに超えて、効果覿面の風邪退治になること請(う)け合いである。

冠の秋、実りの秋

 現在、自然界は四季にあって秋の季節である。私の場合、気候的には最も体に馴染んで快感をおぼえている。たぶん、たくさんの人たちもまた、秋を最も好まれるであろう。確かに、「天高く馬肥ゆる」秋は、凌ぎ易さに加えて文字どおり、食欲モリモリの秋でもある。食欲をそそがれることではずばり、「実りの秋」の恩恵にあずかっている。
 「冠の秋」の一つ実りの秋には、生産者および消費者共通に、喜悦が満ち溢れている。すなわち秋の季節には、みんなの悦びが充満している。四季のなかにあってこんな悦びは、おそらく秋が筆頭であろう。特に今年の秋は、台風シーズンと銘打たれているなかにあっても、小さな台風が一度だけ日本列島の限られた地方を襲っただけである。小さな被害はあったけれど、台風はおおむね大過なく過ぎ去った。そののち台風は、鳴りを潜めている。そのうえ、秋彼岸が過ぎても寒気の訪れはいまだなく、寒気はこの先へとずれ込んでいる。そして、ここ二日くらいには、秋本来の好天気が訪れている。季節は、まさしく秋快感の真っただ中にある。
 機を一にして新型コロナウイルスの感染恐怖は、かなり遠のいている。自然界はさわやかな秋をもたらしている。目下、ようやく人間界は、遅れてきたさまざまな「冠の秋」の喜悦に浸っている。恐れるのは、一語の慣用句を用いれば「好事魔多し」である。具体的には自然界および人間界共にかかわる「災いは忘れたころにやってくる」と、心すべきである。挙句、人が気を良くしてのほほんと過ごすことを警(いまし)める「油断大敵」にこそ、意を注がなければならない。
 現下の人間界で特筆すべきイベントは、選挙(衆議院議員)の季節である。ところがこちらには、冠の秋とは違っていっこうにワクワク感がない。結局、この季節にあってワクワク感をもたらすのは、自然界がさずけるさまざま恩恵である。それらのなかでピカイチは、食いしん坊の私の場合は、実りの秋がイの一番である。なかんずくそれは、新米と数々の秋の果物の出回りにありつけることである。
 実際にも私は、新型コロナウイルスにともなう行動自粛が緩和されて、買い物行が楽しくなっている。初動の蜜柑の買い物にあって私は、二キロ詰めの熊本蜜柑を買った。甘い蜜柑は、たったの250円の安さだった。これでは、ふるさとの生産者は嘆き、消費者の私は喜ぶばかりである。不断の特段のわがふるさと志向と郷愁は、かりそめの偽善だったのかもしれない。
 実りの秋にあずかっていることには、大きな台風の襲来がなかったことが、一役買っているのであろう。だからと言って、台風に「値段の折り合い」をつけて、とは言えない。私は生産者の嘆きをおもんぱかって、まるで餓鬼のように熊本蜜柑を食べ始めている。この先は、いっそうそうなるであろう。薄利多売に報いるふるさと心を露わにして、実際には安さを願う浅ましさを露わにしている。生産者と消費者の共利共生は、絵に描いた餅さながらである。十月十六日(土曜日)、雨の夜明けである。

魚心あれば水心

 十月十五日(金曜日)、時節は秋の夜長の走りにある。目覚めて、寝床の中でスマホ片手に仰向いて、二つの慣用句のおさらいを試みた。今さらおさらいをするまでもない、普段多用されるきわめて容易な日常語である。言うなれば、秋の夜長のいっときの時間潰しにすぎない。もっとましなことをすればいいけれど、せいぜいこれくらいが関の山である。
 一つは【溜飲が下がる】。「溜飲:不消化のため飲食物が胃に溜まって、喉に上がってくる酸っぱい液(胃液)。溜まらず、すっぽりと胃に落ちれば(下がれば)気分がすっきりする。不平、不満などが解消し、気分の晴れることをいう。類義語:胸のつかえがとれる」。一つは【魚心あれば水心(あり)】。
 「(魚に水と親しむ心があれば、水もそれに応じる心がある意から)、相手が好意を示せば、自分も相手に好意を示す気になる。相手の出方しだいで、こちらの応じ方が決まるということ。もとは、魚、心あれば、水、心あり。水心あれば魚心」。
 昨夜のナイターでは、タイガースが宿敵ジャイアンツに勝って、溜飲が下がった。確かに、今さらおさらいするまでもない、ごく短い時間潰しにすぎないものだった。この先の秋の夜長にあっては、いっそう気が揉めるところである。こんな時間潰しをするようでは、私はバカじゃなかろか! と、苛(さいな)まれている。

待ち望む、胸のすく秋晴れ

 きのう(十月十三日・水曜日)は、これまでの季節外れの暖かさを浮かべて、異常気象と書いた。もちろん、気象庁による公式なものではなく、わが体感に基づく当てずっぽうの考察にすぎないものである。当てずっぽうは半面、嘘っぱちに近似(きんじ)している。
 きょう(十月十四日・木曜日)、夜明け前の私は、まさしく当てずっぽうは当てにならないという、思いをたずさえている。なぜなら、言うも言ったりきのうから、季節に違(たが)わぬ寒気が訪れている。具体的には、のほほんとしていた肌身に寒気が沁みている。実際にも寒気に身構えて、就寝時の私は、冬布団を重ねた。いよいよ季節は、冬将軍の先駆けにある。
 確かに、これまでは寒気を感じず、それを嫌う私には、ありがたい異常気象と思えるところがあった。一方ではいまだに、好季節にふさわしいさわやかな秋晴れが遠のいていた。これまたわが当てずっぽうだけれど、秋天高い秋晴れは、いくらか冷気あるいは寒気をともなうものであろう。するとやはり、これまでは異常気象であったろう。異常気象をありがたく思うのはへんてこりんだけれど、へそ曲がりの私は、異常気象の快さに浸っていた。しかしながら、棚ぼたとも思えた異常気象は、きのうで打ち止めとなり、私は冬将軍の先駆けに心身共に、にわかに防御態勢を固め始めている。そうであれば仕方なく一方では、私はさわやかな秋晴れを望んでいる。嫌う寒気を感じて、もちろん願ったり叶ったりではないけれど、夜明けの空は、雨が上がってのどかな秋晴れの兆しにある。

異常と異変

 十月十三日(水曜日)、気候の良い十月も半ばに差し掛かる。これまで、気温は寒気をまったくおぼえない日が続いている。ところが、夜明け前にあって現在は、ちょっぴり肌身に寒気を感じている。しかし、十月半ばにあっては、異常とも言える高気温が続いてきた。いくらか寒気をおぼえるのは、きのうからきょうにかけて降り続いている雨のせいであろう。好季節にあって二日続きの雨は、ちょっとした異常気象であろう。
 気候の異変にかこつけてきょうは、プロ野球の異変とも思える記事を引用する。プロ野球は現在、セ・パ両リーグ共に、最終盤戦の最中にある。そして、両リーグ共に優勝争いは、熾烈を極めている。そんななかにあって優勝は、セ・リーグの場合は東京ヤクルトスワローズに、パ・リーグの場合はオリックス・バファローズに、ほぼ決まりそうである。こんな異変を起こしたのは、セ・リーグの場合は読売ジャイアンツが、パ・リーグの場合はソフトバンクホークスが、共に優勝を逸したからである。プロ野球にあって両チームは、常勝球団という名を馳せている。ところが、今シーズンにかぎれば両チームは、きのうかつ同日に優勝を逸したのである。プロ野球にかぎれば、まさしく異変と言うべき珍事だったのである。
 【巨人とソフトバンクが同日V消滅 昨季セ・パ王者が沈む】(10/12・火曜日、21:54配信 西日本スポーツ)。「パ・リーグ4位のソフトバンクは、札幌ドームで最下位の日本ハムに快勝した。わずかに残っている優勝の可能性をつなぐには、日本ハム戦で勝ち、同時刻のオリックス-ロッテ戦でオリックスが敗れるしかなかったが、オリックスが0-2の8回に追いつき、9回表を同点で終えて引き分け以上が確定。ソフトバンクは試合中に2連覇の可能性が消滅した。オリックスとロッテはそのまま引き分けた。一方、セ・リーグでは首位ヤクルトが5位中日に敗れて足踏み。2位阪神が3位巨人との接戦を制し、14年ぶりの対巨人シーズン勝ち越しを決めるとともに、ヤクルトに2ゲーム差に迫った。敗れた巨人は3連覇の可能性が消滅した。昨季セ・パ両リーグで優勝し、日本シリーズでも対戦した両チームが、今季は同日に両方ともV消滅という偶然に見舞われた」。