ひぐらしの記
前田静良 作
リニューアルしました。
2014.10.27カウンター設置

内田川(熊本県・筆者の故郷)富田文昭さん撮影
一コマの「ふるさと物語」
わが人生行路(わが道)は、書き殴りの自分史や自叙伝の一遍さえ残さず、もはや後がない。まだ死んでいるわけではないから、言葉の表記は「残さず」でよく、死んだら「遺さず」に置き換わる。こんなことはどうでもよく、起き立のわが心象には、ふるさと時代の光景がよみがえっている。とことん、甘酸っぱい思い出なのに、なんだか懐かしさをおぼえている。
子どもの頃のわが家は、バスが一日に何度か町中から上って来る一筋の県道を、「往還」と言っていた。のちに私は、「往還」を見出し語にして、辞書を開いた。そして、この言葉をこう理解した。「往き還り」、まさしく道路である。これまた、こんなことはどうでもいい。当時の鹿本郡内田村(現在、熊本県山鹿市菊鹿町)にあって、村中の道路は一筋の往還以外はすべて、村道と私道の田舎道だった。あえて、往還は田舎道に加えなかったけれど、もちろんそれは誤りである。なぜなら往還とて、何らそれらと変わらない田舎道だった。バスが行き交うというにはかなり大げさで、だから一方通行の如くに、「上って来る」と書いたほうがわが意にかなっている。
バスは九州産業交通社で、言葉を詰めて「産交バス」と、通称されていた。当時の私は知るよしなどなかったけれど、社名の如く九州一円にバス網をめぐらしていたようである。バスはボンネットの前部・真正面で、エンジンを手回しで起動させていた。この光景にありついていたのは、一時期わが集落の中にあってごく近い(向かえ)のお店が、村中における終点になっていたせいである。中年の男性運転手と、うら若い女性の車掌は共に、紺の制服で身を包んでいた。運転手はともかく、車掌の姿にはほのかというより、私は丸出しの憧れを抱いていた。当初見ていた木炭バスは、いつの間にか姿を失くしていた。再三、こんなことはどうでもいい。
当時、一筋の往還には舗装など、夢のまた夢であった。道幅狭い両道端は、手つかずの草茫々だった。肝心要の道路は、小砂利、小石丸出しの凸凹道(でこぼこ道)だった。道路の中央にあって、小池の如く窪んだところは、ざら(あちこち)にあった。そこには雨が降れば雨水が溜まり、夏空の下でもなかなか乾ききれなかった。たまのバスと違って、往還を頻繁に行き交っていたのは、お顔馴染みの馬車引きさんが手綱を取る、荷馬車だった。こんな往還を私は、小・中学生時代は徒歩で通学、そして高校生時代は、自転車通学を余儀なくしていた。日照り続きの往還では、バスは通るたびに、通り過ぎるまで道端で避(よ)けている自分に、容赦なく砂嵐をぶっかけては去った。雨降りや雨の後にバスに出遭うと、これまた道路端に避けている私に、ずぶ濡れになるほどに窪の中の水を吹っかけて去った。なんだかその光景は、このときの私にはやけにいじわるでもして、バスがことさらエンジンを吹かして去っていくようであり、憎さ百倍だった。
梅雨の合間にあって、せつなくも、懐かしくさえにも思えてよみがえる思い出の一コマである。これらにちなむ思い出のこの先は、ふうちゃん(ふうたろうさん)にバトンタッチして、この文章は結文とする。行政名(昇格)を変えただけで、過疎化著しい菊鹿町にあって、きらびやかに舗装されている現在の往還には、産交バスはとうに運行を止めている。いや復帰の余地ない、廃線状態にある。
心象の傷ではないけれど、今や郷愁の一コマとなっている「ふるさと物語」を書いてみた。六月十二日(日曜日)、梅雨の合間の朝日は、風まじりに煌煌と輝いている。
現代文藝社の掲示板への投稿より転載
(無題)
投稿者:ふうたろう
投稿日:2022年 6月13日(月)08時04分4秒
「国語はだめ」と、我を評価した先生は正しかったのだ。流星群、掲示板に書かれた人様の作品を読むたびに、落ち込んでいき、もう、「卒業しよう」と決めていたのに……
ところが、12日「ふるさと物語」に、「ふうちゃんにバトンタッチして、この文章は結文とする」と、我の決心に逆らう「しいちゃん」の投稿、でも、我の生まれ育った熊本県鹿本郡内田村大字上内田小字原集落は、バス通りから山道を登った高台にあった。
我々の小学校時代は、集団登校で、竹林・雑木林の中の細い道を2キロ程下り、バス通りに出て学校に向っていると、後方から「木炭バス」が、のろのろと追い越した。我々はバスを追いかけ「排気ガス」のマフラを手で塞いだ。バスは止まった。すると運転手が「こら!」とバスから降りて来た。我々は一目散に逃げた。それは、我が原邑のガキどもの楽しみの1つでもあった。
ウグイスとニワトリ、そしてわたし
六月十一日(土曜日)、人様との会話のしようはないのに、両耳に集音機を嵌めてパソコンを起ち上げた。これには唯一、望むところがある。ウグイスの朝鳴き声を聞きたいためである。しかし、聞こえてこない。だからと言って、がっかりも恨みもしない。なぜならウグイスとて、ときには朝寝坊もするし、いやしたくもあろう。あるいは「暖簾に腕押し」の如く、なんらの反応や誉め言葉にも遭わずに、ひたすら鳴き続けるばかりでは遣る瀬無い気分に陥り、一休みしたくなるときもあろう。ウグイスとて「生きとし生きるもの」の仲間ゆえに、私とてときにはこんな殊勝な気持ちを持ってもいいはずである。みずからの気分休めのためにウグイスに、鳴き続けることをせがんだり、ねだったりすることは、私自身のお里が知れるところである。私だってかなりの長い間、文章を書き続けている。身の程知らず、いや知っているゆえに、書き疲れは限界なまでに溜まっている。ウグイスとて、すでに三月(みつき)を超えて鳴き続けていれば、鳴き疲れが溜まっているはずである。このことからすれば現在は、互いに「同病相憐れむ」状態をなして、疲れを分かり合えるお友達と言えそうである。だから私は、ウグイスにたいして朝鳴きを強制したくはない。
私は山のウグイスにたいし、庭中へ飛んで来る「コジュケイ」に白米をばら撒くようなことは、これまで一度さえしていない。もちろん私は、鳴き声めがけて小石を投げつけたり、むやみに追っ払ったり、など野暮で非人情なこともしていない。けれど、何一つ餌となるものは与えていない。すなわち、私にとってウグイスの鳴き声は、無償の授かりものである。だから私は、ウグイスの鳴き声にたいしは、いくら感謝しても、感謝しすぎるということはない。
これとは違って、子どもの頃のわが家の縁の下に飼われていた鶏(にわとり)の鳴き声にはかなりの感情の違いがある。すなわち「早起き鶏(どり)」の「時の声」には、不断の餌付けにたいする返礼だったと、思うところもある。家族は買い餌を与えていたわけではなく、自給自足の手近な餌を与え続けていたにすぎなかった。これに報いるには、日に一度卵を生むくらいでいいはずである。ところが、稀なる客人や、ささやかな宴席があるたびに、バタバタとばたつく一羽の鶏が掴まれ、縁の下から引っ張り出されていた。その鶏は、父に首を絞められなお出刃包丁で刻まれ、毛を毟られなお焼かれ、しまいには丸裸にされて、まな板に乗せられていた。挙句、母の手さばきでその図体(ずうたい)は、鶏めしや、鶏じゅるになりかわり食卓にのぼり、賑わう大盤振る舞いの宴(うたげ)に供されていた。今、当時を振り返れば鶏は、度が過ぎた惨たらしい返礼を強いられていたと、言えそうである。「早起き鶏」が鳴くと父は、そそくさと起き出して、止まっていた柱時計のネジを「ギイー、ギイー」と、回していた。鶏のお礼返しは、古ぼけた時計代わりか、さらには生みたての卵くらいで十分であった。人間の欲ボケの浅ましさは、父母をはじめ家族みんな同罪である。
雨降りはないものの梅雨季の朝、ウグイスはいまだに、山の塒(ねぐら)にこんこんと眠っている。たぶん、鳴き疲れているせいもあろう。あるいは、朝日の輝きを待っているのかもしれない。きょうまた懲りずに書き殴り、投稿ボタンを「押すか、止めるか」。このところ気迷い気分の夜明けが続いている。私も、ウグイスも、共に疲れている。鶏には、懺悔あるのみである。
きょうも、実のない書き殴り
六月十日(金曜日)、まがうことない梅雨空の夜明けが訪れている。今のところ関東地方の梅雨空は、大過なく梅雨明けへ向かって、きょうをきのうに替えている。しかし、あしたのことはわからない。人の世は、一先は闇の中であり、天災もまた、忘れたころというより、絶え間なくやって来る。お釈迦様の言葉を一言借りれば、確かに人の世、なかんずく現世は、「無常」と言えるであろう。
このところ、新型コロナウイルスにまつわるメディアニュースは、いくらか薄れがちである。パチパチと両手を叩きたいところだけれど、もちろん早や合点することはできない。なぜなら、すっかり鳴りを潜めたわけではなく、今なお大勢の感染者や、それによる死亡者が伝えられてくる。収束が近いように思えるが、実際のところはメディアの報道慣れ、あるいは報道疲れみたいなものであろう。だから国民は、ゆめゆめ油断はならずと、なお自覚や自制をしなければならない。
もとより、メディア報道には身勝手というか、我田引水のところがある。それは、「熱病の如く、煽りにあおって、熱冷ましの如く、さっと引く」という、習性である。すなわち、メディア報道には、社会の木鐸(ぼくたく)という称号を隠れ蓑にして、「飯の種」を探しては煽り続けるところがある。結局、人の世は他人(ひと)まかせにはせずに、わが身は自身で守らなければならない。
かつての私は、いくらか心構えをして文章を書いていた。ところがこのところの私は、寝起きの書き殴り、あるいは時に急かされて、走り書きで書いている。わが無能のせいで、文章の出来不出来にはそんなに差はないけれど、やはり書き殴りや走り書きの文章には、やりきれない気分横溢である。きょうの文章は、三つ巴にあっては書き殴りの典型である。走り書きをするまでもなく、朝御飯の支度までは、まだたっぷりと余裕時間を残している。梅雨空は一転、朝日に輝いている。私は、のんびりと窓の外のアジサイを眺めている。
尽きない、望郷そして郷愁
六月九日(木曜日)、まさしく梅雨空らしい夜明けの空をしばし眺めている。雨こそないけれど、どんよりとした曇り空である。こんな遠回しの表現は止めて、日本人であれば老若男女のだれもが知りすぎている、梅雨空である。しかしながらわが身には、鬱陶しさは微塵もない。いや、爽やかな気分である。こんな気分をもたらしているのは、この時期、心中に飛びっきり蔓延(はびこ)っている「望郷、郷愁」のおかげである。まったく飽きずもせずに、私はなんどこんなフレーズを繰り返し書いていることだろう。人様からすれば、おまえは「何たるバカ者なのか!」と、叫びたいであろう。もちろん私は、そんな非難囂々には馬耳東風、いやいや知ったこっちゃない。なぜなら、私にとって望郷と郷愁は、わが生存における大きな糧(かて)の役割を成しているからである。なおかつそれは、心中に浮かべるだけで済む、無償の恩恵を成している。
私は常々、こんなことを心中に浮かべている。それはこうである。私がこの世に生まれて生誕地で生活をしたのは、高校を卒業するまでの十八年間にすぎない。そして、この期間から物心つくまでの年数を除けば、たったの十年余りにすぎない。これまでのわが八十一年の人生にとってこの期間は、確かにあまりにも短いと言えるであろう。それなのにわが人生の多くは、この期間の出来事、のちには思い出で占められている。何たる摩訶不思議なことであろうかと自問して、腑に落ちないところでもある。その拠り所は、望郷そして郷愁と言えそうである。いや、もっと具体的にはやはり、優しい父母や多くのきょうだいたちと相なした、わが子ども時代ゆえであろう。すなわちこれこそ、わが望郷そして郷愁のいずるおおもと言えそうである。
水田は、文字どおり水浸しになっているであろうか。「内田川」の川面にすれすれに、川岸、河川敷のあちらこちらに、水田、田園の上空、そしてそれらを取り巻く農道や畦道に、ホタルはふぁふぁと飛び交っているだろうか。これまた懲りなく書いているけれど、望郷そして郷愁は、人間のみが享有できる特権である。すると私は、ことのほかそれに浸りきって、人生に付き纏う憂さを晴らしているのである。確かに、これに浸りきれば、梅雨の合間の晴れやあるいは雨続きなど、おのずから用無しである。
窓の外のアジサイは、七変化の初動を露わにして、艶やかに色を成し始めている。しかしながら、わが心の癒しにとってアジサイは、望郷そして郷愁共に、それには大負けである。もちろん、それらには勝ちようはなく、それは端(はな)からしかたがない。寝起きの書き殴りにネタはなく、またしても「望郷、郷愁」すがりである。
関東甲信地方、梅雨入り
気象庁はきのう(6月6日・月曜日)、関東甲信地方の梅雨入りを発表した。これには、この記事が付記されていた。「今年は、これまで沖縄・奄美地方で梅雨入りしていますが、関東甲信地方が九州南部よりも梅雨入りが早かったのは、17年ぶりです。」この記事からすればわがふるさと県・熊本の梅雨入りは、未だしである。しかしながら、「17年ぶり」という特記からすれば、ふるさとも間もなくの梅雨入りであろう。ところが、いまだ梅雨入り宣言はないものの隣県・鹿児島の天候は、さきばやに大荒れが伝えられていた。
例年、梅雨明けの頃には天候の大荒れに見舞われて、すんなりとした梅雨明けにはいかないところがある。挙句、日本列島のどこかしこは大きな災害の恐怖に晒されて、実際にもどこかは大きな災害に見舞われた。このことをおもんぱかって、梅雨入りにあってまず望むのは、無難な天候である。幸いなるかな! 梅雨入り宣言から一夜明けたきょう(6月7日・火曜日)、夜明けの天上・地上そして空中、見渡す視界には恐怖心をあざ笑うかのように、澄明な朝日が射している。なんだかなあー、腑に落ちない、これぞ! 胸の透く日本晴れと、言えそうである。しかしながらこの先、梅雨明けまでの晴れには、「梅雨の合間の晴れ」という、季節用語がついて回ることとなる。雨の日ばかりでも困るし、逆に雨のない「空梅雨」にはなお大困りである。だから、梅雨入りにあってわが望むところは、「降っては晴れて、晴れては降って」の穏やかな天候、できれば大盤振る舞いの天恵である。
梅雨明け間近、いよいよふるさとは田植えシーズンの真っ盛りとなる。望郷をつのらせて、ほどほどの雨の梅雨入りを望むところである。わが家にあっては、身辺にムカデのお出ましに遭って、恐怖感つのる梅雨入りである。
この時季、六月雑感
六月三日(金曜日)、夜明けが訪れている。この季節の特徴は、雨の日の多い梅雨の時期である。この季節をわがもの顔で待っている季節の花は、アジサイである。書くまでもないことだけれど、漢字表記は「紫陽花」である。この時季、アジサイは、日本列島のどこかしこ(津々浦々)に咲いている。そして、一様に人の口の端にのぼり、おおかたは愛でそやされて、雨の季節がもたらす鬱陶しい人心を癒している。
アジサイは根付きが早く、植え付けは至極簡単容易である。言うなれば大形の雑草みたいなものであり、珍重するまでもないありふれた花である。それでも多くの人の口の端へのぼるのは、アジサイ自身まさしく幸運、すなわち「たなぼた感」ひとしおであろう。こんな幸運にありつけるのは、梅雨の時期にあっては野花が少なくなり、アジサイの独り勝ちの情景に恵まれるからであろう。当てずっぽうの、わが独り善がりの考察である。
わが子どもの頃のこの時期、田園を取り巻く野原で目にしていたものの一つには、小粒ながら赤身の毒々しい蛇イチゴ(くちなわイチゴ)があった。これに出遭うと私は、周辺に蛇(くちなわ)がいるのかな? と思い、恟然(きょうぜん)とした。冷めやらぬ恐怖心を癒してくれたのは、宵闇迫るころから飛び飛びに明滅しはじめるホタルの光だった。
関東地方の梅雨入り宣言は、来週あたりであろうか。わが家近くにあるアジサイ寺・明月院は、明月院前通りを六月は初日から末日にいたるまで、午前九時から夕方の五時の間にかぎり、車両の進入禁止を企てている。もちろんそれは、近郊近在から訪れる、アジサイ見物客にたいする危険防止対策である。へそ曲がりの私には、だれしも、庭先のアジサイを眺めれば十分であろうと、思うところがある。それでもわざわざ、アジサイ見物に訪れるのは、物見遊山特有の気分晴らしなのか。それとも、桜見物同様に、「花より団子」という、下心つきであろうか。この時期の私は、茶の間で駄菓子を頬張り、窓ガラス越しにわが手植えの山の法面のアジサイを眺めている。めぐりくるこの時期の、無償のわがケチな営みである。
さて、文章をあんなに必死に書き続けてきたのにこのところの私は、怠惰心と休み癖に見舞われている。なおかつ両者は、心中に根づき始めている。おのずから、切歯扼腕するところである。もちろんこんな文章では、その突破口にはならない。なさけなくも私は、窓の外に色づき始めているアジサイに、単なる癒しではなく、大願の再始動のカンフル剤の役割を託している。梅雨入り宣言前の朝ぼらけは、ことのほか清々しく光っている。
起きつけの「ふるさと慕情」
子ども心の一つ覚えの如くに懲りなく、無限に繰り返し書いている。望郷と郷愁は、わが心の支えである。これに、今は亡き父母や多くの兄姉(きょうだい)たちの面影を浮かべて偲べば、まさしく懐郷は鬼に金棒である。これらの思いには一点を除いて、曇りや翳りはなく常に晴れ渡っている。
これまた、繰り返し書いているけれど、きょうだい中で私は、十三番目の誕生である。わが下、すなわちしんがりの十四番目に生まれた弟は、誕生後十一か月の幼児のおり、あたら命を絶った。よりによって悔恨きわまる、わが子守時(四歳半頃)の不始末による、儚い「さようなら」であった。言葉を重ねれば、わが生涯において尽きない悔恨である。わが唯一の償いは、あえて「敏弘」という名前を記して置くらいである。
バカな私は、恥ずべき悔恨事を『さようなら物語』(立松和平・池田理代子・選、双葉社)に紡いで投稿した。結果は千編余りの投稿文の中から、三十八編が選ばれて単行本となり上梓された。わが投稿文も掲載されていた。華のJR東京駅近くにある、当時日本一と謳われていた大書店「八重洲ブックセンター」には、これまた当時人気作家の選のためなのか、平台に山積みされていた。決して、喜ぶべき題材ではなのに、バカな私は小躍りしてそれらを何度も手にして、意気揚々と幾冊かを購入した。それらは現在、わが書棚を飾っている。顧みれば誇らしげに飾っていると言ってならず、今では弟にたいして相済まない気持ちになり替わっている。しかしながら一方、この単行本は、この世における弟の確かな誕生の証しを記している。このことは、これまで「ひぐらしの記」に何度か書いている。自分勝手に言えば、これこそ、呻吟きわまりない「ひぐらしの記」の作者冥利でもある。それゆえ、大沢さまのご好意にたいして、感謝尽きるところはない。
起き立の書き殴りにあって、こんな無粋な私事をなぜ書いたかと言えば、梅雨入りを間近にして、今や「故郷」へとなりかわった、この時期の水田風景が心中に甦っているからである。眼裏(まなうら)に浮かぶ亡き父母や兄姉の面影はみな優しく、稚(いとけな)い弟はひたすら可愛かった。
水田風景にかぎらず、心中におけるふるさと情景は、常に輝いている。確かに、常々「ふるさと慕情」に浸れるのは、人間固有の特権である。そして、わが「ふるさと慕情」は、「ひぐらしの記」継続の要を成して、私は行き詰まるとそれを引き出して、これまで継続にありついてきたのである。あしからず、平に詫びるところである。
梅雨入り前の朝日は、飛び切り輝いている。五月三十日(月曜日)、ふるさとの空へ、思いを馳せている。
文章断ちを恐れての、いやずら書き
五月二十九日(日曜日)、すでに夜は、煌煌、満々と明けている。このところの長いずる休みを断って、きょうぐらいは何かを書かなければ、もはやこの先の執筆は、沙汰止みになりそうである。かてて加えて、肝心要のパソコンの使い方も忘れそうである。こんな恐怖に慄いてどうにか、パソコンを起ち上げている。もとより渋々状態であり、「引かれ者の小唄」の心境とは、ほど遠いものがある。せっかく咄嗟に浮かんだ成句だから、電子辞書を開いてお浚いを試みる。
「引かれ者の小唄」:負け惜しみで強がりを言うこと。「引かれ者」とは、処刑のために刑場へ引かれていく者。その罪人が平気を装って、小唄を歌う意から。
もちろん、現在のわが心境とは、何ら、繋がりはない。ただ、ちょっとだけ難解な、成句の復習を試みたにすぎない。
きのうのテレビニュースは、かつての「日本赤軍」最高幹部、某女性の刑期終えを伝えていた。二十二年間の獄中生活だったという。この間、四度、がんの手術が行われたという。風貌を老いの姿に替えた某女性の心境など、もちろん私は知るよしない。ただ、映像に観る姿は、街中の人出の中で見る、買い物回りの同年齢の女性たちの姿とまったく変わりない。かつてのしでかしをとことん、悔いていてくれるであろうか。悪徳きわまりない事件をかんがみれば、刑期終えなど望まず、悔い疲れてくれてもいいのかもしれない。人様の人生には、もちろん測り知れないものある。
「人のふり見てわがふり直せ」。こちらは、電子辞書を開くまでもなく、日常的にわが身にふりかかる成句である。
何ら実のないこの文章でも、あしたへ繋がれば儲けものである。ただ、私にかぎらず人様すべて人生は、一先は藪の中である。「明日は明日の風が吹く」と、うそぶくことができないのは、わが生来の小器ゆえである。
「雉も鳴かずば撃たれまい」
きのう一日じゅう、小雨模様にぐずついていた天候は、きょう(五月二十二日(日曜日)の夜明けにあっては、雨模様を断って回復傾向にある。その証しに大空は、ほのかに色づき始めている。こののちの大空は、時が進むにつれて様々な色彩を帯び、文字どおり絵にも描けない「天空の美」を綾なすであろう。
無限の大空を大きな画板ととらえて、二十四色の絵の具を垂らし、絵筆を揮う書き手は、もちろんはるかかなたから光源を発する太陽である。太陽の織り成す名画を魅入る特典にありつけるのは、幸いなるかな! 「生きとし生けるもの」の中にあって、人間のみである。私も人間の端くれに浴し、「ありがたや」その恩恵を授かっている。そのお返しに私は、心中にあっては常々、声なき声で「日光、日光!」と呪文を唱えては、崇拝のしるしを露わにしている。
わが柄でもないことを書いてしまった。もちろんこれは、ネタ無しに加えて、書き殴りという、いたずら書きのせいである。今だけでなくいつも、寝起きにあってわが脳髄は、もつれた糸の如くにこんがらがっている。こんがらがりの筆頭は、文章継続へのさ迷いである。実際のところはわが心中に、「もう書けない、もう書きたくない!」という、しどろもどろの気分が蔓延(はびこ)っている。この気分を抑え込むのは、容易なことではない。だから私は、これをどうにか抑え込む手法、いや唯一の便法として、書き殴りへ逃げ込んでいる。もとより、わが書き殴りには文章の筋立ても、意味合いもない。さらには、のどかな暇つぶしもない。すなわち、私は書き殴りにさえも、絶えず苦々としている。
きょうの文章は、その最たる証しである。「雉も鳴かずば撃たれまい」。私も、「こんな文章、書かなければ、恥をさらすこともない」。悔やんでも、後の祭りである。太陽(朝日)は、清々しく輝き始めている。
遅すぎた「ありがたや!」
五月二十日(金曜日)、二度寝にありつけない夜が尾を引いて、私は「早起き鳥」になっている。夜明けて間もなく周回道路へ向かい、綺麗に掃除を済まして、パソコンへ向かっている。出会いは満面笑顔の高齢のご婦人と、言葉抜きに会釈を交わしただけである。そのほかのご常連の人たちとは、私のせいで出会えなかった。すなわちそれは、気狂いでもしたかのような、わが途轍もない早起き鳥のせいである。
もとより、マスク用無しと決め込んで、私は所定の掃除区域に就いた。あらためて現在、マスク用無しのありがたさが身に沁みている。裏を返せばマスク着用のわが日常は、この先どこまで続くのであろうかと、危ぶむばかりである。マスク着用は、わが身かつ人様の身を守るためだとは知りすぎている。それでも、マスク着用の日常生活には、懲り懲りするところがある。あえて、その理由を記すと、私の場合はこうである。すなわちそれは、わが耳元が三すくみの混雑の鬱陶しさに見舞われているせいである。一つは、難聴を助けるための耳掛け集音機、一つは視力補助用の眼鏡、そして一つは、新型コロナウイルス感染抑止のためのマスク着用である。このためわが耳元は、高速道路の渋滞さながらに異物まみれになっている。確かに、異物と言っては相済まない思いもある。なぜばら、集音機と眼鏡がなければわが日常生活は、にっちもさっちもいかない。マスクを着けなければ、同調圧力に遭い、非国民の誹りを免れず、これまた着けなければにっちもさっちもいかない。確かにこれらは、鬱陶しさを招く三悪人同然である。ところが現在のわが日常生活は、三悪人の加護なしにはありえない。そうは言ってもやはり、マスクだけは早く見放したい、いや早く見捨てたい思いが山々である。
日本政府もようやく、とりわけ戸外で会話の用無しのところにかぎり、マスク不着用を決め込む算段のようである。実現すれば、遅すぎた「ありがたや!」である。確かに、マスク外しの道路の掃除には、清々しい気分をオマケしてくれていた。風邪をひいているときや、インフルエンザを恐れてその防止に、かつまた新型コロナウイルスの感染抑止に、マスク着用の効用が叫ばれている。へそ曲がりの私にもこのことには、頷けるものがある。なかんずく、新型コロナウイルスの感染抑止にたいするマスク着用は、なおさら必然なものとして頷けるところはある。ただ、うんざりするところはマスク外しの展望、いまだしゆえである。結局、三悪人の中で、マスクだけは長居を、御免こうむりたいものである。
マスク無しの味を占めた、清々しい夜明けが訪れている。こんな、実のない文章、書かなければよかった。なぜなら、せっかくの清々しさが殺がれるからである。