ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影
続編、「時のめぐりの速さ感」、そして嘆息
きのうの「昭和の日」(四月二十九日・金曜日)にあっては、私は時の速めぐり感を書いて、遣る瀬無く嘆息した。きょうの文章はそれに輪をかけて、二番煎じさらには三番煎じとも言える続編である。しかし、あえて言えばそれらには、わが実感する確かな違いがある。きのうの場合は、一年回りにめぐってくる、ゴールデンウイークにともなう、一年の速さ感に唖然としての嘆息だった。言うなればそれは、一年という時のめぐりの速さ感に起因していた。これに加えてきょう書くのは、一月(ひとつき)と一日にともなう時のめぐりの速さ感にかかわるわが実感である。
まずはひと月のことで言えば、それはこの現象に起因している。私にはひと月ごとに薬剤をもらうだけに余儀なく、通院を強いられているものがある。これに実感するのは、ひと月という、時のめぐりの速さ感である。私は服(の)み忘れを防ぐために、薬剤は枕元に置いている。するとよく、「あれ、もうない!」という、場面に遭遇する。そしてこのとき、私はひと月の速さ感を痛切に感じて、遣る瀬無く嘆息を吐いている。そしてそれは、明らかに自己嫌悪に陥るほどの深い嘆きである。次には、一日につきまとう時のめぐりの速さ感である。挙句、これこそ、ひしひしと実感をともなう、時のめぐりの速さ感である。
わが人生の最大の楽しみは一日三度の御飯と、その間における甘味の駄菓子の食べ放題である。これらにともなう、時のめぐりの速さ感の実感はこうである。「朝御飯を食べればもう昼御飯、昼御飯を食べればもう晩御飯」。そして、この実感にはこんな思いが張り付いている。それは、胃部がいまだに前者の食べ物を砕いている最中にあって、後者の食べ物が喉元から垂れ流されてくるほどの時の速めぐり感である。私は歳月そして日々、いや時々刻々と、時のめぐりの速さ感に追われては、あたら余生短い命に焦燥感を募らせて、遣る瀬無く嘆息を吐いている。
月末、四月三十日(土曜日)の夜明けの空には、きのうの冷たい雨空を撥ね退けて、のどかに朝日が照り輝いている。バカな私は、まったく抗(あらが)えない時の速めぐり感に慄(おのの)いて、やたらと遣る瀬無い嘆息を吐くばかりである。だとしたら悠久の自然界に、わがひ弱な心を癒してもらうしか便法はない。なぜなら、私には時のめぐりの速さ感を「ケ、セラセラ」と、達観する度量や勇気はない。
ゴールデンウイーク、「昭和の日」
四月二十九日(金曜日)、きょうは令和四年(2022年)のゴールデンウイークの初日に当たる「昭和の日」(休祭日)である。とりたてて募る思いはないけれど、あえて記すと一年のめぐりの速さ感の横溢まみれにある。年齢が加わるにつれて私は、転んで怪我などの自損をこうむらないようにと、普段意識してノロ足で歩いている。もちろん叶わぬことながらできれば、歳月のめぐりもノロ足で、めぐってほしいものである。
ゴールデンウイーク初日にあっての唯一の感慨、すなわちまったくありえないわが空望みである。わが心身は文字どおり時々刻々に、時の刻みの音に脅かされている。確かに、わが日常生活に時の刻みを意識するのは、馬鹿げている愚の骨頂の最たるものである。もちろん、愚かなこととは、十分に知りすぎている。ところが一方では、寸時でもこのことを忘却することはできない。なぜなら、われのみならずだれしもの日常は、時の刻みの中に営まれている。
しかし私の場合、ゴールデンウイークは、格別時の刻みに取りつかれている。それは老いの身ゆえの、一年のめぐりにたいする遣る瀬無さとも、言えるものである。私に物見遊山や行楽の予定でもあれば案外、この遣る瀬無さはいくらか和らぐであろう。ところが実際には、それらにちなむ予定はまったく皆無である。結局、わができることは、人様の行楽シーズン入りを前にしての、わずかばかりの施しにすぎない。
きのうの私は、鎌倉めぐりのハイカーの訪れを前にして、道路の隅々を綺麗に掃除した。とりわけ、側溝に隠れているごみや、側溝に芥子粒ほどに生えている雑草の小さな根までをもことごとく引き抜いた。仕上がりの道路は、わが家の汚れている板の間を凌いで、鏡面の如くに綺麗になった。おとといは、東京へ出向いた。東京都国分寺市内に住む次兄(91歳)にたいする、表敬訪問であった。おとといときのうには、文章はずる休みに甘んじた。きょうもそのつもりであったけれど、こんな味気ない文章を書いてしまった。
わがゴールデンウイークは、茶の間のソファに背もたれて、窓ガラス越しに新緑を眺めだけになりそうである。ちょっぴり動作をともなうものでは、わが家の庭中をあてにして、山から飛んで来るコジュケイへの、ふるさと産・新米のバラマキがある。これに、日課とする道路の掃除がついて回ることとなる。こんなことでは転びようはないけれど、それでも心してゴールデンウイークの明けにありつきたいものである。ウグイスが鳴き声高らかに、エールを囀ってこれそうなことだけは請け合いである。わがゴールデンウイークの楽しみは、山の緑、コジュケイ、ウグイスなどが恵む、他力本願だけであり、自力のもたらすものはない。
人の命
どうにもならない自然災害などで奪われる人の命には、ただただ忍び難い気持ちが充満する。軽率きわまりない人の行為で奪われる人の命には、ただただ腹立たしさだけが充満する。このたびの「北海道・知床半島沖、観光船事故」のニュースを聞いたおりの、苦々しいわがつぶやきである。実際のことは何も知らない。だから、これ以上のことは言えないし、もちろん書けない。そのため一つだけ書いて、結文とするものである。まさしくそれは、近場の物見遊山をはじめとするさまざまな行楽にもってこいの観光シーズン到来のさ中にあっての、きわまりない痛憤をおぼえるニュースだった。
「ひぐらしの記」は、わが日暮らしだけではなく、ときには人様の暮らしぶりも書かなければならない。人の命とは、もとより自分だけの命に限るものではない。だから人の命は、「相身互い身」、みんなで支えなければならない。すなわち人の命は、独り善がりは許されない、尊いものである。四月二十六日(火曜日)の夜明け、いつものウグイスの鳴き声に、私は哀切感をつのらせている。
早やてまわしの「五月晴れ」にあって、嗚呼、無題
照る日、曇り日、雨の日、ぐずつくこのところの天候状態の表現である。本当はこれらに、雨まじりの小嵐を含めたいところではある。四月二十五日(月曜日)、夜明けにあってきょうの昼間は、どれに落ち着くであろうかと、いくらか思いあぐねている。なぜなら、きのうの私は、きょうの天気予報は聞きそびれている。しかしながら、夜明けの空をほのかに染め始めている朝日を見やれば、曇り、雨、そして雨まじりの小嵐のない、澄明な青空になりそうではある。
季節めぐりは日々、晩春を遠のけて初夏の走りにある。初夏の次には鬱陶しい梅雨入りと、本格的な梅雨すなわち雨の季節がひかえている。それまでは、ひと月あまりしかない。そうであれば私は、照る日、曇り日、そして雨の日などと、もったいなどつけずに、すっきりさわやかな晴れの日を望んでいる。
過ぎ行く四月を代表する鬱な季節用語には、ずばり「菜種梅雨」がある。幸いなるかな! この四月は、どうにかこの言葉は免れて、今週は五月への橋渡しにある。確かに、訪れる五月にも、鬱な「五月病」などという、似非季節用語がひかえている。いくら私がマイナス思考の塊とは言え、こんな鬱な言葉ばかりを浮かべるようでは、わが人生から面白味が殺がれている。そのため意図して私は、いっときこんな鬱な言葉などかなぐり捨てて、訪れる五月すなわち初夏にふさわしい季節用語の一つを浮かべてみた。すると、まるで一つ覚えの如くに真っ先に浮かんでいるのは、「風薫る(薫風)五月」である。次には望郷に浸り、のどかな一幕が甦る。それは、「新茶摘みの風景」である。こんな好季節がたったのひと月あまりでは、ソンソン(損々)いやまったく物足りなくて、大損である。
ところが、たとえ鬱な言葉であっても、言葉遊びに興じているわが身は、まだましで幸福である。なぜなら、きょうの寝起きにあってわが心中には、いやおうなくこんな言葉が浮かんでいた。それは表現を替えただけの、共に同義語である。すなわちそれは、「引くに引けない状態」と「膠着状態」という言葉であった。これらの言葉が浮かんでいたのは、もちろんウクライナとロシアにおける戦況を日々、テレビ映像で見せつけられているからである。戦争は、口争いや喧嘩などとは異なり、一旦戦端が開くと双方共に、「御免、降参、もう参りました。許してください!」などとは、言えないところがある。私は、この証しを現下の異国の戦況で見せつけられている。戦争は自然界が恵む好季節などそっちのけにして、人間同士が醜い争いに明け暮れる野暮な行為である。
文章を書く身の私は、いつなんどきも心中にさまざまな語句を浮かべては、めぐらしている。きょうの文章は、なんら実のないその証しである。かたじけなく、またなさけない。夜明けの朝日は時を追って天上の大海原もどきになり、胸のすく「五月晴れ」になりそうである。しかし、早や合点し「好季節到来」とうそぶくのは、虫が良すぎるであろう。異国とは言え、戦雲たなびく世界事情をかんがみれば、独り悦に入ってばかりにはおれないところ大ありである。昼間には、確かな日本晴れになりそうである。駄文に、表題のつけようはない。
新緑が恵む「至福の時」
四月二十四日(日曜日)、薄曇りの夜明けである。夜来の雨はなく、道路は乾いている。こんな日は、夜明け時の道路の掃除が気になるところである。
起き立て真っ先に、私はレースのカーテンを開いて、窓ガラス越しに道路に目を凝らした。すると、幸いなるかな! きのうの夕方の掃除の後の状態を留めている。日課とする夜明け時の道路の掃除を免れて、私は心安んじてパソコンに向かっている。加えていつもとは異なり、早起き鳥さながらに執筆時間はたっぷりとある。できれば薄曇りを突いて、朝日が射し始めるのを望んでいる。こんなのどかな文章を書けるのは、起き立の「至福の時」と言えそうである。しかしながらこの至福の時は、最良かつ最高の位置にはない。実際にはきのうの昼間の至福の時には負けて、それに準じている。
わが目に眩しいとは言っても、もちろん新緑は花ではない。きのうの昼間の私は、カタツムリの如く茶の間のソファに背もたれていた。目先の窓ガラスにはカーテンを掛けず、目に入る外景をほしいままにしていた。窓ガラス越しに照る陽射しは、晩春から初夏に移りつつあった。この違いは、見た目に外連味(けれんみ)なくさわやかさを感ずることである。点けっぱなしのテレビ映像は、のどかな旅番組を流していた。しかしながらわが目は、そちらにはあまり向かわず、もっぱら窓ガラス越しに見る、山の新緑に釘付けになっていた。
「目には青葉山ほととぎす初鰹」(山口素堂、鎌倉にて詠む)。このときの私は、常に手元に山積みしている駄菓子を間断なく、口に運んでいた。もちろん、苦吟する俳句など浮かべず、そのぶん無償の恵み、すなわち「至福の時」に無心に酔いしれていた。おやおや、先ほどの薄曇りは太陽に蹴散らされて、大空には朝日が射している。つれて、山の新緑は、映え始めている。きょうもまた昼間、私は至福の時を授かりそうである。時あたかも新緑の煌めきは、数々の花をも凌ぐ自然界が恵む、美的風景である。確かに、これに酔いしれる私は、いっときの果報者である。
嗚呼、無常、そして無情「トラキチ」
四月二十二日(金曜日)、またもや雨上がりの夜明けである。道路は濡れている。そのせいで、一つのわが日課は、用無しである。ありがたいことではあるけれど、気分は憂鬱状態にある。いくら「ひぐらしの記」とは言え、こんなことばかりを書き続けているようでは、誇らしくも、甲斐もない。いや、恥じ入るばかりである。
わがファンとする阪神タイガースは、テレビ観戦のたびに、負け続けている。いまや、勝敗数に関心はない。いくらか、いや大いに関心があるのは勝ち数ではなく、この先どのくらいの負け数を重ねるかだけである。確かに、現在の私は、この先のタイガースの負け数に関心がある。こうまでなるともはや、タイガースの戦いぶりは、ドサまわりの大根役者の演ずる田舎芝居の観覧の如くに、大笑いするところたびたびである。そして、苦笑まじりに、愉快な気分にもなる。幸いなるかな! 負け続けていても、負け惜しみを超越して、気分は鬱になることなく、大らかいや朗らかにさえある。だから、タイガース戦のテレビ観戦は、この先も厭きずに続けること請け合いである。なぜなら、「トラキチ」の称号を、みずから捨てることはできない。また、勝敗の決着にドキドキすることから、いまや免れている。
今朝の寝起きの約十分間の殴り書きは、これだけで十分である。夜明けの空には朝日が射してはじめて、青、白、グレイなどに色彩を帯び始めている。おやおや、自然界の恵みのおかげで、寝起きの憂鬱状態は去っている。人間界の営みは欲得まみれである。タイガースの勝敗に、一喜一憂するのは大損である。残り少ない余生は、穏やかに、和んだ気分で、暮らしたいものである。
渇望する「二度寝」
四月二十一日(木曜日)、朝日が大空をほのかに赤く染めている、夜明け時にある。一時過ぎからとうとう、二度寝にありつけずに、夜明けを迎えている。このため寝起きの私は、憂鬱病に罹っている。
途轍もなく長い時間、眼明(めあき)きを食らっていたこの間、わが心中にはさまざまなことが出没した。いや言葉を替えれば、実際にはいろんなことがピョンピョンと跳ねて、鬱勃していた。
それらの中から一つだけ取り出すと、これである。自問を試みたのである。わが身に取りつく「愚痴こぼし」の反意語は、何だろうか。すると自答には、浮かんでは消え去る言葉の中から一つだけ残し、それは「自惚れ」と、決めたのである。もちろん、当たるも八卦、当たらぬも八卦の、出まかせ言葉の決着である。わが身に、自惚れるものは何もない。反面、愚痴こぼしの種(ネタ)はかぎりなくある。おっちょこちょいの私は、愚痴こぼしに一利を見出したのである。それはこうである。愚痴こぼしのネタがあるため、それが継続のエネルギーとなって文章は、これまで長く続いてきたのであろうか。再び記すと、確かに私には、自惚れる種(ネタ)は何もない。挙句に文章は、どん詰まりに陥り、すぐさま途絶えていたこと請け合いである。もちろん、愚痴こぼし歓迎と嘯(うそぶ)くことはできない。しかし、文章継続の僅かな足しにはなっていたようである。遣る瀬無い、自己欺瞞と言えそうである。
こんなことを寝床で、目覚めてめぐらしているようでは、もとより二度寝にありつけるわけはない。私は熟睡を欲張りはしない。うつらうつらであっても、二度寝にありつきたいだけである。
朝飯前
四月二十日(水曜日)、またしても小雨まじりの小嵐の夜明けである。夜が明けるのは太陽の恵みである。とりわけ、朝日が輝いて明けるのは、一等賞の恵みである。この点、きょうの夜明けには、一等賞はお預けである。だからと言って、ビリの夜明けと、蔑(さげす)みたくはない。なぜなら、明けてくれたことで十分である。
起き立にこんなことを書いている私は、傍(人様)から見れば、私が気狂いしていると、思われるかもしれない。しかしながら私自身には、露ほども自覚症状はない。案外、これこそ、気狂いの証しなのかもしれない。知らぬが仏である。実際のところはネタ不足を補うだけに、書き殴っているにすぎない。だから、文章とは言えない。確かに、私は馬鹿じゃなかろか! 恥をさらして、恥を忍んでいる。
「朝飯前」とは、容易なことの表現である。こんな幼稚な文章は、朝飯前とも言えず、単なるいたずら書きである。実際には、朝御飯の支度に急かされて書いた、本当の朝飯前の文章である。書くに堪えない、輪をかけて読むに堪えない、明らかに恥さらしの文章である。
夜明けのいつものウグイスの鳴き声に変わりきょうは、階下から妻の苛立ち声が遠吠えている。だから、これでおしまい。幸いなるかな! 私に気狂いの自覚症状はない。
生存は一語で、「尊厳」
四月十九日(火曜日)、久しぶりに夜明け前に起き出して、文章を書き始めている。だからと言って、長い文章は書かない。なぜならきのうは、独りよがりに長いメディアの配信ニュースの引用を試みた。このことでは、いまなお詫びたい気持ちが山々である。
このところの天候は、疑似菜種梅雨みたいに、すっきりしない日が続いている。カーテンを開けっ放しの窓ガラス越しに見る外景は、いまだに真っ暗闇である。夜明けて、きょうの天候の兆しが気になるところである。できればきょうの午後あたりから、後れてきた晩春ののどかな陽射しを願っている。もちろん私は、欲ボケではない。大空すがりのかすかな願いである。
さて人間は、いつの世にあっても様々な世情の渦中にある。加えて、みずからの身体に取りつく病、かつまた日常生活、すなわち暮らしぶりに様々な難渋を強いられている。いまさら気づいたわけではないけれど、人間につきまとう苦しみは、日々テレビ映像に溢れ返っている。ごく主なところでは、異国・ウクライナに観る戦禍の惨たらしさ、さらには世界中に蔓延るコロナ禍の痛ましさがある。これらだけでも十分忍びないのに、事件や事故の絶えることはない。ましてなお、どこそこに地震発生という、テロップの流れが止むことはない。
このところの私は、あらためて生存の厳しさと、半面、尊さを実感しているところである。いや、言葉を二つに分けることなどなく、人間の生存はただ一語で、「尊厳」と言うべきであろう。夜明けて夜来の雨はあがり、ほのかに朝日が射し始めている。八十一歳、わが一日のつつがない始動は、やはりみずから寿(ことほ)ぐべきであろう。短く書くつもりの文章は、実のないだらだら文となった。「身から出た錆」、詫びることは尽きない。
野球界の傑物、佐々木朗希投手
確かに、世に稀な傑物は、どんな分野にも存在する。だからわが勝手に、「野球界の傑物」と名付けた。きょう(四月十八日・月曜日)はわが文章にあらず、再び、同一人物で記録に留める、メディアの報じる引用文である。すっきりしない夜明けの天候のもたらす、わが憂さを朗々と晴らしている。
【ロッテ・朗希、2戦連続完全の大偉業ならずも「納得」8回降板 投手コーチが察知したわずかな異変】(4/18・月曜日、5:30配信 スポニチアネックス)。◇パ・リーグ ロッテ0―1日本ハム(2022年4月17日 ZOZOマリン)。これもまた、「令和の怪物」の伝説の一ページだ。前回の登板で完全試合を達成したロッテ・佐々木朗希投手(20)が17日、日本ハム戦で8回まで14奪三振で走者を許さず、両軍無得点のまま9回から交代した。試合は延長10回の末、0―1で敗戦。プロ野球でも大リーグでも達成されていない2試合連続の完全試合はならなかったものの、満員のZOZOマリンで躍動した右腕が、今後のさらなる歴史的快投を予感させた。2万9426人の感情が詰まっていた。8回2死。佐々木朗はここまで打者23人をパーフェクト、いや、完全試合を達成した10日のオリックス戦から打者50人をなで斬り続けた。51人目、野村への2球目だ。161キロ直球を右翼線へ運ばれた。スタンドからは「うわぁー」と悲鳴。ライナーがわずかにライン外側のファウルグラウンドで弾むと「うぉー」と安堵の息が吐かれた。2試合連続の快挙を見たい。誰もが願った。ただ、マウンドの右腕は冷静だった。「僕はファウルと思った。風に助けられたかもしれないけど、フェアだったら二塁打なので、危なかった」102球目。この日最速タイの163キロで、14個目の三振を見逃しで奪った。場内からは万雷の拍手。あと1イニング投げれば、前人未到の2試合連続完全試合の可能性は残ったが、0―0のまま、この回で交代した。17回パーフェクトも聞いたことはないが、8回完全投球で降板も超異例。どよめきも起こった。それでも佐々木朗は「疲れている部分があったし、納得する形で降りました」と振り返る。試合前のブルペンでは制球が乱れた。試合のイニング間にコミュニケーションを取った木村投手コーチは「6回ぐらいから球がちょっと暴れ始めた」とわずかな変化を察知。「肩、肘は問題ない」と話す佐々木朗に、木村コーチが「本来の球じゃないように見える」と指摘すると「分かっています」との返答だった。「7回あたりで交代と思ったが、もう1回、よく頑張ってくれた」と、決断の舞台裏を明かした。宝刀フォークのストライク率が前回の約82%から約67%に低下しても抑えていた。20歳に記録への未練は本当になかったか。「もう1回を投げれば可能性があったけど、今日は野手に助けられた部分があった。そこ(交代)はチームが勝つためなので、自分の仕事はできたかなと思います」。表情からはすがすがしさも感じられた。ZOZOマリンは入団前の19年9月24日西武戦以来となる満員御礼が出た。試合前には長蛇の列。この男を見るためだ。「満員の中で投げることは初めてだったので、凄くうれしかった。最初、幕張メッセと勘違いしてるんじゃないかなって思った」。ジョークにも充実感がにじんだ。今季ここまで打者101人と対戦して半分以上にあたる56三振を奪い、被安打は7本しかない。まだ3年目。再び連続完全試合を狙える機会は、果たして――。「いや、チャンスはもうないんじゃないすか」と屈託なく笑った。とはいえ、3日の西武戦から打者52人アウトは継続中。誰も見たことがない、さらなる領域へ、踏み込んで行きそうな気さえする。